碓氷峠

大町桂月




一 碓氷の古道


碓氷峠へとて、臨時の汽車にて、上野驛を發したるは、午後の十一時、西村渚山、鷹野止水に、子の芳文を加へて、同行四人、腰かけたるまゝにて、眠るともなく、覺むるともなく、一夜をすごして、二十六の隧道も、闇にそれとは知らずに通りぬ。滿山の紅葉は、夜の錦とかこちけむ。午前五時、輕井澤驛に下れば、空は白みかけたり。淺間山堂々として人の眉目を壓するに、頓に目覺むる心地す。驛前に、一簇の人家あり、旅館もあり、こゝを新輕井澤と稱す。北行すること十餘町にして、舊輕井澤にいたる。われ十年ぶりにてこゝに來りて、驚きぬ。輕井澤は、十年の間に、倍以上の繁昌を得たる也。中山道の一名驛、新道出來て衰へ、汽車出來て更に衰へしも、一たび西洋人の避暑地となりてより、一旦すたれし輕井澤もやゝ生氣を帶びたり。年を追ふに從ひて、益※(二の字点、1-2-22)繁昌せるさま也。明治三十年に來り遊びし時には、旅館が唯※(二の字点、1-2-22)二軒なりしに、今は六七軒となりぬ。別莊も多くなりぬ。日本人の別莊さへ加はりぬ。されど、繁昌も夏の間のみ、紅葉の頃には、早や蕭條たり。さまでの眺望は無き高原より山の裾へかけて、赤塗の四角なる家の點綴せるは、西洋人の別莊にて、その趣味の低きことも、推して知らるゝ也。近年、日本の貴顯富豪の、別莊を構ふるものも少なからずと聞く。うるさくも、西洋人の後を追ふは、人か猿か。西洋人の中に神經質なるは、日本人の尾し來たるを厭ひて、尾し來りさうもなき富士山下、御殿場附近に、近年別に一部の避暑地をひらけりとかや。
 一溪、路を横斷するにあひて、下りて顏を洗ひ、口を漱ぐ。曉の冷氣、身に浸む。枯木を焚いて暖を取り、四人火を圍んで朝飯を食ふ。日光は、未だ及ばざれども、夜の色全く去りて、秋の曉澄みたり。上流に燃ゆるが如き楓葉あり。風なきにおのづから散りて、一溪、錦を流す。快きまゝに、休息すること、一時間に餘りぬ。
 坂にかゝりて、七八町上れば、茶店あり。輕井澤の赤別莊、すべて、脚底に在り。近く淺間の噴煙を仰ぎ、遠く立科の高嶺を望み、更に八ヶ嶽の白頭を望む。これ碓氷峠に於ける信州方面の眺望也。こゝにも二十分ばかり休息し、峠にいたりて、熊野祠を石段の下より見上げ、茶亭に就いて、眼を上州方面に放つ。關東平原は、半開の扇となりて開展す。妙義一群の山々、近く脚下にさま/″\の畸形を呈す。三つ目入道みたやうな山もあれば、一つ目小憎みたやうな山もあり、げに山嶽の百鬼夜行とも云ふべき、天下無類の奇觀也。碓氷峠の舊道は、上州方面には、この奇觀を有し、信州方面には、淺間、立科、八ヶ嶽の三高山を併せ見るの壯觀をも有す。關東に峠は多けれども、眺望のすぐれたること、この峠の如きは絶えて其類あらざるべしと思はる。信州方面の壯觀は、或ひは其類あるべし。されど、山嶽の百鬼夜行は、妙義の特有にして、その山嶽の百鬼夜行を殘らず見るの奇觀は、碓氷の特有也。古道敗殘の茅屋、さらでだに詩趣多きに、二千年の昔、前程に淺間、立科の高嶺を仰ぎ、後ろに關東の平原を顧みて、『吾妻はや』と歎かせ給ひし日本武尊の心や如何なりけむ。碓氷峠は、實に古意蒼涼たる歴史をも有する也。
 名物の力餅、他の處ならば、辨慶の名を負ふべけれど、こゝは碓氷貞光の名を負ひたり。頼光四天王の一なる貞光は、こゝに生ひたちたる也。朝飯なほ腹に充ちたれば、少年多食の芳文さへ欲しがりもせず、繪端書ばかりを買ひ、休息すること三十分にして去る。路傍に小祠あり。榜して、『大武士神社、日本武命』と二行にしるす。祠名は、ともかくも、日本武尊が、日本武命にてはと、傍痛く思はる。草の山也。右に紅葉の嶺々を見る。左にも、をり/\紅葉の山を仰ぐ。しば/″\空俵を負ひたる駄馬に行き逢ふ。その空俵には、炭が入れらるべし。古道方面に紅葉の少なきも、元來少なかりしに非ず、煙と消えたる也。一山の風致、箱根の大地獄より強羅かうらを經て木賀きがに下るあたりと、ほゞ相似たり。下るに隨ひて、眼界に廣さを減じたれども、前には低く峯巒重なりあひ、左右には谷もあれば、山もあり、濃く、うすく、秋の錦を展べて、眺望は晴れやか也。碓氷の流域見えそめて、奇巖路に峙ち、瀑布かゝり、清溪、脚底を流る。二三の隧道を見て、新道に合し、やがて坂本に來りて、山坂こゝに盡きぬ。汽車にも閑却せられたる碓氷東麓の古驛、秋殊に蕭條たるを見る。されど、長く連なれる兩側の人家、空家も見えざるは、養蠶にても、生計の道は立つべし。路傍、屋前を流るゝ小川に、女多く菜を洗ふは、冬籠りの用意に、心は同じきにや。進むに隨つて、山と山との間、少しづゝ開け、碓氷川も漸く大也。終に横川に着きて一旅館に午食し、午後一時六分の汽車に乘る。輕井澤驛に汽車を下りてより横川驛に至るまで、凡そ七時間かゝりぬ。一時間の焚火を始め、休息せしこと、前後二時間にあまる。且つ歩調も緩なりき。脚の健なるものが疾歩せば、四時間とはかゝらざるべし。舊道は、馬を通ずるほどにて、さまでは嶮ならず。されど、人力車は通ぜざる也。

二 三度目の妙義登山


松井田驛に下り、歩して妙義に着きしは、午後三時頃なりけむ。宿るには早けれど、石門を見にゆかむには、おそし。東雲館に投じて、妙義神社の附近をぶらつきぬ。
 妙義に遊ぶこと、これで三度目也。殊に去年の今頃、二度目に遊びて、人蹤の及ぶ處は、ほゞ探りつくしぬ。佛の顏も三度と云ひけるが、妙義の奇は、われ何度見ても、奇と感ずる也。
 朝、導者を雇ひて出づ。葡萄園に小憩して、梅酒を飮み、四つの石門を經て、天狗臺にいたり、更に下りて、西して、朝日岳に上り、下りて社務所に午食す。去年こゝにて、酒を得たりしこと、記憶に新た也。此日、午食するに先ちて、酒をと云へば、無しといふ。げにや、柳の下にいつも鰌は居らずと一笑す。これより引返さば、尋常一樣の遊蹤なり。さて、金洞を攀ぢむか、白雲を攀ぢむか、金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)を攀ぢむか。終に金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)をと思ひ定めて、金※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の東麓にいたれば、去年休息せし茶店、今はあとかたも無し。蟹の四つ這、親不知、馬の脊などの嶮も、兒は、たゞ面白し/\とて、恐るゝ樣なし。この樣ならば、長じて、冒險の旅行は出來るべけれど、元來、天才は臆病なりと聞く。學理や藝能の蘊奧は、臆病者の手に待つ。臆病なれば、臆病で心配し、蠻勇あれば、蠻勇で心配す。げにや、一得は、必ず一失を伴ふ。人生、中庸を得むは、さても難い哉。
 東雲館にもどり、歩して松井田驛にいたりて、汽車にのり、磯部に下りて一泊す。磯部は、凡そ二十年前にひらけたり。鑛泉の効能はあるやうなれど、惜しや冷泉也。汽車の便はよけれど、格別の風致も無き平地也。さるにても、碓氷川畔に逍遙し、佐々木盛綱の城趾、大野九郎兵衞の墓など見まはらば、一日を過ごすに足るべけれど、前途遠ければとて、朝一行にわかれて、ひとりは寂しき汽車の中、今ひと目と見かへれば、霽れも霽れたり、妙義の三山、朝日をうけていと鮮かに、いかめしき風骨、黄葉紅葉を帶びて、丈夫の愛嬌、破顏微笑して我を送る。
(明治四十二年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「嶽」と「岳」の混在は、底本の通りです。
入力:H.YAM
校正:雪森
2018年4月26日作成
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