白河の七日

大町桂月




一 南湖公園


甲子かし温泉に滯在する中、一日白河へとて、田中桃葉と共に山を下りけるに、白河の青年藤田虎太、長谷部英一、同英吉の三氏後より追付き來りて、共にす。芝原を經て奧州街道に出でし頃、日暮れたり。雨大いに至り、電閃き、雷鳴る。白河の市街に入り、右折して南湖に向ふ。咫尺を辨ぜざる闇の夜にて、雷雨益※(二の字点、1-2-22)盛ん也。
いかづちの鳴る度ごとに路見えて
  我を導く闇の稻妻
 湖畔の偕樂園に籠居して筆を執るほどに、二日目の朝、川崎旭溪二瓢を手にして來り、『共樂亭に至りたるか』と問ふ、『未だし』と云へば、『さらば案内せむ』とて、共に行く。老松路に横はり、幽趣人に逼る。幾艘の小端艇岸邊に横はり、鳰點々蕁菜の間に浮沈す。二三の物賣る家盡きて、右に廣き空地を見る。旭溪曰く、『運動場なり』。北方の山腰を指して曰く、『樂翁公の祠の豫定地なり』。余はこゝに始めて、白河人士が發起して、南湖に樂翁公の祠を建つるの擧あるを知りぬ。義公、烈公が水戸にて通ずる如く、樂翁公は白河にて通ず。樂翁公は江戸時代の賢相なるが、一方には能く白河を治めたり。南湖の如きも、もとは沮洳の地にて、何の役にも立たず。何等の風致も無かりしが、樂翁公之を修理して、一方に五十町歩の南湖を得、一方に百町歩の田を得たり。更に龍田の紅葉、嵐山の櫻を移植し、松を植ゑ、共樂亭を築きて、其の名の如く、士民と共に樂めり。大名專有の園地は、古來到る處にあり。大名の公園を設くることは、實に樂翁公に創まれる也。
君民同樂共融々。水理修來奪化工。遺澤千秋流不盡。萬人齊仰樂翁公。
 湖を左にし、喬松に蔽はれたる山を右にし、やがて湖を後ろにし、松山をめぐりて、行けば、櫻の竝木の盡くる處、巨石立ち、南湖公園と題す。旭溪曰く、『この四字は樂翁公の遺墨中より集めたるものなり』。曰く、『こゝが南湖公園の入口なり。南湖を看むには、先づこゝより始めざるべからず』。引返して、湖に接する處に至りて、山麓より迸り出づる清水を掬し、山を少し上れば、一亭あり。二た間になり居れるが、閾を設けず。當年の遺制に據りて、明治三十五年再建する所に係る。傍らに南湖十七勝の碑あり。亭に上りて、共に瓢酒を傾け、且つ飮み、且つ眺む。南湖一泓の明鏡を開き、四面の山や樹や倒影を※[#「酉+蕉」、U+2B47F、726-2]す。旭溪曰く、『十七勝は樂翁公の命名する所にして、和漢兩樣の名あり。當時公卿大名巨儒より詩歌を求め、樂翁公も自から歌二首を詠めり。この湖、白河城の南半里の外にあるを以て南湖と稱す。これ漢樣也。關山見ゆるを以て、關の湖とも稱す。これ和樣なり』。『關山は孰れの山ぞ』と問へば、東南の方を指して、『今は雲に隱れて見えず』。なほ語をつゞけて、『この亭が共樂亭(漢名同)、さきの清水が常磐清水(玉花泉)、こゝの平地が錦の岡(濯錦岡)、こゝの松山が鏡の山(明鏡山)、亭の下の右手が眞萩浦(萬花岸)、左手が月見浦(逗月浦)、湖心の小島が御影島(玉女島)、菰の生へたる洲が下根島(蒹葭洲)、湖の東方を横斷せる堤が千代の堤(使君堤)、堤の北の山が月待山(問月嶺)、堤の南に盡くる處の彼方が八聲村(五徳村)、村の西方即ち湖の南に聳ゆる山が小鹿山(鹿鳴峯)、山の下の松原が千代の松原(一字松)、松原より突出したる岸が有明崎(曉月渚)、崎の西方の奧が松風の里(松濤里)、里より北即ち湖の西なる原が松蟲の原(鳴秋原)なり。日の出、月の出も見え、日の入、月の入も見ゆ。六里の外の那須山も見ゆ』。『この頃の天候にては、那須山は見るを得ざるべけれど、せめて、關山は』とて杯を傾く。一杯又一杯、うれしや、東南の天、雲頻に動いて、おひ/\に薄らぐ。關山の下部見え初む。一杯又一杯、關山の六七合まで見ゆるかと思へば、間もなく全山露出す。孤立せる危峯にて、頂上の寺まで見ゆ。瓢酒の盡くるまで、この名山を眺め盡しぬ。

二 須釜氏の花月莊


桃葉は南湖に二泊して、都に還れり。余は旭溪に要せられて、その家に飮み、共にその兄なる須釜嘉平太氏の花月莊に一泊し、一先づ甲子温泉に戻り、折柄浴し居りたる須釜夫人その孫の二少年と共に山を下りて、一家一門の同勢九人、花月莊に滯留すること五日に及びぬ。
月花は見ざれど見たる心地して
  君が庵に五日やどりぬ
 花月莊は白河町の東端、人家續きの處にあれど、一たび莊に入れば、光景全く一變す。前には門もあり、塀もあるが、後ろには塀なくして、畑や、田や、森や、川や、山や、數里の天地、庭と一つになれり。二層の樓、東に面す。一道の阿武隈川、西より平田を貫く。川の彼方、即ち北には、山骨を露出せる羅漢山長く横はり、山の下には鐵車折々來り又去る。十數町の外なるを以て、うるさからず。汽笛わざ/\我に挨拶するかとさへ思はる。羅漢山と相對して、南に搦山横はる。麓は樹木茂れるが、其の樹木一條となりて、頂上に達す。恰も馬の鬣の如し。その麓の樹木の茂れる處、崖を磨して碑となす。搦山は南朝の忠臣結城宗廣の據りし處、碑は感忠銘と題す。宗廣父子の忠節を銘する也。平田の中に一帶の森林隆起して山の如きは、白河の氏神なる鹿島神社也。關山も見ゆ。人忘れず山も見ゆ。近山は濃く、遠山は淡く、雲煙浮動して景致を添ふ。羅漢山の上より日出で、月も出づ。庭の一方には櫻樹數十章相連なる。轉じて樓上より西方を顧みれば、白河の市街眼下にあり。白河城址も指顧の間にあり。遙に那須、旭、甲子の連峯を見る。
英魂留在感忠碑。遺烈巍然鹿島祠。櫻花映帶隈川水。羅漢山頭月出時。

三 感忠銘


高坂孝一郎氏に案内せられて、往いて感忠銘を觀る。幅九尺、高さ二丈五尺、所謂磨崖碑也。我國に碑多けれども、山壁を碑となせるは他に類を見ず。これ結城の遺臣内山氏の義擧に成れるものにて、感忠銘の三字は樂翁公の書する所。文は其の儒臣廣瀬蒙齋の撰に係る。内山氏の子孫今も碑下に住めり。碑の傍ら、地細長く開けて阿武隈川に俯し、白河の市街を隔てて旭嶽を仰ぐ。搦山の名にても知らるゝ如く、こゝは結城氏の城の搦手也。追手は山の南麓にありしなるべし。結城祐廣の築く所にて、其の子宗廣も之に據りたりき。義良親王、北畠顯家、同顯信も之に據りしことありき。宗廣は南朝に生死せり。次男の親光も父と行動を共にせり。長男の親朝は北朝に屬して、其の家を有てり。而して小峰城に移れり。即ち今の白河城址これ也。

四 關山


關山へとて、一同握飯を携へて往く。白河の青少年も四五人交れり。棚倉街道を取りて、合戰坂を上れば、右手は田にて、左手は山也。山麓に清水湧きて溜り、溢れてちよろ/\流る。その溜りに心太を冷し、傍らに腰掛臺を設け、心太を突出す道具を備へ、心太の價を書き出したるのみにて、番人は居らざるが、五六歳の頑是なき小兒、ちよこなんと坐り居りたりき。あはれ、世はこの小兒をも要せざるまでにならぬものにや。
 飴を賣る二人の朝鮮人と相前後す。いづれも白衣をふわりと着て、胸を露はし、脚をも露はし、屋根の付きたる箱を擔ひ、箱の蓋を叩き、異樣の聲を發しながら賣り歩く。東京にては見慣れたれど、このあたりには珍らしと見えて、小兒も大人もみな家より出でて之を凝視す。されど買はむとするものなし。凡そ半里に及びけるが、通りがゝりの一老人始めて之を買ふ。その爲に後れて、飴賣は我一行と別れぬ。
 足の勞よりは暑さに閉口しけるが、關山の麓に達し、これより僅か十八町と聞きて、勇氣また生ず。勇氣は生じたれど、暑さは山を上るにつれて、益※(二の字点、1-2-22)甚し。男連は大小いづれも上半身裸になりて、相前後す。肥あり、瘠あり、黒あり、白あり、宛然一幅の南洋土蠻行列の圖也。一僧、上より來りけるが、目を光らしてじろ/\一行を見ながら下りゆく。門に至りて、ほつと一と息つき、みな着物を着て、僧坊の傍らを過ぎて行けば、鐘樓あり。白河の一青年先づ之を撞けば、他の青少年もみな撞く。斯く遊人に撞かせて錢を取らざるは、京都奈良あたりでは見られざる所也。本堂は絶頂に在り。而して四方の眺望開けたり。この山、白河附近にては最も高く、且つ孤立して、十數里四方の地、一眸の中に收まる。故關蹟も見ゆれば、南湖も見え、阿武隈川も見え、白河市街の一部も見え、那須山も、旭嶽も、八溝山も、羅漢山も、搦山もすべて見ゆ。而も本堂は思ひの外偉大也。寺を滿願寺と稱す。聖武天皇御祈願の額さへ藏して、世にも古き名刹也。
 僧坊に就いて午食す。傍らに一株の欅あり。大さ數圍に及ぶ。山中唯一の大木也。欅の側を下れば、水湧きて溜る。此の孤立せる小山の頂上近き處に、斯くも多く水涌かむとは思ひがけざりき。
 この日、關山の裏路を下り、われ案内者となりて、再ひ[#「再ひ」はママ]故關蹟を訪へり。なほ白河滯在中、石岡忠藏氏を始め、人々に乞はるゝ儘に、惡筆を揮へり。又乞はるゝ儘に、青年を中心としたる人々の爲に、實業高等女學校の講堂に訥辯を揮へり。郡長丸野實行氏、町長藤田新次郎氏を始め、有志の人々に招かれて、圓妙寺湖畔に飮めり。鹿島神社に詣でたり。白河城址を訪へり。友月山公園に上れり。樂翁公が、『春毎に花の小蝶となりてだに櫻の山の春や訪はまし』と詠じける櫻山に、唯※(二の字点、1-2-22)一株殘れる巨櫻を訪へり。此の歌の碑を藤田氏の庭に見たり。白河の地、山水秀麗、奧羽の京都とも稱すべきか。櫻山一帶の地、白河中の別世界にて、會津の山川將軍曾て別莊を設けたりと聞く。別莊地に適する處也。斯く勝地多く、尚ほ他に舊蹟も多きが中に、余は特に南湖、感忠銘、關山、白河故關蹟、甲子温泉を擧げて、白河の五大勝と云はむとする也。
(大正七年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:雪森
2019年2月22日作成
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●表記について

「酉+蕉」、U+2B47F    726-2


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