赤城山

大町桂月




一 赤城の大沼


明治四十一年十月の末、われ三度目にて妙義山に遊び、去つて榛名山の麓を過ぎて、赤城山に上りぬ。
 世に、妙義、榛名、赤城の三山を、上州の三名山と稱す。げに、いづれも、名山也。されど、各※(二の字点、1-2-22)其特色を異にす。まづ高さを云へば、赤城は六千尺、榛名は五千尺、妙義は三千尺にも足らず。大きさを云へば、妙義は二里四方、榛名は六里四方、赤城は十里四方の地盤を占む。赤城にも、榛名にも、湖あり、溪流あり、瀑布あり。妙義には、全く水無し。赤城は骨を露はさず、榛名は少し露はし、妙義は大いに露はす。殊にその石門の奇は、天下無比也。名山と云はば、三山皆洩れざるが、高山と云はば、赤城也。大山と云はば赤城也、榛名も之に入る。奇山と云はば、妙義の獨占に歸す。
 げに、妙義は奇拔也。されど、妙義の奇拔を喜ぶの趣味より推して、赤城を平凡とのみけなさば、これ赤城の眞相を知らざる者也。赤城は壯大也。されど、赤城の壯大を喜ぶの趣味より推して、妙義を狹小とのみけなさば、これ妙義の特色を知らざる者也。もし維新の三傑を以て、上毛の三名山に比すれば、もとより全體といふわけには行かざれども、或點は、西郷隆盛は赤城也、木戸孝允は榛名也、大久保利通は妙義也。今の大政治家を以てすれば、山縣公は赤城也、伊藤公は榛名也、大隈伯は妙義也。古の英雄に及べば、織田信長は妙義也、豐臣秀吉は榛名也、徳川家康は赤城也。政治家や實業家は、赤城的なるが多く、宗教家も名僧となれば赤城的也。學者や藝術家は妙義的なるが多く、軍人も士官時代は妙義的也。概して、日本國民は妙義的也。日本國民の中にても、上州の人士は、妙義的なるやうに見受けらるゝ也。
 われ二十一歳にして、始めて妙義に上りぬ。三十五歳にして、始めて榛名に上りぬ。四十歳にして、始めて赤城に上りぬ。いづれも皆名山と感服す。妙義は、當年見て奇と感じ、今日見ても奇と感ず。當年もし赤城を見なば、平凡とけなししかも知れず。唯※(二の字点、1-2-22)恥づかしく、平凡の資、青年時代にも、妙義の奇を得ず、壯年時代になりても、赤城の大を得る能はざることを。
 赤城は四方八方より登らるゝ山なるが、われは、前橋驛に下りて小暮路を取りぬ。その小暮路の手前を早く右へまがりて、前橋の市外に出で、近く面前に赤城の荒山、鍋割、硯石の三山を見るものの、路多くして、いづれを小暮路とも、わき難し。『小暮へは/\』と、七度も八度も人に問ひて、漸く小暮路に出づれば、岐路あれど紛はず。路は高まるともなく高まりて、顧みれば、上州の平原早や廣く開けたり。朱の鳥居の立てる處、二三の飮食店あり、農家もあり。これ小暮村也。一店に休息し、『前橋へは何里』と問へば、『二里』といふ。『赤城山までは』、『五里』といふ。一時間ぐらゐ休息しても大丈夫と落ちつきて、微醉を買ふ。荷馬車四つ五つ店前にとまり、四五人の若者どや/\入り來りて、茶を飮み、菓子を食ひ、愉快げに語り、且つ笑ひ居りしが、『こら、往來の眞中に車を置く』と怒鳴る聲を先だてて、思ひがけずも巡査あらはる。こりや青天の霹靂、大いに恐縮せざるを得ず。若者一同しほたれて立ち上り、『誠に相すみませぬ』。『名前を云へ』、『この度は、どうぞ御許しを』。『貴樣の名は』、『苗字は』、『村は』、『番地は』、『年齡は』と、手帳取り出して、一々書きつく。若者一齊に査公の前に立ち竝び、手を膝に體を幾んど直角に曲げて、幾回となく頭を下に動かす。査公の鋭き目は、その若者に向はずして、却つて余の方に向ひしが、『將來を愼め』と一喝して、佩劍がちや/\と肩をゆすつて去る。
 赤城の裾野をだら/″\と、上るともなく上ること凡そ一里半、水が欲しくなりし頃、一軒の小屋を得て休息す。小屋の前に繋げる馬の主にや、十六七歳の少年、腰かけて休み居たり。『あの馬は乘せるか』、『乘せまする』と、相談一言にまとまりて、われ乘り、少年牽く。馬に騎りて上れるを見ても、赤城山の嶮ならざることは、推して知るべし。鍋割、硯石二山の間、谷さまで狹からず、白川といふ小溪ちよろ/\流る。木はあれども、林をなさず、左右前後の眺望、いと暢びやか也。風やゝ寒ければ、手拭を頬被りにす。路も危からねば、兩手を懷ろに收む。路、右に轉じて、右方に荒山見え初め、處々に紅葉の點綴せるを見る。『秋の山は綺麗だ』と、少年獨言のやうに云ふ。また暫くして、『秋の山は綺麗だ』と繰りかへす。げに、山は秋、旅も秋也。
 箕輪とて、五六軒の農家ある處を過ぎて、さきの小屋より凡そ二里ばかり來りし頃、馬は石に一寸つまづく。少年ふりかへりて、『鐵蹄がとれた』といふ。『下りてやらうか』、『さう願ひませうか』と相談又一言にまとまり、下りて徒歩す。岐路あり。右は地藏の湯、左は赤城神社と、木標人を導く。地藏の湯を經ても赤城神社に行かるべけれど、路やゝ遠し。この湯、もと地獄谷温泉と稱したりしが、温泉湧出せぬやうになり、この頃は、鑛物を水に溶かして沸かすやうにしたるが、それでも疝氣に効能あるとかにて、近郷より來り浴するものありと聞く。少し山坂らしくなりたるかと思へば、早や峠也。右に地藏ヶ嶽を仰ぎつゝ、だら/″\下りて大沼に達す。湖面熨したるやうにて、げに、自然の一大明鏡也。湖を隔てて、黒檜くろび山を仰ぐ。此方の大木は、葉既に落ちつくしたれど、黒檜山の腰には、なほ紅葉あり。折しも夕日は對岸にのみ及びて、紅葉ひとしほ鮮かに、黒檜山と共に水にうつりて、孰れか眞、孰れか影と疑はるゝばかりに明か也。
 この美景をを[#「美景をを」はママ]眺めつゝ數町ゆけば、湖の東端水に背いて、可成り大なる祠宇の立てるを見る。これ赤城神社也。前は長屋門に、後ろと左右とは、樅の大木に圍まる。その長屋門の祠に面したる處に、茶菓を賣る店あるは、めづらしき樣也。祠畔唯※(二の字点、1-2-22)一つの人家なる旅店に投ず。可成りひろくして、數十の客を容るゝに足れど、直ちに湖水に接して居らざるは、慊らぬ心地す。
 山の湖は平地の湖とは異なりて、一種清幽の趣を有す。もし其大を言はば、陸奧に十和田湖あり。關東にて最も大なるは、日光の中禪寺湖也。箱根の蘆ノ湖之に次ぐ。この大沼は、周圍わづか一里ぐらゐなれど、山湖の山湖らしき趣を見むには、却つて此位の大きさを可とす。この湖、南北九町、東西十五町と稱せらる。中間やゝせばまりて、形ほゞ瓢箪に似たり。東方即ち赤城神社のあるあたりが、其口にあたる。口に、ちよろ/\清水をうくるが、尻も裂けて沼尾川となり、西に向ひ、鈴ヶ嶽の北麓を下りて、利根川に注ぐ。岸に平かにして、路は近く水に接して、湖を一周す。東北の方に、小島あり。平かにして、樹を帶びて、巖を帶びず。岸と相距ることわづかに七八間、砂洲之に連なる。歩して行くを得べし。祠の外には、人家なし、唯※(二の字点、1-2-22)東西にわかれて、二軒の宿屋あるのみ也。

二 黒檜山


腰に握飯を帶びたれば、夜までは人家なき山路も、安心して歩ける也。大沼の北端より、直ちに五輪峠を越えて、赤城山を北に下らむと思ひしが、雄拔なる黒檜山を仰ぎ見ては、上らずには居られず。赤城神社より頂上まで一里の程と聞く。歸りは、頂上より直ちに五輪峠に下らば、ほんの一里だけの迂路に過ぎざるべしとて、石標に登り口を教へられて上る。しばし深林の中を行き、頂上を左の方、咫尺の上に見ながら、路は右方に轉じて蛇行す。赤城山もこゝに至りて、はじめて山路らしく、又深山らしく思はるゝ也。峯背をつたひて、いよ/\黒檜の肩ともいふべき處に到れば、路いよ/\嶮なるが、それも、しばしの程にて、やがて頂上に達す。頂上は、東西に細長くして、東端に二つ三つの石のほこらあり。西端には、木のほこらあり。中央に測量の三角點あり。この頂上は、唯※(二の字点、1-2-22)躑躅がぽつ/\生ひたるのみにて、どこにても、四方の眺望ひらけたれど、まづ/\こゝにてとて、三角點に踞して休息す。大沼、今や脚下に在り。南には、地藏ヶ嶽、湖を壓して高し。東南には、小沼を見る。位置は大沼より一段高けれど、大きさは小沼の名に負ひて、大沼の五六分の一に過ぎず。長七郎山、その傍に峙つ。高さも小沼に相應す。西南には、鈴ヶ嶽、群峯を壓して劍立す。眼界の及ぶ處はこれだけにて、四方すべて霧にかくれたり。
 黒檜、地藏、鍋割、荒、鈴を赤城の五山と稱す。これ赤城山彙のおもなるもの也。鍋割、荒の二山は、きのふ白川の溪を遡りし時、右に仰ぎたり。黒檜は、湖を隔てて仰ぎたり。今われ黒檜の絶頂に在りて、左に地藏を見、右に鈴ヶ嶽を見る。鍋割、荒山は、地藏に遮らる。遮られずとも、他の奇なし。黒檜、地藏、鈴の三山は、各※(二の字点、1-2-22)特色あり。地藏は大、黒檜は高、鈴ヶ嶽は鋭也。
 日は赤々と照りたれど朝の風寒し。枯木を焚きて暖を取る。火の熾んにあがるを見るは心地よきものなるが、山上に火を焚くは、心地よき度を越して痛快也。まして、風寒くして、路伴なきに於てをや。今や余は數尺の火炎を相手にして、人界を六千尺の下に見下す也。
 ふと眼を放てば、南方雲解けて、一の高山、天半に見え初めたり。その煙を噴けるは、たしかに是れ淺間山也。雲は次第に西方に向ひて解けて、淺間につゞける諸高山、次第にあらはれ來たる。草津の白根山も、その中にあるべし。やゝ近く西北に當りて、頂の二つにわれたる高山も見ゆ。圖を按じて、その武尊ほだか山なるを知る。この具合ならば、日光の男體山が見え出すかも知れず、筑波も見え出すかも知れず、富士も見え出すかも知れず、まあ/\待つて見むとて、火にあたりながら、圖を按じて、眼を四方に馳す。
 されど、思ひ通りには、雲は霽れず。始めの程は、北麓が雲に鎖されたり。その雲去るかと思へば、雲は南麓に來たる。南麓霽るゝかと思へば、雲また北麓に涌き、近く我に及ばむとして及ばず。其雲も終に去れり。頭上は、はじめより、どちらを見ても雲無し。されど目ざす方面は、容易に霽れむともせず。かくて十二時近くなりければ、辨當とり出だして食ふ程に、うれしや日光方面の雲霽れたり。連山の中にて、最も高きが、熟知せる男體山也。男體山も、この方面より見れば、連山の彼方に、兜形の頭を出だせるのみにて、淺間の美觀に比ぶべくもあらず。されどわれは、他の方面に於ける日光の美觀を知り居る也。日光も、淺間も、海拔八千尺以上に及ぶ。關東の高山として、東西の兩大關也。
 午食終らば、山を下らむと思ひしが、男體山の見え出したるに、心又動き、おそくならば今一度湖畔に宿りてもよしと決心して、頂上にありしこと凡そ五時間の久しきに及べど、雲の模樣は變りさうにも見えざれば、終に斷念して湖畔に下り、今宵は、湖西の宿屋に投ず。昨日宿りしあたりを大洞と稱し、こゝを沼尻と稱す。

三 沼尾溪の紅葉


大沼より出づる沼尾川は、可成りの水量あり。大瀑と稱する瀑布ありと聞き、宿の老人に、其高さを問へば、『十丈もあるべし』といふ。これだけの水量にて、高さ十丈ならば見るに足る。よしや、見るに足らずとも、大瀑ありと聞きながら、見ずして去るは、氣がすまざる也。余は再び豫定の旅程を變へぬ。
 宿の老人を導者として、沼尾川の右岸を下る。この川、しばしが程は平かなるが、やがて急になり、それと同時に路も右に離れて高まる。それもほんの一寸の事にて、僅々四五町の峠を越せば、はや下り一方也。左に鈴ヶ嶽の劍立するを見る。その四分通りより下は、山一杯が紅葉也。それより以上は、既に散りたる也。前より右へかけたる山々谷々、すべて紅葉ならざるは無し。赤城山もこのあたりは、樹木茂る。その紅葉の美は、關東に於ける紅葉の一勝地と稱するに足る。されど、これ赤城の裏手にして、西方の路也。われ若し前橋方面の表口より上りて、直ちに北に下らば、この赤城の紅葉の美を知らずにすむべかりし也。
 路、湲に近づきて、身は紅葉の中に入る。一瀑あり、高さ三四丈、錦繍の間に、一筋の白布を懸く。沼尾より一里の程也。『これが大瀑か』と問へば、『大瀑は、もつと下の方なり』といふ。『さらば、この瀑の名は』と問へば、『このあたりを鷹ノ巣と稱すれば、鷹ノ巣瀧とでも云ふならむ』といふ。川を左にわたりて、饅頭の如き草の山を下る。枯尾花、人を沒して、全身露にびしよぬれになる。沼尻より凡そ三里にして、沼尾川を右にわたる。谷あひは畑ひらけて、二三軒の農家見ゆ。こゝを川下新開せんしたしんかいと稱す。こゝより溪を上に徒渉して、數十丈の絶壁の間を二三町も行けば、川水一落して、僅に五六尺の飛流となる。『これが大瀑なり』と導者云ふ。『これが十丈か』となじれば、『實は先年獵せし時に、ちらと覗いて十丈もあるやうに思ひしなり』と白ばくる。こゝに、十丈ならずとも、せめて四五丈の瀑かゝらば、瀑として見るに足る。絶壁如何にも高く、且つ相迫りて、幽にして壯也。夏は一日の凉を取るに足るべし。枯木を焚きて冷氣を消し、かねて氣を壯にす。導者の背にせる酒瓶を取出だし、火邊に置きて、煖めて飮み、握飯を食ふ。導者は下戸也、酒の相手にならず。色々の事を問ふに、一向要領を得ず。年は七十一、耳遠し。大きな聲を出さざれば聞えず。老耄せしにも由るべけれど、もとより目には一丁字もなし。食ひ氣と慾氣との外には、何も解せず。若き時はこれに唯※(二の字点、1-2-22)一つ色氣が加はり居りしなるべし。殊に大瀑を十丈といつはるより推しても、山間の民に似合はず、ずう/″\しき男也。げにや、『人生讀書憂患始』、人も此のやうに沒分曉漢になれば、長命は出來る筈也。
 農家まで戻りて、小憩して歸路に就きしが、老人は、さきの薄原に閉口して、『別路を取らむ』といふ。今一度、鷹ノ巣瀧とやらを見たし、それを見ることを得さへすれば、どの路をとりてもよし』と云へば、さらばとて、沼尾の谷よりは一と谷北に當れる處を上る。處々に掘立小屋あり、炭燒釜あり。鷄鳴き、犬吠ゆ。掌大の地に、杓子菜も生ひたり。この一谷、もとのまゝならば、紅葉の美觀あるべけれど、惜しや、拂ひ下げられて、木はみな薪炭とならむとす。頂上の處のみ僅に殘れるは、小兒の芥子坊主にも譬ふべし。それが紅葉なれば、毛なら、餘りうれしからぬ赤毛也。聞けばこの一谷の木、八百五十圓にて拂ひ下げられたりとぞ。『それで、幾俵の炭がとれるか』と問へば、『一萬四千俵の豫算なり』といふ。一俵四五十錢とすれば、得る所、六千圓内外、正味の利益は幾らになるか迄は聞いても見ざりき。雜木を賣拂ひて、良材となるべき木を植ゑつくるもよけれど、風景は風景也。官民共に風景の保護法は講ぜざるべからず。赤城山中、よしや、他の處の木は伐採するとも、大沼湖畔と沼尾一溪とは、伐採せざらまほしきもの也。
 知りあひと見えて、一老女のしたしげに導者に語るを聞けば、さても、山中の民は氣の長きもの哉。この春、案内の男のみは知りて、縁もゆかりもなき山林の吏に、雨宿りの好意あふれて、導者の家に宿るといふまゝに、預けて置いてくれよとて、洋傘を貸したるが、今もあるかとの事也。老人は、『おれは知らぬ、歸つて聞いて見よう』と答ふ。形は、のんきなるも、山中にも、社會一般否以上の生活難ありて、あけても炭燒き、暮れても炭燒き、つい一里の山坂一つ越すの暇だに無き也。
 最後の炭燒小屋より上は、一寸、路なき山を上り、彼方へ下れば細徑あり。このあたり、木よく繁りて、滿目すべて紅葉也。これも他日薪炭に伐らるゝかと思へば、心細し。巨巖孤立して、紅葉を帶ぶ。『名あるか』と問へば、『蝋※(「虫+蜀」、第4水準2-87-92)岩』襲用せられて、今は古くさくなりたる名前也。再び鷹ノ巣の瀧を見て、以爲へらく、赤城に遊ぶもの、半日の閑あらば、來り觀るに足るだけの價値あるもの也。雜木が薪炭とならぬ限りは、この一溪、殊に蝋※(「虫+蜀」、第4水準2-87-92)岩のある支溪は、赤城山の紅葉の美觀を添ふるもの也。
 枯尾花の中に、ぼつ/″\切株あり。導者あちこち尋ねゆきて、片葉と稱する茸を採りしが、夜、羹となりて、膳に上る。ひとり酒をのみて、寢につきしに、母屋の方にて、がや/\と酒宴はじまれる樣也。硫黄採掘所この山にある由なるが、今酒宴をなせるは、その鑛夫どもとおぼし。陽氣な聲にて、歌ひあふほどはよかりしが、いつしか喧嘩をはじめて、大聲だして罵りあふ。怪我せぬ程に喧嘩もせよと、一種の音樂をきく氣になりて、とろ/\とまどろみぬ。
 赤城山を北に五輪峠を越えて、南郷さして下らむとす。湖畔の路はわづか十五六町なれど、宿の舟あれば、乘りて湖心に出でて、眺望を縱まゝにするも亦一興と、舟を頼みおきしに、朝起き出づれば、『老人は舟を漕ぐことを知らず』とて斷り來たる。さらば、仕方なし、舟の計畫はやめて徒歩せむとて、勘定もすまし、茶代とらせなどするほどに、また報じて曰く、『網打の男來りければ、頼みて舟を出すことにせり』と。一つ思ひがかなへば、また一つ慾が起る。舟をこぐは二人也。『酒のむか』と問へば、共に『大好きなり』といふ。さらばとて、酒と罐詰とを舟に入る。今一つ慾が起りて、『女中さんが來て酌してくれぬか』と云ふに、『いつても、いゝよ』と主婦は女中に向つて、口を足したるが、唯※(二の字点、1-2-22)默つて答へざりき。大沼の湖心、酒を舟夫と分ちて、四邊を顧望す。祠官の息子、同じく乘りたるが、文字あるだけに、問ふ所一々要領を得るは、うれし。地藏、黒檜の二山、相對して湖を壓し、鈴ヶ嶽は、やゝ離れて、尖頭をあらはす。赤城五山中、荒、鍋割の二山だけは、湖よりは見えず、言はば、帷幕の謀にはあづかるを得ずといふさま也。高さは黒檜が第一也。地藏之に次ぐ。大沼を主と云へば、黒檜が盟主也。されど、赤城山全體より云へば、少し低くとも中央にひろく磅※(「石+(くさかんむり/溥)」、第3水準1-89-18)せる地藏が、位置上おのづからこれ盟主也。もし人に譬へて、地藏を漢の高祖とすれば、黒檜は、蕭何、張良也。鈴は、韓信、陳平也。
(明治四十二年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※開き括弧の欠落は、底本通りです。
入力:H.YAM
校正:雪森
2018年2月25日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード