金華山

大町桂月




上野公園の新緑に送られて、來て鹽釜神社に詣づれば、祠側の鹽釜櫻、笑つて我を迎ふ。一株の老櫻、倒れむとして、また起つ。八重の瓣内に葉を出すこと、他に比類なし。海内たゞ一本の珍木と、もてはやさるゝもの也。祠は鹽釜町外れの丘上にあり。古檜老杉欝として、百餘級の石磴を夾む。祠宇宏壯、おのづからこれ東北第一のやしろ也。安産の守札世に名高し。親戚の女に孕れるものあり。その母われに囑して、鹽釜に行かば安産の守札うけて來てくれよと云ひけるまゝに、五枚ばかり買ひぬ。一枚の紙片、よく幾千萬の産婦をして、安心せしめたりけむ。世に醫藥のみが病をなほすと思ふものあらば、とんでもなき間違ひ也。病を起すも氣也、病をなほすも亦氣也。加持祈祷、守札、百度參りなど、その効幾んど醫藥に下らず。かの迷信を排斥するだけの智識ありて、死生の間に超脱する丈の悟道なき一知半解の徒、一朝重き病に罹れば、みづからもだえて死するこそあはれなれ。
 鹽釜町のまんなかに、釜神社あり。鹽土老翁を祀る。祠側に四個の古釜を置く。圍ありて見るべからず。社務所に一錢投ずれば、扉ひらき、釜あらはる。傳ふらく、上古、鹽土老翁この浦に下りて、民に鹽を燒くことを教へし時、用ゐしもの即ち是れなりと。
 釜神社と一町ばかり隔たれる處、民家の裏に牛神社といふ小祠あり。祠前の小池の中に牛石ありて、牛の形をなすと云へど、水多くして石見えず。傳ふらく、鹽土老翁が鹽を燒きし時、つかひし牛なりと。釜もなほあやしきに、牛石に至つては、滑稽の極也。
 請ふ、余をして、暫らく鹽釜の過去を回顧せしめよ。むかし千賀の浦と云へば、陸奧の歌枕の一つなりき。鹽釜の浦一に千賀の浦とも云ふ也。曲浦深く陸地に入ること數十町、鹽釜祠下、漁戸數十、浮世を山と海とに遮りて、魚網夕陽に晒し、扁舟蘆荻の間に浮び、八十島かけて澄む月影と共に、漁人の心もいかばかり澄みたりけむ。かゝる塵外の仙境も、伊達政宗仙臺を鎭するに及びて、頓に其の面目を革めぬ。嗚呼この河東の獨眼龍、啻に軍備の雄なるのみならず、また心を殖産工業にもそゝげり。政宗は漁村の鹽釜を變じて、一の港となしぬ。植民に先つて必要なるは女なることも悟りけむ。こゝに妓館を設くることを許しぬ。こゝに至りて、商家蜒居と接し、商船漁舟と竝び、絃歌欸乃に交れり。浪の浮寢の寂寞に堪えへざりし舟人、こゝに上り來りて、さんざしぐれを誦して、粹な殿樣と謳歌したりけむ。政宗は更に、鹽釜より南へかけて運河を開きぬ。深さ丈餘、幅七八間、陸前海岸の平野に延びて、名取川を貫き、阿武隈川の川口に至りて止む。その長さ十數里に及べり。此の運河を貞山堀と稱するは、政宗の謚號に取れる也。この貞山堀今もなほ存す。明治十四年修鑿して、舟楫の便少なからず。斯ばかり伊達氏の保護をうけて、榮えしが、明治の世に至りて、その保護なくなり、港内淺くなりて、大船入らず。鹽釜の命脈絶えて、また元の漁村に立歸らむとす。時の戸長菊地氏之を慨き、縣廳に上申して、こゝに鹽釜港の修築起れり。この工事、明治十五年二月にはじまりて、十八年五月に終れり。港底を渫へて、其の土を盛り上げて、鹽釜の市街爲に延長せり。こゝに於て、鹽釜は蘇生の思ひなしたるが、一二年たちて、鐵道仙臺より通ずることとなり、益※(二の字点、1-2-22)繁盛をいたせり。停車場は海に接し、鐵道は停車場を過ぎて海上にゆき、直ちに舟筏に接す。水陸の便、きわめて自在也。石ノ卷の繁華、今や鹽釜にうつらむとす。
 鹽釜の繁昌するは、一半は松島と金華山とある故也。松島と金華山ありて、東北の天地爲に寂寞ならざるを覺ゆ。余は松島に遊びしこと二度、金華山に遊びしこと一度、暫らく未遊者の爲に東道の主人たらざるべからず。
 松島に遊ばむには、鹽釜にて汽車を下り、停車場前にて、舟をやとひてゆくを便とす。海上わづかに二里、幾十の島嶼、舟を送り、舟を迎ふ。松島には、立派なる旅館あり。瑞巖の古刹を訪ふべし。五大堂、雄島の間に逍遙すべし。されど、これ未だ松島を見たるものと云ふべからず。眞に松島を見むとせば、舟をやとひて四大觀めぐりをなさざるべからず。四大觀とは、大高森、富山、扇谷、多聞山、これ也。大高森とは、宮戸島中の最高峯にして、四方の眺望極めて佳也。富山の眺望之に次ぎ、扇谷之に次ぐ。多聞山最も劣れり。多聞は灣の東南隅、扇谷は西南隅、大高森は東北隅に峙てり。かく四觀、四隅にあれば、殘る隈なく灣内を眺望するを得べし。而してこの四山に舟を寄するうちには、灣内の島嶼も、幾んど殘らず見るを得べし。
 されど、四大觀めぐりのみにてもなほ足らず。島の奇なるものは、松島灣内よりも、灣外にあり。こはまた別に舟を※(「にんべん+就」、第3水準1-14-40)はざるべからず。
 されど、これのみにてもなほ十分なりとせず。松島に遊ばむものは、必ず金華山に遊ばざるべからず。大小數十の島、島として松を戴かざるはなく、松島の景、奇にして穩也。金華の一島、周圍數里、六十八峰天を刺し、四十八溪金砂を流す。山中、猿鹿多し。夜、祠家に宿すれば、一山森として、遙に妻呼ぶ鹿の聲を聞く。金華の觀、幽にして壯也。余は、盆池の趣ある松島に甘心するあたはず。塵外の別天地、東海の最大壯觀として、金華山を取らむとする也。
 金華山に赴くには、鹽釜より氣仙沼行きの汽船に乘り [#「乘り 」はママ]鮎川に下り、山一つ越えて、牡鹿半島の最端に出で、二十四町の山雉の渡を渡舟にて渡るなり。鹽釜氣仙沼間を往復する汽船は、鮎川の外、石ノ卷にも寄港すれば、石ノ卷よりも之に乘るを得べし。この汽船、荷物を主とせずして、乘客を主とす。その乘客も金華山參詣者多し。成田鐵道、成田の不動にて成立ち、琴平鐵道、琴平祠にて成立ち、氣仙沼通ひの汽船は、金華山にて維持す。迷信の交通を助くること亦大なる哉。
 黎明、客を呼ぶ汽笛の聲に、夢は孤衾鐵の如き鹽釜の客舍に破れぬ。蓐食して船に上る。日は早や松島群島の上にあらはれ、大さ晝間見る所に幾倍して、未だまばゆき光を放たず。天光水色上下相映じて、曉氣いと清爽也。出帆の時刻は既にすぎたれども、今朝船にのるべき筈の豪客、昨夜船員を拉して、紅樓に醉倒して、未だ船に來らず。いらちて鳴らす汽笛も、曉の香夢には徹せざらむ。終に船より迎へにゆきて、漸く來たる。船は烟を殘して出づ。鹽釜祠の林丘、曉靄の外に依稀として、我を送れり。
 代ヶ崎を右に見、馬放島を左に見て、外洋に出づれば、船頭遙に金華山の峰尖を認む。松島灣口をふさげる、桂、野々、宮戸、寒風澤の四大島は、早やあとになりつ。左舷に石ノ卷の日和山を望み、船首に荻ノ濱を望む。石ノ卷をさること五六里の沖合なれども、海水の黄濁せるは、北上川の流し來れるなり。船首東南を指して、牡鹿半島を左にし、田代、網地の二大島を右にす。二島の中間に、龜の如く浮べるは、砥面島とかや。鮎川灣を過ぎて、波あらき牡鹿半島の一角をめぐれば、金華山、面に當る。船は朱華表の下に到りてとまる。船のこゝにとまることは稀なれども、この日黄金山神社の祭日に當り、參詣者多きを以て、わざ/″\寄港せる也。われも參詣者と共に船を下れり。
 上陸すれば、山鹿角をふりたてて、人を迎ふ。瓜先上りに七八町ゆきたる處に、黄金山神社あり。先年火災にかゝり、社務所は新築せられたれど、祠殿は未だ出來ず、假堂を設けたり。祭日なれば賽者は常よりも多けれど、人家なき孤島の中、さまでの賑ひもなし。賽路の兩側に地口行燈のならべるはよけれど、ぶざまなる緑門のたてるは、人を俗了する心地す。ひろき客殿に賽者の充滿せること、寄席の如し。肌ぬぎて滴る汗をぬぐふは、いましがた山廻してかへれる也。尻端折つてたゝずむは、これより山廻りせむとする也。やがて板鳴りて、山に登ることを報ず。知るも知らぬも三十人ばかり玄關の前に立ちそろへば、祠官呼びとめて、一々握飯を與ふ。われは午食せざるを例とすれば、受けず。白衣をつけたる導者一人、先きに立ちて導く。
 路は祠の右の清溪流るゝ處より上る。極めてのぼりやすき山坂なれど、一行の中、足弱きもの少なからず。導者爲に歩をとゞめて、待ち合せて上るを以て、路、はかどらず。凡そ一時間許りにして、頂上に達しぬ。われ一人ならば、三十分ばかりにて上り得べき路程也。
 頂上の尖りたる處に、小祠あり。龍藏權現といふ。東は太平洋茫々として際なく、一點の帆影をも見ず。西は近く牡鹿半島を望み、遠く松島の群島を望む。北は重なれる峯にかくれて見えず。南は遙に下總の犬吠崎と[#「犬吠崎と」はママ]相對す。脚下山雉の渡を帆かけて行く渡舟、さながら白鴎の如く、矚目爽快を極む。一行、拜し終つて、茫然佇立するものあり、草の上に横はるもあり、石に踞するもあり。十二時には猶ほ一時間もあませど、腹へりたればとて、一人俑を作りて握飯を食ひはじむれば、衆みな之にならふ。その飯の香をかぎつけたりけむ。鴉幾羽となく集まり來り、近きあたりの木にとまりて、唖々として啼きて、求むる所あるに似たり。その、人に馴れて、恐れざること、淺草觀世音の鳩も啻ならず。こゝにまた一人俑を作りて、食ひあましたる飯を紙につゝみて空になぐれば、その未だ地に落ちざる前に枝上の鴉飛び來りて、ついばんで去る。衆之にならひて、紙包空に亂飛するに、鴉一々之を受く。恰も洋犬の菓子を受けるが如し。かくて擲ぐるべき握飯つきぬ。なほ口にうけざる鴉多けれども、もはやねだるべきものなしと見てとりけむ、一羽去り、二羽去り、終に隻影をもとゞめず。かしこき鳥かな。無邪氣なる善男の徒、しばしは鴉になぐさみしが、裏山の路なほ遠ければとて起つ。導者曰く、神輿の下るを拜せむと思ふ方は、これよりもと來し路を下られよ。裏山廻りせば、間にあはざらむと。されど、一人も之に應ずるものなかりき。それもその筈なり。金華山の奇は、裏山にあり。裏山を廻らざるものは、金華山に遊びたりとは云ふべからず。路は東に下る。斧斤入らざること幾百千年、老樹しげりて天を刺す。蘚苔につゝまれたる怪岩の下より清水流れ出でて溪を爲し、白雲洞穴にわきて、人と路を爭ふ。巨石處々に横はりて、一々其名あれども、さまで奇なるものありとも覺えず。衆始めは魚貫して下りしが、いつしか脚の健なるものは先んじ、弱きものはおくる。おくるゝこと一町となり、二町となり、四五町となり、終に白雲の中に入つて見えず。下りて海岸に出づれば、廣大なる岸層斜下して海に入る。之を千疊敷と稱するは、その廣きに取れるなり。千疊敷の土を戴く處、二株の老松清蔭を横へ、萬里の天風に微嘯す。こゝに憩ひて、汗をぬぐひ、煙草をふかし、且つ好風景を賞し、且つ後者を待ちしが、最もおくれたるもの來りし時は、われらは既に休みあきる頃なれば、幾んど入れちがひになりて發足す。斷岩さけて深く山に入る處、千人澤と稱す、また大浪越とも稱す。兩崖の間、わづかに數尺、深さ數十尺、長さ二三百尺に及ぶ。天呉戯れに靈鋸を以て切り去りけむ。怒濤雪を崩し、萬雷をとゞろかして、進入するさまは、たゞ是れ白龍の狂ひ亂るゝもかくや。幾たびか清溪をわたり、危巖をつたひ、終に急坂を上りはつれば、山上に通ずる路あり、海岸に下る路もあり。はたと惑ひて導者の來たるを待つ。導者はさまで遲れ居らざれば、七八分にして來たる。曰く、下られよ。最も奇峭雄偉を極むる大箱崎に出づるなり。
 大箱と名づけたるも宜べや。げに横の一片と蓋とを除き去りたる一大巨函、天呉之に珍寶を藏せむとするも、怒濤ねたんで奪ひ去らんとす。俯して之に臨めば、心慄き、目眩す。奇極まつて怪に、雄壯極まつて悽愴也。こゝより數町にして小箱崎あり。大箱よりは、稍※(二の字点、1-2-22)小なれども、溪流落ちて巖角に碎けて霧となり、日光に映じて虹を現はす。壯觀、大箱崎に讓らず。凡そ此の間巉巖長く連亙し、高く峭立し、北に向つて、大濤の突撃に當り、濤怒り、巖叫ぶ。前面には江ノ島の列島波間に浮沈し、手をのばさば、之を捫すべし。金華山の奇觀こゝに至りて極まれり。
 路は海を離れて峯に上る。もはや見るべき物なければ、足を早めて急行するに、いつしか獨往の客となりぬ。脚つかれ、渇を催したる時、天狗の力水とて、巖隙より出づる清水を得たるこそ、いとうれしかりけれ。峯又峯を上下するに、一鳥鳴かずして、山更に幽なるを覺ゆ。巖石の俄に動くかと見れば、臥したりし鹿の、わが跫音を聞きて逃げゆくなり。鹿より小なるもの、驚いて走る。幾たびとなく振返りて我を見るは、人が恐ろしきにや。其の前方の顏赤く、後方の尻も亦同じく赤きは猿なり。はじめの程は、これ顏、これ尻、見わくることを得しが、終には見わけつかず。而して猿のふりかへること、なほ止まず。一赤々々相轉回して、遠く白雲深き谷底に落ち行きぬ。愛宕祠に來れば、本社近く脚下にあり。路、本社の左に出でて、山廻りはこゝに終れり。
 秀靈なる哉、金華の一島。牡鹿半島と二十四町の海峽を隔てて、東海の外に孤立す。さらでだに潮流急なる山雉の渡、山靈一たび怒れば、風浪險惡、往々行舟を覆す。一島これ山、一山これ島、島中絶えて平地を餘さず、燈臺と黄金祠との外には、農家もなく、住む人よりも猿多く、鹿多し。峰脈六十八、中央に最も高き主峰を起し、深谷四十八、處々白珠を飛ばす。洵に塵外に別天地、東海の最大壯觀といふべき哉。
 祠家に一宿して、夜、猿鹿の和鳴するを聞くも興あらむと思ひしかど、宿らんとする賽者多く、雜沓甚しきに辟易して、せめて鮎川の漁家なりともと思ひしが、幸なる哉、石ノ卷鹽釜行きの汽船、午前四時にこゝを發すと聞き、之にのることにさだめぬ。海濱に下れば、汽船は早や煙を吐きつ、汽笛を鳴らしつ。三四町の間、艀舟によらざるべからず。而して乘客多くして、艀舟四五艘にても積みきれぬ程なるに、別に山雉の渡をわたらむとする者も多し。汽船の方が急なりとて、舟の大なる渡舟を艀舟にせしむといふに、乘り込むもの多かりしかど、舟夫不平を起して舟を出さざれば、また乘りかへ、漸くにして一の艀舟出でむとすれば、衆先を爭うて乘る。乘りおくれたるものは、浪にうたれて、衣袂悉く沾ふ。罵る聲、浪の音に和して、混雜一方ならざるさまは、舟中の指、數ふべしと言ひけむ昔も思ひやらるゝばかり也。この乘りうつる混雜に、船の出發は、豫期の時刻より三十分許りおくれたりき。
 乘客を主とする船とて、客室あり。殊に上等室もあり、下等室の混みあへるに反して、乘客わづかに六七人にすぎず。いづこの豪客にや、とんび着て、金時計ぶらさげたるは、道者の中に目立ちて見ゆ。酒を取り出して、杯を仲間のものに廻して、よく飮み、よくしやべり、座を一人にて持ち切る。その杯終に我に廻り來たる。一河の水を掬すも他生の縁、板一枚の下は奈落なる船の中、死ぬるも活くるも、運命を共にせざるを得ざるべき身の、一見直ちになれて、話しあうて見れば、人に鬼はなし。われも金華山を下りたる時、一杯をと思ひたれど、祠官にねだることも出來ず。山中に酒賣る家はなし、船中はなほ更なり。喜んでその好意を謝して、數杯をかたむくる程に、微醺を催し來りぬ。船、鮎川にとまりたるに、下る客なくして、乘る客あり。赤毛布來りて上等室の扉を開かむとすれば、こゝは上等なりと、どなりつけたる舌いまだ乾かざるに、一婦人、老媼をつれて來たる。上等の客種ならぬことは、一見たゞちにわかれど、いざはいり給へと、にはかに猫撫聲出すもをかしや。今少し火鉢の方へ寄り給へ、布團敷き給へ、茶を、菓子をともてなせば、女はよろこべるさまなり。豪客終に杯をまはす。杯のみを受けて、酒は一滴だにうけざるもしほらし。返杯をと、酒瓶とりたるをしほに、御迷惑ながら、今少し酌して下されずやといふに、女も惡い顏はせず。珍客として迎へ置きて、いつしか酌婦に代用しける也。女、しばしが程は、危座して酌せしが、浪次第にあらくなるまゝに、堪へ兼ねて横臥しぬ。終には船暈を催して吐きぬ。臭氣一室に滿ちて堪ふべからず。さきには、美人の酌に酒一層うましなど云ひてにこ/\せし道者ども、今は鼻つまむもあり、こゝが男の胸の見せ處と、わざ/″\近よりて背中さすりてやるもあり。思ひかけきや、ほゝゑみて嬌語を發せし口より、臭物を吐き出さむとは。あはれむべし。娑婆の衆生、臭骸相抱いて樂しむも、竟にこれ造化が人をして子孫をつくらしむるの惡戯なるを知らず。色即是空、南無阿彌陀/\。
(明治四十二年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:雪森
2018年4月26日作成
青空文庫作成ファイル:
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