白河の關

大町桂月




思へば夢に似たる哉。われ十九歳の時、仙臺なる叔父を訪はむとて、東京より徒歩したることありき。音に聞きつる白河の關の跡は白河にあるものと思ひしに、白河に至りて、始めて南方三里の外にあることを知りぬ。さらばとて南湖を經て訪ねゆく。岐路あれども、問ふに家なく、人なし。時は午を過ぎて、空腹に堪へず。漸くにして一壯漢の來たるに逢ふ。髯鬚長く垂れて、眼光人を射る。やれ嬉しやと路を問へば、『棚倉街道なり、古關の蹟へは、後戻りせざるべからず』といふ。里程を問へば、『三里もあらむ』といふ。『その途中に飮食店ありや』と問へば、『無し』と云ひつゝ、『一體君は何の目的にて旅するぞ』と問ふ。『仙臺まで行く身なるが、一寸立寄りて、白河の關の跡を訪はむとするなり』と答ふれば、『この文明の世の中、而も君の如き青年の士が、古跡めぐりでもあるまじ。活きたる豪傑を訪へ』とて、その人の名を教へ、その居る處をも教へ呉れたり。さらばとて、引返したるは、世にも意氣地なかりし哉。
 三十年後の今日、來りて南湖に滯留するほどに、圖らずも、白河の川崎旭溪、其の子と共に、自から進んで東道の主人となりて、余を導く。藤田生も共にす。旭溪二瓢を携へ來り、一瓢を余の手にわたす。をり/\休みて、少年同士は菓子、老人同士は酒を口にす。三十年を隔てて、前後の苦樂、餘りに遠く懸隔せる哉。
 前に見し關山、いつしか後になりて、その形、蝙蝠の翼を張るが如し。路傍に靈櫻と稱する櫻あり。今は何代目かの若木なるが、むかし佐藤繼信忠信の兄弟、源義經に從ひて出征するに方り、その父こゝまで送り來り、『我子にして忠勤を勵むならば、必ず生長せむ。然らずんば生育せず』とて、杖にせる櫻の枝を植ゑ立てしに、盛んに生育したりとの事也。數十の茅屋、路を夾む。旗宿と稱す。蕭散なる古驛、馬小屋多し。物賣る家二三軒あり。路傍に共同飮水の水槽ありて、清泉あふれ出づ。『公徳箱』と記せる箱を見受く。曾て上州を旅せし時、『危險物入箱』と記せる箱を見て、蓋を開きしに、中には陶器、硝子、鐵葉などの破片が入りたりき。これもそれと同じものなるべしとて、中を檢せしに、果して然りき。名は何にても好しと云はば、それまでなるが、『危險物入箱』といふよりも、『公徳箱』と云ふ方が、氣が利きて、雅味あり、教訓の意もこもれり。三森長七郎氏に就いて、繪葉書を買ふ。普通の、物賣る人かと思ひの外、巍然たる老先生也。長く小學校長となり居りしが、今は中風に罹りて、起居自由ならず。家に書物堆し。机に依り、歌書を讀み居りしが、旭溪と舊知あり。相見て大いに喜び、快辯滔々として、白河の關の昔を語る。余はこの老先生に對して、『公徳箱』の雅名を聯想せざるを得ざりき。
 家は水車小屋に盡きて、一條の小川流る。白河と稱す。左折して叢林に入る。石段の上に、白河神社あり。下の右方に、石碑あり。『古關蹟』と記す。これ白河樂翁公の建つる所にして、裏面には、公の作れる文を刻せり。その文に據れば、白河の關の蹟堙沒して、何處をそれと判じ兼ねたりしが、公は歴史、繪圖、詠歌に考へ、地形、老農の言に徴して、此處を關蹟と決定したる也。
 左手の唯※(二の字点、1-2-22)一軒の家は禰宜の居也。旭溪之を訪へば、老いたる禰宜來りて、導を爲す。凡そ二町四方の地、こんもりと隆起して、老木滿つ。祠は住吉、玉津島の兩女神を祀る。祠前には歌碑二つあり。一は後鳥羽院の御製を刻し、他は平兼盛、能因法師、梶原景季の歌を刻す。關吏の邸蹟はほゞ四方に空濠を控へたり。弘安の年號の文字纔に見ゆる古き墓碑もあり。家隆卿の植ゑたりと稱する老杉最も偉大也。測りて見しに、四抱へありき。義家の母衣を掛けたりと稱する母衣楓、義經の旗を立てたりと稱する旗立櫻など、いづれも見事なる老木也。兩山相迫つて、南北少し開く。見渡す限り古意鬱勃として、一條の白川の水、ひとり活きて流る。樹根に踞し、瓢酒を分ちて、禰宜の老人と別れぬ。
 旅宿の中程より東に折れて、山腰に『一町佛』を見る。高さ二三尺、幅はその四分の三ぐらゐにて、上部は笠形を成し、表面に一梵字あり。むかし藤原清衡、白河の關より外ヶ濱に至るまで、一町毎に建てたるが、今は唯※(二の字点、1-2-22)この一基のみ殘れり。側に樂翁の儒臣廣瀬蒙齋翁の文を刻める石碑あり。其の文の中に、こゝに一町佛あるを見ても、古關蹟の謬らざるを知るべしとあるは、げにもと頷かる。兩碑とも堙沒しかゝりたればとて、三森翁發起して、石柵を設けたりと聞く。その由來を記るせる石碑もあり。古蹟の存滅も、一に識者の有無に由るかと、うたゝ感慨に堪へざりき。
 常陸の勿來の關(一名菊名の關)、越後界の念珠ヶ關(鼠ヶ關)、及びこの下野界の白河の關は、古來奧羽方面の三關として有名也。勿來の關にては、義家の詠歌最も人口に膾炙す。白河の關を詠める歌多きが中に、最も有名なるは、能因法師の、
都をば霞と共にたちしかど
  秋風ぞ吹く白河の關
也。さるに能因法師は都に居りながら、顏だけ日に曝し、白河の關にて詠めるなりとてこの歌を作りたりと記せる書物もあり。こは事實に非ず。能因法師は旅行を好みて天下を跋渉せり。奧州へも二度旅行したりき。後拾遺集にも、
みちの國に再び下りて、後のたび、武隈の松も侍らざりければ、よみ侍りける。
との詞書ありて、
武隈の松はこのたび跡もなし
  千歳をへてや我は來つらむ
と詠める能因法師の歌もあり。能因は實際に白河の關を通りたるに相違なし。所謂『居ながらにして名所を知れる』歌人の比に非ず。その白河の關の歌、世に有名なると共に、その室内旅行の謬傳も世に知られ居るを以て、茲に聊か能因の爲に、其の妄を辯ずる也。
(大正七年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:H.YAM
校正:雪森
2018年5月27日作成
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