また雪の季節がやって来た。雪というと、すぐに私は、可哀そうな
その頃私は、ずっと北の国の或る町の――仮にH市と呼んでおこう――そのH市の県立女学校で、平凡な国語の教師を勤めていた。浅見三四郎というのは、同じ女学校の英語の教師で、その頃の私の一番親しい友人でもあった。
三四郎の実家は、東京にあった。かなり裕福な商家であったが、次男坊で肌合の変っていた三四郎は、W大学の英文科を
わけても微笑ましいのは、家庭に於ける三四郎だった。どんなに彼が、美しい妻と一粒種の子供を愛していたか、それは女生徒達の、弥次気分も通り越した尊敬と羨望に現わされていた。事実私は、どの教師でも必らずつけられているニックネームを、三四郎に関する限り耳にした事がなかった。それはまことに不思議なことでさえあった。
いまから思うと、すべての禍根は、こうした三四郎の円満な性格の中に、既に深く根を下していたのかも知れない。
当時H市の郊外で、三四郎の住居の一番近くに住っていたのは私だった。それで恐ろしい出来事の最初の報せを私が受けたのであるが、悪い時には仕方のないもので、恰度その頃、当の三四郎が暫く家を留守にしていた間のことであったので、不意を
その頃の三四郎の留守宅には、妻の
さて、十二月二十四日のその晩は、朝からどんより曇っていた鉛色の空が夕方になって崩れると、チラチラと白いものが降りはじめた。最初は降るともなく舞い下っていたその雪は、六時七時と追々に量を増してひとしきり激しく降りつのったが、八時になると
八時に遅がけの夕飯を済ました私は、もう女学校も休暇に入ったので、何処か南の方へ旅行に出掛ける仕度をしていた時だった。
三四郎が級主任をしている補習科A組の
私達が家を出ると、直ぐに市内の教会から、クリスマス
美木という生徒は、大柄な水々しい少女で、どこの女学校にもきまって二、三人はいる早熟組の一人だった。化粧することを心得、スカートの長さがいつも変って、ノートの隅に小さな字で詩人の名ばかり書き並べていようという。美木はまた、よく三四郎のところへ遊びに来ていた。「浅見先生に文学を教えて頂く」なぞと云いながら、三四郎の留守にも度々訪れたというのだから、その「文学」は三四郎でなく、及川にあったのかも知れない。いずれにしても美木は、その夜も三四郎の宅を訊ねて行ったという。けれども戸締りがしてないのに家の中に人の気配がないと、ふと不審を覚えていつもの軽い気持で玄関から奥へ通ずる
さて、私の家から三四郎の家までは、スキーで行けば十分とかからない。
三四郎の住居は、丸太材を適度に配したヒュッテ風の小粋な
玄関の隣りは、子供の部屋になっていた。壁には幼いクレオン画で、「陸軍大将」や「チューリップの兵隊さん」が、ピン付けになっていた。部屋の中程には小さな樅の木の鉢植えが据えられて、繁った枝葉の上には、金線のモールや色紙で造られた、花形や鎖が掛り、白い綿の雪がそれらの上に積っていた。それは三四郎が、臨時講師に出る前から可愛い春夫のために買い植えてやったクリスマス・ツリーであった。
しかしその部屋に入った私が、まっ先に気づいたものは、部屋の片隅の小机の前に延べられた、クリスマス・ツリーの小さな
けれども次の瞬間、私は、その部屋のもう一人の臨時の主人であった及川が、奥の居間へ通ずる開け放された
そこには、トタンを張った板枠の上に置かれたストーブへ、頭を押付けるようにして、三四郎の妻の比露子が倒れていた。髪の毛が焦げていてたまらない臭気が部屋の中に漂っていた。
私は、恐れと意外にガタガタ顫えながら暫く
及川も比露子もかなり烈しく抵抗したと見えて、ひどく取り乱した姿で倒れていた。二人とも額口から顔、腕、頸と、あらゆる露出個所に、何物かで乱打されたらしく紫色の夥しいみみず腫れが覗いていた。しかしすぐに兇器は眼についた。及川の足元に近く、ストーブの鉄の灰掻棒が、鈍いくの字型にひん曲って投出されていた。部屋の中も又、激しく散乱されていた。椅子は転び、
もしも私が、この場合まるで知らない人の家へ飛び込んで、そのような場面にぶつかったとしたなら、恐らくこんな細かに現場の有様に眼を通したりしてはいられなかったであろう。恐怖に
三四郎の家は、皆で四部屋に別れていた。そこで私は、おびえる心を無理にも引立てるようにしながら、すぐに残りの部屋を調べはじめたのだが、しかし家中探しても何処にも子供の姿は見えなかった。
ところが、そうしているうちに私はふとあることを思い起して、思わずハッと立止った。それはあの、惨劇の部屋の窓が、引戸を開けられたままでいたことだった。考えるまでもなくこれは確かに
窓の下の雪の上には、果して私の予期したものがみつかった。明らかにそこからスキーをつけたと思われる乱れた跡が、夜眼にもハッキリ残されていた。そしてその乱れた跡から二筋の
私は猶予なく、決心した。そして直ちに玄関口へ戻ると、そこから自分のスキーをつけて
雪の上に残されていたスキーの跡は、確かに二筋で、それは一人の人の滑った跡に違いなかった。踏み消さないようにしながら、生垣の隙間を越して、私は直ちにその跡を尾行しはじめた。
ところが、歩きはじめて間もなく、私は有力な手掛りを発見した。というのは、そのスキーの跡は、平地滑走でありながら、両杖を突いていない。
私の胸は高鳴りはじめた。予想が適中したのだ。つまりそのスキーの主は、左手には杖を突きながら、右手には杖を突くことが出来なかったのだ。その手は、杖の代りに何ものかを抱えていたに違いない。怪しい男に抱えられて、
疑問のスキーは、生垣を越して空地を通り抜け、静かな裏通りへ続いて行った。この辺りはH市の郊外でも新開の住宅地で、植込の多い人家はまばらに点在して、空地とも畑ともつかぬ雪の原が多かった。
この雪は、夕方から八時まで降った処女雪で、美しい雪の肌には他のスキーの跡は殆んどなく、時たま人家の前で新しいスキーの跡と交叉したり、犬の足跡がもつれたりしている以外には、疑問のスキーを邪魔するものはなかった。なにしろ、相手が相手である。私は戦慄に顫えながらも、益々注意深く、
疑問のスキーは、やがて裏通りを右手に折れて、広い雪の原へはいって行った。その空地の向うには、三四郎の家の前を通って市内へ通じている本通りがある。スキーの跡は市内の方へ向いてその空地を斜めに横切り、どうやら向うの本通りへ乗り換えるつもりらしい。この分では、途中で警官に応援を求めることが出来るかも知れない。私は急に元気づいて、かなり広いその原ッぱを、向うの通りへ斜めに向って走って行った。しかしその私の考えは、まるでトテツもない結果に終ってしまった。
最初私が、スキーの跡は本通りへ乗換えていると思い込んだのが、そもそもよくなかった。はじめそのつもりで斜めに雪の原を横切って行った私は、もうその原ッぱを半分以上も通り越したところで、ふと、いつの間にか疑問のスキーの跡を見失っていることに気がついた。びっくりした私は、あわててあたりを見廻した。が、雪の肌にはなんにもない。ただ私の通って来た跡だけが、少しずつ曲りくねりながら至極のんびりと残っているだけだ。
私は、自分で自分をどやしつけながら、あわてて廻れ右をした。あたりをせわしく見廻しながら、元の空地のはいり口へ向って、後もどりをはじめた。いくら戻っても、いくら見廻しても、しかし疑問のスキーの跡は、みつからない。こいつは妙だぞ、私は益々うろたえはじめた。
ところが、空地の入口の近くまで来て、やっと私は、仄白い雪の肌に、さっきのスキーの跡を再びみつけることが出来た。私はホッとして、今度こそは見失わぬように、ずっとその跡の近くまで寄添って、糸でも
というのは、原ッぱの真ン中近くまで来ると、どうしたことかその疑問のスキーの跡は、ひどく薄くなって、いや元々古い雪の上に積った新しい雪の上のその跡は、決して深くはなかったのだが、それよりも又浅くなって、なんと云うことだろう、進むにつれ、歩むにつれ、益々浅く薄く、驚く私を尻目にかけて、とうとう空地の真中頃まで来ると、まるでその上を滑っていたものが、そのままスウーッと夜空の上へ舞上ってしまったかのように、影がうすれ、遂にはすっかり消えてしまっているのだ。
その消え方たるや、これが又どう考えてもスキーの主に羽根が生えたか、それとも、あとから、その跡の上に雪が降って、跡を消してしまったか――それより他にとりようのない、奇怪にも鮮かな消えかただった。
私は、うろたえながらも、夢中になって考えた。しかし
しかし、ここで私は、いつまでもボンヤリ立竦んでいるわけにはいかない。
やがて私はそう決心すると、そのまま一直線に市内へ向って走り出した。一番近い交番へ飛び込んで、事件を知らせ、そこの若い警官と一緒に再び元来た道を引返しながらも、しかし私は、雪の原ッぱの消失ばかり気にしなければならなかった。
やがて私達が、ひとまず三四郎の家まで辿りついた時には、もう出来事を嗅ぎつけたらしい近くの家の人達が二、三人、スキーをつけて、警察へ報せに出ようとしているところだった。三四郎の家の前には、その人達に混って度を失った美木が、泣き出しそうな顔で立っていた。家の中には、美木に呼びにやらした田部井氏が、恐らく私と同じ事を考えたのであろう、ガタピシ
警官は家の中へはいって現場をみると、直ぐに私と田部井氏へ、本署から係官が出張されるまで、現場の部屋を犯さないよう申出た。そして三四郎の書斎に
美木も私も、すっかりとりのぼせてしまって、前に述べたような発見の径路や、この家の家族についての説明を、横から口を出したり後戻りしたりしながら、喋っていった。しかし田部井氏はかなり落ついていて、口数も少なかった。
やがて、数人の部下を連れた
私は三四郎に当てて電報を書くと、それを美木に持たせて郵便局へ走らせた。そして始めて落ついた気持で、田部井氏と差向いになった。
田部井氏は、さっき私が警官に色々と説明していた頃から、もう既に落ついてはいたが、その頃には益々落つきを増して、落ついているというよりも、なにかしきりに考え込んでしまった様子だった。いったい何を考え込んでしまったのだろう?
何か特別な考えの糸口でもみつけたのだろうか?
「田部井さん」私は思い切って声をかけた。
「いったいあなたは、どう云う風にお考えになりますか?」
「どう云う風に、と云いますと?」
田部井氏は顔を上げると、眼をぱちぱちさせた。
「つまりですね」私は向うの部屋のほうを見ながら、「あなたもご覧になれば判ると思いますが、ああいう惨酷なことをして子供を奪いとって逃げ出した男の足跡が、なんしろ、まるで空中へ舞い上ったように消えてしまってるんですからね。妙な出来事ですよ」
「そうですね。確かに妙ですよ。しかし妙だと云えば、この事件は、始めっから妙なことばかりですよ」
「ほう、それはまた……」
「あなたは、あの部屋に散らばっている玩具やお菓子を、始めから、つまりこんな出来事の起らない先から、あの部屋にあったものと思っていますか?」
「さあ、やはり前からあの部屋にあって、食べたり遊んだりしていたものでしょうな」
「私は、そうは思わないんですよ。少くとも食べかけたものなら、キャラメルなりチョコレートの、銀紙や蝋紙が捨ててある筈なんですが、さっき警官の来ない先に、探してみた時にはなにもなかったですよ。それに、あそこに転っている玩具は、みんな新しい品ばかりですし、第一長椅子の前に投げ出されてやぶれていたボール紙の玩具箱が、お茶なぞのこぼれた跡もないのに濡れていたのは妙です……あれは、あの蓋の上に少しばかりの雪が積っていて、室内の温度で解けたのではないかと思います。……そうそう、こんなつまらない事は云わなくたって……」と田部井氏はここで語調を変えて、今度はジッと私の眼の中を覗き込むようにして、「……不思議の材料は、始めから揃っておりますよ……とにかく、クリスマスの晩にですね……雪の上を、スキーに乗って……窓から出入して……それから、天国へ戻って行く……」
田部井氏は、ふっと押黙って、もう一度私の眼の中を促すように見詰めながら、
「……いったい、何者だと思います?……」
「ああ」私は思わず呻いてしまった。「じゃアあなたは……あの、サンタ・クロースの事を、云っていられるんですか?」
「そうです。つまり、あの部屋へ……手ッ取早くいうと……サンタ・クロースが出現したわけです」
私は少からず
「しかし、随分惨酷なサンタ・クロースですね?」
「そうです。飛んでもないサンタ・クロースですよ……恐らく悪魔が、サンタ・クロースに化けて来たのかも知れません」とここで田部井氏は、急に真面目な調子に戻って、立上りながら云った。「……いや、しかし、どうやらその化けの皮も、剥がれかかって来ましたよ。……私には、この謎がもう半分以上、判って来ました。さア、これからひとつ、サンタ・タロースのあとを追ッ駈けましょう」
田部井氏は、居間の入口まで行って、その中で
けれども
「田部井さん。足跡は、裏の窓口からですよ」
「あああれですか」と田部井氏は振返って、
「あれはもう、用はありませんよ。私は、もう一つの
「もう一つの
思わず私は、そう訊き返した。
「そうですとも」田部井氏は笑いながら、「窓の外には一人分の跡があっただけでしょう。ね、あれでは往復したことになりませんよ。あそこからサンタ・クロースが出て行ったのなら、もう一つ入った跡がなければなりませんし、あそこから入ったのなら、出た跡があるわけですよ」とそれから、浅見家の屋根のほうを見上げてニヤッと笑いながら、「いくらサンタ・クロースだって、まさかあの細い煙突から、はいったなんてことはないでしょう……こいつは、ただのお
成る程、何処かから入って来た跡がなければならない筈だ。私は自分の迂濶さに気づいて、思わず顔がほてって来た。が、この時私は、ふと電光のように、或る思いつきが浮んで来た。
「ああ田部井さん。判りましたよ。……八時前には、雪が降っていたでしょう。それで、サンタ・クロースは八時前にここへ入って、八時過ぎて雪が止んでから、出て行ったのでしょう。だから、入った時の跡は雪に消され、出て行った時の跡だけ残ったのでしょう」
すると田部井氏は、意外にも静かに首を振った。
「それが、大違いなんですよ。成る程、その考え方も、一応もっともですね。私も、最初あの窓の下の
「と云われると……?」
「じゃアやっぱり、雪が積ったんですか?」
「そうですよ」
「じゃア何故、その雪は、あんな
すると田部井氏は、私の肩に手をかけた。
「あなたは、推理の出発を間違えられたんです。いいですか――部屋の中で人が殺されて、大事な子供が奪われている。そして窓が
「なるほど、よくわかりました」私は頭をかきながらつけ加えた。「そうすると、あの片杖の跡はどういうことになりますか?」
「あれですか、あれはなんでもありません。あなたが始め考えられたように、やはりそのサンタ・クロースは荷物を片手に持っていたのです。しかしそれは、子供ではなくて、あの部屋に転っていた雪に濡れたボール紙の大きな玩具箱だったのです。サンタ・クロースの贈物だったのです……」とここで田部井氏は言葉を改めて、「さア、これでもう大分わかって来たでしょう。窓の足跡は確かに外から入って来たものであり、その足跡のほかに出て行ったらしい足跡もなく、家の中にもサンタ・クロースの姿はおろか子供の影もないと云えば、この表玄関からサンタ・クロースと子供は出て行ったに違いないのです……時に、あなたが最初ここへ駈けつけられた時に、
「さア、そいつは。……なんしろあわてていましたので……」
「じゃア仕方がありません。ひとつ面倒でも、この沢山の跡の中から、片杖を突いた跡を探しましょう」
田部井氏は早速屈み腰になって、それらしい跡を探しはじめた。むろん私もその後に続いて、仄白い雪明りの中をうろつきはじめた。表通りの弥次馬連は、なに事が起ったのだろうと、好奇の眼を輝かして私達のしぐさを見守った。
雪の上には、私達や警官達のスキーの跡がいくつも錯綜して、なかなか片杖のスキーの跡はみつからない。例のスキーの跡の終点まで行った警官達が、やっと帰って来たとみえて、家の中がなんとなく賑かになった。
その時、田部井氏が私のところまで来て、不意に問いかけた。
「あなたより先にここへ来たのは、あのA組の美木でしたね……美木は大人用のスキーをつけていたでしょうね?」
私が頷くと、
「じゃアやっぱり子供のものだ」
とわけのわからぬことを云いながら、道路の生垣に沿ったところまで私を誘って行きそこに残されている二組のスキーの跡を指しながら云った。
「片杖の跡のないのも無理はないですよ。子供は、サンタ・クロースに抱えられて行ったのではなく、サンタ・クロースに連れられて、自分でスキーをはいて行ったんです」
成るほど雪の上には、大人のスキーと並んで、幅の心持狭いスキーの跡が、表通りを進んでいる。
「さア、訊問に呼び出されないうちに、急いでこの跡をつけて行きましょう」
私達は、直ぐに滑り出した。
もう大分時間もたっている事だから、どこまでその跡の
「意外に近かったですね」田部井氏が歩きながら、蒼い顔をして云った。「どうも、不吉な結果になりそうです……ところで、あなたは、いったいサンタ・クロースを、誰だと思いますか?……もうお判りになったでしょう?」
私は顫えながら、烈しく首を振った。田部井氏は空家の庭へ踏み込みながら、
「判っていられても、云い憎いんじゃアないですか?……この場合、サンタ・クロースになって、窓から贈物を届けるほどの人は、誰でしょう?……しかも、子供は、引ッ抱えなくても、一人でスキーをはいてついて来るんです……確か、七時半頃に、このH市へ着く汽車がありましたね?……私はなんだかその汽車で、予定よりも一日早く、浅見さんが帰って来たんじゃないかと」
「えッ、なに三四郎が」私は思わず叫んだ。「飛んでもない……よしんば、三四郎が帰ったにしても、なぜ又こんな
しかしもうその時、空家の裏側へ廻っていた田部井氏は、そこの窓の下に二組の大小のスキーが脱ぎ捨てられているのをみつけると、すぐに
「ああ……やっぱり遅かった……」
闇に眼が馴れるにつれて、やがて私も、天井に下げたカーテンのコードで、首を吊っている浅見三四郎の、変り果てた姿を見たのだった。その足元には、バンドで首を絞められた子供が、眠るように横わっていた。チョコレートの玉が、二つ三つ転っている。その側に、キチンと畳まれた紙片が置いてあったが、田部井氏はそれを拾い上げると、チラリと
鳩野君。
とうとう僕は、地獄へ堕ちた。しかし君にだけは、事の真相を知って貰いたい。
農学校は、雪崩 のために予定よりも一日早く休みになった。七時半の汽車で町についた僕は今夜がクリスマス・イーヴなのに気づいて、春夫の土産 を買って家路を急いだ。
君は、僕がどんなに平凡な男で、妻を、子供を、家庭を愛していたか、よく知っていてくれたと思う。僕は、妻や子供が、予定よりも一日早く帰ってくれた僕を、どんなに喜んでくれるか、そう思うと、いっそうその喜びを大きくしてやりたさに、ふと、サンタ・クロースを思いついた。僕は、幸福にはち切れそうな思いで、わざわざ家の裏へ廻って、跫音 を忍ばせ、居間の窓粋へ辿りつくと、そうッとスキーを脱いで杖に突き、窓枠へ乗って、驚喜する家人の顔を心の中に描きながら、硝子 扉を開けた。
ああ僕は、しかしそこで、絶対に見てはならないものを見てしまったのだ! 部屋へ入って僕は、長椅子の上に抱き合いながら慄えている及川と妻の前へ、僕のそれまでの幸福の塊 みたいな、土産の玩具箱を投げつけてやった。
しかし鳩野君。どうしてそんなことで、沸 り立つ憎しみがおさまろう。それから僕が、涙を流しながら、灰掻棒でなにをしたか、もう君は知っている筈だ。僕は、隣室で眼を醒した春夫に、僕のした事を知らすまいとして春夫を騙して表へ連れて逃げだした。ああしかし、僕はもう逃げ場を失ってしまった。よしんば逃げ場があったとしても、どうして傷付いたこの心が救われよう。
鳩野君。僕は、僕のこの暗い旅の門出が、愛する春夫と二人であることに、せめてもの喜びを抱いて行こう。
では、左様なら。
とうとう僕は、地獄へ堕ちた。しかし君にだけは、事の真相を知って貰いたい。
農学校は、
君は、僕がどんなに平凡な男で、妻を、子供を、家庭を愛していたか、よく知っていてくれたと思う。僕は、妻や子供が、予定よりも一日早く帰ってくれた僕を、どんなに喜んでくれるか、そう思うと、いっそうその喜びを大きくしてやりたさに、ふと、サンタ・クロースを思いついた。僕は、幸福にはち切れそうな思いで、わざわざ家の裏へ廻って、
ああ僕は、しかしそこで、絶対に見てはならないものを見てしまったのだ! 部屋へ入って僕は、長椅子の上に抱き合いながら慄えている及川と妻の前へ、僕のそれまでの幸福の
しかし鳩野君。どうしてそんなことで、
鳩野君。僕は、僕のこの暗い旅の門出が、愛する春夫と二人であることに、せめてもの喜びを抱いて行こう。
では、左様なら。
三四郎
窓の外には、いつの間にか夜風が出て、弔花のような風雪が舞いしきり、折から鳴りやんでいた教会の鐘が、再び
(「新青年」昭和十一年十二月号)