進化論より見たる沖縄の廃藩置県

伊波普猷




 沖縄在来の豚は小さいが、この頃舶来したバークシャーは大きい。しかし二者は至って縁の近い方で、その共同の祖先はもと南支那にいたということである。同一の祖先から出た豚でも、甲乙と相隔あいへだたった所にもって行くと、地味や気候の関係で、それから生れるの間に多少の相違が出来、なお五代十代と時のつにつれて変化するが、それに人間の力が加わると、その変化がもっとはなはだしくなる。さて範囲の広い英国では多くある豚の中から、理想的のものを選び出して、これを繁殖の目的に用い、その生んだ仔の中から更に理想的のものを選び出して繁殖させたので、豚が次第次第に改良されて今日吾々われわれが見るような大きなバークシャーとなったが、範囲の狭い沖縄では飼養法が悪い上その繁殖方をただ老いぼれた種豚あっちゃーわーに一任しておいたので、何時いつまで経っても改良されないで今日に至ったのである。(味はバークシャーよりも在来種がずっとよく、改良されてかえって味がまずくなっているが。)沖縄でその他の動物の比較的矮小わいしょうな理由原因もまたここにあると思う。しからば沖縄人の体格はどんなものであろう。他府県人に対して遜色があるかどうかは知らないが、人種学上沖縄人の身長の平均数は他府県人のそれよりも少し低いということになっている。鳥居龍蔵氏の調査によれば日本の男子の身長の平均数は一米五九で、琉球の男子の身長の平均数は一米五八であるということである。その理由原因は決して一通りに限った訳ではなく、種々の事情があって、そうなったのであろうが、久しく絶海の孤島に住居していて、余り他の血液を混じなかったことや、島内でも盛に血族結婚が行われたことや、その他制度の上から来た習慣などのためにそうなったのであろう。(沖縄の中でも古来他人種が余計に入り込んだ那覇や、雌雄淘汰が盛んに行われた首里の城下には立派な体格の人が多い。)ところが明治十二年の廃藩置県は退化の途を辿たどっていた沖縄人を再び進化の途に向わしめた。すなわちこの時以来内地人はどしどし沖縄に這入はいって来る、沖縄人はぞろぞろ内地へ出て行く、士族は田舎へ下って行く、田舎人は都会に集って来る、といったように、沖縄がかきまぜられた。そうすると、自然と雑婚が始まり、雌雄淘汰が行われる、段々と理想的体格の子が生れるのは当然のことである。実に旧制度の破壊と共に、永い間の圧迫が取去られたので、今まで縮んでいた沖縄人は延び始めたのである。三十年前に比べると沖縄人の身長の平均数は確かに増しているに相違ない。生物学者の実験によれば、一個の単細胞が分裂して幾千かの細胞が増殖すると、次第にその形も小さくなり、その勢力も弱くなり、はじめには活溌に運動していた所のものが、漸々ぜんぜん不活溌となり、なおそのままにちゃっておけば、周囲には充分の食物があるとしても、ついには多く分裂したものが全く死滅してしまう。ところがかく微弱となったものでも、もしその時他の細胞より分裂しきたったものに合わすことが出来れば、彼ら双方のものはただちに接合して、双方に於ける組織成分を交換し、再び分れて旧に復し、そのおのおのが活溌に運動し、はじめの如くまたさかんに分裂増殖の作用を営むことが出来るということである。そうして原始細胞は一定の度までは、自発的に生殖の力を有することが出来るが、それより以上は必ず他種異性のものと合しなければ、生殖の作用を営むことが出来ぬ。そしてもし他種のものと合すれば、ここにその生殖の能力を得て、く子孫を造ることが出来、単細胞のものにあっては、これによって一定の時期の間、その作用を持続する。一定の時期を経過して、一定の子孫が生ずれば、再びその勢力は枯涸して、また他種のものと合する必要が起るのであるが、多細胞のものにあっては、絶えず他種のものと合することを要する。とにかく他種のものと合するということが、勢力の微弱なる細胞に取って、その勢力を恢復かいふくせしむる原因となるのである。(松本〔文三郎〕博士著『宗教と哲学』。)これに由ってこれれば、明治十二年の廃藩置県は、微弱となっていた沖縄人を改造するの好時期であったのである。思想上に於てもまた同じ現象が見られる。数百年来朱子学に中毒していた沖縄人は、急に多くの思想に接した。即ちきた仏教に接し、陽明学に接し、基督キリスト教に接し、自然主義に接し、その他幾多の新思想に接した。これはまた賀すべき現象ではあるまいか。かく多くの思想に接して、今後の沖縄が今までに見ることの出来なかった個人を産出すべきは、わかりきったことである。今日となって考えて見ると、旧琉球王国はたしかに、営養不良であった。して見ると、半死の琉球王国が破壊されて、琉球民族が蘇生したのは、むしろ喜ぶべきことである。我々はこの点に於て廃藩置県を歓迎し、明治政府を謳歌おうかする。とにかく廃藩置県は琉球社会発達史上の一大時期である。自分は今この時期以前の沖縄の社会を生物学上の事実と比較して説明してみよう。海岸へ行って、岩、石、棒、杭などの表面を見ると、フジツボという貝のようなものが一面に附着している、この動物は解剖上発生上からいえば、確かにえびかにと同じく甲殻類に属するが、蝦や蟹が活溌に運動してえさを探し廻る中に交って、此奴こいつだけは岩などに固着して、一生涯働くこともなく、餌の口に這入はいるのを待っている。足もなければ眼もない。外から見ると一枚の貝殻を被ったようであるから、蝦や蟹の如く足や眼があって巧に運動するものに比較して、通例フジツボを退化したものと見做みなすが、その境遇に於ける生存に適するという点では、決して蝦や蟹に劣るものではない。海岸の岩石の表面に無数に生活しているのは、やがて其処そこの生活に適している証拠である。此奴らはとにかく丈夫に固着している故、浪が烈しく岩に打当てても離れるおそれがなく、随って岩に打付けられるような恐れもない。此奴足もない、眼もないものではあるが、蝦や蟹が如何いかに運動感覚の器官が発達していても、この場所ではこれと競争は出来ぬ。(丘〔浅次郎〕博士『進化論講話』中の例。)これは実に過去の琉球を説明するに相応ふさわしい例である。明治十二年前の沖縄人は、あたかもこのフジツボのようなものであった。(今なおそうであるかも知れぬ。)実に沖縄人は慶長十四年島津氏に征服されて以来、この政治的圧迫の強い処で、安全に生存するために、その天稟てんぴんの性質を失って、意気地ない者と成りおわったのである。活気の少い朱子学が盛に行われて、諸子百家の書や活気ある宗教が禁ぜられたのは、もっぱら沖縄人の生存上の必要からであった。此処ここではグズグズしてはいけないということは、やがて自滅をすすめることになる。世界の中で如何いかに強い武士もこの場では扇子一本を持った沖縄人と競争は出来ぬ。このフジツボ的社会組織は、こういう境遇には最も適当なるものであった。現今沖縄人が沖縄群島に五十万というほど盛に生活しているのは、即ち其処そこの生活に適していた証拠である。風波の荒い所では、誰が何と言っても、無言で現地位にかじりつくに限る。(沖縄群島のような風の強い所には高く高く天にまで舞い昇るような雲雀は一匹も※(「皐+栩のつくり」の「白」に代えて「自」、第3水準1-90-35)こうしょうしていない。)仮りに沖縄人に扇子の代りに日本刀を与え、朱子学の代りに陽明学を教えたとしたら、どうであったろう。幾多の大塩中斎が輩出して、琉球政府の役人はしばしば腰を抜かしたに相違ない。そして廃藩置県も風変りな結末を告げたに相違ない。世の中では通例優った者が勝ち、劣った者が敗れるというが、優勝劣敗といって我々が優者と見做す者が何時いつも必ず勝ち、劣者と見做す者が敗れるとも限らぬ。ただその場合に於て生存に適する者が生存する。それはとにかく廃藩置県で、政治的圧迫は取去られたが、沖縄人は浪が打当てなくなった岸上のフジツボのように困った。そして三十年も経って足がえ眼がいても、なお不自由を感ぜざるを得ない。思うにこういう三百年間の圧迫に馴れた人民には意思の教育が何よりも必要であろう。意志教育なるかな。これまた沖縄教育家の研究に値すべき大問題である。
(明治四十二年十二月十二日稿『沖縄新聞』所載・昭和十七年七月改稿)





底本:「古琉球」岩波文庫、岩波書店
   2000(平成12)年12月15日第1刷発行
   2015(平成27)年2月5日第8刷発行
底本の親本:「古琉球」青磁社
   1942(昭和17)年10月20日初版発行
初出:「沖縄新聞」
   1909(明治42)年12月12日
※〔 〕内の注記は、校訂者外間守善氏による加筆です。
入力:砂場清隆
校正:かたこ
2021年3月27日作成
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