宗吾靈堂

大町桂月




西の琴平、東の成田不動、汽車をひかへて、參詣者年に數十百萬の多きに及ぶ、迷信の絶えぬ世なる哉。天慶の亂、寛朝、成田に不動尊をもち來りて、平將門を調伏せりとて、貞盛、秀郷の功を奪ひ、もち歸らむとするに、重くなりて動かずと欺きて、勅命を博して寺を建つ。道譽もと愚鈍なりしも、こゝに參籠持念して、大智の人となりたりなどと、有難みを付けて、靈驗今に顯著也。神佛の御利益、無しと思へば無し、有りと思へば有り。好運を得れば御利益と有難がり、得ざれば信心が足らぬと諦め、死ぬべき處を、御利益のおかげにて怪我ですみたりと自から慰めて、げに神佛の徳は、廣大無邊也。鰯の頭を拜するも、佛像を拜するも、進んで主義を奉ずるも、己れを信ずるも、つまる處は、安心を得て、活動力を増すに外ならず。道學先生よりは、稻荷の穴の狐の方が、ひろく世を益し、今の世の自稱神佛の輩よりは、成田不動が更に大いに人を救ふ也。
 東京より成田に赴かむには、上野よりしてもよく、兩國橋よりしてもよし。兩國橋驛を午前七時に發すれば、千葉、佐倉を經て、九時三十分に着し、上野驛を午前七時二十分に發すれば、千住、我孫子、安食を經て、九時二十分に着す。賃錢はいづれも、三等が七十二錢、宗吾靈堂へまはるも、らくに、日がへりが出來る也。
 成田停車場は、成田の町の南端に在り。汽車を下りて北に、旅店酒樓の間を往くこと七八町、坂を下れば更に丘陵ありて、不動堂之に據る。石橋をわたれば、石路通ず。左に新勝寺の本坊あり、右に三佛堂あり。石段を上れば、仁王門あり。巖石峨々たるの處、瀑かゝり、池あり。橋をわたり、石段を上りて、不動堂に達す。右に三重塔あり。堂の後ろも、巖石峨々として、石段左右に通ず。上れば、光明堂あり。これ奧の院也。こゝに至るの門、種々の燈籠銅佛、その數を知らず。講中の名を刻したる石碑の多きこと、眼幾んど應接にいとまあらず。僅々二三百圓のはした金を石に記するものも多し。似而非風流の人は、靈場をけがすなどと云へど、こんなものまでも受けて平氣なるが、不動尊の佛徳の廣大なる所以也。
 光明堂のある處は、岡の頂上也。木立あり。右にゆけば、梅林あり、櫻も多く、喬松立ちつらなりて、三方の眺望ひらけたり。
 堂の大きさは、堀ノ内祖師堂よりも小なれども、凝りたる建築也。左右の半ばより後ろへかけて、五百羅漢を刻し、精巧をきはむ。形勝の雄、堂宇の美、眞に是れ關東第一の寺也。
 午食は、町の南端の小さな牛肉屋にすまして、車を雇うて宗吾に至る。土地の名は、公津村字臺方なれども、宗吾堂前、一簇の人家のある處、宗吾の名にて通じて、この附近、宗吾と云へば、誰も知らぬもの無し。成田街道の左にあり、成田驛よりするも、その一つ手前の酒々井しすゐ驛よりするも、いづれも一里内外也。成田に詣づるもの、往きは酒々井驛に下り、宗吾を經て、歸りは成田驛より乘りてもよく、之をあべこべにしてもよし。佐倉は、酒々井の今一つ手前の驛にて、ここに下れば損也。
 神ともつかず、佛ともつかず、公津の義民を祀れる所謂宗吾靈堂は、思ひしよりも大也。傍らに、宗吾の墓あり。五靈堂とて、宗吾と事を共にせし五人の名主を祀れる小堂もあり。境内も可成りひろし。堂前一簇の旅店酒樓は、靈堂の爲に出來たるものにて、參詣者の多きを知るべし。
 佐倉宗五郎とは、芝居の上の名也。なほ天野屋利兵衞が、忠臣藏にて天河屋義平と言はるゝが如し。まことの名は、木内宗吾也。佐倉よりは、三里ばかり東北に當り、成田と印旛沼との間に介せる公津村の名主たりし人也。宗吾が佐倉領内三百八十九村の民に代りて、將軍に直訴せしは、四代將軍の時にして、その頃の佐倉藩主は堀田正信也。楠公をあげむとして、尊氏を惡魔の如くに罵り、宗吾をあげむとして、正信を暴君の如くに罵るは、尋常の史家の常癖なれども、正信は暴君に非ず、愚物にも非ず。余は、宗吾の事を記するに當りて、まづ正信より始めざるべからず。
 堀田正信は、武内宿禰三十五代の孫尾張守之高の後裔也。之高の子尾張守正重、孫加賀守正道、始めて織田信秀に事へぬ。その子正貞、正貞の子正利、正利の子正盛、正盛の子が正信也。
 正信の祖父正利は、始め金吾中納言秀秋に事へ、五萬石を領し、稻葉正成の女を娶りて、正盛を生めり。正成の女は春日局の生む所、正盛は春日局の孫に當る也。春日局は、三代將軍を擁立したる女丈夫なれば、家光の之を眷遇すること厚く、其子孫をも重く用ゐたり。正盛は幼時より召出だされて、家光の左右に侍しけるが、意氣相投じて、股肱と頼まれ、終に老中隨一の人物とまでなりし人也。
 正利は正成と共に、金吾家に事へけるが、後ち春日局の縁によりて、將軍の御家人に歸し、御書院番衆となりぬ。大阪の役、正利は水野忠清の軍に屬し、勳功著しかりければ、賞として三萬石をたまはり、合して七萬石となり、御使番に取立てられたり。かくて寛永六年二月十七日に死せり。年五十九。世傳へて曰く、其子正盛の次第に立身するを見て歡喜措く能はず、老衰の身を以て徒らに生を貪るは正盛が立身の妨げなりとて自害しけるなりと。之を事實とすれば、血性の極、滿身すべてこれ熱血至誠なる者也。
 正盛は元和元年、十六歳にして、はじめて叙爵し、それより次第に立身し、寛永十七年には侍從となり、寛永十九年には下總國佐倉の城にうつり、十二萬石を領するに至れり。かくて慶安四年四月二十日、家光死し、正盛之に殉死せり。時に年四十六。英敏にして濶達なる好人物也。
 この血性の正利を祖父とし、この至誠の正盛を父とせる正信の遺傅は知るべきのみ。父は更なり、祖父以來、幕府の恩遇を被ること、此の如くそれ大也。血性赤誠の素ある正信が、正保元年を以て從五位下に叙せられ、上野介と稱し、出でて詰衆に列するに及び、仰いで主恩の大なるを思ひ、俯して父祖を辱かしめざらむと苦心せしこと、いかばかりぞや。
 賣家も唐樣で書く三代目の徳川の天下、幸に家光の豪邁なるを以て、啻に父祖の業を墜さざりしのみならず、その業を整頓し、幕府の基礎を牢くし、三百の諸侯を掌上に弄して、將軍の威光は、旭日冲天の勢も啻ならざりしが、享年長からず、幼孤を殘して、滿月の影を西山に收めしかば、幕府の勢は、忽ち一頓せし也。その薨ずるや、幕僚相議して、喪を祕せむとせしが、酒井忠勝の言によりて、漸く之を公けにせしを以て、その事情を推するを得べし。
 この時の幕府は、前後三百年間、最も多く賢良の老臣の集まりたる時也。保科正之、阿部忠秋、酒井忠勝、松平信綱など、皆得易からざる良相也。殊に信綱の如きは、智惠伊豆と呼ばれし人にて、幕府三百年間、第一等の才物也。されど、家光が尊大不遜、諸侯を愚弄し、天下衆生を塵芥視したる後をうけて、しかも當主は幼冲也。是に於て、小心翼々たるの餘、其政は、察々たるに陷りぬ。由井正雪、丸橋忠彌等の一揆起らむとせしも此時也。別木庄左衞門、林戸右衞門等が増上寺の擧起らむとせしも此時也。由井と云ひ、別木と云ひ、みな是れ浮浪の徒也。浪士は關ヶ原合戰以來、草府のもてあましたる所なるが、その不平の氣魄は、一たび大阪の役に爆發し、二たび天草の亂に破裂し、爾來、正雪の亂に發せむとして成らず、増上寺の擧に發せむとしてまた成らず。さらでだに小心翼々たりしに、一層翼々となりて、幕府の政は、威ありて恩なかりし也。且つ明暦の大災などありて、都下の困疲は更なり、天下一般、幕府の仁政を望むこと、至つて切なりし也。
 正信は、不幸にも、かゝる形勢に遭遇せり。見識ある者はみな憂慮せざる無し。況んや血性男子に於てをや。況んや父祖以來、幕府の恩遇あつきものに於てをや。
 宗吾の告訴の起りしは、正信が國を治めし初め也。年少の、身は專ら幕府に盡くし、國元の事は、權を父以來の老臣に委ねて、未だ親づから政を執らざりし程の事也。不明の過は、免るべからざれども、その境遇を思へば、恕すべき所もあり。領民の慘状は、將軍よりも、後に知りし也。正信のをちどを云へば、早く國を巡視して、老臣の權をとりあげるべき也。宗吾は、正信の邸へ訴ふると、將軍へ直訴するとの間に、何とかして、正信に直訴すべかりし也。
 宗吾の事は、血性なる正信の、純潔なる腦髓に、非常なる刺戟を與へたり。いたく其不明を悔い、直に佞臣汚吏を斥けて、鋭意善政を施せり。
 かく宗吾に刺戟せられたる正信は、四代將軍初世の天下の形勢を見て、幕府の爲に、宗吾とならざるを得ざりし也。正信は、當時天下衆生の苦惱は、前年の配下の民の苦惱に異ならざるを知れり。松平信綱の爲す所が、前年配下の汚吏の爲しゝ所に彷彿たるものあるを認めたり。幕府の爲に、天下の爲に、默々として止むべからず。信綱を斥けざるべからずと思へり。大恩ある幕府の爲には、其身は更なり、父祖傅來の俸祿城池をも犧牲に供せむと決心せし也。
 正信は上書して、賑恤の事などすゝめたれども、報ぜられず。終に萬治三年十月八日、東叡山なる三代將軍の廟に詣でて、萬斛の熱涙を香火と共に墓前にさゝげ、瓢然去つて其領佐倉にかへりぬ。去る時、一封の書を上れり。その宛名に、保科正之、阿部忠秋の二人のみを署して、松平信綱を署せざりしを見ても、信綱を憎みしことを知るべき也。
 其上書には、時弊を痛論せり。將軍治世十年、輔導その宜しきを得ず、權臣威福を弄し、天下困弊して、怨聲海内に充滿せり。區々の愚衷、謹んで、臣が父祖より傅へたる領土を獻上す。願はくは、之を以て有功者に與へ、天下の人心を鼓舞せよ。且つ倉庫を開いて天下の急を救へなど、言々肺腑より出でたり。これ宗吾が直訴せしと同じ精神也。宗吾が三百八十九村の民の爲に死を決せしも、正信が幕府の爲に、六十六國の民の爲に、一死は固より、十二萬石の封土を擲ちしも、義は一也。
 正信の所爲は、忽ち幕府の驚駭をひき起せり。老中等相會して其處分を議せり。正之等は、たとひ正信の言ふ所は取るに足らず、其の爲しゝ所も法にたがへりといへども、父の志をつぎ、領土を擲つて君を苦諫す。その心情は察せざるべからずと云へば、信綱之に反して、狂氣の沙汰なりといふ。折角の忠を、狂氣とは情けなしと詰れば、忠義の心を察するに由りて、狂氣とは云ふ也。其父正盛の勳勞を思ふに由りて、狂氣とは云ふ也。君命を待たずして、恣に其領土にかへる、これ大逆也。其三族を誅せざるべからず。されど、狂人は意識なき者なれば、罪は大なるも、大いに恩免する所あるべき也といふに、衆はじめて其意をさとりて、之に同じたりといふ。さすがは智惠伊豆也。かくて、正信は、信綱の情けに、表面だけ、狂人となりたるが、天下凡庸の徒は、之を知らず。一犬影を吠え萬犬聲を吠えて、終に狂名を千載に流せり。稗史者流、殊に宗吾の事に附會して、漫りに蜃氣樓をかまへ、正信の眞相、長く埋沒せむとす。
 十一月三日、兪※(二の字点、1-2-22)處分定まれり。特旨を以て、正信の罪を減じて、國を除くに止まれり。正信の子の正職には、一萬石を下したまはれり。正信に四人の弟あり。その長は中務少輔安吉にして脇坂淡路守安元の養子となりたる人也。その次を久太郎正俊といふ。次に虎之助正實、次に右馬之助、後に南部山城守の養子となりて、内藏介正勝と稱せり。國除せらるゝ時、安吉は既に養子となり居りたれば、事にあづからず。久太郎以下、一時其祿をはがれたれども、間もなく取立てられぬ。殊に正俊の如きは、後日重く用ゐられたれば、正利、正盛の鬼は、長く餒ゑざりし也。佐倉の地は、よく/\堀田家に縁ありと見えて、正俊の五世の孫、正亮移されてこゝに城主となりたり。
 正信の上書、表面には、狂名を蒙り、國除せらるゝに止まりしが、深く老臣を戒めて、間接に幕府の政治に裨益せしや必せり。正信、國を除せらるゝ時、年正に三十、以後二十年間は、暗黒なる生活をおくれり。されど、一片の丹心は、寸毫も銷磨せず。暫らくは、その弟脇坂中務少輔安吉に預けられけるが、のち若狹の小濱なる酒井忠直に預けられぬ。延寶五年六月、ひそかに男山の八幡宮に詣でて、奸臣退き、忠臣進み、なほ將軍に嗣子あらむことを祈りて歸りけるに、その事幕府に洩れ、忠直は譴責を被り、正信は移されて、淡路なる松平綱道に預けられぬ。間もなく延寶八年五月八日、將軍家綱死せり。その報、淡路にいたるや、正信は剪刀を以て其喉を切りて、見事に殉死せり。その父正盛が、家光に殉せるに倣ひて、己れも亦同じく將軍の死に殉せる也。凡俗の眼より見て、行に常規を脱したる所あれども、至誠天地を貫く。爾來二百年、宗吾を揚ぐるものの爲に、暴愚の君とおとされて、孤島の蜑雨、長へに忠義の魂を銷す。宗吾は佐倉領の義民也。正信は、天下の宗吾也。磔殺も、殉死も、死は一つ。宗吾が領民の爲したることを、正信は君の爲に爲したる也。
 形の上より云へば、宗吾は小正信にして、正信は大宗吾也。栗原清氏の『宗吾神靈傳』に據るに、正信年少、國政を親づからせざりし頃は、國家老の池浦主計、政を執り、郡奉行の和田平太夫と結託す。二人とも、非道の小人也。苛政を布き、斂收を貪る。承應元年二月に宗吾等が領主に訴へたる歎願書の中に、『御年貢不足の田畑に候へば、年々の御上納もおのづから差支へ、壯年の者は據なく他國他領へ罷り出で、農家奉公仕り、其身の代金にて御年貢米買ひ入れ、上納仕候。村々さやうに候へば、家内に殘り居るものは、極老衰の者か、又癈疾の族に候故、作業おのづから行屆き兼ね候。加之、倍々違作うちつゞき候より、一ヶ年の奉公も重年に相成り候。且つ御上納も必死と差迫り候へば、偏に高免の田畑所持仕り候故と心得、何方へなりとも、賣りわたしたく存じ候にも、御領内一同の必死に候へば、買請け申す者一人も之なく、皆上納の手立つきはてて、村々名主役人どもへ上げつけ申候。此田畑四ヶ年以前には、凡そ其高六千餘石、其内荒地に相成り、植付種付等出來ざる田畑、千有餘石に御座候。百姓ども斯くの如き始末故、詮方なく親兄弟、妻子等引連れ、他國へ罷越し、乞食致す者、男女すべて千七百三十餘人、潰家八百八十餘軒、其外寺院十一ヶ寺、大破致し候』とあるにても、汚吏の暴行、領民の慘状は知らるべし。嗚呼苛政は虎よりも猛し。領民は一揆を起さむと騷ぎしも、宗吾の鎭撫によりて、泣く子と地頭とには勝たれずとあきらめ、おだやかに、さま/″\に手をつくして減免を願ひたれども、容れられず。この上強訴すれば、刑に處すべしと言ひわたされぬ。三百八十九村の名主、相集まりて、その結果、右の歎願書となりけるが、一二個月たつも、音沙汰無し。今はこれ迄と、數千の百姓、公津の野に集ひ、蓑笠がその身の甲冑、鋤鍬竹槍がその身の刀槍、ござを旗とし、竹の法螺吹きて、佐倉の城におしよせむとす。宗吾、聞いて大いに驚き、はせつけて、理を説き、情をつくして、之をなだめ、ともかくも、われにまかされよといふに、衆民納得して、一揆も其儘にをさまりぬ。
 宗吾は、領内の名主を公津の東勝寺によび集め、國元の歎願は見込なし、江戸邸に門訴するの外なしといふに、一同異議なく、うち揃ひて江戸に上る。承應元年の八月也。堀田家の事情を云へば、その前の年の慶安四年四月に三代將軍死し、堀田正盛之に殉して、漸く一年餘りしかたゝぬ程の事也。正信が國元の慘状を知らぬも、無理は無し。正信、時に年二十二歳也。國元の慘状は正盛在世の頃、既に甚しく、死してのち一年にして、はじめて公けに知られたる也。
 かくて、宗吾等は、堀田の邸に門訴したれど、そこにも汚吏ありて、訴敗は握りつぶしにせられて、宗吾等の意は、正信に通ぜず。正信は慘状を夢にも知らず、齒がゆき事也。宗吾、衆に向ひて、斯かるべしとは、かねて覺悟せり。此上は、賢相の名ある久世大和守に訴ふべし。それも表向き邸へ出訴するも、役人の取次あれば、その甲斐あるべからず。登城をまちかまへて、直ちに訴へては如何にといふに、皆その言に服す。かくするには、多人數は、却つて妨げなりとて、六人の總代を選ぶに、宗吾の外、下勝田の重右衞門、高野の三郎兵衞、千葉の忠藏、小泉の半十郎、瀧ノ澤の六郎兵衞の五人が、當選せり。六人乃ち圖りし如くに、訴状を出だしけるに、大和守こゝろよく受けとりぬ。九月二十六日の事也。宗吾之を衆に告げ、多人數が、滯在するも益なし。一先づ歸られては如何にといふに、皆然りとて歸國し、六人のみ止まりたり。
 宗吾等、一日千秋の思ひを爲して待ちけるが、十月二日に至り、大和守の邸に呼び出ださる。公用人、白洲へ出でて、『其方ども、慮外にも殿の御登城先をも憚らず、訴訟致しゝ段、不屆至極也。然し、今回は格別の勘辨を以て差し免す。以後、強訴するに於ては、屹度曲事たるべし』とて、願書を却下したるは、實に以外也。
 萬事窮せり。今は、唯※(二の字点、1-2-22)將軍に直訴するの一手段を存するのみ。こは、われ一人に御任せあれとて、宗吾はその方法を話してきかせけるに、五人のもの、われらも、生きて還らぬ氣也。みす/\御身を見殺しにすべきに非ずとて、聽かず。一人にて、すむ事也。御身等は生き殘りて、萬一我が仕損ぜむ時、遺志をつがれよといふに、五人のもの、はじめて、承諾し、兪※(二の字点、1-2-22)宗吾一人にて直訴することとなりぬ。その身の磔殺は、もとより覺悟せる所也。
 宗吾の命は、いよ/\數日の後に消ゆべし。さるにても、直訴すれば、天下の法として、九族をたやさる。わが木内家は、千葉家四天王の隨一なる家柄也。殊に、養子の身也。表面上、妻子を離縁して、死を免れしめ、木内家の血統を絶たざるやうにするは、直訴する前に、先づ宗吾が爲さざるべからざる一事件也。さればとて、國元の方にても、警戒きびしければ、うかとは歸られず。雪ふる日也。領内に入りては、間道を取りて、夜半、吉高の渡に來たる。沼の彼方は、我が公津の村也。されど、領主の命とて、役人來て、日暮れてよりは、鐵鎖にて、舟をつなげり。こゝの渡守に甚兵衞といふものあり。宗吾の義に感じ、思ひ切つて、禁を犯して、鐵鎖を切り、宗吾をわたし、船を水神の森蔭にかくして、宗吾の歸るを待つ。甚兵衞の情けに、宗吾は印旛沼を渡り、雪を踏んで、我家にかへり、妻子のいなむを、無理に納得させて、これにて後顧の憂へなし。我身は、この雪よりも、早く消ゆる身也。これが一生の愛別離苦、今一度御顏をと、すがる妻子の手をはらひて、又も甚兵衞の舟にて、印旛沼をわたり、江戸に着して、この上は、唯※(二の字点、1-2-22)直訴の一事をあますのみ也。
 二十日は、三代將軍の命日也。承應元年十二月二十日は、將軍がその廟に參詣すべき日也。三百八十九村の民が蘇生せむとし、宗吾が死地に赴くの日也。三代將軍の廟は、今は日光にあれども、當時は上野にありき。四代將軍の廟の東の空地が、その廟跡なるべし。宗吾は、上野黒門にて、五人の名主とわかれ、上野龍玉院の僧、慈善和尚の手引によりて、その前日の夜より、廟前の階下にしのび、あくるをおそしと、一夜をあかし、將軍の來り拜するを待つて、訴状を上つる。將軍、從者をして、之を受けしむ。宗吾の志は、こゝに始めて達せる也。
 汚吏の暴状、今や將軍の知る所となりぬ。正信おどろきて、直ちに政を改めて、舊に復し、三百八十九村の民、こゝに始めて蘇生して、感泣せざるもの無し。宗吾は、幕府より堀田家へわたされ、更に國もとへ送られぬ。國の大禁を犯したる身也。その刑に處せらるべきは覺悟せるところ也。宗吾の恩に浴せる幾萬の民も、之を如何ともする無し。汚吏は、なほ暴威を振ひて、他に徒黨あるべしとて、拷問甚だ酷也。五人の名主は、宗吾が直訴を遂げたるを聞き、名乘り出でむと思ひしが、ともかくも、後の處置を見むとて、國にかへりけるに、その拷問甚しきを聞きて、五人うち揃うて、出でて白状せり。汚吏は、なほ宗吾の外、その妻子をも嚴刑に處せむとす。これ領民の見るに忍びざる所也。三百八十九村の名主一同連判して、妻子貰下の願書を差出す。その中に、『宗吾一人願出直訴仕候儀と思召され候へども、村々名主ども、公儀の事は不案内の事故、推して頭取に相頼み候に付き、據なく、先立候者に御座候。然る處、重き刑罰仰せ付けられ、私共に於ては、宗吾を死地に落し入れ候樣に心得られ、甚だ歎かはしく候。さりながら、宗吾儀直訴仕候段、固より不屆に付き、御仕置、御道理至極に存候。然れども、唯※(二の字点、1-2-22)此上の御慈悲には、妻子五人の者、百姓ども一同へ御下げ下し置かれ候て、村々の名主ども、殘らず御仕置成し下され候やう、何卒仰せ付け下し置かれ候はば、重々難有き仕合に存じ奉り候』とあり。宗吾も宗吾なれば、他の名主も名主也。身を以て、宗吾の妻子にかはらむとせし也。汚吏も、少しは感ずる所ありけむ、妻だけは許したり。宗吾に四人の子あり。長は男にて彦七といふ、十二歳也。次は女、八歳。次も女、六歳。末も女、四歳。汚吏は、その三女を男にし、長女は次男となし、次女は三男となし、三女は四男となせり。
 嗚呼、承應二年八月三日は、日本史上、未曾有の義民、木内宗吾が磔殺せられたるの日也。一身を民にさゝげて、獄裏に半年餘の月日を送りし一大義民、今や公津の野の磔柱の上にあらはれたり。四人の子は、荒菰の上に引きすゑらる。三百八十九村の民、雲霞の如く集まりて、其死を見送る。時刻來り、長子より始めて、末子に及び、然る後に宗吾に及ばむとす。覺悟の上とは云ひながら、眼前に我子の殺さるゝを見る宗吾の胸は、槍をうくるよりも苦しかりけむ。長男は吏に向ひ、父の面前にて首打たるゝは心ぐるしければ、父の死後にて斬られたしと乞ふ。許されず。長女は、自分の死は辭せず、父の死を許されたしといふ。もとより許さるべくもあらず。次女は、右の頸に腫物あり、左より斬つてくれと頼む。末女は、まだ頑是なく、見舞にくれたる桃を食ひながら、いづれも打首にせらる。いよ/\、宗吾の番也。槍の白刄きらめくと見る間もなく、兩脇ばらより肩さきへ突き通され、鮮血ほどばしる。男女老若、仰ぎ見る能はず、南無阿彌陀佛と回向す。聲、公津の野をゆるがす。宗吾眼を見ひらき、御回向辱なしといふを、この世の暇乞ひにて、英魂天に歸し、毅魄地に歸す。悲壯なる哉。
 妻は尼となりて、夫と子との菩提を弔ひ、五人の名主は、國外に追放せられて、その終る所を知らず。東勝寺の頼賢と、大佛頂寺の光全とは、子供の命乞ひしたれど、許されず、遺骸を埋むるの許可だけを得たり。光全は、宗吾の叔父なるが、餘りに殘忍なるを憤り、末女の死骸をひつさらひて、印旛沼に身を投じて死せり。
 當年、宗吾が鮮血を流したるの處、今は巍々たる大堂を見る。享年四十二。その遺風は、死後間もなく第二の宗吾を出だし、百世の下なほ懦夫をして起たしむるに足る。志士仁人の標本也。この堂、よしや朽つとも、宗吾の氣魄は、萬古乾坤の間に磅※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)すべき也。
 北總第一の勝地と聞えたる離島に赴かむとて、車夫をして導をなさしめて、鳥居の渡にいたる。離島は、對岸にありて、十町も隔たれり。風甚し。渡守の小屋に入りて、しばし休息す。風やみさうにも無し。老夫後ろにて棹し、車夫前にて棹して、平べつたき舟を進むるに、浪舟ばたに激して、飛沫舟に滿つ。舟風に流されむとするを、漸く支へし車夫の棹、折れて、直行する能はず、流れ/\て、漸く渡場よりは、數町下の方へつくことを得たり。
 印旛沼は、大なる沼にて、長さ七八里、幅ひろき處は一二里もあり。ほゞ三曲して、その形大蛇の了字形にのへくるが如し。頭非常に大にして、大口を開き、長門川を出して、利根川につらなれるは、恰も蛇の舌を出せるが如し。安食、その舌頭に觸る。酒直、その上※(「月+咢」、第3水準1-90-51)に當り、笠神、その下顎に當る。佐山、尾に當り、中川、佐倉は、その背に乘り、平賀、師戸は、その腹にしかる。吉高は、頸の下にして、離島は、胸の下也。印旛沼は、日本中、沼として、最も大なる者也。殊に木内宗吾の歴史を帶びて、關東の一名勝也。離島、一に花鳥山と稱す。地勢を見るに、もと島なるべし。今は一方のみ、沼に接す。方十町もあるべき岡也。もと、寺ありて榮え、旅店もありたりと云へど、今は唯※(二の字点、1-2-22)、石の不動のある小堂のみが殘りて、御利益は、既に盡きけむ、荒れて寂しき處也。木立の隙間より、印旛の蛇の大頭より體の上部へかけてひろく見わたさる。安食の丘樹も見ゆ。北の方、二三十町の處は、吉高の渡也、一に甚兵衞渡の名あり。これむかし、甚兵衞が禁を破り、鐵鎖を切つて、雪の夜半に、宗吾をわたしたる處也。水中の森は、甚兵衞が舟をつなぎて、雪にうづもれ、寒風にさらされて、宗吾の歸り來たるを待ちし處也。山川を願望し、昔をおもひて、覺えず涙下る。
 こゝの山下にも、渡守の小屋あり。その渡守も、力をそへたるに、追風なれば、歸りは、らくに、もとの處に着す。車して、大蛇の背を通り、中川に來たる。南行し來りし沼、こゝより折れて、西北にゆく。酒々井驛へ程近く、汽車の間にもあへども、翌日、舟を沼にうかべて、臼井に赴かむとて、沼に接せる宿屋にやどる。
(明治三十九年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:雪森
2020年7月27日作成
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