層雲峡より大雪山へ

大町桂月




    一 層雲峡の偉観

 富士山に登って、山岳の高さを語れ。大雪山に登って、山岳のおおいさを語れ。
 大雪山は北海道の中央に※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)ほうはくして、七、八里四方の地盤を占め頂上の偉大なること、天下に比なく、群峰あつまって天を刺し、旭川の市街を圧す。最高峰は海抜七千五百五十八尺、ただに北海道の十国島に冠たるのみならず、九州になく、四国になく、中国になく、近畿になく、奥羽になし。信濃を中心とする諸高山には劣るも、緯度高きを以て、山上の草木風物は、信濃附近の一万尺以上の高山と匹敵する也。
 路伴みちづれは田所碧洋とて、蛮骨稜々たる快男児、旭川市を根拠として嚮導を求めしに、成田嘉助氏という豪の者を得たり。植木を業とせるが、年来盆栽になるべき珍木を巌壁の間に求めんとて、数日の糧を齎らし、ただ一枚の油紙を雨具とし、なたの外には、何も利器を持たずして、単身熊の巣窟に入り、険を踏み、危を冒して、偃松はいまつの中に眠り、大雪山は言うに及ばず、化雲かうん岳を窮め、忠別ちゅうべつ岳を窮め、戸村牛トムラウシ岳を窮め、石狩いしかり岳を窮め、硫黄いおう岳を窮め、十勝とかち岳を窮めて、北海道の中央に連亙せる高山には足跡到らぬ隈もなし。今一人と求めしに、前川義三郎氏とて、豆腐屋を業とせるが、山登りが好きなれば、人夫賃を雇賃に充てて、豆腐を製造する人を雇い、喜び勇んで、我が人夫となれり。
 旭川中学校より天幕を借り、数日の米を用意して、旭川駅を発し、比布ぴっぷ駅に下りて徒歩するに、路は真直にして、その尽くる所を知らず。家は見えずして、きりぎりすの声左右に満つ。下愛別に至れば、小市街を成す。三人の幼児の乗りたる箱車をく犬もあり。石狩川の水を引ける掘割の傍に宿屋ありけるが、小熊を鉄鎖にて木に繋げり。大人も小児も打寄りて見物す。その小熊ぐるぐる廻りて、時々ちゅうちゅうと掌をむ。熊は大熊とても、何となく可愛らしくして、獅虎の如くに猛獣とは見えず。小熊はなおさら可愛らしく見ゆ。この小熊の行末は動物園の檻に入れらるるか、それとも撲殺せらるるか、いずれにしても人に捕えられたる以上は、もがいても、あせっても、泣いても、叫んでも、熊としての天分を全うする能わざるべしと、本人の小熊は知らざるべきが、人から見れば憐れ也。人とても、無形の鎖に繋がれて、もがきあせり、泣き、叫ぶは、なお一層憐れなりとて、しばし見物す。目には小熊を見、心には人を見る也。中愛別に午食して、留辺志部るべしべの旅店に投ず。人家四、五十相接し物売る店もありて、附近に農家散在す。石狩川平原の中を貫き大雪山の数峰面に当る。石狩川は下流に石狩平原を有し、中流に旭川平原を有し、上流に留辺志部平原を有す。留辺志部平原が、石狩川の有する最後の平原にして、これより、いよいよ山の中也。比布より下愛別へ三里、下愛別より中愛別へ一里半、中愛別より留辺志部へ三里半、今日は八里の路を歩けり。
 真勲別に至りて、山の根に取りつき、層雲別に至りて、いよいよ層雲峡に入る。魚槍を肩にし、創口きずぐちより血なおしたたれる鱒をげたる男、霧の中より露われ来る。掘立小屋に酔うて歌うものあり。旧土人なりといえり。石狩川は名だたる大河、中流にて神居かむい山脈を貫き、上流にて大雪山の腰を貫く。いずれも貫くに急湍を以てせずして、平流を以てす。神居山脈を貫く処に神居古潭かむいこたんあり。大雪山の腰を貫く処、即ち層雲峡也。神居古潭は北海道の勝地として世に知られたるが、深さの非凡なる外には格別の風致もなし。層雲峡はいまだ世に知られざるが、天下の絶勝也。石狩川ここにておよそ五里の間、高きは二千尺、低きも千尺を下らざる絶壁に挟まる。川の幅は、三、四十間より漸次狭くなりて、終に十間内外となる。水は浅くして、ほとんど音なし。石狩川も神居古潭あたりは濁れり。旭川あたりも澄まず。層雲峡に至りては、澄みて底石数うべし。両岸の絶壁は、相距あいへだたること、始めは十町内外、五、六町となり、一、二町となり、終に十間内外となる。その絶壁の頂は一様に平かなるに非ず。巌峰の連続にして、支渓おりおり単調を破る。その巌峰は流紋岩にして、柱状の節理を成す。奇怪といいても尽さず。霊妙といいても尽さず。ただこれ鬼神が天上に楼閣を造れるかと思わるるばかり也。
 その鬼神の楼閣に迎えられ、送られ、近く石狩川の清流に接して、青葉茂れる木下路を行く心持、ああ何にか譬えん。加藤温泉とて、思いがけずも、一軒の家あるに、如何いかなる泉質かと鼻にて先ず知りしが、手を入れて、硫黄泉なるを確めぬ。もとは、ほとんど直立せる巌壁を横絶したりけむ、今は丸木橋にて渡りて、間もなく、塩谷温泉に投ず。五里の層雲峡中、人家あるは、加藤温泉と塩谷温泉との二軒のみ也。他にあらば、原始的の粗末なる家なるべきも、ここにては仙家也。熊の皮に迎えられて、炉火に対し、一杯の酒を飲めば、身既に仙化す。温泉は塩類泉にや、硫黄の気の鼻をかぬも、病なき身の疲を医するには、いとうれし。このあたりは河原広く、かつ長く、川の中に巨大なる蓬莱巌ありて、二つの丸木橋にて、彼岸に達すべく巌頭に立てば、大雪山の数峰の頂も見えて、川を見上げ、見下す風致も、浮世のものならざる也。
 明くれば一行の外、温泉の若主人塩谷忠氏、画家吉積長春氏加わりて、層雲峡をさかのぼる。峰上に奇巌多し。巨巌の上部に小巌立ちて、あたかも人の子供を負えるが如きもあり。人の立てるが如きもあり。鉾の如きもあり。これはこれはと足を進むるに、一峰直立して、高さは二千尺もあらん。峰の正面は流紋岩の長柱を連ね、その長柱は峰の両側面に及ぶ。余巌峰を見ること多けれども、かくばかり不可思議なる巌峰を見たることなし。驚歎して、腰を石におろし、煙草呑みても、物足らず、一杯を傾けて、山霊に謝す。ああこれ山か。山ならば神※しんざん[#「纔のつくり+りっとう」、137-3]鬼斧きふの奥手を尽したる也。昨日層雲峡に入りて、鬼神の楼閣かと思いしも、今日より見れば、まだほんの鬼神の門戸なりし也。
 昨日は鬼神の門戸を鬼神の楼閣と思いしが、今日は始めて鬼神の楼閣を見たり。その鬼神の楼閣一下して、墻壁となるかと思われしが、また崛起くっきして楼閣を起し、二長瀑をく。右なるは三百尺、左なるは五百尺もやあらん。南画も描いて、ここまでには到らずと、またも一杯を山霊に捧ぐ。その楼閣の石柱続きて、尽くる所を知らず。余は見物しつつ行き、二人の人夫は魚を釣りつつ行く。時には遅れ、時には先んず。大箱とて、左右の石柱の絶壁、相距ること、ほぼ一町ばかりとなれる処に至り、釣り得たる「やまべ」を下物として、上戸は飲み、下戸は食す。
 二人の人夫は望むがままに待たしておきて、なお釣らしめ、進んで小箱という処に至る。さても造化は変化を極めたるもの哉。石狩川も小箱に至りては、幅僅に十間、両崖の高さは三、四丈に減ぜるが、依然として石柱の連続也。石理ことに明瞭也。水は音なくして、ゆるやかに流る。徒渉としょうして左岸に移り、石柱の下をつたう。いよいよ鬼神の楼閣の室に入りたる也。右崖一欠したる処に、飛泉懸りて仙楽を奏し、一峡呼応す。世に材木巌の奇少なしとせざれども、天上に楼閣を造り、谷底に幽室を造ることは、層雲峡の外には求むべからず。大箱の長さは二十町、小箱の長さは十町、小箱の尽くる処、一大淵を成す。左岸はつたうべからず。徒渉して右峰に移る。淵の上は、二流となる。右はやや大にして本流也。左はやや小にして支流也。海よりここに到るまで、百里にも余らん。石狩川ここにて始めて小渓流となれり。塩谷温泉は五里の層雲峡の中央にあり。塩谷温泉までは細径ありて、右岸に通ず。塩谷温泉より上は径なくして、ただ「やまべ」釣りの踏みたる跡、右岸にあり。その跡も時々絶えて、岸辺の石を飛び飛びに歩かざるべからず。塩谷温泉までの巌峰だけにても、天下の絶景なるが、これなお鬼神の門戸にして、温泉からが楼閣也。その小箱に至るまでの神秘的光景は、耶馬渓になく、昇仙峡になく、妙義山になく、金剛山になし。天下無双也。層雲峡をきわめたる者にして、始めて巌峰の奇を説くべき也。
 帰路、嘉助氏は渓中にて、死したる鱒を拾い上げしが、食いてもうまからずとて棄つ。魚の中にて、く急斜面の渓流を登り得て、最も深く最も高く山に入るものは、この鱒のみ也。その鱒は清渓に生れて、荒海に出で、もとの清渓に戻りて交尾し終れば雄直に死し、雌も間もなく死す。鱒にありては、恋愛即ち死滅也。
 往復僅か五、六里と油断して、戻りは宿の提燈ちょうちんに迎えられぬ。塩谷氏は年少気鋭、歩くこと飛ぶに似たり。誤って深淵に落ちけるが、水泳を心得おるを以て、着物を濡らせしだけに止まりたりき。山に登らん者は、水泳を心得ざるべからずとは、余の常に説く所なるが、今塩谷氏の例を実見して、ますます余の言の人を誤らざるを知れり。

    二 大雪山の第一夜

 層雲峡は石狩川の有する一大偉観なるが、その鬼神の楼閣と思わるる巌峰は、大雪山の腰なれば、大雪山の有する一大偉観なりといいても可也。
 鬼神の楼閣を下より眺めたるのみにては、普通遊覧の域也。山水に徹底せむには、その楼閣の上に登りて、大雪山の頂を窮めざるべからず。しかるに塩谷温泉の人々とても、ここより登りたることなし。さすがの嘉助氏もここよりは登らず。よしよし、楼閣の割れ目の沢を登らば、登られぬことなしと見当を付け、昨日の一行に、榊原与七郎氏という測量家と人夫とが加わりてまさに発せんとせしに、水姓吉蔵氏※(「馬+風」、第4水準2-92-39)はんぜんとして来る。留辺志部小学校の校長なるが、幾度も登攀して大雪山を我庭園の如くに思えり。余が大雪山の登攀を企つと聞き、嘉助氏という豪の者を伴えりとは思いもかけず、あるいは目的を達すること能わざるべきかと危ぶみ、自から進んで嚮導とならんとする也。余好意を謝してその容貌を見るに、魁偉かいいにして筋骨たくましく、磊落らいらくにして豪傑肌なる快男児也。いよいよ心強く覚ゆ。氏とても塩谷温泉より登りたることなきが、どの沢でも登らば登らるべしとて、余らと同じ考え也。
 塩谷温泉より数町下りて、左の沢に入り込む。はじめの程は小さき平流なりしが、間もなく渓壑けいがく迫りて、薬研やげんを立てたるようになり、瀑布連続す。水姓氏は四、五貫の荷物を負えるに、危険なる処に至れば、先んじて登攀して、後より来る者を引き上ぐ。余一行に尾す。急がずして余力を存し、かつ静かに風景を味う也。一瀑を登りしに、また一瀑あり。その間の渓流の中に、孤巌頭を出し、その巌尖に一蛇とぐろを巻く。在来多く蛇を見たれども、そのとぐろを巻けるを見るは、これが始じめて也。珍らしと見入りて、憐れに思いぬ。この蛇きてはおるが、半死までの様子となりて、その身もいたく痩せたり。思うに薬研の壑中に陥りて、出るに出られず、食うに物なく、弱り果てて力なき身を渓流の中の膚寸ふすんの地に托するものなるべし。空しく死を待つよりは、今一度活路を求めて見よとて、杖にてとぐろを解きて、下の瀑に落しぬ。
 渓流二つに分れて、右は狭けれども、水量多く、左は広けれども、水量少なく、傾斜急也。余心の中に右渓を取らざるべからずと思いながらも、一行の左渓を取れるに尾して行くに、果して絶壁に行きつまる。ともかくもと午食して右渓に下り、瀑また瀑をじ登りしに、終に十余丈の大瀑に行きつまる。これは見事と見とれしが、攀ずべくもあらざれば、引きかえし、右崖を攀じて峰稜を行く。根曲り竹の藪を三時間もかかりて潜り抜け、偃松帯に取付きて、ほっと一と息つく。時計を見れば、午後四時十五分也。そろそろ野宿の用意を為さざるべからず。上り上りて、果して水を得るや否や。数町下に水ある処ありき。上らんか、下らんかと、問いて見たるに、誰れも下ることをがえんぜず。水姓氏右手の直径二十町とも見ゆるあたりに、雪田あるを見出し、今夜はあの雪田に水を得て野宿せんという。一同賛成す。水姓氏先んじて、数町ばかり行きしに、水ありありと喜声を発す。うれしや、偃松の林裂けて、幅十間長さ四十間ばかりの小池あり。蛙の子のめるを見て、毒水にあらざるを知る。偃松の余したる処、一面の御花畑也。苔桃、巌香蘭がんこうらん、岩梅、ちんぐるま草、栂桜、岩髭、千島竜胆ちしまりんどうなど生いて、池中の巌石にも及べり。偃松の中は、数百千年の落葉つもりつもりて、厚さ三、四尺に達し、これを踏むに、あたかも弾機の如し。山上の寒さは挙ぐる火に消えたり。鍋の飯も出来たり。下戸は先ず食う。上戸は酔うて陶然たり。十九夜の月出ず。火炎高く昇れるが、火炎の中に数十条の赤線直上し、その末火花となりて、半天に四散し、下界の煙火などには見られざる壮観を呈するに、酒ますます味を加う。天幕は張らずに敷きて、一同その上にす。焚ける火が一同の掛布団也。

    三 大雪山の第二夜

 塩谷温泉の連中は、日帰りの出来るぐらいに思いて、食物も十分に用意せず、草鞋わらじも代りを持たず。さしあたり草鞋を作らざるべからずとて、材料を求むるに、綱、縄などのみにても間に合わず、我一行より不用なる手拭、風呂敷などを与えたるに、嘉助氏と温泉の人夫とが、四足の草鞋を作れり。いざとて偃松帯を上る。根曲り竹ならば、押分け押分けて上らるべし。偃松は押分くること能わず。手にてその枝をつかみ、足にてその枝を踏みて、斜に上るの外なし。上るに従って、偃松小さくなり、傾斜ゆるやかなる処に至りて、低く地にす。その上を踏みて行くを得べし。うれしや、偃松を踏みて行くを得るようになれば、頂上は遠からざる也。四面の眺望も開けたり。層雲峡の楼閣脚底に落ちて、留辺志部平原も見ゆ。偃松いつしか尽きて、ここに黒岳の一峰の上に立てり。さても大雪山の頂上の広きこと哉。南の凌雲岳、東の赤岳、北の黒岳の主峰など、ほんの少しばかり突起するだけにて、見渡す限り波状を為せる平原也。その平原は一面の砂石にして、処々に御花畑あるのみにて、目をさえぎるものなきのみならず、足を遮るものもなし。少し下り、凌雲岳を右にして行くに、お花畑連続す。千島竜胆は紫也。雪間草は白也。小桜草は紅也。兎菊は黄也。梅鉢草、岩桔梗、四葉塩釜など一面に生いて、足を入るるに忍びざる心地す。石原の処には、駒草孤生す。清麗にして可憐なる哉。これが高山植物の女王なるべしといえば、水姓氏うなずき、嘉助氏も頷ずく。広義の高山植物は樹木をも含めるが、狭義の高山植物は草花也。その草花の長さ一、二寸、大なるも四、五寸をでず。その割に花は大にして、その色の鮮麗なること、底下界の花に見るべくもあらず。余は大雪山に登りて、先ず頂上の偉大なるに驚き、次ぎに高山植物の豊富なるに驚きぬ。大雪山は実に天上の神苑也。
 大雪山群峰の盟主ともいうべき北鎮岳の頂に達して、さらに驚きぬ。周回三里ばかりの噴火口を控えたり。その噴火口は波状の平原につらなれるが、摺鉢すりばちの如くには深くおちいらず、大皿の如くにて、大雪山の頂上は南北三里、東西二里もあるべく、その周囲には北鎮岳、凌雲岳、黒岳、赤岳、白雲岳、熊ヶ岳、など崛起くっきし、南に連りて旭岳孤立す。南に少し離れて忠別岳あり、化雲岳あり、その末一段高まりて戸村牛岳となる。その奥右に十勝岳あり、左に石狩岳あり。北は天塩北見界の峻峰群起して我れと高さを競わんとす。気澄まば、旭川も見ゆべく、北海道の東部に雄視せる阿寒岳も見ゆべく、西部に雄視せる羊蹄山も見ゆべく、日本海も見ゆべく、太平洋も見ゆべし。飲める口の水姓氏には酒を分ち、飲めぬ口の塩谷氏には氷砂糖を分ちて、一行二分す。旭川よりの四人は残り、層雲峡よりの五人は下れり。
 残れる四人も北鎮岳に残らむとするに非ず。南に下りて、雲の平を行く。この雲の平のみを以てするも、数十万人を立たしめて、なお余あるべし。白雲岳を目ざして行く程に、濃霧襲い来りて、日も暮れむとす。濃霧やや解けたる方角に雪田あるを見たれば、下りてその雪田に就く。微雨至りければ、天幕を張る。火をさかんにすれば、雨にも消えざるもの也。今夜も焚火に山上の寒さを忘れたるが、天幕に雨を避くることとて、焚火を掛布団とすることは出来ず。九人が四人に減じて、何となく寂し。殊に我らは天幕を有するも、温泉の連中は天幕を有せず。下りとはいえ、路もなき天下の至険なれば、下ることかえって上るよりも遅く、昨日にぎやかに野宿せしあたりにて、雨に濡れながら夜を明かすなるべしとて、心落付かず。心配しても仕方なしと思いながらも、なお心配せしが、終に疲れて眠れり。

    四 大雪山の第三夜

 昨日は他所事と思いしに、今日は我らも一足分の草鞋が欠乏しそう也。綱は以て草鞋の経とすべきが、緯になるものは、温泉の連中に与え尽したり。思案するまでもなく、余は六尺ふんどしを解く。我もとて、嘉助氏も六尺褌を解く。碧洋と義三郎氏とは解こうとせず。西洋人の真似して、猿股を着けおれるなるべし、猿股にては、緊褌きんこん一番ということも出来ず。変に処して、何の役にも立たずと、気焔を吐けど、二氏は何ともいわず、ただ二褌を比べ見て、にやにや笑う。余の褌は新しくして白く、嘉助氏の褌は古くして黒き也。
 砂の急斜面を登りて、火口丘に達し、幾度も上下して火口丘をつたい、兜岳とて、巌のみの重なり合える峰に突き当り、右折して火口丘を下る。お花畑の連続にて、傾斜も緩也。蝦夷はこよもぎあり。大雪山中ここのみに生ず。白竜胆りんどうあり。これもここのみに生ずと、嘉助氏いえり。駒草もこのあたりに多し。白雲岳に取り付けば、これも巌ばかりの山也、刀のやいばに似たる頂上をつたいつたいて、最高処に至る。この岳は大雪山の東南端に位して、外側に火口を有す。その火口は十数町四方、底平らかになりて、一面の御花畑也。大雪山ここに一頓して忠別岳につらなり、その先に化雲岳のし、またその先に戸村牛岳つ。戸村牛岳の左に石狩岳樹を帯び、その右に硫黄岳煙を噴く。眼を西に転ずれば、旭岳と北鎮岳とが近く相対峙す。在来の書物には旭岳よりも北鎮岳を高しとせるが、距離は旭岳が遠しと思わるるに、我が目には北鎮岳よりも高く見ゆ。陸地測量部のこのあたりの五万分図は未だ世に発行するに至らざるが、測量は既に終れり。その測量を聞き合せて、余の見る所の誤っておらざるを知れり。旭岳は七千五百五十八尺、北鎮岳は七千四百十尺、旭岳の方が十五丈も高き也。ついでに附近の諸岳の高さを記さむに、我立てる白雲岳が第三位にて、七千三百五十七尺、戸村牛岳が七千六十五尺、凌雲岳が七千三十二尺、赤岳が六千八百五十七尺、石狩岳が六千五百七十三尺、黒岳が六千五百四十九尺、忠別岳が六千四百七十七尺、化雲岳が六千三百四十九尺也。
 下って御花畑に逍遥せしに、微雨至る。去らむとすればはれる。もとの路を取りて、昨夜野宿せし跡を左に見下し、前に見し北鎮岳を左にし、終に後にして、雲の平を南に下れば、熊ヶ岳崛起して、十町四方の火口を控えたり。風を巌陰に避けて午食し更に南に下れば、大雪山一頓しかけて、旭岳を起す。二峰となりて、東なるは低く、西なるは高し。雪田を踏み、砂礫をじて、二峰の中間に達し、東峰を後にして、西峰を攀ず。砂の斜面急也。五、六歩ごとに立ち留まりて、五つ六つ息をつく。山に登るに急げば、苦しくして、疲れ易く、持久力を失い、風景も目に入らず。さればとて、度々腰をおろしては、路あまりに捗らず、疲れ切っては、休息しても、元気を恢復すること難し。疲れぬ前に、ちょっと立ち留まるだけにして、息を大きく吐き、腰を卸さずに、徐々として登れば、苦しきことなく、疲れもせず、持久力を失わずして、風景を味うことを得べし。口に氷砂糖を含まば、なお一層元気を失わざるべし、立ち留まること百回にも及びたりけむ。頂上に達して、始めて腰を卸す。頂上は尖れり。西面裂けて、底より数条の煙を噴く。世にも痛快なる山かな。大雪山の西南端に孤立して、円錐形を成し、峰容大雪山の中に異彩を放つ。眺望も北鎮岳と相伯仲す。ここにては大雪山の頂の大なることを見る能わざるが、南より西へかけての一帯の台地に、姿見の池を始めとし、多くの小湖の散在せるを見るを得べき也。
 南に下り、姿見の池を右にして、渓谷の中に入る。天地は椴松とどまつと白樺とに封ぜられたり。渓即ち路也。水、足を没す。膝までには及ばず。岩石あれば、岩石より岩石へと足を移す。沢蟹がおりそうなりとて、嘉助氏石を取りのけしに、果しておりたり。一同傚いて、行く行くこれを捕う。大さ一寸乃至ないし二寸、身はえびにて、はさみだけが蟹也。この夜、渓畔に天幕を張り、これを煮て食う。旨しとは思わざるが、ともかくも余には初物也。天麩羅てんぷらにすればうましと、嘉助氏いえり。午前二時目覚む。雨の音を聞く。ことことと鍋の動く音をも聞く。雨が動かすに非ず。風が動かすにも非ず。熊にや、狐にや、狸にや。嘉助氏咳して、目覚めておる様子なれば、問いて見たるに、木鼠りすなりといえり。うとうとして、三時半目を開きしに、樹影天幕に映れり。うれしや、雨止みて、月出でたる也。
 次の日も渓の中を行くに、渓の幅次第に広く、水次第に多し。幣の滝を下り、二、三十人を立たしむべき磐石の上に立ちて、滝を見上ぐ。十丈もあらむ。飛沫日光に映じて、虹を現わす。瀑の左に直立せる絶壁の面に穴多く、岩燕出入して、虹の中に舞えり。渓ますます広し。虎杖いたどり人より高く、ふきも人より高し。おりおり川鳥ききと鳴きて、水面をかすむ。雀を二倍したる位のおおいさにて、羽の色黒し。この鳥陸上に食を得る能わず。さればとて、水掻みずかきなければ、水にも浮べず。木にとまらずして、巌にとまり、横に渓上を飛び、魚を見ては、水中にもぐり込む也。二見の瀑を下りてかえりみれば、二段になりて、上段は一丈、下段は三丈もあらむ。幣の滝より低けれども、水量多くして、勢壮也。
 およそ四時間にして、渓中を出でたり。蝦夷松の林開けて、瓢沼、瓢の形を成す。毛氈苔もうせんごけ一面に生いて、石を踏み尽したる足の快さ言わん方なし。岸に近く、浮草にすがりて、一羽の※(「虫+廷」、第4水準2-87-52)とんぼの尾を水面に上下するを見る。卵を生むにや。こころみに杖にて追いて見たるに、逃げむともせず。子孫のために、己れの命を顧みざる也。
 天神峠に至りて見下せば、絶壁直立すること、千尺にも余れり。これを下るかと思えば、心自らとどろきしが、熊笹や灌木をつかみて、後向きになれば、下られざるにもあらず。半頃より左に近く羽衣の滝を見る。下りて見上ぐれば、高いかな。八十丈と称す。直下せずして、曲折するが、日光の華厳けごん滝よりははるかに高き也。この滝の水、落ちて間もなく、忠別川に入る。川に沿い、数町下りて、松山温泉に投ず。忠別峡中の一軒屋也。ここより旭川までは、一日の行程也。幾度も忠別川を徒渉せざるべからざるが、ともかくも道路あり。旭川まで歩かずとも、美瑛びえい駅に至れば、汽車の便ある也。松山温泉より旭岳に登るには、人の踏み付けたる跡あるのみにて、道路なく、大部分は渓水の中を歩かざるべからず。天神峠の嶮さえあり。されど、塩谷温泉より登るに比ぶれば、遥に平易也。毎年大雪山に登るもの百人内外、忠別川をさかのぼりて松山温泉に一宿し、次の日姿見の池の畔に野宿し、その次の日旭岳に登るだけにて、引返して松山温泉に再宿するなりと、嘉助氏いえり。それだけにては、大雪山の頂上の偉大なることも判らず、御花畑の豊富なることも判らざる也。羽衣滝も壮観なるが、他にその比なしとせず。層雲峡の絶景に比すべくもあらず。塩谷温泉の連中は、旭岳と羽衣滝とを閑却したるが、その代り層雲峡と北鎮岳とを窮めたり。この方が旭岳と羽衣滝とを窮むる者よりは、要領を得たりというべし。されど旭、北鎮、白雲の三岳に登らずんば、大雪山の頂を窮めたりとはいうべからず。羽衣滝も閑却すべからず。もしも層雲峡を閑却するならば、これ大雪の一半を見ざる也。
 在来大雪山に登るものは往復四日を費したるに、余はその二倍の日数を費したりしかば、思いがけずも、『北海タイムス』に、行方不明となれりと伝えられたり。旭川の有志、明日は捜索隊を出さむと騒げり。出張の途次、余を訪いたるおいの政利も、その隊に加わらむとせり。余無事に旭川に戻りて、甥は愁眉を開き、有志も安心せり。しかるに余の郷里の新聞に転載し、なお筆を舞わして、多年登山に慣れたる人なれども、猿も木より落つということあれば、気遣わるるなりと付け加えたり。余に同腹の兄妹四人あり。二兄一姉死して、一姉なお郷里に存す。これを見ておおいに驚き、打電して東京の家族に問い合わす。家族も驚きて、北海道の知人に打電せしが、家族は余の平生の登山ぶりを知りかつ余に関する新聞の虚報に慣れておれば、姉ほどには驚かずこの頃相知りたる北竜村の西島清太氏も驚き、わざわざ札幌に出でて、卜者に見てもらいしに、安全なりとの報を得たるも、なお未だ全く心を安んぜざりき。一片の虚報は、四方八方に心配をき起せり。されど、真の事実世に卦ぜられて、余が月並の遊覧者にあらずして、登山に熱心にして徹底することが、世に明かになり、到る処、余を歓迎するの度を加え、登山に便宜を得ること多く、禍転じて福となりける也。





底本:「山の旅 大正・昭和篇」岩波文庫、岩波書店
   2003(平成15)年11月14日第1刷発行
   2007(平成19)年8月6日第5刷発行
底本の親本:「中央公論」
   1923(大正12)年4月
初出:「中央公論」
   1923(大正12)年4月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年6月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について