美人彫刻家として有名なのはまづ佛蘭西の、ゼロームを推さねばなるまいが、其彫刻は矢張り端麗とか、優美とかに重きを置いたクラシカルのもので、美人を其まゝ美人として現はしたものは希臘の昔に溯らねばならぬ。希臘には雄壯なることアポロのやうなものもあるが、又ミローや、メディスのヴィナス、デアナの
さて斯かる美人を彫刻せんには、藝術家は何ういふ態度に出づべきものであらうか。豫め自分の心の中に、こんな美人を拵へて見やうと考へて、それに類似したモデルを探してかかるのであらうか。此れが考を要するところである。成程其中には隨分こんな考で以て、やつてる人はないでもない。何うも
かくいふと全く一種の自然主義となつて、全然主觀なるものを沒却して了ふやうなことゝなるが、實はさうではない。藝術は又一面に於て、何うしても人格の顯はれを隱す譯には行かない。自然界は此人格を通じて表はれて來る。ミレーのものは貴族でも其間に質朴なる百姓の面影を宿し、バンダイクが描くと、百姓でも貴族の風格が備はる。私が米國に留學中に極く纎弱な優美な、恰かもシャンペン酒の看板にでもなりさうな美人の繪を手本にして畫を描いたことがあるが、ブリッヂマンといふ教師はそれを見て、之れならば全然洗濯女である。お前は
で、美人の彫刻と稱せられるものは頗る多い。然しそれは直ちに彼の所謂美人ではない。埃及のルーブルに於ける木彫の「若き女」の如き、最近の佛蘭西のメヨルのものゝ如き、何れも美人として名高いものではあるが、然し見たところで決して其顏は所謂輪廓的の美人ではない。彼の有名な美人彫刻家ロダンなどに至つては殊にさうである。其中年に彫つた「淑女の肖像」といふの丈けは、端麗で閑寂であつて幾分例外の氣味があるが、其他は、最も有名な、「海邊の乙女」でも、「春の
然し若し、所謂輪廓上の釣合が好い美人のモデルとしては、日本人と西洋人の何方が適當して居るかと問ふものがあつたら、それは何うしても西洋人を推さなければなるまい。勿論、耳目鼻口宜しきを得、骨格に於ても一點非難するところがないからとて、直ちに美人として受け取れぬものもある。又それと反して何んだか不釣合で、一ツ/\としては一向完全ではないが、然し總體に於ては、何んとなしに美しく見えるものもあるから、一概に西洋人の釣合が好い所以を以て、モデルとして適當だとはいへぬが、概していへば、日本人よりは恰好の好いことは爭はれない。之れは日本人は婦女子となれば、これまで成るべくは外に出でないで、内に居つても、始終膝を折つて足を多く使はないやうに仕向けられたものだから、脚の方は發達して居らんが、割合に胴の方が長い。それで何うも立つたところを見ても無恰好で、工合が惡るい。顏の輪廓なども、西洋人の方は、多年の經驗が旨く表情的になつて、曲線も端麗に出來てるが、日本人は之れと反對に、昔から成るべくは喜怒哀樂を外に出さないといふやうな、女大學流の教育を受けて來たものだから、自然に表情も鈍ぶくて、一般に顏がのつぺりとして締りがない。いくら贔屓目でも、恰好とか容貌とかいふ意味に於ては、あまり好いモデルはないであらう。