むかし取つたる杵柄、如何なる嶮山でも、何の糞と侮りて、靴穿きたるまゝ、洋服のづぼんもまくらず、即ち別に毫も旅仕度せずに、山にのぼりしが、心ばかりは、むかしにて、十年來、自墮落にもちくづしたる身體の力は、もとのやうにも無し。膝關節疼痛さへ起すこと多きに、あゝわれは既に老いたるか、もはや高山に上る能はざるかと、自から歎息せしが、いや/\まだ老い込む年でも無し。慣らさば、昔の如くにならむ。むかしの如くにならずとも、十分の八までにはならむ、殊に脚袢をつけ、草鞋をはき、づぼんをまくりて、膝關節をらくにせば、疼痛は起らざらむ、よしや起りかゝるも、用心して、水にて冷やさば、之を免れむ。よし/\一つ試みて見むと、思ひたてば、矢も楯もたまらず。殊に氣澄み天高き小春の好時機也。旅行の決心は、金鐵よりもかたし。行先の如きは、末節也。必ずしも妄りに選擇するを要せず。されど、大體の見當は碓氷、妙義あたりとつけたり。五日間通用の出來る割引切符を利用せむとする也。
何時の汽車に間にあはせて、何時に先方へ着かねばならずなどと、窮屈なる制限もなければ、心ものびやか也。四谷見付にて、街鐵線の電車より外濠線のに乘りかへむとするに、來たることおそし。來り待つもの、次第に増す。朝は何時よりといふ制限のある、つとめの人々にや、いづれも不安心なる顏付をして、電車の來る方を見つむ。電車漸く見え出したり。衆と共にしては、乘りきれずとや思ふらむ、顏に覺えのある文學博士、電車のまだ止まらぬ先より飛び乘らむとして、手だけは電車につかまりたるも、脚は之に伴はず、しばし引きずられ、漸く車掌に引つぱり上げられたり。つとめの身の心せくまゝに、かゝる滑稽も、しでかすならむと、氣の毒也。乘り切れねば、あとの電車にと、思ひ定めしが、餘地がありさうなれば、乘りて見たるに、餘地も十分の餘地、腰かくることさへ出來たり。
上野驛にて一時間餘も待ち、高崎驛の乘換にも、一時間待ち、松井田驛に下車し、一里餘を徒歩して、日くるゝ頃、妙義町につきて、東雲館にやどりぬ。
指を屈すれば、十八年前の事也。わづかばかりの金を懷ろにして、日光より足尾、庚申山を經て、その妙義に來りし時は、懷中わづかに五錢しか無し。案内者を雇ふに由なきのみならず、午食だに得るに由なし。五錢のうち、二錢だけにて、駄菓子を買うて午食に充てたり。その菓子屋は、祠につき當りたる左側也。今、十八年目にて來て見れば、其家なほ在り。賣る駄菓子の品數も、もととかはらぬやう也。
ほんの一晩どまりにて、妙義と碓氷との紅葉を見むつもりなりしも、いつまでに歸らねばならずといふ身にもあらず。唯



妙義山とは、白雲、金洞、金





このあたりより見たる白雲山は、高さも可成りの高さにて、幅もあり。鋭く突つ立ちて、勢、雄にして峻也。七八合目以上は、削りたる如き大巖、參差相竝び、樹を帶びたるが、既に落葉しつくして、山骨ます/\あらはる。巖より下は、紅葉が今眞盛り也。翠樹もまじりて、單調ならず。中腹に孤巖あり、その上に『大』の字、白くあらはる。之を大字巖と稱す。この『大』の字は、一里をへだてたる中山道の路上よりも見ゆる也。
余がやどりたる東雲館は、人家の最上層に在り。蕪、碓氷二川の流域、脚底に開展し、右には秩父の連山を望み、左には赤城山を望む。前方關東平原の末に、筑波山孤立す。樓上の眺望、佳なりと云ふべき哉。
早起して戸をひらけば、夜はあけたれど、日は未だ昇らず。秩父の連山より關東平原の上へかけて、唯

今日は、先づ金洞山に赴かむとす。妙義神社の前より左折し、山腰をゆくこと、凡そ十町、杉林つきて、下り坂となる。赤坂と稱す。こゝに來りて、はじめて金









こゝは、金


數十間ゆきて顧みれば、燈籠の如く見えたる岩は、形を變じ、二岩相連なりて、中間に穴あり、女夫岩といふ。巖脈上に伸びて、奇巖多し。刀を立てたるが如きものを仲立岩といひ、惠美須に似たるものを惠美須岩といふ。また數十間ゆけば、右側の巨巖、屏風をたてたるが如し、曰く、屏風岩也。その巖腰少し凹みて、其下傾斜をなす。這ひのぼりてゆけば、その極まる處、社寺に見るが如き手洗鉢の形を成し、穴の幅三寸ばかり、水之に滿つ、巖中より滴り出づるにや、手を入るれば、水、肱に及ぶ。曰く、菅公の硯水也。屏風岩をめぐりて、左に轉じて、始めて、第一石門に達しぬ。
澤旭山、石門を形容して『門而山、山而石』とは、うまく言はれたり。横より見れば、幅十數尺しか無き、薄つぺらなる巨巖なるが、前より見れば岩の形、架燈口の如く、穴の形も、ほゞ之に同じ。高さ九丈、幅八丈とは、穴の大きさなるが、巖全體の大きさは幅十二丈、高さ十丈もあるべし。石門としては、實に天下無比也。門を入りて、巖をよぢて休息し、煙草ふかして、石門に對す。後ろより右へかけたる嶂壁を禊岩といふ。左に巨巖の天を衝けるは、第二石門なるが、こゝよりは、其穴は見えず。第一門の穴を通しては、近く屏風岩の側面、奇巖の參差たるを見る。今一つさきの巖脈の上に、圓形の石あり。曰く、鏡石也。屏風岩の右手には、一本杉も見え、金

數十歩にして、第二石門に達する也。蟹の横這といふ處を鐵鎖によりて横に這ひゆき、又鐵鎖にすがりて、穴をくゞり、つるべ下りといふ處を鐵鎖によりて下る。この門は、上るにも、下るにも、やゝ困難也。第一石門の上に、同じ方向を取りて竝び、岩全體は、第一石門よりも偉大なるが、門としては大いに劣る。巖の一方に偏して、穴あけり。その穴は上下に細長くして、高さ四丈、幅一丈半と稱す、穴の形ほゞ三日月の如し。門と云はむよりも穴と云ふべし。後ろを顧みれば、禊岩も見え、それの上の同じ方向に、一大嶂壁あり。曰く、界岩也。界岩と禊岩との裂目には、幻岩あり。右手には、皷岩あり。前を見れば、筆の如き巨巖、脚底より起りて、天を衝く。曰く、大蝋燭岩也。其下に、同じ形の、やゝ小なる巨巖あり。曰く、小蝋燭岩也。大蝋燭岩の上に、更に大なる孤巖あり。曰く、虚無僧岩也。これらの巖脈よりはさきなる上の方を見れば、第四石門あり。その先に武尊岩あり。又その先きに、天狗臺一帶の長巖あり。眼界は、第一石門より狹く、幽にして奇也。
つるべ下りを下り、更に片手下りを下りて、しばし上り、左に轉じて、第三石門にいたる。穴の高さ八尺、幅一丈二尺、半輪形を爲す。巖全體の形も、之に似て、うすつぺら也。後ろを顧みれば、眺望なし。前を見れば、嶂壁の間、巨巖ありて、勢、飛ばむと欲す。曰く、獅子岩也。この石門、他山にもちゆけば、見事なる石門なるも、第一石門、第四石門などの間に介するを以て、最も平凡也。
歩をかへして、一寸上りて、第四石門にいたる。この門の穴は、高さ八丈、幅九丈三尺と稱すれども、高さは、八丈はあらざるべし。巖全體も、穴形に相應して、譬ふれば、人が膝と肱とをついて、かゞむが如し。うすつぺらなる岩也。門の右柱は、一周することを得べし。南端に立てば、第一門も、第二門も、脚下に在り。仰げば、金洞の三峯の天を摩するを見る。門内より前方を見れば、天狗臺一帶の長巖よこたはる。最左端は、龜岩也。最右端は、ゆるぎ岩也。中間に、細長き石ありて、やゝ仰ぐ、大砲岩といふ。凡そ妙義山中、形似によりて、名を得たる岩、數ふるに遑あらざれども、眞に名實相應せるやうに見ゆるは、この大砲岩のみなりと云へば、案内者曰く、もとは名無かりしが、日清戰爭以來、此名を得たる也。
だら/\と下りて、少しのぼれば、武尊岩あり。少し右すれば、二岩のさけ目より谷底をのぞく。もどりて前進すれば、巨巖路を扼す。左へは行けず、右は千仭の谷也。案内者曰く、もと蟻の戸渡と稱せしが、先年黒田清隆伯こゝまで來り、恐れて進む能はざりしより、今は、黒田の泣岩と稱すと。智は弘法、勇は辨慶、美人は小町、到る處に附會せらる。こゝはむかしならば、辨慶の戻り岩とでも云ふべき處也、黒田伯之にかはりたるは、伯の威名一世に高かりしを知るべし。前遊の時は、鐵鎖なかりしが、今は鐵鎖ありて、わたるにさまでの困難は無し。また鐵鎖にすがりて、天狗臺一帶の長巖の上に立つ。左すれば、幅一尺、長さ四五尺、兩側は谷也。東山狹の橋と稱す。こゝをすぐれば、やゝ平らか也。曰く、天狗臺也。そのさきに岩立ちて、小石門を爲す。その穴を胎内潜と稱す。岩全體は、龜岩也。もどりて同じ岩脈を南に行けば、大門岩にいたる。なほ進んで、ゆるぎ岩に至るを得べし。この一帶の長巖は、恰も剃刀の刄の如し。なほこの先きにも一帶の長巖あり。一縷の狹路、之に通ず。その上を天狗の評定場と稱す。こりより先きへは進むを得ず。前方に、鏡石一帶の長巖あれども、さまで眺望をさへぎらず、上州の平原をも望むを得べし。武尊岩一帶の地と、天狗臺一帶の地と、この天狗の評定場一帶の地とは、高さほゞ相同じく、距離も近く、眺望もはゞ相同じけれど、その最もすぐれたるは、天狗の評定場也。歩をかへして第四門を過ぎ、第三、第二の門は經ずして、直ちに第一門にもどる。第一門より天狗の評定場までは、僅々五六町の程也。この谷合ひを金洞の東山と稱す。眺望の最もすぐれたるは、天狗臺附近、次は第四門、その次は第一門、之を東山の三景と稱す。奇巖怪峯、前後左右に羅列して、目、應接に遑あらず。奇の奇、怪の怪、他に比類を見ず。
東山の奇勝は、已にきはめたり。進んで西山に至らむとする也。
西山、東山と云ふも、金洞の山腰の谷合ひ也。界岩おのづから界をなして、東に石門攅立し、西には朝日嶽孤立す。第一門を過ぎて、禊岩をめぐりて行けば、地やゝ廣くして平らか也。社務所あり、山を負ひて、前は開けたり。近く朝日嶽を仰ぐ。祠は中岳神社と稱す。もと武尊大權現といへり。日本武尊を祀り、別に大黒天を祀りしが、神佛混合を禁ぜられてよりは、大巳貴命となれるなるべし。社務所の前を過ぎて、つきあたれば、大黒の祠あり。その前を右折して石磴をのぼれば、武尊の祠あり。朝日嶽直ちに祠を壓して、矗々天を剌す。前よりは登るべからず。左にめぐれば、道士長清の碑あり。こゝに隱棲したる高士也。葛籠岩崛起して、その岩脈、朝日嶽に連なる。鞍掛岩、法螺貝岩、この岩脈の中にあり。葛籠、鞍掛兩巖の間より岩脈の上に出でて右折すれば、石祠あり。細長き石、路に當る。西山狹の橋と稱す。東山狹の橋と相似たれど、こゝは一尺ばかりの下。兩側に一尺ばかりの餘地あれば、毫も危險を感ぜず。同じやうなる橋なり。されど、この橋は何人もわたるを得れども、東山狹の橋は、恐れて渡る能はざる人少なからずと、案内者意味ありげなること言ふ。鬚剃岩をくゞりてのぼれば、鐵梯かかる。鐵鎖もかかる。妙義の山中、鐵鎖多けれども、すべて之なくとも上下するを得べし。たゞ此處のみは鐵鎖のみにては困難也。その鐵鎖もなくして上下するは、命がけの仕事なりと思ひぬ。上りてゆけば、圓石路を要す。こゝにも鐵鎖あり。東西南北、どちらへ轉びても、命は無し。案内者曰く、先年、百々力といふ陸軍の士官、こゝにて逆立したることありてより、百々力岩と稱すと。こゝをすぐれば、朝日嶽の絶頂也。一二坪の平地、松は榮え、『としよう』は枯れたり。余はたゞ峯と巖とを記して、樹木を記せざりしが、妙義の三山は絶頂までも樹木あり。岩も樹木を帶びたり。多くは落葉樹なるが、まれには松を見る。こゝにて見たる紅葉もよし。葡萄園附近の紅葉もよし。されど、いづれも、白雲の大字巖附近には如かざる也。こゝにても、なほ巖を説かざるべからず。眼界は、東山よりもひろし。金洞の主峯に面して、左より數ふれば、西大黒岩、葛籠岩、仙人岩、右に轉ずれば、八丈岩、大佛岩、鳥越岩、二見岩、東大黒石など、名のつきたるものなるが、名のつかぬ奇巖も多し。妙義山中無數の奇巖、強ひて形似を求めて名をつけたるが、おほかたは、でたらめ也。記するも可也、記せざるも可也。たゞ白雲の大字巖、金洞の筆頭岩、金洞の四門、天狗臺、朝日嶽は、忘れむとするも、忘るゝ能はざる也。
仰げば、金洞の三山、突兀として高い哉。妙義、榛名、赤城は、上州の三名山と云はる。妙義には、更に白雲、金洞、金

葛籠岩を左にして下り、八丈岩を右にして上る。路急也。八合目ぐらゐより嶂壁突つ立ちて、前より上るに由なし。左にめぐりて巖をよぢ、剃刀の如き峯背をつたふ。二箇處、鐵鎖にすがる。巖角や、木の根や、木の枝やに助けられて、漸くにして絶頂に達す。近く北に淺間を仰ぐ。八ヶ嶽、雪を帶びて、目だちて見ゆ。氣澄みて、天には片翳だになし。四方目のとゞく限りの山々見渡されたれど、唯

社務所にもどり來りて、酒し、飯す。今や余は金洞を去つて、金

金洞、金



茶屋までもどりて、歸路に就く。金

あとにて聞けば、金


昨日の案内者をつれて、白雲山にのぼらむとす。宿を出づれば、直ちに妙義神社也。神佛混合の跡、仁王門に殘りて、今も仁王立てり。右の方、石壇の上に、御殿あり。社務所之につらなる。東都の寛永寺と縁故ふかく、寛永寺の法親王の隱居所となり居たりとの事にて、今もなほ、御殿と稱する也。仁王門を背にして立てば、銅の鳥居あり。石壇、天に朝す。老杉、石壇を狹み、左右にひろがる。千年以上の老木と見ゆるものも數株ありて、翠色人に逼る。その間、一株の公孫樹は黄に、一株の楓は紅に、黄紅二色の美を代表す。見事なる金燈籠の側に老櫻ありて、枝長く、石垣の半ばまでも垂れさがれり。隨身門を入りて、祠に詣づ。可成りの大さありて、金碧粲然として、人目を射る。優に關東有數の名祠也。余は祠宇よりも、境内の雄偉なるを取る也。
祠の右手より山に入る。杉の外、栃、樅などの大木多し。『さは』ありて、水ちよろ/\流る。獨木橋をわたりて、更にかなたの『さは』に出でて上る。水なし。鶯の瀧、日暮の瀧、平時はただ名のみ也。瓢箪穴、巖石に瓢箪を倒さまにしたるが如き穴あきて、つき拔けたるが、金洞の奇にくらべては、物ならず。溪谷としても、さばかりの事はなけれど 路急にして、老樹多く、巨藤もありて、妙義の三山中にては、とびはなれて幽邃をきはむる處也。
大字巖の後ろへゆけば、馬背の如き後峯の餘脈之に連なる。巖角にすがり/\て、大字巖の上に立つ。見上ぐれば白雲山、頭を壓して倒れかゝらむとし、見下せば、妙義の人家、脚下に在り。なほ遠く碓氷の流域を見渡す。最上層の紅葉は散りつくしたれど、上にも紅葉あり、下にも紅葉あり、上下四面すべて紅葉ならざるは無し。妙義の紅葉の大觀は、大字巖を以て、第一となすなり。岩に穴を掘りあけて、三本の柱を立て、竹を大形に組みて結びつけ、その竹に、紙片を隙間もなく結びつけたり。一體これは、何のしるしぞと問へば、妙義神社は、もと妙義大權現と云ひければ、大權現の大の字を取りて、中山道往來の人に大權現のありかを知らさむとせしなりといふ。妙義山は、もとは繁昌したりき、先達、遙に大字を指して、あれが妙義大權現のある處なりと云へば、はる/″\引きつれられし善男善女、如何ばかり飛びたつ思ひしたりけむ。大の字は、必ずしも兒戲的小細工にはあらざりし也。
上るに從つて、巖面、岩松を帶ぶるを見る。木立高くして、ます/\幽邃也。辨天の窟を經て、奧の院に至る。巖窟の奧に石佛を安置す。妙義祠より大字巖まで十五町、大字巖より奧の院まで十町、奧の院より頂上まで二十五町、都合五十町の登路と稱す。奧の院までは險なれど、危ならず。奧の院より上は、險に加ふるに、危を以てす。鳩胸、四つ這ひなどの嶮を這ひ上り、例の剃刀の刄をつたふ。木立あれど小也。すべて落葉して、その落葉路をうづめて、やゝもすれば、すべらむとす。力と頼むは木の根、木の枝、その枝も落葉しては朽木とわかち難く、誤つてつかみし枝、ぐざと折れるに、心ひや/\す。漸くにして絶頂に達す。石祠あり。四面の眺望もよけれど、眼界は中ノ嶽ほどには、ひろからず。こゝより見下す中尾山の谷合ひにも紅葉あれど、到底中ノ嶽より中木山方面を見たる紅葉の美觀には比ぶべくもあらず。空さへ昨日ほどには澄まず、淺間おろし身にしみて寒し。われやゝ失望しぬ。
歸りは、奧の院の方へは下らずして、大矢筈にいたる。峯背の二大巖對立して矢筈の如し。屏風岩に沿うて下り、逆下り、犬もどしの二嶮を後向きて這ひ下りて、釋迦ヶ嶽の前に達し、右に龍立の巖谷を見て、大字巖の上方にて、さきの奧の院跡に合しぬ。どの路をとるも、危險にして難澁也。白雲山を攀ぢたるものは、山路の危險を説くを得べき也。金

宿にかへりて、白雲山の裏山を探らむと思ひしが、一日がゝりの處なりといふ。明日にゆづりて、獨り石門を逍遙す。何度見ても、奇にして怪なる哉。遊客歸りつくして、一鳥鳴かず。第四石門の南端に腰をおろし、空想にふける。冥色襲ひ來て、山ます/\幽寂也。吸ひさしの卷煙草をすつると共に、眼をうつせば、脚の馬鹿に長き盲目蜘蛛、驚いて逃げゆく。夜に入らば路危からむとて、歩をかへす。にげゆきし盲目蜘蛛、またもどり來たる。何を求めむとすらむ。
この夜、宮崎虎之助氏夫妻、刺を通じて來り、話して、深更に及べり。
白雲山の裏山への案内者を求むるに、妙義に案内を業とするもの十五六人、裏山を知れるは、わづか二三人。その二三人は、みな出拂ひて、あいにく案内する者なし。如何はせむと困りしが、宮崎氏、裏山行は明日にのばして、今日は共に金洞に赴かずやといふに、さらばとて、共にゆく。案内者ひとり從へり。
三たび石門をさぐりても、余はなほ厭かざる也。四つの石門を過ぎ、天狗臺をも過ぎて、天狗の評定所にいたる。宮崎氏、豫言者の讃美歌をおきかせ申さむかとて、其妻を促して、共に歌ふ。甲の聲、乙の聲相和して、山壑にひゞきわたる。琴瑟相和すとは、この夫婦の事なるべし。宮崎氏自から豫言者と稱して、天下に呼號すること、年久し。如何ばかりの信者を得たるかは知らねど、この佳麗の少婦のみは、熱烈なる信者也。うきたる戀にはあらずと、よそ目にも見ゆる也。森田節齋の妻は、はじめて嫁せし時、『先生若許レ執二箕箒一、半作二良人一半作レ師』と歌へり。張船山の妻は、『愛君筆底有二煙霞一、自拔二金釵一付二酒家一』とうたへり。宮崎夫人にありては、『半作二良人一半作レ神』なるべし。世俗は、誇大狂とも何とも云へ。凡人常人以上の人、誰か多少の狂味なからむや。自から信ずる所を貫けば、其人の一生は、幸福なる生活也。その歌は君がつくりたるにかと問へば、否、わが妻の作れる所也。
武尊巖の側の稍

西山にいたりて、朝日嶽に上る。二三日前、一遊客、鐵欄によりてのぞきし際、ポケツトの中の銀時計を落したり。下までは落ちず、どこかにとゞまれるなるべしとて、來る案内者は、どれも/\、皆のぞき込む。まさか案内者に、まちがひは無かるべしと思へど、慾に誘はれては、もしやと、見ても居られず。背いて煙草ふかすも、われながら弱き心かな。先年百々力氏が逆立せしより名を得たる百々力岩の上に、二人の帝國大學生の逆立せるを見る。覺えず喝釆すれば、案内者曰く、逆立する書生さんは、いくらもあるなりと。嗚呼誰か、今の學生は墮落せりといふものぞ。支那にかちたるも、露國にかちたるも、畢竟するに、この氣象の迸れるに外ならざる也。
伊香保に赴かむとする宮崎氏夫妻と手をわかちて、曉に宿を出づ。白雲山の裏山に赴かむとする也。
今日も天氣よし。白雲山の東北麓を巡る。陣場ヶ原と稱す。官林となりて杉苗うゑられたるが、高さ未だ尺に及ばず。蕨枯れながらに殘り、龍膽、鈴蟲草の花、時を得顏也。一溪をわたり、雜木荊棘を排して上れば。[#「上れば。」はママ]石祠あり。案内者曰く、八狐神社也。一町ばかり上れば、また石祠あり。山上も山下も、短小なる雜木のみ生ひたるが、こゝには、眼立ちて、松生へたり。横川、五料など、碓氷流域の一分、脚底に開展す。案内者、東南の谷合ひを指して曰く、これが白雲山の裏山也。壁中のうるほひたる一線、二段となりて、臍を出したるが如し。雨ふれば、瀑となる。これ出臍の瀧也。一峯へだたれる彼方の峯上に、人の如き岩あり。これ人形岩也。遙か谷奧の峯上に、馬の雙耳を近寄せたるが如き岩あり。これ鋏岩也。今少し早かりせば、このあたりの紅葉の美觀を眺むるを得べかりしなりと。石門のことを問ふに、知らず。石門の彼方の奇巖怪石を問ふに、知らず。これより先きへは往きたることなしといふ。その上にも、今日は十時までに客をのせて松井田驛へゆかねばならずといふ。その事情の爲に、知らずとあざむくでもなきやう也。われ不覺にして、案内者其人を得ざりし也。已むを得ず、引きかへしぬ。嗚呼白雲山の奇勝、われわづかに其門に及びて、未だ其堂上に上らざる也。
この裏山の奇勝は、近き頃、妙義の祠官の見出だせる所にかゝる由也。一月ばかり前、新たに梓に上りたる妙義山名勝案内に、その奇、金洞に劣らずと特筆せり。されど、見たる上ならでは腑に落ちず。ひとまづ祠官に逢ひて聞いて見むかと思ひしが、松井田への客は、既に發したり。その發せむと約したりし時間には間にあひたれど、案内者今は用立つに由なし。思ひ當る所あり、御案内申さむといふに、導かれて、再び白雲山に上る。
奧の院を過ぎて、鳩胸をはひ上るまでは、一昨日上りたる路なるが、それより路を變じて、胎内潜りにいたる。岩窟を上りつくし、小さき穴より身を躍して峯背に出でて、一昨日の路に相合する也。
白雲山の絶頂と稱する處にいたりて、折詰と一瓶の酒とを、案内者と相分つ。こゝよりまた例の剃刀の刄を上下し/\て、天狗嶽の絶頂にいたる。石祠あり。この峯、白雲の絶頂と稱する處よりも高く、眼界更にひろし。頂上のひろきことも、妙義の諸山に冠たり。南をさして、例の剃刀の刄を下る。幾百年をか經たるらむ、苔いと深し。鼠茅一面に黄了す。案内者曰く、この草の新緑は、いと美なりと。妙義の三山は、山骨みな怒立せるに、このあたりは、何となく、なつかしく思はる。所謂怒れば萬夫を慴伏せしめ、笑へば小兒をして慕ひなつかしむる快男子の俤、われこゝに見る也。下りて、天狗嶽と相馬嶽との中間に出づ。案内者は待たせおきて、ひとり相馬嶽の絶頂にいたる。こゝも例の剃刀の刄をつたふ也。殊に遊客及ばざればにや、路も無し。されど、絶頂に達して、覺えず驚喜しぬ。白雲の絶頂の眺望は、天狗と相馬とは、大に遮らる。天狗は、やゝ相馬に遮らる。相馬は、天狗にも、遮られず。以て、其の高きを知るべし。四方、眼をさへぎるものなく、眺望の壯大なること、實に妙義諸山中の第一也。相馬、天狗と別に峯名あれど、實は白雲山と一つの山也。相馬は、實に白雲の主峯也。かねて中尾の二峯の盟主也。餘脈、金洞の東面に延び、金

路なき山なれば、歸路は如何と思ひしが、果して下り路をまちがへたるやう也。それと氣付きて、おうい/\と呼べば、近く下にあるべき筈の答聲が、遙か右の方にあるやう也。されど、わが左耳聾せるが爲に、はつきりと答聲の起る處を知るに由なし。火を焚いてくれよと、大聲に叫んで、煙草ふかして待つ。火煙上る。枯木の林を通して火さへ見ゆ。三谷へだたれる彼方のやゝ下の處也。その火に導かれて、下りつく。
地勢を案ずるに、こゝより西に下らば、裏山の一つ此方の谷を經て、今朝通りたる陣場ヶ原に出づるを得べし。この路は、案内者も通りたることありといふ。されど裏山の石門にいたらむには、再び八狐の石祠を經ざるべからず。一寸谷に下りて峯一つ越えなば、石門ありといふ鋏岩あたりに出られさう也。されど、路は無かるべし。案内者も不案内也。殊に、時刻は三時頃とおぼし。つるべおとしといふ秋の日、早くも山中にて暮れむ。憾むらくは、われに日を招きかへすの扇なし。思ひ當る所ありと言ひたる案内者も、さつぱり思ひ當つて居らず。止みなむ/\、妄りに人を咎むべきに非ず。すべてわが不覺より出でたる也。
終に路を東に取り、葡萄園へは出でずに直ちに妙義の宿につきたるは、午後四時半也。もし裏山に向はば、案ぜし如く、山中にて日が暮れるべかりし也。三たび四たび妙義の諸山を上下せし中にて、最も困難を覺えたるは、この下り路也。傾斜急にして、路なき處命を支へむとすれば、荊棘手を刺し、枯れかゝりたる薄、指の鮮血を奪ふ。されど、われこの困難を以て、彼の相馬嶽上の壯觀には、かへざる也。
妙義にありしこと既に五日、錢もつき、切符の通用も、今日限りとなりたればとて、夕月の影に送られて、われはこの趣味多き名山を辭し去りぬ。
日本山嶽志の増補の條に、『妙義は實に火山の化物屋敷なり。強ひて評すれば、巧奇に過ぎて、森嚴を缺くの嫌ひあり』とあるは、余も同感也。されど、石門の奇は、天下に比なし。相馬嶽上の眺望も天下有數也。登山の趣を解する者は、石門より引きかへさずに、請ふ、三山の頂にのぼれ。妙義の奇は、我が凡筆のよく盡くすべきに非ず。見おとしたる白雲の裏山と合せて、世の奇才の士を待たむ哉。
用心せし故にや、この度は、膝關節疼痛は起さざるのみならず、さまで疲勞を覺えず。これならば、われは、なほ千里を踏破するを得べき也
(明治四十二年)