一
吉田雄太郎君は此処へ越して来た時から、この秋森家の古屋敷に何故か軽い興味を覚えていた。雄太郎君の抱いた興味というのは、只この屋敷の外貌についてだけではなく、主としてこの古屋敷に住む秋森家の家族を中心としてのものであった。全く、雄太郎君がこのアパートへ越して来てからもう殆んど半歳になるのだが、時たま裏通りに面した石塀の西の端にある勝手口で女中らしい若い女を見かけた以外には、まだ一度も秋森家の家族らしき者を見たこともなければ、またその古びた高い木の門の開かれたことをさえ見たことはなかった。要するに秋森家の家族というのは陰鬱で交際がなく、雄太郎君の考えに従えば、まるで世間から忘れられたように、この山の手の静かな丘の上に置き捨てられていたのだった。尤も時たま耳にした人の噂によれば、なんでもこの秋森家の主人というのはもう六十を越した老人で、家族と云えばこの老主人とまだ独身でいる二人の息子との三人で、これに中年の差配人とその妻の家政婦、並びに一二名の女中を加えたものがこの宏い屋敷の中で暮しているということだった。が、そんな報告をした人でさえ、その老主人と二人の息子を見たことはないと云っている。ところが、突然この秋森家を舞台にして、至極不可解きわまる奇怪な事件が持ちあがった。そしてふとしたことから雄太郎君は、身を以てその渦中に巻きこまれてしまったのだ。
それは蒸しかえるような真夏の或る日曜日のことだった。午後の二時半に、一寸した要件で国元への手紙を書き終えた雄太郎君は、恰度この時刻にきまっていつものように郵便屋が、アパートの前のポストへ第二回目の廻集に来ることを思い出して、アパートを出て行った。習慣というものは恐ろしいもので、雄太郎君の予想通り実直な老配達夫は、もうポストの前へ屈みこんで取出口にガチャガチャと鍵をあてがっていた。そこで雄太郎君は彼の側に歩みよって一寸挨拶をし、郵便物を渡して、さてそれから、じっとり汗に濡れた老配達夫の皺の多い横顔を見ながら、暑いなア、と思った。――断って置くが、この附近は山の手のうちでも殊に閑静な地帯で、平常でも余り人通りはないのであるが特にその日は暑かった為めか、表の六間道路は真っ昼間だというのに猫の子一匹も通らず、さんさんと降りそそぐ白日の下にまるで水を打ったような静けさであった。その静寂のなかで不意に惨劇がもちあがったのだ。
始め、雄太郎君と集配人の二人は、西隣の秋森家の表門の方角に当って低い鋭い
秋森家の表を緩やかな弧を描いて北側へカーブしている一本道の六間道路は、秋森家の石塀の西端からその石塀と共にグッと北側へ折曲っている。雄太郎君は夢中でその右曲りの角へ馳けつけると、体を躍らすようにして向うの長い道路をのぞき込んだ。その道路の右側は秋森家の長い石塀だ。左側は某男爵邸の裏に当る同じような長い高い煉瓦塀だ。恐らく隠れ場所とてない一本道――。だが、犯人はいない!
犯人の代りに通りの向うから、一見何処かの外交員らしい洋服の男がたった一人、手に黒革のカバンを提げてやって来る。雄太郎君は馳けよると、すかさず訊ねた。
「いまこの道で、白い浴衣を着た二人の男に逢いませんでしたか?」
「………」男は呆気にとられ瞬間黙ったまま
「そんな男は見ませんでした。……なにか、あったんですか?」
「そいつア困った」と雄太郎君は明かにどぎまぎしながら投げ出すように、「いま、この秋森さんの門前で人殺し……」
「なんですって!」男は見る見る顔色を変えて「人殺しですって! いったい、誰が
「私は、この秋森の差配人で、
けれどもすぐに石塀を折曲って秋森家の門前が見えると、二人はそのまま黙って馳け続けた。そして間もなく郵便屋に抱き起こされて胸の傷口へハンカチを押当られたままもうガックリなっている女を見ると、洋服の男は飛びかかるようにして、
「あ、そめ子!」
と、そしてものに憑かれたように辺りをキョロキョロ見廻しながら、
「……こ、これは私の家内です……」
そう云ってべったり坐り込んで了った。
二
それから数分の後。N町の交番だ。
新米の
そこへ一人のチンドン屋が、背中へ「カフェー・ルパン」などと書いた看板を背負い、腹の上に鐘や太鼓を抱えたまま
現場には、もう例の三人の他に、秋森家の女中やその他数人の弥次馬が集っていた。蜂須賀巡査の顔を見ると、いままで弥次馬共を制していた雄太郎君が進み出て、被害者の倒れていた地点から約五間程西へ隔った塀沿いの路上から拾い上げたと云う、血にまみれたひとふりの短刀を提供した。
蜂須賀巡査は早速証人の下調べに移った。
「……じゃあ、つまりなんだね……吉田君がこちらから、その浴衣を着た二人の男を追って行く。向うから戸川さんがやって来る。ふむ、つまり、
蜂須賀巡査は眉根に皺を寄せ下唇を噛みながら、道路の長さを追い始めた。が、やがてその視線が、秋森家の石塀の、曲角に近い西の端に切抜かれた勝手口の小門にぶつかると、じっと動かなくなってしまった。が、間もなく振り返ると、微笑を浮べながら二人の証人を等分に見較べるようにした。勿論雄太郎君も戸川差配人も、すぐに蜂須賀巡査の意中を悟って大きく頷いた。
「困ったことですが」と差配人の戸川が顔を曇らしながら云った。「どうも其処より他に抜け口はございません」
そこで蜂須賀巡査は意気込んで馳けだし、勝手口の
「ふむ。図星だ。足跡がある!」
恰度この時、司法主任を先頭にして物々しい警察官の一隊が到着した。蜂須賀巡査は、雄太郎君の提供した証拠物件に添えて、下調べの顛末を誇らしげに報告した。そして間もなく証人の再度の訊問が始められた。被害者は秋森家の家政婦で、差配人戸川弥市の妻そめ子。兇行に関しては雄太郎君と郵便屋との二人の目撃者があったし、死因が単純明瞭で一目刺殺である事は疑いない事実と判定された為め、女の死体は間もなく却下になった。そして雄太郎君と郵便屋と戸川差配人との三人の証言の結果、司法主任は蜂須賀巡査の発見した例の足跡の調査に移った。
まず勝手門を開けて屋敷内へ這入る。五間程隔って正面に台所口がある。左は折曲った石塀の内側。右は宏い前庭の植込を
調査の結果、大体その庭下駄の跡は、四本の線をなしている事が判った。つまり、二人の人間が、庭下駄を履いてこの間を往復したことになる。すると、外から這入って、外へ帰ったのか? 内から出て内へ帰ったのか? けれどもこのような疑問は、庭下駄と云う前後の区別のハッキリした特殊な足跡が解いて呉れる。そして間もなく母屋の縁先の
秋森家の家族が怪しい。
警官達は俄然色めき立った。司法主任は、蜂須賀巡査を足跡の監視に残すと、母屋の縁先へ本部を移して、雄太郎君、郵便屋、戸川差配人の三人立会の下に、いよいよ秋森家の家族の調査にとりかかった。
老主人の秋森
二人の息子は、体格と云い容貌と云いまるで瓜二つで、二人とも同じような白い
一瞬、人々の間には気
「こ、この人達に、違いありません」
そこで司法主任は、一段と厳重な追求をはじめた。ところが秋森家の
そこで二人の女中が改めて呼び出された。ところがナツと呼ぶ歳上のほうの女中は、老主人の係りで殆んど奥の離れにばかりいたから、母屋のことは少しも判らないと答え、キミと呼ぶ若いほうの女中は、二人の若旦那が藤棚の下で
このように女中の証言によっても、
三
さて、一方足跡の番人を仰せつかった新米の蜂須賀巡査は、奉職してから初めての殺人事件に、もう一番手柄を立てたかと思うと、内心少からぬ満足で、こうなるとそろそろ商売は可愛らしく、後手を組んで盛んに合点しながら、足跡の線をあちらへブラリこちらへブラリと歩き廻っていた。
こうして研究してみると、足跡などもなかなか面白い。例えば――、蜂須賀巡査は勝手口の小門の近くに屈み込んで、庭下駄の跡に踏みつけられた一枚の桃色の
何に気づいたのか、急に蜂須賀巡査は立ちあがった。そして額口に激しい困惑の色を浮べながら、暫くじっと立止っていたが、やがて訊問をすまして台所へ出て来た女中のキミを見ると、歩みよって声をかけた。
「君。ちょっと訊くがね。この家へは、新聞や
「え、新聞?」と彼女は体を起してエプロンで手を拭きながら「新聞は、その小門を開けて、
「成る程。有難う」
蜂須賀巡査は大きく頷いた。けれどもその顔色は見る見る蒼褪め、額口には一層激しい困惑の色を浮べて今までの元気はどこへやら、下唇を堅く噛みしめながら、顫える指先で盛んに
――妙だ……つまりここから、
するとそこへ、取調べを終った司法主任の一行が、宏と実の
「待って下さい。ちょっと疑問があるんです」
「なんだって?」司法主任は乗り出した。「疑問? 冗談じゃあない。随分ハッキリしてるぜ。鑑識課から電話があったんだ。兇器の柄の指紋と、秋森宏の指紋がピッタリ一致しているんだ!」
――蜂須賀巡査は、手もなく
やがて一行は引揚げて行った。そして秋森家の
ところが、虫がおさまらないのは蜂須賀巡査だ。夕方の交代時間が来て非番になると、相変らず悶々と考え続けながら秋森家へやって来た。そして勝手口の例の場所で、
――「カフェー・ルパン」の広告ビラ。これは確かにあのチンドン屋の撒き捨てていったものに違いない。すると、この広告ビラが先に投げ込まれたのか? それとも二人の犯人が先にここを通ったのか?……けれども目前の事実はビラが先に投げ込まれて、その後から二人の犯人が出て来て、庭下駄で知らずにビラを踏みつけた、としか解釈出来ない。そうだ。この事実に間違いはない。すると……すると、チンドン屋は、犯人がこの小門を出て行く前に、つまり惨劇の起きるより先に、この門前を通ったことになる……それでいいか? それでいいのか?……駄目駄目。チンドン屋は、事件の後から通った筈だ。……まるで理窟になっとらん!
蜂須賀巡査は苛立たしげに立上った。
――そうだ。兎に角、一度チンドン屋に当ってみよう。そしてあのチンドン屋が、ひょっと犯行の前にも此処を通ったかどうか? まずあり得ない筈だが、念のために確かめてみよう。
そこで蜂須賀巡査は秋森家を出て、石塀沿いに東の方へ歩きだした。
――
蜂須賀巡査は、考え考え歩き続けた。ところが、
恰度秋森家の表門の前の犯行の現場まで来ると、何に驚いたのか蜂須賀巡査は不意に立停ってしまった。そしてじっと前方を見詰めたまま、頻りに首を傾げ始めた。が、やがていまいましそうに舌打すると、少からず取乱れた足取で大股に歩き始めた。そしてアパートの前まで来ると、さっさと玄関へ飛び込んで、受付へ、
「吉田雄太郎君を呼んで呉れ給え」
と云った。
訊問の立会で神経がくたくたに疲れてしまった雄太郎君は、自分の室で思わずうつらうつらしていたが、
「また何か起ったんですか?」
「いや、なんでもありませんが、一寸
そう云ってもう歩き出した。
「いったい何です?」
雄太郎君は蜂須賀巡査の後に従いながら、急きこんで尋ねた。けれども蜂須賀巡査は、そのままものも云わずに歩き続け、やがて秋森家の表門の前まで来て鋪道の上の
「いま、私達の立っている処が、現場、つまり被害者の倒れていた処でしょう?」
雄太郎君は、この突飛もない判りきった質問に思わずギョッとなった。そして顫えながら大きく頷くと、蜂須賀巡査は、今度は探るような
「僕は、君を、真面目な証人として信じているが、君はあの時確かに、アパートの前のポストのすぐ側に立っていて、此処に被害者の倒れていたのを見たと云ったね?」
「そうです」雄太郎君は思わず急きこんで、「嘘と思われるなら、郵便屋にも訊いて下さい」
「ふん、成る程。すると、此処から向うを見れば、鋪道の縁に立っているそのポストは、当然見えなければならない筈だね?……どうです。ポストが見えますか?……」
雄太郎君は途端に蒼くなった。ナンと雄太郎君の視線の届くところ、そこにはポストの寸影すら見えないではないか! ポストより数間手前にある筈の街燈が、青白い光を、
蜂須賀巡査は、雄太郎君の肩に手をかけながら、顫える声でいった。
「君、いったいこれは、どうしたと云うのだ!」
四
そんなわけですっかりあがってしまい、その晩殆んど一睡もせずに考え続けてしまった雄太郎君は、けれども翌朝早くから蜂須賀巡査に叩き起されると、ひどく不機嫌に着物を着換えて部屋を出た。
「一寸手伝って貰いたいんですがね」と階段を降りながら、急に親しげな調子で新米巡査は口を切った。「昨晩は、僕だって少しも眠れなかったです。あれから僕は、一晩中飲んだくれのチンドン屋を探し廻ったんですよ。その結果、これはまだ
そしてアパートを出ながら、驚いている雄太郎君には構わずに、急に憂鬱になりながら、
「ところが、署では、僕の意見など、てんで問題にされないですよ……証人はあるし、証拠は挙がっているし、それになによりも悪いことには、その後取調べの結果、あの
やがて秋森家の門前へつくと、蜂須賀巡査はポケットから大きな巻尺を取り出し、雄太郎君に手伝わして、昨晩のあの石塀の奇蹟に就いての最も正確な測量を始めた。けれどもいくら試みても、ポストの処から、被害者の倒れていた地点は、緩やかにカーブしている石塀に隠れて見えない。同様に、被害者の倒れていた処からも、ポストは見えない。蜂須賀巡査は、とうとう巻尺を投げ出して云った。
「吉田君。もう一度だけ訊くが、これが最後だから、どうか僕を助けると思って、頼むから正直に云って呉れ給え。ね。君は確かに、あの郵便屋と二人で、このポストの直ぐ側に立っていて、犯行の現場を見たんだね?」
雄太郎君は、この執拗きわまる蜂須賀巡査の質問に、思わずカッとなったが、虫をころして昨晩の通り返事をした。
「ふん、やっぱりそうか……いや、疑って済まなかったね」蜂須賀巡査は巻尺を仕舞いながら云った。「すると、どうしてもこの長い石塀は、あの時より、少くとも三尺は道路の方へ飛び出している事になる……全く、馬鹿げた事だ……いや、どうも有難う」と雄太郎君に会釈しながら、「だが、兎に角こ
そう云って蜂須賀巡査は、いささか気色ばんで帰って行った。
――困ったことになったぞ。と雄太郎君は溜息をつきながら、――ひょっとすると、俺のほうが間違っていたかな? いやいや、断じて間違ってはいない筈だ。だが、それにしても全く妙だ。
雄太郎君は、いまはもう不可解への興味などと云うところは通り越して、そろそろ気味悪くなり始めた。そして同時に、蜂須賀巡査の捨台詞がグッと腹にこたえて来た。
――証人の責任問題? チェッ、飛んでもない迷惑だ。雄太郎君は悶々と悩み続けた。けれどもいくら考えて見ても、問題の解決はつかない。そして結局自分の力では
――ああ、青山喬介!
雄太郎君は、ふと、自分の通っている学校へ、この頃ちょいちょい講義に来る妙な男を思い出した。
――そうだ。なんでもあの人は、かつて数回の犯罪事件に関係したこともあると云う。事情を打明けたなら、
そこで雄太郎君は、学校が
「あの事件は、もう解決済みじゃなかったかね」
そう云って喬介は、無愛想に雄太郎君へ椅子を勧めた。けれどもやがて雄太郎君が、自分が証人として見聞した事実や、蜂須賀巡査の発見した新しい犯人否定説や、石塀の前の妙な出来事や、それからまた自分の証人としての困難な立場などを
「よく判りました。力になりましょう。だが、その蜂須賀君とやらの云う通り、犯人は秋森家の
五
翌日一日が雄太郎君にとってどんなに永かったことか云うまでもない。時計の針の動きがむしょうにもどかしく、矢も楯も堪え切れなくなった雄太郎君は、やがて日が暮れて夕食を済ますとそそくさと飛び出して行った。
青山喬介は安楽椅子に腰かけて雄太郎君を待兼ねていた。「今日、蜂須賀巡査と云うのに会って来たが、なかなか間に合いそうな男だね」喬介が云った。「この事件で、あの男の昇給は間違いなしだよ」
「じゃあもう、真犯人が判ったんですか?」
「勿論さ。昨晩君の話を聞いた時から、もう僕には大体判っていた。……なにも驚くことはないよ。ね、君。事情は大変簡単じゃあないか。……つまり、あの一本道で、君と郵便屋が、こちらから二人の犯人を追って行く。差配人が向うから来る。ところが犯人がいない。そこで、たったひとつの抜道である秋森家の勝手口を覗きこむ。すると、犯人の足跡がある。ところがだ。その足跡が、犯行よりずっと後からつけられたものであった、としたなら、一体どうなるかね?……」
「……犯人が、その時、勝手口から這入らなかったことになりますが……」
「そうだよ。そして、塀の外には、君達三人の男がいたんだ。……判るだろう?」
「……判るようで……判りません……」
「じれったいね……その塀の外に、犯人がいたんだよ……つまり、君達三人の中に、犯人がいたんだ!」
――冗談じゃあない! 雄太郎君は思わず声を上げようとした。が、喬介は押かぶせるように、
「君達三人の中で、犯行後チンドン屋が勝手口へビラを投げ込んで通りかかった時から、そのチンドン屋の知らせで蜂須賀巡査が馳けつけて足跡を発見するまでの間に、勝手口から邸内へ這入った男があったろう?……そいつが犯人だ」
「じゃあ、戸川差配人が犯人?」
「そうだ。ところで、戸川は何分位邸内にいたかね?」
「約五分? 位です。でも、差配人は、カバンを置きがてら急を知らせに……」
「そのカバンだよ。今日僕が、蜂須賀君と一緒に調べたのは。その中に、白い浴衣と黒い兵児帯が一人前這入っていたんだ!……つまり戸川は、皆んな
「じゃあいったい、もう一人の共犯者は?」
「共犯? 共犯なんて始めからないよ」
「待って下さい。貴方は、僕の視力を無視するんですか? 僕はハッキリこの眼で、二人の犯人を……」
「いや、君がムキになるのも尤もだ。君の云うその共犯者はあの石塀の奇蹟と非常に深い関係があるんだ。そしてその奇蹟を
さて、青山喬介が雄太郎君の頭痛の種を取り除いて呉れたのは、それから三日後のことだった。
その日は恰度あの惨劇の日と同じようにひどく暑い日だったが、喬介と雄太郎君と蜂須賀巡査の三人は、午後の二時半の灼くような炎熱に打たれながら、秋森家の横の道路を歩いていた。が、やがて例の曲角まで来ると、喬介が云った。
「これから実験を始める。そしてそれは大丈夫成功するつもりだ。――僕達はいまからこの石塀に沿って、あの表門の前の、被害者の倒れていた位置まで歩いて行くんだ。そしてその位置についた時に、僕達の前方に、ポストが、あの見えない筈のポストが、
雄太郎君と蜂須賀巡査は、まるで狐にでも憑かれたような気持で歩きだした。……五間……十間……十五間……もう秋森家の表門迄は、余すところ五間、だがそれも
まだ被害者の倒れていた位置までは三間近くもあろうと云うのに、カーブを越して三十間も向うのアパートの前にある筈の赤いポストが、いともクッキリと、鮮かな姿を石塀の蔭から現わし始めた。そして三人が前進するに従って、その姿は段々と完全に、そして遂に石塀の蔭から離れた。と、なんと云う事だ。そのポストに重なるようにして、もう一つ同じようなポストが見えだして来たのだ。そして三人が表門の前に立った時には、二つの赤いポストがヒョッコリ並んで三十間の彼方に立っていた。雄太郎君は軽い
「見給え、郵便屋の
――全く、見れば霜降りの服を着て、大きな黒い鞄を掛けたグロテスクな郵便屋の
「ああ、蜃気楼だな!」不意に雄太郎君が叫んだ。
「うん、当らずと
(〈新青年〉昭和十年七月号)