怪物と飯を食ふ話

岡本一平




 死んだ小説家の獨歩は天地に驚き度いと申しました。わたくしのは少し違ひます。時々呆れるやうなものにつからぬと生命が居眠りをして仕舞ふのです。
 ふと相撲場へ行きました。出羽嶽といふ力士の馬鹿々々しい大きさに少し呆れる事が出来ました。広い世界に同じ心持ちの人があるかも知れぬ。呆れをお福分けする積りで五六日土俵上の怪物の動静を絵でお知らせしました。
 ところがこゝに怪物に紹介ひき合せようといふ人が出ました。訊すと医学士で歌人のS氏の奥さんです。S氏ならばわたくしの浅い知人でした。そして出羽はS氏の両親が養ひ子として愛し育てた関係の力士ださうです。呆れを深める為めわたくしは一議に及ばず承知致しました。
 西の控へ部屋へ行くと怪物は今土俵から上がつたところです。奥さんがわたくしを紹介しても怪物はお辞儀をしません。遥か上の方で難かしい顔をしてるらしいのが仰向くとやつとうかゞはれます。奥さんが怪物の大きなお腹に向つて言ひました。『文治、お前失礼ではないかい。何とか御挨拶を申上げな』とそこでやつと上の方で水底の破鐘やぶれがねのやうな声がしました。『新聞に絵を描いて呉れねえ方がえゝよ気になつて力が出ねえ』成程彼は此場所負けんがこんで居ました。わたくしは笑ひました。奥さんはばつ[#「奥さんはばつを」は底本では「奥さんはばつを」]悪くしてそれから諄々くど/\とお腹に向ひ人気商売の力士は誰人だれにも愛想よくすべきものゝよしを言ひ聞かせました。奥さんは女として低い方ではありませなんだ。それで居て顔の向き合ふところは丁度怪物のお腹です。お腹に向つて云ひ聞かした言葉がいつ怪物の頭まで伝はるやら覚束ないとわたくしは思ひました。
 怪物を誘つて自動車に乗りました。自動車の中の怪物は丁度弁当箱に沢庵漬を二つに曲げて入れた形でした。そしてわたくしはその隙間のつめです。神田明神前で自動車の電灯が駄目になりました。他の車を雇はせる為め運転手を馳らせた。降車おりて怪物は闇の中の自動車の周囲を玩具のやうに物珍らしく撫で廻しました。進んで運転手台の機械に指を触れると『あち……』と驚きました。それからにやりと笑つて『こゝ熱いぞ。触つて見ろ』と言ひました。わたくしはそれより怪物が寄りかゝる為め車が傾いでゴムのタイヤがどの位皺面しうめん作るかに興味を持ちました。で怪物は一人で繰返し指を小さな熱所へ触れては熱がつて居ます。然し大きな顔には愛物を弄る時のやうな魅せられた微笑が上がつて居ました。ふと一つの考案がわたくしの頭に閃きました。巨人は却つてプチーといふ事に異常な愛着を持つものではないかと。
 本郷の『豊国』へ着きました。怪物は早速座敷の敷居に足を投げ出し茫漠と庭の青葉に映る電灯を眺め出しました。こゝで二つの微笑すべき事象を見逃してはなりません。弓なりに曲つた障子と尻の下に印紙程に見ゆる座蒲団と。

 食ものや飲ものが来ました。怪物は小楊枝のやうに見ゆる手の箸を器用に操り鍋の牛肉を煮にかかりました。女中がサイダーを抜き、コップへ置き注ぎにするのを見て怪物は急いで壜を奪ひ取り『さうやつちや失礼だぞ』と改めてわたくしに空のコップを持たせ、それからサイダーを注いで呉れました。怪物にこんなこまかい常識があるとは思ひ寄りませんでした。
 肉は煮えて来ました。わたくしは怪物がどのやうに大食するだらう、それを心待ちに注意を怠らず自分の箸を運びました。けれども怪物は汁の味を考へたり肉と葱との配合を程よく整へたり、可笑しな程人なみの事を致してます。
 わたくしは堪へ兼て『君少し食べて見せて呉れないか。その積りで来たのだから』なぞ誘ひをかけました。怪物は少し面白くない顔をして『わしが大食だとてこの間も九州からの帰りの汽車でバナヽを二貫目食べたなぞと吹聴されたがそんなには食べられんわ。東京へ着いた時まだ八百目も残つてた』と弁解しました。話を反らすやうに『その汽車の中で面白かつたぞ、田舎の客人が酔つてのう。誂へたオムレの中へ顔を突つ込んで寝てしまつた』わたくし『ある親方が話したのだがね。君はそんなにうまくなくてもいゝ、兎に角普通に相撲の一手を覚え込んだら相手に立つ敵は無いといつてたがどうだね。毎日あまり固くなり過ぎやしないか』
『わしは仕切つてる時にのう。周囲まはりで見物のわあといふ声がするとどうしても立てんで。それに知つた人の顔が桟敷に見えるともういかんね。駄目だ』怪物案外気が弱い。話の、間に同席の年配のある奥さんが怪物の帯に呆れて居ます。わたくし『君は巨きな身体の為めにふだんの暮らし方に不自由な処は無いかね』怪物『無いよ』怪物はこゝで又話を反らすやうに『牛肉の三枚肉を味淋と醤油と生姜に漬けてそれから生紙きがみの上で焼いて食ふと美味いぞ』怪物は彼の身体の異常なる大食の事に触れられる事は処女の恥を覚えるらしいのですからなる丈け人並の言行を努めたがるのでしよう。然し肉は段々煮て行つて鍋に山と積みそれからわたくしに『さあ、飯、食べろ』と申しましたのは世に所謂いはゆる問ふに落ちず語るに落つの類ではないでしようか。怪物は部屋で食べて来たといつて四五杯でやめました。
 帰りしなに玄関で怪物の草履を見て居る驚きの人々を認めました。
 店を出て怪物はしよんべんをしました。わたくしも並んでしました。わたくしの肩の辺から迸り出る太い水流は砂利の山一つ彼方の大地へ落ちました。わたくしのは山の中腹です。
 闇の横町で怪物は気付いたやうにわたくしの肩を叩き『これ遣るよ子供に持つてけ』と大きな掌から胡桃を一つ呉れました。胡桃がわたしの手に移るとそれは林檎でした。相撲場でS氏の奥さんがお腹に向つて言つた事が今彼の頭に利いたのでしよう。
 怪物が電車に乗るといふから見て居ました。怪物は乗るや自分の定まつた居所のやうにさつさと車掌台の右へ立ちました。





底本:「日本の名随筆 別巻2 相撲」作品社
   1991(平成3)年4月25日第1刷発行
底本の親本:「一平全集 第九卷」先進社
   1929(昭和4)年8月9日発行
※誤植を疑った箇所を、親本の表記にそって、あらためました。
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2023年4月17日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード