寝台の上で、何を思いわずろうてみてもしようがないが、このたびの改革案が発表されたときは、やはり強くなぐられたような気がした。自分一個の不安もさることながら、それよりもまず、失業群としての、大勢の映画人の姿が、黒い集団となつてぐんと胸にきた。痛く、そしてせつない感情であつた。しかし寝ていてはどうしようもない。もつとも起きていても、たいしてしようはないかもしれぬが、一人でも犠牲者を少なくしてもらうよう、方々へ頼んでまわるくらいのことならできる。ただし、私が頼んでまわつたとてあまり効果はないかもしれないが、それでも寝たまま考えているよりはいくらかましであろう。
最初改革の基本案が発表せられてから、もう二週間以上にもなるかと思うが、いまだに成案の眼鼻がつかず、それ以来やすみつきりの撮影所もある。何も好んで休んでいるわけではないが、提出するどのシナリオも許可されないため、仕事のしようがないのだそうである。この許可されないシナリオの中に、どうやら私の書いたものもまじつているらしいので、これは何とも申しわけない話だと思つている。
実行案の成立が、いつまでも実現しない理由は、各社の代表が、互に自社の利益を擁護する立場を脱しきれないためと、いま一つには当局の態度がいささか傍観的にすぎるためらしい。
各社代表が、利益から離れられないのは、むしろ当然すぎることであつて、少しもこれを怪しむ理由はない。彼らは一人々々切り離して観察すれば、おそらくいずれも国民常識ゆたかな紳士なることを疑わないが、一度、会社の代表たる位置に立たんか、たちまち利益打算の権化となるであろうことは決して想像に難くない。彼らの背には、多くの重役、株主、会社員がおり、しかも、彼らの代表する会社はもともと利益を唯一の目的として成立したものであつてみれば、彼らが利益を度外視して、真に虚心坦懐に事をはかるというようなことは、実際問題として期待し得べきことかどうか、はなはだ疑なきを得ない。
しかしすでに事がここまできた以上、これ以上
事変以来、官庁側の民間に対する指導方式の中には、「禁止しないが、自発的に取りやめろ」とか、「方法はそちらで考えろ」とかいう持つて廻つた表現がとみに多くなつた。これはおそらくあたうかぎり民間との摩擦を少なくするための心づかいだろうとは察せられるが、しかし、民間の側からいえば、このような表現の中にかえつて何か怜悧すぎる、親しみにくいものを感じ取つているのではないかと思う。
もつと専制的でもいい、もつと独裁的でもいいから、だれかがはつきり責任をもつて、指導、あるいは命令してくれること、そして、その人の責任において示された方針や、保証された自由は、わずかな日数の間にひつくりかえつたりは決してしないところの、安心してもたれかかつて行けるような制度が、いま最も要望されているのではないだろうか。
なお、今度のような重大な問題の討議にあたつて、一度も、そして一人も従業員代表が加えられていないことをだれも怪しみもせず不当とも感じていないらしいのは、はなはだ不可解であるが、私はそれを憤るよりもまえに、むしろ、反対に従業員側の反省をうながしたい気持ちである。すなわち、かかる大事の場合に従業員というものの存在が、このように無視され、しかもだれもそれを不思議とも思わないほど無関心な空気をはびこらせてしまつた責任をだれかが負わなければならないとしたら、それは結局従業員自身よりほかにはないということを、よく認識してもらいたいのである。
いつたい今までだれが映画を作つてきたのだ。だれが映画を愛し、映画を育ててきたのだ。実質的な意味では、それはことごとく従業員のやつたことではないか。ことに事変以来、いかにすれば政府に満足を与え、同時に自分たちも国民としてあるいは芸術家として満足するような作品ができるかという点に関し、真に良心的に悩んできたものは、従業員のほかには決してありはしないのだ。しかも、自分たちの、そのような純粋な意欲が、多くの場合、板ばさみの苦境によつてゆがめられ、殺されてしまう悩みについて、あるいは、映画界の内部において、正しい理念からの改革の必要を予見し、政府の意図をただちに実践に移す熱意と理解を持つものは従業員のほかにはないということについて、一度でも官庁側の了解を求めたことがあつたであろうか。
断つておくが、私はいつまでも小児病的に、資本家だの従業員だのとものを対立的にしか見ないほど偏執的な人間ではない。しかし、今度の場合は、区々たる利害関係においてでなく、「国民としての良心の把持において」資本家と従業員の間には超ゆべからざるみぞのあることを、我々ははつきり知らされたのである。すなわち、今度の会議などにおいて、一度も従業員側が召集されなかつたということは、決して利害関係からでなく、理念のうえから、つまり良心層が無視せられたという点において、深甚なる遺憾の意を表せざるを得ないのである。
次に映画の質に関して、まことにわかりきつたことでありながら、ともすれば人々に忘れられていることがある。それはほかでもないが、映画の質の大半を規定するものは、その映画を産み出した社会の一般文化の質だということである。たとえば、今の社会の一般文化、なかんずく娯楽的性格を持つた芸術、ないし演芸のたぐいを見渡して、どこに映画がとつてもつて範とするに足るものがあるかということである。
私は、今度の改革案の発表された日、もはや今後は、貴重なる弾丸の効果に匹敵するだけの、有用にして秀抜なる映画でなければ作らせないのだという意味のことを政府側の意図として伝え聞き、実に厳粛かつ沈痛なる思いに沈んでいたところが、たまたま耳に流れてくるラジオの歌曲の相も変らぬ低劣浮薄な享楽調に思わず耳をおおいたくなつた。
これらのラジオは同じ政府の指導のもとに、同じ社会の一文化現象として、現に我らの身辺に存在しているのである。このような歌曲が行われ、あのような浪花節が喜ばれ、また人の知るような愚劣な歌舞伎、新派、漫才などが横行している、この一般文化の質の低さをこのままにしておいて、映画だけを特別に引き上げるということははたして望み得ることであろうか。
映画を今の純文学のように、あるいはまた能楽のようにして民衆との縁を断ち切つていいなら、どんな高い仕事でもできる。しかし、それでは映画でなくなつてしまう。あのようなラジオを聞き、あのような演芸を喜ぶ人々が、同時に映画の客なのだ。映画も浪花節も同じ一つの社会に咲く花なのである。つまり映画の質を規定するものは、半分はそれを作る人であるが、他の半分はそれを作らせる社会である。したがつて映画を引き上げることの本当の意味は、映画と同時に、その映画をささえている観客一般の文化の質を引き上げることでなければならぬ。
少なくとも、私の見解はそうであるし、一面、今までの映画の歴史はそれを証明してあまりがあると思う。ここにこの問題の大きさと、はかり知れぬ重量があり、選ばれた何人かの人々の相談のみをもつてしては容易に片づけにくい理由があると思う。これからさき、この問題はいつたいどうなるのであろう。簡単な問題ではない。
次に量の問題であるが、日本国内で、劇映画、年四十八本製作という数字は決して過少ではないと思う。このうち、例年のとおりベスト・テンを選ぶとすれば、なお三十八本の平凡作が残る。少なくとも四十八本全部見逃せない作品ばかりだというようなことは残念ながらちよつと考えにくい。つまり質本位に考えるならば四十八本大いに結構といわなければならぬ。
しかし、今まで一本かりに五万円平均の撮影費だつたのが、本数が四分の一になつたから、今後は二十万円かけられるという計算は、ちよつと楽天的すぎるようだ。我々の知つているかぎりでは、五万円でできる写真に、わざわざ二十万円かけるというようなむだな算術は、映画事業家の間には存在しなかつたように思う。
一率に、どの作品もプリント五十本という案は、本当かうそか知らぬが、もし実現すれば、早晩行きづまるような気がする。プリント数には相当の弾力性を持たせておくのが常識だろう。
ここらで映画の前途に見きわめをつけて、そろそろ手を引く事業家が出てくるかもしれぬが、もしそんなことがあつても、このような多難な時期に映画を見捨てる人に対して、五十万円だの百万円だのという退職手当は出さないでもらいたい。そんな金があるなら、ぜひ犠牲者のほうへまわしてもらいたい。
こうなると、さなきだに不自由なN・Gが、いよいよ切り詰められて、手も足も出なくなることと思う。ここまでくれば、各監督はもう今までの個人主義的なやり方をすつかり改めなくてはいけない。今まではN・Gの問題はほとんど対会社の問題であつたが、今では、明らかに対同僚の問題となつてきている。このような時期になつても、なお一尺でもがんばつて、自分だけいい作品をあげようとするような態度は唾棄すべきだと思う。そんなけちな芸術良心は日本人なら捨てるがいい。
作品の不足から街には早くも再上映の氾濫らしい。写真はいまだにかせいでいるのに、それを作つた人は路頭に迷つていたというような皮肉なことが起らなければいいが――。写真が何べん上映されても、作つた人にはいつさい関係がないというのは合点の行かない話だが、これも結局はこちら側の不行きとどきで、いまさらあわててみたところで始まらない。
「好むと好まざるとにかかわらず」という言葉があるが、今度の改革は実にその言葉のとおりだ。官庁自体がそうなのである。なぜならば、根本の問題が映画の質に発したのではなく、フィルムの量から出ているらしいからである。もちろん質の問題も重要ではあるが、今度の場合はむしろ結果であつて原因ではないようだ。問題は深刻である。中小商工業者の問題など、知識として概念的には心得ていたが、いま自分自身が波の中に置かれた実感にくらべると、今まで何も感じていなかつたとしかいえない。このように多くの人間が、時代の波に流される激しさからみれば、偶然的な空襲の災禍などたいしたものではないという気がする。(九月五日)
(『映画評論』昭和十六年十月号)