酒に死せる押川春浪

大町桂月




 草木も眠る眞夜中に、どん/\と雨戸を叩くものあり。起き出でて見れば、押川春浪と鷹野止水と也。迎へ入れて、對酌して曉に達す。止水去れり。春浪なほ留まりて、なほ對酌して、正午を過ぎたり。共に出でて宮崎來城を訪ひ、又飮む。夜半に至りて辭し去る。春浪、前に在り。余、後に在り。春浪ふと立ちとまり、五紋付のきびらの羽織を脱ぎ、之をやるとて、余に渡さんとす。余は要らぬとて、受取らず。さきに來城を訪はんとする途中、絽羽織のぐにや/\したるよりは、きびらのぴんとしたるが、見ても氣持よし。殊によく君に似合へりとて褒めしことありしが、思ふに春浪は今俄に其言を思ひ出したるなるべし。一旦言ひ出しては、後へは引かぬ氣象、僕も要らず、君も要らず、さらば兩人に無用なるものなり。打棄てんとて、桑畑の中に投ぐ。我れ拾ひ來りて渡さむとするに、受取らず。肩にかくれば、振り落して顧みもせず。君も要らず。僕も要らず。これでは愈棄つるが、承知かと云へば、言ふにや及ぶといふ。さらばとて、われ桑畑の中に投げたり。東大久保なる前田侯別莊の裏門のあたり也。一方は土手、一方は田、明月天に冲す。見渡す限り、人家なく、人籟全く絶えて、乾坤の間、唯蛙聲の閣々たるを聞く。昨夜來幾んど一晝夜も飮みつゞけたるに、余は疲れたり。されど、所謂梯子酒の春浪の事なれば、このまゝにては別れまじ。三十六計、にぐるに若かずと思へど、競走の妙を得たる春浪の事なれば、必ず追ひ付かれむ。よし/\狸寢入をして見むとて、土手にどつかと腰をおろし、春浪君、僕は眠くて一歩も歩かれず。こゝに寢て行く。これにて失敬と云へば、君を棄てゝは行かれずと云ふ。馬鹿なことを云ひ給ふな。路傍に醉臥することが僕の癖なることは、君も承知せる所ならずや。殊に錢は一文も持ち居らず。たつた單衣一枚にて幕天席地、何も心配することは無し。君はさつさと行き給へと云ひすてゝ仰臥す。草に置ける露、肌に浸む。春浪も腰をおろしけるが、暫くして余を呼ぶ。余答へず。余の手を引く、余なほ起きず。余の兩手を把つて路上に引きずる。余なほ狸寢入を續く。春浪終に閉口して立去れり。首を囘らせば、既に十年一昔となりぬ。當時春浪は三十になるやならずの血氣盛り、盛に飮みて、盛に氣焔を吐けり。春浪も余も共に博文館に机を竝べ居たりしが、余博文館を追はれて後は、久しく相見るの機を得ざりき。明治四十五年が大正元年と改まりてよりまだ二ヶ月とは經たぬ程の事也。われ箱根山上にたてこもりて著述に苦心しけるに、思ひがけずも、春浪に邂逅す。されど、當年の俤は何處へやら、病み衰へて、形容枯槁せり。夫人看護にとて、附添へり。一夕春浪君夫妻をボートに乘せて、余一人にて漕ぐ。肯かぬ氣の春浪、僕に一つの櫂を渡せといふ。止めよと云へども肯かず。一つの櫂を渡したるが、二三分にして止みぬ。月明かに、風清く、金波湖心に涌く。西に富士山、東に鞍掛山、文庫山、南に三國山、北に神山、駒ヶ嶽、二子山、離宮塔ヶ島の上に縹渺たり。むかしの春浪ならば、如何にか樂しからむ。われ暗に涙を呑む。夫人曰く、貴方は相變らず、お達者で元氣で結構也と。病める夫を介抱せる夫人の心中を思ひて、われ更に暗涙を呑む。
 嗚呼春浪君は、三十八歳の壯齡を以て、世を去れり。さる文人の連中の机を竝べたる處にて、春浪君の噂はじまり、さて、春浪逝けり。この次に死すべき文士は誰なるか。先づ大町桂月ならずやと云ひあへりとかや。如何なれば、斯かることが話柄となりしぞと想像するに、春浪は大いに酒を呑めり。故に早世せり。桂月も善く飮む。また同じく天命を全うする能はざらむかと心配せられたるにあらざるか。われ何時死ぬるかを知らざるが、死ぬるまでは、活きて居る也。『酒不劉伶墓上土さけはりうれいのぼじやうのつちにいたらず』、死しては酒は飮めざる也。藤田東湖が『瓢兮』の詩の中に曰く、『夭壽えうじゆめいあり汝罪なんぢのつみにあらず姓名せいめいかつ驥尾きびにふしてつたう』と。世上、下戸の徒、以爲へらく、酒は人の生命を短かくすと。されど、七福神の一に數へられたる福祿壽を見よ。現に支那にありたりし人也。賣卜を業として、酒に代ふ。朝に召されて、何歳なるかと問はれたるに、臣は酒を飮まずんば物言ふ能はずといふ。酒を飮まさる。因つて曰く、臣は黄河の澄むを幾度も見たりと。黄河は千年にして一度澄むと稱せらる。其黄河の澄むを見たる福祿壽は數千年も活きたる譯也。而して善く酒を呑めり。酒豈に必ずしも人の生命を短くするものならむや。されど春浪君は或は酒の爲めに生命を縮められたるかもしれず。果して然らば、共に痛飮したりし余も、其責なしといふを得ず。恐縮千萬の次第也。
 嗚呼押川春浪君は逝けり。人、神にあらざる以上は、何人も長所あると共に短所なきにはあらず。春浪君は酒癖のみならず、他に短所もありしなるべし。されど、春浪君は、澆季の世に、よくも斯る快男子がと思はるゝ人なりき。金錢を視ること土芥の如く、死を視ること歸するが如く、不義不正を視ること蛇蝎の如く、明治の文壇に冒險小説の一派を開きて士氣を鼓舞し、兼ねて運動に青年を鼓舞せり。雜誌の『冒險世界』は春浪に依りて創まれり。後、轉じて、『武侠世界』を創めたり。武侠冒險が春浪か、春浪が武侠冒險かと、世を擧つて仰望せしむ。偉なる哉春浪君、君の肉體は朽つることあるも、君の精神は死するものにあらず。君の精神の死なんときは、即ち我が日本帝國の滅亡せむ時也。日本帝國の存在する限りは、君や死せず。嗚呼押川春浪君、願くは瞑目せられよ。
(大正五年三月實業之日本社刊『(十人十色)名物男』所收)





底本:「明治文學全集 95 明治少年文學集」筑摩書房
   1970(昭和45)年2月20日初版第1刷発行
   1977(昭和52)年3月1日初版第2刷発行
底本の親本:「十人十色名物男」實業之日本社
   1916(大正5)年3月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:sogo
校正:noriko saito
2022年10月26日作成
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