石田堤

大町桂月




『石田三成』一部、朝吹英二氏よりおくりこさる。名は知り居れど、面識は無き人也。氏の著書かと思ひしに、さにあらで、氏はいたく石田三成に同情を表し、其事跡を世に明かにせむとて、渡邊世祐氏にたのみてこの書をつくらしめ、非賣品として、梓に上したる也。渡邊氏も、まだ不完全なりとて、自から謙遜して、稿本と題したるが、ひろく材料を集め、一々出所をしるし、態度眞面目にして、言ふ所、穩健也。三上博士も力を添へしとの事にて、其序文も要を得たり。われ八九年前、一文をつくりて、三成の人物を偉とし、其の關ヶ原の擧を壯としたる事もありたるが、今この書に接して、大いにうれしく思はるゝ也。
 われ思ふに、好漢、好漢を知るといふ言あるが、秀吉と三成とは、その好漢と好漢也。所謂肝膽相照したるもの也。まして三成は所謂兒飼ひの身也。加藤清正も同じく兒飼ひの身なるが、これは武也、三成は文也。即ち清正は軍人にして、三成は政治家也。政治家は正直一方では通らず、非常に才智のいることにて、策略をも要することなれば、人に誤解せられ易し。清正の如き正直なる人には、猶更也。三成が奸智の方の人か、良智の方の人かは、當時にありても、必ずや一大疑問也。清正は、奸智の方に解せしなるべし。秀吉は肝膽相照して疑はざりし也。士は己れを知るものの爲に死すと云へり。如何なる奸智の人とても、兒飼ひの身の上に、肝膽相照されては、奸智も終に良智となるべし。清正は涙の人也。三成は理智の人也、殊に自信が強すぎければ、或一派の人には嫌はれしなるべけれど、それがまた一方には、奸智ならざる反證ともなる也。良智とまでは行かずとも、奸智の側の人にはあらずと信ずる也。
 さらば、關ヶ原の擧は如何にといふに、豐臣氏は、大阪に亡びたるにあらずして、關ヶ原に亡びたる也。されど、關ヶ原の戰なくとも、天下は家康に歸したりし也。三成の擧は、早ければ早き程、三成に利にして、おそければおそき程、家康に利也。何となれば、天下の諸將、日に益※(二の字点、1-2-22)多く家康の恩にひきつけらるれば也。殊に家康は、大老や奉行と約せしことを破りて、私恩を施すに急なれば、關ヶ原の戰は、其名なしとせず。三成が一か八かの擧に出でたるは、尤も千萬にして、大いに痛快也。家康あらば、天下は必ず家康に歸せむ。三成は唯※(二の字点、1-2-22)家康を除くに急也。もし自から家康に代りて天下を取らむと思ひしなるべしと疑ふ人あらば、そは、維新の際、薩長が取つて徳川に代らむと誤解せし佐幕の諸藩の人々の見と同じかるべき也。
 關ヶ原の戰やぶれしは、必ずしも三成の力の足らざるにあらず。その計畫通りに輝元が秀頼を擁して陣に臨まば、勝敗は知るべからず。その事なくとも、秀秋をはじめ裏切りする者が無かりしならば、勝敗は知るべからず。さは云へ、關ヶ原の戰に、西軍が勝ちたりとて、家康が亡ぶるものとも限らず。家康ある限りは、東軍やぶるゝも、天下或ひはまた四分五裂せしかもわからず。われ三成の爲に、西軍のやぶれしを悲しみ、天下の爲に、束軍のかちしを喜ぶ也。
 余は、少年の時より、近年までも、秀吉を好みて、家康を好まざりしが、この頃以爲へらく、秀吉は才智膽氣に於て不世出也。されど、人品の高き點に於て、雅量の大なる點に於て、徳ある點に於て、家康には比ぶべくもあらず。秀吉は、どうしても、成上り者的也。家康は飽く迄も大人的也。一寸一例をあげても、武田氏の亡びし時、家康は、馬場美濃守の女の美なるを聞き、鳥居元忠をして之を收め來らしむ。元忠自から取りて、家康に與へず。家康笑つて咎めず。秀吉にはとても、これだけの雅量はあらざるべし。秀吉の死後、諸將多く家康に歸したるは、必ずしも家康が私恩を賣りたるのみにあらず、實際、家康は、天下の人心を得るだけに、徳のすぐれたりし人也。
 秀吉が小田原陣の時、三成は命をうけて、武州忍の城におしよせ、堤をきづきて、水攻めにせしことあり。其堤の一部、今なほ存して、土人之を石田堤と稱す。『石田三成』には、精しくこの事を記し、石田堤の寫眞二枚と地圖とを添へたり。われ始めて石田堤の事を知りて遊意うごき、直ちにひとり往いて忍附近を逍遙しぬ。
 中山道の一驛たる吹上にて、汽車を下る。驛より忍まで一里餘、鐵道馬車之に通ずるを以て、路まがはず。運動をも兼ねたる旅なれば、歩してゆく。市街にとりつかむとする處、左に沼を見る。左折してゆく。小學校あり、門内に鐘樓ありて、鐘かゝる。寺は癈れしなるべし。行くこと二三町にして公園にいたる。小高き處に、四阿屋あり、櫻あり、梅あり。杉五六本、遠くよりも目につく。一隅に東照宮あり、大ならざれども、念の入りたる構造也。小學校よりこのあたりへかけての一面の地が、即ち忍城趾也。
 忍の城と云へば、關東有數の堅城なりき。四面に沼ある、一種特別の城也。八方に門を設けたり。即ち行田口が追手にて、東にあり。それより南にめぐれば、佐間口、下忍口、大宮口あり。持田口、西にあり。西北に皿尾口、北に谷口、東北に長野口あり。なほ精しく地勢を言へば、吹上は南に當る。熊ヶ谷は、西凡そ一里半。西南一里強にして荒川に達し、北二里弱にして利根川に達す。忍沼より流れ出づる水、可成りの川となりて東南に向ふ。三成が水攻めの計畫はさもあるべきこと也。
 三成は天正十八年六月四日、三萬餘騎を以て、押しよせたり。城主は成田氏長なるが、北條氏に屬して小田原の城中に在り。忍の城には、妻と娘とあり。その妻は、猛將太田三樂齊の女にて、美人也。娘も美なり。父の氣をうけて、女ながらも、部下をはげまし、死を決して、たてこもる。成田肥前守、城代たり。城下の婦女も、農商も僧侶も、みな城中に入りて、總勢二千六百餘人、四面大澤の要害ある上にも、糧食多く、士氣振へり。
 三成は、一寸攻めよせて見たるが、城南の丸墓山に上り、地勢を顧望して、水攻めを思ひたり。西南より東へかけて、長堤を築き、荒、利根二水を溢らしたる也。僅々數日にてきづきあげたるにて、工事をいそぐ爲に、賞を重くして多く土民を募る。城中の農商も夜ひそかに出でて之に應じ、多く金穀を得て城にもちゆく。奉行の人之を知り、訴へて曰く、これ敵に糧をもたらす也、詮索して首きらむと。三成曰く、いや/\、堤防が出來さへすれば、城兵はみな溺死せむ。金穀滿ちたりとて、何かせむ。城兵を斬らば、他の土民も恐れてにげ去るべしとて、知つて知らぬ風をしたりき。かくて、見る間に堤は出來ぬ。水は溢れぬ。されど、城中では、さほど困りもせず。十六日大雨俄に至りて、堤の一方切れて、三成の人馬が却つて溺死せりと、關八州古戰録に見えたり。三成のこの水攻めは、秀吉の高松城の故智にならひしものにて、地勢上、さもあるべき所なれども、實際、効果は奏せざりし也。小田原にある城主の氏長、秀吉に應じ、部下をさとして、城を致さしめしを以て、城はじめて三成の手に歸したる也。實に同月二十七日也。
 城址は見たり。これより石田堤に至らむとす、東にゆけば、可成りの市街あり。行田と稱す。忍の大字也、否、大部分也。その一端を過ぎ、忍川に沿うて、東南にゆけば、小丘の圓く高まるを見る。村童に問へば、丸墓山といふ。即ち、當年三成が上りて、地勢を願望したる處也。古墳にや。その上にのぼれば、成る程、忍の城址を見わたす距離は、半里ばかりもあるべし。忍川は近く東麓を流る。山一面に灌木生ひたるが、上の方には、まだ若き杉多くつらなる。僧の名を刻める墓石、二つならべり。晩に向ひて風つよく、草木みな叫ぶ。陰雲慘として、斜日力なし。寒さには閉口せしが、古を懷ふには、至極相應したる天氣也。
 丸墓山より西へかけて、堤あり。これも石田堤の一部分也。西をさしてゆくに、堤は絶えて、一簇の人家あり、埼玉村といふ。圓錐丘を中心にして、五百年外の老杉繁り、丘上に念の入りたる淺間祠を安んず。萬葉集の歌などに、埼玉の津とよめるは、このあたり也。もとは、荒川がこのあたりを流れしなるべし。隨つて堤防もありしなるべし。三成も一部は舊堤を利用したりとの事也。なほ西へゆくに、とぎれ/\に堤あり。堤根村にいたれば、路、堤上に通ず。これ中山道の三木村より忍へ通ふ路也。路傍に石田堤の碑あり。一枚の臺石の上に、長さ四五尺、ほゞ四角なる石立つ。慶應二年、堤根の庄屋、増田豐純のたてし所にして、寺門靜軒の文を刻す。堤裂けて、小川流る。橋をわたりて、また堤に上る。このあたり、四五町の間、完全に堤の形を存す。且つ大にして高し。丸墓山より、こゝまで凡そ二十四五町、石田堤、今は大半はなくなり、あるも、完全には續かざれども、城をめぐりて、半里もしくは一里以外に彎曲せし痕跡は見ゆる也。
 關八州古戰録には、三成の事をあしざまに書きたり。其要に曰く、水攻めの事、功を奏せず。淺野幸長、命をうけて來り助く。城中に内應する者ありて、其由を幸長に報じ來たる。幸長之を三成に報ず。三成曰く、他にも内應者あり、明日は惣がゝりにて攻めむと。幸長等の諸將まことと思ひて攻めたるが、利あらず。三成の部隊は、動かざりき。これ幸長の力にて城を拔きては我が恥辱なれば、わざと他に内應者ありとあざむきたるなりと。かくては、餘りに見えすきたる小丈夫也。斷じてこれ事實に非ず。
 忍の城には、之に先んじて、上杉謙信もおしよせしことあり。されど、一寸圍んで、直ちに去れり。一日、謙信、濠外を巡視す。城兵それと知りて頻りに鐵砲を放つ。謙信、平氣にて通り過ぐ。城兵、卑怯なりと罵る。謙信、馬の首をたてなほし、城に面して立つ。城兵頻りに狙撃す。みな中らず。大いに驚嘆す。一人曰く、かゝる猛將は、普通の丸にては中らずとて、金の丸を三發までもうちたれど、それも中らず。感嘆して曰く、神化の名將なり、天の照鑑もおそろし、早々御通りあれと。謙信、馬をすゝめてかへる。味方のもの、みな冷汗をにぎれり。宇佐美定行、輕々しき蠻勇として、之を諫む。謙信曰く、汝の言ふ所、理にあたれり。されど、われ聞く、活きむことを必とすれば死し、死なむことを必とすれば活く、苟くも信じて躊躇せずば、火に入りても燒けず、水に入りても死せずと。故にわれ三昧して、ふみこたへたるなりと。武士たる者は、一たびこの謙信の域を經て、然るのち生死の上に超脱すべき也。
 四五時間もぶらつきて、晩に吹上驛に戻る。發車迄には、三十分あり。輕裝の身に、風さむし。膓胃わるければ、何も飮食せじと思ひしが、こらへかねて、驛前の茶屋にとび込みて、微醉を買ふ。笑ふべし、我れ猶ほ未だ物質以上に超脱するを得ざる也。
(明治四十一年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:雪森
2019年10月28日作成
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