近藤重藏の富士山

大町桂月




這へば立て、立てば歩めと育つる子の、歩きても、『おんぶ』せざるやうになるまでの年月は、短しとせず。四郎もこの頃は漸く『おんぶ』を口にせざるやうになりぬ。さあ來い、運動につれていつてやらうと云へば、『飛び/\』をして喜ぶ。桃葉も倶にす。途に東行を誘へり。
 大※[#「土へん+(蒙−くさかんむり)」、U+585C、126-8]驛さして行く。市區改正は郡部にも及びて、路幅は倍以上にならむとし、兩側の家みな新たにならむとす。肴屋には秋刀魚重なり合ひ、八百屋には、唐菜、三河島、大根、葱などの山積する時節也。開業の飾花々しき賣藥の店頭、蓄音機空しく客を呼ぶ。老婆二人ちよこ/\と後より過ぎ越しがてら、振りかへりて、乞食橋は何處にかと問ふ。乞食橋と云ふかは知らねど、四五町も行けば小さな橋ありと答ふれば、淺草はどの方角にあたるかと問ふ。こちらなりと指さしたれど、顧みだにせずして急ぎゆく。
 電車々々と四郎が珍しがる上野行の電車を、頭上の高架に顧みて、飛鳥山行の電車に乘る。板橋街道を過ぐれば、牧牛場二つあり。ベンチに立てる四郎、ガラス越しに見て、牛が居ると喜ぶ。『もう』にて通じたりしものが、いつしか牛にて通ずるやうになりぬ。『おんぶ』の時代は馬を見て喜びしが、今は牛を見て喜ぶ。關東に馬は多し。牛は牧牛場の外には、幾んど見るべからざる也。瀧野川に下りて徒歩す。東京市は日に/\膨脹して、もと畑の中に人家を見し處、今は人家の中に畑を見る。路の左手に土手長く續きて、中に避雷針多きは、火藥庫とおぼし。手標に導かれて紅葉寺に入る。石の仁王、先づ目につく。田端や雜司ヶ谷にあるものの如く赤紙の貼りつけられざるは、こゝには御利益なきにや。崖上の掛茶屋に休息して酒を呼び、四郎には、柿、衣かつぎ、うで卵子などをあてがふ。さなきだに霜に萎みし紅葉の、枝に殘れるは少なきに、風強くして散ること頻り也。同じく散るにしても、櫻の散るは、優美也。紅葉の散るは、悲凉也。平氏の亡びしは櫻の散る也。源氏の亡びしは紅葉の散る也。濁れる崖下の瀧野川に浮びても、錦とは見えざるが、掛茶屋一面に敷きつめたる赤手布の上に散亂しては、さすがに野趣なしとせず。酒力は少しばかり顏を温めたれど、風威に妨げられて、手足までには及ばず。四郎は食に飽きて、新しき活動を思ふ。さらばとて立ち去る。
 茶屋がくれたる『木兎』、四郎の手にあり。尾花にて木兎の形をつくりたるものを小竹の先にぶらさげたる也。路、ゆきつまる。引きかへさむとすれば、四郎咄嗟につぶやいて曰く、『馬鹿な路を歩いたなア』と。一同覺えず失笑す。思ひかへせば、明治以來の教育も、四郎の所謂馬鹿な路を歩きしことが多かりしやう也。鐘樓と山門とを兼ねたる一種異樣の門を入りて、不動寺に至る。左手の垣根により添ひて、小さき石像あり。甲冑をつけたる一種異樣のもの也。子供二三人、我等と同じく見物しながら、其中の年最も長ぜるもの、子供みたやうな顏なりといふ。これ近藤重藏が生前自から造りたるもの也。赤堀又次郎先生曾て云へる事あり。徳川時代の著述家中、推獎するに足るべきは、新井白石と近藤重藏との二人のみと。この二人、世を隔てて、其型を同じうす。いづれも頭腦明敏、博覽強記にして、獨創力をも備へたり。而も單純なる學者に非ずして、覇氣横逸、才氣煥發せる活動家也。『生きて封侯とならずんば、死して閻羅王とならむ』と壯語せし白石は、筑後守となりたり。六代將軍に用ゐられて、其抱負を政治上に實行したり。然るに、重藏は北邊に破天荒の飛躍を試みたるだけにて、意を當時に得ざりき。年下澁谷の所有地に富士山を造る。參詣者多し。鄰地の農夫、重藏の所有地に蕎麥店を開く。地代を催促すれど、應ぜず。蕎麥店を打毀して矢來を設けたるに、矢來を破壞して又蕎麥店を開く。重藏の子怒りて農夫を殺す。その殺すことには重藏もあづかれり。その咎によりて、子は流され、重藏は分部左京亮に預けらる。一農夫との爭ひの爲に、身を誤り家を亡ぼせるは、かへす/″\も惜むべきこと也。而もこれ重藏が先天的運命也。重藏や、學あり、才あり。されど、桀※[#「敖/馬」、U+9A41、129-4]譎詐、自から用ゐるといふ風の人にて、才高くして行ひ薄かりき。世にこの型の小なるもの少なからず。若し知己を得れば、其才伸ぶべきも、知己を得ずんば、末路慘憺たらざるを得ず。重藏を預かりたる左京亮は、重藏の知己也。重藏の才學に敬服し、幕府に乞ひて重藏を其藩に伴ひ、政事を諮問し、子をして就いて學ばしめたり。かくて重藏の才少しく伸ぶるを得たり。われ重藏の心中を推しはかるに、左京亮に預けられたる時は、失意の極なりしなるべし。左京亮に知られては、失意中の大得意なりしなるべし。白石は將軍に知られて、天下の白石たりき。重藏は藩主に知られて、一藩の重藏にて終りたり。二人とも經學の士にはあらず。されど、いづれかと云へば、白石の方が少し厚く、重藏の方が大いに薄し。遇不遇は別問題としても、人物事業の大小はこゝに基するかと思はるゝ也。重藏の著書の價値あることは、赤堀先生を初め知己多かるべし。石像は見るに足らず。下澁谷の富士山は今なほ存す。志あるの士、請ふ、一たび登りて千里の眼を放て。
 余は單に富士山と云ひたるが、世には富士山の何物たるかを知らざるもの多かるべし。富士山は富士山也、日本一の名山也、否、世界一の名山也。『田子の浦ゆ打出でて見れば眞白にぞ富士の高根に雪は降りける』。古來富士山を咏じたる詩歌多けれども、これより以上の名吟あるべしとも思はれず。日本人が富士山を崇拜するは、高潔壯大なる日本人の精神の對象なれば也。關東には富士講の連中多し。而も富士山は東京より近しとせず。日々參詣する譯には行かず。是に於て、東京には諸處に、富士山の小模型あり。品川神社、深川八幡、高田八幡、護國寺など一々數ふるに遑あらず。重藏の富士山もその一也。才に於て、學に於て、重藏は富士山的なりき。されど、人物に於ては、富士山的ならざりき。よしや富士山的なりしとするも、そはたゞ尖りたる絶頂のみにて、數十里四方の地盤を有する富士山にてはあらざりし也。
(大正二年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:雪森
2018年5月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

「土へん+(蒙−くさかんむり)」、U+585C    126-8
「敖/馬」、U+9A41    129-4


●図書カード