琉球史の趨勢

伊波普猷




 私は今日郷土史にいて鄙見ひけんを述べたいと存じます。すなわち琉球の代表的人物が自国の立場に就いて如何いかなる考えをいだいていたかということをお話致そうと存じます。一体世の大方の人は琉球史上の特殊の時代の人民がはたらきまた考えた結果を見てただちに琉球史を一貫せる精神を捕えようとする傾きがありますが、これは余りよろしくない態度であります。慶長十四年の琉球入とか明治十二年の廃藩置県とかいうような社会の秩序の、はなはだしく乱れた時代にはいつも感情が働き過ぎる故、一般の人民は正当に時勢を解釈することの出来ないものであるが、偉大なる人物は如何いかなる時代にもその理性を失わないで、正当に時勢を解釈し、かつ誘導して、これに処する道を知らしめるのでありますから、吾人はかかる人物の考えやはたらきによって、沖縄人の真面目しんめんもくなる所を知らなければなりませぬ。今ここに向象賢しょうじょうけん蔡温さいおん宜湾朝保ぎわんちょうほの如き琉球の代表的人物を紹介するにさきだちて、沖縄人が他府県人と祖先を同じうするという事を述べる必要がありますが、これはかつて新聞や雑誌に書いた事もあるから、ここでは申上げませぬ。(「琉球人の祖先に就いて」参照。)とにかく今日の沖縄人は紀元前に九州の一部から南島に殖民した者の子孫であるという事だけを承知してもらいたい。さてこの上古の殖民地人は久しく本国との連絡を保っていたが、十四世紀の頃に至って、本国の方では吉野時代の戦乱があり、自分の方でも三山の分争があったので、本国との連絡は全く断絶してしまったのであります。この時に当って沖縄人は支那大陸に通じて臣を朱明に称し、さかんにその制度文物を輸入したのであります。当時の沖縄人はやがて、支那人に扮した日本人であったのである。十五世紀の頃に至って、沖縄島に尚巴志しょうはしという一英傑が起って三山を一統した時に、久しく断絶していた本国との連絡は回復せられ、日本及び支那の思潮は滔々とうとうとして沖縄に入り、十六世紀の初葉に至って沖縄人は日本及び支那の文明を消化し沖縄的文化を発揮させたのである。これ即ち尚真しょうしん王が中央集権を行った時代である。琉球の万葉ともいうべきオモロが盛に歌われたのもこの時代である。琉球語を以て金石文や消息文を書いたのもこの時代である。しかしてこの精神は遂に発して南洋との貿易となり、山原やんばる船ははるかにスマトラの東岸まで航行して葡萄牙ポルトガルの冒険家ピントを驚かしたのである。沖縄人はこの時代に於て既に勇敢なる大和民族として恥かしくないだけの資格をあらわしたのであります。ところが両帝国の間に介在するの悲しさ、沖縄人は充分にその本領を発揮する事が出来ないで、ようやく機械として取扱われるようになったのである。すなわち島津氏は沖縄の位地を利用して当時鎖国の時代であったにかかわらず、沖縄の手を通して支那貿易を営んだのであります。しかしながらこの頃薩摩と琉球との関係は、至って散漫なる者であったが、豊太閤が朝鮮半島に用いた勢力の余波は間もなく慶長十四年の琉球征伐となってあらわれました。これやがて薩摩と琉球との関係を一変して政治的の関係となす関節であります。爾来じらい征服者たる薩州人は被征服者たる沖縄人を同胞視しないで奴隷視するようになりました。
 さて沖縄の方では古来国子監や福建あたりで学んで帰った久米村人が支那思想の代表者で鹿児島で学んで帰った留学僧の連中が日本思想の代表者であったが、慶長の頃に至ってはこの儒者と僧侶が銘々の職業を離れて政治にくちばしれるようになっていたのであります。慶長十四年の琉球征伐は畢竟ひっきょう二思想最初の大衝突に過ぎないのであります。こういう場合に天下の大勢に通じて、自国の立場を知る経世家があって、くこの二思想を調和して民衆を誘導していったならば、こういうわざわいを未然にふせぐ事が出来たに相違ないが、惜いかなこういう人物は当時一人もいなかったのでございます。この戦争の結果、尚寧しょうねい王以下百余名は捕虜となって上国し、如才じょさいなき薩摩の政治家は思う存分にその主なき琉球を経営致しました。尚寧王は俘囚ふしゅうとなって薩摩にある事二年余、漸く許されて父母の国に帰ったが、さながら島津氏の殖民地に身を寄する一旅客のようであったと申します。しかしながら島津氏は決して琉球王国を破壊するような事はしないで、その形式だけは保存しておいてこれを支那貿易の機関に使ったのであります。征服後、島津氏が琉球王をしてあいかわらず、支那皇帝の冊封さくほうを受けさせたのもこれがためです。諸君もし支那の冊封使が渡来するごとに那覇にいた二、三百人の気の早い薩摩隼人さつまはやとが、支那人に見られまいとして、半年余の間、今帰仁なきじん城間ぐすくまに潜んでいたという事実をお聞きになったら、なるほどとうなずかれるでありましょう。沖縄が日本と交通している事を隠蔽するという事はただに沖縄のためであったのみならず、また薩摩のためであったのであります。沖縄人はこういう風にして支那に近づき、これによって得た所の利潤の過半を島津氏に納め、その余分を以て自立して来たのでございますが、間もなく支那には明清の大乱が起って沖縄人は二、三十年間も支那にく事が出来ないようになりました。これは実に沖縄に取って苦痛であったのみならず島津氏にとってもまた苦痛でありました。この時代のことを俗にフタカチヤの御代と称えています。沖縄人はこの時、支那に使節にられるのを非常に嫌ったとの事であります。この時代の沖縄人の頭には支那という考えが薄らいで来て、日本という考えが強くなって来たのでありましょう。ちょうど日清戦役頃の沖縄のように。とにかく沖縄が薩摩に対する悪感情は漸くやわらいで参りましたが、経済上の困難は一層増して参りました。この時の有様及びこういう時に処する道を蔡温はその『独物語ひとりものがたり』の中に、
世替よかわり(革命)程の兵乱差起り候はゞ進貢ちんこん船差遣候儀不罷成或は十四五年或は二十年三十年も渡唐絶行仕儀案中に候御当国さへ能々入精本法を以て相治置候はゞ至其時も国中衣食並諸用事無不足相達尤御国元(薩摩)への進上物は琉物計にて致調達其御断申上可相済積に候若御政道其本法にて無之我々之気量才弁迄を以相治候はゞ国中漸々及衰微御蔵方も必至と致当迫候儀決定之事に候右之時節渡唐断絶候はゞ御国元へ進上物の儀琉物調も不罷成言語道断之仕合可致出来候
と言っています。沖縄の立場は実に苦しい立場であったのであります。
 沖縄の立場が以上申し述べた通りでありますから、沖縄人にとっては支那大陸で何人なんぴとが君臨してもかまわなかったのであります。康煕こうき年間の動乱に当って、琉球の使節は清帝及び靖南王に奉る二通の上表文を持参していったとの事であります。また不断でも琉球の使節は琉球国王の印をした白紙を持参していざ鎌倉という時どちらにでも融通のきくようにしたとの事です。この紙のことを「空道こうだう」と申します。(『琉球古今記』の「空道について」参照。)沖縄人の境遇は大義名分を口にするのを許さなかったのである。沖縄人は生きんがためには如何なる恥辱をも忍んだのである。「食を与ふる者ぞ我が主也ものくゐゆすどわーおしゆー」という俚諺りげんもこういう所から出たのであろうと思います。誰が何といっても、沖縄人は死なない限りは、自らこの境遇を脱することが出来なかったのであります。これが廃藩置県に至るまでの沖縄人の運命でありました。ところが明朝が亡んで清朝がおこりましたので、沖縄は暫くの間、名実共に日本に属するようになりましたが、島津氏の方でも琉球を如何に取扱ってよいやら、わからなかったのであります。島津氏の方にも機をて琉球の両属を止めようと図った人もいたと見えて、十九代の君主、光久の如きは正保三年には明国が政を失して戦乱がむ事のないのを聞いて、この際意を決して沖縄を処分せん事を幕府にはかった事がありました。また明暦元年には愛親覚羅あいしんかくら氏が支那一統の余威を以てあらたに使節を沖縄に派遣するという噂を聞いて、沖縄をして清国との関係を開く事の無いようにさせてもらいたいと幕府に願うた事もありました。もしこの時島津氏の建議が採用されていたら、沖縄は二百年前に支那との関係をっていたのでありましょう。しかしながら徳川氏の平和政策はこの新興の強国と国釁こくきんを開く事を恐れて、断然たる措置に出ずる事が出来なかったのであります。沖縄は依然として清朝の冊封を受けてその正朔せいさくを奉ずるようになりました。ここで諸君は日清戦争の頃まで清国を慕うていた所の久米村人が、この時どんな態度を取っていたかという事を問われるでありましょう。『王代記』というちょっとした本によれば、彼らは寛文の頃まで大明の衣冠をつけていたが、寛文三年清国の使が琉球に来た時、断然片髪かたかしらを結んで国俗にしたがったということであります。(この事は正史『球陽』にも出ている。)彼らは実にその母国、朱明の滅亡を嘆きつつあったのでございます。以上御話申上げたことで、日支両国間に於ける沖縄の位置はおわかりになったろうと思います。これから本論に這入はいって向象賢や蔡温や宜湾朝保がこの間に処していかに考えまたはたらいたかということをお話いたそうと存じます。
 明国の滅亡後暫らくの間、島津氏が琉球の処置に困っていたことは前に申述べた通りであるが、琉球自身はなおさら自身の処置に窮していたのでございます。当時具志川ぐしかわ王子尚亨しょうきょうという賢相があって政治をっていましたが、よほどの道徳家で時の人はこれを聖人と称えていました。ある時罪人が死刑の宣告を受けたところで、尚亨聖人もこのことを知っておられるかと問うた。聖人はとうに知っておられるとの答えを聞いて、罪人は安心して刑に触れたということがあります。尚亨はこの通り偉い人でありましたが、当時の琉球をどう処置してよいやらわからなかったのであります。ある時小さい男のが乳母に抱かれて「京太郎ちょんだらー」の舞を見ていたが、尚亨がつくづくとこの児の瞳をていうには、私は未だかつてこんな器量の優れた児を見たことがない、後日私に継いで政柄せいへいを執り、琉球にかねたがをはめるのはこの児であろうといったとの伝承がございますが、この寧馨児ねいけいじこそは他日薩州と琉球とを融和させた所の羽地按司はねじあんじ向象賢であります。この話は決して通常の作り話としてきき流してはなりませぬ。この中には尚亨がいたく沖縄の将来を気遣って誰ぞ自分より偉い政治家が出でて時勢を解釈してくれればよいがと願った心がく現われています。向象賢は果して沖縄に金の箍をはめました。れは国相となる三年前、即ち慶安三年、はじめて沖縄の正史『中山世鑑ちゅうざんせいかん』を編纂して自国の歴史を教え、国相となってから『仕置しおき』を出してその政見を述べました、『仕置』は実に後世為政者いせいしゃの金科玉条として遵守じゅんしゅする所のものであります。向象賢はその劈頭へきとう第一に、ず国相具志川按司の跡役に就いて大和に伺ったら、自分に仰付おおせつけられたということを書いています。今この書を通読して向象賢の真意のある所を見ると、しきりに「大和の御手内に成候而以後四五十年以来如何様御座候而国中致衰微候哉」と嘆じ、島津氏に征服されて後は、士族が自暴自棄になって、酒色にふけり、社会の秩序がいたく乱れたのをこぼしています。そうして彼れはこれを救うには経済上やその他の事に於て常に消極的の手段を用い、また薩州と琉球との間に精神上の連絡を付けることを、得策と思いました。諸君は言語の比較から日本人と琉球人とが同一の人種であるとの説を始めて称えた人を言語学者チェムバレン氏と聞いておられるかも知れぬが、これはチェムバレン氏ではなくて、が向象賢氏であると心得てもらいたいのであります。向象賢は例の『仕置』の中に、
窃惟者此国人之生初者、日本より為渡儀疑無御座候。然者末世之今に天地、山川、五形、五倫、鳥獣、草木之名に至る迄皆通達せり。雖然言葉の余相違者、遠国之上久敷通融為絶故也。五穀も人同時日本より為渡物なれば、云々
と書いてあります。当時沖縄人が薩摩に対して悪感情をっていた時に、向象賢は日琉人種同系論を唱えたのであります。これはとにかく二者の感情を融和したのでありましょう。向象賢はまた『仕置』の中に以後士族として学文がくもん、算勘、筆法、うたい、医道、庖丁、馬乗方、唐楽、筆道、茶道、立花りっかなどの中何か一つたしなんでいない者はどんなに身分のい者でも官吏には採用しないぞと書いています。謡や茶の湯や生花のような日本の芸術を奨励した所などはよほど面白い所であります。謡をうたい、花をいけ、茶を点じている間に、沖縄人は大和心やまとごころになってしまったのであります、これまでは薩州と琉球との関係は経済的、政治的でありましたが、ここに至って一歩進んで精神的となりました。彼れはまたある時三司官さんしかんに教書を示して、
右七箇年の間夜白よるひる尽精相勤候付国中之仕置しおき大方相調百姓至迄富貴に罷成候儀乍憚非独力哉と存候依之根気疲果候且復老衰〔難〕致勤仕時節到来候故断申候哀憐愍被思召赦免可被下候左候而幸に二三年も存命〔中略〕候はゞ本望不可過之存候縦拾年弐拾年相勤候人も僅此中之七箇年には不可勝候頃日内証方より右断之段申上候処先以被召留候〔通〕返事被下候此趣を以而宜敷様願存候以上
と申しました。実に自信の強い言い方であります。この『仕置』を読んで行くと、この献身的の政治家が七カ年の間に制度を改め政綱を張り農務を起し山林を開き島津氏の征伐後の財政を整理するに、人並ならぬ働きをなしたことがくわかります。(『仕置』参照。)そして、かれは残りの三カ年はもっぱら教化事業に力を致したのであります。『仕置』の結尾の所には、
右之仕置大方に候而御国元より国之下知未断之故国俗壊行候儀役人之曲事と被仰付候はゞ我々可及迷惑候間前以申出候若恨に可被存人は羽地合手に可成候少も一身惜不申候国中の恥辱には替間敷候如何様返答可承候
と書いてあります。千鈞せんきんの重みのある所です。彼れは実に尚亨が予言した通り、沖縄に金の箍をはめて延宝三年(西暦一六七五)にこの世を辞しました。而して他日この基礎の上に近代の沖縄を建設すべき蔡温はまだ母の胎内にも宿らなかった。蔡温は彼れの死後七年にして呱々ここの声を挙げました。
 すべて社会の事はその方針を定めるのがむつかしい、その方針さえ定まれば、格別間違ったことをしなければ、自ら時勢が導いてくれるのでございます。向象賢死後の沖縄はトントン拍子で向象賢が指定した方向へ進んだのでございます。向象賢の死後日本との交通はすこぶる頻繁となり、王子や貴族の年毎としごとに薩摩や江戸に出かけるのが多くなり、支那との往来も昔のように続けられて、親方おやかた官生かんしょうの支那に行くのも少くはなかった。そうして当時沖縄人が朝聘ちょうへい観風かんぷうする所の両国を見るに、一方は八代将軍幕府中興の時にして、他方は清の聖祖が兵乱を平げて文学を奨励するのときであった。なかんずく江戸及び北京の文運がまさに花を開こうとした頃には、自家もまた古今未曾有みぞうの黄金時代に到達していたのでございます。これやがて両国の文明が海南の小王国に於て相調和したのである。沖縄ではこの時ほど沢山の人物を出した例はありませぬ。沖縄で古今独歩の政治家と呼ばれる具志頭ぐしちゃん親方蔡温も、沖縄で儒学を盛にした名護親方程順則ていじゅんそくも、沖縄ではじめて劇詩を作った玉城親雲上たまぐすくぺーちゃん向受祐(朝薫)も、『苔の下』、『若草物語』、『万歳』、『貧家記ひんかき』などを物した平敷屋朝敏へしきやちょうびんも、仲島のよしや、恩納おんななべ等の女詩人も、この時代に輩出致しました。久米村の方にも無数の漢詩人が輩出致しました。恩納なべが、
波の声もとまれ、風の声もとまれ、首里天加那志しゅゆいてんぢゃなし、みおんきをがま。
と謳歌した時代は即ちこの時代であります。而して蔡温は実にこの時代を代表する所の偉大なる人物であります。彼れは島津氏の琉球征伐の時犠牲になった支那思想の権化若那じゃな親方※(「二点しんにょう+同」、第4水準2-89-85)ていどうの産地、久米村に呱々ここの声を挙げた者で、明の洪武年間支那思想をもたらして沖縄に帰化したいわゆる三十六姓中の門閥、宋の蔡襄さいじょうが子孫であります。政治的天才を有していたので、格外から抜擢されて三司官(大臣)になった者であります。彼れは向象賢とは別で、支那系統の人で、しかも若い時支那で学んだ人であるが、彼れの活眼なる、つとに沖縄の立場を洞察して、向象賢の政見を布衍ふえんしています。彼れの自叙伝を読んでみると、如何に彼れが活学問をしたかということがわかります。彼れは二十七歳の時に進貢存留チンコンツンルー役を仰付けられて福州に渡り、二十九歳の時に国へ帰ったのでありますが、その間にある隠者(多分陽明学者であったでしょう)に会って、心機一転をしたのであります。彼れは隠者から、「文章はどんなに上手に綴っても、書物はいくら沢山読んでも、それは芸人同様で学問とは違う、幸い君はまだ若いから、一生懸命に学問をしたら、一身のためは申すに及ばず、君のため国のためになる。四書五経やその外賢伝の書は、いずれも誠意治国の事を述べたのである。しかるに君は誠意治国の大主旨はそっちのけにして、道楽半分に書物を読み、文章を綴っている。これ畢竟ひっきょう身を忘れ、国を忘れる仕業で、芸人よりも遥に劣等だ……君がいくら書物を読んだといって、それは文字の糟粕そうはくめたまでで、その内の真味を味わったのではない云々」という言を聞いて、夢のめたように自覚したのであります。一度自覚して見ると、彼れの目に始めて影じたのは、その母国琉球のあわれなる境遇であったのであります。世に酔生夢死すいせいむしの同胞の真中に独り醒めている人ほど寂寥を感ずる者はありますまい。蔡温は旅寝の空に幾度か、かかる悲哀を感じたのでありましょう。彼はかかる時父母の国を救うべき責任を一層強く感じたのでありましょう。彼れは常にある問題(多分琉球を如何にして経営すべきという問題)を念頭に置いてあらゆる本を読み、あらゆる事物に対したのであるから、あらゆる知識はく消化されて、彼れの頭脳は多角的となったのである。また支那滞留中『一切経いっさいきょう』さえも読破したといっている。かかる種類の人は時勢の解釈者としては最もふさわしい人であります。私は彼れの自叙伝を読んで始めて三、四十年間の彼れの活動の偶然でないことがわかりました。諸君がもし彼れが書いた『独物語』や『教条』をひもとかれたら、その注意の永遠にわたり、その政策の適切なる、真に琉球第一の政治家としてまたある意味に於て、一個の外交家として民衆を誘導し、教訓し、沖縄群島の住民を可憐なる状態から救うたということがおわかりになりましょう。彼れは向象賢よりもヨリ大なる時勢の解釈者でありました。彼れは時勢の謳歌おうか者ではなくて、むしろ時勢の作為者でありました。向象賢は沖縄を経済的に救って、更に沖縄人の向うべき方針を暗示致しましたが、「人間実理実用之道有形無形共其秘旨」を授けられた蔡温は向象賢が造った余裕を利用して、沖縄人をしてただ租税を払って生きるという外に、更に人間としてなされなければならぬ事の沢山あるという事を教えました。彼れの『独物語』は向象賢の『仕置』にならって書いたものと思われるが、その中に自国の立場についての考えを露骨に言いあらわしています。
毎年御国元(薩摩)へ年貢米差上候儀御当国大分御損亡の様に相見得候得共畢竟御当国大分之御得に相成候次第誠以難尽筆紙訳有之候往古者御当国之儀政道も然々不相立農民も耕作方致油断物毎不自由何篇気儘之風俗段々悪敷剰世替(革命)之騒動も度々有之万民困窮之仕合言語道断に候処御国元之御下知に相随候以来風俗引直農民も耕作方我増入精国中物毎思儘に相達今更目出度御世に相成候儀畢竟御国元之御蔭を以件之仕合筆紙難尽御厚恩と可奉存候此段は御教条にも委細記置申候
 実にその通りであります。(「仲宗根の豊見親の苦衷」参照。)蔡温は島津氏の許す範囲内に於て、支那の制度文物を輸入して、三十六島の人民を教化し、理想的の国を建設するという考えを懐いておりました。彼れは実際この両大国の間に介在して出来るだけの事はなしたのでございます。しかしながら彼れが『独物語』中に、
往古之聖人も政道之儀は夜白入精候慎縦令は朽手縄にて馬を馳せ候儀同断と被申置候
といった通り、琉球政治家の苦心は一通りではなかったのであります。蔡温はまた『独物語』の中に、国家を上中下の三段に分ち、そのおのおのをまた上中下の三段に分ち、都合つごう国家に九段の別があるという事をいっております。そして下国の下段であっても、政治その宜しきを得たならば、それ相応に安堵あんど之治が出来る、といって暗に琉球のようなひどい処にもやりようによっては、理想国が実現せられるという事をほのめかしています。世界気の毒な政治家多しといえども、琉球の政治家ほど気の毒な政治家はいないだろうと存じます。戦々兢々せんせんきょうきょうとして薄氷を踏むがごとしという語は能く琉球政治家の心事を形容する事が出来ます。しかしながらひとり蔡温はその生涯中、少しも困ったという風な態度をあらわしたことはなかったのであります。この事は彼れの自叙伝を読んでもわかるだろうと思います。ここが蔡温の偉大なる所でございます。
 さて蔡温時代のように二個の思想が調和している時分には、一般民衆はややもすればおのおのその好む方に偏して、自国の日支両国に対する関係を正当に観ずる事が出来ないのであります。もしこれを自然に任せておいたならば、両大国の形勢が一変した暁には、琉球は再び慶長十四年の時のような悲境におちいる事があるのでございます。蔡温は早くもここに気がついて、『御教条』を発布して、琉球が日支両国に対する関係の軽重如何いかんを極めて叮嚀ていねいに教えましたが、その真意を解するものが至って少く士族の連中はいずれも四書五経ばかりを金科玉条として遵守じゅんしゅし、『御教条』は百姓の教科書であるといって軽蔑するようになりました。惜しみてもなお余りあることであります。(この『御教条』を見て薩州人も大に安心をしたとの話がある。)それから蔡温は『独物語』の中に、
国土之儀眼前之小計得はからえにては絶て安堵之治罷成不申積に候依之政道と申は必国土長久之御為に大計得はからえを第一に心掛相勤可申由聖人被教置候
といって行末の事まで考えていたのであります。実際彼れはゆくゆくは琉球は全く支那の手を離れて、日本に属するようになるだろうという事をほのめかしています。勿論もちろんこの事は記録にも何にも書いてありませぬが、蔡温が尚敬王に申上げた忠告として尚敬王以来口々に伝えられて今日に至ったのであります。それはこうである。
支那との事はそうむつかしくはありませぬ、よしむつかしい事がおこっても久米村人だけでとりなしが出来ます、しかし日本との事はそうは参りませぬ、他日一片の書状で国王の位を失わなければならぬ事があるとしましたら、それは日本の方から出るのでございましょう。
との事であります。これはある年のムシボシの時分、尚泰王が安里あさと氏に話されたとの事でありますが、安里氏が那覇尋常高等小学校の訓導富名腰ふなこし氏を通じて私に告げられたのであります。喜舎場朝賢きしゃばちょうけん氏の『琉球見聞録』参照。)それ故決して嘘でないという事を誓っておきます。蔡温はああいう泰平の時代に能くもこういう事を予期していたのであります。よしやこの話がないとしても『独物語』を熟読された方にはこういう事はとうに蔡温は考えていたろうという事を推察されましょう。蔡温は『独物語』や『教条』に為政者の執るべき方針を規定しておきましたが、なお平常の事務に関してもくわしく記載しておいて、その死後どんな人が三司官になっても、これを繙きさえすればどんな時でもまごつくことのないようにしたとのことです。そうでありますから琉球最後の政治家宜湾朝保ぎわんちょうほ氏は蔡温以後は四人の三司官がいるといわれたとのことです。実際三司官は三人しかいないが、死んだ蔡温がいつも三司官と一緒にいて、政治を執っているようなものだという意であるそうです。蔡温は実に好個の知己を得たといわなければなりません。そうして宜湾朝保の出現もまた偶然ではなかったのであります。星移り物変り、世は御維新となりました。即ち日本人は国民的統一をなすべき機運の到来を自覚するようになりました。この時にあたって沖縄人の心中に当然起らなければならぬ疑問は、自国の運命はどうなるであろうかという事であったに相違ありません。ところが沖縄人はこの大問題に就いて至って無頓着むとんちゃくであったのであります。前にも申上げた通りいわゆる琉球王国は慶長十四年以後は日本の一諸侯島津氏が殊更ことさらに名に於ては支那にれいせしめ実に於ては日本に属せしめてひそかに支那貿易を営むために存在させた機関に過ぎないのであるから、その存在の条件がなくなるや否や動揺を来すのは当然のことでございます。御維新になった結果琉球は最早もはや島津氏の機関でないようになって、当然日本帝国の一部たるべき性質の者となりましたので、とうとう琉球処分ということが起って参りました。沖縄人に取っては寝耳に水であったのでございます。これがやがて日本思想と支那思想との最後の大衝突である。かかる時に際し、人は往々にして大勢の推移を知らず、前後を同一の時代と観ずることがある。ここに於てか人と時勢と相副あいそわず、その間に扞格かんかくを来すのである。これ社会に保守党の起る所以ゆえんである。これ社会に擾乱じょうらんの避くべからざる所以である。宜湾朝保はこの間に立って時勢を解釈し、輿論よろんを無視して沖縄を今日のような位地に置いたのでございます。而して彼れは非常なる迫害を受け、明治九年憂を懐いて死にました。彼れは実に不幸なる政治家であります。しかしながら彼れは幕末の勝安房や朝鮮の李完用と並称せらるべき人物であります。
 つらつら琉球史の趨勢すうせいを見るに、向象賢や蔡温や宜湾朝保の案内するがままに、歩一歩安全なる世界の大勢という潮流に向って進んだのでございます。而して私共はこの大海のただ中の甲板上に立って、私共を出口まで引張って来た所の三人の恩人を顧みて、うたた感謝の念をさかんにせざるを得ないのであります。かつて向象賢や蔡温や宜湾朝保と共に窮屈千万なる天地に住んでいた所の沖縄人は、今や天空海濶かいかつな世界に住むようになりました。そうして政治的圧迫を取去られた所の沖縄人は三人者が言わんと欲して言うあたわざりし所を言い、さんと欲して為す能わざりし事を為し得るようになりました。しかしながら沖縄人がこういう所に到達するまでには幾多の艱難かんなんに遭遇したという事を知らなければなりません。この苦しい経験もまた沖縄発展の一要素になっているに相違ありませぬ。琉球処分は実に迷児を父母の膝下しっかに連れて帰ったようなものであります。ところがこの琉球民族という迷児は二千年の間、支那海中の島嶼とうしょ彷徨ほうこうしていたにかかわらず、アイヌや生蛮みたように、ピープルとして存在しないでネーションとして共生したのでございます。彼らは首里を中心として政治的生活を営みました。『万葉集』に比較すべき『おもろさうし』を遺しました。マラッカ海峡の辺まで出かけました。そうして彼らの北方の同胞がかつて為さなかった所の自国語で以て金石文を書くことさえなしました。彼らは実に物質的に、はた精神的に国家社会を形成すべき能量を有していたのでございます。
 さて、万象の進化は不滅なる恒力の効果たる一定の加速度を以てするのであります。琉球民族の進歩が独りどうしてこの加速度の理法にそむく事が出来ましょうか。前時代の制度、文物なくして何処に琉球がありましょうか。厳格なる意味に於ての琉球はアマミキヨ以来すべての人の考えやはたらきが積り積って出来たのであります。個体の享有きょうゆうする仕事即ち経験は有限なる個体の生存に残存し、生殖の連鎖によって、関鍵する種族の全体に寓して恒久不滅の存在を有するものであります。これやがて遺伝の理法であります。加速度は段々増して来ました。過去に於ける如き抵抗は全く絶滅あるいは減退致しました。今日以後の沖縄人に向象賢や蔡温以上の仕事の出来るのは火をるよりもあきらかであります。しかしながら彼ら以上の人物たらんとするには、彼らが遭遇した以上の困難に遭遇せなければならないかも知れません。私共は私共にかくの如き遺伝を与えてくれた祖先を尊敬しなければなりません。これやがて自己を尊敬する所以であります。私は断言します。沖縄人は過去に於てあれだけの仕事位はなしたから、他府県の同胞と共に二十世紀の活舞台に立つことが出来るのであります。アイヌを御覧なさい。彼らは、吾々沖縄人よりもよほど以前から日本国民の仲間入りをしています。しかしながら諸君、彼らの現状はどうでありましょう、やはりピープルとして存在しているではありませんか。あいかわらず、熊と角力すもうを取っているではありませんか。彼らは一個の向象賢も一個の蔡温も有していなかったのであります。周廻百里位の小天地にいたからといって、蔡温の如き政治家を内地の一地方の家老位に比較するのは誤りであります。琉球政治家の活動の範囲は北京から江戸の間にひろがっていたのであります。しかも年百年中、大変な難問題にのみ出会しゅっかいしつつあったのであります。私は蔡温の如きは明治以前の各藩のどの政治家よりも遥かに活動していたと信じます。もし彼れを検束していた運命の縄をゆるめたならば、彼れは思う存分に活動して支那海の一隅に一種のユートピヤを出現せしめたに相違ありません。とにかく彼は沖縄には、もったいない位な大政治家でありました。私は諸君がおもむろに琉球政治家の苦心の跡を追想せられんことを希望いたします。
(明治四十年八月一日、沖縄教育会にての演説、『沖縄新聞』所載・昭和十七年七月改稿)

近代琉球の代表的政治家、向象賢・蔡温・宜湾朝保の三氏は、大正天皇御即位の大典に贈位の恩典に預ったが、この時私は、沖縄師範学校の偉人研究会で、「三偉人と其背景」という講演をなすの光栄をになった。これは「琉球史の趨勢」を訂正増補したもので、真境名安興まじきなあんこう君との共著『琉球の五偉人』中(一頁―一七五頁)に収めてあるから、参照して頂きたい。





底本:「古琉球」岩波文庫、岩波書店
   2000(平成12)年12月15日第1刷発行
   2015(平成27)年2月5日第8刷発行
底本の親本:「古琉球」青磁社
   1942(昭和17)年10月20日初版発行
初出:「沖縄教育会にての演説」
   1907(明治40)年8月1日
※〔 〕内の注記は、校訂者外間守善氏による加筆です。
入力:砂場清隆
校正:かたこ
2020年7月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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