一
富士山の北麓、吉田町から南へ一里の裾野の山中に、誰れが建てたのか一軒のものさびた別荘風の館がある。その名を、
それは春も始めの珍しく晴渡った日の暮近い午後のことである。この辺りにはついぞ見かけぬ三人の若い男女が、赤外線写真のような裾野道をいくつかの荷物を
やがて浴室の煙突からは白い煙が立上り、薪を割る斧の音が
恰度美しい夕暮時で、わけても晴れた日のこの辺りは、西北に聳え立つ
まだ旅装も解かぬままにその上へ
急報によって吉田町から駈けつけた医師は、検屍の結果後頭部の打撲による脳震盪が死因であると鑑定し、警官達は早速証人の調査にとりかかった。
最初に訊問を受けた金剛蜻治は、自分達の先輩であり恩師にあたる
続いて亜太郎の妻不二は、金剛と同じように川口が東京を出た時からの憂鬱について語ったが、夫の事でありながら打明けてくれなかったのでその憂鬱の中味がどんなものであるか少しも判らない事、それでもこの家へ着くと始めて見るこの
別荘番の老人
四人の陳述は割合に素直で、一見亜太郎の死となんの関係もないように思われたが、先にも述べたように、絵筆を握ったまま倒れた亜太郎の傍らに描き残された妙な一枚の写生画が、その場に居合せた洋画趣味の医師の注意を少からず惹きつけたのだ。
さて、その問題の絵と云うのは、六号の風景カンバスに、直接描法の荒いタッチで描かれた富士山の写生画であるが、カンバスの中央に大きく薄紫の富士山が、上段の夕空を背景にクッキリと聳え立ち、下段に目前五、六十
「……ですからこの絵は、この室の窓から見えるべき絵ではないと同時に、明かにあちらの、南の室の窓からのみ見える絵なんです。ま、明日にでもなったら、試みに調べて御覧なさい」
二
医師の主張は、翌朝見事に確められた。
二階の南室の窓からは、成る程医師の云う通り、川口亜太郎の描き残した写生画と寸分違わぬ風景が明かに眺められた。中天に懸った富士の姿と云い、目前五、六十
もっとも亜太郎の倒れていた東室の窓からも、目前五、六十
もはや事態は明瞭である。警官はこの絵が描かれた時の亜太郎の所在に対して疑いを集中して行った。
死人に足が生える――このような言葉があるとすれば、まさにこの場合には適当で、南室で死んだ亜太郎が一人で東室まで歩いて来たなどと云うことがないかぎり、どうしてもこの場の事態をとりつくろうためには、まず誰れかが、南室で窓の外を写生していた亜太郎の後頭部を鈍器で殴りつけ、亜太郎の死を認めると、何かの目的で屍体を東室に移しかえ、描きかけていた絵の道具もそっくりそのまま東室へ運び込んで、いかにも亜太郎が東室で変死したかの如く装わした、としか考えられなくなる。すると亜太郎の屍体を運んだり、そのようないかがわしい装いを凝らしたのはいったい誰れか? と開き直る前に当然警官達の疑惑は、事件の当時ずっと南室にいたと云う亜太郎の妻不二の上へ落ちて行った。
不二は怪しい。
川口不二の陳述に嘘はないか?
亜太郎が南室で殺された時に、その妻の不二はいったい
そこで
ところが二度目の訊問に於ても、川口不二の陳述は最初のそれと少しも違わなかった。続いてなされた金剛蜻治も別荘番の戸田夫婦も、やはり同じように前回と変りはなかった。それどころか金剛と戸田安吉は、川口不二が事件の起きた当時、確かに南室を離れずに
司法主任はウンザリしたように、椅子に腰を下ろしながら不二へ云った。
「奥さん。もう一度伺いますが、あなたが南室で荷物の整理をしていられた時に、御主人は、あなたと同じ南室で、絵を描いていられなかったですか?」
「主人は南室などにいませんでした。そんな筈はありません」
「では、廊下へ通じる南室の
「開いていました」
「廊下に御主人はいませんでしたか?」
「いませんでした」
「御主人以外の誰れか」
「誰れもいません」
「ははア」
司法主任は割に落付きすました美しい不二の
苦り切って一行に従った金剛蜻治は、警察署のある町まで来ると、昨日東京を発った時に見送ってくれた別荘主の津田白亭に、まだ礼状の出してなかったことに気がついた。そこで郵便局へ
白亭からは、いつまで待っても電報の返事は来なかった。が、その代り、その日の暮近くになって、白亭自身、一人の紳士を連れて
やがて二人は司法室に出頭して、主任から詳細な事件の顛末を報告された。けれども話が亜太郎の描き残した疑問の絵のところまで来ると、
三
司法主任は
事件の報告は急転して、猛烈な、陰険な追求が始まった。が、白亭も流石に人物だ。あれこれと取り
「……どうかこのことは、死んだ者にとっても、生きている者にとっても、大変不名誉なことですから、是非とも此処だけの話にして置いて下さい。……川口と金剛とは、二人とも十年程前から私が世話をしていますので、私共と二人の家庭とは、大変親しくしていましたが、……これは最近、私の家内が、知ったのですが……川口の細君の不二さんと、金剛とは、どうも……どうも、ま、手ッ取早く云えば、面白くない関係にある、らしいんです。で大変私共も気を
「と
司法主任の声は緊張している。
「つまり……私が……」
白亭は一寸戸惑った。
すると主任がすかさずたたみかけた。
「いや、判りました……つまり、富士山は、不二さん、に通ず……なんですね」
「いいえ、そう云うわけでは」
「ああいや、よく判りました……こりゃ、すっかり考え直しだ」
そう云って司法主任は、椅子の中へそり反りながら、
「お蔭で、何もかも判り始めました。あの疑問の中心の妙な油絵も、こう判って見れば、まことに理路整然として来ますよ……そうだ、全く今になって考えてみれば、あの富士山の絵も、やはり南室で描かれたものではなく、最初の発見通り東室で、被害者の死際に描かれたものですね……あの東室の床の上の油の
司法主任は、相手にかまわず独りで満足している。こうして白亭の意外な陳述は、忽ち不二の立場を、真ッ暗な穴の中へ陥入れてしまった。屍体の運搬説は転じて奇妙な遺言説? となり、警察司法部は俄然色めき立って来た。
一方津田白亭は、自分の証言が意外な波紋を惹き起したのにすっかり狼狽してしまい、事態の収拾を大月弁護士に投げ出してしまった。
そこで大月は色々と策戦を練った上、容疑者の検挙に何等の物的証拠のないのを主要な武器として、今度は直接警察署長に向って猛烈な運動をしはじめた。
この折衝は翌日の
そしてその翌日、東京へ解剖に送られる亜太郎の屍体と一緒に、津田白亭と川口不二は葬儀、その他の準備のために私服警官付添の上で上京し、一方弁護士の大月対次は岳陰荘に踏み留まって、金剛蜻治を表面助手として、内心では「こいつも同じ穴の
亜太郎の残した奇怪な油絵については、大月はその絵をひと目見た瞬間から、司法主任の遺言説に深い疑惑を抱いていた。
もしも亜太郎が、その断末魔に臨んで、自分を殺した者が妻の不二であることを第三者に知らせるために、あのような富士山の絵を描き残した、と解釈するにしては、余りにもあの絵には余分な要素が多過ぎる。
例えば木立だとか、空だとか……そうだ。もしも亜太郎が、妻の名前を表わすために描いた絵であったなら、富士山ひとつで充分だ。あのようないくつかの余分な要素を、しかもあれだけ純然たる絵画の形式に纏め上げるだけの意力が、既に死期に臨んだ亜太郎にあったのならば、もっと直截に、文字で例えば「不二が殺した」とか、或は「犯人は不二だ」とか、まだまだいくらでも表わしようはある。いやなによりも、窓際に飛び出して、絶叫することすら出来る筈だ。――問題は、もっと別なところにあるに違いない。
二階の東南二室の間を、コツコツと
翌日は、別荘番の老夫婦を、改めてひそかに観察してみた。が、これとても何の得るところもなく終った。
大月の巧妙な束縛を受けて、鎖のない囚人のように岳陰荘にとどめられた金剛はと云えば、割に平気で、時々附近の林の中へ出掛けては、なにかと写生して来たりしていた。けれどもその絵を見ると、それはこの地方が地形上特に曇天の日の多いせいか、大体は金剛の画風にもよるであろうが、いやに陰気で、妙にじめじめした感情が画面に盛り上っているのだ。大月はその度に、画家と云うものの神経を疑いたくなった。
次の日の午後、来合わせた警官から、東京に於ける亜太郎の解剖の結果を聞かされた。けれどもそれは、先に挙げた平凡な後頭部の打撲による脳震盪が死因であると云う以外に、変ったニュースは
けれどもこの仕事はなかなか六ヶ敷かった。亜太郎の後頭部は、兇器に判然と附着するほど出血したのでもなければ、また兇器の何たるかを示す程の骨折をしたのでもない。この場合恐らくステッキでも棍棒でも、又花瓶でも木箱でも兇器となり得る。――大月弁護士は日暮時まで、二階の床をコツコツと鳴らし続けていた。
が、やがてどうしたことか急に階段を降りて来ると、別荘番の戸田を大声で呼びつけた。そして
「……妙だ……」
「……妙だ……」
と呟きはじめた。
が、やがて安吉老人がやって来ると、幾分
「おい君、変なことを訊くがね……二階の東室の窓から、三十
「はい」
と安吉老人は恐る恐る答えた。
すると、
「あの木立は、今日、
「そ、そんな馬鹿な筈はありません。第一、旦那様」と安吉は目を
「ふうム……妙だ」
「ど、どうかいたしましたか? 木でもなくなったんですか?」
「違う……いや確かに妙だ。……時に金剛さんは何処にいる?」
「只今、お風呂でございます」
「そうか」
大月はそのまま二階へ上ってしまった。
四
その翌日は珍しく上天気だった。
司法主任を先頭にして数名の警官達がこれでもう何度目かの兇器の捜査にやって来た。
大月にまでも援助を申出た彼等は、二階の洋服箪笥の隅から階下の台所の流しの下まで、所謂警察式捜査法でバタリピシャリと
が、今日は殆ど一日かかって、午後の四時頃、とうとう司法主任は歓声を上げた。それは、もういままでに何度も何度も手に取って見ていた筈の、事件の当時亜太郎の屍体の側に転がっていた細長い一個の絵具箱であった。
慧眼の司法主任は、ついにこの頑丈な木箱の金具のついた隅の方に、はしなくも一点の針で突いたような血痕を発見したのだ。
主任は、岳陰荘を引挙げながら、勝誇ったように大月へ云った。
「どうやらこれで物的証拠も出来上ったようですな」
弁護士は軽く笑って受け流した。
けれどもやがて一行が引挙げてしまうと、なに思ったのか大月はさっさと二階へ上っていった。そして東室の窓を開けると、手摺に腰掛けて、阿呆のように外の景色に
いつ見ても、晴れた日の樹海の景色は美しい。細かな、柔かな無数の起伏を広々と
裏庭の広場からは、薪を割る安吉老人の斧の音が、いつもながら冴え冴えと響きはじめ、やがて静かな宵闇が、あたりの木陰にひたひたと這い寄って来る。浴室の煙突からは、白い煙が立上り、薪割りをしながら
間もなく岳陰荘では、ささやかな食事がはじまった。が、大月弁護士はまだ二階から降りて来ない。心配したおとみ婆さんが、階段を登りはじめた。と、重い足音がして、大月が降りて来た。
けれどもやがて食卓についた彼の顔色を見て、おとみ婆さんは再び心配を始めた。
僅か一時間ばかりの間に、二階から降りて来た大月は、まるで人が変ったようになっていた。血色は優れず、両の眼玉は、あり得べからざるものの姿でも見た人のように、
大月は黙ってそそくさと食事を進めた。
食事が済むと、なに思ったのかステッキを
翌朝――
司法主任が元気でやって来た。
昨日の家宅捜査で見事に物的証拠を挙げた彼は、東京に於ける亜太郎の葬儀が済み次第、不二を検挙する旨を満足げに話した。けれども大月は一向浮かぬ顔をして、うわの空で聞いていたが、やがて主任の話が終ると、突然意外なことを云いだした。
「あなたはまだ、川口が殴り殺されたのだと思っていられますね」
「な、なんですって?……立派な証拠が」
「勿論、その証拠に狂いはないでしょう。川口の致命傷は、確かにあの絵具箱の隅でつけられたものに違いありますまい。けれども川口は、あの絵具箱で殴り殺されたのではないのですよ」
「と云うと?」
「独りで転んだ時に、絵具箱の隅に触れたんです」
「飛んでもない? 川口は立派な遺言を残して……」
「ありゃあそんな遺言じゃ有りません。もっと外に意味があります」
「と云うと?」
「それが非常に妙なことで、とにかくあの事件の起きた日の日没時に、この東室の窓に、実に意外な奴が現れたんです。そいつは、私達にとっても、確かに一驚に値する奴なんだが。特に川口にとってはいけなかったんです。で、
「一寸待って下さい。……あなたは
「判りました」と大月もいささかムキになった。「必ずお眼に掛けましょう。が、いま
「……」
司法主任は、くるりと後を振り向くと、足音も荒く、さっさと帰ってしまった。
五
さて、大月弁護士が、司法主任への約束を果したのは、それから二日目の、天気のよく晴れ渡った日暮時のことであった。
大月と司法主任は、東室の
司法主任は、相変らず御機嫌が悪い。
「まだですか?」
「ええ」
「まだ、出ないんですか?」
「ええ、もう少し待って下さい」
そこで司法主任は改めてお茶を飲みはじめた。が、暫くすると、一層焦立たしげに、
「いったい、その怪しげな奴とやらは、確かに出て来るんですか?」
「ええ、確かに出て来ますとも」
「いったい、そ奴は何者です?」
「いや、もう間もなく出て来ます。もう少し待って下さい」
「……」
司法主任は、不機嫌に外を向いてしまった。
空は美しい夕日に映えて、彼方の箱根山は、今日もまた薄霧の
裏庭の広場では、どうやら安吉老人が
と、不意に司法主任が立上った。右手にコーヒー茶碗を持ったまま、呻くように、
「こ、こりゃあ、どうしたことだ!」
「……」
「あんなところに……」司法主任の声は顫えている。「あんなところに……むウ、富士山が出て来た!……こ、こりゃあ妙だ?」
見ればいつのまにか、箱根山を包んだ薄霧の
「あなたは、こう云う影の現象を、いままでにご存じなかったのですか?」
大月が微笑みながら云った。
「いや私は、最近こちらへ転勤して来たばかりです!……ふうム、成る程。つまりこりゃあ、入日を受けて霧の上へ写った、富士山の影ですね」
「では、
「……」
司法主任は黙ってそちらを見た。
「……あれは、なかなか恰好のいい木立でして……」
「やややッ!」と主任は奇声を張りあげた。「むウ……色が変ってしまった!」
成る程、薄暗の中に一層暗くなっていなければならない筈の暗緑色の木立は、なんとした事か疑いもなく南室から見える木立と同じように、明かに白緑色を呈している。
「先晩、調べてみましたがね」大月が云った。「あれは
「成る程……判りました。いや、よく判りました。つまり川口は、あの時、この景色を描いていたんですね」
「そうです」
「じゃあ、それからどうなったんです?」
「……ねえ、主任さん」と大月が開き直った。「私達は始めての土地へ来ると、よく方位上の錯覚を起して、どちらが東か南か、うっかり判らなくなることがありますね。……当時の亜太郎も、きっとそれを経験したのです。で、東京を出る時に、見送りに来た白亭氏から、妙な注意をされて、なにも知らない川口氏は、なんのことかさっぱりわからず、持ち前の小心でいろいろと苦に病み、金剛氏等の云うようにすっかり
「成る程」
「けれども、勿論これは、入日のために箱根地方の霧に写った影富士ですから、当然間もなく消えてしまいます。そこで、ふとカンバスから視線を離した川口氏は、
「むウ、素晴しい。……つまり、やっぱり私が、最初から睨んでいた通り、不二さんは、富士山に、通ずる……ですな……ふム、確かにいい。実に、完全無欠だ!」
司法主任はすっかり満悦の
そこには、夕風に破られた狭霧の隙間を通して、恰度主任の小鼻のような箱根山が、薄暗の中にむッつり眠っているだけで、もう富士の姿は消えたのか、影も形も見えなかった。
(「ぷろふいる」昭和十一年一月号)