夜光命の手には四合入の瓢箪、裸男の手には三合入の瓢箪、誰の目にも其れと知らるゝ花見と洒落たり。
大塚驛より日暮里驛までは電車、日暮里驛にて水戸行の汽車を待合はす。同じく電車を出でて、同じく待合はす一人の囚人、看守に引かれて、プラツトホームの一方に孤立す。誰も之に近づくを避く。中には、『泥棒々々』とさゝやく者もあり。夜光命は先年電車事件の際、東京市民の爲に起ち、兇徒嘯集罪に問はれて、獄に下されしことありける身也。この語を聞きつけて、『世人は囚人を見れば、直ちに泥棒なりと思ふこそ情けなけれ』とて、同情に堪へざるさま也。なほ語を次ぎて、『巣鴨監獄より小菅監獄に移さるゝものなるべし』と云ひしが、果して北千住驛に下りぬ。小菅監獄を右方數町の外に見る。これ夜光命が二年半の歳月を過ごしたる處とて、感慨無量なるべし。見えずなるまで目送す。
不動の成田と仁王の芝山との中間、成田よりも三里、芝山よりも三里の標石ありたれば、三里塚と稱せりと聞く。實は芝山より二里強、成田より二里弱也。數方里の地御料牧場となれるが、その中心の三里塚附近は、この頃櫻の名所となれり。櫻樹の數、實に三萬五千本と稱す。驛を出でて、一二町にして土手に突當る。牧場の一部にて、土手の中に半開の櫻花列を爲す。左折すること二三町にして、右に牧場事務所の門を入れば、庭に一株の老櫻あり。花いまだ開かざるが、幹は二抱へもあるべく、四方八方に枝を張りて、恰も傘の如し。老櫻とは、名づけ得て當れり。低けれども、見事なる老木也。
門を出でて進みゆくに、十字街を爲せる處より、人家兩側に連なる。新開の寂しき町なれど、宿屋もあり、飮食店もあり。家毎の前に、桶を置く。大さ凡そ四斗樽ぐらゐ、黒く塗りて、擔げるやうに綱をつく。水、其の中に滿てるが、いたく濁れり。飮用水とは見えず。火災に備ふるにやなど語り合ひつゝ、五六町にして、町はづれに至る。後より芝山行の空馬車來りけるが、御者車を停めて、乘らむことを勸む。『仁王の參詣者に非ず。唯花見に來りたるなり』といへば、御者また強ひず。『この路を進めば、櫻ありや』と問へば、『有るには有れど、見るに足らず。今少し行きて、左折し、更に左折したる處は、九年畑とて、櫻多し』と、幾度も同じことを繰返す。年は五十を越えたるべく、長くして品の好き顏、赤きこと熟の如し。近寄らば、熟の臭ひもあるべし。醉へることは、其の顏を見るまでもなく、其の話振にても分りたるが、その管卷くを見れば、根が正直の善人なるべし。春風に顏を吹かれながら、櫻花の間に馬を驅るさま、如何にも風流げなれど、客なくてはと憐れ也。
九年畑に至れば、凡そ五六町の間、半開の櫻花、路の兩側に連なる。なほ一列の櫻、右に分れて、方數町の畑を圍む。櫻の外は、長松の林あり。内は麥長じて青し。左も畑なるが、畑の盡くる處、林あり。三里塚の人家の裏も見ゆ。花のトンネルを行き盡して十字街に戻り、一店に就いて、『九年畑の外、櫻の多き處は』と問へば、『西の方五六町、
三里塚驛前の茶亭に休憩して、汽車を待つ間に、瓢に殘れる酒を飮み盡しぬ。汽車に乘りたるに、日暮れたり。燈火の設備なし。二十世紀の文明の世の中、こゝの夜汽車だけは闇なりき。
(大正五年)