死んだ小説家の獨歩は天地に驚き度いと申しました。わたくしのは少し違ひます。時々呆れるやうなものに
ふと相撲場へ行きました。出羽嶽といふ力士の馬鹿々々しい大きさに少し呆れる事が出来ました。広い世界に同じ心持ちの人があるかも知れぬ。呆れをお福分けする積りで五六日土俵上の怪物の動静を絵でお知らせしました。
ところがこゝに怪物に
西の控へ部屋へ行くと怪物は今土俵から上がつたところです。奥さんがわたくしを紹介しても怪物はお辞儀をしません。遥か上の方で難かしい顔をしてるらしいのが仰向くとやつと
怪物を誘つて自動車に乗りました。自動車の中の怪物は丁度弁当箱に沢庵漬を二つに曲げて入れた形でした。そしてわたくしはその隙間のつめです。神田明神前で自動車の電灯が駄目になりました。他の車を雇はせる為め運転手を馳らせた。
本郷の『豊国』へ着きました。怪物は早速座敷の敷居に足を投げ出し茫漠と庭の青葉に映る電灯を眺め出しました。こゝで二つの微笑すべき事象を見逃してはなりません。弓なりに曲つた障子と尻の下に印紙程に見ゆる座蒲団と。
食ものや飲ものが来ました。怪物は小楊枝のやうに見ゆる手の箸を器用に操り鍋の牛肉を煮にかかりました。女中がサイダーを抜き、コップへ置き注ぎにするのを見て怪物は急いで壜を奪ひ取り『さうやつちや失礼だぞ』と改めてわたくしに空のコップを持たせ、それからサイダーを注いで呉れました。怪物にこんなこまかい常識があるとは思ひ寄りませんでした。
肉は煮えて来ました。わたくしは怪物がどのやうに大食するだらう、それを心待ちに注意を怠らず自分の箸を運びました。けれども怪物は汁の味を考へたり肉と葱との配合を程よく整へたり、可笑しな程人なみの事を致してます。
わたくしは堪へ兼て『君少し食べて見せて呉れないか。その積りで来たのだから』なぞ誘ひをかけました。怪物は少し面白くない顔をして『わしが大食だとてこの間も九州からの帰りの汽車でバナヽを二貫目食べたなぞと吹聴されたがそんなには食べられんわ。東京へ着いた時まだ八百目も残つてた』と弁解しました。話を反らすやうに『その汽車の中で面白かつたぞ、田舎の客人が酔つてのう。誂へたオムレチの中へ顔を突つ込んで寝てしまつた』わたくし『ある親方が話したのだがね。君はそんなにうまくなくてもいゝ、兎に角普通に相撲の一手を覚え込んだら相手に立つ敵は無いといつてたがどうだね。毎日あまり固くなり過ぎやしないか』
『わしは仕切つてる時にのう。
帰りしなに玄関で怪物の草履を見て居る驚きの人々を認めました。
店を出て怪物はしよんべんをしました。わたくしも並んでしました。わたくしの肩の辺から迸り出る太い水流は砂利の山一つ彼方の大地へ落ちました。わたくしのは山の中腹です。
闇の横町で怪物は気付いたやうにわたくしの肩を叩き『これ遣るよ子供に持つてけ』と大きな掌から胡桃を一つ呉れました。胡桃がわたしの手に移るとそれは林檎でした。相撲場でS氏の奥さんがお腹に向つて言つた事が今彼の頭に利いたのでしよう。
怪物が電車に乗るといふから見て居ました。怪物は乗るや自分の定まつた居所のやうにさつさと車掌台の右へ立ちました。