あはれや、庭の梅三四本、何も肥料をやらざれど、春くれば、花を著く。鶯も來り鳴く。裸男、窓の内にて、之を聽いて、獨り樂しみ居りしに、『今日は』とて、十口坊來たる。午食を共にして、一二時間雜談に過ごしけるが、十口坊曰く、『梅の時候になりぬ。何處かへお伴申さむ。さるにても梅は何處が好きか。教へ給へ』といふに、裸男得意になり、『花といへば櫻、花見といへば、櫻を見にゆくことをいふ。梅も、花は花なれども、梅を見にゆくことを花見とは云はずして、梅見といふ。又探梅とも云ふ。この探梅の探の語が面白し。探るは、活動的也、又奮鬪的也。櫻の咲く頃は、春風駘蕩、猫も杓子も浮れ出す。さるに、梅花の頃は、春寒料峭たり。霜柱もあれば、雪さへ降る。梅を探るには、寒風と戰はざるべからず、雪と戰はざるべからず、泥濘と戰はざるべからず。元來梅そのものが氣骨ある木也。氣骨ある人に非ずんば、梅と同化する能はざるべし。青年にして、梅を探る者あらば、われ高尚なる趣味を解するものとして、之を取る。老人にして梅を探る者あらば、必ずや意氣地なき老いぼれにはあらず』と陳べ立つれば、『そんな村夫子的御説法は眞ツ平なり』と冷かす。
『さらば、梅の名所を説かむ。先づ大和の月瀬が第一なるべし。熱海の梅園は、山腰に據り、清溪流れて、雅致あり。小田原城址の小峯山、水戸の第一第二の二公園にも、梅林あり。杉田は横濱より二里餘、小山を負ひ、海に面して、梅多し。本牧の三溪園にも梅林あり。鶴見の花月園にも梅あり。近く東京の南郊にては、大森驛畔の八景園、池上の曙樓、蒲田の梅屋敷、原村の立春梅などあり。小向の梅園は無くなれり。江東にては、向島の花屋敷、四木の吉野園に梅林あり。龜戸の臥龍梅は、惜しや、老木枯れたり。江東梅園も、木下川梅園も廢れたり。龜戸天神の梅林も無くなれり。西郊角筈の銀世界も無くなりたり。市内にては、湯島天神、芝公園、深川公園などにも梅林あるが、關東にては、青梅在の吉野村の梅を見ずんば、梅を説くの資格なかるべし。四面みな梅、多摩川其の中を貫きて、一村みな梅、老梅も多し。
目白より山手線の電車に乘り、澁谷に下りて、玉川行きの電車に乘り、大山街道を通りて、終點の二子の渡に下る。臺地に據りて、眺望の佳なる行善寺あり。清水堂に擬して造りたる祇園閣の下に瀧を設けて、夏の浴客を待ち、猿、鹿、鶴などを飼養して小兒の目を喜ばしむる玉川遊園地もあり。菖蒲園もあり、櫻楓園もあり。酒樓相接して、夏は鮎狩に賑ふ處也。渡舟にて多摩川を渡り、右に折れて堤上を行く。空曇りて、風寒し。川とはなれて、ぽつ/\梅花を見る。右手に農家なくなりて、始めて二三町の彼方に、一堆の香雪を見る。堤を右に下りて、身はいつしか其の香雪の中に入る。屋根門の内に、大なる藁葺の一構へあり。川邊氏とて、この地の豪農也。梅はその構外の前にあり、横にあり、後ろにもあり。老いたるもあれば、若きもあり。麥畑入り込み、竹林、雜木林相接し、松林もあり。所謂梅林的ならずして、野趣愛すべし。掛茶屋の赤毛布に腰を卸せば、老婆茶を侑む。『持主は誰れ』『川邊氏』、『何本かある』『凡そ六百本』、『幾何の收入かある』『四五百圓』、『梅林は此處だけなるか』『一昨年までは、山の彼方の
梅林を辭して、西に數十間行けば、一帶の小山樹木を帶ぶ。多摩川の分水、其の麓を洗ふ。水閘の下、數十間の間、水清くして深く、流るゝこと駛く、目覺むる心地す。風の寒きをも厭はずして、立ち盡しぬ。
(大正五年)