二人の盲人

平林初之輔





 復興局の一技師の手が、大東京市の地図の上に、縦横に朱線をひいていく。個人の既得権も利害関係も、センチメンタルな詠嘆も、すべてを無視して、彼のペンは気まぐれに地図の上を、走っていく。
 ○○山の切り通しの上の、四十坪ばかりの土地を、天にも地にも、たった一つの財産として父祖幾代の昔から受けついできた、玄療院の屋敷も、無慈悲な都市計画の犠牲となって、市の中央へ通ずる放射線の道路新設のために、半ば以上切り取られることになった。
 この都市計画案が発表されてから、玄石は急に憂鬱ゆううつになった。子供の時に、盲目になった彼は、このささやかな父祖伝来の財産を、少年時代の思い出で、十重二十重に包んでいた。彼にとっては、それが全世界だった。狭い家の中の様子はもとより、庭内の一木一草に至るまで彼の死んだ網膜の底に、二十年前のままの新鮮さをもって、焼きつけられていたのだ。
 彼の視覚に残っている記憶は、ただこの四十坪の世界だけだった。それは無限に複雑な色彩をもって、二十年一日のように彼の眼底に保存されていたが、その他の世界は、彼にとっては一様に灰色だった。
 若干の賠償金を、手に握らされて、その代わりに彼は、いま全世界を失おうとしているのだ。放射線道路の縁端は玄療院の玄関から、茶の間を横ぎって斜めに南の方へ突きぬけることになっていた。
 既にこの頃では、人夫の声や、鶴嘴つるはしの音や、トロッコの響きなどが崖の下で聞こえる。土の崩壊する音を聞くたんびに、彼は彼の世界が、いや彼の生命そのものが崩壊していくように感じた。彼は、稼業の針按療治にも手がつかないで、榊の生垣のそばにつっ立って、世界の崩壊する音を聞きながら、吐息をついていることが、毎日のようだった。


 玄石には、美しい妻があった。
 だが、美しいというのは、世間の人の評判だけで、子供の時分に視覚を失った彼には、女の美醜についての観念は全くなかった。美しいというのは、どういうのだろう? 彼は、鋭敏な指先で、彼女の頭を、眼を、鼻を、口を、あごを、肩を、乳房を、全裸体を撫でまわしてみて、彼女の美を意識しようとつとめたことが、幾度あったか知れぬ。だが、どんなに鋭敏な触覚でも、視覚の代わりをすることはできなかった。彼にとっては、彼女の美は、不可知の属性にすぎなかった。それは彼に何の悦楽も与えないで、ただ、永久に満たされないもどかしさを与えるだけだった。美を所有しながら、美を認識することができないということは、もともとよりもなお悪かった。
 そればかりではない。始めのうちは、彼も自分では、わからなくても、世間の人に美しいと言われることに、一種の嬉しさ、肩身の広さを感じていた。だが、それは束の間だった。この嬉しさ、この肩身の広さは、やがて何とも言いようのない拷問に変わっていった。
 崖の下で、同じ職業をしている、盲唖学校の同窓の藤木という男が、三日にあげずに彼の家へ遊びにきた。二人が点字で印刷した校友会雑誌を前において、同窓の友の噂をしたり、時には、政府の施政方針を、議論しあったりしているところを、外から聞けば、話してが、こんな不具者同士であるとは思われないほど快活で、元気だった。細君の千鶴子も不具者同士の話題にれて、いつも朗らかに調子を合わせていた。二人は、よそ眼にも羨ましい程の親友だった。
 ところが、ある日、べつだん何も理由はなかったのだが、どうかしたはずみに、玄石は細君に対して、猜疑さいぎの心を抱くようになった。一たんそうした心理が、芽ばえてきたが最後、もうどうすることもできなかった。細君の一挙一動が、彼にとっては拷問のむちになった。
 しかし、それには何の根拠もなかった。だから彼は口に出しては、何も言えなかった。眼が見えないために、心がひがんだのだと、思われたくなかったからだ。だが、何にも言わないということは、ますます彼の猜疑心を尖らした。やみの中に、怪しい幻覚が、つぎからつぎへと果てしなく起こって、彼を責めさいなんだ。幻覚はだんだんと現実性を帯びてきた。彼の嫉妬は、彼の家へしげしげ出入りする藤木に集中された。
 一体、藤木はなぜこんなにしょっちゅう家へ来るんだろう? 彼は俺の親友だからじゃないか、だが、俺の方では彼の家へめったに行ったことはないのに、彼の方からばかりどうしてやってくるんだろう? 俺は家を持っているのに、彼は下宿住まいの独身者だからじゃないか、独身者――この言葉に彼はふるえ上がった。
 彼はいつでも平気な顔をしていた。すくなくも平気な顔をしていようとつとめていた。心の中では、居ても立ってもいられない思いをしていても、顔ではげらげら笑っていることもあった。
 千鶴子は、どんな眼をして藤木を見ているんだろう? 俺が何にも知らないと思って、舌を出しておりはしないだろうか? 千鶴子の指は、藤木の指にさわっていはしないだろうか? 彼女の腕は、彼の首に巻きついていはしないだろうか? そして――
 ひょっとしたら、彼女も彼も、何でもないのかもしれない。藤木も、俺と同じように盲目だ。彼にも、千鶴子の美しさがわかるはずはないのだ。それに、彼の声にも、彼女の声にも、一度だって疑わしいことがあっただろうか? もし何でもなかったとしたら、この俺は、善良な友人と、貞節な妻とに対して、あんな恐ろしい疑いを抱いた、この俺は何という人間だ――だがそんなことは断じてない。彼らは、はかり知れない悪者どもで、巧みに俺の前をつくろっているんだ。――彼の頭には、藤木と千鶴子とが、自分のすぐ前で、淫らな姿態をして、彼をあざわらっている様子がまざまざと描かれることがあった。
 ――だまされるもんかだまされるもんか、彼はほとんど口に出して彼らの前でこう言おうとしたことがあった。


 それでも証拠は何もなかった。証拠どころか、そんなことを疑う、ちりほどの理由もなかった。しかし証拠や理由のないことは彼の心の焦燥をしずめる何の効果ももたなかった。自分の眼で見ることのできない者にとっては、すべてのことが可能だった。自分のすぐ眼の前で、どんなことが起こっていても、彼には知るよしはないのだ。そして、知らずにいて笑われることが、彼には何よりも苦痛なのだ。何もかも知ってるんだぞ、ということをどうにかして相手に知らせないではいられないような気が彼にはした。
 それでいて、彼には何も言うことができなかった。知らずにいて笑われることもつらかったが、まるで根も葉もないことを言いだして笑われるのは、なおさらつらかった。
 ――ああ俺は、一生この苦しみをしょっていなければならないのだろうか。そして、誰にもそれをうちあけることはできないんだろうか?
 この悩みぬいている玄石の心の上へ、都市計画の進行は、もう一つの苦しみをかさねた。工事はだんだん進行して、彼はもう住みれた、彼の眼の記憶に残っているただ一つの世界から、立ち退かねばならない日が迫ってきた。人夫のかけ声は、彼の世界をとむらう挽歌のようにひびいた。
 玄石の神経は、ますます尖ってきた。彼の心理状態は、ますます変調を呈してきた。全世界が彼には意地の悪い敵のように思われてきた。二十年も前に、機能をやめてしまった乳灰色にゅうかいしょくの彼の眼は、毎日のように、天を仰いで、無気味な呪いを発散するのだった。
 十一月の夜は、冷え冷えと水気を含んで、冷たかった。喘息ぜんそく病みの玄石が、肉体的に苦しむのはこうした夜だった。はげしい興奮と、懊悩おうのうとに、全精力を使い尽くしてしまった彼が、こうした寒い夜に、持病の発作を起こしたのは当然だった。眼に見えない力が、彼の咽喉のどを、これでもかこれでもかと締めつける。針のあなほどの狭い隙間から出入りする呼吸は、喉頭部の粘膜に摩擦して、ひいひいと音をたてた。
 千鶴子は、いつものように、心を尽くして病人をいたわった。だが、彼には、彼女のしぐさが、いちいちわざとらしく思われた。彼女が親切にすればするほど、彼には、彼女が藤木との関係を、ごまかすための手段だと思われた。それは、もはや顔色に出るのを隠すことが、できなくなってしまった。それでも、千鶴子は、もちろんそんなことには、気がつかなかった。ただ、住み馴れた家を追い立てられることの淋しさが、彼を気むずかしくさせるのだとばかり思っていた。
 ――そうだ。そうだ――と彼は考えた。――俺は、醜い盲人だ。おまけによぼよぼの喘息病みだ。千鶴子は人並みすぐれて美しいということだ。彼女が、こんな片輪の俺に、満足しているわけはない。俺と藤木と、並んで座っているところを、比べてみたら、俺に愛想がつきるのはあたりまえだ。だが、藤木だってやっぱり不具者じゃないか。どうせ不倫をするくらいなら、何も彼を選ばなくたって、他に相手はありそうなものだ。しかし、藤木の身体のどこかに、彼女をきつける何物かがあるのかもしれない。それに、藤木と千鶴子とが、怪しいか怪しくないかは、眼の見えない俺には、絶対に確かめることのできないことだ。そして、それはいずれにしろ同じことだ。たとい何でもないにしたところで、いったんこんな疑いが、俺の心に起こった以上は、この人が存在する以上は、俺の心はいつまでも平和であり得ないのだ。よし……彼の心に、怪しい決心がさっと閃いた。
 彼の肺臓からしぼり出される呼気が喉頭に、きしんでぜいぜいと音をたてるのが、夜の静けさの中に、木枯しのように、気味悪く聞こえていた。


「玄石君いるかね」
 藤木の声が玄関に聞こえた。玄石は瞑想から覚めて、ぎょろりと乳灰色にゅうかいしょくの眼球を回転さした。彼は、何か秘密を見破られた時のようにおびえた。
「さあどうぞお上がりなすって」千鶴子の声がつづいて玄関で聞こえた。
 玄石は、茶の間で耳をたてた。
 ――二人は、玄関でどんな真似をしているだろう? 笑い声が聞こえる。何を笑っているんだろう? 何をぐずぐずしているんだろう?
 彼には、三十秒くらいの間が、一時間ものように思われた。彼は全身の神経を集中して、二人の動作を偵察した。ほんのちょっとした息づかいの変化さえも聞き洩らさなかった。
 藤木の様子は、もちろんいつもと変わっていなかった。彼は快活にいろいろな話をした。千鶴子も朗らかに、その相手をして、ときどき笑っていた。しかし、その無心の笑い声は、玄石の肺腑はいふを熊手で掻きむしるようだった。
「苦しそうだね、玄石君、注射をしなくても大丈夫かい?」
「つい一時間ばかり前からなんですよ。でも今夜は、ほんとうにお苦しそうね」
 ――何を言ってやがるんだ。俺の苦しむのを喜んでいるくせに、俺が早く死ねばいいと思っているくせに、――玄石は心の中でこう考えながら、見えない眼で二人の方を睨んだ。
貴方あなた、注射をしなくてもいいこと?」
 玄石は答えなかった。重苦しい不気味な沈黙がつづいた。突然、なまめかしい脂粉しふんにおいが玄石の鼻をうった。
 ――何のために、白粉おしろいなぞを塗っているのだろう? 俺が眼の見えないことは、わかっているくせに、化粧をして、いったい誰に見せるつもりなのだ。
 藤木にもやっぱり見えないのだ、ということを、彼は忘れていた。彼にはもう、理性はなかった。彼の全存在が、憎悪と呪いの塊になっていた。
「わしが自分でする」
 三分間ほどしてから、彼は苦しそうな咽喉のどから答えて、立ち上がった。
「その間に、お前はコーヒーでも沸かしておあげ」
 玄石は、家の中の勝手は隅から隅まで、自分の身体のように暗記していた。眼は見えなくても、家の中ではちっともあぶなげはなかった。ちっとも間誤まごつきはしなかった。彼は電気のついていない奥の間へ、ずんずん歩いていった。台所では、千鶴子がガスに火をつけている音が聞こえた。


 茶の間へひき返してきた玄石の顔には、なぜか、微笑が浮かんでいた。彼は前とすんぶんたがわない場所へ座って、長火鉢の猫板に、ぐたりと上体をもたせた。咽喉はやっぱりひいひい鳴っていた。
 千鶴子も、コーヒーを持って茶の間へひき返してきた。玄石は、小さい硝子瓶ガラスビンを猫板の上にのせて、注射器を取り上げた。瓶の蓋は開かれた。注射器は中へさしこまれた。玄石は、ちょっと額にしわをよせて、首をかしげた。
「大丈夫かい、玄石君?」
 彼は答えなかった。彼の指は細かくふるえていた。細君が代わって答えた。
「いつも独りでやるのよ。あたしよりよっぽど器用ですわ」
「この注射器は、駄目だ、あっちのと取り替えてきてくれ」
 玄石は、こわれた注射器の針を、脱脂綿で拭きながら、千鶴子に渡した。彼女は、それをうけとって立ち上がった。
 彼女の足音が、奥の間へ消えた時、玄石の顔には、何とも言いようのない表情が浮かんだ。呪いと、憎みと、喜びと、満足とを一緒にしたような、悪魔の笑いのような、形相が彼のおもてに現れた。しかし、眼の見えない藤木には、それはわからなかった。
 玄石の左手には注射用の××××の小瓶が握られた。彼の左手は、猿のように敏捷に、膝の前の辺を探った。彼は素速く、モルヒネの瓶を右手に持ちかえた。
 気味の悪い液体が、一滴、一滴、つぎつぎに三つの茶碗の中へ注がれていった。
 それがすむと、彼は悪魔の笑いを笑いながら、もとの姿勢にかえった。その瞬間、千鶴子が、別の注射器を持ってかえってきた。
「これでいいでしょうか?」
 玄石は無言でそれをうけとった。極度の興奮と、咽喉の苦痛とのために、声が出なかったのだ。
 千鶴子は、玄石が自分で自分の二の腕に、注射器をさすのを危なかしそうに見ていたが、やがて、思い出して言った。
「どうぞ、冷めないうちに召し上がって下さいまし」
 藤木は、手さぐりで茶碗をうけとった。
貴方あなたはいかが?」
「コーヒーは、咳によくないから、わしはお冷水を貰おう」
「そうでしたわね、せっかく三つこしらえたんですけれど、それじゃそうなさいまし」
 二人の、コーヒーをすする音を聞きながら、玄石は、邪悪な満足の微笑を浮かべた。
 藤木と、千鶴子とは、いろんなことをつぎからつぎへと話していた。玄石は気管支の苦痛を、長火鉢によりかかって耐えているようだったが彼の心の中は、麻のように乱れていた。二人が親しそうに話を交わしているのを見ると、また新たに、憎悪の炎が燃え上がった。彼は、自分の今やった残忍な行為を、少しも後悔していなかった。それどころか、妙な嬉しさが、ぞくぞくと胸にこみ上げてくるのだった。
 彼は、モルヒネの効果を発揮する時間を、正確に知っていた。毒の作用が、全身に回りはじめた頃を見はからって、彼は、二人の方をふり向いた。
「藤木君、それから千鶴子、わしは何もかもちゃんと知っていたんだよ、はじめから知っていたんだ。ただ言わなかっただけなんだ。わしは、こんな見苦しいことを生きた人に聞かれたくはない。だが、一度はそれを言わずにはおられなかったんだ。ただ、何もかも知ってたんだということを知らせるためにね。それで今、死んでゆく君たちにそれを言うのだ。……」
 呪いの言葉は、静かな夜の中に力強くひびいた。その声は、ひどく高い声のようでもあったし、またやっと聞きとれるくらいの低い声のようでもあった。
 二人は、何か言おうとしたが、もう既に毒の力で舌が自由を失っていた。彼らは、刻々に弱ってゆく力をふりしぼって、身を起こそうとしたが力が足りなくてその場にばったり倒れた。
 玄石は、立ち上がって電気のスイッチをひねった。室内はまっ暗になった。
 玄石の心を狂乱させた二人の秘密は、ついに沈黙から沈黙へ葬り去られてしまった。
 二人の犠牲者の身体は、やみの中にくねくねとのたうち、もつれ合い、重なり合っていたがやがてしんと静まった。
 暗黒と、沈黙との中に、喘息患者の咽喉のどがひいひい鳴っていた。





底本:「平林初之輔探偵小説選※()〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
   2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
初出:「祖国 第三巻第一二号」学苑社
   1930(昭和5)年12月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年10月28日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード