雪解水

今井邦子




  何をくよくよ川ばた柳、水の流れを見てくらす
 此俗謠は誰の作で、いつの頃から市井の唄となつて流行しだしたかはまだ調べてみないが、よほどの苦勞人の作であらう。ここで歌はれてゐる水の流れといふのは人生の象徴にもなつてゐるので、そこで一種洒脱の人生觀をもうたひ得てゐるのであらう。
 水の流れに就て方丈記の作者ならずとも、私などでさへ見ても見ても飽ない大きい魅力を藏してゐる。河は春夏秋冬、それぞれの趣あつておもしろく無限に私の心に觸れ來るのである。
 先年私は用事があつて信州伊那を訪ひ、そのついでに彼の地の人々のすゝめに誘はれて天龍峽に遊んだのであつた。
「信濃の春はおそけれど……」と歌にうたはれてゐる、そのおそい信濃の春さへもやや過ぎがたの四月のほんたうに末の頃であつた。山の落葉松が薄く緑にかすんで、その下に短く早蕨が萠えはじめてゐた。私たちはその山道をあへぎ登つて、高い巖の上から名にきいてゐる天龍峽の深い水の流れを見おろしたのであつた。その時私は蒼々とした、むしろ蒼黒く見える水の流れを想像してゐたのである。然し私が見おろしたその深い大いなる河の水は、白濁りに濁つて渦まき流れに流れてゆく……私は思はず
「まあ、この白く濁つた大水は……」
と聲をあげたのである。伊那の友達は笑ひながら、今は丁度深山の雪解季であるから、その雪解水が天龍川に流れ合して、その山の土の質などを溶かして押し流してくる處から、こんなに水が白く濁つてゐるのだといふ説明をしてくれた。之を聞いてゐるうちに私の心には深山のその凝つてゐた白雪が解けて滔々と流れ出づる時季といふものを感じて、さうした溪間に萠え上つてくる春草の匂ひさへ感じられる樣な、たとへやうのない幽遠な氣持に誘はれていつた。さうして晴天の下に白い濁りをもつて逆卷き流れゆく水の勢をあく事もなく眺め眺めた。向ふの岸の岩間には山吹の花がしなやかな枝ごと風に吹きゆすられてゐる、自分の立つてゐる巖の近い處には大木の朴の木が雄大な花を咲かせてその高いかほりが時折に身に迫つてくる……。私は全く不思議な位ものも言はずに此風景の前に聲をのんで、二時間あまり水を見て時をすごしたのであつた。
 雪解の水については、正岡子規が平家物語のなかの宇治川のくだりを詠んだ歌に
ぬばたまの黒毛の駒の太腹に雲解の波のさかまき來る
飛ぶ鳥の先きをあらそふもののふの鐙の袖に波ほとばしる
宇治川の早瀬よこぎるいけじきの馬の立髮浪こえにけり
などいふ傑作を私は常に愛誦してゐるのである。
 故平福百穗畫伯は、日本の海外に向つても誇るべき尊い畫伯であるが、同時に歌人であられた。畫伯は歌を決して畫の下において考へられなかつた。「歌を作つてゐると畫がかけない」とは折にふれてもらされた畫伯のお言葉であつたといふ。畫伯の生命を打ちこんで表現しようとするものは、畫となり又或時はお歌となつた、といふ事がうかゞはれる。畫伯は決して歌を餘技としてなさらなかつた。その畫伯が晩年に折にふれては「洪水の畫をかいてみたい」と洩らされた由である。御子息が「それでは雨期にでも大河ある地方を旅行して來たらいゝでせう」と言はれると畫伯は「いや、俺の畫かうと思つてゐるのは、そんな小さなものではない、滔々と何物をも流さずにおかない大氾濫を畫きたい」と語られたといふ。之はおそらくは畫伯の生涯を通じての大意圖ではなかつたらうか。畫伯がのこされた歌集「寒竹」をひらいて讀んでゆくと、明治四十年の條に「故園春雪」と題して五首の歌が選まれてあるが、そのなかの一首に
春河の雪解の出水平押しに溢れ漲ぎる國移るべく
の歌に出會ふのである。春河の雪解水ではあるけれど、その勢は平押しに溢れ漲つて國をも押し流してしまふ程の力をひそめてゐる、さうした大自然の威力にまで入感し、水の勢を見てをられるのである。明治四十年といへば畫伯三十一歳の時、その時すでに「洪水之圖」はその胸に氣脈となつてゐた事がわかる、してみれば之は畫伯が生涯を通じての大畫題であつたのであらう。それに終ひに筆を染められなかつたのは千秋の遺憾であるが、此一首によつて私たちはその規模の雄大なるに打たれざるを得ない。





底本:「信濃詩情」明日香書房
   1946(昭和21)年12月15日発行
入力:林 幸雄
校正:富田倫生
2012年5月7日作成
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