「今日は、日本晴れですから、
お母さんからそう聞かされて、喜び勇んでお家を出たときの元気はどこへやら、
東京駅発午前八時二十五分の、
その列車の三等車の、
日曜日で、客車の中には、新緑の
しかしクルミさんは、箱根や
国府津の叔母さんのところには、
それは、クルミさんの制服のポケットの中に、こっそり忍ばせてあった。
可愛い
「なにか、あたしだけのお祝いをあげたい‥‥」
と思い、
「なんにしようか知ら?」
と考えて、思いついた品だった。
「これ、あたしだけの、お祝い‥‥」
そういって、こっそり信子さんに渡すときの楽しみを、昨夜から胸に
その香水の、可愛い木箱と一緒に、クルミさんのポケットの中には、チューインガムとキャラメルがはいっている。快い小旅行への、楽しい用意であるはいうまでもない。
実際、クルミさんは、今日の
いよいよ今朝になると、もう御飯もろくに
「駄目ですよ、クルちゃん。御飯だけは、ウンと食べて行かなくっては‥‥」
お母さんにたしなめられても、
「だって、いただきたくないんですもの。もし、おなかがすいたら、
「まア、あきれたおしゃまさんね。どこからそんなこと聞き
「あーラいやだ。だって、去年の夏、
そんなわけで、早々にお家を飛びだすと、いそいそとして東京駅へやって来たクルミさんである。
日曜日で、列車はわりにたて混んでいたが、それでも車室の一番隅っこに、まだ誰も
一番隅っこであったことが、わけもなくクルミさんを喜ばした。
「ここなら、ガムを
こころゆくまで、一時間半の小旅行が楽しめるのだ。
まず、窓際へゆっくり席をとって、
やがて、ベルが鳴り、列車は動きだす。そして、クルミさんの楽しい小旅行がはじまったのだ。
ところが――
そうして、まだ十分もしないうちに、列車が品川の駅へとまると、クルミさんのボックスへ、一人の
その客は、年のころ四十前後の、眼つきの妙に鋭い、顔も体もいやに大きな、洋服の紳士であった。
中折帽を
最初、紳士は、車室の中へはいって来ると、通路に立ったまま、
そして、笑うでもない、怒るでもない、まるでお
帽子はかむったまま、右手はポケットへ入れたままである。
クルミさんは、ヒヤリとして、身をすくめると、窓の外へ顔をそむけてしまった。
列車はいつのまにか、新緑の
空は、すばらしい日本晴れだ。
普通ならば、もうこの辺で、そろそろチューインガムを
「折角の楽しみも、これですっかりオジャンだわ」
クルミさんは、横顔のあたりに
やがて紳士は、クルミさんのほうから顔をそらすと、窓の方を背にして、横向きになった。そして、コートの左のポケットから左手で新聞をとり出すと、相変らず右手はポケットへ入れたまま、不自由そうに片手で新聞をひろげて、それを顔の上へかぶせるようにしながら、熱心に読みはじめた。
窓の外を見ていても、クルミさんには、その動作がよくわかるのである。
時々、窓から流れ込む爽やかな風に吹かれて、新聞が、ペラペラと鳴る。すると
「窓をしめなければ、いけないかしら」
クルミさんはそう思った。
しかし、どうしたものか、妙にからだがすくんでしまって手が出せない。だいたい、この紳士が乗り込んで来てからは、まだ、身動きひとつしていないクルミさんである。それに、窓をしめるとすれば、どうしても、紳士の頭のうしろへ片手を持って行かなければならない。そう思うと、いよいよ固くなってしまうのだった。
突然、紳士が立ちあがった。
そして、窓から外を見ているクルミさんにはものも云わず荒々しい調子で、硝子窓をしめてしまった。
クルミさんは、ハッとなって身を
紳士の
誰でも知っているように、汽車の窓をしめるには、必ず両手を使わなければならない。それで、今、立ちあがった紳士も、この時はじめて右手をポケットから出して、両手で窓をしめたのであるが、
しかし、その短い間に、クルミさんは、紳士の右手を見てしまった。
その手は[#「 その手は」は底本では「その手は」]、中指が
「ああ、
瞬間、クルミさんはそう思って、みるみる
「もしそうだったなら、あたしはなんて愚かな少女だろう。そういう立派なお方と、同席したことを不愉快に思っていたなんて!」
しかし、すぐにクルミさんの頭の中には、ムラムラとひとつの
「でも、もし軍人さんだったなら、どうしてそのように貴い御負傷を、こんなに不自然にお隠しになるのだろう?」
――そうだ、たとい、軍人さんでなくって、普通にお
クルミさんは、そう思うと、なんだか前よりも体が引きしまるような気がして、一層小さくなりながら、硝子越しに、ひたすら窓の外を見詰めつづけるのだった。
間もなく列車は、
「ひょっとすると、横浜で下りてくれるかも知れない」
そう、ひそかに心の中で思っていたクルミさんの望みも、すっかり裏切られて、紳士は、相変らずクルミさんの眼の前にいる。それどころか、読みかけの新聞を、帽子をかむったままの顔の上へ乗せるようにしたまま、どうやら
クルミさんは、とうとう観念してしまった。
「これでもう、大船のサンドウィッチも、みすみすダメになってしまった」紳士は、
クルミさんは、そおッと自分のポケットへ手をやってみる。チューインガムもキャラメルも、まだそのままでジッとしている。
クルミさんは、
窓の外には、すがすがしい新緑に
ところが、気持が引きたてられるどころか、この時、却って、大変もない[#「大変もない」はママ]ことが起きあがってしまった。
さっきから、少しずつズレかかっていた紳士の顔の上の新聞が、この時、ガサッと音をたてて、紳士の横坐りになっている
クルミさんは[#「 クルミさんは」は底本では「クルミさんは」]ヒヤリとなった。どうしようかと思って、紳士の顔と、落ちた新聞を見較べた。
むろんこのまま、そっとしておくより仕方はない。がしかし、この時クルミさんは、思わずギクリとなった。
紳士の顔は、うしろのもたれと
それは三面記事で、上のほうの右肩のところに、次のような恐しい文字が、大きな活字で印刷されてあった。
それが見出して、その次に小さな文字が何行も並び、それから又、前よりは少し小さな活字ではあるが、一層恐しい第二の見出しが印刷されてあった。
犯人は洋服姿の大男で、中指のない四本指の右手が最大の特徴 、凶器 を擬 せられつつ沈着なる宿直員の観察
クルミさんは、急に眼の前がクラクラッとなって、思わずうしろのもたれへよりかかってしまった。
なんという恐しいことだろう!
からだ中の
「人違いであってくれればいいが!」
クルミさんは、一所懸命に自分を押えつける。しかし、その下から、ムクムクと恐しい考えが浮上って来る。
――なるほど、洋服を着た人は何処にでもいるし、大きな男も何人もいるかもしれない。そして、中指を
「しかも、この紳士は、
クルミさんは、ブルブルッと身ぶるいした。
――恐らくこの
クルミさんは、もうジッとしていられなくなった。が、さりとて声を立てたり動いたりすることはとても出来ない。
すぐ眼の前の新聞記事によれば、犯人は
「こっそり
しかし、そんなことをしたとて、無駄である。相手がそのように恐しい男では、却って騒ぎ立てて、平和な
ジッとしたまま、こわごわ、もう一度新聞を見る。
「
という見出しが、ふと目についた。すると、少しばかり、クルミさんの[#「クルミさんの」は底本では「 ルミさんの」]心の中に、明るいものがみつかった。
「そうだ、落ちつかなければいけない」
われと
すっかり
列車は、もういつの間にか、幾つかの駅を通過して、だんだん
ふと、クルミさんは、云いしれぬ恐しさの中から、なんともいえない
考えてみれば、大変なことになってしまった。折角の楽しい旅行が、お蔭で
――いま、この客車の中に、このように恐しい紳士が乗っていることなぞ、誰も知らないのだ。あたしだけが知っている。このまま知らぬ顔をして、
――しかし、それかと云って、どうして、自分のような少女の身で、こんなにふるえているような
遠く、松原の向うに、見覚えのある国府津の山が見えだした。
「そうだ、もう、そろそろ荷物を下して置かなければならない」
急に我に返ると、クルミさんは、思い切って、静かに立ちあがった。手足がガタガタふるえている。まるで夢の中のしぐさのように、
が、やがてとり下すことが出来た。
紳士は、相変らず
と、この時、お祝いもののはいったその風呂敷包みを
しばらくクルミさんは、どうしようかと迷っているようであったが、窓の向うに国府津の海が見えだすと、いきなりクルミさんは、制服のポケットの中へ手を突っ込んだ。そして、真紅のリボンのかかった、小さな美しい木箱をとり出した。
それは、信子さんへのお祝いに、こっそり買求めて来た、あの香水だった。
クルミさんは、ものに
クルミさんは、静かに前かがみになった。
栓を抜いた香水の瓶を、
列車は、国府津駅にとまった。
なおも居睡りつづける紳士を残したまま、クルミさんは、列車をあとにした。そして、駅を出ると、まるで火でも
ここは、熱海の駅である。
午前十時四十六分、伊東行きの列車が到着すると、大勢の旅客たちが、広いプラット・ホームになだれ出た。
その人びとの中に
人びとは、誰もかも、その紳士の発散する、強い激しい芳香に打たれて、びっくりしたように立ちどまると、
すると紳士は、いよいよわけが判らないというような顔をしながら、少からずうろたえはじめ、急にいそぎ足になった。
と、その体から立ちのぼる
紳士は、泣き出しそうに顔をしかめた。が、急に今度は、真ッ赤になると、歩きながらしきりとなにかブツブツいいはじめた。そして前よりも一層はげしくうろたえはじめ、あわてた足どりで、プラット・ホームから地下道へ、地下道から駅の出口へと、折から
このような紳士が、駅の出口で、さっきから鼻をヒクヒクやりながら、待ちかまえているお巡りさんを、ごまかすことが出来よう筈はない。‥‥
その晩、東京のお家へ帰ったクルミさんのところへ、
写真をとられたり、色々な話を聞かれたりしたあとで、銀行の支配人さんがいった。
「お嬢さん。あなたのお蔭で、私共の銀行は、おお助かりをいたしました。ついては、何かお礼を差上げたいのですが、なにがお望みでしょうか?」
すると、クルミさんは、一寸ためらってから、こっそりいった。
「そうですの? じゃ、折角ですから、あたしの使ってしまった、あの香水を買っていただきましょうか? だってあたし、あの品を、
「おやおや、お嬢さん。私共は、もっと沢山のお礼を差上げたいのですよ。それはそれとして、さ、なんでも外にお望みの品を、もうひとつおっしゃって下さい」
すると、クルミさんは、一寸考えてから、恥かしそうに
「じゃ、あたし、サンドウィッチをいただきますわ」
(おわり)