多摩川冒險記

大町桂月





夏の末の大雨に、多摩川氾濫し、家流れ、田流れ、林流れ、人畜死し、汽車不通となりけるが、雨霽れて、三四日經たり。幸ひ日曜なればとて、三人の友と共に、大山街道を取りて、二子の渡に至る。平生水は砂磧中の一小部分を流るゝに過ぎざるに、今や全砂磧を蓋ひ、なほその外にも溢れて、洪水の跡を留む。一見人をして快と叫ばしむ。渡舟にて渡りて後、しばし泳ぎけるが、歸りは別路を取りて、登戸の渡に來たる。渡船は、見るも遙けき彼岸にありて、呼べども聲達せず。泳ぎて渡らずやと云へば、みな同意して、裸になりて、川に入る。數十間にして、一つの洲に達す。こゝまでは、水、腰に及ばず、流れも緩なるが、前途なほ遠く、進めば進むほど深く、且つ急にして、激浪と鬪はざるを得ず。三人の友は、洲に立ちたるまゝにて、進まむとはせず。何の、これくらゐの川にと、齒痒く思ひ、ひとり先んじて行く。水は腹に及び、胸にも及ぶ。流れも急になりて、直行する能はず。凡そ四十五度ばかりの角度にて斜行す。着物は蓙に包みて、左脇に夾みたるが、やがて身長立たざるやうになるべければ、頭に卷きつけむと思ひながら、なほうかうかと進みしに、忽ち激浪の爲に脚を奪はる。己むを得ず、右手のみにて泳ぐ。見る/\二三十間流されたり。前方を見れば、二十間ばかり下の方に一つの棒杭あり。それを目がけて泳ぎしに、將に達せむとして、達する能はず。十間許り下の方の、一つの棒杭に漸く取付きて、一と息つく。これより岸までなほ數十間ありたれど、流れ緩なれば、容易に泳ぎ着くことを得たり。顧みれば、三人はなほもとの洲に立てり。四人の内にては、余最も水泳に拙なり。その拙なる余が泳ぎつくくらゐなれば、他の三人が躊躇するは、あまり意氣地なしと思ひ居たるに、渡船は彼岸に着きたり。やがて彼岸を離れたり。友の一人は之に乘りぬ。これ一行中のハイカラ也。あとの二人は如何にと見る間もなく、又一人乘りぬ。これ一行中の才子也。あとに殘れる一人は、着物を船に託して、歩を進む。これ一行中の蠻カラにして、最も水泳に長ず。余覺えず拍手す。その友進むにつれて、水次第々々に深くなり、腹に及び、胸に及ぶ。もう泳ぎ始めさうなものと、眸を凝らしけるに、拔手を切つて、泳ぎ始めたり。然るにやがて前進せずに、唯※(二の字点、1-2-22)下へ/\と流されゆく。見る/\一町となり、二町となり、三町となる。余は驚きぬ。この友の水泳の技倆ならば、これくらゐの急流は、何事もなき筈也。されど、水泳中に、こむらがへりといふことあり。友はそのこむらがへりに罹りたるにあらざるか。オーイ/\と二た聲三聲悲鳴をさへあぐるに、余は唯※(二の字点、1-2-22)夢中になりて、堤を下に走りゆく。うれしや、友は立ちたり。兩手を上にあぐ。さては、こむらがへりにてはあらざりきと安心す。友は再び泳ぎ始めしが、こたびは、さまで流さるゝことなくして到着せり。友の初め泳ぎし處は、流れの最も急なる處にて、前進し難きを以て、一先づ引返さむとせしを以て、斯く流されける也。冒險といふ程の事にもあらねど、運動としては、ちと念の入りたる運動也。二十五六年前の事なるが、友の擧げし悲鳴は、今もなほ耳底に存するを覺ゆる也。


登戸の渡を泳ぎわたしりしは、二十一二歳の頃なりき。後ち二十年、頭に早や霜を戴けども、青年の氣はなほ失せず。一人の友と百草園もぐさゑんに遊び、多摩川を見下ろし、關八州を見渡し、枯魚を肴に對酌して、陶然たる氣持となり、日野驛より汽車に乘らむとして、日野の町はづれに至りしに、上り汽車過ぎ行く。友に謂つて曰く、一と汽車おくれたり。日野驛にゆくも、立川驛にゆくも、距離はほゞ相同じ、鐵橋を渡りて、立川驛まで行かずやと云へば、過日の新聞に、工夫長が箱根の鐵橋を渡り居りしに、不意に汽車の來たるに逢ひ、周章てて、レールにぶら下り、指を斷たれて、溪流に落ちて死したりとの記事ありき。工夫長なほ斯くの如し。我等に在りては、猶更ら危險ならずやといふ。工夫長の場合は、汽車が前より來らずして、後ろより來りしならむ。若しくはまた汽車の來たるを豫想せざりしならむ。それ故、枕木にぶら下るつもりが、間違ひてレールにぶら下りしなり。今汽車は上れり。次に來たるものは、必ずや後ろよりに非ずして、前よりならむ。長き鐵橋也。而して、前より來たることなれば、枕木にぶら下るの餘裕は十分にあるべしと云へば、友諾す。線路に出でて、日野驛の方を見れば、青燈點ぜられたり。晝間ならば、シグナル下るべき處、夜なれば、斯く青燈點ぜられたるなり。即ち數分間に下り列車あるを示す也。同時に、上り列車のなきことを示す也。渡り居るうちには、必ず汽車前より來たるべし。汽車が見えたら、枕木にぶら下り給へ。誤つて、レールにぶら下らば、命は無かるべし。ちと危險なれども、枕木にぶら下るまでの事也。承知なるかと云へば、友は頷く。
 日暮れて、まだ程もなし。川霧たちこめて、水聲高く聞ゆ。鐵橋の長さは、五六町もあるべし。而して單線也。線路の中央に、幅一尺ばかりの板をならべて敷けるが、それが唯※(二の字点、1-2-22)一枚のみなる處もあり。その二枚になれる處は歩きよけれど、一枚の處は歩き難し。一町ばかり行きて始めて避難所あるを知りぬ。三尺四方ばかり横に張り出して、手すりもあり。三四人之に入るを得べし。前方になは[#「なは」はママ]三つ四つあり。之ある哉、/\。これだにあらば、何も枕木にぶら下るを要せず。安心せよと云ひつゝ進み行きしに、轟然たる音を先立てて汽車あらはる。二人とも避難所と避難所との中央に在り。退いて避けむか、進んで避けむかと一寸考へしが、進むことに決して、避難所に入る。ほんの五六秒にして、汽車行きちがへり。やれ/\と胸なで下してゆくに、また汽車の來る音す。友は周章てて退いて避けむとす。こんどの汽車は、立川驛より青梅驛に向ふものなるに相違なし。避くるを要せずとて、余は進む。果して余の言の如くなりき。友は聲をふるはして、われ生れてより今夜の如く吃驚したることなし。うか/\君と遠足し居りては、如何なる死地に陷るかも知れず。今後斷じて君と共に遠足せざるべしといふ。よく/\驚き、且つ怒りたる也。君は天下の志士を以て任ずる豪傑なれば、さまで事に驚くことはなからむと思ひきと答へたるも、考へ直せば、暴虎馮河の譏は免れざるべし。記して血氣の士を戒む。
(大正五年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:雪森
2020年2月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード