坊つちやん「遺蹟めぐり」

岡本一平




〈上〉


 は今備後びんごともより松山へ渡る汽船の甲板の上で意気込んで居る。何の意気込だ。夏目先生の『坊つちやん』の遺蹟を探らうとしての意気込みだ。
『坊つちやん』はたして実在の人だつたか? この小説はどこまで構想に事実の拠り処があるのか? 誰しも読者として小説に魅了せられた程の人はその小説並に著者を愛する心持ちの延長として遂にこの探求まで突進む事は自然の道理である。
 いはんや予は『坊つちやん』絵物語に身を入れて描いた後である。予の心の中に馴染みついた『坊つちやん』はどうしても『坊つちやん』の故郷を見せやうと予をそゝり立てゝ仕様が無い。実在の人の如くに唆り立てゝ仕様が無い。それで予は『絵物語』の前後の筆を置くやすぐ東京を出発した。今山陽線を降りて連絡船に乗組んだ処である。
 夏目先生にして生前聞かれたら苦笑せらるゝであらう。
 蒸気の笛は又一つ強く吹いて船は桟橋へ着いた。
『坊つちやん』が着いた筈の時の高浜は、赤ふんどしをしめた船頭の漕ぐはしけで客を往来さして、大森位な漁村で妙な筒つぽうを著た宿引きがこつちへ来いといつて、宿屋へ連れて行かれたら、やな女が声を揃へてお上がりなさいと云つた相だが、只今は相当な汽船が横付けにされる桟橋が二ヶ所、白堊の洋館は汽船発着所で倉庫なども列んでる。停車場を中心に左右海岸通りに展開して中位な粗末さの宿屋が軒を並べてる、上陸あがると成程お饒舌しやべりな男が扇をバチつかせて松山へは二十分置きに汽車が出るから、ゆつくり休んでつても大丈夫だ。向ふに見えるはごゞ島で中央に高いのがごゞ島の小富士、果物くだものが名物にて年に二十万円の産額があるなど五月蠅うるさくつき纏つて離れない。そのお饒舌のてがらでゝ連れられて行つてやつたら角から二軒目の宿屋へ案内した。二階の障子を明け離してごゞ島の翠色みどりが延ばす手に染みつきそうな海を眺めながら七十五銭の昼飯を食つた。表を『えびのひきたち(生きのよい)いんか』『青物おかいんか』と売物屋の呼声が通る。

二 ターナー島の実名は四十島

『坊つちやん』が赤シヤツと野だに誘はれて釣りに行つた事がある。停車場で待ち合せて浜へ行つたといふその浜を若しこの高浜とするなら赤シヤツの気障説きざぜつ阿諛あゆして野だが『あの島をターナー島と名づけようぢやありませんか』と発議したといふ島は向ふに見ゆる四十島と想像したい。高浜の海岸に今一つ樹木欝葱うつさうたるもつと大きい島がある。岩礁の裾に一つ穴が明いて居て赭土色の禿頭の上へ捻つた枝の松をかうがいのやうに挿してる。野だが『あの岩の上に、どうです、ラフアヱルのマドンナを置いちや』といつた岩を左手の凸起と想像するのも一興だ。予は『坊つちやん』の心持ちを味ふ為め宿へ頼んで同じやうな釣に出て見た。世界丸といふ名前丈け素晴らしい欄干附の遊船で船頭としては遊び半分の漁師の子が三人乗つた。四十島まで六七町もあらうか。其蔭でいとを垂れた。船側せんそくに青竹を縛り付け手釣りの上下あげさげに滑りよき便りとする。は綺麗な小海老の尻尾を去つて鈎なりに刺す。鬼のやうな顔のホゲ(東京でおこぜ)が釣れた。それからメリンスの着物を着せたやうなギド(東京でべら)青ギドだの姫ギドだのナマイタギドだのが釣れた。折角せつかく釣れ盛つて来たら三人の小船頭が綸をもつらかした責任のなすり合ひを始め、『お前がねや』『わしがねや』と語尾にねやねやとつけ乍ら喧嘩を始めた。そいつを仲裁して済すと今度は陸から子供の盥船の一隊が波を掻き分けて来て、『世界丸よーい、おわえてみんかい』『おわえてみい』『世界丸よーい、世界丸よーい』と盥の中へ用意して来た石を投げる。こつちの小船頭等も応戦するといふ騒ぎで釣はおぢやんだ。赤シヤツが露西亜の文学者みたやうだねと洒落て軽蔑し乍らしかも三人でしきりに釣つたゴルキといふ魚は坊つちやんの説明によると如何にもこのギドの事らしいが、いくら船頭に聞いて見てもゴルキなんて魚は無いときつぱり云つた。図中遠く向ふに見えるのがごゝ島。

三 松山まで

 高浜まで汽車は直ぐだ。汽車は『坊つちやん』がマツチの箱のやうと形容した通り、それに玩具のやうな汽鑵車がついてる。平凡で長閑のどかな松山郊外は丁度、苗植付け前で田を牛で耕して居た。田の中に緑の饅頭を置いたやうなのが松山の城山。上に天主閣が箱庭の陶器みたいに小さく光つてる。緑の饅頭を取巻いて森、甍、白壁、塔、煙突、などが混み合つてる。松山市だ。平凡の中に何処か丸みと軽快と明るさと瓢逸を含んでる、中をこのおもちやの汽車でゆられ乍ら行く時は成程俳人が多く出る処だなと思ふ。松山ステーシヨンを降りると停車場前、広場にハイカラな石膏細工の女神かなんかの噴水があるので驚いた。先頃此所で共進会があつた遺物ださうな。その夜は大阪朝日新聞松山支局の松下君その他一名と風の無い旗亭の二階から夕焼雲の美くしいのを眺め乍ら晩餐をつた。女がハイカラ束髪に結つて東京で『まあ仰しやいよ』といふ場合の時に『ようをいらい』と尻目で睨む。あんまりこんなものを見てると『坊つちやん』や山嵐に張り倒されるだらう、直ぐ出て道後だうごへ行つて泊つた。

四 山嵐のモデルに逢ふ

 翌日昼過ぎにのこ/\又松山へ出て来た。松下君がすつかり調べてれて山嵐のモデルに逢はせやうと云ふので悦んで行く。何処をどう曲つたか始めての土地ゆゑ判らぬが何でも土の壁で四方を密閉して出入の口や窓だけがきりぎりすの籠みたいな細い千本格子で空気の流通を計る旧弊なさびた同じ形の家の続く狭い横町だと思ふ。町名は湊町三丁目の裏といつた。標札に真面目な字で渡辺正利まさとしと書いてある。老婆が導いて十二畳のしつに通る。表の見かけより中の造りは広くて手が入つてる。嫌味の無い大書の軸が床の間に懸つてる。同じく嫌味の無い扁額が一つ。嫌味の無い机が中庭寄りの隅に一つ。上に袖珍本が一冊生帳面に置いてある。それきり。先づ清閑の二字を以て評し去るのが適当だ。セルの着物を着た先生が出て来られる。頭は五分刈の無髯、怜悧乍ら人の善さ相な眼の周囲に非常に皺がある。笑ふと巾着の締口みたいに皺が締る。笑ふと少し猿のやうに出る歯と歯茎とを唇で覆はうと努める処を見ると神経質的に用心深い処もある。話の応答の時に一々肩をそばだて首を深く傾げ『さァそれはさ様』と慎重に思ひ合せ、思ひ付けば笑ひの皺を深め『そう/\』と掌で膝を叩く所作なぞあり、敏感で骨つぽい。団扇を呼んで客に勧める所なぞは山嵐にしては如才なさ過ぎる。語る。『左様、あの中の山嵐といふのは私の事だ相です。ハヽヽヽ私は途中で一寸転任したきりあとはずーつと永く松山中学に勤めて居ります。左様数学の教師です。今の赤十字の病院のある所が元の中学校であつた[#「あつた」は底本では「あった」]処で坊つちやんに書いてある通りずーつと石畳なぞがありましたが五六年前に今の持田もちだ村に新築して移つたのです。左様どうもあの『坊つちやん』の中に書いてある事で思ひ当る事は、祝勝会で練兵場で喧嘩をしたといふ出来事などは、祝勝会ぢやないが兵隊を停車場へ送り迎へるかした時に中学と師範と揉めた実際の事がありました。夏目さんの来らるゝ前の事でしたらう。それを聞かれてまああゝ書かれたのでしよう、その他の事実といつて別に思ひ当りません。事実よりも人の話によると私の性格が如何にもあの山嵐のモデルだ相です。自分で読んで成程そうか知らんと思ふ節もありますが、仕舞ひがいかん。まあ僕が実際山嵐の境地に立つたらあの中に書いてある最後のやうな事はやらん積りぢやけれなあ、アハヽヽヽヽ』他に訊いても見たが先生は中学の現職に居らるゝ方ゆえ余り深き根問ひ葉問ひは迷惑だらうと察した。でいとまを告げる。

五 中学校の跡

 松下君はいが銀の家の跡へ導く、通りがゝりに旧中学校跡即ち今の赤十字社病院を見せて呉れた。既に学校の俤は無いが、茲に通はれた夏目先生も坊つちやんも、坊つちやんの蚊帳の中にバツタを運んだ腕白共も少くともこの後に聳ゆる城山の欝葱を日夕につせき、仰いだ事を今でも想像し得るを幸としてやゝ好事かうずの心を慰めた。写生してると蝉の声が身に浸み込んで汗の乾くあとに清風が額を払ふ。

六 いが銀の家跡

 城山の裾を庭に取り込んで栗田さんの構へがある。栗田さんは退いた海軍中佐だ。今会社の重役やら、ヱハガキの蒐集道楽やらをやつてる。明治二十五年松山中学を出て夏目先生にも教はつた経験を有ち、先生の仮寓せられた家も構内続きになつてる。それやこれや話しを聞きに寄つた。小兵巌丈の紳士、池に時候後れのあやめ咲く庭。古書画刀剣のたしなみが眼に付く座敷で、総てを軍人の淡白を以て面白そうに語る。『夏目先生の前だが、教頭が来ましてベースをおもに熱心に生徒に教へた事がある、その先生が赤シヤツを着て切りに運動しました。それを聞て夏目先生があの赤シヤツを書いたのでしよう。尤もその時分の校長の腹心でした。校長は何遍も変りました。その中のある校長は芸妓に子を孕ましたといふので生徒が排斥をやつた。その実それはある教員の不行跡で校長のではなかつたが校長の家へも妻君がおしやれで、米代もろくに払はぬといふ不祥な処があつた。そこからこの事も校長の行跡になつて仕舞つて大に排斥された。元の中学生は、洋服に下駄穿きで、寒中でも控所に火の気無しに、寒いと尻で手を挟んぢよる。もつと寒くなると塀へ大勢で身体をすりつけてよつしよ/\と押しくらを遣つてた。少しまつとうでない、ハイカラな教員が来るとすぐ排斥運動をいきよつた。西洋人の教員を雪玉で叩き出したり机を教室の口へ積んで入れなんだりしよつた。僕等もやつたが河東(碧梧桐氏)の家が漢学の家で字を知つとるもんぢやからよく河東が筆を取つてその弾劾文を知事の所へ持つて来よつたりした事がある。『坊つちやん』の中の生徒の気風も、まあ昔の松山中学生の乱暴な所を取つたと思へばよい。この城山の麓のすぐ続きに菅といふ家があつてその持つてる家を津田安つだやすといふ骨董やが仮りて貸席料理をやつたが流行はやらなんだ。広かつたものだから丁度そこへ赴任して来られた夏目先生が離れを借られて暫く居られた。下が確か八畳に八畳、二階が六畳に四畳半と思ふが、訪ねるとよく先生が二階から下りて来られたのを覚えとる。いが銀の骨董いぢめや何かはまあこゝ等から先生が思ひ付かれたのだらうと云ふ。先生の赴任中の事は左様別に目立つ事もなかつたが生徒はよく敬服して居た。はあ渡辺先生の所へ寄られたですか、はあ、山嵐の、そうですか。あの先生は柔しいやうで何処かにきつい処があると見え生徒が怖れて然もよくなついて居ました。』坐を立つて栗田さんが夏目先生の旧廬を見せに連れて行つて呉れた。黒い冠木門を入つてダリアなど咲いてゐる芝生の傍を通つて行くと石でゆるい段を作つた坂がある。右側に木枝を冠つた屋根のある風雅な井戸がある。先生も定めて毎朝嗽れた事であらう。突き当つて一軒それから左へ百坪程の空地だ。ダリアが処々にニヨキ/\生へてるほか少し洗濯ものが乾してあるけ、こゝに先生の旧仮宅があつたと云ふ。空地から直に城山の茂み――前の坂の処へ戻り栗田さんに立つてゝ貰ひ写生する。此処の町目は一番町。

七 夏目先生の旧廬

 先生が二度目に仮寓せられた家といふのを諸方詮索して二番町に得た。それだといふ家は仮名で『なかゐ』と標札打ち当地のおきや即ち東京の芸妓屋になつてる。既に大部分改築されたものださうだが、それにしても昔先生の居た位置の二階に鏡台が陳べられ、肌脱ぎになつた平べたい顔の芸妓が派手な鏡台掛けをはねるや鬢に毛すじ棒を突込み、ためつすがめつ直してゐる。坊つちやんがここのそばやへ入り翌日生徒に天ぷら先生と黒板に書かれたといふ着想を得られたらしき、更科といふ当地で相当のそばやも直ぐ近所にある。
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〈下〉


一 杉並木は石手川堤

 松下君の二階に休んで居ると愛媛新報の兵頭ひやうとう君といふのが来て案内乍ら道後の予の今夜の宿まで送らうといふ好意を提供された。その実ありもせぬ小説中の出来事を実地の上に実しやかに尋ねありく大だわけの漫画家といふ奴と同行して、明日の新聞の穴埋記事を作らうといふ魂胆は眼つきで知れた。けしからぬ。さり乍ら又一方名士扱ひにされて万更で無い気持ちもある予は一方迷惑のやうな一方感謝のやうな合の子な態度を示して頗る応揚に『それはどうもご苦労ですな。では兎も角も願ひましようか』と云つた。そして自分で嫌味を感じてぞく/\と悪感を催した。
 往来に打水して町の軒並に蚊柱の立つ松山の町はその基調には、たとへ、旧お城下といふ燻しがかゝつて居るとはいへど、決して酸性の刺戟を伴はぬ明るい四国の町の黄昏の一である事を否み能はぬ。明快を加へた洒脱の篩を漉して美しく暮れて行く。
 町を通り抜けると監獄の高い塀がある。片側は畑。行くと森の茂みに入る。夕暮の木下闇を溜り水の反射が銀針の如く貫いて眼を射る。湿ぽい深緑の葉の隧道トンネル。此処は既に石手いして川の堤の取り付きだ。三人は堤の上へ上る。三人の姿は僅に略筆にて沿へられた点景人物程に蔑視されて仕舞ふ程、雄大な欅の並木が続く。暗緑の威圧が浴衣の肩に重く当る。坊つちやんが山嵐と一しよに泊り込みから帰り行く赤シヤツ野だとを追ふて退治て仕舞つた杉並木といふのを推測すると、どうもこの石手川堤の欅並木より外に無い。文中には説明して『温泉の町を外れると一丁許りの杉並木があつて左右は田圃になる。それを通りこすとここかしこに藁葺があつて、畠の中を一筋に城下迄通る土手へ出る。』とあるが道後より松山へ行く土手は石手川堤が唯一にして無二だ。遺憾乍ら杉並木は無いが温泉の町より帰朝きぬ/″\の別れを告げて帰る赤シヤツ野だとを存分になぐる場所を求めて誰しもこの欅並木を見逃すものは無からう。若し此所と決めれば赤シヤツ野だも両人の腕白の手に小付かれてさぞこの欅の幹の石のやうな瘤に頭を打付けて痛がつた事ならんと痛快に思ふ。土手の両側にはところ/″\舌切雀の御宿のやうな藁葺と竹藪とがある。藁葺の庭では家族の者が竹細工を編んでる。
 それから間の空地では木賊とくさのやうにだんだらに染め分けた糸を張つてかみさんや子供が手で操つて居た。伊予がすりを作るのなそうな。今朝遅く起き朝昼兼帯の飯で済したむくひは土手で腹が減つた。紅の塗つた薄皮餅を買つて食ひ乍ら歩るいて行つた。兵頭君がにやりと笑つて手帳の鉛筆の尖を甞めた。

二 道後の温泉

 土手を下りると畠の展望の中を行く事になる。
 向ふに一帯の山や丘が重なつて居てその裾に小高くちよぼ/\大厦高楼の甍が見えるのが道後の温泉だ。遠見の水墨山水のやうな好風景の中に取つても付かぬ安価な洋館が二三並んで立つてる。共進会の第二会場跡だそうな。近づいて行くと剥げちよろけた洋館の白堊の壁に『この建物売もの』と書いてあつた。道後の狭い町の入口を閉いで電車の停車場が二軒並んでる。客を引かうと双方駅丁が懸命になつて鈴を振つてる。これは政友会側の電気鉄道会社と憲政会側の会社と競走してるのだそうな。道後の温泉の町は山の裾の傾斜に建てられ中央の何とかいふ神社のある台で邪魔をされ楕円形をなしてる。町の入口から左の方の通りに温泉の旅館が建つてる。檜皮葺で金で塗つた装飾が施してある。何様のお邸とも見れば見らるゝ宏大なものだ。霊の湯だの神の湯だの三つ許りある。それから病人の入る養生湯だの松の湯だのもある。宿屋の大そうもない作り方にも驚く。五階だの六階だのに廊下を架け渡して龍宮のやうだ。そして魔性の女の多い事、町中を色糸のをさのやうに人の心を時めかし織つて歩るいてる。神社のある台の右側の方は静かだ。納まつた貴族的な宿屋が二三軒並んでる。予はこの側の鮒屋旅館別荘といふへ泊つた。宿賃三円づゝは江戸つ子の坊つちやんに聞かせても贅沢だといふだらう。この鮒屋の本家でむかし西洋料理を始めた事がある。その時随一のお得意客は夏目先生だつたそうだ。そんなに美味くも無い西洋料理だが折角田舎へ初めたのを止めないやうにと奨励の為め努めて先生は食ひに来られたのだ相な。町の突き当りが遊廓になつてゝ近くに寺がある。これをき合せて『坊つちやん』の中には『山門のなかに遊廓があるなんて、前代未聞の現象だ』のやうに出来上つてる。坊つちやんが遊廓の入口に在る団子を食つた為め翌日生徒に教場の黒板へ『団子二皿七銭、遊廓の団子旨い旨い』と書かれたといふ団子は名物と説明してあるからは先生は此所の温泉の町の平凡な団子屋よりこの構想を得られたので無く、これは近所の石手寺いしてでらといふ名刹の門前に『おやき』といふ名物の焼餅を売つてる。これよりして、想ひ付かれたものとする方が団子の由緒も名誉であらう。
 宿屋で三人で飯を食つてると更に伊予日々の阿部君といふのと洋画家で学校の先生を勤てる桃甫たうほ君といふのが訪ねられた。これもこつちを名士扱ひにしてその実漫画家見物に来た連中ぢやないかね。予はもう応揚に『それはどうも苦労ですな』を言ふ勇気を欠いた。寝そべつて相手方がうや/\しく取上ぐるビールのコツプの泡が唇へ吸ひ込まれるのを人間が慰楽を摂取する器械はうまく出来てゐるなと眺めた。やがてお客達は銘々用意して来た合財袋を開けて手拭とシヤボンを取出した。合財袋の裏にはゴムが取り付けてあつて濡手拭を入れても大丈夫のやうに出来てる。温泉通ひに慣れた松山の人達だなと思はせる。お客達は温泉へ浴りに入つた留守、冷々する畳に腹を押付けて頼まれた絵を描いてると雨が降つて来た。いろ/\な蛾や羽虫が電球に打つかつて筆洗の中に落ちる。

三 桝屋と角屋

 ゆんべは、下の座敷で夜中迄、馬鹿騒ぎをやつてた為め閉口した。成金共の跋扈嘆ずるに余りありだ。自然、今朝寝坊して十時頃ぶらりと手拭をさげ湯に行く。神社のある台の崖の裡を廻つて浴館のある左側の町へ出る。ふと坊つちやんが山嵐と八日潜んで佞人共ねいじんどもの隠れ遊びを見届けたといふ宿屋を想ひ出した。探す。洋館より町を少し下へくだる細い町並の角に名前も『坊つちやん』の中にある通りな角屋といふのがあつた。これが赤シヤツと野だとがしけ込んだ家と同じ名前だ。道後に於ける二流か三流どこの料理屋兼帯の宿屋だ。覗くと台所に小さな錨がつるしてあり鰆と章魚とが向き合つて顎を引つかけられて居た。
『坊つちやん』の文中に説明して『角屋の丸ぼやの瓦斯灯の下を睨めつきりである』の丸ぼやは角ぼやになつてる。その向側に即ち腕白両人が忍んで障子の隙から睨めて居た、文中、桝屋に当る宿屋は前にポストを控へ店の片側を郵便局にして居た。この辺の町並は宿屋で無ければ温泉みやげの伊予絣湯染手拭、砥部とべ焼、竹細工、猿の腰掛細工、湯の花、湯桁飴などを売る店だ。どの店にも店先に長方形の箱に山盛り赤砂糖のやうなものが積んであるので眼を寄せて見ると、あに、はからん哉、艾だ、艾もこう沢山あると食うものゝやうで美味さうだ。

四 游ぐべからず

 博覧会の札売場みたいな処の窓口で湯札を買ふ。普通が七銭で上等二十六銭まである。温泉に変りは無からうに差別をつけるとはどういふ訳だと先づ好奇心を起す。初め普通のを買つて見る。例の何様の御殿とも見られる建物の格子を明けて入ると矢つ張り湯屋だ。
 大衝立の蔭で湯札を受取る婆アが居り、右側に着物を抛り込む棚が湯屋らしく並んでる。板の間から石段二三階下りると石畳の処がある。それから仕切りの構への門をくぐると又石段で浴槽へ下りる事になつてる。濡れて薄むらさきになつた石のきざはしにひた/\とよする温泉の波は和やかに旅人の心を揺りうごかし旅興を親しくなつかしきものにする。予は悦んだ。そして浮世の事はかなぐり捨て先づ兎も角も湯に入りやいゝんだといふ心持になつて、
『や、きたさ、こらさ、き た こ ら さ』
 と安来節のかけ声で尻を叩き乍ら湯槽へ駆け下りやうとしたら湯番の爺に棕櫚箒しうろぼうきこじりで支へられた。
『流し湯をつかつてから入りんかい』
 と。成程。
 石畳の上の壁に掲示板があつて、掟として流し湯を遣つてから入るのも一条になつてるが『游ぐべからず』も一条になつてる。坊つちやんの文中『所がある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかとざくろ口を覗いて見ると大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまり有るまいから、此貼札はおれの為に特別に新調したのかも知れない』云々とあるを事実として信ずればこの掟の一条は『坊つちやん』の湯の飛沫を防ぐのにその濫觴を発して今日まで遺存された規則に相違ない。予は湯気でにじんで太つて仕舞つた泳ぐべからずの条のいやに勿体振つた文字を眺めてしばらく坊つちやんを追想した。
 湯壺は坊つちやんの入つた当時と同じやうに十五畳程に花崗石四角に仕切つてある。一隅に二た抱へ位な花崗石の柱が立つてゝ下の口から湯が流れ出る仕掛けだ。柱には大己貴命おほあなむちのみこと少彦名命すくなひこなのみことたなごゝろへ載せてる像が浮彫になつて居り、それを巻いて温泉を讃美した古代の歌が万葉仮名で彫つてある。往昔そのむかし大己貴命と少彦名命とが此所で久し振りに逢はれたげな。
 二人の命はいろ/\話し合つた。政治上の成績を比較し合ふ段になると前者の威服主義は到底後者の徳化主義に及ばなかつた。大己貴命は非常に昂奮して卒倒された。少彦名命が傍にあつた温泉につけて介抱したので大己貴命は蘇生された。これが道後温泉の起源になる話だ。現に神の湯の前に柵を結ひ廻らした『玉の石』といふ団子のやうな石は命が蘇生して元気よく踏まれた石である相な。
 新湯あらゆが流れ出る柱の湯口へかゝるには順番の規則があつてみな四方の浴槽の羽目に背中をへばりつけ一列に並んで順番の来るのを待つた。天下泰平を象徴さすにはこの図を写したらよからう。湯口へかゝつた奴はすは千載の一遇と許り頭に浴びたり尻にかけて腰骨を温めたり人目も憚らずあらゆる利用策を講ずる。隣の奴は恨めしそうに早く番を開けて呉れゝばいゝにと心に念じ乍ら口を開けて待つてる。

五 上等の湯

 浴館を出て又札売場へ来て今度は上等の切符を買つた。取つて返して又浴館の格子を開けて入る。番人の婆アが変な顔をした。入浴の研究も中々きまりが悪い。上等の切符を出すと今度は小女こをんなが丁寧に階子段へ案内した。二階かと思へばまだ階子段がある。結局三階だ。立派な床の間が付いてゝ花など活けてある坐敷を一つ独占さして呉れる。貸浴衣を持つて来て呉れて着物受けを持つて来て脱いだ着物を畳んで呉れる。いとも鄭重だ。この分なら浴槽も三階まで担ぎ上げて来て呉れるのだらうと思つてるとそうはゆかぬ。矢つ張り下まで降りて行くのだ。上等の方の湯槽は別になつてるが構へも湯も別に変りはなかつた。湯から上つて独占の座敷へ寝そべり田畑の鳥瞰図を[#「鳥瞰図を」は底本では「島瞰図を」]越し遥に松山の城山の天主閣に午に近い陽のきらめくのをうつとり眺めて居ると、紫の袴を穿いた小女が恭しく天目台に茶碗を載せて持つて来た。それから鶴の形のしたお菓子を呉れた。湯で菓子を貰ふなぞは東つ子に取つてそれこそ前代未聞だ。坊つちやんの時代には湯銭はやすかつた。流しをつけて『八銭で済む』と書いてある。湯銭は廉かつた。然し矢つ張りこんな成金式の待遇を受けた事は次の如く記されてある。
『温泉は三階の新築で上等は浴衣をかして、――其上女が天目へ茶を載せて出す』云々。
 そしたら四十円の月給で毎日上等へ這入るのは贅沢だと生徒が蔭口利いた事は『坊つちやん』の読者の熟知せらるゝ事であらう。温泉にほてつた顔で表へ出ると町通りの青い柳が温泉の町の柳らしく涼しく媚びて靡く。

六 瀬戸内海の汽船

 これであらまし済んだ訳だ。政友会の方の電車へ乗つて高浜へ出た。戻りは瀬戸内海を汽船で帰る事にした。坊つちやんも天誅を加へてから浜の港屋へ下り夜六時出帆の汽船で神戸へ帰つた。坊つちやんが高浜を離れた時の感想は『不浄な地を離れて、船が岸を去れば去る程いゝ心持がした』と告白して居る。予の船が出帆した時の心持ちは本当に『坊つちやん』の遺蹟に袂別するやうな気がして甲板の上で悄気しよげてた。切りに自分で苦笑して見るが気持ちは矢つ張り消せなんだ。
 瀬戸内海の夕凪は有名なものだ。此所の船の帆は風を孕むのではなうて乾してある丈けの役のものゝやうに思はれる。汽船は鏡のやうな上を滑つて行く。行く手に一帯の陸地と思はれるものも近づくとそれが島の重畳ちようでふだ。いつでも船の行く丈けの水路が通じて居る。
 来島くるしま海峡が難所と共に頗る美景な所だ。潮の落差が滝津瀬のやうな流れに逆行して船は進んで行く。砲台のある松で覆はれた島には寺の塔や神社の赤い鳥居などが可愛らしく隠見してる。船室内には一名々々に布団ふとんが敷いてその上で商人態の男が酒盛をしてる。船で夕めしの膳を出す。眼を剥いたおこぜが皿に乗つてた。船長が戸口の処まで来て『皆さんお粗末なんで』と一寸帽子をつて挨拶する。脱つた後の頭のてつぺんが禿げて居た。一寝入りして眼を覚すと夜も更けた。岸の灯が近づくと其処は讃州さんしう多度津たどつだ。波止場へ着くと船室の丸窓から売子が鬚面を差入れて呼声『どなたも名物飴のご用はござんせんかい』『保命酒の小つさいものもありまつせ』『サー蒲鉾の出来たちも厶りまつせ』予は眼をつぶつて味つた。瀬戸内海の海の旅を。

〈註 本篇収録に当って、ご遺族のご了解のもとに挿画を省略しました〉





底本:「日本随筆紀行第二一巻 四国 のどかなり段々畑の石地蔵」作品社
   1989(平成元)年2月10日第1刷発行
底本の親本:「一平全集 第七卷」先進社
   1929(昭和4)年11月7日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※誤植を疑った箇所を、底本の親本の表記にそって、あらためました。
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2024年1月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




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