町田村の香雪園

大町桂月




東京府南多摩郡町田村の香雪園、横濱八王子間の一名所として、その地方の人には知られけるが、土田政次郎氏の有となるに及びて、其の名漸く世に現はる。土田氏自から東道の主人となりて、あまたの記者を招くに方り、記者ならぬ裸男にも及ぶ。一同東京驛に落合ひて、横濱行の電車に乘る。幹事役の結城蓄堂、一同に向ひ、『誰か碁を打つものは無きか』と問ふに、誰も答ふるもの無し。裸男ひとり『笊碁なら』と答ふれば、『さらば之を』とて贈られたるは、土田氏の著はせる『圍碁哲學』也。土田氏は實業界の名士なるが、一方に田舍初段の力量ありたりとて、さまで異とするに足らざれども、專門の碁家の道破する能はざる碁の眞理を道破し、而も簡勁の筆、專門の文士をして三舍を避けしむるの概あり。さても世には思ひ掛けぬ人もあるものかなと感服して、讀み入る。蓄堂その携へたる瓢箪の酒を一行に分つ。杯來れば飮み、去ればまた讀む。裸男、他の嗜好なし。唯※(二の字点、1-2-22)酒と碁と旅行と讀書とを好む。今圖らずも、この四者を併せ得て、快甚し。いつの間にやら、東神奈川驛に著く。
 東神奈川驛より八王子行の汽車に乘換ふ。裸男には生路なれば、『圍碁哲學』と離れて、目を左右に放つ。金子紫草、右の山麓の人家を指して曰く、『これ日本一の富豪岩崎家の豚を飼ふ處也』。蓄堂左の小山を指して曰く、『これ太田道灌が攻落して、「小机は先づ手習の初にて、いろはにほへとちり/″\になる」と咏みたる小机城の跡也』。土田氏曰く、『大磯へも二時間、町田へも二時間、汽車の行程相同じ。而して大磯の途中は、都を離れたる氣分にならざるが、町田の途中は、東神奈川を離るれば、既に純然たる田舍也。』
 東神奈川驛より原町田驛まで十四哩、小机、中山、長津田の三驛を經て、凡そ一時間にして達す。田舍だけに、人力車が五六臺しか無し。蓄堂、其の妻、その六七歳の娘子、閨秀畫家の有澤江水、三浦英蘭二女史之に乘り、主人公の土田氏を始め他はみな徒歩す。凡そ半里にして達す。小字を本町といふ。町田城の跡にして、城下は鎌倉街道に當れりとかや。園の廣さ凡そ三萬坪、圓錐丘の周圍みな梅、千本と稱す。枝々密接し、花正に滿ちて、全丘香雪に埋めらる。樹下に南天相連なりて赤く、半空に喬松列を成して青し。丘の裾を廻つて皆櫻、八百本と稱す。土田氏曰く、『西洋人の横濱より自動車を驅つて、この櫻を見に來る者はあれども、梅を見に來る者は無し』と。丘上は平かなるが、更に二小丘高まる。その一丘には、一本の梅、洋傘の形して、自然の四阿となる。田や、畑や、森や、脚下に展開して、其の盡くる處、西に大山の連山あり、北に秩父の連山あり。一老梅の側、掛茶屋ありて、茶を賣る。近郷の男女老若の來り觀るもの少なからず。水谷如水その携へたる寫眞機を取出だし、處をかへて撮影すること三度びに及べり。
 土田氏、一同を丘下の小川氏の家に延きて、酒食を饗す。上戸は美女の酌に滿を引き、下戸は早く梅花飯を喫し、清香五臟六腑に浸み透るとて、喜び合ふ。更に純粹の田舍蕎麥に、舌鼓うつもあり。上戸既に醉ひ、下戸も滿腹となる。土田氏揚言して曰く、『寺まで散歩せずや』と。裸男先づ之に應じ、他に四五人共に行く。宏善寺とて、日蓮宗の寺也。佛前に一拜して、客室に憩ふ。土田氏曰く、『住持碁を打つ』と。裸男之に碁を挑みしに、遠慮して應ぜず。轉じて『圍碁哲學』の先生に挑み、四目置きて鬪ふ。仙人一局の碁未だ終らざるに、傍觀せし樵夫の斧の柄朽ちたりと聞きつるが、裸男が碁を始むるより早く、他の同行者はみな去り行けり。一局だけにて切上げて、小川氏の家に戻れば、井上靈山の詩、江舟、英蘭二女史の畫を始め、いづれも畫帖に書き終りたる處也。裸男も何か書かざるべからず。
梅が香や都を擧る文士連
と書きつくれば、傍らなる小川煙村、『これは恐れ入つた』と冷笑す。
 一日の清遊も、これにて切上げて、原町田驛へ引返す。歩軍先づ發し、車軍後より發す。裸男は歩軍と車軍との間を、獨りぶら/\歩きしに、土田氏車にて後より來り、『これへ乘り給へ』とて、車を下りて、さつさと歩く。その勢、脱兎の如し。車夫強ひて勸むるまゝに、健脚自慢の裸男も、已むを得ず之に乘る。歩軍の本隊を乘越せば、一同冷かして曰く、『裸男老いたる哉。』
(大正五年)





底本:「桂月全集 第二卷 紀行一」興文社内桂月全集刊行會
   1922(大正11)年7月9日発行
入力:H.YAM
校正:雪森
2021年2月26日作成
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