十和田湖

大町桂月




一 五戸


本州の北に盡きむとする處、八甲田山崛起し、その山脈南に延びて、南部と津輕とを分ち、更に南下して、東海道と北陸とを分ち、なほ更に西に曲りて、山陽道と山陰道とを分つ。長さ數百里、恰も一大長蛇の如し。中國山脈は、その尾也。甲信の群山は、その腹也。八甲田山はその頭也。頭に目あり。凡そ三里四方、我國の『山湖』にては最も大なる者也。之を十和田湖と稱す。
 鳥谷部春汀、一日、來りて我を訪ふ。日光に遊びたりといふ。珍らしや、君の如き旅行嫌ひの人が日光に遊ぶとは、さても如何なる風の吹きまはしぞと云へば、日光を見て結構を説きたくもあれど、別に理由あり。我れ此度、久しぶりにて歸省し、母を迎へ來らむとす。そのついでに、君を我郷里の十和田湖に案内したしと思ふ。われ少時、しば/\遊びて、以爲へらく、天下の絶景と。されど、他の勝地を知らざれば、これ或ひは獨り合點なるかも知れず。依りて比較して見むとて、世に名高き日光に遊び、華嚴瀧や中禪寺湖を見たるが、わが十和田湖は、之にまさるとも、劣らざることを確信しぬ。請ふ、來り看よといふ。これ余に取りては、所謂下地は好きなり、御意はよしといふもの也。喜び勇んで、之に應ず。
 長谷川天溪も同行する筈なりしが、その兒の病氣の爲に果さず。春汀と平福百穗と余の三人、明治四十一年八月二十六日を以て、程に上る。海岸線を取りて、翌日午後、尻内驛に下る。浦山太郎兵衛氏、三浦道太郎氏、關根數衞氏、學生五六人來り迎ふ。三浦氏と一行三人と車をつらねて、五戸ごのへに向ふ。これ春汀の郷里也。維新前は、南部藩の代官の居りたる處にて、文武共に振ひたりとぞ。五戸の男女學生凡そ百人、村境に來り迎ふ。松尾由郎氏の家にいたる。春汀の義兄也。快闊豪放にして善く談じ、優遇到らざる無し。醫を業とす。青年會の會長たり。江渡又兵衞氏、鳥谷部健之助氏來たる。みな春汀の親戚也。令孃の酌にて、快く飮む。由郎氏の弟、松原宙次郎氏は、酒豪也。大西喜三郎、内藤信男、福士秀雄の三氏、青年會を代表して來たる。麥酒と青森名産の林檎とを贈らる。醉後、江渡又兵衞氏と碁を鬪はす。八百年來、血統正しき五戸第一の舊家なりとぞ。その顏、武者繪の如し。

二 天滿館


二十八日午前、青年會の求めに應じ、その會場に充てたる小學女子部の校舍に赴く。松尾由郎氏開會の辭を述べ、春汀と余と演説す。こゝは、懸崖の上也。もと代官所のあたりたる處なりと聞く。松尾氏兄弟、大西喜三郎氏、江渡富郎氏など余等一行を導いて、天滿館に至る。五戸川の流域の上部を見下し、遙に八甲田の連峯を望む。緑陰に蓆を布いて憩ふ。この地第一の清水と稱せらるゝ天滿水を汲みて茶を※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)る。風凉し、快甚し。
 松原宙次郎氏、脚下の人家を指して曰く、これを五戸の下町と稱す。享保年間、鈴木新兵衞といふものあり。この村の水帳を預る。一惡漢、金を竊まむとて、夜その家を燒く。新兵衞出づるに路なし。水帳を地に埋め、腹を其の上に當てて燒死す。身死して、水帳は全きを得たり。代官感じて、之を追賞せりと。われ現に其の地を見わたして、感ます/\深し。士魂あるものと云ふべき哉。
 歸路、菊池萬之丞氏の別莊に小憩し、午後、五戸有志者の求めに應じ、其の會場に充てたる專念寺に赴く。五戸村役場助役金澤次郎氏開會の辭を演べ、春汀と余と演説す。來り會せしもの凡そ百人。
 松尾氏の家にやどること二夜、百穗は、諸氏の求めに應じて、扇に揮毫し、われ之に題す。五戸にては、扇一朝にして賣り切れとなり、揮毫を乞はむとするも、扇を得るに由なかりし人も多しと聞く。二十九日の朝、松尾由郎氏、江渡又兵衞氏、青年會の幹事諸氏、青年少年の男女學生に、村境まで送られて、われらは終に五戸の地を去りぬ。

三 宇樽部


いよ/\目的地たる十和田湖に赴かむとて徒歩す。三浦道太郎氏、江渡省三氏、松原宙次郎氏、春汀の弟良太氏に、余等一行を加へて、同行七人。三浦氏は東道の主人也。江渡氏は、われら、山を下らむ後、三本木に導かむとて、わざ/\來れる也。
 戸來村にいたれば、小坂甚督、小坂甫三、見瀧源衡諸氏、一行を路に待ちうけ、小坂學校にて酒菓を饗す。一行求めに應じて揮毫す。休息すること凡そ三時間にして去る。牛ノ首峠を越ゆる頃、日暮れたり。提燈と藤の皮松明のとに路を照して、午後十時、十和田湖畔の字樽部に着し、三浦氏の家にやどる。道太郎氏の父泉八氏は、明治十六七年の頃、はじめて五戸よりの道路を開き、船を造りて、小坂鑛山の貨物運搬を請負ひ、宇樽部を開墾せる人也。人家今二十四五軒、水田あり、陸田あり。農民は耕作の外、湖に漁し、山に獵す。泉八氏は、山上の一王者といふべき哉。げにや、塵外の別天地、盜賊の難なければ、夜、雨戸を鎖さず。病む者なければ、醫藥の必要もなし。われ明治十三年までは、土佐の城下に生長しけるが、夜、雨戸を鎖さざりき。知らず、今猶ほ然るや、否や。

四 休屋


三十日、休屋さしてゆく。道太郎氏の子一雄氏、從弟小平四郎氏、あらたに加はる。共に少年の學生也。宇樽部より休屋まで、凡そ一里、老樹しげる。桂の大木も多し。蛇麻の花黄に、冠草の花紫也。車草、こゞみの生ひたるにても、日光に遠きことは知られたり。思ひがけずも、休屋の鈴木尚信、中村秀吉、川村藤五郎三氏、男女の生徒をつれて、われらを途に迎ふ。好意は細徑の草にもあらはれて、苅痕なほ新た也。
 休屋は、十和田諸部落の中心點也。十和田神社こゝに在り。奇景このあたりに集まる。祠官にして、兼ねて宿屋を營める織田與次郎氏の家にいたる。酒肴の饗應を受け、織田氏に導かれて出づ。十和田湖畔、杉は、唯※(二の字点、1-2-22)こゝのみにありて、並木を爲して長くつゞく。十和田神社に詣づ。日本武尊を祀る。險しき巖山を攀づ。山に臨みて、南祖坊と、八郎太郎との祠あり。九間の鐵梯を下り、御占所にいたりて、中海に俯し、水を隔てて、御倉山を望む。學生四人、船に在り。みな五戸の人、われらを慕ひて、相前後して來り遊べる也。一行も之に乘りて船を發し、中海西岸の斷崖を見上げ、水中に孤立せる蝋燭岩あたりにいたりて、船を返しぬ。十和田湖前より別路を取り、大黒天、天の岩戸、金の神、山の神、火の神、風の神などの巖窟を見て、西海の濱に出で、近く惠比須島を見て歸途に就き、織田氏の家に小憩して、黄昏の頃、宇樽部に歸りぬ。

五 巖上の酒宴


十和田湖は、四面、山に圍まる。銀山、鉛山西にあり。東にありて最も高きは十和田山、南にありて最も高きは前山、北にありて最も高きは花部山也。大日本地誌に據るに、湖面は海拔四百五十米突、花部山は九百六七十米突なり。湖は北方最も廣く、岸の出入もなくして、幾んど半圓形をなす。東西凡そ三里、南は三大灣を爲す。東海、中海、西海、これ也。大さ、ほゞ相同じ。宇樽部は東海の南濱に在り。左に御倉半島の端に崛起せる御倉山を望み、左に十和田山を望み、前に花部山を望む。花部の右に二峰首を出す。西を乘鞍嶽と云ひ、東を赤倉山と云ふ。四周の山、すべて官有に屬す。樹木の盛んに繁れること、他に其の比稀れ也。みな落葉樹也。晩秋にいたれば、紅幕碧湖を圍む。同じ山湖にしても、この湖の大は、日光の中禪寺湖の三倍以上あり。路は湖をとりまきて通ず。凡そ十里。沿岸の長さは、十五里に達す。
 三十一日朝、昨日の一行、船に乘りて、宇樽部を發す。春汀ひとり留る。持病の痔起りて、出血甚しきをも顧みず、勇を鼓してわれらの爲に山にのぼりけるが、この日一日は、靜養せむとすれば也。十和田の景は、その熟知せる所なれば也。舊知三浦泉八氏との話も多ければ也。
 御倉山の端をめぐりて中海に入り、ゆく/\御倉半島の斷崖を仰ぐ。こゝは中海の東岸也。斷崖直ちに湖面に立ち、崖高く、水深し、且つ清し。兩手にてかゝへるばかりの石を、岸より崩して水に落し、俯して之を見るに、恰も魚の如く、ひら/\と沈みゆき、鯛大となり、鰯大となり、金魚大となり、終に見る能はざるに至る。船夫曰く、十和田湖中、此の中海が最も深し。曾て百尋の繩を下しけるに、水底に屆かざりきと。地理學者の説に據るに、十和田湖全體は、陷落より生じたるが、此の中海は、噴火口也と。日暮崎を始めとし、崖の突出せる者多し。崎といふよりも、むしろ巖といふべし。いづれもみな巨巖也。而もみな姫小松を帶ぶ。一窟あり。御室と稱す。窟中二條に別る。いづれも數間にして盡く。劍の如き小石の簇立せる岬を劍岩と云ひ、姫小松の林を成せる岬を千本松と云ふ。赤根崎よりは、斷崖赤色を主として、いろ/\の色を帶び、十數町も長く南に延びて、半空にかゝる一大長虹の如し。余はこの中海の東岸にありては、最も御倉山を取る。千尺の斷崖、西北より起り、南をめぐりて東に至り、一山をとりかこむ。長さ二十四五町もあるべし。此の如きは他に其の類を見ず。何か名あるかと問へば、無しといふ。千丈幕と名付けては如何にと云へば、みな可と稱す。百間幕なら、他にも多くあり。千丈幕は、御倉山の特色にして、かねて十和田湖の一特色也。この一大斷崖の爲に、人は陸地よりこの山に上る能はず。滿山みな樹、十和田湖畔、猿は、たゞこの山にのみ住む。秋晩木の實熟する頃は、群猿夜月に叫ぶ。賽者對岸の御占所に米を投じて祈祷するに、祭日には、白氣この山に上ると云ひ傳ふ。唯※(二の字点、1-2-22)眺めたるのみにても、十和田湖畔、唯一の靈山也。
 看て千本松に到りける時、日章旗をかゝげたる白帆來たる。これ休屋一村の人士が余等を歡迎する也。中海の南岸は、他の奇なし。西岸は、昨日舟にて見物したり。東岸に比すれば水淺し。斷崖の景致も、劣れり。直ちに最北端の巓に漕ぎつけて、一同之に上る。こゝに休屋一村の好意より成れる饗宴ひらかれたり。主人側は、織田與次郎、中村春吉、鈴木尚信、川村松五郎、栗山政治の諸氏也。主賓うち解けて、快く醉へり。こゝを中山崎と稱す。この半島全體を小中山と稱す。中海と西海とを隔つる小連峯也。宴罷んで、一同休屋の舟に乘りて、中海と別る。中海は、凡そ一方里、北は湖心に連なり、東西南の三方は斷崖と蒼樹とに取り圍まれたる、別天地中の別天地也。
 西海に入りて、東岸近く舟を進む。忽ち、どぶんと水に入るものあり。祠官の織田氏也。主既に俑を作す、賓いかでか之に傚はずして止むべき。余之についで水に入る。三浦道太郎氏も泳ぐ。その他、數人同じく泳ぐ。この西海の東岸は、水、中海の東岸の如くには深からず。崎には、六方角の相竝べる處もあり。島多し。ぐみ島、蓬莱島、種ヶ島、鎧島、兜島、惠比須島など、これ也。大あり、小あり、高あり、低あれども、皆巖也。而していづれも姫小松を帶びざるは無し。松島には、この樹ありて、この巖なく、雄鹿半島には、この巖ありて、この樹なし。天下の風光、十和田湖ひとり其の美を擅にす。舟をすてて、白籠神社にいたる。數十丈の孤巖の上に在り。三たび鐵梯を攀ぢて、漸くにして達す。幾んど天に昇るの思ひあり。妙義の大字巖、旭日嶽にも、この奇なし。況んや水あるをや。
 薄暮、織田氏の家に至る。江渡省三、鳥谷部良太、小平四郎、三浦一雄の四氏は、宇樽部さして歩して歸る。三浦道太郎氏、松原寅次郎氏、百穗及び余は、織田氏の好意のまゝに、その家にやどる。夜、宴また開かる。宴酣にして、歌聲樓外に起る。見れば、數十人圓くなりて踊り且つ歌ふ。これ盆踊にして、村民一同が余等の旅興を添へむとする也。

六 疊石


明くれば、九月一日也。三浦氏一族の二少年、宇樽部より來たる。織田氏を辭して、共に舟に乘り、追手といふ處に至り、和井内貞行氏の孵化場を見る。今は、孵化の時機にあらず。酒精漬の標本あり。卵より魚の形を成すまでの順序、精しく示さる。和井内氏は、カバチエポと稱する北海道の鱒をとりよせて、此處に養殖すること年あり。この湖の水、このカバチエポに適すと見えて、生長の速かなること、本元よりも優れり。和井内氏の名を付す。本土にこの鱒あるは、唯※(二の字点、1-2-22)こゝのみなりとぞ。功により、緑授褒章を賜はる。われこの山上に來りてより、日々新鮮なる鱒に舌鼓うつ。多謝す、和井内氏の賜物也。
 舟を湖の中心に出す。浪、荒し。幾んど御倉山と花部山の中央とおぼしき處に、二大巖わづかに其の頭を露はして相竝ぶ。その間、凡そ二十間、下は、其の底を見ず。之を御門石と稱す。更に舟を進めて湖の東岸に到り、疊石を見る。東西十間、南北百間ばかりの大磐石、水面より高きこと、わづかに五六寸にして平らか也。なほ續きて、南にも、北にも、百間あまりは、水に沒することも五六寸にして平らか也。この巖上、數百千人を載せて餘りあり。洵に稀有の大磐石也。後にて聞けば、この附近に、碁盤石と稱する者、水面の下にあり。碁盤形を爲し、下の四隅に足さへありとぞ。造化の奇を弄する亦甚しい哉。
 薄暮、三浦氏の家にかへれば、江渡氏と春汀兄弟とはあらず。この朝、三本木方面さして山を下り、蔦温泉にてわれを待ちあはさむとする也。

七 花部山


九月二日、われらは下りて、蔦温泉に春汀等と相會せむと期したるものの、われ新たに一動議を起しぬ。われらは、幾んど殘る隈もなく、横に十和田湖を見つくしたれど、なほ此の上にも、縱に十和田湖を見下ろさずんば、未だ全く十和田湖を見たりとは云ふべからずと云へば、百穗も賛成し、三浦氏も賛成す。さらば御倉山にせむか、十和田山にせむか、花部山にせむかといろ/\考へたる末、終に花部山に決す。
 松原寅次郎、小平四郎の二氏は、別れて、五戸に向つて去りぬ。三浦道太郎氏父子、百穗、及び余の四人、舟に乘りて湖の東北隅の青ぶなといふ處に上陸す。こゝに牧場あり。群羊、湖畔に眠る。番小屋に到り、湯をわかし、午食して發足す。舟夫二人、その一人導を爲す。凡そ三十町、湖岸を離れて山に上る。牧牛の往來する處、自然に路を成して歩きよかりしが、山骨の削立せる處を攀づれば、牛も至る能はず。從つて路なし。山全體に老樹しげる。その十中七八は、山毛欅也。上るに從つて、地竹密生す。細雨下る。木葉にたまれる水、風に從つて大滴となりて落つ。地竹や雜木を押しわくれば、なほ一層散ること繁く、恰も水中を行くが如し。漸くにして、頂上とおぼしき處に達したれど、濃霧の爲に、少しも眺望なし。蚋にや、顏にたかり、手にたかる。全身うるほひて、冷氣骨に徹す。うるほひの少なき枯竹を集めて火を點ずれば、うるほへる枯木枯竹も燃ゆ。四人火を圍み、暖を取る。蚋も去りて、近づかず。導者は火にもあたらず、あちこち歩きまはりしが、地竹を四本切りて、もち來たる。杖にせよとなり。根本の直徑七八寸もあり。思ふに、數百年の星霜を經たるものなるべし。一時間も火にあたりけるが、日暮れぬほどにと立ち去らむとすれば、導者はあらず。歸りは易かるべしと思ひの外、導者なくして、方角を失し、密竹の中に迷ふ。唯※(二の字点、1-2-22)幸にも、青森、秋田二縣の界とて、十間ぐらゐ毎に小さき木標あり。漸く一標を見出しては、次の一標の方角を考へ、その一標を得て、また次の一標を考へ、上りし時の記憶にもよりて、漸く牛路のある處に來たる。導者、われらを待つこと久し。己れの熟知せるに慣れて、われらの迷はむとは、思もかけざりし也。寒山が『智者君抛我、愚者我抛君』と歎息せしも、これにや。
 此日、濃霧の爲に、眺望を得る能はざりしかど、十和田湖を見下ろす處を花部山と定めたる考へだけは誤らざるべしと確信する也。

八 奧入瀬の溪流


三浦氏父子に優待せられて宇樽部に宿ること四夜、休屋一村の好意をうけて休屋に宿すること一夜、都合五夜にして、われはこの趣味多き十和田湖を去りぬ。九月三日也。道太郎氏父子、百穗、及び余の四人、一人の男、荷物をもちて從へり。途に小笠原圓吉、太田吉司二氏の蔦温泉より來り迎ふるに逢ふ。昨日も迎へに宇樽部まで來りて、空しく歸りし也。
 湖水の川となりて流れ出づる處を根の口と稱す。この流を奧入瀬川と稱す。橋かゝる。長さ十三四間。水は緩く流る。水中の魚も見るべし。右岸を下る。路も緩やか也。十三町にして、根の口の瀧にいたる。奧入瀬川の斷崖に一落する也。高さ三丈、幅十丈。三里四方の十和田湖の水が集まりて落つることなれば、水量は多し。幅の廣きことだけなら、他にも其の類少なからず。殊にナイヤガラの寫眞見たる目には慊らぬ心地す。されど、この溪流は、他には見難き風致を有す。湖口より蔦川を入るゝまで凡そ三里、島多し。みな木を帶ぶ。巖の水中に立てるものも多し。それもみな木を帶ぶ。これ奧入瀬溪流の特色也。溪流は普通、勾配急に、水の増減甚しく、水中に巖あるも、木を帶ぶるに由なき也。ひとり奧入瀬の然らざるは、幾んど勾配なき迄に流れ緩やかにして、十和田の全山、木しげるが爲に、絶えて洪水なく、殊に老樹天を蔽ふに由る也。さればとて、時に急湍もありて、單調にはあらず。げにや、三里の間、山毛欅、桂、楢、栃などの大木しげりあひ、女蘿かゝる。仰いで天を見ず。下には、こゞみ茂る。紫陽花や、蛇麻の花さきたり。如何なる炎天とても、こゝを上下する者は、絶えて夏あるを知らざるべし。左右は、斷崖也。瀑布を帶ぶ。白布瀑を最も美觀とす。白絲瀑、※[#「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA、760-8]妹瀑、雲井瀑、棚瀑などは、その名あるものなるが、未だ名のつかざるものも多し。高さいづれも十丈にあまる。木繁れるが爲に落口の見えざるものあり、下部の見えざるものもありて、益※(二の字点、1-2-22)奧ゆかしく感ぜられる。十和田湖に遊びて、この溪流を見ざるものは、未だ十和田湖を見たるものと云ふべからざる也。
 川畔に、大石、自然に屋となりて、十數人を容るゝに足るものあり。太田氏曰く、これ鬼神お松の潜みし處なりと。
 奧入瀬川も、蔦川を入れてよりは、普通の川となる。こゝには危橋あり。猿橋と稱す。斜に生へたる大木を利用し、その木の半ば頃より丸太を彼岸に掛け渡す。人は木を攀ぢて丸太を渡る。一種奇妙なる橋也。されど、手のつかまる木もあり、銅線もありて、さばかり危險なることは無き也。
 蔦川の左岸を上ること半里、通天橋をわたりてゆくこと又半里にして、蔦温泉にいたる。午後八時也。春汀兄弟は、既にあらず。江渡省三氏ひとり留りて、われを待てり。法奧瀬村の村長小笠原耕一氏も、わざ/\來りて我を待ち、酒肴を饗せらる。この温泉は、氏と小笠原圓吉氏との經營する所に係る。この頃、家を建増し、路を普請して、三本木より人力車を通ずるやうにせり。泉質は、鹽類泉也。

九 松見の瀑


太田吉司氏は、體格強壯無比、脚殊に健也。このあたりの山々、足跡の及ばぬ隈もなし。數日の糧をもちて、ひとりにて行くこともしば/″\也。『山の神』と稱せらる。日に何里あるけるかと問へば、五里ぐらゐなりといふ。如何に『山の神』とは云へ、げにさもあるべし。路のなき嶮山を五里もゆくは、平地を十五里ゆくよりも困難也。太田氏曰く、このあたり瀧多し。見るに足るべきの瀧、二十に下らず。就中、松見の瀑が、最も大也。請ふ、往いて見られよ、われ案内せむと。こゝも十和田の區域也。見ざるべからずとて、之に應じぬ。
 蔦温泉に一夜とまりて、明くれば雨也。太田氏曰く、松見の瀑へゆくには路なし。溪流を徒歩すること四十回、水増せば、往くべからず。この雨にては危險也。明日に延ばされよと、さらば、仕方なし。郷に入つては、郷に從へ、山に入りては、唯※(二の字点、1-2-22)『山の神』の命令を奉ずべしとて、其の言に從ふ。春汀の待ちわぶることは察せざるにあらざるも、この行、十和田の風光を探るを主とせることは、春汀も承知の上なれば、われは、主とする所に從ひて、春汀に負かむとする也。
 午前十時に至りて、『山の神』又來りて曰く、この模樣ならば、往かるべし。雨を衝くの勇ありや否やと。大いに有りとて起つ。百穗が惠與の眞綿を背中に入れ、綿入を借りて着、頭には『ばをり』を被り、脚には『はゞき』をつけ、蓑を着る。太田氏先にたち、一人の男、後ろより余を護衛してゆく。
 路なき山を幾度か上下して、黄瀬川の溪流に出でたるまでに、一時間半かゝりぬ。こゝよりは、太田氏の云ひし如く、四十回黄瀬川を徒渉する也。左岸に瀧多し。その中にて、鍋倉の瀑といふは、はじめ二丈ばかり奔流し、直ちに噴水の如く、斜に飛び上り、三丈ばかりにして巖壁に當りて、五六丈の懸崖を瀉下す。素人受けのする奇瀑也。
 小石の洲ありて、水左右に流る。こゝを御所河原と稱すといふ。名が面白しとて、休息して、酒し飯す。一瓶の酒なほ餘る。瀧壺まで持ち行かむかといふ。いや/\、瀑を見るに酒なかるべからずなどいふは、まだ風流の半可通なるものなりとて、荷物は總てこゝに置きて、また上る。
 松見の瀑、一に黄瀬の瀑とも云ふ。一山全く骨を露はし、上は裂けて鋏の如し。其の合する處より、一川の水、總束せられて直下す。凡そ二十丈、下はまた五六丈の巖を蔽うて下る。此の上方の、二つに裂けたる巖の山は、姫小松を戴く。後ろを見れば、巨巖天を衝きて、それの頂にも、姫小松生ひたり。このあたりの山々には、松なし。たゞこゝのみにあるを以て、松見の瀑といふなりとぞ。岩質はと問へば、玄武岩なりといふ。巖に松、而して三十丈の飛瀑と云ふのみにても、山水の遊に慣れたる者は、既に飛び立つ思ひすべき也。
 午後七時十五分、温泉の宿にかへる。午食に三十分、瀧壺に十分休息し、正味八時間半は、少しも休息することなく、歩き通しに歩きたるが、里程は、わづか往復四里ぐらゐなるべし。

一〇 三本木


九月五日、朝早く起き出でて、一二町隔たれる湯沼に赴く。くりぬきあり、棹もありたれば、棹してゆく。水は澄みたり。底は粘土らしく、棹しても濁らず。鯉や金魚の泳ぐを見る。林山四面を圍み、幽禽相和して鳴く。沼の廣さ七町。靈泉に加ふるに、この神仙の苑あり。唯※(二の字点、1-2-22)地僻なるが爲に、世に知るもの稀れ也。
 三本木へとて、出で立つ。耕一氏の父幸七氏、叔父善吉氏、門に送る。子の新吾氏、東北學院の學生なるが、余等と共にす。『山の神』も共にす。一人の男、一行の荷物を負へり。われ春汀との約に負きて、空しく待たさしむること三日。今日は、相逢ひて、罪を謝せざるべからざる也。
 思ひがけずも、法奧澤村の有志者、われらを路に要し、一亭に延いて酒を侑む。村長の小笠原耕一氏を始めとし、鈴木敏夫、中山留五郎、相澤寧、小笠原松次郎、太田寛造、奧山東一、角田※[#「にんべん+梃のつくり」、U+4FB9、764-10]一、目時寛三、鈴木友記、東長五郎の諸氏、づらりと居竝ぶ。御話をうけたまはらむとて、上級の生徒を休ませて、引きつれたり。之を諾されよといふ。話す種はなけれど、いやとも云へず。生徒數十人來り竝ぶ。われ大いにまごつきぬ。如何なることをか、しやべりけむ。相澤寧氏は醫者にして、俳句をよくす、曉村と號す。日本派の俳人也。余を迎ふるの句をおくらる。珍らしや、今迄は、到る處、たゞ乞はれしのみなるに、受けたるは、これが始めて也。
 こゝにて、春汀の書に接し、はじめて、天溪の兒の病死を知る。迎ひの馬車に乘りて三本木にいたる。『山の神』なほ在り。安野旅館に投ず。六日ぶりにて、春汀と相逢へる也。
 この夜、一心亭に催せる三本木有志者の歡迎會に赴く。堺三木人、川崎新兵衞、岩館精素、大島市太郎の四氏發起人となり、畜産學校の校長高尾角太郎氏、その教員の佐藤、木場、板持、佐藤、久嶽氏、開墾會社社長の杉山克己氏、その社員の一戸義昂氏、その他、土屋廣氏、浪岡喜代松氏等、之に我等の一行、三浦氏、江渡氏、『山の神』も加はりて、凡そ二十餘人相會す。岩館氏歡迎の詞を述べ、余之に答ふ。大いに飮む。女中の外に、二三人の歌妓をも見うく。久氏は、同郷の人にして、第一高等中學校時代の學友なるが、幾んど二十年ぶりにて相逢へる也。

一一 太素塚


三本木、今は可成りの都會なるが、四五十年前までは、家は無かりき。實に安政年間、南部藩士新渡戸傳氏の開拓する所に係る。一偉人と云ふべし。其の子十次郎氏も、政治家の器也。父を助けて、其の業を大成せり。今の新渡戸博士は實に、その十次郎氏の子也。余等を歡迎せられたる堺三木人氏は、傳氏の季子也。容貌態度、西園寺侯に似て、長者の風あり。新渡戸博士が英文の日本武士道を著はして、日本武士の爲に氣を吐きたるも、思へば家庭の素因の深き哉。
 九月六日、朝早く、畜産學校々長高尾角次郎氏に案内せられて、其の學校に赴き、殘る隈なく見て、精しき説明をうけたり。歸つて、更に畜産事務所に開ける青年會に赴き、春汀と余と演説す。堺氏、高尾氏、岩館氏、川島氏など、青年以外の人も多く集まれり。
 畜産事務所の側に、太素塚あり。これ實に偉人新渡戸傳氏を葬れる處なり。左に小龕あり。十次郎氏の靈を祀る。墓の後ろは、芝生ひろく、眺望ひらけたり。こゝを瀬戸山と稱す。南は名久井嶽を望み、北は恐山一群の山を望む。東は海に連なりて、盡くる處を知らず。西は八甲田山より十和田湖につゞける一帶の連山、この日は、雲にかくれたり。近きは三本木野、世に名だゝる牧場とて、萬馬秋肥えて、千里の長風に嘶く。奧州の風致、雄にして大なる哉。
 春汀は、余が空しく三日待たせたるにもより、その他いろ/\の事情にもよりて、八戸の有志者の歡迎會に赴くを得ず。余、百穗と共に赴く。待ち設けられし春汀は行かず。天溪は旅に上るを得ず。文人にては、われひとり行く。八戸人士の失望は、いかばかりなりけむ。春江と別る。この日頃、迎へられ、案内せられ、又送られし三浦、江渡、太田の三氏とも別る。われ謹んで諸氏の好意を感謝す。
 乘合馬車に乘りて、三本木を去りぬ。大島氏は途まで送らる。岩館氏は古間木驛まで送られ、一亭の樓上に小酌して別る。川崎新兵衞氏は、なほわれら二人を送つて、同じく汽車に乘る。

一二 物見岩


八戸は、もと南部支藩のありたる處、人口二萬、盛岡以北、陸奧東部唯一の大都會也。陸には汽車つゞき、海には鮫港をひかへたり。新聞二つあり。『はちのへ』と云ひ、『奧南新報』といふ。町にて一寸人の目につくは、三日町、六日町、廿日町など、日數を名に負ひたる町の多きこと也。
 尻内驛に下れば、浦山太郎兵衞氏來り迎ふ。『はちのへ』新聞の主筆女鹿左織氏、取締役の大島勝三氏、奧南新報社長の關野重三郎氏、印刷會社長の浦山十五郎氏、書肆の伊藤富三郎氏なども來り迎ふ。八戸驛を過ぎて、港驛に下り、更に乘合馬車に乘る。三本木よりの余等三人の外に、浦山氏と大島氏と同じく乘る。大島氏は、前日わざ/\三本木までわれらを迎へに來りて、空しく歸りたる由也。
 鮫港の人家つくる處にて、馬車を下り、物見岩さしてゆく。洋服の一紳士、遠目鏡を肩にかけて來たる。北村益氏とて、八戸の町長、『はちのへ』新聞の社長、その他三十餘種の長をかねたる八戸第一流の富豪なりとぞ。
 鮫港は、蕪島を前に控へて、風致あり。物見岩の眺望に至つては、實に雄大を極む。草ばかりの廣く長き岡が海に突出したるも、既に其の比稀れ也。東は直ちに太平洋に接す。南に種市山、名久井嶽、西に十和田一帶の山、北に恐山一群の山、みな遙に我に朝するが如し。所謂一望二十萬石の奧東の野、一眸の中に收まる。日西に沈みて、暮雲紅に、十二夜の月空にありて、はや明か也。この物見岩の大觀は、われ思ひもかけず、見て、其の意想外なるに驚きぬ。
 鮫港第一の旅館石田旅館に小憩し、また馬車に乘りて、小中野の萬葉亭にいたる。北村益、橋本八右衞門、女鹿左織、内田與兵衞、大久保徳治郎、石橋源三郎、安並正晴、米田宇兵衞、南部興寧、福士協助、伊東嘉平、大久保忠一、夏堀源一郎、戸田利三郎、大蘆梧樓、關野重三郎、福田男兒、永井正三郎、浦山十五郎、伊藤富三郎、大島勝三、前田利貞諸氏、之に例の浦山老人も加はり、三本木の川崎氏も加はりて、盛宴開かれたり。女鹿氏開會の辭をのべ、余之に挨拶す[#「挨拶す」は底本では「拶拶す」]。大小歌妓十七八人あらはれたり。數日來、山中に猿鶴を友とせし身に、これはまた急激の變化哉。安並氏はこの地の中學教員なるが、余と郷里を同じうす。三千里外、始めて相逢ふ。何となく、なつかし、余等を迎ふる長古一篇を贈らる。南部氏は、舊八戸侯の一族、俳句をよくす。余に一句を贈らる。大蘆氏は偶然汽車中にて逢ひて、盛岡より知合となりたる人也。木材商にして、今は八戸唯一の煙突を有せるが、根は政治家にして、文筆の才もありと聞く。酒間、余に向ひて、
大まちに待ちし甲斐ある今宵かな
  桂の月に雲もかゝらで
 樓外の明月を見るの遑もなく、酒盃の獻酬に忙殺せらる。浦山老人自作の『夕ぐれに』の替歌を聞かせ申さむとて、歌妓に歌はしむ。松前追分も聞きたり。南部特有の踊りも、いろ/\見たり。中に面白く感じたるは、金山踊。數人の歌妓、圓くなり、頬被りし、たすきを掛け、紅裙をあらはし、ざるをさげて、靜に踊りながらめぐる。むかし鑛山の發見せられし時、始めて作りて、南部侯の御覽に入れたるものなりとぞ。
 宴を辭して馬車に乘りたるは、十二時頃なりけむ、八戸の町に入り、江渡旅館に案内せらる。第二次會終りて、大島氏去る。第三次會は、更に帳場に開かれたり。浦山老人もあり、川崎氏もあり。女將年まだ若くして、性、慧也。嬌眸、人を惱殺す。その緑滴らむばかりの廂髮、浦山老人の白髮白髯と、燈下に相映發す。戯れに即興の狂歌を作る。
八戸に過ぎたるものが二つあり
  江渡の女將と浦山太郎兵衞
 浦山氏は、奧州稀有の活動家也。氣力、指の端までも迸る。あまねく富源をさぐり、さま/″\の事業を企て、失敗しても屈せず、巨産を傾けても顧みず。老いて、氣益※(二の字点、1-2-22)壯ん也。啻に八戸の名物たるのみならざる也。

一三 蛇脱穴


都よりの路伴なる百穗に別れ、三本木の川崎氏とも別れ、われひとり大久保徳治郎氏と共に、馬車に乘りて、その所有の大理石の山に赴く。其の子徳五郎氏、同じく行く。中學の一年生也。身體小にして可憐なる少年也。父は剛骨あり。子は、神經少し敏に過ぐ。對照面白し。車を通ぜざるに及びて、徒歩して其の山にいたる。大理石を掘り出す樣を見て、番小屋に入り、酒肴を饗せらる。昨日は紅樓、今日は山奧の掘立小屋、場所が變れば、酒の味も變りて、面白く感ぜらるゝ也。大久保氏は、長谷川英治、野呂彦太郎、福井助五郎[#「福井助五郎」は底本では「福井相五郎」]の三氏と共に、こゝに大理石採取を企てて、日なほ淺し。福井助五郎氏在り。その説明する所によれば、こゝの大理石の如き大材を得るは、他に其の比稀れ也。一箇年百萬切を採取するも、百箇年以上繼續するを得べしとぞ。
 小屋を辭して、蛇脱穴にいたる。物の本にあらはれたるもの也。溪流、石灰石の大巖を貫きて流る。長さ十間、水の深さ腰を沒す。洞中を水の流れ居るが、一風かはりて面白き也。更に閉伊穴にいたる。立ちてゆくを得べし。幅は、せまし。忽ち上り、忽ち下る。十間ばかりにして引返す。穴に入ると知らば、火を用意して來たるべかりし也。
 馬車に迎へられて、八戸なる大久保氏の家にいたり、大いに饗せらる。浦山老人も來たる。爛醉して旅館にかへりしは、既に十二時を過ぎたりけむ。

一四 十和田湖畔の十五夜


 われ八戸に二泊して、今日は立ち去らむとす。大島氏、大蘆氏、女鹿氏など來りて別れを叙す。八戸驛にて、大久保徳治氏に別れ、尻内驛にて、浦山氏にも別れて、いよ/\一人旅の身となりぬ。余は、既に東面より十和田に上りたり、更に西面より上らむとする也。尻内驛より汽車に乘換へて、青森を過ぎ、弘前に至りて、岩木山を仰ぐ。聞く、この弘前の長勝寺に、北條時頼の造らせたる鐘あり。時頼の妾、時頼を辭し去りて、この地にて病んで死す。時頼こゝに來り、その由を聞き、供養の爲に、鐘を造らせたる由、記して鐘に刻せりとかや。人生、涙あり。鏡裡の花、水中の月、來たるものは拒まず、去るものは追はず。追はずとて、忘るゝにあらず。忘れずとて、未練あるにあらず。時頼も亦涙の人なる哉。この夜、碇ヶ關にやどる。
 明くれば、九月九日、舊暦の八月十五日也。再び十和田湖畔に至り、ひとり靜に中秋の月を賞せむとて、心勇む。午前八時發足し、小坂銅山を經、鉛山を越えて、午後七時、銀山の旅店に投ず。この路、十二里と稱す。されど、實際は十里ぐらゐのものなるべし。こゝに、唯※(二の字点、1-2-22)一つの旅店あり。直ちに水に臨む。孵化を經營せる和井内氏の兼業とする所也。この夜、空くもりて、心に期せし月は見るに由なかりき。
 九月十日、銀山を發し、鉛山を經て、發荷にいたる。この路二里と稱す。五戸よりする路も、三本木よりする路も、小坂よりする路も、毛馬内よりする路も、馬を通ず。湖を一週する路も、他は馬を通ずれども、たゞ鉛山より發荷迄、一里の路だけは、馬を通ぜず。路絶えて、濱の砂を踏んでゆくことあり。危き處もありて、用心を要するの惡路也。
 發荷にも、唯※(二の字点、1-2-22)一軒の旅店あり。これも水に臨む。就いて休息し、命じて、鱒を燒かしめ、一瓶の酒を傾けつくして、余は終に十和田湖に別れぬ。
 十和田湖に、一つの神話あり。八郎太郎といふもの、化して龍となりて住む。南祖坊靈夢のままに、こゝに來たる。八郎の龍、怒りて戰ふ。南祖坊法力を以て之に對す。八郎終に力屈して、去つて八郎潟をつくる。南祖坊長く茲に鎭す。十和田湖畔、南祖坊の祠あるは、即ちこれ也。奧羽は、古來、常に他に壓せられたり。奧羽人士は、常に八郎太郎なりき。されど、氣運はうつる。今後、南祖坊たるを得るや否やは、諸公の努力如何によりて決する也。
 發荷より一山を越えて、銚子瀑を見る。言ひわけに、水少しあれど、水力電氣に利用せられたるが爲め、舊觀は、たゞ寫眞にのみ殘りて、平凡なる瀧となり果てしは、大いに惜むべき也。
 この夜、毛馬内にやどり、翌十一日、大館より汽車に乘り、秋田、山形、米澤、福島[#「福島」は底本では「幅島」]、二本松、白河、宇都宮を經て、われは東京に歸りぬ。

一五 十和田湖の特色


この行、日を費すこと十八日、東より西へかけて、奧羽を一周したり。川は、阿武隈川は、之をわたりぬ。北上川は、其の上流を見ぬ。最上川も見ぬ、山は南部富士の稱ある岩手山、津輕富士の稱ある岩木山、鳥海山、月山、いづれも奧羽第一流の名山也。就中、鳥海山ひとり群を拔いて高し。奧羽の山の王也。
 されど、余の主とせるは、十和田湖の勝を探るに在り。こゝに、十和田湖の勝景の大要をあげむに、『山湖』として、最も偉大なること、一也。奧入瀬の溪流の幽靜、天下無比なること、二也。湖の四周の山ばかり樹のしげりたるは、他に比なきこと、三也。紅葉の美、四也。中海の斷岸高く、水ふかきこと、他に比なし、五也。諸島みな岩にして、松を帶びたること、六也。奧入瀬本流支流に、高きは松見の瀧、廣きは根の口瀧を始めとし、見るべき瀑の多きこと、瀑布多しと稱せらるゝ日光、鹽原などの比にあらざること、七也。その他、自籠神社の危巖、御倉山の千丈幕、御門石、疊石、碁盤石、雅俗とり/″\に趣味あり。げに、十和田湖は、風光の衆美を一つに集めたる、天下有數の勝地也。
 余は、十和田湖に遊びて、四通りの路を經過したり。小坂よりの路と毛馬内よりの路とを取らば、湖の一部を俯觀するを得べし。されど、十和田湖より奧入瀬溪を取り去らば、十和田湖の勝は、その一半を失ふべし。且つ三本木より奧入瀬溪を經るの路は、最も平坦也。余は、天下、山川を愛するの士に告ぐ。必ず往いて十和田湖を見よ。往きか、歸りかには、必ず奧入瀬溪を過ぎよ。同じ道を往復するを好まずば、小坂か、毛馬内か、いづれを擇ぶとも、さしたる差別なし。大館より小坂銅山まで、輕便電車のひらくること、近日のうちに在り。小坂より湖畔までは凡そ四里の程也。後の遊者は、この利器によりて小坂より鉛山に來り、たゞ休屋附近を見て、奧入瀬の勝を閑却するもの多かるべし。惜むべき也。
 終りに臨みて、余は、余を導きたる春汀に感謝し、併せて、余にいろ/\の好意を寄せられたる、三戸、上北二郡の諸人士に感謝する者也。
(明治四十二年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「並」と「竝」の混在は、底本通りです。
※誤植を疑った箇所を、「行雲流水」博文館、1909(明治42)年4月25日発行の表記にそって、あらためました。
入力:H.YAM
校正:雪森
2021年5月27日作成
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●表記について

「女+(「第−竹」の「コ」に代えて「丿」)、「姉」の正字」、U+59CA    760-8
「にんべん+梃のつくり」、U+4FB9    764-10


●図書カード