鎌倉大仏論

大町桂月




鎌倉や御仏なれど釈迦牟尼は
 美男におはす夏木立かな

 これ、晶子女史の作也。晶子女史が、当代の歌壇、唯一の天才なることは此の一首にもあらはれたり。第二句、明星には、『金にはあれど』とあり。恋ごろもには、『御仏みほとけなれど』と改まれり。『金にはあれど』は、子供くさくして、露骨に失す。『御仏なれど』は、それよりは、よけれど、なほ野暮くさし。且つ、釈迦牟尼と、呼びすてにすることも如何にや。上の句は、なほ如何やうにも動くべし。『鎌倉や深沢みざはの奥の御仏は』とすれば、自然にして大なる処はあり。されど、旧式也、晶子式に非ず。散文的也、下の句との釣合ひも悪し。元来、晶子の特色は、文句の末に無頓着なるに在り。本質が玉也、之を錦につゝむもよく、木綿につゝむもよけれど、余輩が望蜀の慾を言はば、成るべく、玉を錦につゝみたし。これ晶子の再考を促さむと欲する所以也。
 暫らく歌をはなれて、往いて、鎌倉を訪へ。鎌倉も、明治二十年頃までは、青山蒼田の間に古寺、古祠、茅舎が点綴するのみにして、古色蒼然として、行人をして、懐古の情、一層切ならしめたりしが、汽車通じ、旅館増し、紳士往き、肺病患者移住し、絃歌の声、濤声に和するに及びて、全く俗地と成り了んぬ。八幡宮より、極楽の切通しまで家つゞきとなるに及びては、芭蕉の『夏草やつはものどもの夢の跡』の石碑も、今は、物笑ひの種となりぬ。心ある者、長谷の観音に詣でなば、必ずや、末法の世に泣くべし。一人毎に、一銭を出だせば、暗き堂内に導き、一雙の蝋燭を上下して、三丈三尺とやらの観音を見せしむ。これでは、まるで、観音様が、浅草の見世物に於ける大男、小男となり給ひたる也。かくても、なほ、長谷寺の僧が、三衣をつけ、珠数つまぐり居るかと思へば、世にも、傍らいたきことども也。
 されど、長谷の観音より、数町はなれたる処に、鎌倉大仏あり。一寸家つゞきを離れて、左右と後ろとに、鬱蒼たる小山を負ひて、三丈三尺の尊像、端然として趺座し給ふ。美なる哉、偉なる哉。夏の月の夜、世人の寝沈まりたる頃、来りて、仏前二三間の処に跪きて、静かに仰ぎ見よ。必ずや、人間をはなれて、極楽にゆきて、仏様にお目にかゝる心地すべし。かねて、晶子の天才なる所以を知るべし。
 事物の大小美醜は、もと比較より生ず。一喇嘛僧、日本に来りて、はじめて、到る処に、真の仏らしき仏像を見たりと云へりと聞く。蒙古地方は、その土地が、殺伐也、其の民が殺伐也、仏像を作る人も殺伐也。従つて、仏像も、殺伐ならざるを得ず。日本は、土地が優美也、民が優美也、仏像を作る人も優美也。是に於いて、はじめて、尊き仏像成る。鎌倉の大仏は、七百年前に成りたるもの也。奈良の大仏は、奈良朝に出来たるものなれども、その顔は徳川時代につくりかへたるものなれば、その美麗荘厳、遥かに鎌倉の大仏より下れり。兵庫の大仏は、明治年間に出来たるものなれば、奈良の大仏よりも、更に下れりとの事也。
 東京に住む人は、鎌倉の大仏を見る前に、先づ上野公園の大仏を見よ。仏像の大小、銅質の良否は別問題也。頭顱の扁平なるが、既に児戯的也。その目は、そねむやうにも見え、うたぐるやうにも見ゆ。その口つきは、うふゝ、何を云ふかと、人を嘲るの相あり。額のひらべツた過ぐるは、毫も智なきをあらはし、肩、胸のあたりの、瘠せそげたるは、毫も落付きが無くして、吹けば、飛びさうに思はる。上野の大仏、何処を見ても、仏様らしき処はなくして、軽薄才子の相也、小人の相也。之を作りたる者は、必ずや、市井の匹夫也。之をたてさせたるものは、よく/\の愚物也。同じ上野の公園、一寸、歩を転じて、西郷隆盛の銅像を見よ。鋳造の点は、非難があるかも知らねども、大西郷其の人が、日本の歴史上、第一流の偉人也。人物偉大なれば、相貌も、おのづから偉大也。仏様とまでは行かずとも、その銅像は、人間界の男子の美と壮とを発揮しつくせり。かくまでも、偉大なる相貌が有るかと思へば、余輩の頭は、おのづと、その前に、さがらざるを得ず。殊に、単衣に兵児帯姿が、大西郷の人となりに適し、かねて、造形美術の本旨にも合す。去つて、九段坂上の川上大将の銅像を見よ。これ一属吏の相也、美なる処もなければ、尊き処もなし。ははァ、これが川上の顔かと、行人は、たゞ一瞥して去らざるを得ず。あはれや、川上大将の如きは、なまじひに、銅像をたてられて、却つて、醜を千載に残せるもの也。それよりも、浅草公園にある瓜生岩子の銅像が、遥かに尊く、遥かに美也。眼には、大なる慈悲を湛ふれども、お前さん方は、いくら、男子で、力があつて、この老婆をおどさうとなされても、そんな事では、驚きませぬといふ勝気も見えて、げに、女の中の仏様也。東京にある銅像にて、尊きは、隆盛のと、岩子のとのみ也。今後西郷の如き偉人出でざる限りは、東京の地に、銅像を立てることは、先づ見合はすべき也。
 鎌倉の大仏に至りては、真に仏様也、西郷以上也、無論、人間以上也。堂内に安置するやうにつくりたるものなれば、その目は、遠方を見ずして、近く見下し給ふ。之を見るには、膝より二三間手前より見上ぐるを可とす。その目には、広大無限の慈悲、輝かずや、一切衆生を済度せむとの御情、こもらずや。その口は、泰山くづるゝとも動かざるの胆力を語らずや。胸のゆたかさは、万物を包蔵して余りあらずや。頭額のあたりの厚く大なるは、あらゆる人間の智恵を小にするの概あらずや。之に対しては、西行法師ならねど、何人も、たゞ尊さに、涙こぼれざるを得ざるべし。
 晶子、何人ぞや。今、この大仏に対して、美男と叫ぶ。世俗、直ちに咎めて、或は、云はむ、仏様は、たゞ有難く、尊きもの也。仏様に恋れるとは、何たる不埒千万なる女ぞやと。請ふ、暫し静まれ、我れをして、晶子が、大仏を美男と云ふの理由を説明せしめよ。大仏様も、芸娼妓の前には、美男ならず。尋常一様の海老茶式部の前にも、美男ならず。晶子の如き天才の前に、はじめて、美男也。女が美男に恋れ、男が美女に恋れるは、人間自然、いつはりなきの情也。されど、人品の高下、理想の高下によりて、美男とするものに、大なる差別あり。丹次郎式は、芸娼妓の美男とする所也。業平朝臣式は、海老茶式部の美男とする所也。武士の娘なら、昆沙門式を美男とすべく、茶屋の女将連は、布袋式を美男とすべし。尼将軍や、春日局の如き女傑は、西郷式を美男とすべし。更に進んで、晶子に至りて、はじめて、大仏を美男とす。これ、人間自然の進境也。不埒にあらず、淫乱に非ず。
 平安朝には、僧侶に恋れたる才女、少なからず。業平風情に恋れずして、僧に恋れたるこそ、殊勝なれ。僧侶の恰好は、古の哲人が工夫して、普通の人間以上につくりたるもの也。すべて、獣類は、身体全体が、毛にておほはれたるもの也。進んで猿に至れば、顔と尻とに、毛無し。更に進んで人間となれば、身体の大部分に、毛なし。人間の中にても、日本人よりは、西洋人の方が毛多し。これ西洋人は、人間より少し下つて、野蛮的也、動物的也。日本の武士が、月代を剃り、髭髯を剃りたるは、今の日本人よりも、神に近づきたるの相也。然るに今の日本人は、官吏も、会社員も、学者も、教員も、西洋人の真似して、月代を廃し、鼻下に、鯰髭なり、鰌髭なりをはやすこそ、愚かなれ。僧侶に至りては、髭なく、頭に毛なし。殊に平安時代には、続経に重きを置きたれば、僧侶の堪能なる者の続経は、今の世の美男の、都々逸歌ふやうな下品なものならずして、神経の敏なる女には、※(「口+陟のつくり+頁」、第3水準1-15-29)迦の声もかくやと、聞えしなるべし。世間一様の美男を閑却して、僧侶にあこがれたるも、宜べなる哉。下つて、徳川時代となりても、八百屋のお七は、吉祥寺の吉三に恋れたりぞとよ。僧侶の相貌は、人間よりも、神に近し。されど、大仏をつくるに、僧侶の通りにしては、僧侶と伍を同じうするわけなれば、頭を螺髪にせしこと、古の哲人が苦心の結果なるべし。
 元来、神像や仏像は、人間をして、恋れさせるやうにつくりたるもの也。閻魔の顔には、誰れも恋れる者なく、従つて有難がるものなし。神仏は、必ず美男ならざるべからず。耶蘇の像は、西洋人より見て、人間最上極上の美男として描かれたり。マドンナの像も、人間最上極上の美女として描かれたり。この理より推して、女神あるは、男を釣るの方便也、男神あるは、女を引き出すの手段也。世界に、男神ばかりの国もなければ、女神ばかりの国もなし。日本の仏像に就いて云ふも、輸入の当座は、その顔長すぎて、所謂馬面なりき。日本も徳川時代に、一時、細面を美人としたることありしかど、今は、天保美人と称して、天保銭と共に、世に通用せず。今も、昔も、日本人の愛するは、丸ぼちや也。従つて、仏像も、輸入後、間もなく、丸ぼちやに成り給へり。かく、馬面の仏像が、日本に来りて、丸ぼちやとなりたる所以を知るものは、晶子が大仏に向ひて、美男と呼ぶの理由を知るべき也。
 日本に歌ありてより幾千年、晶子出でて、はじめて、斯かる、観察鋭く、理想高く、而も大胆なる歌あり。この歌の生命は、美男の一語に在り。夏木立の一語も、用ゐ得て妙也。一切衆生を済度せむとする大仏には、春の花は、相応はしからず、秋の紅葉は、相応はしからず、冬枯の木では、猶更ら不可也。こゝは、どうしても、夏木立ならざるべからず。
 されど、如何に美男と仰ぎても、大仏は、銅也。上野の大仏は、市井の匹夫が作りたるを以て、軽薄才子の相に出来たり。美術は、人格也。人は、己れ以上のものを作る能はず。鎌倉の大仏を作りたる人は、必ずや人格高くして、普通の人間よりも、むしろ仏に近き人也。こゝに、晶子に告ぐ。真の美男に逢ふは、死んだ後の事とあきらめて、浮世では、先づ、鎌倉大仏をつくりたるやうな人を、美男と仰ぐべき也。





底本:「日本随筆紀行第九巻 鎌倉 くれないの武者の祈り」作品社
   1986(昭和61)年8月10日第1刷発行
底本の親本:「桂月全集 第八巻」興文社内桂月全集刊行会
   1926(大正15)年6月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2022年5月27日作成
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