坑鬼

大阪圭吉




          一

 室生岬の尖端、荒れ果てた灰色の山の中に、かなり前から稼行を続けていた中越ちゅうえつ炭礦会社の滝口坑は、ここ二、三年来めきめき活況を見せて、五百尺の地底に繰り拡ろげられた黒い触手の先端は、もう海の底半マイルの沖にまで達していた。埋蔵量六百万トン――会社の事業の大半はこの炭坑やま一本に賭けられて、人も機械も一緒くたに緊張の中に叩ッ込まれ、きびしい仮借のない活動が夜ひるなしに続けられていた。しかし、海の底の炭坑は、いかなる危険に先んじて一歩地獄に近かった。事業が繁栄すればする程地底の空虚は拡大し、危険率は無類の確実さを以って高まりつつあった。人々は地獄を隔てたその薄い命の地殻を一枚二枚と剥がして行った。
 こうした殆んど狂気に近い世界でのみ、始めて頷かれるような狂暴奇怪な形をとって、異変が滝口坑を見舞ったのは、まだ四月にはいったばかりの寒い頃のことであった。地上には季節の名残りが山々のひだに深い雪をとどめて、身を切るような北国の海風が、終日陰気に吹きまくっていようと云うに、五百尺の地底は、激しい地熱で暑さにせ返っていた。そこには、一糸もまとわぬ裸の世界があった。闇の中から、へそまで泥だらけにして鶴嘴つるはしを肩にした男が、ギロッと眼だけ光らして通ったかと思うと、炭車トロを押して腰にかすりの小切れを巻いた裸の女が、魚のように身をくねらして、いきなり飛び出したりした。
 おしな峯吉みねきちは、こうした荒々しい闇の世界が生んだ出来たての夫婦であった。どの採炭場キリハでもそうであるように、二人は組になって男は採炭夫さやまを、女は運搬夫あとむきを受持った。若い二人は二人だけの採炭場キリハを持っていた。そこでは又、小頭の眼のとどかぬ闇が、いつでも二人を蜜のように押し包んだ。けれども例外ということの認められないこの世界では、二人の幸福も永くは続かなかった。
 それは流れ落ちる地下水の霧を含んだ冷い風が、いやに堅坑の底まで吹き降ろして来る朝のことであった。
 二枚目の伝票を受取ったお品は、捲立まきたての底でからになって降ろされて来た炭車トロを取ると、そのまま長い坑道を峯吉の採炭場キリハへ帰って行った。炭坑は、わば黒い息づく地下都市である。二本の竪坑で地上と結ばれた明るい煉瓦巻の広場にはポンプや通風器の絶え間ない唸りに、技師のT型定規や監督の哄笑が絡まって黒い都市の心臓がのさばり、そこから走り出した太い一本の水平坑は謂わば都市計画の大通りだ。左右に幾つも口を開いた片盤坑は東西何丁通りに当り、更にまた各片盤坑に設けられた櫛の歯のような採炭坑は、南北何丁目の支線道路だ。幹線から支線道路へ、いくつものポイントを切って峯吉の採炭場キリハへ近づくにつれ、お品の足は軽くなるのであった。
 片盤坑の途中で、巡視に出たらしい監督や技師に逢ったきり、会社の男にぶつからなかったお品は、最後のポイントを渡ると急カーブを切って峯吉の採炭坑キリハへ駈け込んで行った。
 闇の坑道には、いつものように峯吉が待ち構えていた。走り込んで行った炭車トロを飛び退くようにして、立ちはだかった男の腕の中へ、お品は炭車トロの尻を蹴るようにして水々しいからだを投げかけて行った。投げかけて抱かれながら、お品は夢見心地で、闇の中を独りで遠去かって行く空の炭車トロを、その枠の尻にブラ下げた仄暗い、揺れ続ける安全燈ランプを見たのであった。
 全くそれは夢見心地であった。あとになってその時のことは何度も調べられたし、又女自身でも何度も考えたことであるが、その時の有様はハッキリ頭の中へ焼きつけられていながら、尚かつそれは夢の中の記憶のようにそらぞらしい出来事であった。
 お品の安全燈ランプは、その時闇の中に抱き合った二人を残して、わずかに炭車トロの裾を淡く照らしながら遠慮でもするかのように揺れながら遠退いていったのであるが、みるみる奥の採炭場キリハの近くまで遠退いていったその炭車トロは、そこのレールの上に鶴嘴でも転っていてかチャリーンと鋭い音を立ててひときわ激しく揺れはじめ、揺れはじめたかと思うとアッという間に安全燈ランプは釘を外れてレールの上へ転落して行った。
 滝口坑で坑夫達に配給していた安全燈ランプは、どこの炭坑とも同じようにやはりウォルフ安全燈であった。ウォルフ安全燈というのは、みだりに裸火にされる危険を避けるために、竪坑の入口の見張所の番人の持っている磁石マグネットに依らなければ、開閉することの出来ない装置になっていた。けれども、取扱いに注意を欠いて斜に置いたり、破損するようなことがあっては安全を期することは出来ない。
 悪い時には仕方のないもので、お品の安全燈ランプ炭車トロの尻にブラ下げてあり、そして空の炭車トロはそのまま走っていたのであるから炭車トロの尻には複雑な気流が起り、いままで地面に沈積していた微細な可燃性の炭塵は、当然烈しく捲き立てられていたのであった。全くそれはふとしたことであったがその瞬間に凡ての悪い条件は整ってしまい、いままで二人の幸福の象徴でもあった安全燈は、ここで突然予期しない大事を惹き起してしまったのだ。
 瞬間、女は眼の前で百のマグネシウムが焚かれたと思った。音よりも先に激しい気圧が耳を、顔を、体をハタッと撃って、なにか無数の泥飛礫どろつぶてみたいなものがバラバラッと顔中に打当るのをボンヤリ意識しながら、思わずよろめいた。よろめきながらも早くも四壁に燃えうつった焔を採炭場キリハの奥に覚えると、夢中で向き直って片盤口へ馳け出したが、直ぐに「峯吉は」と気づいて振返ると男も真赤な焔を背にして影のようにあとから馳け出して来る。炭塊に燃移った焔は、捲き起された炭塵の群に次々に引火して火勢はみるみる急となった。お品は背後に続く男の乱れた跫音あしおとと、目の前の地上に明々あかあかと照らし出された二人の影法師に僅かな安堵を覚えながらそれでも夢中で駈けつづけた。レールの枕木にでもつまずいてか突然後ろの影がぶッ倒れた。眼の前に片盤坑の電気が見えた。
 しかしお品がその電気の下に転げ出た時、ここで最初の悲劇が持上った。片盤坑に抜け出たお品がそこの複雑なレールのポイントにつまずいて思わず投げ出されながら後ろを振返った時に、早くも爆音を聞いて駈けつけた監督が、いまお品の転げ出たばかりの採炭坑の入口で、そこにしつらえられた頑丈な鉄の防火扉をみるみる締めはじめた。一足違いで密閉を免れたお品は、ホッとして無意識であたりを見廻わしたが、この時はじめて恐ろしい事態が呑みこめた。大事な男が、峯吉がまだ出ていない。お品は矢のように起上ると防火扉の閂にかかった監督の腕に獅噛しがみついた。激しい平手打が、お品の頬を灼けつくようにしびらした。
「間抜け! 火が移ったらどうすんだ!」
 監督が呶鳴どなった。お品は自分とひと足違いで密閉された峯吉が頑丈な鉄扉の向うでのたうち廻る姿を、咄嗟とっさに稲妻のように覚えながら、再びものも云わずに狂いついて行った。
 が、直ぐにあとから駈けつけた技師の手で坑道の上へ叩きつけられた。続いて工手が駈けつけると、監督は防火扉の隙間に塗りこめる粘土をとりに駈けだして行った。こんな場合一人や二人の人間の命よりも、他坑への引火が恐れられた。それは今も昔も変らぬ炭坑での習わしであった。
 発火坑の前には、坑夫や坑女達が詰めかけはじめていた。皆んな誰もかも裸でひしめき合っていた。技師だけがコールテンのズボンをはいていた。狂気のようになって技師と工手に押しとめられているお品を見、その場にどこを探しても峯吉の姿のないのを知ると、人びとはすぐに事態を呑み込んで蒼くなった。
 年嵩の男と女が飛び出した。それは直ぐ隣りの採炭場キリハにいる峯吉の両親ふたおやであった。父親は技師に思いきり一つ張り飛ばされると、そのまま黙ってその場へ坐ってしまった。母親は急に気が変になってゲラゲラと笑いはじめた。レールの上へ叩きつけられて喪心してしまったお品を、進み出て抱え上げた坑夫があった。父母の亡くなったお品にとって、たった一人の肉親である兄の岩太郎であった。
 女を抱きあげながら岩太郎は、憎しみをこめた視線を技師達のほうへ投掛けると、やがて騒ぎ廻る人びとの中へ迎え込まれて行った。
 監督が竹簀たけすへ粘土を入れて持って来た。続いて二人の坑夫が同じように重い竹簀を抱えて来た。工手がすぐにコテを取って鉄扉の隙間を塗込めはじめた。
 ほかの持場の小頭達が、急を知った坑内係長と一緒にその場へ駈けつけて来ると、技師と監督は、工手の塗込作業を指揮しながら騒ぎ立てる人びとを追い散らした。
採炭場キリハへ帰れ! 採炭しごとを始めるんだ!」
 呶鳴られた人びとは、運びかけの炭車トロを押したり、鶴嘴を持直したり、不承不承引上げて行った。興奮が追い散らされて行くにつれて、鉄扉の前に居残った人々の顔には、やがてホッとした安堵の色が浮び上った。
 犠牲は一坑だけにとどまった。しかもこうして密閉してしまえば、その一坑の焔さえも、やがて酸素を絶たれて鎮火してしまう。採炭坑は、謂わば炭層の中に横にクリあけられた井戸のようなもので、鉄扉を締められた入口の外には蟻一匹這出る穴さえないのであった。
 間もなく塗込め作業が完了した。この時が恰度午前十時三十分であったから、発火の時間は恐らく十時頃であったろう。けれども塗込作業の終った時には、もう発火坑内にはすっかり火が廻ったと見えて、熱の伝導に敏感な鉄扉は音もなく焼けて、人びとに不気味な火照ほてりを覚えさせ、隙間に塗りたくった粘土は、薄いところから段々乾燥して色が変り、小さな無数の不規則な亀裂が守宮やもりのように裂けあがって行った。
 技師も工手も監督も、一様に不気味な思いに駆られて妙に苦り切ってしまった。やがて急を聞いて駈けつけた請願巡査が、事務員に案内されてやって来ると、坑内係長は不機嫌に唾を吐き散らしながら、巡査を連れて広場の事務所のほうへ引上げていった。小頭達も、それまでその場に坐り込んだまま動こうともしない峯吉の父親を引立てて、同じように引きあげて行った。
 監督は、工手を指揮してその場の跡片附をしはじめた。もうこれで鎮火してしまうまで発火坑には用はない。いや何よりも、第一手のつけようがないのであった。
 鎮火の進行状態は、技師の検定に委ねられた。採炭坑には、どこでも通風用の太い鉄管が一本ずつ注がれていた。一人だけあとに残った技師は、鉄扉の上の隙間から、塗込められた粘土を抜け出して片盤坑の一層太い鉄管へ合流している発火坑の通風管を、その合目から切断してしまうと、その鉄管の切口から烈しい圧力で排出されて来る熱瓦斯ガスの分析検査にとりかかった。
 時どき炭車トロを押した運搬夫あとむき達の行列が、レールの上を思い出したようにゴロゴロ通って行った。騒ぎの反動を受けて急に静かになった片盤坑の空気を顫わして、闇の向うから、気の狂った峯吉の母の笑い声が、ケタケタと水瓦斯ガスのように湧きあがって来た。
 黒い地下都市の玄関である坑内広場は、もう平常の静けさに立返っていた。滝口坑はこの夏までに十万トンの出炭をしなければならない。僅かの変災のために、全盤の機能が遅滞することは一分間といえども許されなかった。闇の中から小頭達の眼が光り、炭車トロもケージも、ポンプも扇風器も、一層不気味に静まり返って動きつづけていった。しかし事務所の中では、係長がひどく不機嫌に当り散らした。
 発火後のごてごてした二十分間に、何台の炭車トロが片盤坑に停まり、何人の坑夫が鶴嘴を手から放したか、係長は真ッ先にそれを計算した。続いて発火坑の内部で、何トンの石炭が焼失してしまったか、しかしこれは未知数だ。現場の検査にまたない限り、恐らく概算も掴めない。そこで事務員の一人が鎮火状態を調べに向かわされた。ところで次に、この損害の直接の責任が誰の上にかかって行くか、発火の原因を調べなければならない。係長はもう一人の事務員に、助かった女を連れて来るよう命ずると、それから向直って、まるで鉱山局の監督官みたいに、勿体ぶって傍らに立っていた請願巡査へ、始めて口を切った。
「いやなに、大した事でもないんですよ」
 全く一人の坑夫が塗込められた位のことは、或は大した事でなかったかも知れない。しかし大した事は、この時になって始めて持上った。それは鎮火状態を問合せに行った先程の事務員が、間もなく戻って来て、丸山まるやまと呼ぶその技師が、何者かに殺害されたことを報告したのであった。

          二

 技師の屍体は、防火扉から少し離れた片盤坑の隅に転っていた。熱瓦斯ガスの検査中に被害を受けたものと見えて、直ぐ前の坑壁には切り離された発火坑の排気管が、針金で天盤の坑木に吊し止められ、踏台の上には分析用の器具が乱雑に置かれたままになっていた。
 屍体は俯向うつむきに倒れ、頭のところから流れ出た黒い液体が土の上をギラギラと光らしていた。大きな傷が後頭部の濡れた髪の毛を栗のいがのように掻き乱して、口を開いていた。兇器はすぐにみつかった。屍体の足元から少し離れて、漬物石程の大きな角の丸くなった炭塊が、血に濡れて黒く光りながら転っていた。係長はそれを見ると直ぐに黙ったまま天盤へ眼をやった。落盤ではない。しかし落盤でなくても、結構これだけの傷は作られる。
 いったい五百尺の地の底では、気圧もかなり高かった。地上では、例えば一千尺の高度から人間が飛び降りたとしても屍体は殆んど原形を保っている場合が多い。しかし竪坑から五百尺の地底に落ちると、それはもう目も当てられないほど粉砕されてしまう。落盤の恐るべき理由も又そこにあるのであって、僅かの間を落ちて来る小片でも、どうかすると人間の指など卵のようにひしゃいでしまう。その事を知っていた人びとはこの場合、炭塊一つが充分な兇器になり得ることに不審を抱かなかった。係長は持上げた兇器を直ぐに投げ出して、監督のほうへ蒼い顔を見せた。
 いままで固くなって立っていた工手が、始めて口を切った。
「あれからひときりついて、浅川あさかわさんが見巡りに出られますと、私は器具置場までコテを置きに行きましたが、その間にこんなことになったんです」
 浅川と云うのは監督の名前であった。工手は古井ふるいと呼んだ。二人とも発火直後のまだ興奮のさめきらぬうちに、このような事件にぶつかったためかひどくうろたえて落着を失ってた。しかし落着を失ったのは、二人ばかりではなかった。平常から太ッ腹で通した係長自身が、内心少なからず周章あわててしまった。
 発火坑は一坑にとどまった。とは云えその問題の一坑の損害の程度もまだ判りもしないうちに、貴重な技師が何者にとも知れず殺害されてしまった。切った張ったの炭坑で永い間飯を食って来た係長は、人が殺された、と云うよりも技師が殺されたという意味で、恐らく誰よりも先に周章あわてていたのに違いない。
 しかしやがて係長には、厳しい決断の色が見えて来た。
「いったい、誰がったんでしょう。こちらで目星はつきませんかな?」
 請願巡査が呑気なことを云うと、
「目星? そんなものならもうついています」
 と係長は向直って、苛々しながら云った。
「この発火事件ですよ……一人の坑夫が、逃げ遅くれてこの発火坑へとじこめられたんです。気の毒ですが、むろん助けるわけにはいきません。ところが、その塗込作業に率先して働いたのが丸山技師です。その丸山技師がこの通り殺されたと云うんですから、目星もつくわけでしょう。いやハッキリ目星がつかなくたって、大体嫌疑の範囲が限定されて来る」
「そうだ。それに違いない」
 監督が乗り出して云った。
 会社直属の特務機関であり、最も忠実な利潤の走狗である監督は、表面現場の親玉である係長の次について働いてはいるが、しかしその点、技師上りの係長にも劣らぬ陰然たる勢力を持っているのであった。巡査は大きく頷いた。監督は続けた。
「それに、アカの他人でいまどきこんなおせっかいをする奴はないんだから……峯吉と云ったな? この採炭場キリハの坑夫は」
 事務員が頷くと、今度は係長が引取って云った。
「そいつの両親ふたおやと、生き残った女を、事務所へ引張って来て置いてくれ。ああ、まだ女の兄と云うのがあったな? そいつも連れて来て置け」
「とにかく、峯吉の身内を全部調べるんだ」
 監督が云った。
 巡査と事務員が、おっとり刀で闇の中へ消えてしまうと、係長は閉された発火坑の鉄扉の前まで行って、寄添うようにして立止った。
 密閉法が功を奏して、もう坑内の鎮火はよほど進んだと見え、鉄扉の前には殆んど火照ほてりがなくなっていた。けれどもいま急いで開放でもしようものなら、恐らく新らしい酸素の供給を受けて、消えくすぶった火熱も再び力づくに違いない。係長は舌打ちしながら監督へ云った。
「立山坑の菊池きくち技師を、呼び出してくれませんか。それから貴方あなたも、一通り見巡りがすんだら、事務所の方へ来て下さるね」
 立山坑というのは、山一つ隔てて室生岬の中端にある同じ会社の姉妹坑だった。そこには専属の技師のほかに、滝口立山の両坑を随時一手に引受ける、謂わば技師長格の菊池技師が、数日前から行っている筈であった。折からやって来た炭車トロの一つに飛びついて監督は闇の中へ消えて行った。
 人びとが散り去ると、再び静寂がやって来た。闇の向うの水平坑道の方から、峯吉の母の笑い声が聞えたかと思うと、なにかがやがやと騒がしく引立てられて行くらしい気配が、炭車トロの軋りの絶え間から聞えて来た。左片盤の小頭が、アンペラを持って来て、係長の指図を受けながら、技師の屍体の上へかぶせて行った。工手は切取られた排気管の前に立って、殺された技師の残した仕事をあれこれといじり廻していたが、急に身を起すと、
「係長。どうやら悪い瓦斯ガスが出たようです」
「君に判るのか?」係長が微笑を見せた。
「六ヶ敷いことは判りませんが、出て来る匂いで判りますよ。もう火は殆んど消えたらしいですが、くすぶったお蔭で悪い瓦斯ガスが出たらしいです」
 係長は鉄管の側に寄ったが、直ぐに顔をしかめて、
「うむ、こりゃアもう、片盤鉄管へ連結して、この瓦斯ガスをどしどし流してしまわねばいかん。そうだ。匂いで判るな。じゃア君は、時どき調べてみて、瓦斯ガスの排出工合を見守ってくれ。わしはこれから坑夫を調べに行くが、その内には菊池技師も来てくれるだろう」
 工手は鉄管の連結にとりかかった。係長は工手を残して歩き出した。
 広場の事務所には、もう四人の嫌疑者達が、巡査と三人の小頭に見張られて坐り込んでいた。
 お品はいつの間にか寝巻を着て、髪を乱し、顔を隠すようにして羽目板へ寄りかかりながら、ぜいぜい肩で息をしていた。兄の岩太郎は、顔や胸を泥に穢したまま鳩尾みぞおちをフイゴのようにふくらしたりへこめたりしながら、係長がはいって行くから睨みつづけていた。
 峯吉の父親は、死んだ魚のそれのような眼で動きもせずに一つところを見詰めつづけ、母は小頭の腕に捕えられながら、時どき歪んだ笑いを浮べてはゴソゴソと落着がなかった。
 係長は四人の真ン中につッ立つと、黙ってグルリと嫌疑者達を見廻した。
「これで峯吉の身内は全部だな」
「はい。あとはアカの他人ばかりで」
 小頭の一人が云った。
 事務所は幾部屋かに別れていた。係長は小頭へ四人の嫌疑者を一人ずつ連れ込むように命じて、巡査と二人で隣の部屋へ引帰ると、そこのガタ椅子へ腰を降ろして陣取った。
 最初に岩太郎が呼び込まれた。
 係長は一寸巡査に眼くばせすると、乗出して岩太郎へ向き直った。そしてなにか大きな声で呶鳴りつけようとでも思ってか、息を呑みこむようにしたが、直ぐに気持を変えて、割に優しく口を切った。
「お前は、さっきあれから、妹を抱えて何処へ行った」
「……」
「何処へ行ったか?」
 しかし岩太郎は、係長と向合って腰掛けたまま、ふくれ面をして牡蠣かきのように黙っていた。
 巡査がまごついて横から口を出した。
「もっとも、何ですよ、この男とあの女は納屋から連れて来たんですがね……」
 納屋と云うのは、竪坑を登った坑外の坑夫部落の納屋のことであった。係長は巡査へは答えずに、岩太郎へ云った。
「わしの訊いとるのは、あれからお前が、真ッ直ぐに納屋へ行ったかどうか、と云うことなんだ」
 すると岩太郎が、やっと顔をあげた。
「真ッ直ぐに行った」
 ぶっきら棒な返事だった。
「間違いないな?」
 係長の声が引締った。岩太郎は、黙ったまま小さく頷いた。
「よし」係長は傍らの小頭の方へ向直って云った。「ひとまずこの男は、そちらの部屋へ待たして置け、それから、お前は直ぐに竪坑の見張へ行って、この男が何時に女を抱えて出て行ったかシッカリ訊いて来るんだ」
 小頭は、すぐに岩太郎を連れて出て行った。
 続いて今度はお品が呼び出された。女が椅子につくと、巡査が係長へ云った。
「この女には、発火の原因に就いても調べるんでしたね」
 係長は黙って頷くと、女へ向った。
安全燈ランプから発火したんだろうな?」
「……」
「火元は安全燈ランプだろう?」
 お品は力なく頷いた。
「お前の安全燈ランプか、亭主の安全燈ランプか、どちらだ?」
「わたくしのほうです」
「じゃアいったい、どうして発火したのか。その時の様子を詳しく云ってみろ」
 お品はこの問にはなかなか答えなかった。が、やがてポロッと涙をこぼすと、小声でボソボソと俯向いたまま喋りだして行った。お品がその時のことをどんな風に述べていったか、しかしそれは、ここでは云う必要がない。お品の陳述、既に物語の冒頭に記したところと寸分違わなかった。
 さて女の告白が終ると、係長は姿勢を改めて口を切った。
「いずれその時のことは、またあとから発火坑の現場について、お前の云ったことに間違いないか調べ直すとして……これは別のことだが、お前はあの時、兄に抱かれて納屋へ帰ったと云うが、確かにそれに間違いないか?」
 しかしこれは、訊ねる方に無理があった。お品はあの時、恐怖の余り顛倒して岩太郎に抱えられた筈であるから、それから岩太郎と共に真ッ直ぐに納屋へ連れ帰されたかどうか、女自身にも覚えのない筈であった。しかし係長にして見れば、この場合お品も岩太郎も、共に怪しまないわけにはいかなかった。そこで係長は重ねて追求しようとした。
 が、この時事務所の扉があいて、さっきの小頭が見張所の番人を連れて戻って来た。
 カラーのダブついた詰襟の服を着て、ゴマ塩頭の番人は、扉口でジロッと岩太郎とお品を見較べると、係長の前へ来て云った。
「この二人でございますね? ハイ、確かに、十時二十分頃から十時半までの間に、ケージから坑外そとへ出て行きました」
「なに、十時半より前に出て行った?」
「ハイ、それはもう確かで、そんな時分に坑夫で坑外そとに出たのは、この二人だけでござんすから、よく覚えとります」
「そうか。では、それから今しがたここへ連れ込まれるまでに、一度も坑内へ降りはしなかったな?」
「ハイ、それは間違いございません。ほかの番人も、よく知っとります」
「そうか。よし」
 番人が帰って行くと、係長は巡査と顔を見合せた。
 十時半前と云えば、発火坑の塗り込めの完了したのが恰度十時半であり、その時にはまだ丸山技師はピチピチしていたのであるから、十時半前に出坑した岩太郎とお品がどうして技師を殺害することが出来よう。これで四人の嫌疑者のうち二人までが同時に嫌疑の圏内から抜け出てしまった。残りは二人だ。
 係長は、ひとまず岩太郎とお品を控室にとどめて置いて、次に峯吉の父親を呼び込んだ。
「お前は、あの時、左片盤の小頭に連れられて、何処かへ行ってしまったな。いったい何処へ行っていた?」
 すると死んだ魚のような目をした老坑夫は、声を出すたびに腹の皮へ大きな横皺を寄せながら、
「それは、小頭さんに、訊いて下さい」
 と云った。
 左片盤の小頭は、食堂で昼飯を食べていたが、係長の命令で直ぐに呼び出された。
「君はあの時、発火坑の前からこの男を連れ出して来ただろう。それからどこへ連れて行ったんだい?」
「この親爺」と小頭は笑いながら答えた。「あの時腰が抜けてたんです。それで、救護室へ連れて行ったんですが……、さっき私がその救護室へアンペラをとりに行った時に、やっと起きあがりはじめた程で……看護夫も手を焼いとりましたよ」
「成る程」と巡査が口を挟んだ。「それで、起きれるようになってから、何処へ行ったかは判らんですね」
 と係長へ向直って、
「こいつは臭いですよ。なんしろ私は、片盤坑の入口で、気の狂った女房と一緒にうろうろしてるのを捕えて、ここへ連れて来たんですからね。救護室を出てから、いままで何処でなにをしていたか……」
「いや、あんたは勘違いしとるよ」
 いままで黙っていた係長が、不意にいった。
「成る程。歩けるようになってから、捕えられるまで、どこにいたかは判らん。が、しかし……」と小頭の方へ向って、
「君がアンペラを取りに行く頃まではてなかったんだね。それで、君はそのアンペラを丸山技師の屍体へかぶせるつもりで取りに行ったんだろう?」
「そうです」
 すると係長は巡査へ向直って、
「丸山技師は、この男がまだ救護室で腰の抜けている最中に殺されたんですよ。この男が発火坑の前で腰が抜けて、救護室へ連れ込まれる。それから後で技師が殺され、小頭が屍体へかぶせるアンペラを取りに行った。その時始めてこの男が救護室でてるようになっていた。つまり丸山技師が殺された時には、この男はまだ腰が抜けて看護夫の厄介になってたんです。腰が抜けていたんでは、片盤坑まで出掛けて人殺しなど出来っこない。判りますね。さアもう、これで犯人は判ったでしょう。あの気狂い婆をフン縛って下さい」
 請願巡査はギクンとなって立ちあがると、バタバタと隣室へ駈けこんで行って、岩太郎やお品の見ている前で、有無を云わさず峯吉の母を縛りあげようとした。
 ところが、この時、ここで全く異様なことが持上った。それは、いままで自信を以って推し進められた係長の推断を、根底から覆してしまうような出来事であった。
 断って置くが、殺された丸山技師は平素から仕事に対して非常に厳格であった。それでそのために坑夫達からは恐れられ、幹部連中からは敬遠されがちであった。が、しかし殺されるなぞと云うような変に個人的な、切羽詰った恨みを受けるような人では決してなかった。今度の坑夫塗込事件だけが、始めてそうした恨みを受けそうな唯一の場合であった。そこで係長は、峯吉の塗込めに関して丸山技師を恨んでいそうな人間を全部捕えて、片っ端から調べた揚句、やっといま目的が達せられるかに見えて来ているのであった。しかも工手や監督と一緒に峯吉の塗込めをした丸山技師に対して、烈しい恨みを抱いている筈の四人の嫌疑者達は、この場合嫌疑が晴れたと晴れないとにかかわらず事務所へ押し込まれて、巡査や小頭の見張りの元に調査を進められ、その間からいまここで異様な出来事にぶつかるまで、誰一人抜け出た者はなかったのである。
 さて、その出来事と云うのは――峯吉の母親が息子に代って復讐した犯人と定められて、請願巡査に捕えられようとしたその時であった。事務所の表のほうから、落着のない人の気配がしたかと思うと、硝子扉をサッとあけて浅川監督が飛び込んで来た。そして室内の有様などには目もくれず、息をはずませながら係長へ云った。
「工手の古井が、殺されとる」

          三

 いったい船乗りとか坑夫とかのように、ズバ抜けて荒っぽい仕事をしている人びとの気持の中には、どうかすると常人ではとても想像も出来ない位に小心で、臆病で、取越苦労な一面があるもので、恰度船乗りたちが海に対して変テコな迷信を抱いたり、可笑おかしな位に海を神秘したりすると同じように、坑夫達もまた、坑内で口笛を吹くと必らず山神の怒にふれて落盤の厄に合うとか、坑内で死んだ人間の魂は、いつまでもその場に居残っていて後々へ禍を及ぼすとか、妙なことが云い触らされていた。そしてそうした坑夫達の執拗な恐怖心を和げる道具として、坑内が血に穢されたような場合には、その場に締縄しめなわを張って清めのしるしにされるなぞ、そうした奇怪な事実のあるとなしとにかかわらず、もう一般化したならわしにさえなっているのであった。
 滝口坑の片盤には、今日その締縄が白々と張り出されたのだ。そしてその締縄に清められた筈の防火扉の前で、皮肉にも新らしい血が、一度ならず二度までも流されてしまった。片盤の坑夫や坑女たちは、網をかぶった薄暗い電気の光に照らされながら、閉された採炭場キリハの防火扉の前に、意味ありげに二つも並んだ屍体を遠巻きにして、前とは違って妙にシーンとしていた。
 工手の屍体は、アンペラで覆われた丸山技師の屍体の側に、くの字形に曲って投げ出されていた。伸びあがって瓦斯ガスの排出工合を検査している隙に、後ろから突き倒されたものとみえて、踏台が投げ倒され、その側に技師の時よりも、もっと大きな炭塊が血にまみれて転っていた。俯伏せに倒れた上へ折重って、力まかせにその大きな炭塊をガッと喰らわしたものであろう。後頭部から頸筋へかけて大きな傷がクシャクシャに崩れ、左の耳が殆んど形のないまでに潰されていた。殺害は、係長が工手を発火坑の前に一人残して、広場の事務所へ引上げてから、立山坑の菊池技師に電話を掛けに行った監督が、ついでに昼飯を済ましてやりかけの見巡りに出掛けるまでの間に行われたものであって、犯人は前の丸山技師の時と同じように、現場に炭車トロの通っていないような隙を狙って、闇伝いに寄り迫ったものに違いなかった。
 係長は紙のように蒼ざめながら、あたりを見廻わして、苛立たしげに坑夫達を追い散らした。
 ――工手の殺害は、技師の殺害と同じ種類の兇器を用いて行われた。しかも符合はこれだけにとどまらない。工手も又技師と同じように、殺害されるかも知れない同じ一つの理由を持っていた。発火坑の塗り込めに当って、丸山技師や監督の指図を受けながらも、直接その手にコテを掴んで粘土を鉄扉に塗りたくった峯吉生埋めの実行者は、外ならぬ古井工手ではなかったか。犯人は云うまでもなく同一人であり、しかも坑殺された峯吉の燃えたぎ坩堝るつぼのような怨みを継いだ冷酷無比の復讐者だ。
 しかし、ここで係長は、鉄扉のような思索の闇にぶつかった。
 最初係長は、技師の殺害に当って、早くも事の真相を呑み込むと、峯吉の復讐者となり得る人びとの全部を捕えて片ッ端から調査にとりかかったのであるが、しかしその四人の嫌疑者の調査の進行の途中に於て、技師と同じ意味で古井工手が殺害されてしまったのだ。しかも四人の嫌疑者達は、工手の殺害が行われる間中確実に事務所へとじこめられて、一歩も外へは出ていない。それでは犯人は、その四人以外の他人の中にあるか? しかしいまどきの魯鈍な坑夫の中に、他人のために怨みを継いで会社の男を次々に殺していくような、芝居染みた気狂いはいる筈がない。
 係長は、いままで鼻の先であしらっていたこの事が、意外な難関に行き当ってしまうと、もうまるで糸の切れたたこのようにアテもなくうろたえてしまった。
 ところが、ここで係長の暗中模索に、やがてひとつの光が与えられた。けれどもその光たるや、なんともえたいの知れぬ燐のような光で、却って係長を青白い恐怖の底に叩き落してしまうのだった。
 滝口坑では、いつでも死傷者に対して炭坑独特の荒っぽい検屍を、救護室で行うことになっていた。それは坑道が、電気が処々についているとは云っても、炭塵にまみれた暗い電気であったからでもあり、また坑道は炭車トロの通行に必要な程度にしか設計されていず、なにかと手狭で、そうした支障のために少しでも出炭率の低下するのを恐れたからでもあった。
 医員の仕度が出来て救護室へ下って来た知らせを受けると、係長は、とりあえず二つの屍体を救護室に移すことにして、来合せた炭車トロへアンペラを敷いて屍体を積み込んだ。そして自分も監督や巡査と一緒に後の一台へ乗ろうとした時であった。
 一人の若い坑夫が、己れの安全燈ランプのほかに火の消えた安全燈ランプを一つ持って、片盤坑の奥から駈け出して来た。坑夫は係長を見ると、立止って固くなりながら云った。
「水呑場で、安全燈ランプを一つ拾いました」
「なに、安全燈ランプを拾った?」
 係長は険しい顔で振り返った。
 炭坑では、安全燈ランプは、坑夫の肌身を離すことの出来ない生命であった。それはただ暗い足元を照すと云うばかりではなく、その焔の変化によって爆発瓦斯ガスの有無を調べる最も貴重な道具でもあった。しかし先にも述べたように扱い方によっては甚だ危険なものであるから、炭坑はこれに専用者の番号をつけて、坑口の見張所でいちいち入坑の時に検査をさしていた。その安全燈ランプの一つが所属不明で転っていたと云うのであるから係長の顔は瞬間固くなった。
「何番だ?」
の百二十一です」
の百二十一?」
 監督が首をかしげた。係長は炭車トロから飛び降りると、運搬夫あとむきへ顎をしゃくっていった。
「見張所へ行って、の百二十一の坑夫は誰だか、直ぐに聞いて来てくれ」
「こういうゴテゴテした際に」監督が乗り出して云った。「こんなだらしのないマネをする奴がいるから困る」と坑夫へ向って、
「いったい、何処で拾ったんだ」
「水呑場の直ぐ横に、置き忘れたように転っていました」
 水呑場――とは云っても、自然に湧き出す地下水を水甕みずがめに受けているに過ぎなかった。それはこの片盤では、突当りの坑道にあった。そこは片盤坑道の終点になっていて、そこには穴倉や一寸した広場もあった。広場には野蛮な便所もあった。坑夫達は口が渇くと、勝手にそこへ出掛けては水を飲んだ。
「置き忘れただって? よし、その坑夫が判ったら処罰するんだ」
 監督は苛立たしく呶鳴りつけた。係長は、そこらにうろうろしている運搬夫あとむきたちが、皆んな安全燈ランプを持っているかどうかと見廻わした。むろん誰れも闇の世界で光を忘れているものはなかった。この場合、忘れると云うことは絶対にあり得ない。それは恐らく、忘れたのではなくて、故意に置いて行ったとよりとりようがない。故意に置いて行ったということになると、恐らくその坑夫は、光が不要であったか、それとも有っては却って邪魔になったか――しかしそんなことを詮索しているうちに、さっきの運搬夫あとむきの女が、炭車トロを持たずに蒼くなって駈け戻って来た。
の百二十一は、死んだ峯吉の……」
「なに?」
「ハイ、その峯吉ッつァんの安全燈ランプだそうです」
「なんだって? 峯吉の安全燈ランプ……」
 係長は瞬間変テコな顔をした。
「待てよ。峯吉の安全燈ランプ……?」
 ――まさか、峯吉の安全燈ランプが出て来ようとは思わなかった。峯吉では、いまはもう処罰のしようもない。いや、処罰の処罰でないのと云うよりも、どうして又坑内で働いていて死んだ筈の峯吉の安全燈ランプが、いま頃こんなところから出て来たのであろうか?
 係長はなに思ってか急にいやアな顔をすると、その安全燈ランプを取り上げて、これも又同じように様子の変ってしまった浅川監督へ、顫え声で云った。
「とにかく、引挙げましょう。その上、ひとつよく考えてみるんですね。どうも、サッパリわけが判らなくなってしまった」

          四

 立山坑の菊池技師というのは、まだ四十に手の届かぬ働き盛りの若さで、東大工学部出身の秀才であったが、その癖蒼くなって机にかじりついているのが大嫌いで、暇さえあれば鉄砲を持って熊の足跡をつけ廻していようと云う――日焼のしたあから顔で、慓悍ひょうかんな肩をゆすって笑ったりすると、机の上の図面が舞って仕舞いそうな声を出す人であった。
 さて、報らせを受けてその菊池技師が、滝口坑へやって来た時には、請願巡査は管区の警察へ求援に出掛け、峯吉の安全燈ランプを発見した係長は、検屍も瓦斯ガス検査もひとまず投げ出して事務所へとじこもり、不安気な様子で頭痛あたまを抱えていた。
 係長は、しかし菊池技師の顔を見ると、幾分元気をとり戻した。そして直ちに発火坑の様子について説明しはじめたのであるが、いつの間にか話して行くうちに知らず知らず横道にそれて、発火事件が殺人事件に変ってしまうのだった。菊池技師もまた、始め単なる発火事件の処置を予期してやって来たのであるが、係長の訴えるような話を聞くうちに、段々その話のほうへ引き込まれて行った。係長は、丸山技師の殺害と四人の嫌疑者のことから、工手の殺害に峯吉の安全燈ランプの不思議な出現に至るまで逐一詳細に物語ると、最後にぶつかってしまった大きな矛盾と、その矛盾からシミジミと湧き出して来る異様な一つの疑惑を、疑い深くそれとは云わずにそのままそっくり技師の耳へ畳みこんでいった。
「こいつアどうも、熊狩りみたいに面白くなりましたね」
 菊池技師は、ひと通り係長の話を聴き終ると、そう云って事もなく笑ったが、内心ではかなり理解に苦しむと見えて、そのままふッと黙り込むと、困った風に考え込んでしまった。
「どうも、だし抜けにこんな変テコな殺人事件を聞かされたんじゃア勝手が違って戸惑いますよ」
 やがて技師が口を切った。
「しかし係長。あなたも人が悪いですね。なぜもっと、御自身の考えていられることを、アケスケに云ってしまわないんですか。いまあなたがどんな疑惑にぶつかっているか。むろん私にもそれは判る。そしてその疑惑が、どんなに子供っぽく、馬鹿気ているか、いや全く、論理をテンから無視したバカ話で、とてもまともに口に出せるような代物でないことも判ります。しかしその癖あなたは、その疑惑を頭から笑殺してしまうだけの勇気もないんでしょう。怒らないで下さいよ、係長。……そこで、そのあなたの頭痛の種を一掃してしまう手段が、ここに一つあります。なんでもないんですよ。発火坑を開放して見るんです。そうですね。発火当時にどれだけの熱が出たかは知れませんが、人間の骨まで燃えてなくなってしまうようなことは絶対にありませんからね」
「そりゃそうだ」と係長が云った。「鎮火も早かったんだからな。しかし、瓦斯ガスが出ている」
「でも排気してるんでしょう? だったら、そんなにいつまでも瓦斯ガスのある筈はないでしょうし、それに防毒面マスクだってあるんです。――あ、しかし、その前に係長」
 と技師はここで、なにか新らしい着想を得たと見えて、急に眼を輝し、辺りを見廻しながら云った。
「浅川さんは、どうしました?」
「浅川君か?……」
 と係長が後ろへ向き直ると、傍らにいた事務員が口を入れた。
「札幌の本社から電話で、出て行かれましたが……」
 けれどもその浅川監督は、待つほどもなく返って来た。技師は簡単な挨拶や前置きをすますと、直ぐに調子を改めて切り出した。
「実は浅川さん。変なことを云うようですが、その坑夫の塗り込めには、少くとも三人の人が手を下していた筈ですね? そして、あなたも、その一人でしたね?」
 監督の顔色がサッと悪くなった。技師は、うわ眼を使いながら、静かにあとを続けた。
「まだ、この殺人事件は、終りをつげていませんよ。どうやら今度は、あなたの番ですね。ああ、しかし」と技師は顔をあげて、わしく云いだした。「御心配には及びませんよ。いいですか、丸山君も古井君も、炭塊でやられていますが、あれは犯人が、武器を持っていない証拠ですよ。だが、あなたは、これから武器を持つことが出来ます。場合によっては、犯人を捕えることも出来ます。そうだ。出来るどころではない。犯人に狙われているんだから、この場合、あなただけが、犯人捕縛の最も有利な立場にあるんです。我々の前には隠れている犯人も、あなたの前にはきっと姿を見せますよ」
「成る程」係長が云った。「流石さすが熊狩りの先生だけあって、うまいことを云う」
 しかし菊池技師は、真面目で続けた。
「それで私は、ここでひとつお二人の前へ提案したいんですがね。つまり浅川さんに武器を持って頂いて、犯行の現場附近へ単身で出掛けて貰うんです。むろん私達は、あとから殿軍しんがりを承わる。武器さえ持って行けば、決して心配ないと思います。如何でしょう? こいつは、手ッ取早くていいと思うんですが」
 係長は直ぐに賛成した。
 監督は、一寸考えてから立上った。そして何処からかストライキ全盛時代に買入れたドスを一本持出して来ると、そいつのこじりでドンと床を突きながら、
「じゃ、殿軍しんがりを頼みますよ」
 云い残して、ひどく悲壮な調子で出掛けて行った。
 係長と菊池技師は、少しばかり時間を置いて、監督の後に続いた。が、水平坑を通って発火坑のある片盤坑の前まで来ると、技師は立止って、係長へ云った。
「一時間この片盤坑の出入りを禁止したら、どれ位出炭が遅滞しますか?」
「なんだって、片盤を止める?」
 係長が眼をみはった。
「そうです」
「冗談じゃアないよ。仕事をめるなんて……」
「だって、我々と行違ゆきちがいに、犯人がこちらへ逃げ出して来たらどうします」技師が云った。「どうです。この片盤だけでしたら、三十トン位のものでしょう? 係長。それ位の犠牲でしたら、ひとつ思い切って止めて下さい。危急を要する場合ですよ」
「どうも君は、算盤そろばんよりも狩猟のほうが好きらしいね」
 係長が仕方なく苦笑すると、技師は直ぐに片盤坑の入口の大きな防火扉を引寄せて、水平坑道でうろたえ始めた坑夫や小頭に事情を含め、係長と一緒に片盤坑へ飛び込むと、外側から防火扉を閉めて、小頭にかんぬきをかけさした。折から来合せた左片盤の炭車トロの行列は、直ぐにこの異常な通行禁止にぶつかると、峯吉の塗込めがあったばかりなので、夢中になって騒ぎはじめた。が、人びとは自分達と同じように密閉された係長や技師を見ると、直ぐにこれが悪性の密閉ではなく、なにか事情があっての通行禁止であることに気がつき、やがて起きはじめた騒ぎも、追々静まって行った。
 ところが、そうして出合う運搬夫あとむきたちへ因果を含めながら、片盤坑を奥へと進んで行った係長と菊池技師は、しかしとうとう密閉された峯吉の採炭場キリハの入口の近くで、全く予期しない出来事にぶつかってしまった。
 おとりになった浅川監督は、人一倍優れた膂力りょりょくを持っていたし、その上武器も持っていれば、張り切った警戒力も備えていた筈であった。おまけに相手は武器も持たずに隠れているのだ。それで危険はない筈であったのであるが、しかしそれにもかかわらず、係長と技師が目的場所に着いた時には、もう監督は路面の上で全くこと切れていたのであった。
 仰向きになって大の字なりに倒れた屍体の上には、殆んど上半身を覆うようにして、前より一層大きな、飛石ほどもあろうと思われる平たい炭塊がのしかかっていた。その炭塊は他所よそから運ばれたものではないと見えて、すぐ傍らの炭壁の不規則な凹凸面には、いかにも落盤のように、炭塊を叩き落したらしい新らしい切口があり、路面には大小様々の炭塊が、屍体を取り巻くようにしてバラバラと崩落ちていた。殴り倒された浅川監督の瀕死体の上へ、残忍な殺人者の手によって最後の兇器が叩き落されたのだ。
 係長は、思わず監督のドスを拾いあげて、辺りを見廻しながら、技師と力を合せて屍体の上の炭塊を取り除けた。屍体は首も胸もクシャクシャに引歪められて、二タ目と見る事も出来ないむごたらしさだった。
 ホンの一足遅くれたために、貴重な囮は、殺人者の姿をさえも見ることも出来ずに逆に奪われてしまった。予期しなかった危険とは云え、これは余りに大き過ぎる過失であった。二人は烈しい自責に襲われながらも、しかしこの出来事の指し示す心憎きまでに明白な暗示に思わずも心を惹かれて行くのであった。復讐は為し遂げられたのだ。しかも武器も持たずにこのように着々と大事を為し遂げて行く男は、いったい何者であろうか。犯人はこの片盤内にいるただの坑夫か、それとも――係長は、発火坑の鉄扉の上へ視線を投げた。鉄扉の前へ近づいた。手を当てた。が、なんとそれはもうすっかり冷め切っていた。菊池技師は排気管を調査した。が、瓦斯ガスももう殆んど危険のないまでにうすめられていた。二人は舌打ちしながら力を合せて、鉄扉の隙の乾いた粘土を掻き落しはじめた。
 間もなく粘土がすっかり剥ぎ取られると、技師は閂を跳ね上げて、力まかせに鉄扉を引き開いた。異様な生温い風が闇の中から流れて来た。二人は薄暗い安全燈ランプの光を差出すようにしながら、開放された発火坑に最初の足跡をしるして踏み込んだ。踏み込んですぐその場から安全燈ランプを地上へ差しつけるようにしながら、峯吉の骨を探しはじめた。が、みるみる二人は、なんともかとも云いようのない恐怖に叩ッ込まれて行った。
 峯吉の骨がない!
 いくら探してもない。墨をかけられた古綿のように、焼け爛れた両側の炭壁は不規則な退却をして、鳥居形に組み支えられていた坑木は、醜く焼け朽ち、地面の上に、炭壁からにじみ出たコールタールまがいの瓦斯ガス液が、処々異臭を発して溜っているだけで、歩けども進めども、峯吉の骨はおろか、白い骨粉ひとつさえない。二人はまるでものに憑かれたように、坑道の中をうろたえはじめた。が、やがて曲ったりふくれ浮いたりしていたレールが、急にあめのようにひねくれ曲って、焼け残った鶴嘴や炭車トロの車輪がはねとばされ、空気がまだ不気味な火照ほてりを保っている発火の中心、つまりその採炭場キリハの終点まで来てもそれらしい影がみつからないと、いよいよ事態の容易ならざるに気づいたもののようにそのままその場に立竦んでしまった。
 最悪の場合がとうとうやって来たのだ。先にも云ったように、採炭坑は謂わば炭層の中に横にクリあけられた井戸のようなもので、鉄扉を締められた入口のほかには蟻一匹這い出る穴さえないのであった。その坑内に密閉されて火焔に包まれてしまった筈の峯吉の屍体が、屍体はともかく、骨さえも消えてしまうなぞということは絶対にない筈である。ところが、そのない筈の奇蹟がここに湧き起った。係長は、己れのふとした疑惑が遂に恐るべき実を結んだのをハッキリ意識しながら、思わず固くなるのであった。――
 恰度、この時のことである。
 不意に、全く不意に、あたりの静かな空気を破って、すぐ頭の上のほうから、遠く、或は近く、傍らの炭壁をゆるがすようにして、
 ……ズシリ……
 ……ズシリ……
 名状し難い異様な物音が聞えて来たのだ。
 瞬間、二人は息を呑んで聞耳を立てた。が唸るとも響くともつかぬその物音は、すぐにやんで、あとは又元の静けさに返って行った。
 しかし、永い間炭坑に暮した人びとには、その物音が何であるか、すぐに判る筈であった。
 それは、すっかり採炭し終った廃坑の、炭柱を崩し取って退却する時なぞに、どうかすると聞くことの出来る恐ろしい物音であった。炭柱を抜くと、両壁にゆるみのある場合なぞ地圧で天盤が沈下する。沈下は必らず徐々に間歇的に行われるが、坑木がむっちり挫折し始め、天盤に割れ目の生ずる際に、その異様な鳴動が聞えるのであった。謂わば崩落の前兆であるその物音を、炭坑の人びとは山鳴りと呼んで恐れていた。
 この場合の物音が正しくそれであった。発火坑内の坑木が焼け落ちてしまい、発火と同時ににわかに膨脹した坑内の気圧が、やがて徐々に収って行くにつれて、両壁がゆるみ、少しずつ天盤の沈下がはじまったのに違いない。
 係長は、蒼くなって安全燈ランプを天井へさし向けた。けれどもそこには、一層恐ろしいものが待ち構えていた。
 頭の上に押し迫った天盤には、わにのような黒い大きな亀裂が、いつ頃から出来たのか二つも三つも裂けあがって、しかもその内側まで焼け爛れた裂目の中からは、水滴が、ホタリホタリと落ちていた。水が廻ったのだ。係長はその水滴に気がつくと、直ぐに手を出してしずくを一つてのひらに受け、そいつを不安げに己れの口へ持って行った。が、瞬間ギクッとなって飛び上った。
 考えて見れば、天盤も崩落も、火災も地下水も、炭坑にとってはつきものである。滝口坑にしてからが、いつかはそうしたこともあろうかと、最善の防禦と覚悟が用意されていたのであるが、そして又そうした用意の前には、決して恐るるに足りない物なのであるが、しかしいま、係長の舌の上に乗ったこの水一滴こそは、実に滝口坑全山の死命を決するものであった。もはや如何なる手段も絶対に喰止めることの出来ないその水は、地下水でもなければ、瓦斯ガス液でもない。それは至極平凡な、ただの塩水であった。
失敗しまった!」
 最初の海の訪れを口にした係長は、思わず顫え声で叫んだ。
「こいつは人殺しどころではない。とうとう海がやって来たのだ!」
 ところが、こうした大事を目の前にして、その頃から菊池技師の態度に不思議な変化が起って行った。それは放心したような、立ったまま居睡りを始めたような、大胆にも異様に冴え切った思索の落つきであった。
「相手が海では、かないませんよ」
 やがて技師が、冷然として云い放った。
「さア、諦めなさい、係長。そしてまだ充分時間があるんですから、落付いて避難の仕度にかかりましょう。ところであなたはいま、人殺しどころではないと云いましたね? 成る程、そうかも知れません。しかし、この塩水と人殺しとは、決して無関係ではないんですよ。係長、あの裂目の内側まで焼け爛れた大きな亀裂に、注意して下さい。私にはなんだか、この事件の真相が判りかけたらしいんです」

          五

 さて、それから数分の後には、密閉された片盤坑を中心にして、黒い地下都市の中に、異常な緊張がみなぎりはじめていた。
 崩落に瀕した廃坑に、再び重い鉄扉を鎖した係長は、慌しく電話室に駈けつけると、立山坑の地上事務所と札幌の本社へ、海水浸入の悲報をもたらした。続いて狭い竪坑の出口で圧死者などの出ないように、最も統制のとれた避難準備にとりかかった。
 一方菊池技師は、熊狩りで鍛えた糞度胸をいよいよムキ出しにして、問題の片盤坑の鉄扉を抜け出ると、再びそいつを鎖し、水平坑の小頭達を呼び寄せて、鎖した入口を厳重に固めさした。残忍な殺人者は、深い片盤坑のどこかにいるのだ。その男の捕えられるまでは、何人なんびとといえども片盤坑から抜け出る事は出来ない。こうして水も洩らさぬ警戒陣が出来上ると、技師は広場の事務所へやって来た。
 広場では、竪坑に一番近い片盤の坑夫達が、突然下った罷業の命令に、訳の判らぬ顔つきで、ざわめきながらも引揚げはじめていた。いくつかの片盤の小頭達へ、次々に、何かしきりと指図し終った係長は、技師を見ると馳け寄って云った。
「さア今度は、左片盤の番だよ。出掛けよう」
「待って下さい」技師が遮切さえぎった。「その前に、二、三調べたいことがあるんです」
「なんだって」
 係長は吃驚びっくりして、苛立ちながら云った。
「この際になって、どうして又そんな呑気なことを云い出したんだ。もう犯人は、あの片盤の中に閉籠められているんじゃないか。そいつを叩き出して、少しも早くあの片盤を開放しなくちゃアならん」
 しかし、菊池技師は動かなかった。
 とうとう係長は、技師が来るまで坑夫を外に出さない条件で、一足先に捜査を申出た。
 係長が水平坑の闇の中へ消えてしまうと、菊池技師は、別室であのまま足止めされていたお品を、すぐに事務所へ呼び込んだ。お品は、やがて問われるままに、大分落ついた調子で、もう一度発火当時の模様を、前に係長にしたと同じように繰返しはじめた。が、やがて、女の陳述が終ると、菊池技師は力を入れて訊き返した。
「では、もう一度大事なことを訊くが、お前が発火坑から逃げ出して、監督や技師や工手たちが駈けつけて防火扉を締め切ったその時には、確かにその場に峯吉は出ていなかったのだな?」
「ハイ、それに間違いありません」
 お品は、腫れた瞼をあげながら、ハッキリ答えた。
 技師は頭の中で何事か考えを整理するように、一寸眼をつぶったが、すぐに立上ると、電話室へ出掛けた。十分間もすると戻って来た。多分長距離電話であったのであろう。しかし戻って来た菊池技師は、抜け上った額に異様な決断を見せながら、お品を連れて、水平坑へはいって行った。
 密閉された片盤坑の前には、二、三の小頭たちと一緒に、どうしたことか係長が、ドスを持ったまま蒼くなって立っていたが、技師を見ると、進み寄って口を切った。
「菊池君。どうも困った事になった」
「どうしたんです」
「それがその、全く変テコなんだ。実は、この片盤には犯人がいないんだ。坑道はむろんのこと、どの採炭場キリハにも、広場にも、穴倉にも、探して見たがいないんだ」
 すると菊池技師は、落着いた調子で、意外なことを云いだした。
「いったいあなたは、誰を捜しに入坑したんです?」
「え? 誰を捜しにだって?」係長は思わずうろたえながら、「犯人にきまってるじゃアないか」
「いやそれですよ。あなたはさっきから犯人犯人と云われたが、いったい誰のことを云われるんです?」
「なんだって?」
 係長は益々うろたえながら、
「坑夫の峯吉にきまってるじゃアないか」
「峯吉?」
 と云いかけて菊池技師は、困ったような顔をしながら黙ってしまった。が間もなく側の炭車トロへ腰かけながら、静かに改まった調子で口を切った。
「いや、実は私も、さっきあなたと一緒にこの片盤にはいった頃には、まだ犯人が誰だか、よく判らなかったんですよ。それで片盤坑に確かに犯人を閉込めてはいながら、いったい誰を捜してよいのか、犯人犯人と抽象ばかりで、誰を捕えたらそれが犯人になるのか、サッパリ判らなかったんです。しかしいま私は、その具体を掴むことが出来た」
 菊池技師は炭車トロから腰を降ろすと、係長の前まで歩み寄って、あとを続けた。
「私の掴んだ具体は、どうやら、あなたの掴んだ具体よりも、正しいらしい。――係長。どうもあなたは、この事件に就いて全体に大きな勘違いをしてるらしいですよ。あなたは事件の表面に表われた幾つかの事実と、それらの事実の合成による或るひとつのもっともらしい形にとらわれ過ぎて、論理を無視しています。――一人の坑夫が塗り込められ、その塗込めに従事した人びとが次々に殺害される。ところが嫌疑を掛けた坑夫の遺族の中には犯人はいない。そしてその代り塗込められて死んだ筈の坑夫の安全燈ランプが、発火坑以外の或る箇所で発見され、発火坑を調べてみるとその坑夫の屍体はおろか骨さえない――とこれだけの事実の組合せから、あなたはその塗込められた坑夫自身が何等かの方法で生き返って坑外へ抜け出し、自分を塗込めた男達へ復讐しはじめた、と云う至極もっともらしい疑惑を抱いたわけでしょう。しかしそのもっともらしさは論理ではなくて、事実への単なる解釈であるに過ぎませんよ。その解釈が如何にもっともらしい暗示に富んでいても、そのために、絶対に抜け出ることの出来ない坑内から抜け出した、と云う飛んでもない矛盾をそのまま受け入れてしまうことは出来ません」
「それで君は、どう考えたんだ」
 係長が苦り切って云った。技師は続けた。
「手ッ取り早く云いましょう。私はあの発火坑で、坑夫の骨さえ見当らなかった時に、その時から新しく考えはじめたんです。――まず坑内には骨さえないのですから、峯吉はどこからか外へ出たに違いない。ところが、いちいち探すまでもなく、防火扉を締めたら間もなく鎮火したと云うのですから、これは消甕けしがめみたいなもので、防火扉のところよりほかにあの坑内には絶対抜け穴はない。それでは峯吉は防火扉のところから出たに違いない。ところが、防火扉の閂は外側にあるし、隙間に塗込めた粘土は塗られたままに乾燥していて開けられた跡はなかった。つまり防火扉は締められてから私達がさっき開けた時までには絶対に開放されていないことになります。すると峯吉は、どうです、そもそも防火扉の締められる前に抜け出ていた、ということになるではありませんか……ところで、ここまで進んだ新らしい目で、ほかの事実を調べてみます。――この可哀相な女は、あの時、男の跫音あしおとを後ろに聞きながら発火坑を飛び出したのでしたね。そして飛び出してホッとなって後ろを振返った時には、もう爆音を聞いて駈けつけた浅川監督が、防火扉を締めかけていた。そして締めてしまった。続いて技師が来、工手が駈けつけて、塗込めがはじまる……ここが肝心なところですよ。いいですか、峯吉は防火扉の締められる前に出ていなければならないのですから、その時女のあとから飛び出して来て、そして浅川監督が防火扉を締めるまえに飛び出したことになるのです。つまり飛び出してホッとして振返った女と、防火扉を締めかけた浅川監督との間のなにもなかった空間に、峯吉がいたわけです……」
「待て待て、君の云うことは、どうも判るようで、判らん」
 係長が、顔をしかめながら遮切るようにして云った。技師は構わず続けた。
「いや、判らないのも無理はないですよ。私だって、こうして理詰めで攻め上げたればこそ、やっと少しずつ判りかけて来たのですから……全く、その時そこで、なんとも変テコなことが起ったんですよ。運命の悪戯いたずらとでも云う奴なんです」
 云いかけて、技師は、傍らに立っていたお品のほうへ向き直った。
「お前にもうひとつ聞きたいことがあるんだ……お前は、あの時炭車トロを押して捲立まきたてから帰って来ると、片盤から自分の採炭場キリハへはいって行き、そこの闇の坑道でいつもそこまで迎に出ている峯吉に飛びついて行ったと云うが、その男は確かに峯吉であったか?」
 お品は、意外な技師の言葉に、瞬間息を呑んで目を瞠った。
「お前は、峯吉がいつもそこの闇の中で、抱いてくれると云ったろう。闇の中でそうしてその時お前を抱いた男は、確かに峯吉に相違なかったか?」
「……はい……」
「それではもうひとつ聞くが、その時峯吉は安全燈ランプを持っていたか?」
「持ってはいませんでした」
「お前の安全燈ランプはどうしていた?」
炭車トロの尻につけていました」
「するとその安全燈ランプの光りは、枠に遮切られて前のほうを照らさずに、炭車トロの尻の地面ばかりを照らしていたわけだな……お前は、走っている炭車トロをそのまま投げ出して峯吉へ飛びついたと云ったが、それではその峯吉の前へ炭車トロが行くまで、安全燈ランプの光りは峯吉の顔を照らさなかったわけだし、峯吉の前を炭車トロが走り去って炭車トロの尻につけた安全燈ランプの光りが始めて峯吉に当った時には、峯吉の体は光りを背に受けて影になって浮上るではないか。どうしてお前はそれが峯吉だったと見ることが出来たのだ?」
「……」
 お品は訳の分らぬ顔をして、俯向いてしまった。が、その顔には隠し切れぬ不安がみなぎっていた。技師は係長へ向き直った。
「もう、私の考えていることが、いや、こうよりほかに考えざるを得ないことが、大体お判りになったでしょう……つまり、峯吉は、あの発火の時に、てんから坑内には入っていなかったのですよ」
「待ち給え」係長が遮切った。「すると君は、この女が闇の中で抱きついた男と云うのは、峯吉ではなかったと云うんだな?」
「そうです。峯吉は外にも中にもいなかったのですから、いやでもそう云うことになるではありませんか」
「じゃア、いったいその男は誰なんだ」
「女のあとから飛び出して、しかも坑内には残されなかったのですから、その時女のうしろにいて、防火扉のまえにいた男です」
 係長は、意外な結論に驚いて黙ってしまった。が、直ぐに勢いを盛り返して、
「どうも君の云うことに従うと、事件全体がわけの判らぬ変チクリンなものになってしまうぜ。例えば、峯吉は発火の時にその場にいなかったとすると、いったい何処へ行っていたんだ」
「さア、それですよ」と技師はひと息して、「ここでもう一つの他の事実を、そこまで進んだ新らしい目で見ます。……つまり、水呑場にあった安全燈ランプですが、あなたは、その安全燈ランプを、密閉後抜け出した峯吉が、人殺しの邪魔になるから置いて行ったと解釈されたでしょう。しかしいま私は、その安全燈ランプを、発火当時坑内にいなかった峯吉の所在を示すものと解釈します。峯吉は、水呑場へ行っていたんです」
「成る程。じゃアなんだな。峯吉は全々発火に関係していなかった。つまり決して塗込めに関係していなかったんだな。それでは、何故その塗込められもしない峯吉が、塗込めに関係した恨みもない人々を次々に殺害したのだ」
「どうもあなたは、まだ誤った先入主にとらわれていますね」
 菊池技師は苦笑すると、両手を握り合して苛立たしそうに歩き廻りながら云った。
「私がいままで考え進めて来た範囲では、まだ犯人が誰であるかと云う点には、少しも触れていなかった筈ですよ。ところで、ここでもう一つほかの事実を調べて見ましょう。それはこの殺人に就いてなんですが、三つの殺人には、考えて見るとそれぞれバラバラに殺害されているようで、その実面白い幾つかの連絡がみられます。まず兇器ですが、三人が三人とも炭塊で叩き殺されております。炭塊で殺されていると云うことは、なんでもないことのようですが事実は決してそうでない。係長。あなたは統計に現われた坑夫仲間の殺傷事件について、兇器は何が一番多いかご存じでしょう。鉄槌かなづちに鶴嘴ですよ。全くこれくらい坑夫にとって、手近で屈強な武器はありませんからね。しかも坑夫たちは安全燈ランプと同じように、大事な仕事道具として必らず一つずつは持っております。ところがこの事件で犯人は、珍らしくもそれぞれの被害者へ対して凡て炭塊を使っております。この事実を、事件全体のなんとなく陰険な遣口やりくちなぞと考え合せて、炭塊以外に手頃な兇器の手に入らない人、つまり坑夫でない人の咄嗟とっさにしでかして行った犯行でないか、とまあ考えたわけなんです。ところであなたは、この事件の被害者達が、何故同じように殺されて行ったかという共通した理由を、塗込められた男の恨みによるものと、解釈されたでしょう。ところが、事実は塗込められた男なぞないんですから、その考えは、おのずから間違ったものになって来ます。むろん三人は、峯吉が塗込められたと勘違いしている、遺族からは、共通な恨みを買っているでしょう。ところが遺族の中には犯人はいないのでしょうからこれも又問題になりません。それではほかに被害者達の殺害される共通の理由はなかったかと云うと、いやそれがあるんです……私は、暫く前からそのことには気づいていましたが、被害者達は、皆一様に少しも早く発火坑を開放するための鎮火や瓦斯ガスの排出工合を検査している時に、殺されております。これを別様に考えると、仕事の邪魔をされたわけであり、あなたが発火坑を開放して少しも早く発火真相の調査にかかりたいという、そのあなたの意志の動きを阻害されたわけなんです。もっとハッキリ云えば、犯人は、ある時期まで、あなたに発火坑の内部を見られたくなかったのです。それで少しでも発火坑の開放を遅くらそうとしたのです」
「待ち給え」
 再び係長が遮切った。
「いったいその犯人は、なにをそんなにわしに見られたくなかったのだ。さっき君と二人で、あの発火坑を調べた時には、この殺人事件と関係のあるようなものは、なかったではないか」
「ありましたとも。係長。しっかりして下さいよ。我々はあの発火坑で重大な発見をしたではありませんか。密閉された筈の峯吉がいないという大発見を、いやそんなことではない。もっと大きな発見、あの天盤の亀裂と塩水です!」
 この言葉を聞くと、辺りに立っていた坑夫達の間には、異様な騒ぎが起りはじめた。海水の浸入! この事実に較ぶればいままでの殺人事件なぞ、坑夫達にとってはなんでもない。技師は、燃上る瞳に火のように気魄をこめて、人々を押えつけながら係長へ云った。
「片盤を開けて下さい。そしてもう、炭車トロを皆出してやって下さい」
 やがて幾人かの小頭の、あわておののく手によって、重い鉄扉が左右に引き開かれると、片盤坑の中からワアーンと坑夫達のざわめきが聞えて来た。汗にまみれた運搬夫あとむきの女達が、小麦色の裸身をギラギラ光らして炭車トロを押出して来ると、技師は進み出て呶鳴りつけた。
「皆んなここで石炭をブチ撒けて引きあげろ。タンをあけて行くんだ」
 女達は瞬間技師の奇妙な命令に顔を見合せて立止ったが、すぐその側から係長が黙って頷いているのを見ると、わけもなく技師の命令に従って行った。
 滝口坑の炭車トロは、凡て枠のホゾをはずすと箱のガタンと反転する式のダンプ・カーであった。運搬夫あとむきたちは技師の命に従って、次々に出て来ると、その場で箱を反転さして積み込んだ石炭をザラザラとあけていった。みるみるそこには石炭の山が出来あがった。が、十二、三台目の炭車トロが箱を反転さした時に、ここでとてつもないことが持上った。
 大きな箱の中からザラザラと流れ出た石炭の中から、炭塵に黒々とまみれた素ッ裸の男が、転ろげ出て、跳ね起きて、面喰らってキョトキョトとあたりを見廻わした。係長が叫んだ。
「やや、浅川監督!」
 全くそれは、炭塊に潰されて死んだ筈の浅川監督であった。咄嗟に身構えて飛びかかろうとする奴へ、すぐに技師は、係長からひったくったドスで思い切りひたっと峯打ちを喰らわした。
 監督がぶっ倒れると菊池技師は、魂消たまげた係長とお品を連れて、立ち騒ぐ坑夫たちを尻目にかけ、炭車トロに乗って開放された片盤坑へはいって行った。間もなく発火坑の前まで着くと、技師は、そこに置かれたままの「浅川監督の屍体」を顎でしゃくりながらお品へ云った。
「この死人をよく見てくれ。都合で監督の猿股などはかされているが、お前には、見覚えのある体だろう」
 始め女は、死人におびえて立竦んでいたが、やがて段々死人のほうへ前かがみになると、誰の顔とも判らぬまでに烈しく引歪められたその顔に、灼きつくような視線を注ぎながら、進み寄り、屈みこんで、不意に妙な声をあげて死人の体を抱えあげながら、振返ってしゃがれ声で云った。
「うちの、峯吉です」

          六

 その頃、滝口坑では全盤に亘って、技師の洩らした言葉が激しい衝撃を与えていた。始め一番坑から続々出坑して、あと半数ほどに残されていた坑夫達の間には、ひとたび海水浸入の事実が知れ渡ると、もうそこには統制もなにもなかった。人びとは炭車トロを投げ出し、鶴嘴を打捨てて、捲立まきたてへ、竪坑へ、潮のように押寄せて行った。広場の事務所では、何処からかかるのか電話のベルがひッきりなしに鳴り続け、滝口立山の両坑を取締る地上事務所から到着した救援隊は、逃げ出ようとする坑夫達と、広場の前で揉合っていた。
 どん尻の炭車トロに飛び乗って、竪坑口へいそぎながらも、しかし係長は捨て兼ねたような口調で、技師へ訊ねるのであった。
「つまり丸山技師と工手と、それから峯吉を殺した男は、浅川監督だったんだね?」
 技師が黙って頷くと、
「じゃア一番あとから殺された峯吉は、それまで何をしていたんだ」
「峯吉は一番さきにやられたんです」
「一番さき?」
「そうです。恐らくあの水呑場で屠られたんでしょう。そして峯吉の屍体を、ひとまずそばの穴倉へでも投げ込んだ監督は、それから、あの採炭場キリハへ火をつけたんです」
「なんだって、火をつけた?」
 係長は思わず訊き返した。
「そうですよ。あなたは、あれがただの過失だなんて思ったら大間違いです。レールの上へ峯吉の鶴嘴を転がして置いて、闇の中で女を抱きとめ、夫婦の習慣と女の安全燈ランプを利用して、炭塵に点火したんです。あれは実際陰険きわまるやり口ですよ。ああして置けば、あとで監督局の調査があった時にも、発火の責任は、自分のところへは来ませんからね」
「しかし、何故また、あの採炭場キリハに火をつけたりしたんだ」
「それですよ」と技師は次第に声を高めながら云った。
「さっきも云いましたように、それはあの採炭場キリハの中に、或る時期までは絶対に人に見せてならないものがあったからなんです。だから、ああして発火坑にして人を入れないことにし、そしてまた、あとからその扉を開けようとして熱瓦斯ガスの検査にかかった丸山技師と、工手を同じ目的のために片附けてしまったんです。するとあなたは、ここで、じゃア何故我々だけは無事にあの扉を開けることが出来たのか、って訊かれるでしょう。それは、もうその時、或る時期が過ぎたからなんです。しかも、あの時私みたいな男がやって来て、それまで皆んなの考えが、折角監督の思う壺にはまって来ているのに、もしもこの殺人が坑殺者への復讐であるなら、監督も今度は殺されなければならないなぞと云い出したものですから、切羽詰って穴倉の峯吉の屍体をずり出し、いかにも自分がやられたように見せかけて、炭車トロに人知れず潜り込んで厳重な警戒線を突破り、もう用もなくなったこの滝口坑から逃げ出そうとしたんです」
「待ってくれたまえ」係長が遮切った。
「君はさっき、その監督が人に見られまいとしたものは、あの天盤の亀裂と海水の浸入だと云ったね。しかしこれは、やっぱりこの殺人事件とは全然別の事変だし、おまけにあの採炭場キリハに火がつけられた時には、まだ天盤に異動はなかったんではないか?」
「冗談じゃあない。海水の浸入とこの殺人事件とは、密接な関係がありますよ。そして係長。あの天盤の異動は、むろん発火によって一層促進されはしたでしょうが、実はもう発火前から動いていたんですよ。多分地殻が予想外に弱かったんだ。それに、この事は係長。もうあの時注意したではないですか。よく思い出して下さい。ほら、あの亀裂は、内側まで焼け爛れていたではありませんか。つまり焼けてから裂けたんではなくて、裂けてから焼けたんです。そうだ。監督は誰よりも先に、あの亀裂と、滴り落る塩水を、みつけていたんですよ」
「成る程。しかし何故監督はこんな危険をそんなに早くから知っていながら、何故我々にまで隠そうとしたんだ。そして又、君の云う、その或る時期までとは何のことだ」
「それが、この事件の動機なんです。監督は、海水浸入の事実を最初に発見すると、そいつを某方面へ報告したんです。そしてこの恐ろしい事実の外に洩れるのを、或る時期まで喰い止めることによって、かなりの報酬にありつけることになってたんでしょう。或る時期とは、ほら、あなたも知ってるでしょう。私が此処へ着いた時に、札幌から監督へ電話が掛って来たでしょう。あれですよ。あれに違いないんです。この考えには、間違いはありませんよ。私は自分の疑惑を確かめるために、さっき思い切って、小樽の取引所へ電話を掛けて見たんです。するとどうです。中越炭坑株が、今日の午前の十一時頃から、かなり大きく動き出しているんです。十一時頃からですよ。係長。現場の我々よりも会社の重役のほうが、数時間前に滝口坑の運命を知っていたんです」
 技師はそう云って、もう見えはじめた事務所の灯のほうへ、なにかまだ解けきらぬ謎を追い求めるようなうつろな視線を、ボンヤリ投げ掛るのであった。
 ところが、それから十分もしないうちに、竪坑口で逃げ惑っている人びとを思わず釘付けにするような、不意にグラグラッと異様な地響きが、滝口坑全盤にゆるぎわたった。そして間もなく、坑側の流水溝には、何処から湧き出づるのか夥しい濁水が、灼熱した四台の多段式タービン・ポンプを尻目にかけて、一寸二寸とみるみる溢れあがって行くのであった……。
(「改造」昭和十二年五月号)





底本:「とむらい機関車」国書刊行会
   1992(平成4)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「改造」改造社
   1937(昭和12)年5月号
初出:「改造」改造社
   1937(昭和12)年5月号
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:A子
校正:川山隆
2007年9月1日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について