一
わたし達の勤めている臨海試験所のちょうど真向いに見える
水産試験所と灯台とでは管轄上では畑違いだが、仕事の上でおなじように海という共通点を持っているし、人里はなれたこの
いったい汐巻岬というのは、海中に
ところがちょうど三、四カ月ほど前から、はからずも当時あやうく
ところがこの灯台は逓信省灯台局直轄の三等灯台で、れッきとした看守人が二人おり、その家族や小使を合わせて目下六人もの人々が暮しているのだ。しかもその二人の看守の中の一人というのが、すこぶるしっかり者で、謹厳そのもののような老看守だ。
けれどもこの謹厳な老看守の声明を裏切って、汐巻灯台は、とうとう決定的な異変をひき起したのだ。
はじめ、正確に放たれていた十五秒ごとの閃光が、不意に不気味な不動光に変ったかと思うと、灰色のガスの中へなにか神秘的な光の尾を、そのままわずかに二秒ほども遠火のように漂わせて、それから急に、しかもハッキリと不吉な
さて――なんかといううちに、間もなく汐巻岬の突端にたどりついたわたし達は、光を失った三十メートルの巨大な白塔が、ガスの中からノッソリと見え始めたころ、不意に前方の
「……あ、皆様……」
と小男の小使は、わたし達を認めると、すぐに走り出て声をかけた。
「これはこれはよく来て下さいました」
すると三田村技手が、押しかぶせるように、
「故障で、無電がきかないんです。ちょうどこれから、試験所までお願いに上がろうと思っていたところです」
なにか妙にそわそわしたぎこちない二人の物腰からわたしは、なみなみならぬ事件が起きたのだな、と思った。わたし達と一緒に、引き返して歩きながら三田村技手が言った。
「じつは、当直の友田看守が、ひどいことになったです。それがとても妙なんで、ま、風間さんが詳しくお話しするでしょうが」
するとわたし達のうしろで、小使がふるえ声で突飛もないことをいった。
「とうとう、出ましただ」
「なに、出た?」
と東屋所長が聞きとがめた。すると小使は、自分の言葉を忌むように二、三度首を横にふりながら、
「……はい……ゆ、幽霊が、出ましただ……」
二
やがてわたし達は、コンクリートの門をくぐって明るい灯台の構内へ入った。向って右側に並んだ小さな三棟の官舎や左側の無電室には、明るい灯がともっているが、真ン中の海に面した灯台の頭は真っ暗闇だ。地上の灯の余映を受けて、闇の中へ
「あれは友田君の細君のあきさんです。ひどい心気
そう言って、風間老看守は、
わたしは今までにも数回この老看守には会っているのだが、こんなに彼が
「……ま、とにかく、現場を一度見てやって下さい」
そこで東屋所長とわたしと三田村技手の三人は、老看守の後につづいて、うす暗い階段室に入った。ところが塔内に入ってドアを締め終った老看守は今度は身をすりつけるようにして急に声をおとすと、訴えるように言った。
「……わたしは、生まれてはじめて、幽霊をみました……」
あのしっかり者で聞えた風間老人までが、うって変ってこのようなことを言うのに、わたしは思わず身の固くなるのを覚えた。
「……いや、初めからお話しましょう」
と風間老人は、わたし達の先に立って、暗い急な
「……わたしは今夜は非番でしたが、あの友田看守は、このごろ昼間無電のほうをチョイチョイ手伝いますので、つい疲れてときどき居眠りをするようですし、変な噂はたつし、それに、今夜はわたしの横着娘が少しばかり加減が悪いので、それやこれやで、どうも思うように熟睡出来ませんでしたが……それはちょうど、一時間ほど前のことです……まずわたしは、最初ゆめうつつの中で、突然屋根の上のほうでガラスの割れるような大きな音を聞いたのです。するとほとんどそれと同時に、おなじ方角で、なにかしら、機械でもこわれるようなはげしい金属的な音がいたしました。で、びっくりして飛び起きたわたしは、しばらく
老看守はここで一息ついた。なにかしら錯覚でもおこしそうなこの螺旋階段は、ひどくわたしの神経を疲れさす。わたし達の後から登って来た三田村技手が、このとき口を入れた。
「全くそのとおりです。わたしも風間さんとおなじように気味の悪い音を聞きました。そしてこの下の入口のところへ来たときに、この塔の頂上のほうから、低いながらも身の毛のよだつような
「幽霊の声?」
東屋氏が真剣に聞きとがめた。
「ええ幽霊の声ですとも。あれが人間の声であるものですか!……それは、笑うようでもあれば、泣くようでもあり……そうそう、まるで
「渡り鳥の中にも、あれに似た声を出すのがあったが」
と老看守だ。
「いや、似ていますが、あれとはまた全然違います。むしろさかり時の猫の声のほうが、余程似ています」
「ああそうそう、そうだったな」
と風間看守が引き取って言った。「……そこでわたしは、とりあえず三田村君に無電の方を頼んで、蝋燭の火をたよりにこの階段を登ったのです。そしてこの頂上のランプ室兼当直室で、とうとう、恐ろしいものを……」
「幽霊かね?」
と東屋所長が言った。
「そうです……あいつは、ランプ室の周囲の大事な
ちょうどこのとき、三田村技手が、目の前の階段を指さしながら、大きな叫びを上げた。見れば、うす暗い蝋燭の火に照らし出されて、階段の
円筒形にランプ室の周囲を取り巻いた大きなガラス窓の、暗黒の外海に面したほうには、大きな穴があき、
けれども何にもまして無惨で思わずわたし達の眼をそむけさしたのは、破壊された旋回機のかたわらに、口から血を吐き、両の眼玉をとび出さして、へなへなとつくねたように横たわっている友田看守の死体だった。そしてなんとその腹の上には、ひどく湿りをおびた巨大な
「……これやアひどい……ずいぶん大きな石ですね」
東屋氏が口を切った。
「さあ、四、五十貫はありますね」と三田村技手が言った。
「こいつア大の男が二人かかっても、この塔の上まではちょっと運べませんね……まして、外の海のほうから、三十メートルの高さのこのガラス窓を破って投げ込むなんて、正に
「で、あなたの見た幽霊というのは?」
と東屋氏が、風間老看守のほうへ向き直った。すると老看守は引ッつるように顔を
「……先ほど申しましたように、わたしはこの
「蛸?」
と東屋所長が首をかしげた。
「蛸なら吸盤があるから、ここまで登って来るかもしれないね」
とわたしは冗談らしく言った。すると東屋氏は、
「いや、この近海のように寒流の影響のある海には、二、三メートルからの巨大なミズタコというやつはいるが……けれども、そんな赤いものではない」
そう言って、しきりに首をひねり始めた。
見ればリノリウムを敷き詰めた
三
「……わからん」
ややあって、東屋氏が投げ出すように言った。
「さっぱりわからん……けれども、これだけのことはわかるね」と腕組みを解きながら、「とにかくわたし達試験所の当直の報告や、あなた方のお話を
「わたしは、こんな目に出合ったのは、生まれて初めてだ!」
風間老看守が吐き出すように言った。すると東屋所長が老看守に向って、
「とにかくあなたは、この惨劇をみつけてから、どうされたんです」
「わたしはびっくりして、下へ降りて行き途中で、登って来る三田村君に
「無電が通じなかったからです」
三田村技手が言った。すると風間老人が、
「むこうの鉄柱からこの玻璃窓の前の手すりへはったアンテナが、大石のために切れてしまったからです……で、それから、わたしは小使を起そうと思って下へ、三田村君は現場へと、すぐに別れました。でも、とにかくなんとかしなければなりませんので、しばらく迷ったあげく、三田村君と小使に、とりあえず試験所へご後援を願いに向わせたんです」
「いやそうですか。一向お役にも立ちませんが」と東屋氏が、われに帰ったように言った。「じゃあとにかく、こうしてもいられませんから……そうだ、風間さん、あなたは、現場の証拠品に手をつけないようにして、早速予備灯の支度をなさってはいかがですか。海は、真っ暗ですよ。……それから三田村さんは、アンテナを修繕して、少しも早く通信を始めて下さい。わたし達もお手伝いしましょう」
そこで二人はしばらく戸惑うようにしていたが、やがて波の音にせき立てられるように、そわそわと降りて行った。そしてわたし達は、それぞれにはげしい興奮を押えながら、あらためて取り散らされた室内を
ところがここで、はからずもわたしは重大な発見をした。それは一丁のなまくらな
この発見で顔色を変えた東屋氏は、早速かがみ込んで、あらためてしげしげと友田看守の死体を眺め始めた。が、間もなく死人の頭の右耳の上に、この手斧でなぐりつけたらしい新しい致命傷をみつけて立ち上った。
「これアきみ、傷口の血のかたまり工合から見ても、この傷のほうが、先に加えられたほんとうの致命傷らしいね……すると、あの石の飛び込んだときには、もう友田看守は死んでいたんだ……だが、そうすると、あの石の飛び込んだ音の後から聞いたという
「じゃあやっぱりあれも、幽霊の
とわたしは思わず声を出した。
けれども東屋氏は、それには答えないでしきりに苦吟しつづけていたが、やがて語調をあらためて言った。
「ねえきみ……ぼくはまず、なんと言っても、この奇怪な暴れ石の出所のほうが先決問題だと思うよ……ね、この
というわけで、やがてわたし達は、灯台の根元の波打ち際へ降り立った。
そこでは、闇の外洋から吹き寄せる身を切るような風が、
ところがはからずもわたしは、おなじ岩の上で、わたしの足元から、岩の裂け目をクネクネと伝わって、一本の太い綱が、波打ち際から海の中へ
「妙なものですね」
とわれながら妙な声を出した。すると今までずッとわたしの奇妙な収穫物をみつめていた東屋氏は、
「……こいつア面白くなってきた。ねきみ、これが考えられずにいられるものか!」
そう言ってわたしからその綱を取り上げると、
「何に使ったものか、聞いてみよう」
と歩きだした。
構内へ戻ると、ちょうど倉庫の前で三田村技手が、針金の束を引っ張り出してしきりになにかやっている。東屋氏は早速始めた。
「この綱は灯台のでしょう?」
「そうです。倉庫にいくらも入れてあるやつです。おや、こんな紐のついたのは……はて、どこから拾ってこられたんですか?」
けれども東屋氏は答えようともしないで、しきりに
「この灯台の高さは、ランプ室の
三田村技手は、手もとの巻尺ではかり始めた。
「……綱も紐も、両方とも二十六メートルずつあります」
「なに二十六メートル?……待アてよ?」
とまたしばらく
「ね、三田村さん。あの回転ランプの
「さあ、一トンはあるでしょう」
「一トン……一トンというと二百六十六貫強ですね。じゃああのランプをグルグル廻しながら、三十六メートルの円筒内を下って来る、あの原動力の
「そうですね、八十貫は充分ありましょう……大きな
「なるほど、最近捲き上げたのはいつですか?」
「昨日の午後です」
「じゃあ今夜は、分銅はまだ塔の上のほうにあったわけですね?」
「そうです」
「いやどうも有難う。あ、それから、この無電室でちょっと一服やらしてもらいますよ」
そう言って東屋氏は、わたしを引っ張って無電室へ入ると、ドアをしめて、
「さあきみ、少しずつわかって来たぞ。まずはぼくの組み立てた仮説を聞いてくれたまえ」
四
東屋氏はそばの
「まず、化け物にせよ人間にせよ、とにかくあの不敵な
「ああつまり
とわたしは思わず口を入れた。
「百貫近いその分銅のすさまじい重力を利用して、大石を暴れ込ましたというんですね。だが、そうすると、玻璃窓や機械のこわれる音とほとんど同時に、分銅の地響きがしなければなりませんが」
「もちろんその点も考えたよ」と東屋氏もつづける。「ところがきみ、ほら、綱は分銅の落ちる三十メートルの円筒の深さよりも、故意か偶然か、四メートルも短いじゃないか。だからつまり、あの地響きは、――海上から化け物が投げ込んだ暴れ石に、旋回機が砕かれたときに傷ついたロープが、そのあとだんだん痛んでいって、ついに切れて自然に分銅が落ちて地響きがした――などというのではなくて、友田看守を殺し、あのランプ室の破壊をぼくがいま言ったような方法で行った怪人物が、一端を分銅の
「なるほど」
わたしは
「一方その怪人物は、解けた綱を手繰り上げると、友田看守の腹の上に坐った
「なるほど、素晴しい」
わたしは思わず嘆声を上げた。「それならどんな力のない男でも、少し動きさえすれば楽にやれますね。じゃ一体、それは幽霊の
「さあ、それが問題だよ」と東屋所長は立ち上りながら言った。
「暴れ石のからくりもこうわかってみれば、たしかに人間の仕業としか思われないこまかさがある。けれども一方、あの謹厳な正直者の風間看守は、たしかに怪異の姿を見たと言うし、ランプ室の床に四散していた汚水といい、妙な唸り声や、鳴き声といい……ああとにかく、もう一度塔の上へ登ってみよう」
そこでわたし達は、ふたたび塔上のうす暗いランプ室へやって来た。けれどもそこには、三田村技手がいくつかの荷物を持って、わたし達よりも一足先に登って来ていた。そしてわたし達を見ると、これからアンテナの取付工事をするのだが、失礼ながらちょっと手伝っていただきたい、と申し出た。そこでわたしは、玻璃窓の外側の危な気なデッキに立って、なんのことはない、幾本かの針金の端を持って、即製の電気屋になった。
だいぶん風が出て来て、さしものふかいガスも少しずつ吹き散らされてきたようだが、そのかわり波が高くなって、わたし達の立っているデッキから三十メートル真下の岩鼻に、
「ずいぶん高いね」と東屋氏が言った。
「これだけのところを、綱につたわって降りるのは大変だ……」とそれから、突然元気な調子になって、そばに仕事をしていた三田村技手へ、急に妙なことを言い出した。
「すみませんが、ちょっとあなたのてのひらを見せて下さい」
――ああ東屋氏は、てのひらの
けれども、三田村技手のてのひらには胼胝は出来ていなかった。東屋氏は急にそわそわし始めると、テレ臭そうにわたしと三田村技手を塔上に残してそそくさと降りて行った。
アンテナ工事を手伝いながら見ていると、間もなく地上へ降り立った東屋氏は、ちょうど官舎のほうから出て来た風間老人へ、
「まだ予備灯の仕度は出来ませんか?」と言った。
「ええ、まだこれから、掃除をしなければなりませんから」
風間老人の声は、なぜか元気がない。
「すみませんが、ちょっとあなたのてのひらを見せて下さい」
と案の定切り出した。これは面白くなって来た、と思ったのも
アンテナ工事はなかなか困難だ。わたしの両手は折れそうに痛くなった。その上ここはひどく寒くて、
東屋氏は明らかにただならぬ興奮を押えつけているらしく、途切れ途切れに言った。
「……あの細君、自分の亭主の死体が、見られないはずはないって、小使に
「てのひらはどうでした?」わたしは待ちかねて尋ねた。
「なにてのひら……うん、小使にも細君にも、
「じゃあ、やっぱり妖怪の……」
「いや、まあ待ちたまえ……ぼくはそれから、そのお隣の風間さんの官舎へ、ちょっと失礼して上らしてもらったんだ、もちろん娘さんに
「大発見? じゃあ、寝ている娘のミドリさんのてのひらに胼胝でもあったんですか?」
「いいや、違う。それどころじゃあない」
「すると娘さんの身に、何か異変でも?」
「冗談じゃあないよ。ぼくはてんから娘さんなど見はしない。彼女は、どこの部屋にもいやしなかった」
「ミドリさんがいなかったですって」
三田村技手が聞きとがめた。すると東屋氏は、うす暗い
「うん、そのかわり、さっき老人がここで見たという……あの赤いグニャグニャの幽霊に出会ったよ!」
五
やがて東屋氏は、驚いているわたしを
「ところで三田村さん。あなたは事件のあった直後にここへ登って来られたとき、階段の途中で風間さんに逢われたのでしたね。風間さんは、何か手に持っていませんでしたか?」
「……そういえば、洋服の上着を脱いで、こう、右手に持っていられました」
「なるほど。有難う。じゃあもう一つ訊かせて下さい。あの娘さんは、
「ええと、多分、二十八です」
「品行はどうですか?」
「えッ、品行?……ええ、いや、なんでも、大変利口な、いい
「いや、ここだけの話ですから、遠慮なく聞かせて下さい」
「はア……以前は、よかったんですが……それが、その……」と三田村技手はひどく困ったふうで、
「……ちょうど去年の今ごろのことでしたが、当時風間さんの宅に、しばらく厄介になっていた
「ふむ、それで……」
「……それで、大変朗かな娘さんでしたが、それからはガラッと人間が変ったようになりました……そんなふうですから、自然と父親の風間さんからも、なにかにつけて、いつも白い眼で見られていたようです。……全く、考えてみれば、気の毒です……」
そう言って三田村技手は、思わず自分の軽口を悔むような、いやな顔をして両手を
「……ぼくは、あの暴れ石のからくりを
「いったいそれはだれです! 娘さんですか、それとも……」
「もちろんそれは、娘のミドリさんだよ」
とそれから東屋氏は、そばの椅子へしずかに腰を下ろし、
「……これは、どうも少し、
「じゃあ、いったい、あの恐ろしい化け物はどうなるんです」
わたしは思わず口を入れた。
「そんなものはなかったよ」
「だって、あなた自身」
「まあ待ちたまえ。話をぶちこわさないでくれたまえ……あの
「だってそうすると、この化け物の
「まあ聞きたまえ……ね、あのとき、蝋燭をともして恐怖にわななきながら、その階段を登って来た老看守は、このランプ室でいったいなにを見たと思う?……
わたしは思わずハッとした。
――ああそうか、そうだったのか! それでこそあの怪しげな呻き声も、のたうつような
ちょうどこのとき、わたしの快い夢を破って、しずかにドアのきしむ音が聞え、やがてうちしおれた老看守風間丈六が、