華やかな罪過

平林初之輔





貴方あなたが人殺しをして、生々しい血糊で汚れた手をわたしに見せておまけに『俺は盗みもしてきたんだよ、つい一分前まで、仲よく話していた友達を、いきなり絞め殺して、そいつの懐から、ほらこの通り蟇口がまぐちをぬきとってきたんだ』なんて言いながら、ほんとうに血だらけな手でその蟇口を自慢そうに妾のの前へぶら下げてみせたとしたら、妾は貴方を憎めるでしょうか? 怖気おじけをふるって貴方から逃げられるでしょうか? いいえ、なおさら妾は貴方が好きでたまらなくなるにきまってるわ。まるで仁丹か何ぞのように、舌の上へのせてのんでしまいたいほど貴方が可愛くて可愛くてたまらなくなるにきまってるわよ。その時には妾はこう言うにきまってるわ。『ほんとうに貴方は正直な方ね、でもどうしてそんなに、何か一大事でも起こったかのように力んで、おまけに、はずかしそうにおずおずして、下を向いて仰言おっしゃるの? もっとしゃんとして真正面を向いて、大威張いばりで仰言ったらいいじゃないの』ってね。そうして妾は力一ぱい貴方を抱いて、つづけさまに二十ぺんも接吻キッスしてあげるわよ、貴方が息ができなくて、苦しくなってくるまで」
 妾はあの人にこんなことを言ったのをはっきりおぼえています。するとあの人はまるで田舎の村長さんの息子のように、だまって、無表情な顔をして、なんにも聞いていなかったようにきょとんとしていました。それでも実際はあの人の心の中には歓喜の嵐が吹いていたのです。妾にはよくそのことがわかりました。あの人の顔はいつでも感情が興奮してくればくるほど無表情になるんです。きっと顔の筋肉が痙攣けいれんを起こして動かなくなるんでしょう。それで妾は、あの人が、どう返事をしてよいかわからないでまごまごしていればいる程、あの人が可愛くなって、ほんとうに、真っ昼間でしたけれど、あの人の首に抱きついてやりました。ところがあの人はいつまでもそうしていてほしいくせに、おしようにだまって、妾の手をふりほどこうとするのです。しかも力一ぱいなんですよ。
 実際ちょっと見たところでは、あの人は、まるで神経をどっかへ落としてきた人のようでした。心臓のかわりに真鍮しんちゅうの塊でも胸の中へ入れているのじゃないかと思われるような人でした。あの人が、すばらしい経済学者で、あの人の論文を一つとるために、東京じゅうの雑誌記者が、信州の山奥までお百度をふんだなんて聞いても、妾には今だに、どうかすると信じられなくなるんです。妾と会っているときは、ぶきっちょで、かたくなで、まるで七つか八つの田舎いなかの子供がデパートへはいった時のように、ちっとも落ちつきがないんですもの。
 どうして妾があんな人を愛するようになったのか、妾には今考えてもはっきりわかりません。あの人自身もそれが不思議でたまらなかったと見えて、滅多に妾にものを問うような人じゃないのですけれど、最初妾たちがあった晩にこんなことを言いました。
「どうして貴女は僕のような人間に興味をもつんですか?」愛するという言葉がつかえないもんだから、興味をもつなんて、変てこな言い方をするんです。それがあの人のくせでした。わたしはこんな出しぬけな質問には面食らって、つい顔を赤くしてしまったくらいです。一体あの人は、滅多に口をきかないくせに口をきくとなると、こちらが面食らって返事のしようのないようなことばかり言うのが常でした。
 だけど妾は今でも信じているんです。そして、妾という人間に何か取り柄があったとすればそれだけが取り柄だったと誇っているのです。というのは、あの人の性格に並々ならぬいい所があることを気づいた人は、世界中で妾一人だったということです。もっとも妾はただ運がよかっただけで、そのことに気づいたのも何も妾の眼が人並みすぐれて高かったというのじゃないかも知れませんけれど。
 あの人は平素からあまり人に会わなかったし、会っても不愛想でまるで相手をうるさがっているような顔つきをして(実際はそうじゃなかったのですけれど)碌々ろくろく口もきかなかったので、尋常一様の手段では、誰だってあの人に近づくわけにはゆかなかったのです。それで、あの人にどんなに美しい性格があったとしても、サハラ砂漠のまん中にダイヤモンドが落ちていると同じで、奇跡的な幸運でそのそばを通りあわせた人にだけしか、それはわかりっこはなかったのです。
 その幸運が妾にめぐまれたというだけなんですわね。あとではそれがひどい不幸になったのですけれど。


 四月のはじめでした。帝国ホテルで菅井博士の帰朝歓迎会があったでしょう。デンマークの農村を研究してきたとかで、あの頃、帰朝土産の談話が方々の新聞に出ていましたわね。
 妾は博士の奥さんと少し知り合いだったせいか招待状を頂いたので、その歓迎会へ出席してみたのです。行ってみると女なんか一人も来ていないので、すぐに後悔したんですが、いまさら帰るわけにも行かないので、窮屈な思いをして、やっと[#「やっと」は底本では「やつと」]食堂へはいると一番はしのテーブルに腰をかけました。するとその前に座ったのが、あとからわかったのですが、あの人だったのです。
 クレオパトラの鼻がもう一分低かったら世界の歴史がかわったろうとパスカルという哲学者が言ったそうですが、あの時妾たちの椅子のどちらかが一つ隣だったら、妾たちの歴史もきっと変わっていたでしょう。妾とあの人とはきっと知らずにすんだでしょうし、国宝的な経済学者を、犬ころか何かのように簡単に殺さずにすんだでしょうし、妾も、あんな有頂天の幸福も経験しなかっただろうかわり、こんな、堪えきれない苦しみを背負わされずにもすんだのでしょう。
 食事中いろいろな人がたって、ありとあらゆる言葉で帰朝者に賛辞をあびせていましたが、最後に、型どおり、帰朝者のために乾杯することになりました。妾は弱って、まごついてしまいましたが、それでも立ち上がって、麦酒ビールのコップをとって(妾は女のくせに酒をいただくんです)おずおず前へ差し出しました。その時に妾の前で、同じように麦酒のコップをもって立ち上がったのがあの人だったのです。妾はその時はじめてあの人の顔を見たんですが、ちょうど妾の視線があの人の視線とぴたりと合ったのであわてて眼を伏せてしまいました。きっといくらか顔も赤くなったかも知れませんわ。
 でもその時はそれっきりだったんです。ところが、運命とでもいうのでしょうね。妾は、食事がすむとちょっと博士に挨拶あいさつして、すぐ帰るつもりで下へ降りて、携帯品預所あずけじょへコートを受けとりに行ったのです。すると、あの人が妾より一歩先へ来てちょうど札を出しているところじゃありませんか。
「もうお帰りですか」
 あの人は妾の顔を見るとこう言いました。食堂ですぐ前に顔を向きあわせていたので、何か言わなければいけないと思ったのでしょう。あとでほんとうにそうだと言っていました。
 妾も二時間あまり石のようにだまっていたので、何か話したくて話したくてしょうがなかった折柄おりからなので、ついあの人を相手にいろいろおしゃべりをしました。がんらい妾はおしゃべりの方で、二時間もだまっていると、憂鬱ゆううつになってくるたちなのです。
 外へ出ても妾は話しつづけていました。あの人は妾が話しかけるもんだから、仕方なしに妾についてきました。そのうちにあの人もぼつぼつ話し出しました。
「帰朝歓迎会なんていうものくらい下らんものはありませんね。あの場ではみんなが心にもなくほめちぎっておいて、帰りみちにはみんな悪口を言ってるんですよ。僕はああいう会に出るとすぐ不愉快になって一番先に帰ることにきめているんです」
 こんなことをあの人が言ったのを妾はおぼえています。
「でもあのかたはえらい方なんでしょう?」と言いますと、あの人は少し興奮して、
「なあに、つまらん御用学者ですよ、ああいう学者を粘土学者と僕らは言っているんですがね。形のない粘土を用意していて、相手の注文によってどんな形でもつくってみせる術だけ知っているんですからね。あんな学者をデンマークまでやる金で、農林省は小使の給料でもあげてやった方がいいんですよ」
 妾たちは桜田本郷町の交叉点へ来ると相談も何もせずに左へ折れました。もともと妾の家は牛込ですからこんな方向へ来るのじゃなかったのです。がつい話しながら逆の方向へ来てしまったのです。でも妾は多分あの人は何か目的があってこちらへ来たのだろうと思っていましたら、あとで聞いてみると、あの人も妾がそちらへ歩くからついてきたのだと言っていました。つまり、どちらが先へ歩き出したともなしに、まるで、どこか目的地でもあるかのように、二人が共通の方向へ歩いていたわけなんです。
「貴女は酒をのみますね」
 実に突然にあの人はこう言いました。会の席で妾のコップにシトロンでなくビールがついであったのを思い出したにちがいありません。
「ええ、いくらか」わたしはつい半年ほど前から酒をのむようになったことを、別に女だからって恥じてはいなかったのですが、あの人に、真面目でそう指摘されたのには困ってしまいましたが、かくすわけにもゆかないので、正直に答えたのです。
「この先にいい酒をのませるバーがあるんですが、ちょっと寄ってごらんになりませんか?」
「そうね、では――」
 あの人も非常識なら、私も非常識だったのです。はじめて会った男と女とが、二十分位しかたたないうちにこんな話をし出すなんて。でも、今だから告白しますが、男女というものは長くつきあっているうちに愛しあうようになるなんてことは金輪際ないと妾は思うんです。ちょっと会った瞬間に、もう運命は決定してしまうものなんです。少なくもあの人と私との場合はそうでした。妾は何となく一分間でも長くあの人と一しょにいたいような気がしていましたし、あの人も、あとから聞いたことですが、ただ妾と別れるのをしばらくでものばすために、あんなことを言い出したんだそうです。
 あの人は急に足をはやめました。妾もあとについて足をはやめました。
 三杯ずつキング・オブ・キングスをのんでバーを出たときは、あの人も妾もだいぶ酔っていました。二人の話には、だんだん敬語がとれ、だんだん大胆に、露骨に、互いの心を発表しあうようになりました。世間的な形式ぬきに、何でも話のできる友だちというものは一生のうちにそんなにできるものじゃありません。ところが、妾たちは、全くの偶然にそういう友だちを見つけあったのです。
「どうして貴女あなたは僕のような人間に興味をもつんですか?」
 あの人がこんなことを言ったのは、この最初の晩だったんです。妾たちがバーを出てから、銀座へ出て、日比谷へ折れて、公園の中へはいってからでした。暗いところへ来ると妾たちはもう手を握りあっていました。あの人は自分で手を出したくせに、すぐにきまりわるがって、二秒間もたつとすぐ手をふりほどこうとしましたが、妾は一たん握ったら、ぎゅっと強くにぎりしめてはなさないようにしました。
「そうね、どうしてか妾にもわかりませんわ」
 こう言ったかと思うと妾は、いきなりあの人の手を口のとこまでもってきて接吻キッスしました。あの人は無感覚な顔をして、だまって妾のするままにさせていました。まるで、ちゃんとそのことを予期していたという風に、ちっとも吃驚びっくりせずにですよ。
 この二時間近くの目的なしの散歩の間に妾たちがどんな話をしたかは一々おぼえていますけれど、そんなことを今お話ししていたらきりがありません。とにかく妾たちは、その間にどうしても、これから先別々にはなれて生きてゆくことはできないような気持ちになってしまったことは確かなんです。
 あの人はタクシーで妾を送ってくれましたが、車にのっている間、あの人の右の手と妾の左の手とはしっかりとむすびついて、まるで手の先の毛細管で二人の血管がつながって、二人の血がごっちゃになってお互いの身体からだに流れてゆくような気持ちでした。
 別れぎわに妾たちははじめて名刺を交換したんです。それまでは二人とも名前も何も知らずに、ただ一人の男と一人の女として、原始人のように愛を語っていたのです。そしてそれでも実際、差支えはなかったのです。妾にとってはあの人は男性そのものだったし、あの人にとっては、妾が女性のただ一人の代表者だったのだから。おまけに結果から考えると名刺の交換などはしない方がよかったのです。そうすれば二人は、広い東京のことですからそれっきり、相手の住み場所も名前も知るよすががなくて、この日のたった二時間の交際が、後にも先にも、最初にして最後のものになっていたでしょうから。
 妾はタクシーを降りた瞬間から、すぐにあの人のあとを追いかけてゆきたい欲望をおさえるのに瘠せるような思いをしました。


 妾はここで少し弁解をしておかねばなりません。それは妾自身のためにも必要ですが、何よりも、もうこの世からいなくなって永久に弁解することのできなくなったあの人のために必要なんです。あの人の名誉のために必要なんです。もっともあの人は名誉なんてものはうるさがっていたんですけれど。
 というのは、あの人と妾とが、こんな風に唐突だしぬけに知りあうようになって、しかし互いの性質も境遇も知るまもなく、いきなりきちがいじみた恋人同士になった過程について、世間の人は、この上なく妾たちを軽蔑し、それは、妾たちが、そうしたしだらな恋愛の常習者だからだときめてしまうにきまっていると思うからなんです。妾だって、第三者からこういう話をきいたら、そう考えたにちがいありませんからね。
 しかし、妾は、妾の心の中に今でも生きているあの人の魂をかけてちかいますが、あの人は決してそういう人でなかったのです。それは、あの人の周囲の人たちがみんな知っていることなんです。あの人は基督キリストのように謹厳きんげんな人でした。あとにも先にもあの人が恋愛というような感情に動かされたのは妾の場合だけだったことを妾ははっきり知っているのです。
 妾もそれまでに随分ひどい誘惑の中に生きてきたのですが、あの人への場合のように、いきなり魂のどん底から揺すぶられるような強い愛を感じたことはありませんでした。したがって、その時までどんな誘惑にも堪えることができたのです。今では妾は何をいう資格もない、神の名を口にすることすらできない、最下等の女になってしまったのですが、少なくもあの時までは、心の純潔と、意志の強さとではどんな女にも断じてひけをとらない自信をもっていたのです。
 ですから妾たちの場合は二人のだらしない男女が、軽薄な恋に陥ったのとはちがって、人力ではいかんともすることのできない不可抗力によって、思案するひまも何もなく合金のようにかたく結合されてしまったわけなんです。これだけのことはどんなに信じにくいことでもぜひ信じていただかぬと、妾はこれから先話をつづけてゆく勇気も張り合いもなくなってしまうのです。これをふしだらな女の身の上話と見られるくらいなら、妾は、いますぐに死んでしまった方がましなのです。
 さて、その、妾はあの人のことを考えて考えて、肩から胸へかけて板のようにかたくなって、心臓のへんに時々くずれ落ちるような痛さをおぼえるまで考えたのですが、そのうちに眠ってしまいました。
 朝起きると、それでも、わずかな時間の睡眠のために、昨夜の出来事が、まるで一世紀も前の出来事だったような気がして、少しきまりがわるくさえなりました。睡眠ということが人間の精神作用に及ぼす影響は実に奇妙なものだと妾は今でも考えることが時々あります。でも起きて三十分もたたぬうちに、睡眠によって回復された妾の心の平静さはすっかりかき乱されてしまいました。もう一分間もあの人のことを考えずにはいられなくなってしまいました。
 妾は昨夜別れぎわに貰った名刺を出して見ました。「竹島千一郎」……左の下には住所もはいっていました。[#「はいっていました。」は底本では「はいっていました」]
 妾はもう矢も楯もたまらないので、机に向かって、レター・ペーパーをひろげました。そしてペンをとりあげました。
 ――昨夜は失礼いたしました(と妾は書きはじめました)めったにいただいたことのないお酒をいただいたので(ここのところは嘘で、妾はその頃淋しさをまぎらすために毎晩少しずつではあったけれど酒をのんでいたのです)つい失礼なことをしたり申しあげたりしたかも知れませんがどうぞおゆるし下さいませ。いずれお目にかかる機会でもございましたら、おわび申し上げますが、とりあえず乱筆にておわびいたします。――妾はこれだけ書いて、大急ぎで封をして、胸をどきどきさせながら、近所のポストへ投函とうかんしました。
 妾は手紙を投函してしまうとすぐに後悔しました。あの人はもう昨夜のことなどは何もかも忘れているかも知れないのに、女の方から、こんなはしたない手紙を出すなんて……
 妾は自分の心が形のあるものなら、眼の前へきずり出して、さんざん打ちのめしてやりたい衝動を感じました。と同時に、どうせ手紙を書くくらいなら、あんな通り一ぺんな手紙ではなくて、妾の心の中に思っている通りを残らず書いてしまえばよかったと思いました。いずれにしても、あの手紙のために、妾は、あの人からこの上なくさげすまれるにきまっているような気がして、いてもたってもいられませんでした。
 ところが、その日のひる過ぎに速達郵便が着きました。表には差出人の名は書いてありませんでしたが、妾はすぐにあの人からだと直覚しました。まだあの人の筆跡を見たこともなかったのですが、どういうものかそう直覚したのです。封を切ってみると、中には署名はしてないばかりか、それは実に妙な手紙でした。
 ――私は本日午後一時に銀座のS喫茶店へ行って二時までそこで過ごし、二時三十分に東京駅の二等待合室で三時三十分まで汽車の発車をまち、四時に帝国ホテルのグリルで食事をとることになっています。――
 これだけで手紙の文句は唐突として終わっていました。誰だって無名のしかもはじめての差出人からこんな手紙を貰ったら、きっと人ちがいに相違ないと思うでしょう。ただ自分のその日の行動のスケジュールが書いてあるだけなんですから。しかしわたしは実にはっきりと、それがあの人の手紙だということばかりでなく、その手紙が何を意味しているかもすっかりさとってしまいました。
 あの人はきっと妾に会いたくてたまらないのだと妾はすぐに断定したのです。そしてS喫茶店と、東京駅の待合室と、ホテルのグリルとへ行っている時刻を知らして、その時刻に、どの場所かへ妾に来てくれという意志を知らしてきたのにちがいないのです。妾の心は躍りました。急に自身と[#「自身と」はママ]勇気とが、しおれきった妾の心をしゃんと立ち上がらせました。時計を見るとまだ間にあいますので、妾は最初に指定されているS喫茶店へすぐさま行くことにきめました。
 あの人は通りに面したテーブルによって煙草たばこをふかしていました。のみさしのレモン・スカッシュのコップが麦藁むぎわらをさしたまま前においてあります。
「さき程お手紙をいただきまして、急にお目にかかりたくなったものですから」
 妾はこう言いながらあの人の前の空いた椅子にかけました。
 あの人はだまって妾の顔を見ました。まるで怒っているような、妾をさげすみきっているような顔つきなんです。
「でもお邪魔じゃまですかしら?」
 妾もつい躍り上がった心が萎縮いしゅくしそうになりました。
「十七分待っていましたよ」とあの人は時計も見ずに言いました。「でも貴女あなたはなぜ来たんです? こんなところへ?」
「妾、お目にかかりたくてしょうがなかったもんですから、昨夜お別れするとすぐその瞬間から」
「何かめし上がりますか?」あの人は大急ぎで話をそらしました。それは一組の中学生が、妾たちの様子に注意しはじめたからじゃなくて、妾の返事があの人の期待をあまり完全に満足させたので、もう言うことがなくなって、ただきまりが悪いだけになったからだと、あとであの人は説明してくれました。
 ソーダ水を半分ばかりすすった時、妾は麦藁から口をはなして言いました。
「もう東京駅へいらっしゃる時刻じゃなくって?」
 半分は真面目で、半分はからかいの意味がこの言葉には含まれていたんです。
 あの人はしばらく不機嫌な顔をしてだまっていましたが、突然、起き上がらんばかりに身体からだを動かして言いました。
「とにかくもう出ましょう、ここは騒々しくて、それに人間が多すぎて落ちつかんですから。馬鹿な人間の中にまじっていると自分まで馬鹿になって、遠慮したり、気取ったり、嘘を言ったりしなきゃなりませんからね。僕はさっきから嘘ばかり言っているんですよ。咽喉のどのとこまで来るとほんとのことがみんなまがってしまうんです」
 あの人はベルを押して勘定をすませました。そして妾たちは、タクシーで両国駅へついて、それから市川で降り、鴻の台まで歩いて行きました。ただ人間をのがれるためです。というのは人間というものは自分の複製を眼の前に見ていると、ついその醜さを最も神聖な相手にも移植してしまいがちです。二人の男女が恋を語るときは、自然の懐から出たばかりの人間同士のように、すべての仲間から隔絶した環境が絶対に必要です。というよりもそういう環境そのものが、二人の心をむすびつけずにはおかないのです。こうした条件を最も簡便に、その代わりごく不完全に備えているのが寝室なんでしょうね。ですから、トーキーのスタジオのように防音設備が施され、必要に応じてはカメラマンの暗室のように光を遮断することができる寝室なら、その点では理想的な寝室といえるでしょう。
 その日の鴻の台には、この条件をある程度まで備えている場所が見つかりました。もっとも、その条件がそなわってくるためには夕方まで待たねばなりませんでしたが、真っ昼間の日光はあらゆる神秘の防害者ですからね。そして恋は誰かが言ったように「最も神秘なもの」なんですから。
 妾たちの心が、この環境から、どんな影響を受けたかは説明する必要はありません。妾はもう完全にあの人のものとなり、あの人は完全に妾のものとなったと言うだけで十分です。あの人の指の先と、妾の指の先と、わずか一平方センチメートルの百分の一にもたらぬ皮膚の接触によってでも二人は肉体的にも精神的にも完全な一つになるような気持ちがしました。
 こうしたランデブーは、その後二十度近くもつづきました。もう一つになってしまったのだからそれ以上近寄ることはできまいと思われた二人の心は、一回々々とその結合の強さを無限に増してゆきました。妾たちは互いに魂をとりかえてしまって、あの人の魂が妾の身体からだの中へうつり、妾の魂はあの人がもって行ってしまったように思われることもありました。しかもこの過程は一本調子に変化なく行われたのではありません。ありとあらゆる変化と陰影と濃淡とをもって、昨日よりは今日、今日よりは明日と、どうにも動きのとれない最後の袋小路ふくろこうじへむけて突進していったのです。
「もう永久に会わないことにしましょうね[#「しましょうね」は底本では「しましようね」]」妾はいつかあの人にこんなことを言ったことがあります。もちろん、一秒間だってあわずにいるのが苦しいもんだからこそ、そんなことを言ったのです。するとあの人はそれをよく知りぬいていながらも、いくらか不安になってくるので(恋人の神経は写真の乾板よりももっと敏感ですからね)
「僕もそう思っていたんです。貴女あなたにあうのは苦痛をますだけだから」
 真顔になってこういうのです。すると妾の心へは不安が倍加して伝わってくるので、またいや味な言葉を言いかえす。こんなことを繰り返して、互いの心を傷つけあったあとでは、しかし、きまって、力一ぱい、三分間も、つづけて抱擁ほうようしあうのが常でした。
 妾たちは、別に何も約束はしなかったのですけれど、約束したのと同じでした。否それ以上でした。二人が別々に生きてゆけるなんてことは、とても想像することすらできなかったのです。口へ出して「二人は永久に愛しあいましょう、一しょになりましょう」などとわざわざ言うのは、わたしたちの愛を冒涜ぼうとくするようにさえ感じられたのです。


 こんな愛にいつか、ゆるみが生じることがあると想像できるでしょうか? ところが想像できるできないの問題じゃなくて、実際二人の愛はたちまち暗礁あんしょうに乗りあげたのです。
 ある日の夕刻、――それが最後のランデブーだったのですが――妾たちは日比谷公園であいました。あの人はひどくふさぎこんでいました。表面から見たくらいでは、他人にはわからなかったかも知れませんが、妾には一眼で、あの人の心に一つの変化が起こっていることがはっきりとわかったのです。
「どうしたんですの」と妾はたずねてみました。「今日は貴方あなたの顔はまるで墓穴から抜け出してきた人のようにまっさおよ、すっかりびて、つやがなくなってるわ」
 あの人はだまっていました。妾は気が気でなくなりました。というのは、その頃は妾たちは昼間でも何でも会うとすぐに手ぐらいは握りあっていたのに、その日は、あの人は棒のように立っていたきりだったからです。
「何か心配があるのね、そして、それは妾に関係のあることなんでしょう、きっと。その外のことでそんなに心配なさるわけはありませんから」
 妾はこう言って、あの人の右の指にさわりました。
「忘れていたんですよ、僕は」とあの人は案外何でもないことのように平気で答えました。「僕に妻も子供もあるってことを。もっと詳しく言えば、そのことを忘れていたわけじゃないんですが、そんなことは僕たちの愛の障害になる力はないものだと思っていたんです。僕たちの愛は絶対だから、どんな障害でも征服できると思っていたんです。ところが――」
 妾はここまで聞いているうちに眼のくらむのをおぼえました。よくその場にたおれてしまわなかったか今でも不思議に思うくらいです。
 あの人は妾の心が、思いがけない、ひどい衝撃を受けたのを見てとると、あわてて言いたしました。
「もちろん、これは何でもないことなんですよ。僕が貴女あなたを愛するということは絶対なんですから。ただそれがほんの少しばかり障害を受けただけなんです。ほんの少しです。だがそれが意外に強かったというだけなんです」あの人の言葉はしどろもどろで辻褄つじつまがあっていませんでした。あの人がひどく苦しんでいた証拠ですわね。
「それでどうなさるの?」と妾はいっけん冷静な調子でききかえしました。「妾のことなんかちっとも考えて下さらなくてもいいのよ、貴方あなたのすきなようになされば、貴方のいいと思うようになされば」もちろん、妾の表面の冷静さは、まぶたにいっぱいたまってくる涙が裏切っていました。
「僕にはどうもできないんです。僕は卑怯者です。貴女が命令して下さい。今すぐに貴女と一しょに逃げろとでも、これっきり貴女を思いきってしまえとでも、私はそのとおりにします」
「ではもう妾たちは別れましょう。これっきり、赤の他人になっちまいましょう。そうするより外に方法はないわ、また貴方は少なくともそうすべきですわ」
 こう言いながらも妾の胸は裂けるような苦しみでした。つい三十分前まで、未来永劫にむすばれているとばかり信じきっていた二つの魂の間に、もう一つの魂がはいっていたなんて。妾はどんな苦しみにでも堪えられる強い女だと今の今まで思っていたんですが、このことだけには堪えられなかったのです。どんなに人からうらまれ、憎まれ、世間から、さげすまれ、あざけられようとも、妾はあの人の魂をしっかりとつかんではなしたくないと思ったのです。でも口の先ではやっぱり心の中とは反対のことを言ってしまったのです。
 すると、あの人は突然、妾の首にとびついて、左の耳のあたりに滅茶めちゃ々々に接吻キッスしたかと思うと、
「そんなことは僕にはできない」
 とふるえ声で言いました。妾はその時、盲目的に、妾の唇をあの人の唇へもって行きました。だがまたすぐにそれをはなして、泣きながら、アーク灯の濡れるような光を浴びて走って逃げ出しました。妾はもう自分が何をしているのかわからなかったのです。あまりに急激な事情の変化が妾の心のはたらきのどこかに狂いを生じさせたのにちがいありません。
 それから妾は夢中で××劇場へかけつけました。その日はその翌日から上演されるはずのカルメンの舞台稽古けいこがあったのです。そして妾はカルメンにふんすることになっていたのです。話が前後になりましたけれど、妾は、その頃きまった劇団には属していなかったのですが、時々頼まれると、前からの関係で色々な劇団に助演に出ることにしていたのです。ちょうどその時は六月の下旬から一週間××劇場で上演するカルメンに出ることになっていたわけなんです。
 妾の相手やくのホセに扮する谷村という人は、こうした仲間のうちでは謹直な人でしたが、妾たちが稽古をはじめる最初の日から妾に対して心を動かしていることが妾にはわかりました。ある時、谷村はごく婉曲えんきょくに妾に言いよったことがありました。それ以後というものは妾はこの稽古に出るのが一つの重荷になってきました。というのは、その頃、あの人と妾とは幸福の絶頂にたっていましたので、他の男などは妾の心の中へはいってくる余地がなかったからです。もっとも一緒に芝居をしている以上、谷村をはえのように追っぱらうわけにはいかなかったのは無論ですが、それでも妾は、あの人と世にも楽しい時間をもったあとで、稽古場で谷村と顔をあわせるのは何とも言えない、嫌悪と侮蔑とのまじった圧迫を感じたものです。谷村が、この劇団の座長格でもあり、演出者でもあり、おまけに妾の相手役ですらなかったら、妾は、露骨に妾の気持ちを相手にしらせる手段をとったにちがいなかったと思います。けれども、芝居というものは、特にカルメンのような二人の主役の呼吸がぴったり合っていなければならぬ芝居では、相手役同士の間に何か心のわだかまりがあると、とても成功するものじゃありません。で妾はじっと我慢していました。それでも妾の気持ちがすなおでなかったせいかどうも稽古がうまくゆきませんでした。稽古中に突然あの人のことを思い出して台辞せりふを忘れたことなどもあったくらいです。
 ところで、その晩、つまり、舞台稽古の晩は、実にすばらしい出来栄えでした。カルメンとホセとの呼吸がぴたりとあって、谷村はすっかりホセになりきってしまい、妾はあの蠱惑こわく的なボヘミア女になりきってしまったかのようでした。そればかりか、妾は谷村に対して突然、これまで感じたことのない激しい情熱を感じてきたことも告白しなければなりません。
 ――ね士官さん、妾をどこへつれて行こうっていうの?
 ――気の毒だが、監獄へさ。
 ――まあ妾どうしましょう? 妾はどうなるんでしょう? ねえ士官さま、お若くて、親切な士官さま、妾をかわいそうだと思って頂戴ちょうだいな! 妾を逃がして下さらないこと?
 ここの場面などは、カルメンがホセにたのむのじゃなくて、妾が谷村にたのんでいる地のままの言葉にしてもちっとも不自然じゃないくらいでした。
 稽古がすんでから谷村はこの上ない満足と幸福とにひたりながら、二つの眼をぎらぎら輝かせて妾に言いました。
「柳子さんは(妾は柳子という名前なんです)やっぱりちがいますね。ふだんは不勉強でも舞台稽古となると、すっかり別人のように油がのって、芸に一分のすきもなくなってくるんだから、今夜の出来栄えがそのまま明日の舞台でも再現できたら、すばらしいもんですよ」
 妾は相手が何を言っているのかよく耳にもはいらないで、一分間もたってから、やっと耳の中にのこっている相手の言葉を思い出したくらいです。と言って妾はあの人のことを考えていたわけでもありません。なんにも考えないで、放心したようになっていたのです。
 そのおそく帰りがけに、何ということでしょう! 妾は昨日まで、うるさくてたまらなかった人と無我夢中で熱烈な恋を語りあったのです。まるでカルメンそのもののように気まぐれに。
 家へ帰ると妾は急いでレター・ペーパーを拡げてペンを走らせました。
 ――妾は新しい恋を得ました。今妾は非常に幸福です。貴方はやっぱり、貴方が当然帰らねばならぬ人のところへお帰りなさいませ。これっきり妾たちは何事もなかったように忘れましょう。白紙になりましょう。左様なら。
柳子
 千一郎様

 妾は読み返しもせずに、ぐずぐずしていると考えが変わったり、決心がにぶったりしてはいけないと思ったものですから、もう十二時過ぎていましたけれど二丁も先にあるポストまでこれをもって行って投函しました。


 あの人を思ってはならないという理性の命令と、どうしてもあの人を思わないではいられないという情熱の要求とが、どうしても互いに譲らないで、心の中で血みどろの争闘をはじめたとき、わたしの心はとてもこの重傷にひとりでたえてゆくことはできなかったのです。あまりに突然で、あまりに急激で、どうしてよいか考えるひまも何もなかったのです。ただ行きあたりばったりに、誰の懐へでも抱かれて、魂の傷の痛みをしばらくでもしずめるより外はなかったのです。あの時ごろつきが妾に言い寄っても、妾はその人の懐へとびこんだかも知れません。妾の心が谷村に走ったのは、こうした事情のもとにあっては已むを得なかったのです。でも妾は、妾のこの大それた行為を弁解する気は毛頭ないのですが。何と言ってもそれは弁解する余地のないものだということは今では誰よりも妾が一番よく知っているのですから。
 さてその翌日はいよいよ初日です。カルメンは二番目の出し物で八時に開幕となっていたのですが、妾は六時半に楽屋へつきました。初日のことですから、もうみんな連中はちゃんとそろっていました。[#「そろっていました。」は底本では「そろっていました」]
「柳子さんおごらなくちゃいけませんよ」妾の顔を見るといきなり谷村がこう言うのです。今だから正直に言うと、その時あの人の顔には、下品な、皮肉とも厭味いやみともつかぬ表情が浮かんでいました。
「どうして?」妾は不熱心に聞き返しました。
「すばらしい人気だからですよ」と谷村はわざとにやにや笑いながら言いました。「立派な花環が来てますよ」
「連中のでしょう、ちっともおごらなくちゃならないことなんかないわ。それよりも入りはどう?」
「まあ八分といった所でしょうね」谷村はまだ薄気味の悪い笑いを浮かべていました。
「ところで、連中ののほかにもう一つ花環が来てたらおごる価値があるでしょう。しかも無名氏って言うんですからね、五時頃花屋から届けてきたんだそうです、名刺も何もつけないでね。今正面に飾ってありますが、すばらしいんですよ。それに無名氏がロマンチックじゃありませんか? 貴女にあんな隠れたパトロンがあるったあ、知りませんでしたよ」
「からかっちゃ駄目よ、ほんとにしますから」妾は冗談に受けながしていました。もちろん、そんなことは信じていなかったのです。
 ところが、そのことはほんとうでした。無名氏とだけで寄贈者のわからない大きな、立派な花環なんです。むろん妾の頭に最初うかんだのはあの人でした。あの人がまさかこんな物を贈ろうとは信じられませんでしたが、そうかと言って、まるで見ず知らずの人が、匿名とくめいで妾に花環を贈ってくれるはずもなし、外には心当たりは誰もなかったのですから。
 そのうちに幕はあきました。妾は短い赤いヂュポンの下から白い絹の靴下を見せ赤いモロッコ皮の靴を緋色のリボンで結んで、わざとショールをひろげて肩を出し、アカシアの大きな花束を肌衣の外へはみ出させて、口にもアカシアの花をくわえながら、コケティッシュに腰を振って多勢のスペイン女の中をかきわけて左手から舞台へ出ました。舞台の中央には、派手な伍長の制服をつけた谷村のホセが工場の門の傍の腰掛にかけていました。
 そのうちに芝居は進行して、――妾を逃がして下さらないこと? という台辞せりふのところまできました。
 ――ここにこうしてるのは冗談をいうためじゃない。さあ牢屋へ行くんだ、これは命令だからね、どうにもならないんだ。
 ――まあ、なつかしいわ、貴方妾の郷里くにの方ね?
 それから妾のカルメンはありとあらゆる言葉をもって、ぶきっちょな、正直な谷村のホセを動かしてしまったのです。
 妾は妾の短い舞台生活の経験では、この時位あとから考えても満足に妾自身を表現することのできたことはありません。妾の口からなめらかに流れて出る言葉で、武装したホセの心がだんだんほどけてゆくのが妾自身そばにいてわかるくらいでした。妾は芝居をとおして妾の心を誰にともなく投げつけていたのです。誓って言いますが、前の晩とはちがって、その日は、必ずしも、ホセにではなかったのです。誰にともなしにだったのです。
 ちょうどその時、妾は観覧席に何か妾の眼を射るようなものがあるのに気がつきました。まるで大きな磁石がどこかにあって、妾の心が鉄になってそれにひきつけられるような感じがしました。で思わずその方向へ視線を送ると、正面の二階席の一番前列に、あの人が何とも言いようのない顔をして、両眼を釘付くぎづけにされたようにして舞台の妾をにらんでいるのです。あの人のこの時の表情は今でもはっきりと私の頭に残っていますが、実になんとも説明のつかぬ、ありったけの愛児を失った上に自分も死んでゆく人のような深刻な苦痛の表情でした。
 妾は気が転倒してしまって、倒れたホセの身体からだを跳びこえようとするとたんに、妾もその上へ重なって倒れてしまったのです。そしてもう起き上がることはできませんでした。芝居はもちろん滅茶々々でした。
 だが騒ぎはそれだけではすまなかったのです。それとほとんど前後して、二階の観覧席でも大騒ぎがはじまったのです。正面の一人の客がとつぜん苦悶をはじめて、手当てをする間もなく、三十分足らずで絶命してしまったのです。それが実にあの人の最後であろうとは。妾は翌朝の新聞ではじめてそのことを知ったのでした。
 もちろん、妾があの人の死に関係があろうなどとは今でも誰一人知っている者はありません。ただ妾だけが、あの人を殺したのは妾だということをはっきり知っているだけです。
 あの記念すべき最後の夜、あの人は妾が何もかも思い切って逃げたと思ったのです。そして翌日妾の手紙を見て、あの人の想像の正しかったことが証明されたと考えたのです。その実妾はちっとも思いきっていたのではなく、あまりの激動に逆上してしまってあんな行為をとったのでしたが。是が非でもあの人と別れねばならんという考えと、どうしても別れることはできないという感情との葛藤かっとうが妾に何もかも忘れさせ、判断する力を奪ってしまったのです。このことを考えると今でも煮られるように妾は苦しくなります。
 あの人は妾が去ればもう生きてゆく理由がなくなったのです。妾の去ったことによってできた穴は誰によっても埋めることのできないものだったのです。そのことを妾はどうしてあの時もっと深く考えなかったのでしょうか、ただあの人の家庭のことばかり考えて、あの人自身のことを、まるきり忘れてしまっていたのです。
 あの人はすっかり決心をして、私に最後の思い出の花環を送っておいてから、妾にあうことができなくなったので、せめてもと、妾の舞台の姿を見ながら息をひきとることにきめたのです。妾が気のついた時のあの人の表情は、妾と妾の新しい、恋人の谷村とを舞台で見たための苦しみと、モルヒネ中毒による苦しみとのためだったのです。谷村と妾との関係はすぐにあの人に直覚されたにちがいありません。
 むろん妾はその日限りで舞台に出ることも、谷村にあうこともやめて(谷村に対して妾の心が動いたのはほんの一時の反動だったのですからそれからあわないことはちっとも苦痛じゃありませんでした)、あの人の思い出だけを心に抱きしめて、このことを発表するだけのために今まで生きてきたのです。これからさき生きてゆけるかどうかは神さまだけがご存じでしょう。もし妾が神さまの名を口にしてよいとすれば。





底本:「平林初之輔探偵小説選※()〔論創ミステリ叢書1〕」論創社
   2003(平成15)年10月10日初版第1刷発行
初出:「朝日 一巻九号」
   1929(昭和4)年9月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2010年7月4日作成
2011年2月23日修正
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