金子ふみ
栗原兄
一、記録外の場面においては、かなり技巧が用いてある。前後との関係などで。しかし、記録の方は皆事実に立っている。そして事実である処に生命を求めたい。だから、どこまでも『事実の記録』として見、扱って欲しい。
一、文体については、あくまでも単純に、率直に、そして、しゃちこ張らせぬようなるべく砕いて欲しい。
一、ある特殊な場合を除く外は、余り美しい詩的な文句を用いたり、あくどい技巧を弄したり廻り遠い形容詞を冠せたりすることを、出来るだけ避けて欲しい。
一、文体の方に重きを置いて、文法などには余りこだわらぬようにして欲しい。
[#改丁]大正十二年九月一日、午前十一時五十八分。突如、帝都東京を載せた関東地方が大地の底から激動し始めた。家々はめりめりと
ひっきりなしに余震が、激震が、やって来る。大火山の噴煙のような入道雲がもくもくと大空目がけて渦を
激動、不安、そして遂にあの馬鹿気きった
それから間もなくであった。私達があの、帝都の警備に任じているものの命令によって警察に連行されたのは。
何のためであったか。私にはそれを語る自由がない。私はただ、それからしばらくして、東京地方裁判所の予審廷に
看守に導かれて予審廷のドアをくぐると、そこにはもう、一人の法官が書記を従えて私を待っていた。私の姿を見ると、
やがて私は被告席につかされた。判事はなおしばらくの間、私を腹の底まで観察しなければ
「君が金子ふみ子かね」
そうだと私が答えると、彼は案外やさしい態度で、
「僕が君の
「そうですか。どうかお手柔らかに」と私も微笑をもってこれに答えた。
型のような予審訊問が始まったのはそれからであった。が、その型のような訊問の間にも判事は、これから取調べ上重要な契機を握ったようであった。で、私は今その時の会話をここにそのままに記しておくこととする。それはこの後につづく私の手記についての理解を最初から手ッ取り早くわかってもらえると思うからである。
判事は始める。
「まず、君の原籍は?」
「山梨県東山梨郡
「汽車で行くとどこで降りるんだね」
「
「うむ、塩山?」と判事はちょっと首を
私にはその大藤村がわからなかった。
「さあ、そう言われると少し困りますね。実はそこは、つまり諏訪村はですね、私の原籍地とは言い
「ふむ。君はその原籍地で生れなかったんだね」
「そうです。私の生れた処は父や母の話によると横浜だそうです」
「なるほど。で、君の両親は何という名前で、どこにいるんだね」
既に大体のことを警察の調書によって知っていた判事は、わざとこれを
「少しこんがらかっているんですが、戸籍面では父金子
判事は驚いたような顔をして見せた。そして私の本当の父と母とのことを訊ねた。
私は答えた。
「そうですね。父は
「ちょっと待った」判事は私を
「そうです」暗い心で私は答えた。「父と母とはずっと昔別れました。けれども、母の妹、つまり私の叔母が父の後妻になって現に父と一緒に暮しているんです」
「ふむ、なるほど、そこに何かわけがあったんだね。で、君のお父さんとお母さんとの別れたのはいつ頃のことだね」
「もうかれこれ十三、四年も昔でしょう。父と別れたのは私がたしか七つぐらいの時のことです」
「そして? その時君はどうなったんだね」
「父と別れて母に引きとられました」
「ふむ、それでそれからはずっと母の
「ところがそうじゃないんです。私は父とわかれてから程なく母ともわかれたんです。そしてそれからはほとんど父や母のお世話にはなっていないんです」
こう答えた時私は、私の今までの全経歴、全経験を、私の胸の中にぱっと
しかし前にも言ったようにそれはここに書き記すわけにはいかない。また、そんな必要もない。
ただしかしその後判事は、私に、私の過去の経歴について何か書いて見せろと命じた。何でも法律には、被告の不利なことばかりでなく有利なことをもよく
この手記が裁判に何らかの参考になったかどうだかを私は知らない。しかし裁判も済んだ今日判事にはもう用のないものでなければならぬ。そこで私は、判事に頼んでこの手記を
私として何よりも多く、世の親たちにこれを読んでもらいたい。いや、親たちばかりではない、社会をよくしようとしておられる教育家にも、政治家にも、社会思想家にも、すべての人に読んでもらいたいと思うのである。
[#改ページ]
私の記憶は私の四歳頃のことまで
父が何をしていたのか、無論私は知らなかった。後できいたところによると、父はその頃、寿警察所の刑事かなんかを勤めていたようである。
私の思い出からは、この頃のほんの少しの間だけが私の天国であったように思う。なぜなら、私は父に非常に可愛がられたことを覚えているから……。
私はいつも父につれられて風呂に行った。毎夕私は、父の
私に物を食べさせる時も、父は決して
今から考えてみて、無論私の家庭は裕福であったとは思われない。しかし人生に対する私の最初の印象は、決して不快なものではなかった。思うにその頃の私の家庭も、かなり貧しい、欠乏がちの生活をしていたのであろう。ただ、何とかいう
私の楽しい思い出はしかしこれだけで幕を閉じる。私はやがて、父が若い女を家へつれ込んだことに気づいた。そしてその女と母とがしょっちゅういさかいをしたり
幼い私にとっては、それはかなり悲しいことであった。
私は母につれられて父をある家へ――今から考えて見るとそれは
「まあ、こんなものたくさん。それだのに子供に
父は無論、警察をやめていたのだ。ではこの頃彼は何をしていたのだろう。今に私はそれを知らない。ただ私は、いろんな荒くれた男がたくさん集まって来て一緒に酒を呑んだり「はな」を引いたりしていたことや、母がいつも、そうした生活についてぶつぶつ
恐らくこういう生活がたたったのであろう。父はやがて病気になった。そこで何でも母の実家からの援助で入院したとかで、母はその
父が快復すると、私はまた父の家に引きとられた。その時は私達は海岸に住んでいた。それは父の病後の保養もあり、弱い私の健康のためでもあったのである。
そこは横浜の
私達の健康が快復すると、私達はまた引越した。それは横浜の街はずれの、四方を田に囲まれた、十四、五軒一
私が六つの年の秋頃だった――その間私は、私達の家が
叔母はその頃二十二、三であったろう。顔立ちの整った、ちょっと
父はその頃、程近い海岸の倉庫に雇われて人夫の
ところが不思議なことに、母が出かけるとすぐ、父は必ず、自分の寝そべっている玄関脇の三畳の間へ叔母を呼び込むのであった。別にたいして話をしているようでもないのに、叔母はなかなかその部屋からは出て来ないのが
だが、私は別にそれほど驚かなかった。なぜなら、こうした光景を見たのは今が初めてではなかったからである。私のもっと小さい時分から、父や母はだらしない場面を幾度か私に見せた。二人は随分不注意だったのだ。そのためかどうか、私はかなり早熟で、四つぐらいの年から性への興味を
母は火の消えたような女で、ひどく
「この子はひどい子だよ。わしの甘いことを知って、あんたが出かけるとすぐ、お小遣をせびって飛び出すんだからね」
そのうちに年も暮になった。
何とはなしにしめっぽいじめじめした夜だった。いつもに似ず、父も叔母も暗い顔をしていた。そのうち父はうつぶせにしていた顔をあげてしんみりとした調子で言った。
「どうしてわしの家はこうも運がわるいだろう。わしにはまだ運が向いて来ないんだね、来年はどうかなってくれればいいが……」
人には運というものがある。それが向いて来ないうちはどうにもならないものだ。これが迷信家の私の父の哲学であった。父がしょっちゅうそんなことを言っているのを私は小さい時から知っている。
二人は何かしきりに話し合っていたが、そのうち叔母は立ち上って押入れから
「これにしましょうか」叔母はそのうちの一つの櫛を取って見まわしながら言った。「でも少し
父は答えた。
「どうせ捨てるんだ。どんなものを捨ててはならんということはない。櫛でさえあれば……」
叔母はそこで歯の折れた櫛を髪に
「そんなにしっかり挿す必要はない。そっと前髪の上に載っけておけばいいんだ」と父は言った。「うちの玄関口から出て前の
言わるるままに叔母はその折れた櫛を挿して出かけて行った。そしてものの五分と経たないうちに櫛を振り落して叔母が帰って来た。
「それでよし、悪運が
父がこう言って喜んでいるところへ、母が戻って来た。
母が泣いている弟を背からおろして乳を呑ませている間に、叔母は買い物の風呂敷包みを解いた。何でも、
これが私達の楽しいお正月を迎えるための準備だったのである。
翌年のお正月に母の実家から叔父が遊びに来た。叔父が帰ると、すぐにまた祖母がやって来て叔母に一緒に帰れと言った。けれど、叔母は帰らずに祖母だけが帰って行った。
何でもそれは、後で人にきくところによると、正月に遊びに来た叔父は父と叔母とのことを知って、家に帰って話すと、祖母が心配して、お嫁にやるのだからとの理由でつれに来たのだそうである。
だが、父は無論それを承知するはずがなく、かえって、叔母の病気がまだよくなっていないのに、今お嫁になどやると生命にもかかわるとおどかしたそうである。
「何、それはいいんだよ。先方は金持ちなので、貰ったらすぐ医者にかけるという約束になっているんだから」
祖母はこう答えたけれど、父は今度は、いつもの運命論をかつぎ出して、自分が不運続きのため叔母の着物を皆質に入れた、だからこのまま
哀れな祖母よ、祖母は無論父のこの言葉を信じなかったに相違ない。けれど、祖母は無智な田舎の百姓女である。この
祖母は空しく帰って行った。父は
叔母とても決して晴やかな気持ちでいたわけではなかろう。叔母が時々、二
二度目に叔母がつれ戻されたとき、私達はまた引越した。それは横浜の
父は相変らず何もしていないようであったが、そのうちどうして金をつくって来たのかその坂を降りたとっつきの住吉町の通りに今一軒商店向きの家を借りた。父はその家で氷屋を始めたのだった。
氷屋の仕事は叔母の役目だった。母と子供達は山の家に残り、父は昼間だけそこに行って帳面をつけたり商売の監督をするのだと言っていた。が、それはただ初めの間だけのことで、ほどなく
私はその時もう七つになっていた。そして七つも一月生れなのでちょうど学齢に達していた。けれど
無籍者! このことについては私はまだ何も言わなかった。だが、ここで私は一通りそれを説明しておかなければならない。
なぜ私は無籍者であったのか。表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入ってなかったからである。が、なぜ母の籍がそのままになっていたのか。それについてずっと後に私が叔母からきいたことが一番本当の理由であったように思う。叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯つれ添う気はなく、いい相手が見つかり次第母を捨てるつもりで、そのためわざと籍を入れなかったのだとのことである。ことによるとこれは、父が叔母の歓心を得るための
母は父とつれ添うて八年もすぎた今日まで、入籍させられないでも黙っていた。けれど黙っていられないのは私だった。なぜだったか、それは私が学校にあがれなかったことからであった。
私は小さい時から学問が好きであった。で、学校に行きたいと
「ばかな、私生児なんかの届けが出せるものかい。私生児なんかじゃ一生頭が上らん」
父はこう言った。それでいて父は、私を自分の籍に入れて学校に通わせようと努めるでもなかった。学校に通わせないのはまだいい。では自分で
私は学齢に達した。けれど学校に行けない。
後に私はこういう意味のことを読んだ。そして、ああ、その時私はどんな感じをしたことであろう。
明治の
明治の初年、教育令が発布されてから、いかなる草深い田舎にも小学校は建てられ、人の子はすべて、精神的にまた肉体的に教育に堪え得ないような欠陥のない限り、男女を問わず満七歳の四月から、国家が強制的に義務教育を受けさせた。そして人民は
だが無籍者の私はただその恩恵を文字の上で見せられただけだ。私は草深い田舎に生れなかった。帝都に近い横浜に住んでいた。私は人の子で、精神的にも肉体的にも別に欠陥はなかった。だのに私は学校に行くことができない。
小学校は出来た。中学校も女学校も専門学校も大学も学習院も出来た。ブルジョアのお嬢さんや坊ちゃんが洋服を着、靴を履いてその上自動車に乗ってさえその門を
私の家から半町ばかり上に私の遊び友達が二人いた。二人とも私と同い年の女の子で、二人は学校へあがった。
ああ、地上に学校というものさえなかったら、私はあんなにも泣かなくって済んだだろう。だが、そうすると、あの子供達の上にああした悦びは見られなかったろう。
無論、その頃の私はまだ、あらゆる人の悦びは、他人の悲しみによってのみ支えられているということを知らなかったのだった。
私は二人の友達と一緒に学校に行きたかった。けれど行くことができなかった。私は本を読んでみたかった。字を書いてみたかった。けれど、父も母も一字だって私に教えてはくれなかった。父には誠意がなく、母には眼に一
その年の夏も恐らく半ば頃だったろう。父はある日、偶然、叔母の店から程遠くない同じ住吉町に一つの私立学校を見つけてきた。それは入籍する面倒のない、無籍のまま通学のできる学校だったのだ。私はそこに通うことになった。
学校といえば
おッ
この結構な学校へ私は、風呂敷包みを背中に斜めに縛りつけてもらって、山の上の家から叔母の店の前の往来を歩いて通った。多分私と同じような境遇に置かれた子供たちであろう。十人余りのものが狭い路地のどぶ板を踏んで通って来るのであった。
父は私をその私立学校に、貧民窟の裏長屋に通わせるようになってから、私に
「ねえッ、いい子だからお前は、あすこのお師匠さんのところへ行ってることをうちに来る
叔母の店は非常に
それでも叔母の家はまだよかった。困っていたのは私達母と子であった。ある日のことである。私達は何も食べるものがなかった。夕方になっても御飯粒一つなかった。そこで母は、私と弟とをつれて父を訪ねて行った。父はお友達の家にいた。が、母がどんなに父に会いたいと言っても父は出て来なかった。
恐らく母はもう
母は
「ふん、大方こんなことだろうと思ってた! うちにゃ米粒一つだってないのに、私だってこの子供たちだって夕ご飯も食べられないって始末だのに、よくもこんなにのびのびと酒を呑んだり花を引いたりしていられたもんだね……」
父も腹立たしそうに
人々のおかげで母は撲られなかった。その代り、米粒一つも
悲しい思いを胸におさめながら私達は黙々と坂道を上っていた。
「おいちょっと待て」
父の声である。私達は父が米代をもって来てくれたのだと思って急に明るい心になった。ところが実際はそうではなかった。何と残酷な、鬼見たような男で父はあったろう。
立ち止まって救いを待っている私達に近寄ると、父は大きな声で怒鳴りたてた。
「きくの、よくもお前は人前で俺に恥をかかせたな。縁起でもない、おかげで俺はすっかり負けてしまった、覚えてろ!」
父はもう片足の
弟は驚いて母の背中で泣きわめいた。私はおろおろしながら二人の周囲を
「やっぱりそうだったのか……」とその家の主人は、食べかけていた夕飯の
私立学校へ通い始めて間もなく盆が来た。おっ師匠さんは子供に、白砂糖を
二人が争うとき私はいつも母に同情した。父に反感を持ちさえもした。そのために私は母と一緒に撲られもした。ある時などは、雨のどしゃぶる真夜中を、私は母と二人で、家の外に締め出されたりなどした。
父と叔母とは相変らず
父はしかし、叔母を帰すについては、叔母をまさか裸では帰されないと言った。そして、店を畳んだ金で、その頃十七、八円もする
もう秋だった。父は叔母のために、旅に立つ荷造りをし、私の家にあった一番上等の
母は弟をおぶって私と一緒に叔母を見送った。
「お嫁入り前のあんたを裸にして帰すなんてほんとにすまない。だけど、これも運がわるいんだとあきらめて……」
母は
私達は途中まで送って帰って来た。
ああ何という
「ああ、くやしい。二人は私達を捨てて駈け落ちしてしまったんだ」
と母は歯を
胸に燃ゆる
[#改ページ]
父に捨てられた私達はただ途方にくれた。初めのうちはまだ、売り食いをするだけのものがいくらか残っていたけれど、それもすぐになくなってしまった。父からはもとより
だが、私達は生きなければならない。で、母がその後、中村という
「その人はいい日給取りなんだよ。何でも一日一円五十銭だってことだから……そうすりゃ、今までよりはずっと楽にもなるし、お前を学校にやることもできるからね」と母が私に、何も知らぬ
中村は小さな
中村はその頃四十八、九歳だったろう。
私は中村の言葉には何かにつけて口答えをした。そして中村もまた、何かにつけて私を
母はもちろんそれを知っていたようである。だけどどうすることもできなかった。そしてただ、私達をこうした境遇におとした父と叔母とを
中村と一緒に生活していた間に私の最も悲しかったことはしかし、中村に苛められ
ある日私は、母と中村との話を、それとなくちらと耳にした。
「それじゃなるべく早くつれて行ってやる方がいいね、どうせ
こう中村が言う。
「あんな男にやるなあ心配でならないけれど、といってどうすることもできないし」
こう母が言った。
私にはそれが何のことだかよくわかった。私は不安になった。
「ねえかあちゃん、
母は私に、母と父とが別れるのについて、子供を一人ずつ、私を母が、弟を父が、育てることに約束しているのだということを説明した。だが、私は悲しかった。今のところ私の本当のお友達が弟一人であるようにも思っていたし、第一、私は私の愛するものをもっていたかった。私は熱心に母に願った。
「ねえ母ちゃん。私明日からお友達と遊ぶのをよして、朝起きてから晩寝るまできっと賢ちゃんを見るから、ちょっとも泣かせないように一生懸命お
けれど母は私の願いをきき入れようとはしなかった。
「そんなわけには行かないんだよ、ふみや。あの子がいるとわしもお前も年中苦労しなきゃならないんだよ。それにちょうどお前のお父さんからあの子を
私が何と言って頼んでみても母は
「ねえ母ちゃん。賢ちゃんがどうしてもお父さんのとこへ行かなきゃならないんなら、私も一緒につれてってくれない? 賢ちゃんがいなくなって私独りぼっち小父さんのところにいるのが怖いんだから……」
だが、大人には大人の理由があって、子供のそうした感情なんかてんでわからないかのように母は冷酷に私の願いを
それから間もなく弟は母の背に負ぶわれて父の所へ連れて行かれた。父達はその頃、汽車に乗らなければ行けぬ静岡に住んでいた。
弟がいなくなって程なく、私たちはまた引越した。引越したと言ってもそれは他人の家に間借りしたのに相違なかった。線路脇の焼いた
中にも窓下の畳は一番大きな穴を見せていたが、母はその上に
中村は相変らず工場に通っていた。母は少し離れた
無論私は嬉しかった。弟と別れた悲しみも学校に行くことによって忘れられた。第一その学校は、この前のような
だがそれがまた私を苦しませた。
通い始めていくらも経たぬ間に、
母は私を、もっと費用のかからぬ学校に転校させたかった。けれど住居地の関係上それは不可能だった。
ある日、父がふと私達を訪ねて来た。
父はその頃、何か商売でもしていたらしく、何か大きな風呂敷包みを背負っていた。が、その顔は子供の眼にも驚かれるほどやつれていた。
あれほど反感をもっていた父である。けれどやっぱり私は何となく嬉しかった。父が、持って来た荷物を部屋の
その夜、父は私を
縁日の屋台店で私はゴムまりを見つけた。どれでも好きなのを取れと父は言った。私は
「まだ何か欲しいかい」と父は
私は黙ってかぶりを振った。
「かわいそうに……」と父は急いでそこを離れてから声をうるませて言った。「お前はまだいろんなものが欲しいだろう。お父さんも買ってやりたいが……お父さんは今非常に貧乏をしているんだ……どうか
胸から何かこみ上げて来るのを私は感じた。けれど、やっと私はそれをおさえつけた。子供心にも大勢の人の前で泣くのが恥かしかったのだ。
私達はなおしばらく夜店の街を歩いてから帰った。明るい町を通りすぎて暗い寂しい路地に
「ねえふみ子や、父さんが悪かったんだ。
父は明らかに泣いていた。声をうるませて、涙をすすっていた。私も泣いた。
私はしかし子供のようではなかった。義理人情をわきまえた大人のように私は言った。
「そんなことどうでもいいの。どんなに貧乏してもいいの。ただ、お父さんの家へ連れてって……賢ちゃんとこへ連れてって……」
「わかってる、わかってる」父は一層しゃくり上げて言った。「出来るなら父さんは連れて行ってやりたい。いくら困るからって、お前一人ぐらいは飢え死にはさせぬ。けれど、今お前を連れて行ってはお母さんが
父は歩くのをやめていた。
だが、父はいつまでもそうしてはいなかった。やがてはっきりとした
その夜おそく父は再び荷を負うて、とぼとぼと帰って行った。
それからというもの、私は夕方にさえなれば路地を
私達はまた引越した。
引越すと、母は何よりもさきに私を小学校に通わせるために学校の校長に泣きついた。そしてやっとその願いが
その学校は前の学校から見るとずっと
朝、授業が始まると、教師は子供らの名前をいちいち呼んで出席簿をつける。けれど同じように出席していながら私の名だけは呼ばれない。私の隣の子まで来て私がはねられる。今考えると何でもないことだが、でも子供にとってはかなり肩身の狭い
入学した翌月――多分――のことだった。
ある朝、私は月謝の紙袋を先生に渡した。すると程なく私は職員室へ呼び出された。何のためだか私にはわからない。私は平気な顔をして職員室に
受持ち教員は私に、私の渡した紙袋を見せて、こう言った。
「これは袋ばかりじゃないか。中に何も這入っていない。どうしたんだね」
無論、どうしたもこうしたもない。私はただ母が月謝を入れてくれたのをもって来たばかりだ。
「どうもしません」
こう答えるよりほかはなかった。
「どうもしないのに中のお金がなくなっているはずはない。途中で何か買ったんだろう」
「いいえ」
「それでは途中で落したんではないか」
「いいえ、
校長も恐い眼をして私を責めた。買い食いでもしたろうと私を
校長と受持ち教員の眼はますます光った。彼らは私が何か買ったのに違いないときめているらしく、そんなことをする不心得を
「それはあの娘がしたのではありますまい。大丈夫そんなことはしません」
こう言って母は、私のために弁解してくれた。母は言った。
「月謝は昨晩、私が入れて、落すといけないから鞄の中に入れておいたのです。それを
そうして母はなお、そうしたいろいろの実例を話してくれた。実際私もそれを知っている。雑記帳の中に入れておいた鉛筆が、学校に行ってあけてみるとない。私は泣きながら家に帰った。そうしたことは二度や三度ではなかった。
母の話が校長の心を動かしたに相違なかった。私はその時校長が私の母に話したことを
「こんなしっかりした娘をそんな境遇に置いとくのは
今から考えて見て、それは校長が本当に私に同情したためであったか、それとも校長に子がなかったのでちょうどいいと考えたためであったか、それはわからない。けれど、とにかく私には、いやな疑いから解き放たれて、かえって私のために考えてくれるようになったのが嬉しかった。
「ありがとうございます」と母は校長に感謝した。けれど、母は無論私を手放すことはできなかった。母はつづけた。「けれどこの娘は私のたった一人の子で、私もこの子ばかりが楽しみなんですから、どんな苦労をしても自分の手で育てあげたいと思っているんでございます……」
校長はそれでも無理にとは言わなかった。私はまた母の手にひかれて私達の巣に帰った。
このことから、母と中村との間にいさかいがあったに相違なかった。中村は今までにも外で酒を
母はまた悩ましい日を送り始めた。思うにそれは、私の父に対するが
それをしおに、母は中村と別れた。
中村と別れてから、私達はひとまず世帯を
「ねッ、表の往来なんかに出て遊ぶんじゃないよ。中村に見つかるかも知れないからね」
察するところ母は、中村が不承知なのを無理にわかれたものらしかった。
母は毎日仕事を探してまわった。が、市内には好ましいのが見つからなかった。ただ、母の知合いのおかみさんの兄が、郊外の田舎の製糸場で監督をしているとかで、母はそこへ行くことにきめたらしかった。
母は嬉しそうに私に話してきかせた。
「その人は何しろ、監督さんだっていうことだからね。監督さんならはばもきくから、その人を頼って行けば、わしらに同情してくれるに違いないよ。きっと何とかなるよ」
子供の私にさえはがゆいほど、母は依頼心が強かった。母は、独りでは一歩も踏み出し得ない女だった。一足歩むにも何か自分を支えてくれるものがなくてはならぬ女であった。といって私は子供である。私は母に従わなければならなかった。
製糸場に行っても、しかしいいことはなかった。第一、頼って行った人は監督でも何でもなかった。実はごく下っ端の
ああ私はその時どんなに喜んだであろう。約束を守って父は私を迎えに来てくれたのに相違ない。父は私を迎えに来てくれるほど、楽な生活をしているに違いない。私はそう思った。
けれど、実際はそうではなかった。父には相違なかった。けれど何とまあ
父が来ると母は工場を休んで父と暮した。別れなかった前のように二人は暮した。が、いつとは知らず、父の姿はまた見えなくなった。何日ぐらい父がいたのか、いつ去ったのか、それさえ印象されてないほど、私も父もお互いに無関心になっていたように思われる。
私達はまた町に舞い戻って来た。母は紡績工場に職を見つけたらしかった。私達は長屋の一軒を借りて住み、私はまた、以前の同情ある校長を
いつまでもこのままでいてくれればいい。子供心にも私はこう祈りたいような気がした。ところがやっぱりそれが駄目だった。依頼心の深い母だ。それに、男なくてはいられぬ女だったに相違ない――今から考えて見て――母はまた若い男と
その男は母よりも七、八つも年下で、その頃何でも二十六、七だったろう。母の知合いの
この男と同棲することに決めたらしい時に、母は私に言った。
「とても働き者だっていう評判だよ。それに何しろ若いんだからね、うまく働いてくれさえすれば今度こそお前もわしもずっと楽になるよ」
私はいやだった。何となく悲しくさえあった。私は少しこまちゃくれてはいたがそれとなく母に反対してみた。
「あまり働きものでもないらしいよ母ちゃん、昨日だって、
母はしかし私の抗議には耳をかさなかった。昨日や一昨日遊んでいたのは
こんな話があってから三日とは経たぬうちに、その男は私達の家に来て、そのままずるずるべったりに私達の家で寝起きすることになった。
その男は小林といった。小林は
小林は家に
ある夜のことだった、もう九時も過ぎたが、私はまだ起きていて、たった一つしかない六畳の部屋の片隅で学課の復習か何かしていた。
小林と母とはすぐ脇の布団の中で、無遠慮にふざけ散らしていたが、そのうち突然母が私に、
「今ごろ焼芋だって母ちゃん」私は不服で母に抗議した。「あそこの焼芋屋は
母はじれったそうに荒っぽく言った。
「焼芋屋はあそこ一軒じゃないよ。裏通りのお
裏通りのお湯屋の脇の焼芋屋。それをきくと私は、子供の私は、
「ねえ母ちゃん、お菓子にしようよ、お菓子屋ならすぐそこの明るいところにあるから」
「いけない! 焼芋でなけりゃいけない」母は
母の
「じゃあいくら買って来るの」
「ちゃぶ台の脚のところに五銭ころがっている。それだけ買っといで」
母は蒲団の中から顎をしゃくって言った。私は
戸を開けて恐る恐る外を見て私は
だが、ああその時! 私は思わず顔をそむけて再びまた暗い戸の外へ跳ね返されないではいられなかった。
母は焼芋が食べたくはなかったのだ。ただ私を追ん出したかったのだ。
春になって学校の修業式が来た。
が、お
式場の正面の、白い布で
式が始まった。校長は何か話をしてから、テーブルの前にいちいち子供達を呼んで免状や賞品を渡した。子供達は嬉しそうにニコニコと笑いながら誇らしげに賞品や免状をもらって引きさがった。
最後に私の番が来た。呼ばれるままに私は、子供達の列の間をぬけて、やはりニコニコとしてテーブルの前に立った。最敬礼をして、私は両手を高く上げた。校長は私に紙を渡した。
ああ、実際それは紙だったのだ。ほかの子供達には四角で
私はどんなに
それはまだいい。私の家の暮し向きは日一日と苦しくなって行った。私達はただ売り喰いをしていたのだった。で、
ある日のことだった。
私の家は食うにも困っているということが子供の私にさえわかっているのに、母は私にビラビラの下った赤い梅の
母は私の髪を
だが、そのうち母は、急に言葉の調子をかえて
「だがねふみや、
私は母と離れて
母は私を、ちょっと
今から考えると、それは
「何といってもこの娘は余り小さすぎるじゃないかね、これがものになるまでには、どんなに割引きして
これが先方の
母は……母は、真実悲しい思いをしたに違いなかった。泣きじゃくりしながら母は答えた。
「私は、……私は、ほんとうは金が欲しくてこの子を娼妓にしようというんではないんです。だからお金のことなんかはどうでもいいんです。ただ、私が余り貧乏しているので、そうした方がむしろこの
「それはそうだろう。いくら娼妓でも出世すればまたたいしたものだから……」
と、買い手は私の母の弱点につけ込んで、それに
「そうすれば何かにつけて肩身が広いだろうと思いまして、そして、出世にも都合がよかろうと思いまして……」
多分対手の女はいい小鳥が
私は無論、母がつれ出すときと話が大分違っているのを知っていた。けれど私にはまだ娼妓はどうの芸妓はどうのといったようなことがわからなかった。その上、学校にもやってくれ、
ところが、それでは私がどの方面にやられるのかということになってから、母が考え出した。年増女は私を、東海道の
「もっと近いところへやってもらえないでしょうか」母は
「そうねえ」相手もちょっと当惑した顔をして答えた。「
母は幾度か、もっと近いところを主張したが、相手はそれでは
「それではまた、いつかお願いすることにしましょう」
こう母は残念そうに断って、そして私達は、また暗い寂しい家に帰った。今から考えてそれはどんなにか私の幸福だったろう。のみならず、母が私を、そうする方が私の幸福だと考えたからだと言ったこともうそのような気がする。なぜなら、ほんとにそうだったら、私にたびたび会えないからといって断る理由がないと私は考えるからである。
最後のものを売り
私達は三畳の部屋を借りていた。他の部屋には
こうした空気の中に在って、怠け者の小林が働こうはずはない。子供の私にさえじれったくなるほど、そして、しまいにはよくもこんなに飽きないものだとほとほと感心したほど、来る日も来る日も小林は、朝から晩まで部屋の
私達は一日に三度の飯を食べたことは
「ほんとにお前に苦労をかけてすまない」と母は常に面目なさそうな顔をして私に
私が、「あんな男と一緒にいるからだわ」と言うと、母は一層困ったような顔をして言うのだった。
「今少し働き者だろうと思っていたのに、ほんに
母は悲しそうに首を
「だけど今じゃもう別れたくっても別れられない
私には何のことだかわからなかった。ただ母の
母はしょっちゅう小林に文句を言いつづけた。けれど小林は
でも私は何といっても子供だった。そんな苦しい目にあっていても、やはり外に出て遊びたかった。ある日も私は近所の子供と附近の土手下で遊んでいると、そこへ母がひょっくりと
「なあに母ちゃん」と私が答えると母は力のない声で、そこいらに
「ありがとう」と母は言って、根もとからぽっきりと折って根を
その夜私は、その鬼灯の黄色い根だけが古新聞にくるまれて、部屋の棚の豆ランプのわきに載せてあるのを見た。
今から察すると、母は妊娠していたのだ。鬼灯の根で
[#改ページ]
やがてもう秋であった。
母と小林とはどうして金をつくったのか、とにかく二人は私をつれて小林の郷里へ帰って行った。
小林の郷里は山梨県
前にも言ったように村の名は忘れたが、そこは
何しろ薪や
小林はその家に落ち着いてから、不思議に思われるくらい仕事に精を出し始めた。さし当り彼の仕事は実家の炭を賃焼きすることであった。母は母で、近所の家のお
そこでまた私は、私のこの
都会にいて七層八層のビルディングを見、銀座の
小袖部落は、前にも言ったように十四、五軒の縁続きの家から成る、いわゆる原始社会という種類のものである。
部落はかなり
こんな風だから部落民が非常に粗末な食事しかとれないのが当然で、御飯は私が今食べさせられているような
しかし、こんな粗食で健康が保たれるはずはないなどと思ってはいけない。なぜなら、一度山にわけ入って見るがいい。そこには近頃流行のいわゆるビタミンを多量に含んだ、そして常食で欠乏している糖分やカロリーのたくさんなあけびだの
私が本当に自然に親しんだのはこの頃である。おかげで私は村の生活がどんなに理想的で、どんなに健康で、どんなに自然であるかということを今日も感じている。それにしても村の人の生活をこんなに
私の考えでは、村で
ところが、部落はもちろんそんなことをし得なかった。お金という誘惑があるものだからお金欲しさに炭や繭を売る。すると町の商人は、これにつけ込んでこんな部落にまで
「
誰言うとなく部落じゅうに伝えられる。すると部落じゅうの女どもが集まって来て、いずれも欲しそうに手に取っては見、手に取っては見して値段をきいては、
「まあ高い、おまささんは十日ほど前に町でこんなのを二十銭で買って来たわ」などと言う。
行商人はそうした取引にいちいち
娘達は父親に内緒で半襟や
郵便配達は五日に一度、七日に一度ぐらいしか来なかった。冬などは靴を投げ出しては
さていよいよ学校であるが、学校は
小袖からは
わずかではあるが、筆とか、紙とか、墨とかがやはり必要だった。けれど部落には現金というものは一つもない。そこでそれらの必要品のある時には、子供らは自家製の炭俵を一、二
だが、私は今一つの重要なことを書き落すことはできない。それはこの一里にも余る山道を一俵の炭を背負って登ったり降りたりするのは一体、いくつぐらいの子であるかということである。それは実に九つぐらいの女の児なのである。私も実はやって見たかった。けれど都会に生れた私にはどうしてもそれは不可能だった。第一、私の家には背負って行く炭がなかった。
ついでだから私は今一つの事実を記しておこう。
早春のある日、私の家には子供が生れた。小林の家のお婆さんは大喜びだった。そして春生れたというので「春子」と名をつけ、
五、六俵の炭が馬の背に載せられた。馬は
三月の終りになって私はまた終業式に出ることになった。いつもいつも
母はその日のために苦しい中から工面して木綿の
型ばかりの寂しい式が始まった。みんなは
式が済んでみんなはもう帰り
「お前の免状はこの通りここに、ちゃんと二枚出来ているんだよ。欲しきゃお母さんが貰いにくればやるって、そうお言い」
終業式の前頃に、子供達の家からは何かと教師に贈られるのが常だった。中にも一番多いのは酒だった。つまり酒と免状とを交換しようと教師は言うのだった。
私の家では教師に何も贈らなかった。贈ろうにも贈るものがなかった。一つには、母が気がきかなかった
でも、そう言われたとき私は
「心配することはないよ。わしがお酒を持って行って、免状をもらって来てやるから」と私を
けれど、どうしても私はあの
「いいよ母ちゃん、いやだよ」
私はただこう言い張った。そして、とうとう、学校を無断でさがってしまった。
私は寂しかった。私は今その時の心持ちを充分に説明することはできない。ただ強いて言えば、駄々っ子が泣きくたびれて泣き
そうした幾日を過ごしているある日、思いがけもなく実家の叔父が――母の弟が私達二人を訪ねてくれた。
叔父がどうして私達の住所を知っていたのか、私はそれを知っている。それは私がここに来てから初めてのお正月に、実家への年賀状を母に代って書いたのを覚えているからである。その時母は言った。
「今さら迎えに来てくれとも言えないが、この年賀状を見たら連れに来てくれるだろう」
それから後も母は時々言った。
「うちへ帰れば悪口も言われようが、何といってもこんな貧乏しなくてもすむ、そればかりでない、お前の
母はだから、あの年賀状を出しさえすれば、父と別れた私達のことを心配している実家のものがきっと迎えに来てくれると信じていたのである。
「おお、姉さんいたか」と叔父は
「よく来てくれた」と母はもう涙をぼろぼろと流していた。
それから二人は、ほんとに嬉しそうに立てつづけに話しつづけた。私にわかったのは、年賀状を見てすぐにもとんで来たかったのだが――そこは女でも二日とはかからぬ所なので――雪が深くて三度も途中から引き返し、雪の解けるのを待ってやっとのことでやって来たのだということと、叔父が来たのは母を実家へ連れ帰すためだったということとであった。
小林が仕事場から帰って来る。すぐ
随分長い談判の結果、母は帰ってもいいが、
小林の老母は母に詰め寄って
「こんなことになるのならどうしてもう少し早く言ってくれなかったんだい。そう言ってくれればくれるで何とかするのだったのに……」
何とかする? それは何を意味するのか、最初のほどは私にはわからなかった。けれど私にも次第にそれがわかってきた。
母は言った。
「わしも気はついていたにはいたのだけれど、でも可哀相で……」
母のこの言葉で私は一つ思い出したことがあった。それは隣村に片づいている西隣の家の娘と母との談話から知り得た一つの知識である。
「大きな声じゃ言えんがね、それは
黙ってきいていた母の顔は土色になってむしろ何かに
春子も「何とかされるのではないか」と私は心ひそかに心配した。けれど三、四日のすったもんだの
けりがついた翌朝、私と母とは叔父につれられて村を出た。大家の末娘の雪さんがねんねこで春子をおぶって村はずれまでと言って送って来てくれた。
情に
村はとうに出はずれていた。けれど私達はまだ別れ得ない。小山の
が、母の足はどうしても進まなかった。別れて四、五歩したかと思うと母はふらふらと後ろへ引きかえした。そして雪さんの背から子供をおろして、
「頼みますよ、雪さん、頼みますよ」と、今までにもう
母はいつまでも子供を離そうとはしなかった。それを叔父が一町もさきから、大きな声で呼びたてた。母はやっとのことで立ち上った。そして春子を雪さんの背におぶわせた。せき来る涙を止めもあえずに。
母と私とは
二、三町歩いて道が再び曲がろうとする所で、私達はまた後ろを振り向いて見た。その時は雪さんの姿は濃い
この時を限りに、私は一人妹の春子と
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祖父母は無論喜んだに相違なかった。けれどもその喜びのうちには悲しみも
実家では、祖父母は母屋を仕切って裏の方に
私は叔父の家に引きとられた。母は私の大きくなるのを待つ間、若かったときに通った製糸場に
私はもう
ところが、ああ、何という不幸で私はあったろう、その夏のある夜、ぐっすり眠り込んでいた私は突然叔母に
母は私にモスリンの
真相はしかしすぐわかった。
母は「チチキトクスグカエレ」という電報を見て急いで帰って来たのであった。けれど祖父はもちろん危篤どころかピンピンしていた。
その翌日、危篤であるはずの祖父も交って、祖母も叔父夫婦も母も寄って何か重要な話をし始めた。私は外で遊んでおいでと言われたのにもかかわらず、その
「子供が三人あるというけれど、みんなもう大きいちゅうことだから手もかかるまい」
祖父がこう言うと、祖母はすぐにそれを引きとって、
「家の暮し向きはいいちゅうし、それに第一こんな田舎でなく町家だから、今までそこいらうろついて来たお前にはもって来いの縁だよ」
と言った。
よくきくと、それは何でも
母がそんなところへ行ったらどうしよう……こう思って私は、おろおろしながら黙って母の顔を
「じゃ行って見るか。げに嫌だったら無理に苦労して御厄介になっていなくても、そうとなりゃこの子がいるから
とこともなげに承諾してしまった。
私はびっくりして跳び上った。心細さが胸にこみあがって来た。
「母ちゃん
母の首っ玉にしがみついて私は泣いた。
「お前にはすまないが」と母は言った。
母がお嫁に行ってもそこは近いのだからいつでも
そうだ。母はとうとう行ってしまったのだ。自分の幸福を求めて私を置き去りにして、また、かつて私の父が私や母に対してしたように……、
私達を捨てて去った父が突然やって来て、私にゴム
ああ、できるなら私は、声をかぎりに世の中に向って叫びたい。
「あなた方は本当に子供を愛しているのですか。あなた方の愛は、本能的な母性愛とやらのつづく間のことで、あとはすっかり御自分達の利益のためにのみ子供を愛するような風を
思わず私は感情的なものの言い方をした。けれどこれも、私のその時の、そしてそれからずっとの、私の絶望的な気持ちから出た言葉であると許してもらわねばならない。
母は行った。私はやはり叔父の家に在って小学校に通った。
私はもう小学校にもさほどの憧れをもっていなかった。そして事実またここでもまた
体操の時などは、私より背の低い子がまだ幾人もあるのに、私は「お前は余計者だ」と言わぬばかりに、一番最後に立たされた。偶数番に当ったときはまだよかった。けれどそうでないときはたった一人、余計者としてその後にくっついて行かねばならなかった。教室では私が一番よくできたのに――書き方と図画とは一番上手とは言われなかったけれど――私はみんなの
もうそろそろ涼しくなりかけた頃、母は一ばん小さい
母の家は食料品や
「まあ、もう帰りたいのかい」と母は寂しい顔をした。そしていろんなことを言っては私を引き止めようとした。が、私はどうしても帰ると言い張った。
母もとうとう断念したらしく、
それを私に渡しながら母は、
「この間見たら箪笥の底にこんな
それから店へ行っては、
「
母は今にも泣き出しそうにしていた。私も何だか泣きたいような気持ちで、ただ黙って
何と悲しい性格に私はその時分からなっていたことだろう。
家に帰った私はまた学校に通い始めた。どんなに余計者にされても私は学校はいやではなかった。学校に通う。それが
やがてもう冬も来ようとしている頃だった。朝鮮の父方の祖母が私の村にやって来た。
この祖母はこちらの祖母と同い年で、その時はもう五十五、六歳であった。が、こちらの祖母よりは元気でもあり、血色もよかった。それに何よりもまずその服装は、
用件は、私を朝鮮につれて行って育てるというのであった。それには理由があった。
朝鮮にはこの祖母と私の別れた父のすぐの妹が住んでいたのだが、その叔母には子供が生れそうになかった。そこで、私が三つ四つの頃から、もしいつまでもその叔母に子供がなかったら、私を育てるということになっていた。ところが父と母とはあんな工合になって別れて、その後母の
先方では、たとい私の叔母が父と一緒になっているとはいえ、父と母とがあんな風になってしまったということにも多少の責任を持ってはいたろうし、第一、朝鮮の叔母にはもう子供を待ち望むことができなくなったというところから、ちょうどいい、哀れな私を育てようという気になったし、私の今の家でも、今度こそは母も
朝鮮の祖母は私に美しい
朝鮮の祖母は、祖母の家柄上、私が
私にとって、こうした衣裳は何という華やかさであったろう。こんなものは少し
「さあ、もうすぐ朝鮮に行くんだから、そのおべべを着てそこいらへ挨拶に行って来るんだ」
と、みんなのものに言われて、私は叔母と一緒に学校や近所の家へ
あまり
「ほんにふみさんは仕合せなことで……」
と、今までの私の苦労を
母ももちろん来てくれた。そして同じように喜んでくれた。
「この
「ほんになあ、近所に写真屋があるといいだがなあ」と母も答えた。
「なあに写真ぐらいはうちへ帰ったらすぐ撮って送りますよ」と朝鮮の祖母はみんなの驚き方に満足したように「わしの家へは月に一回や二回はきっと写真屋が来ますからなあ、すぐおくりますよ」とつけ足して言った。
「それではぜひそうして!」とみんなが揃って言うと、祖母はなおそれにつけ加えて、
「でも、逢えんのもほんのしばらくの間で、尋常を卒業しさえすればすぐ女学校にも入れ、成績がよかったら女子大学にも入れにゃならんが、そうするのにゃ、やっぱり東京へ寄越さなきゃならんから、いつでも逢えるというものですよ」と、ますます大きな希望を私にもたせるように話すのだった。
いや、そればかりではない。私をつれて行った限り、決して何不自由をさせぬこと、必要なものはもちろんのこと、ただの
みんなが涙を流して喜んだのは言うまでもない。私も無論嬉しかった。
降り続いた雨も上って空はからっと晴れて、少し冷たさを覚える朝、みんなに送られて、みんなの祝福の言葉を浴びて、祖母と一緒に私は旅に立った。
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私は
だが、朝鮮は果して、その約束したものを私に与えてくれたであろうか。それは以下私の記すところを読んでくれれば自然とわかることだが、私は今、ここへ来るまでの途中での私の感じだけを述べておかねばならぬ。なぜと言うに、それを述べておかない限り、読者は恐らく余り
で途中での私の感じは?
私はいよいよ朝鮮に着いた。朝鮮の私の家に着いた。そこは
岩下? 読者は恐らく、ここで疑惑の
祖母は十五、六の年に広島で結婚した。ところが、二十七の年に九つを頭に四人の子供を残して祖父に先立たれ、引き続いて、末二人の子供に死なれた。しかも長男――私の父――はやがて家を飛び出してしまったので、家にはたった一人の女の子、今の叔母が、残ったばかりであった。その私の叔母は広島で女学校を卒業した。するとすぐある海軍軍人から求婚されたが、祖母は考えるところあってこれを断った、次ぎの求婚者は今までかつて知らなかった一人の
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岩下一家が
芙江は
日鮮雑居地で、かなり多くの鮮人とわずか四十家族ばかりの
日人部落は何をもって構成されていたかというと、旅館、雑貨店、文房具店、医者、郵便所、理髪店、
それではこのわずかな日人部落内の状態はどうであったかというと、これはもともと利益を求めて集まって来た連中であるから、ほんとうに共同的な精神で
中でも一番有力なのは、ただに金を持っているというばかりでなく、いくばくかの田や畑をもって、ここに生活の根をおろしているものであった。――それには高利貸業者が一番多かった。――それに次いでは、憲兵、駅長、医者、学校教師といった連中が有力で、この辺までの女は「奥さん」という敬称でよばれていたが、これより下の、商人や百姓や工夫や大工などの細君は
だから、部落はまさに二つの階級から成っていると見ていいのだが、この二つの階級は水と油とのようにはっきりと区別されていた。余程のことでもない限り互いに往き来するようなことがなく法事をするのにも、祝い事をするのにも、招かれる範囲はきまっていた。
同じ階級内では、
今も言った通り、芙江は小さな村ではあったが、何しろそれは本線の停車場を控えたところなので、たびたび通過するいわゆる名士や高官連の送迎に、小学生や憲兵はもちろん、村の有志、さては女どもまでも飛び出して来て、駅頭に整列する半ば義務的なものを負わされていた。そしてその時は背広服に「赤十字社員」章を、
それから、村ではまた世の中に何か変ったことでもあるとすぐ、
まことにこれは新開の植民地にふさわしい風俗習慣であった。男も女もこうしたことをすることによってわずかにその単調な生活を破って自らを楽しむことができるのであった。――しかし無論これは、第一階級に属するものどもの催しであって、第二の階級のものはただ
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私の叔母の家――岩下家――は、ざっとこうした空気の中に包まれた最も有力な家族の一つだった。そう広くはないが、五、六ヶ所の山林と、鮮人に小作させている田と畑とを持っていて、それからあがる収入で、鮮人相手に
家は線路の北側の高地にあった。
南側の人たちは自分らのところを本町といい、北側を田舎とよんでいたが、北側の者らは南側を下町とよび、自分達の方を「山の手」といって、互いにその自負心を満足させていた。
叔母の家はこの「山の手」でも一番高い部分にあった。四畳半ぐらいのオンドル附きの部屋が四ッきりの、二間ずつ
叔父は長野県生れで、無口な温厚な男だった。以前は鉄道の保線主任であったとかだが、汽車が脱線
祖母はこの家では近所の人達から「御隠居さん御隠居さん」とよばれていたが、実際は御隠居さんどころではなく、叔母の家の一切のことに
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私は私の母や祖母や叔母や村人に、私を迎えてくれる幸福について祝福されながら送り出されたのだ。私もまた、胸にいろんな楽しい夢を描きながらこの朝鮮にやって来たのだ。
が、来て見てすぐに私は、私の踏み込んだ生活がそれほど楽しいものではなかったということに気がついた。
祖母の言葉を信じて来た私は、
私は無論、多少は失望した。けれどそんなことにはもう、小さい時から
ある日、誰かしら、私には初めての女の人が来て、私を見て、多分お
「まあ、いいお
「なあに、ちょっと知合いの家の子なんですよ。何しろひどい貧乏人の子なので、
貧乏人の子、それは何でもない。私はいかに小さくともあれだけ貧乏して来たからにはどんなに自分が
これはこの時一度のことではなかった。祖母はいつも誰に対してもそう私を説明した。いや、そればかりではない、私にも、もし他人からきかれた時には、こういった意味の返事をしろと言いつけた。しかもそれに附け加えて、まことしやかに
「でないと、お前はまだ何も知るまいが、お前とわしらとは籍の上で他人ということになっているんだから、もし
それは何のことだか私にはわからなかった。でも、赤い着物を着るということの意味は私にもわかっていた。だから、何もわからないながらも、私はたしかにこの言葉に
思うにこれは、余りに逆境に育った私がひねくれていたり、言葉遣いがぞんざいだったりしたので、このお上品な家の娘とするには余りに不似合な、家名をけがすものだということを、祖母たちが感じていたためであったろう。しかし子供の私にはそんなことがわかろうはずはない。私はやはり叔母の家の子とされているのだと信じきっていたのである。
朝鮮に来てから十日足らずの間に、私は村の小学校に通いはじめた。
学校は村の中程にあって、藁葺の屋根をもった
学校は
「なあふみや、金子のような貧乏人の子なら差し
と言われた時には一層嬉しかった。のみならずやっぱり私は岩下の子だと思って
ところが、五年生になってからは成績通知簿はいつの間にか金子ふみ子になっており、修業証書にも同じく金子ふみ子となっているのを私は知った。
わずか半年かそこいらで、私はもう岩下の姓を名乗る資格を奪われたのだろうか。私は別に百姓の子に負けてはいない。岩下の姓をけがすようなことをした覚えがない。それだのに私はもう岩下ふみ子ではないのだ。
それはどういうわけであったろうか。
今に私にはその理由がわからない。私はただ次ぎのように
私が通学するようになってから、叔母たちから私は、庭園のうちにある空き家の一間を勉強部屋として与えられた。そして、学校から帰るとすぐ、その一間にとじこもって一時間ずつ復習するようにと言いつけられた。
だが、自分のことをこういうと少し変だが、私にはその必要がなかった。何しろ私は、どこで覚えたのか自分でも知らないが、尋常二年の時は六年の
そこで私は、自分の部屋に
ある時私は、余りに、退屈なので時間半ばに飛び出して行った。祖母たちに甘えるような気もちで訴えた。
「私、復習なんかしなくっても大丈夫だわ、
すると祖母は眼をいからして私に言った。
「金子のような貧乏人とはわけが違うんだ。そんなだらしのない
私は私を理解してくれないことを悲しく思った。私は勇気を出してもう一度訴えてみた。
「だって私、無理に復習なんかしなくても立派に読めるんですもの、私、もっと難かしい、そしてもっと面白い本が読みたいの……」
この願いはもちろん
「生意気なことをお言いでない。本は学校の本だけでたくさんだ」
これが祖母たちの絶対命令であった。そして私は、それを守らなければならなかった。で、私は、初めのうちこそは
そうしたことが四、五度も続いた。そして私はとうとう、勉強時間を取りあげられてしまった。
これは私にとって後にも先にもない大失策だったのは言うまでもない。私の考えでは、このために私が、岩下の後とりになる資格がないと決められた最初の最も大きな理由を祖母たちに与えたのに相違ないのである。
習字や図画や、それからもっと後には裁縫のような技巧的なことは私の最も不得手な課目であった。
が、私は別にそれらがいやなのではなかった。また、生れつき下手なのでもないと思っている。けれど今から思うと、横浜の学校からこの方、私はろくに筆や紙や鉛筆を与えられたことがない上に、ろくに学校に通いもしなかったお陰で、そんなものの
朝鮮に来てから私は、自分の字の下手なのに気づいて、しっかり練習しようとした。が、叔母たちは私に
「今日はお習字の日よ」と私が訴えると、叔母はたった二枚の半紙を私にくれるのだった。その二枚も、
図画については忘れられぬ
尋常五年に進級したとき、私達は絵具をつかうことになった。私はそれを買ってもらわなければならなかった。だが、どんな
「絵手本を持って来て見せろ」と私に言った。
私が絵手本を見せると、叔父はそれをちょっと見てから、
「うん、これくらいならこれだけあれば充分だ」と、自分の絵具箱から
この絵具はやがて使い果されてしまった。ちょうどその頃、村の学用品店では、墨のようにすって使う新式の絵具を取り寄せて売っていた。色の
「要るものなら買ってやろう」
叔父はそう言った。叔母も賛成してくれた。だが、祖母はそれを許さなかった。
「お前はな」と祖母は食べかけていた箸を下ろして
そして私は遂にその絵具を買ってもらえなかった。それはしかしまだいいけれど、いつも言われる、この無籍者という言葉のためにどんなに私の自信を傷つけられたか知れない。私はそれを忘れられない。
読者よ、私はもっと小さかった時分に学校に行けなかったことや、行っても別扱いにされたことの理由として、私が無籍者だったからだと言ってきた。が、それは今、大人になってから書くのだからそう書いたので、実は、その時分そんなことを知っていたのではなかった。なかったからこそ、なおさら
だが、私が無籍者だったのは私の罪であろうか。私が無籍者であったのは私の知っていたことではない。それは父と母のみが知っていることであり、その責任も二人のみが持つべきである。だのに、学校は私にその門を閉じた。他人は私を
私は何も知らなかったのだ。私の知っていたのは、自分は生れた、そして生きているということだけであった。そうだ、私は自分の生きていたことをはっきりと知っていた。いくら祖母が、生れていて生れないことだと言っても、私は生れて生きていたのだ。
私が五年に進級した夏だった。学校は公立に改まって高等科が出来た。老教師は師範出の若い教師に代られた。
それにちょうどその頃、附近にかなり大仕掛けな線路移動工事が始まるし、近くの山からはタングステンが発見されたというので、この辺の人気は
私はやはり叔母たちから必要なものを与えられず、そのためこの新任の教師の
十二、三の時から私は
女中にされた私は、家事
けれど、けれど、何といっても人は人である。
春だったか秋だったか、雨のそぼふる薄ら寒い日だった。叔父は
静かな日だった。私はただ独り、
私はその寂しさのうちの静かさを愛していた。が、やがて、
しまったと思ったが、もう遅かった。でも、私はこれを別にわるいこととは思わなかったので、祖母が再び台所に出て来たときに、何のわだかまりもなく鍋を壊したことを話した。すると祖母はいきなり私を
「鍋を壊したって? この不行き届き者め……」
私は全く縮み上った。そして
祖母はさんざ私を
私はただ言わるるままに「はい」と答えた。そしてそれから約半月も経った時分に、町に行った祖母は別の鍋を買って来た。
前の鍋は何でも四、五年前に七十銭だったとかであったが、その後物価が非常に
祖母は言った。
「
祖母の家に来てからたった一度十銭の
とはいえ、物を壊したとき、祖母の怒りの一部分を金で買えることは私にとってせめてもの
金で
私が十三になったお正月の二日のことだった。朝、岩下一家は
その箸は暮に私がめいめいの袋に入れたものだったので、責任は無論私に来た。祖母は顔色を変えて箸を私に投げつけた。
「これはどうしたんだ。縁起でもない」こう祖母は
投げつけられた箸を拾って見ると、なるほど箸は中ほどのところを虫に
私はそれを知らなかったのだ。それに気がつかなかったのはたしかに私の過失でなければならぬ。だがどうして私に、祖母を祈り殺そうなんていう気があろう。第一、そんなことをすれば祈り殺すお
「ごめんください。ちっとも気がつかなかったんですから……」
私はこう謝った。けれど祖母は私を
だが、「そうです。私は祖母さんを祈り殺そうとしたのです」などとどうして言えよう。それは私自身殺されてもいいほどのわるいことでもあり、かつ、断じてそうではなかったからだ。けれど、そうでないと言ったとて赦してくれる祖母さんではない。
どう答えたらいいか、私にはわからなかった。私は迷った。けれど結局私はただ真実を言って、私の知らなかったことですと言うよりほかはなかった。
そこで祖母はとうとういつもの刑を私に課した。
いつもの刑罰! ああ思い出すだけでもぞっとする。
私はすぐ、雑煮も食べさせられずに屋外に追いやられた。朝鮮の氷点下何度の冬の朝だ。私は寒い。私はひもじい。私は、しょんぼりと立たされている自分の姿を人に見られるのが辛い。
私は人目のつかぬ便所の裏の方に隠れた。そこは、一方は便所の壁、今一方は家を建てるために高台を切りとったところだ。太陽の光は朝から晩まで見向いてもくれないのだ。積った雪は
私は立ってみる。しゃがんでみる。しゃくり上げては泣く。苦しさを忘れようとして幸福な生活を空想してみる。が、そんなことで苦しさが忘られるはずはない。
祖母が
「どうだい? 遊んでいられていいだろうが……」
意地わるい祖母の口もとが
日が暮れて、みんなの食事が済んだとき私はやっとゆるされた。
夕方の冷たさはどうだ。夕方になると気温はめっきりとさがる。寒さと疲れとで顔の皮は板のように
だから、
こんなことは
私はただ一つのことを附け加えずにはおられない。それはこうした刑罰の後で、理が非でも私に謝らせ、「これからは決してこういうことは致しません」と誓わされるということである。祖母たちは、そうしなければ自分達の威厳が保たれないと考えるのであろうか、それとも、そうすれば私がよくなるとでも思うのであろうか。
が、私は私のこの深刻なる体験から言いたい。
――子供をして自分の行為の責任を自分のみに負わせよ。自分の行為を他人に誓わせるな。それは子供から責任感を奪うことだ。
祖母たちの子供の責め方は、事実私を、ねじけた
私は皿一つを壊しても
私の胸は、いつも暗く重々しかった。それでいて私は、いつもそわそわして、おびえて、落ち着きがなかった。
こうして自分のことを記していると、下男の
高は余り
家族は夫婦と三人の子供とであった。上の娘は器量よしなので、玄米三斗で買いたいという男もあったが、十二、三にもなれば大丈夫百円には売れるから今売るなと祖母にとめられて、困りながらも辛抱して養っていた。
月給は一般の相場よりは二、三円も安く、わずか九円かそこいらであった。だが、それも初めの間のことだけで、間もなく祖母は、現金を出すよりも米をやった方が得だという考えから、何とか
そんなわけで、高は非常に貧乏していた。彼の家内の誰だって腹一ぱい飯を食うことができなかった。子供らは冬の寒中に、
ある寒い寒い夕方だった。高は戸外から障子越しに、家の中にいる祖母におずおずと言った。
「
祖母が
「何だって? 休ませてくれだって? そろそろお前もずるけたくなったのかい。横着きめたら承知せんぞ」
「いいえ、そういう訳じゃございませんのです。どうしても出て来られないことがあるんでございます」
「ふん、それじゃ何かい。あしたはお前の家へ、
叔母は祖母と顔見合わせて、くすくすと笑いながら、こうからかった。
「いいえ、そんな訳では……実は」高はきまりわるげに答えた。「洗濯をしますので……」
「洗濯? 洗濯なら別にお前がしなくてもいいじゃないか。そのための女房じゃないか。お前も随分甘いんだね」
ああ、内のこの
「別に女房に甘いってわけじゃないんですよ、奥さん。実は私、他に着物がないから、洗濯して火で
二人はきゃっきゃっと笑った。そして、別に着物をやろうとも言わずにその嘆願だけをゆるした。
高は実直な働きものだった。けれどそれほど貧乏しなければならなかった。そこで彼は、もと勤めていた線路工夫に戻って、十七、八円の給料を貰う方がいいと思って、
「だいちうちにいれば家は
そうして弱い高は、何といっても実際は工夫の方がいいということを知っていながらも、無理にとは言いかねて、この苦しみのうちに縛りつけられているのだった。
やはり私が五年生の時分だった。いや、五年になったときだった。二、三十名の児童が新たに入学したうちで、一人、器量のいい、無口で、
私にはそれがこの頃の唯一の楽しみだった。うちでは私は愛されない、けれどこの子には愛し慕われる。そして私は私の愛するものをこの子のうちに見出す。ああ、もしこの頃の私にこの喜びがなかったなら、私は生きている心持ちもしなかったであろう。
その子はたみちゃんといった。たみちゃんは学校から一、二町離れたところで
岩下さん、岩下さんと、たみちゃんは私にばかり
たみちゃんはしかし体の弱い子であった。しょっちゅう
そのためか、たみちゃんの祖母さんも私を可愛がってくれた。よく私にお菓子だの学用品などをくれもした。
私達の愛はだんだんと深められていった。一年と経ち二年と経つに従って、ますます私達は仲よしになった。無論その妹をも私は可愛がった。
けれど、私達の仲よく遊ぶのは主として学校でだけであった。私はほかの子供のようにお友達の家に遊びに行くことも、近所の原ッパで遊ぶことも許されなかった。
近所の子供らは大抵、学校から帰るとすぐ、
近所の人々は、どんなに私が、厳格に育てられ、どんなに重い労働を課せられているかを知っていた。子供たちもやはりそれを知っていた。だからそうした遊びにも私を別に誘いには来なかった。
それでも折々は、人数が足りなかったり、何となく私と遊びたくなった時などは、子供たちはやはり「岩下さん遊ばない?」などと門の外から声をかけた。「市場の方から、
私とて子供である。行きたいのは山々である。けれど、どうせ行けないことを知っているので私は大抵黙って答えなかった。時には外にいても慌てて裏の方に
「ふみ子はふだんは外には出しませんよ。誘いに来ないでおくれ!」
その声をきくと、子供達は鬼にでも追われるように
私が友達に頼んでおびきよせさせたのだとか、横着者だとか、その根性が憎らしいとかいった調子に……。
学校から帰って来て子供達と遊べなかったくらいならまだいい。やがて学校が
ところが、私に大変心苦しいことが起ってきた。
今まではつい近くの線路を踏み切って町や学校に行けた私達は、いや、いわゆる山の手の人々は、駅長が代ってからその道をふさがれてしまった。そのために私達は遠廻りをしなければいわゆる下町のほうへは行かれなくなった。そこでその不便に耐えかねた人々は皆、線路の南側に転居し、北側には叔母の家のような暮し方をしている二、三軒と、貧乏な理髪屋の一軒だけとしか、
理髪屋は、叔母の家から半町たらず下の往来に沿うたところにあったが、狭いじめじめした土間に、水銀の
私はお巻さんと二人でつれ立って学校に行き、つれ立って帰って来た。が、これを知った祖母は私にこう言うのだった。
「ふみ、お前はな、あんな他人の頭の
私は無論この命令を守らねばならなかった。で、朝はわざと
行きはそれでよかった。けれど、帰りにはどうしても一緒に帰らなければならなかった。お巻さんはいつも私と一緒に帰ろうと言った。私はお巻さんと一緒に帰ることを禁じられている。でも私はまさか「あなたのような貧乏人の子とは一緒に帰れないのよ」とも言いかねたので、祖母たちの怒りを気にしながら、恐る恐る、そして、いつもなるべく、少し速めに歩いたり、遅れて歩いたりして、ろくに口もきかずに帰るのであった。
ある夏のことだった。お巻さんと私とは、お昼すぎに一緒に校門を出た。町筋を半丁ばかりも来かかると、お巻さんはふと立ち
「私、伯父さんとこへ寄って、貰って行きたいものがあるんだけど……ねえ、待っててくれないふみちゃん? すぐだから……」
伯父さんの家とは私達が今立ち
別れるのにちょうどいい機会だ! 私は救われたような気がして――、ありッたけの勇気で言った。
「そう? じゃ済まないけど私、うちが忙しいから、先に帰らしてもらうわ」
お巻さんはしかし人なつッこい
「ねえ」とお巻さんは拝むようにして頼んだ。「すぐだから待っててちょうだいよ、すぐだから……」
私はそれでもとは言い張ることができなかった。気が気でなかったけれど私は結局、その家の側の垣根に
お巻さんは喜んで元気よくその家の中に
「お巻さん、私もう帰るわ」
「遅くなってすみません」お巻さんは気の毒そうに私に答えて「早くしてよ、岩下さんを無理に待たしているんだから」と伯母をせきたてた。
お巻さんの伯母さんが姿をあらわして私に言った。
「まあお巻が無理をお願いしたんですってねえ、ちょっとも知らなかったものですから……、そこは暑うございますから、どうかこちらへ……この頃の暑さったらどうしたんでしょうねえ……」
私はその頃、少しでも
と、何とまた運のわるいことだったろう。私の眼は、その家の前を自転車で走って行く叔父を認めた。いや、私が認めたばかりではなく、叔父もまた私に冷たい
私はぎょっとした。生きた心地がしなかった。
ぶらりぶらりする鞄を抱えて、七、八町もある道を私は夢中で走り続けた。が、うちの門のところまで来て、また気おくれがして、中に這入る気にもなれなかった。私の足はにぶった。けれど勇気を
叔母はいつもの通り祖母の部屋で裁縫をしていた。私は
と、叔母はいきなり私を
祖母も降りて来て、
「あのくらい言われてもまだ解らないのか。よし、解らなきゃ解るようにしてやる!」と、
打ちのめされた私は、ぐんにゃりとして起き上ることもできなかった。地べたに倒れたまま、私はただ泣いた。そうしたとき、泣くよりほかに自分をいたわる方法を私は持たなかったのだ。
散々
永い夏の日の暑さに、倉庫の米はむっとするほどいきれていた。激動からさめて心の張りが
疲れが出たのだろう、私はいつの間にかぐっすりと
倉庫から出されたのは翌日の夕方だったが、祖母の怒りはまだ解けていなかった。
食べ終ると叔父が来た。そして一通の手紙を私に渡した。
「これをもって学校に行っといで……」
見れば先生に宛てた手紙だった。
「はい……ただいまですか」
「そうだ。今すぐ行くんだ……」
顔を洗って、着物を着かえて私は出かけた。
何のことだかわからない。が、多分先生に
夕飯も済んだと見えて、先生は
「先生、こんにちは」
「ああふみ子さんかね、今日休んだがどうしたんだ、また叱られたね」と、先生は笑いながら私を迎えてくれた。
しょっちゅうのことなので、先生はもう、私の叱られることをそう大きなこととは思っていなかったらしかった。それとも私に同情して、そう言ってくれたのかも知れない。
私は泣きながら懐中から手紙を出して先生に渡した。
先生も黙ってそれを取りあげて、封をきって、ざっと一通り目を通してから、再びまたさらさらと巻いて封筒の中に納めた。
「どんなわるいことをしたのか知らんが、お父さんは、ふみちゃんに不都合な
この言葉をきいて私の胸はどしんと打たれた。眼がまわって倒れそうにさえ感じた。先生はつづけた。
「が、心配することはないよ。無論これはほんとうの退校でなくて、少しばかりの間、学校を休ませるということだろう。僕もよく話してあげるけれど、何しろふみちゃんの家の人は皆、言い出したら最後、後へはひかんという
私はもう、この先生にも訴えることができなかった。とりつく島もなく、私はただ、黙って先生に別れた。期待を裏切られた心は一層に悲しかった。私は教室に這入って思う存分泣いた。が、応えるものとてはガランとした教室の天井に響く私の泣き声ばかりであった。私はこの時ほどはっきりと自分の孤独であることを感じたことはなかった。
先生の言葉からして私は、昼間既に、先生と叔父との間に、私のことについて話し合っていたのだということを感じていた。そして、今、こうした孤独にまで
それは七月も初めのことであった。
先生の言った通り、九月の新学期から私は再び登校を許された。が、一学期の通知簿には、私の
私はまた学校に通うことができた。そして、学校に通えるようになったことだけで私は元気を
中でも一番嬉しかったことは、私の可愛いたみちゃんと会えることだった。
たみちゃんはもう三年だった。その妹のあいちゃんも学校にあがっていた。私は高等一年だった。この二人を見ることだけで、この二人の世話をしてあげることだけで、私の心はやっと
だが、それから私が、たみちゃんと仲善く遊んだのもほんの少しの間だけだった。
二学期が始まってから間もなく、たみちゃんは例の通り風邪の気味で学校を休んだ。二日、三日と日は経ったがたみちゃんの顔は見えなかった。で、私は、ちょいちょい学校のお昼の休みを利用しては見舞いに行ってあげた。たみちゃんは私の来るのをどんなに喜んだことであろう。病気が少しも
だが、その時はもう、今までのたみちゃんではなかった。この前私が行ったとき、
たみちゃんは、
医者は
たみちゃんはもう死んで行くのだ。私達はもう永遠に会えないのだ。私は悲しかった。
それから二日経って、生徒がみんなしてたみちゃんを遠い山の火葬場に送った。そしてその翌日私は、学校から選ばれて二、三の友と一緒に、たみちゃんの骨拾いに加わった。
たみちゃんと私とは偶然に知り合ったのだ。そして三年足らずの間の友だちであったに過ぎないのだ。が、前にも言ったように、私達の間には何か特別な因縁でもあったように親しかった。父に死なれ、母に去られたたみちゃんを、自分の境遇から察して特別に同情したのかも知れないが、私はとにかく、心の中ではたみちゃんを自分の妹のように思い込んでいたのだ。
そんな風だったから、たみちゃんがいなくなると、私はただ寂しいばかりでなく、何か大切なものをもぎ取られたような気がした。学校にいても、家にいても、何かにつけてたみちゃんを憶い出しては私は、たまらない寂しさに泣かされるのだった。
そうした日が一ヶ月も経った。
運動場では、子供達が愉快そうに遊んでいた。けれどこの頃の私はもう、その遊戯にも加わりたくはなかった。庭の隅のポプラの幹に
「ねえ岩下さん、こんなとこにいたの?」あいちゃんは私の手をとって引っぱりながら言った。
「みんなが探してるのよ。あっちへ行きましょうよ。ね、何考えているの?」
私はたまらなくなって、あいちゃんを両手でしかと抱きしめた。
「あたし、あなたの姉さんのことを考えてるの」
さすがに無邪気なあいちゃんも急に寂しそうな顔をした。そして思い出したように私に言った。
「ねえ岩下さん、私がこの間もって行ったもの見て?」
「この間もって行ったもの? どこへ?」
「あら、あなたまだ知らないの?」あいちゃんはこまちゃくれた口のきき方をした。「姉さんがこの間買ってもらった裁縫箱よ。姉さんの
たみちゃんの裁縫箱! 私は覚えている、黒塗りに金のまき絵のある、立派な、まだ新しい裁縫箱だ。それを私に贈ってくれたのだ。ああ嬉しい。せめてそれでも肌身放さず持っていたい。私はまだうちの誰からも受け取った覚えはない。けれど私は、あいちゃんが失望するかも知れないと思って、そうは言いかねた。
かなしい心持ちで私は答えた。
「あああれですか。見ました……どうもありがとう……」
それを私が実際もらっていたならどんなに嬉しかったろう。こんな物足りないお礼なんか言ってはいられなかったろう。けれど私としては、せいぜいこれくらいのお礼しか言い得なかった。そしてそれではほんとにすまないと思って、その心をごまかすために、
「さあ行って、みんなと遊びましょう」と、今度はあべこべに私からあいちゃんの手を引いて駆け出した。
私はその裁縫箱がほしかった。それを見るとたみちゃんに会えるような気がした。で、その日家に帰るとすぐ、私はほかの用にかこつけて、押入れや
「どうしたのだろう」と私は考えた。また「ないはずはない」とも考えた。それで、明くる日も明くる日も、何かにかこつけては押入れの整理や部屋の掃除をしたが、どうしても見つからなかった。
私はもう諦めていた。意地のわるい祖母さんだ。どこか私には気のつかぬところに仕舞い込んであるのだろうと、それからはもう探すことをやめた。
また幾月か経った。ある日の夕方、祖母の部屋を掃除していると、箪笥と壁との間に何か
その手紙は、子供の筆蹟で書かれていて差出人はたしかに貞子と書かれていた。
貞子とは、祖母の兄の子で、一度この家に貰われて来たが、祖母とその兄との感情の行違いから戻された娘である。そしてその代りに私が育てられることになっていたのであった。
それを
私はもうその文章を覚えてはいない。が、それに書かれてあったことはどうしても忘れられない。
それによって私は、私の代りに今一度この貞子さんが岩下家の
私はしかし、ここでめめしいことを言うまい。私にと私の眼の前で贈られたものをさえ、私にはくれないで貞子さんに送っていることや、その他のいろいろのことを語るまい。私はだた[#「だた」はママ]、たみちゃんの形見が貞子さんのところに贈られたことに対してだけは何といっても腹立たしい。悲しい。
服部先生が来てから三年ほど経った時分であった。
若くて、
先生はまず、学校の後ろの方にあるかなり広い土地を借りた。それを子供の農場とされた。
農場は四、五人を一組に、いくつかの区画に分たれた。そして手始めにまず、あまり手のかからない
子供達は大喜びであった。おのおの、自分の受持ちの土地に
その時分にはもう、馬鈴薯の種がどこからか取り寄せられていた。うなわれた畑には化学肥料が
「さあ、いいかい」と先生は大きな声で愉快そうに言うのだった。「これから十日も経てば芽が出て来る。不思議だろう! こんな泥みたいな
みんなは緊張した顔で先生の話をきいた。教室で教わる時の十倍もの上の興味と注意とをもって。
温い陽の光を吸うて、
時間割の上では、農業は一週に一度だったが、それでは足りないというので、ほかの時間を繰り合せてその方に廻すようにまでした。
先生は白いシャツ一枚になり、女の子は着物をからげて
「いいかい」と先生は時々どなるような大きな声で話してきかせるのだった。「人は互いに愛し合わなきゃいかん。いや、人ばかりでない。何をでも愛さなきゃいかん。だが、ほんとの愛は自分で骨を折って育てなきゃ起らない。どうだ。みんなもこのジャガイモがかわいくなったろう……」
ある時はまた、こうも言った。
「だがジャガイモ一つつくるのにも随分と骨の折れるもんだなあ。我々は八百屋でジャガ薯を買って来て食う時には、何の考えもなくこのイモはうまいとかうまくないとか贅沢なことを言っているが、実はこれをつくるだけにでも百姓はどんなに骨を折ってくれているかわからんのだ」
そして最後に先生は、いつも、「だから百姓を
雨が降らなかった。土が余りに乾きすぎて、せっかく出た芽が枯れそうになった。そこでみんなは
ところがある日私は、学校から帰って来るとすぐ、叔母と祖母とのいるところによびつけられた。
「ふみ、この頃学校で百姓の真似をさせているっていう話だがほんとかい」と叔母がまず私に訊ねた。
何かまた怒られるのかとびくびくしながら、私は「ええ」と答えた。
叔母はしかし別におこった様子も見せず、ただ、
「この暑いのに、女の子までも畑に出して百姓なんかさせられちゃたまらんなあ。第一着物がやけて仕様がない」と
この次ぎから止めさせられるのは辛いが、でも今すぐでないことを私は喜んだ。
だが、祖母は叔母のようではなかった。祖母は言った。
「この次ぎからじゃないよ、今すぐやめなきゃいけないよ。わしの家じゃ、月謝を出してまでも百姓なんか習わせる必要がないんだからなあ、それにせっかくだがお前なんかに百姓して稼いでもらわなくても、まだ
私は黙ってきいているよりほかはなかった。祖母はつづけた。
「明日からは百姓なんか一切してはならんぞ、ふみ。なに、正科の時間だからと、では、百姓の時間のある日は休みなさい。いいかい」
私の顔には恨めしそうな色が表われていたに相違ない。それを見た祖母はますます
「それにお前はよく
ああ、とうとう私は、こうして私の自由を全く奪われてしまったのだ。私自身も奪われてしまったのだ。
十二、三歳の遊びざかりの私だ。その私が、着物が陽にやけるとか、下駄の鼻緒がきれるとかいった理由のために、規定の時間の運動のほかのどんな
――何でそんな無理をなさるのです。あなたは一体、子供が大切なのですか、着物が大切なのですか。子供は着物のためにあるのじゃありません。子供のために着物があるのです。そんなに汚していけないのなら、わるいお粗末な着物を着せておけばいいじゃありませんか。
――大人は自分の
私は決して、これを間違った考えだとは思わないのである。
祖母たちからこうした宣告をうけてから、四、五日後のことであった。
何かの時間の後で服部先生は、ふと憶い出したように、教壇の上から生徒たちを見渡しながら言った。
「どうだね、今度学校で農業を始めたことについて、君たちの家で何とか言っていやしないかね、……たとえば、いいことを始めたとか、困ったことだとか、いった風に……」
子供たちは黙っていた。
先生は私のクラスの細田という男の子を名指してきいた。
「細田のうちはどうだ。兄さんが何とか言わなかったかね」
肺病の兄と二人で暮している細田は答えた。
「兄さんは身体が丈夫になって
先生は嬉しそうな顔をして、今一度教室を見まわした。
「うちのお父さんもそう言ってたわ」
「うちのお父さんも……」
子供たちは小さな声で
私は私を名指されるのでないかと、心の中ではらはらしていた。それで、なるべく私に気づかないようにと、隠れるように
「岩下の家ではどうだ。
先生は何もかも知っていて私にそう
いつになく私の答えは
「ええ、あの……おばあさんは、農業、百姓なんかすると、着物がやけて
すると先生は皮肉な顔に苦笑を浮ばせながら腹立たしそうに言った。
「ふむ、なるほどね、いかにも女王様のような立派な着物をお召しだからな……」
そう言って先生は、プンとして教科書をひッかかえたまま戸を荒々しく引きあけて出て行ってしまった。
みんなはじろじろと私の着物を見た。私は思わず顔をあかめた。そして今さらのように自分の着物のお
白地に
私はしかし先生を
私は家に帰った。
学校でのことが胸にこびりついて離れない。その上、私の答えたことが、祖母たちにわるいことでなかったかを心配した。それを心配すればするほど、黙っていてはいけないことを感じたので、今日学校で起ったことの実際を語った。
祖母たちは怒らなかった。勝ち誇ったような顔さえした。ただ叔母と顔を見合わせながら祖母は、こう言った。
「やれやれ、こんなお馬鹿さんには全く
祖母たちはこれまで、自分らの言ったりしたりすることは絶対に間違いのないことだと私に信じさせていた。少くともそう信ずることを強制していた。だが、私は今初めて、そしてはっきりと、祖母たちもやはり、人の前にうっかり話されてはならないことをしたり言ったりしているのだということを知った。
私はもう、うっかりと祖母たちの言葉を信じまい。無批判には受け取るまい。
私はもう一切を奪われてしまった。学校も家庭も、今の私にとっては一つの地獄にしか過ぎなくなってしまった。
だが私は小さい時から、どんなに打たれても打たれても全くは打ちのめされない
こうした苦しみを回顧していると、私はついその頃味わったたった一つの楽しい経験を思い出さずにはいられない。
栗の木の株間株間には、
秋、栗の実がはじけて落ちる頃になると、誰かしらうちの者が出かけて行っては、栗拾いをするのだった。その仕事は大抵、身体の弱い叔父の役目だったが、叔父は時々、その山にさえ登れぬほど身体の調子のわるいことがあった。そうした時には私は、自分から進んでその役目を引き受けることにしていた。なぜなら、私はそこで、ほんとに自由な自分を見出すことができるからだった。
一切を奪われた年の秋だった。叔父はまたしても身体をひどくわるくしていた。私は祖母に
山に行くときは、私はまず、
子供たちは学校に行く。けれど、私はもう学校を休むのをそう悲しいこととは思っていなかった。それよりも独り山に登るのがどんなに楽しいか知れないと思っていた。
木の枝に
時には草一本ないところに出るかと思えば、時には深い
「なんだ、びっくりさせるじゃないか。そんなに
袋は重くなる。足が疲れて来る。私はそこで、持って来たすべてのものをおっぽり出して、一直線に山のてっぺんにまで駆け上って行く。そしてそこで休む。
頂上には、木というほどの木がなく、黄色い花の
西北に当っては畑や田を隔てて停車場や宿屋やその他の建物が
それは余りいい気持ちのものではない。私はそこで、くるりと後に向きかわって、南の方を見る。格好のいい
それをじっと眺めていると、初めて私は、自分がほんとに生れて生きているような気がする。ゆったりとした気分になって草の上にごろりと横わって、空を眺める。深い深い空だ。私はその底を知りたいと思う。私は眼を閉じて考える。涼しい風が吹いて来る。草がさわさわと風に鳴る。再び眼を開けると、
学校はおひる休みになったのであろう。子供達の騒ぐ声がきこえて来る。私は立ち上ってすぐ眼の下に見える校庭を見る。子供たちはフットボールをやっている。ボールが地に落ちてからしばらくしてやっとその跳ね上る音が聞えて来る。落ちたボールを奪い合って子供達は騒ぐ。愉快そうなその遊びよ。私は今まで、学校で、ただ悲しげにそれを見ていなければならなかったのだ。けれど今はもう悲しいとも嬉しいとも感じない。ただそのうちに
何だか腹の底から力が湧いて来るような気がして、私は思わず「おーい」と誰にと言うのではなく叫んでみる。けれど無論誰もそれに答えるはずはない。私は独り山にいるのだ。
ベルが鳴って子供たちはまた教室の中に這入って行く。私もまた、
晴やかな気持ちになった私は、我知らず学校でならった唱歌を歌い始める。誰もそれを
ああ自然! 自然には嘘いつわりがない。自然は率直で、自由で、人間のように人間を歪めない。心から私はこう感じた、「ありがとう」と山に感謝したくなる。同時にまた、ふと今の生活を思い出しては泣きたくなる。そしてその時には思う存分泣くのであった。だが、いずれにしても山に暮す一日ほど私の私を取りかえす日はなかった。その日ばかりが私の解放された日だった。
暑い夏のまさかりだった。
操さんはこれまで一度も訪ねて来たことがなかった。手紙の往復さえろくにしていなかったように私は思う。だが、操さんは私のような
操さんは二十四、五の美しい女だった。一人の
着いたとき彼女は、胸から
一通り挨拶がすむと祖母はすぐ操さんの着物に汗が
「おやまあ、みいさん、帯から着物から汗びッしょりじゃないか。脱いでお
こう祖母が言うと、操さんも、
「そうですね、着かえましょうか」
と答えて、今着て来た着物をぬぎ捨てた。祖母は自分でそれを持って行って、一枚一枚
操さんは嫁入り先の裕福な生活について祖母たちに話した。「ふん、ふん、そりゃ結構だねえ、お前さんは
私のこともまた話されたのに相違ない。操さんは私を尻目にかけて
芙江から十里ばかり離れたところに操さんの知人が住んでいた。操さんはその人を訪ねようかどうしようかと迷っているようであった。
「そんなら行ってお
「だけど、この子があるんでねえ、面倒臭くて……」と操さんはまだ
それは明らかに、子守として私をつれて行きたかったのであった。それを察した祖母は操さんに言った。
「いいじゃないか、坊やはふみにおんぶさせて行けば……」
困ったことになったと私は思った。この暑いのに、余り好きでない
「そうですねえ、そうしていただければほんとうに結構ですけれど、……でも、ふみちゃんは行ってくれるかしら……」と操さんはそれとなく私の同意を求めた。
私は当惑して、はっきりと返事をしかねた。と、いつもなら祖母からがんというほど
「なに、いやならいやとはっきり言えばいいんだよ。いやなものを無理にやろうとは言わないんだから」
温い言葉に飢えていた私は、そう言われた時、妙に
「ほんとうは私、行かなくってもいいんなら行きたくないの」
「何だと?」と祖母はいきなり、その
「何だと! 行きたくないと! 少しやさしい言葉をかけてやれば図にのってすぐこれだ。行きたくないもあるもあったものじゃない。行くのが当りまえじゃないか。百姓の鼻たれっ児の子守だった
祖母はいつの間にか庭下駄を
私は倒れたままただぼんやりとしていた。祖母は台所の方に駆け去ったがすぐにまた戻って来て、
私はすっかり疲れてしまっていた。身体が痛んで身動きさえもできなくなっていた。鮮人が二、三人何か言いながら通ったようだったが、私は起き上りもしないで、
が、いつまで泣いていたって
「そうだ、やっぱり帰って謝るより他に
絶望した野良犬のように私はのろのろと自分の巣――部屋に帰った。ぐんにゃりと横になって
そうした長い苦しみの後やっと夕方になった。
祖母は私の部屋と庭
思えば朝から私は御飯を頂いていなかったのだ。
「おお、よう来た、いい子だ、いい子だ」
こう言って祖母は天ぷらを二つ三つ子供の手に握らせた。そして私の方を見てくすりと肩をすぼめて笑った。
私はこっそりと家を出た。出ても行き場がない。すぐ下の
「また、おばあさんに叱られたのですか」と親切に声をかけてくれた。
私は黙って
「かわいそうに!」おかみさんはじろじろと私の哀れな姿を同情ある眼で眺めながら言った。「うちへ遊びに来ませんか、娘もうちにいますから」
私はまた泣きたくなった。悲しくて泣くのではなく、ただ大きな慈悲心に
「ありがとう、行って見ましょう」こう感謝して、私はふらふらとおかみさんの後に
おかみさんの家は、叔母の家の後ろの
「失礼ですが、お昼御飯いただきましたか?」
「いいえ。朝から……」
「まあ、朝っから……」と娘は驚いたように叫んだ。
「まあ、可哀相に!」とおかみさんは再びまたこの言葉を繰り返した。「麦御飯でよければ、おあがりになりませんか。御飯はたくさんありますから……」
さっきからの感情はもう胸の中に押し込んでおくことのできないほど高まった。私は思わず声を出して泣いた。
朝鮮にいた永い永い七ヶ年の間を通じて、この時ほど私は人間の愛というものに感動したことはなかった。
私は心の中で感謝した。胃から手の出るほど御飯を頂きたかった。けれど私は祖母たちの眼を恐れた。――鮮人の家などで貰って食うような
どう考えても
私はいつもするように茶の間の外の縁側に手をついて、私の
返事がなかった。
再び、三度、私は詫びごとを繰り返した。が、私の願いは
「うるさいじゃないか、黙っといで」と祖母はとうとう私をどなりつけるのだった。「昼間遊べるだけは遊んでおきながら、そろそろ日が暮れて行き場がなくなると帰って来て、そして、
私は叔母に
みんなは食事をすました。後片づけも叔母と祖母とで大急ぎですました。そしていつものようにベンチを持ち出して庭に
独り家の中に残された私は、この間に何か食べようと思った。が、食べものは何も見つからなかった。やっと私は、祖母の部屋の真うらの、広い
私はまた自分の部屋に帰った。部屋に這入ると、手探りで
庭では、近くの
私は祖母たちを
翌朝、眼が覚めたときはもう、朝日が上っていた。
「わびるのは今だ! 今出て行って、何と罵られても精出して働けばきっと
けれど、私の精神も肉体も全く疲れ果てていた。幾度起き上ろうとしても自然とまた倒れた。
何しろ前々日の晩に食事をとったきりなので、おなかが空いて空いて、空いたのがわからないくらいだったから、その身体のだるさったらなかった。起きて働くどころか足を持ち上げることさえ
そうこうしているうちに食事もすんだと見えて、操さんと叔父とは外出し、祖母や叔母も庭園の野菜畑にでも出かけたのだろう、家の中はしんとして声がなかった。
私はとうとう、機会を
「ああ、もう仕様がない!」私は思わず
幾分私は楽な気になった。だるい身体で寝返りを打ったり、
何かの音にふと眼をさますと、それは茶碗のかち合った音であった。うちでは今、おひる時であるらしかった。
「今度こそは」とやっとのことで私は起き上った。くらくらする
「私がわるうございました、もうこれからは決して
いや、真心こめてどころではない。今まさに首をはねられようとしている罪人が、あらん限りの力をもって生命乞いをするような、そんな真剣さをもってであった。
ああ、けれど結局それも無効であった。至誠は天に通ずというが、祖母や叔母は天ではなかった。
「きょうのお
「そんなに自分のわるいことがわかっているのなら、なぜ今朝でも早く起きてせっせと用をしなかったんだ。お前はまだほんとうにわるかったと思っていないんだろう。そんな根性でいる限り、わしは祖母さんに詫びてあげることもできん……」と叔母は私をねめつけて叱った。
大方こんなことだろうと思っていたものの、きっぱりとこう振り放されるともう生きた心地もしなかった。すごすごと自分の部屋に帰って来て、私はまた
と、ぼおっと気抜けした心のどこかに「死」という観念が、ふいと顔を出した。
「そうだ、いっそ死んでしまおう……その方がどんなに楽かしれない」
こう思った瞬間、私は全く救われたような気がした。いや、全く救われていた。
私の身体にも精神にも力が
十二時半の急行がまだ通らない。それだ。それにしよう。眼をつぶって一思いに跳び込めばいい。
が、それにしてもこのままでは余りにも
急がなければ時間に間に合わない。風呂敷を脇の下に隠し持って、私は裏門から出た。そして夢中で走った。一切を捨てて、死の救いへと、すがすがしい晴やかな心で……。
駅に近い東側の踏切りまで来た。シグナルがまだ下ってない。ちょうどいい。もう来るだろう。
叔母の家の東の高台から見られぬよう、私は、踏切り近くの土手の陰に隠れて着物を着替えた。前の着物はくるくると捲いて風呂敷の中に包み、土手脇の
土手の陰に
それを知ると、私は、今にも誰かに追跡せられ、捕えられるように思って気が気でなかった。
「どうしようか……。どうすればいいのか……」
澄みきった頭の働きは敏速だった。私はじきに今一つの
「白川へ! 白川へ! あの底知れぬ
私は踏切りを突っ切って駆け出した。土手や並木や
淵のあたりには幸い誰も人はいなかった。私はほっと一息ついて
心臓の鼓動がおさまると私は起き上った、砂利を
用意は出来た。そこで私は、岸の柳の木に掴まって、淵の中をそおっと覗いて見た。淵の水は蒼黒く油のようにおっとりとしていた。
私は何だか気味がわるかった。足がわなわなと、
私は今一度あたりを見まわした。何と美しい自然であろう。私は今一度耳をすました。何という平和な静かさだろう。
「ああ、もうお別れだ! 山にも、木にも、石にも、花にも、動物にも、この蝉の声にも、一切のものに……」
そう思った
祖母や叔母の無情や冷酷からは
母のこと、父のこと、妹のこと、弟のこと、故郷の友のこと、今までの経歴の一切がひろげられたそれらも懐しい。
私はもう死ぬのがいやになって、柳の木によりかかりながら静かに考え込んだ。私がもしここで死んだならば、祖母たちは私を何と言うだろう。母や世間の人々に、私が何のために死んだと言うだろう。どんな嘘を言われても私はもう、「そうではありません」と言いひらきをすることはできない。
そう思うと私はもう、「死んではならぬ」とさえ考えるようになった。そうだ、私と同じように苦しめられている人々と一緒に苦しめている人々に
私は再び川原の砂利の上に降りた。そして袂や腰巻から、石ころを一つ二つと投げ出してしまった。
私は死の国の
私はもう子供ではなかった。うちに
学校においては運動や遊戯を、家庭においては一切の自由を、それらのすべてを奪われた私である、けれど私のうちに生きている生命はそれで
ちょうどその頃であった。
ある日私は、例によって子供達が愉快そうに遊戯している有様を、校舎の壁に
「それ、何?」と私はその友達に訊ねた。
「『少年世界』だ」と友達は答えた。
「面白い?」
「うん、面白い」
私はそれを読みたくてたまらなかった。
「ちょっと見せて……貸してくれない?」
「貸してもいい」
それを手に取ると、私はその第一頁から読み始めた。子供達が遊んでいる間、吸い込まれるように
無論私は祖母に見つけられて叱られた。けれど私はもうどうしても思いきることができなかった。それからは家で読むことだけはよしたが、登校の途中や帰り途や学校の遊戯時間や授業時間最中にさえも時々そっと読んだ。そして次ぎから次ぎへといろいろの友達からいろいろの雑誌や本を借りて読んだ。
困ったのは学校を出てからのことであった。私は始終家の中にいなければならなかった。だから誰からも何も借りることができなかった。何とかして本を読む方法がないかと、私はそればっかり考えていた。と、そこへ、近所の家の娘さんが月々とっている『婦女界』かなんか持って来た。私はそれを借りた。そして
私は嬉しくてたまらなかったが、祖母たちの顔を見てもじもじしていた。と、祖母たちもその人の手前、礼を言って受け取ってくれた。で、私はそれを公然と読むことができた。一、二冊読む間は祖母たちも黙認してくれた。が、そのうちに祖母が言い出した。
「どうもふみに本を読ませると、その方にばかり気をとられて、うちの仕事はそっちのけになって困る。黙ってりゃいい気になって
叔母ももちろん同意であった。
「あら困っちまうわ」と私は泣き出しそうにして、「では昼間は誓って読みませんから夜だけはどうか……」と甘えるように
だが、祖母たちは聞き入れなかった。そして読みさしの雑誌をとりあげて、貸し主の前には
それ以来、私の眼に触れる
私はただ、ルビを拾い拾い読む祖母の音読をたよりにその内容を知ろうと努めた。時々はこっそり横眼で見て、三面の見出しだけを読んだ。それからまた、朝晩のお掃除のときを利用して、右の手で
叔父の貧弱な本箱の中には数冊の書籍があった。私はそれを読みたいと常々から心がけていたが、その折がなかった。ところがあるとき叔父夫婦が旅行して不在になった。この時だとばかりに私は、そのうちから一冊の本を取り出した。それはアンデルセンのお
「ふみや、ちょっとこの木の枝を折っておくれ」と祖母の
「お父さんの大事にしている本を盗み出すなんてお前は何という子だ。もし汚したり破ったりしたらどう言ってお詫びするつもりだえ? おそろしい子だよ、お前は……」
祖母たちにとっては、本は読むべきものでなくて、部屋の飾りであったのだ。
祖母はそれをもって部屋に帰った。そしてあたふたと叔父の貧弱な本箱を押入れの中に仕舞い込んで
私はとうとう、私の最後の友であり世界であるあらゆる書籍から遠ざけられてしまった。学校を出て叔母の家を去るまでのまる二年の間、私は全く何ものをも読むことができなかった。私の読み得る字といっては、ただ私の部屋に貼ってある古新聞の途切れ途切れの文句だけであった。私は毎日のようにそれを読んだ。すっかり暗誦するまでにそれを読んだ。祖母たちが子供には新聞なんか読ませてはならない、という高尚な
こうした境遇のうちに、私はともかくも十四の春、高等小学だけを出た。
甲州に私をつれに来たときに約束した女子大学はおろか、女学校にすらやってくれなかったのだ。これが私の受けた最大限度の教育であったのだ。いや、その高等科ですら、授業料が尋常科と同じく四十銭でなかったなら、そして、高等科にもやらないという
卒業後の生活は耐えられないものだった。学校に通っている時分は、ともかくも半日は祖母の眼の外にいることができたのだが、今はどうしても、朝から晩まで私の全生活を祖母の意地わるい監視のもとに置かれねばならないのだ。今考えて見ても、私が今こうして
小学校を出るとすぐ、多分その年の夏時分だったろう、祖母は裏の物置小屋の土間に
女中部屋は祖母の部屋と向い合っていた。壁
とはいえ、私は決して、この物置小屋の陰気さを
一緒に学校を出た友達のうちには、さらに上級の学校に進んだものがある。何か職業を求めて自活の
若い生命はぐんぐんと延びたがる。けれど何一つこれを伸ばしてくれるものがない。私は
恐らく私は不眠症になったのであろう。仕事をして頭が疲れ、身体がだるくなって、よく
思えば、朝鮮に来てからの私は
そうしたことを書くと、私が嘘を言っているのだとしか思われないだろうと思ったからである。少くとも「もう飽き飽きだ。要するにそれは、お前のいじけたひねくれ根性のおかげだ。いかに冷酷なお前の
かように割引して書いてきたものを読んだだけでもやはり、そう思われる人が多いだろう。そして私も決して、私がいじけていなかったとも、ひねくれていなかったとも言わない。事実私はいじけていた。また、ひねくれてもいた。だが、どうして私はそんなにも
小さい時から私は人一倍のお転婆であった。私は男の子と男らしい遊びをするのが好きであった。私は今も決して、陰気な女でもなければ憂鬱な
愛されないで苛められたがゆえに私はひねくれて来たのだ。一切の自由を奪われ、抑えつけられたがゆえにいじけても来たのだ。学校ではそうでもなかったが、家にいるときには物一つ言うにも用心しいしい私は言った。今はこんなに何でもつけつけ言うのにその頃は決してそんなことはできなかったのだ。私はまず、祖母や叔母の気持ちを察した。そしてそれに
盗みはいいか悪いか、私は今そんなことを考えまい。けれど、徹底的に真実と率直と正義とを求める私としては、人のものを盗むなどいうことを徹底的に
どうして私がそんなさもしい根性になったのであろう。一通り私はその事情を話さねばならない。
子供に現金を持たせて買い物をさせるなどは
ところがこれは、私が私自身のものを買う時のことに限っていて、祖母たちの家の必要なものを買う時にはこの限りではなかった。ことに私が学校を
朝鮮の田舎には普通月五、六回の市が立つが、
市場は以前、白川近くの方にあって、朝鮮でも指を折られるほどの大きな市が立ったそうであるが、鉄道が敷かれてからはずっと
上品な家柄をもって任じている叔母の家では、そんなところに店を出すようなみっともないことはしなかったが、さらに、「下等社会のおかみさん」達のように自分で市場に物を買いに行くようなことさえ恥としていた。といっても、根が人一倍けちと来ているのだから、どうかしてその市場の安い品物を買って来る必要があった。で、その役目を私は、いつでも引き受けさせられるのであった。そしてこれが私を、盗むことの余儀ない
何でも私が十四歳ぐらいの年の暮であった。その頃は魚が少くて値段が高いというので、叔母の家では、魚の代りに卵をなるべく多くお正月の
で、私はそれを買いに
だが、子供の私にはその懸引きなんか上手にやれるはずはなかった。第一、品物が高いのか安いのかさえほんとうはわからないのだった。
時々は私も安いのを買って来ることがあった。すると祖母は「うんこれは安い」と喜んでくれたが、大抵のときは祖母から「ちと高すぎるようだな」と不機嫌な顔で叱られるのだった。
ある日も私は、言いつかっただけの卵を買って来た。すると祖母はそれを、自分の
「この卵は馬鹿に小さいじゃないか。だからこれはいつもより高いよ。今しがた三浦のおかみが市場から帰って来て、今日は卵が馬鹿に安いと言っていたがねえ……大方お前は、今川焼でも買って食べたんだろう、貧乏人の子の仲間になってさ……」
何という
とはいえ、何といっても私はまだ子供である。事実、多くの場合、何を買っても大人のようには安く買い入れることができなかったようであった。
私はそれが辛かった。そこで私は、どうすれば祖母に喜んでもらえるだろう? といろいろと思案した。そしてその思案の
市場にやられる日には私は、まず、家の者の気づかない時を
そんな時には、祖母はもちろん笑顔を見せた。喜んでくれないまでもふくれ
もっといい方法がないかと、私はまた思案し始めた。そしてまた一策を案じ出した。
たしか十五歳の冬だったと思う。市日の朝、私は、何か他の用事にかこつけて庭先の
倉庫の左手には
米の上の字を私はじっと
いよいよ市場に出かける時が来た。辺りに人のいないのを見届けた時、私は、かねて隠してあった袋を裏門から持ち出した。
袋は無論羽織の下に隠して持った。その上、うちの者に見つからぬようにと、同じく市場に向って行く鮮人達の間に混って、こそこそと市場の人込みの中へもぐり込んだ。
市場は例によって賑やかだった。人々は店から店へと渡り歩いていた。店にはいつもの売り手がいつもの場所に陣取っていた。私はもう、どこに何が売られているかを大抵は
右往左往しているうちに時間は駆け足で進んで行った。もう四時にも近いであろう。日はだんだんと傾いて行った。早く帰らねばならない。「何をしていた、何かまた買い食いでもしていたろう」こう言ってまた叱られるだろう。
村々のおかみさん達が、物々交換のように、品物を持って行っては金にかえ、それでまた必要なものを買っているのを私は知っていた。私もそれをやればいいのだ。だがそれがなかなかできなかった。一つには私にもやはり
が、もう時間がなかった。絶体絶命だと私は考えた。そこで私は、ありったけの勇気を出して、おかみさん達のやっている当り前のことをやって見ようと決心した。
ふと気がついて見ると、私は今、知合いの鮮人のおかみさんのやっている飲食店の前に立っていた。ここだ! ここへ這入ろう! と私は考えた。だが、客はまだ残っていた。早く帰ってくれればいい。後の客が来なければいい。そう心の中で願いながら、私はその辺を二、三度も往来した。そして、やっと客の途絶えた隙を見出した時、そっと私はその飲食店の中に這入って、耳まで熱くほてった
「あの……おかみさん、米を買ってくれませんか。好い米です……いくらにでもいいんです……」
おかみさんは驚いたような顔をして私を見た。その顔を見ると私はまた一層おびえた。断られたらどうしよう、祖母に言いつけられたらどうしよう、私はもう穴があったら這入り込みたいような気がした。
が、何という救いであったろう。おかみさんは答えた。
「どんな米だか、見せて下さい」
ああ、たすかったと、私はほっとして胸を
おかみさんは袋の口をあけて、
「なるほど良い米ですねえ、どれだけあるのですか」
「五升あります」
「たしかに五升ありますね、大丈夫ですね」
米はたしかに五升以上はある。袋に入れるとき私はたっぷりと五升量って、なおその上少し足し米をさえして置いたのだ。だが、今はそんなことはどうでもいいんだ。早く取り引きをすまして、いくらでもいいからお金に替えたいのだ。私は答えた。
「ええ、充分あります……でも、何だったら、お金はいくらでもいいんです」
やっとのことでおかみさんはそれを引き取ってくれた。代価を払われると私は、その金を引ッ
だが、何という
「あの時もしあれが発覚したら……」と私は今でも時々そのことを思い出してはぞっとする。けれど不思議に私は、そうした時の結果の恐ろしさを考えるだけで、私自身たいしてわるいことをしたとは思わない。私は、私がああいうことをしたのは、それをするようにさせられただけで、私自身にさほどの責任が課せられるべきでないと今でも思っているのだ。むしろ私は、私にああした汚点を浸み込ませたのだ――と思うところの、――私の祖母のけちと
朝鮮における私の生活記録が余りにも長すぎはしなかったかと思う。けれど私は、私としてはせめてこれくらいのことは書かないではいられなかったのだ。と私というものが、朝鮮にいた足掛け七年の間に、どうしてこうもいじけたひねくれものになったかという理由を解ってもらうためにだけでも……。
とはいえ、今や私は、私の地獄であった叔母の家に別れを告げる時が来た。私を
十六の春が私に訪れた頃であった。ある日祖母は、私を彼女の部屋に呼んでこう言うのであった。
「なあふみや、わしは明日ちょっと用があって
子供の時分からいい着物を着たいなんていう欲望を余り持ち合わさなかった私ではあるが、でも
「あたし着物なんか要りません」と私はよっぽどこう言ってやりたいような気がした。けれど私はまた、もしかそんなことを言って祖母の気にさわったらどんなことになるかも知れないと考えて、そうは言いかねた。そしてただ、祖母の言いなりに承諾することにして、すぐその場から貯金全部を払い下げに出かけて行った。貯金は、弁償代金の残りが六円と、その後母から小遣にと送ってくれた四円とで、都合十円余りあった。
翌日、祖母は約束の通り一反の銘仙を買って来た。黒っぽい地色に、三十六、七の女でも着るような柄のわるい地味な
もっとも、いよいよこれを着物とする段になると、
それはしかしどうでもいい。わからないのはどうして祖母が、突然こんなことを考え出したかということであった。が、その理由はやがてはっきりとわかって来た。
何でも四月も初めの三、四日頃であったろう。ある日私が
「はてな、これをどうするつもりなんだろう。もしかすると私を……」と私は、それを見るなりこう考えた。
そう思うと私は何だか踊り上がりたいような軽い気持ちになった。が、やがてまた、何だか不安な気にもなった。とうとうお払い箱になるのかといった一種の傷つけられた自負心がそう思わせるのであった。
私はしかし、この行李について何も
叔父が私に、
「お前も永らくうちにいたが、学校も高等をすましたし、かたがたもうやがて結婚でもしなければならぬ年頃でもあるしするから、山梨の方へ帰るがいい、ちょうどおばあさんも明日広島の方へお
それで私は一切を諒解した。
私はもう年頃である。余り永く置くと、私を嫁入りさせるために無駄な金がかかる。帰すなら今のうちだ。それには祖母が広島に出かける時がちょうど都合がいい、一緒に連れて行ってやろう、まあ、こういった算段から私を郷里に帰すことを、去年の暮あたりからきめていたのに相違なかったのだ。
だが、郷里にかえすにしても余り
食卓を片づけるとすぐ祖母は私に、私の部屋から、例の行李と着物とを持って来いと命じた。私がそれを持って来ると、私には一切手を触れさせないで、祖母と叔母とが二人して、私の衣類の一枚一枚を
「ねえお母さん、自分で子供を生まないってことは考えて見ると随分損ねえ、こうして心配しいしいお金を遣うんだから……」なんて、祖母に言うのだった。
祖母はまた祖母で、私が昔着て来た、もう今となっては役にも立たぬ衣類なんかを行李につめながら、
「なあふみや、お前が昔着て来たモスの羽織は、裾よけに直してこの通りちゃんとお前の見ている前で行李の中に入れたよ。も一つの白っぽい単衣はお前が自分で着破ってしまって今はもうないんだよ」と説明してから、「それから言っとくが、うちに帰ってから、朝鮮のおばあさんがいい着物をたくさん持って私を連れに来たのは、あれは本当は私を
無論私は「ええ」と答えた。だが腹の底では「私はもう子供ではありませんよ」と言いかえしていた。
翌日、私と祖母とは
祖母は貞ちゃんを女学校にあげる相談もあり、かたがた、祖母の本家に当る
家を離れるときに、叔父が私に小遣銭だと言って五円かっきりくれた。そしてそれが私に贈られた岩下家の全部であった。駅まで叔母が見送ってくれた。
待つ間もなく汽車が着いた。私と祖母とはそれに乗った。
足掛け七年も住んだ土地に別れるのだというのに、私には涙一滴もこぼれなかった。悲しくも心の中ではむしろこう祈っておりもした。
――おお汽車よ! 七年前お前は私を
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郷里の駅に着いたのはそれから三日目の夕方であった。父が以前いたことのある
私より二つ三つ年上の千代さんはいちはやく私の姿を見つけて駆け寄って来て私の手を固く握った。
「まあ、ふみさん、よく帰って来ましたね」
「ありがとう。とうとう帰って来ました」
こう言って私達は互いに手を握り合ったまま、しばし無言のままで立っていた。
私は何も話したくなかった。嬉しいような、面目ないような、何とも言いようのない心が私に沈黙を守らせた。
「荷物はどうしたの?」
「別に何もないの。
「そうねえ、じゃ、すぐ帰ることにしましょう」
「ええ」
二人は改札口から外に出た。そしてすぐ村に向って歩き出した。けれど、もう夕暮である。日のあるうちに帰ることはできない。そこで私達は、駅から家までのちょうど中程にある叔父の寺に――これは後で書く――泊った。そして、翌日、家に帰りついたのはもうお昼頃であった。
春であった。村は
眼の前に母の実家が見えた。東の小川の丸木橋を渡って、家の前に出ると、叔父がそこの野菜畑で働いていた。
朝鮮を経つとき、私は
叔父は私の姿を見ると打ち下す
「叔父さん、とうとう帰って来ました……かんにんして下さい、私がわるいんです」
やっと私はこう挨拶することができた。私はもう泣いていた。
「何、いいんだよ、ふみ、何もかもわしは察している」
ふだん黙り勝ちな、むっつりやの叔父は、滅多に笑うことを知らない顔に微笑みをさえ浮べて、慰めてくれた。鍬を杖に、
「何も泣くにゃ及ばん。しばらく会わなんだ間に随分と大きくなったなあ。それだけ成人すりゃ何とでもなる、心配するこたあない」
家に帰ればどんなに叱られるかわからないと、心配しいしい帰って来たのだ。だが、叔父は叱るどころか、情愛と祝福の手をさえさしのべてくれた。肩の重荷が急におろされたような喜びが私に来た。「やっぱりここがほんとうの家なのだ」と私は思った。
叔父は仕事をやめて一緒に家へ帰ってくれた。叔母は台所で
「ああ、ふみか、よく帰って来た。まあ大きくなったこと!」と叔母も私を歓迎してくれた。
庭の畑に出ていた祖父も、裏側の自分達の部屋で
「おお、ふみだ。やっぱり帰って来ただ。俺や余り突然だったで、何かの間違いでないかと思っていただ。よう帰って来た」と祖父が言えば、
「大きくなった、達者だったかい? 何にも音沙汰がないで、心配してただよ」と祖母が附け加えた。
私は井戸の水で足を洗った。千代さんも同じようにした。そしてむさくるしいながらも居心地のよい座敷に上った。
やがて
食事をしながら叔父たちはいろいろのことを訊ねた。朝鮮のこと、
祖父母は別に食事をしてここにはいなかったから、叔父たちが畑に出ると、私は祖父母の部屋に行った。そしてまたいろいろの話をした。
私の帰ったことを知らされた母もその
「大きくなったねえ」と嬉しそうに母は私を眺めながら、眼に涙をためていた。そして私の髪に
「まあ、この腕!
とまず驚いて、「きっと朝から晩まで水仕事ばかりさせられていたんだね」と急に泣き出してしまった。
私のせつない願いを
「朝鮮でお前はどうしてたの? 学校はどこまでやってくれたの?」
こういった風に母はしきりと私の朝鮮での生活を知りたがった。思えば私は、朝鮮から何もほんとうのことを書き送らなかったのだ。送れなかったのだ。私は自分勝手に手紙を書くことを許されなかった。たまに書いてもいちいちこの監獄でのように祖母たちの
私はそうしたことについて何も話さなかった。それはそんな
「どうも変だとは思ってたよ。初め一、二度は手紙に岩下ふみと書いてあったが、間もなく金子ふみに変ったので、こりゃ何かわけがあるんだなとは感づいていたよ」と母が言えば、
「でも、まさかこうして、突然一言の挨拶もなしに裸で送り返して来ようとは思わなかったよ」
と祖母も
そうして二人は、この前私を連れに来た時の朝鮮の祖母の言ったことやしたことを想い出しては、思い当ることがあるといった風に、ことごとに岩下一家の仕打ちを呪った。
七年目に帰って来て見た実家の方の様子はしかしかなり変っていた。祖母はやはり母家を仕切って裏側の部屋に住んでいたが、間の
家の中の空気もまた、変っていた。同じ
母は他家に嫁いでいるとはいえ、もとの
既に記しておいたように、母は幾人かの男と関係しかつ同棲したが、私が朝鮮に行ってから後もやはり同じことを繰り返していたらしいのである。私は今、そのために母を責めようとは思わない。なぜならそれは、母に貞操観念が薄かったためでもあろうが、同時にまた母は、ひどく意志の弱い、一人では到底生きて行けない
けれど、どこの馬の骨とも牛の骨ともわからぬ男とくッつき合って家を出て、さんざ苦労をした揚句、男から男へと渡り歩いて帰って来た私の母のような女に、何の条件もない完全な家から結婚などを申し込んで来るはずはなく、母の片づくことの出来るのは、どうせどこかにいわく因縁づきの者でなければならぬのは、まず当然なことと言わねばならぬ。そしてそれは事実、すっかりその通りであったのだが、
で、今もまた、最初は私を見て喜び、朝鮮の話をきいては
はたでそれをきいていると、なるほど母も可哀相だと思わぬではないが、しかし私の朝鮮における苦しみなどとは比べものにもならない。しかも、私がこうして何一つその苦しみを訴えもせぬのにどうして母はこんなにも愚痴っぽいのであろうと思っていやにもなる。あの暗い陰惨な地獄から
そこで私は、せっかく久し振りで会ったのではあるが、そんな話は聴くのも
そんなわけで私はただ村の辻をぶらぶらと歩いてまわってばかりいた。するとある日、多分村に帰ってから四、五日経った頃だったろう、ぼんやりと大家の
「
急に私は、自分も一緒に行ってみたいという気になった。
「ちょっと待っててくれない? 私も行くから……」
みんなは私の願いを快く
澄んだ水の流れている岩の多い、
山はもちろん芝生に覆われているのではなかった。かなり背の高い
真綿で頬かむりしたようなぜんまいが、洋髪に結んだような蕨が、
散り散りに別れて、大きな声で呼びかわしながら、
勝ち誇ったような元気で私は家に帰って来た。
「
帰って来るなり私は、重くなった籠を祖母の前におろして、祖母の歓びの言葉を期待しながら言った。けれど祖母はあまり喜ばなかった。
「蕨? 蕨は
私は失望した。
「そう? じゃ、叔父さんたちにあげましょうか?」
が、祖母はそれもまた喜ばなかった。一軒の家に住んでいながら、親と子との間柄でありながら、仲のわるくなった今となって、たったこれっぽちの親切さえも惜しまれるのだったらしい。
祖母は言った。
「大家にはやるにゃ及ばん。
元栄とは私の一番小さい叔父である。
小さい時から温和な
私が朝鮮から帰って来た日、千代さんと二人で泊ったのはこの望月庵で、私はもうその叔父の顔をよく覚えていた。そこで私は、その翌日、祖母に言われるままに、蕨をもって望月庵を訪ねた。
私の行った時は、叔父は黒無地の着物に白い
「こんにちは」と声をかけると、叔父は顔をあげて私を見て、「おおふみちゃんか、よう来た」とにっこりと笑って立ち上った。そして、「さあまあお掛けよ」と自分でまず縁側に腰をかけた。
私は私の採って来た蕨を叔父の前に置いた。そして、昨日自分が友達と一緒に採って来たこと祖母が持って行けと言うから、遊びがてら持って来たということなどを話した。
叔父は私の好意を感謝した。そして蕨を風呂敷包の中から手にとって見たりなんかした。それから、
「どうだい、朝鮮とうちとどちらがいいかい?」などと訊いた。
朝鮮のことには触れたくなかったので、私はただ、
「同じようなものだわ」と答えたきりで「叔父さんはここで独り寂しかない?」ときいてみた。
「寂しくないこともないね、だが気楽でいいよ」と叔父はまた
何とはなしに私は、この叔父が、私の今まで接して来た人々のうちで一番
百姓家とは違って、庭は
私は今や、何も考えていなかった。くしゃくしゃする何事もきかされねば、苦しい圧迫を何ものからも受けてはいなかった。初めて私が安息を得られたような気がした。
今一度望月庵に帰ってみると、叔父は台所で、何か煮物をしていた。私を見ると台所から叫んだ。
「上って新聞でも見ているがいいよ、ふみちゃん、今御馳走をつくってあげるからね」
言わるるままに私は上ろうとした。その途端私は、私の側に
「この犬、叔父さんが飼っているの?」
「ああそうだ」
「何ていうの?」
「エス」
「エス? 変な名前ね、エス! エス! エスお出で!」
エスは尾を振り、頭を振り、跳ねたり、くんくんいったりして私に飛びついて来た。私はまたエスと一緒にそこいらの田のふち、山の裾などを歩いてまわった。
私は朝鮮の叔母の家に飼われていた犬のことを思い出した。あの寒い寒い朝鮮の冬の夜を、
朝鮮にいるとき私は、自分と犬とをいつも結びつけて考えていた。犬と自分とは同じように
思わず私はエスを抱きしめた。
「エス、お前は
小さな声で、私は心からこう言った。
その時、叔父の声がした。
「ふみ、さあお上り、おひるが出来た」
私はもう一度犬をしかと抱いて、それから上った。
私のもって来た蕨が、いつの間にかゆでられ、卵と一緒に煮つけられていた。御飯も温いのが出来ていた。久しぶりで私は美味しい食事をとることができた。
おひるが済んだ頃に、前の慧林寺から若い坊さんが二、三人遊びに来た。みんな私よりは三つか四つぐらいの年上で、遊ぶのにはちょうどいい相手であった。しばらく話しているうちに、私達はもうすっかりお友達になった。
私は、後で自分でも恥しくなったほど、それらの坊さん達を相手に
夕方になって私は帰った。帰って見ると、母は叔母の
私はそれから、ひまさえあれば叔父のところへ遊びに行った。
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親戚の誰かが私の帰ったことを通知したとかで、浜松から父が来た。
小さい時、母と私とを捨て去った父である。朝鮮で私をあんなにまで
私は父に好意を持つことができなかった。反感をさえ持っていた。けれど父はやはり、久しぶりで会った私に何らかの愛着を感じているようであった。その上、今になお父の権威を私に感じているらしかった。私はそれを
父はしかし祖父の家には永く
叔父は父が訪ねてくれたことを非常に喜んだ。父も祖父の前に出た時とはまるっきり違った
「随分久しぶりでしたねえ、よく来て下さいました」と叔父が
「別れてからもう
叔父は微苦笑とやらをした。
「私が兄さんのところに御厄介になったのは
「そうそう、わしの興津時代に、あんたが来て遊んで行ったことがあるねえ。あの頃はほんの子供だったッけ……」
「だけど、あれで決して不真面目じゃなかったんですよ」
こう言って叔父はハッハッハと
「そりゃそうだ」と父も同じように声を出して笑った。
その頃叔父は、一時坊さんをやめて船乗りになろうとしていたのだった。その口を見つけるまでにしばらく父の家に
そこで私はここで、叔父の経歴を少し物語っておいた方がいいと思う。
前にも言ったように、叔父は十二、三の頃に坊さんになるのだと言い出した。金子の家の
「なあ、おとッつあん、あんなに言うのだからそうしてやったらどうだろう。あの子は生れた時えなを
そう言われると祖父もしばらく考えていたが、やがてとうとうこれも祖母の意見に従った。
「そう言えばそうだなあ。何にしても百姓なんかしているよりやずっと楽な生活ができるに違いない」
叔父が慧林寺の小僧となったのはそれから間もなくであった。慧林寺は武田
が、叔父はもともと何か宗教的な感激や動機があってお坊さんを志願したのではなかった。この寺の他の坊さんと同様に、ただ、坊さんになればのらくらしていても楽に食って行けるといったように、ごく
だから、十六、七になってそろそろ性の悩みに襲われ始めた頃にはもう、僧侶としての自分の生活に疑いを抱き始めていた。
寺院生活は表面はなはだ平和に見える。だが、若い者にとっては平和のみが絶対の価値ではない、若いものには平和なんかはどうでもいい。それは去勢された人間の望むことだ。若い健康なものは、もっと
こう叔父は考えた。そして、それがこの寺院生活のうちで達し得られぬことをこの上もなく不満に思った。
叔父はとうとう決心した。自分の
海上の生活は甲州の山奥の百姓の
横浜に上陸したとき、しかし叔父は実家の人達につかまった。そして無理に家に連れて帰られた。
よく自分の将来を考えてみよ。船乗りなんかして何になるのだ。お前はたくさんのお弟子のうちでも
こういった意見を叔父は、祖父たちからも円光寺の和尚さんからもきかされた。叔父は止むなく、再び寺に帰った。
けれど叔父はもう以前の純真さをもってはいなかった。叔父はただ、みんなの意見に従って再び坊さんの生活に這入っただけだった。叔父はやがて、師匠に従って京都に行った。そして
だが、その頃から叔父はもう小さな
朝鮮から帰って来た私を迎えに来てくれた千代さんが、私と一緒に泊まったのはこの叔父の望月庵であった。私達はその晩、三人で奥の
叔父と千代さんとの関係は、円光寺にも村の
とはいえ私はまだ、叔父のそうした経歴については知っていなかった。そしてただ一種の好意を叔父に寄せているだけのことであった。
父が大の酒好きであることを知っていた叔父は、
「ふみ子のことといえば……なあ
「そうですか、ようござんす……」と叔父は立って「じゃどうかこちらへ……」と父を促した。
二人は危なげな足もとで別室に連れ立って行った。
私にきかせてはならぬ話! しかもそれは私に関した話であるに相違ない。私は何だか不安をも感じ、いらぬおせっかいだといった反抗的な気分にもなった。が、黙ってただ独りぽつねんとしていた。
二人はこそこそと何か小さな声で話していたがやがてその話も済んだと見えて、別室を引き上げたらしい気配が見えると、叔父はもう普通の声で、
「そうして下されば大変結構ですよ。第一本人のために非常な仕合せだと思いますね」と言いながら、父をつれて私のいる部屋に這入って来た。
二人はまた上機嫌で盃をあげた。
二人は別室で何を話して来たのだろう。私は別にそれをきこうとはしなかった。二人もまた、それについて私に何も話さなかった。
父はただ、突然話をかえて私に言った。
「わしは今まで、お前には何もしてやらなかった。わしはそれを何とも思っていなかったのではないが、今までのところどうにも
私は父を
叔父の家の別室で叔父と父とが私について話したことの内容を知ったのは、浜松の父の家に着いたその晩だった。
汽車に疲れたので先に寝た私は、ぐっすりと
自分のことが話されているのだ、と思うと私の神経は急にぴりっと引きしまった。枕から頭をあげて私はきき耳をたてた。
小さな声で父が話しているのであった。
「……その寺はまだ正式には
そこまで聴いたところでは私は「何だつまらない」といったように気になった。で、再びまた頭を枕につけて眠ろうとすると、すぐにまた、ふみ子という声がきこえた。私はまた注意してきいた。
「……隠居のおばあさんの話では、ふみ子は何でも、帰って来るなり早々、円光寺の娘と一緒に元栄のところに泊ったのだそうだし、それからもしょっちゅう元栄のところに遊びに行くということだ。わしの見るところではどうも、あいつ元栄に
その言葉をきいて私はびくっとした。暗い部屋にひとりいながら、急に顔がほてってくるのを覚えたと同時に、「ほんとに私そうかしら……」と自分に訊ねてみた。が、「そんな馬鹿なこと……」と自分で自分を打ち消してけろりとなった。
が、父の話はまだ続く、
「そこで俺は、単刀直入、一気に元栄に相談をもちかけてみたんだ。どうだ。お前、ふみ子をお前の嫁にもらわないかとね。すると元栄は一も二もなくそれを承知したよ……なあに、少しぐらいひとが何と言ってもいいやね、あの寺へふみ子をやっておきさえすりゃあ、生涯喰いッぱぐれはないし、第一、こちらの都合もいい……」
ああ、父は私を、私の叔父のところへ嫁にやろうとしたのだ。いや、既にその約束をしてきたのだ。何という恐ろしいことだろう。父は私を奴隷として叔父に売ったのだ。何という
だが、不思議に私は、その時の私は、その話をきいて何とも感じなかった。嬉しいとも悲しいとも、いいことだともわるいことだとも。私の生命のうちには何かしら異性を求むるものが芽生えていたのには相違ない。けれど、私はまだ嫁に行こうの
とはいえ、何といってもこのことは比類のない
その時私は何も感じなかった。いや、その後もしばらく同じであった。けれど私とても決していつまでも子供ではない。また、いつまでもそう無知ではあり得ない。この事件の真実の意味をはっきりと見きわめることのできたとき、ああ私はどんなに歯を喰いしばって泣いたことであろう。
父は私を、望月庵の財産のために、そしてその財産から自分が受け得るであろう利益のために私を一つの物質として私の叔父に売ろうとしたのだ。そして叔父はまた叔父で、処女の肉を
父の
なぜなら彼は、一方で千代さんと恋をして情を通じていながら、他方で私を彼のなぐさみものとしようとしたからだ。私について父に約束しながら、それから半月と経たないうちに、また他の女をあさろうとしたからだ。私はそれを、後で彼自身からきいている。彼は言った。たしかに自ら言った。
「あれから――私が父と一緒に彼を訪ねた時から――十四、五日経った頃だ。千代がまた水島という東京の友達をつれて来て僕のところに泊って行ったが、その水島という女はとても素敵な美人だった。千代なんかとは段違いに美しかった。僕はそれで駅までわざわざ送ってやったが、その時僕は水島に十六、七になる妹があるときいてたまらなくなった。そして四、五日と経たないうちに、こっそりと寺を脱け出して、東京の
この話をきいた時分、私はまだ叔父と盛んに手紙のやり取りをしていた。もっともそれは、お互いに恋の手紙といったほどのものではなかった。私としてはただ、形も何もないある憧れの心を
私は言った。
「何でそんな妹なんか追っかけて行ったの? 水島という人がそんなに美人だったらその人を愛してあげればいいのに……」
すると、叔父はふふんと笑ってこともなげに言った。
「いやなことさ。いくら美人でもありゃあもう処女じゃないよ……」
そうだ、その頃、叔父の求めたものはただ処女だったのだ。そして私もまた、処女だったので、ただそれだけの理由で私を彼の妻にするといったような馬鹿気たお
父は浜松の
家は通りから少し引っ込んだところにあって、二十円ぐらいの家賃をとられそうな小ぢんまりとした
家には
父の仕事はしかし、相も変らぬ
面白いことには、父は今もなお大の迷信家らしく、居間の壁には、天井裏に近く棚が吊ってあって
軸の前には「佐伯家系図」と書いた細長い
父はこうした外観で、その
こうした父の生活を私は好かなかった。何で父はこうも嘘ばっかりで固めた生活をしなければならないのだろうか。何でこんなに
たとえば、叔母が台所で働いているような時に、私が部屋で本でも読んでいようものなら、父はすぐ大きな声でそれも私に対してよりはむしろ叔母に聴かれるのが目的であるように「ふみ子何をしているのだ。お母さんにばかり働かせて自分が勝手に遊んでるッて法があるか……速く行ってお母さんの手伝いをしろ」といった風に、怒鳴りつけるのだった。そして叔母がいなくなると私を自分の前に座らせて眼をうるませながら「ふみ子、わしはよくお前を叱るが履き違えないようにしてくれにゃいかんよ。わしはお前をこき使いたくはない。だが、世の中というものはそう簡単に行くものではない。わしがやかましいのも結局はお前のためを思うからなんだ。何しろお前とお母さんとは義理の仲だということを忘れてはいけないよ」などと言い含めるのだった。
こんなことをする父を見ると、私はむしろ、哀れなる父よと言いたくなる。なぜなら私は、何で私が叔母に義理立てをしなければならないのであろうと考えるからだ。父は自分のしたことを棚にあげて、しかも
こんな風のことから私は父の家に来て十日経ち二十日経つうちに、父の家の空気と私との間にはどうしてもどこかソリの合わぬところがあるのを感じ始めた。つまり、私が父の家の者でないということが段々と私にわかってきたのだ。
中にも一番困ったことは、父の家で行われる朝の礼拝であった。
父の家では、父も叔母も弟も、毎日必ず、朝食前に床の前にきちんと座って、例の「佐伯家系図」に向って
無論これは、父のような思想の持ち主にとっては、
みんなと一緒に、その系図の前に座らせられて、それを拝まされるのは私にとって非常な苦痛であった。しかも、父はいつも頑張って私を監視しているのだった。心にもない
浜松に来てから私は、土地の実科女学校の裁縫専科に入れられた。これは、父が私を望月庵のおだいこくにするために、何でも叔父が「まあ何よりも必要なのは裁縫がよく出来ることですね」と言ったとかで、その修行をさせるためであった。だが、何度も言ったように私は、裁縫が好きでなかった。好きでないと言うよりは、裁縫を教えてくれるいい先生がなかったために、てんで出来ないのだった。だから、その学校へ行って見ても、みんなは一通り知っていることの「仕上げ」に来たといった風なのに、私は初歩のイロハからやらねばならなかったので、先生もつい面倒臭がってろくに私を見てもくれないのだった。
で、自然と私は、その学校を怠け出した。仕方なしに学校にだけは出るが、いつもただおしゃべりばかりをしてその日その日を過ごすのだった。無論これもまた自然と父にわかったので、父は自分の思惑どおりには行かないのを腹立たしく思って、私はまた私で、ますます多く不満を感じるのであった。
七月の半ば頃から学校が休みになった。ひっきりなしに手紙のやり取りをしている叔父の
そこで私は、雨は降っているし、汽車には酔っているので、
母の家は駅から三、四町さきの畑の中にあった。私は駅を出て、家々の
雨はまたひどくなって来た。中に這入ることもできなければ、引き返すわけにも行かなかった。私はただ、
「あの、ちょっと伺いますが」と私は、その男を追っかけて行って訊ねた。「あの、あの、お宅の……おかみさんはおいででしょうか」
「へえ、おいでやすが……」とその男は答えたが、うさんそうに私を眺めながら、それ以上何とも答えずに、さっさと裏口から家の中に消えてしまった。
今の男が家の中に這入って何か言うかも知れない。すると家のものが怪しがって出て来るかも知れない。そうした時の面倒さを思うと、私は何だか気味がわるくなった。仕方なく、私はまた駅の待合室まで引きかえした。
汽車の酔がまだおさまらぬところへ、頭から雨にぐしょ濡れになったので、駅に戻った時、ますます気持がわるくなってきた。そしてとうとう、汽車で食べた
私はしばらくベンチの上に
「ふみ子さん、どうかしたんけえ、汽車に酔ったんずら……ひどく気分がわるいけえ……」
「ええ、汽車に酔ったところへ雨にずぶ濡れになったものだから……」
「そりゃいかん、ちょっと待って……」と、言いもきらないうちにその男はどこかへ消えてしまったが、じきにまた戻って来て、私に
私は余り仁丹は好きでなかったが、そうした親切な行為の手前上、ありがたく礼を言って、仁丹をもらって、そしてそれを七、八粒ほど口に入れた。
その男は私の側に腰をかけて、私の背や肩をさすってくれた。しばらく経つと私も大分気持ちがよくなった。それに雨もどうやら小降りになって来たようであった。
「ありがとうございます、もう大丈夫です。そろそろ帰りましょう」
こう言って私が、身のまわりをつくろい始めるとその男は、
「傘ないずら、ふみ子さん」と訊いてくれた。
「ええ、さっきね」と私は、親類の間柄、何のわだかまりもなく、母の家に行って傘を借りようとしたが、中に這入れなかったことを話して、そして「この頃はおっ母さん落ち着いてるかしら」と訊ねてみた。
「ああ、この頃は折合がええちゅう話ずら」とその男は答えて、近所で傘を借りてやるから一緒に来るようにと私に言った。
私はその男の後について待合室を出た。男は駅の前の往来を左に取って一町ばかり歩いたがとある小料理屋見たいな家の
「まあお上んなさい、上って少し休んでいらっしゃい」とおかみが言った。男は靴を脱いで上にあがった。私も仕方なく、男について二階に上った。
赤い
何でこんなことをするのだろう? と
「ねえ、速く傘を借りて下さいな。私、はやく帰らないと日が暮れるから……」と私は、男をせきたてた。
けれど男は落ち着き払ってバットをスパスパとふかし始めた。
「ああ、傘はすぐ借りてあげるが、おなかが減っているずらと思って天ぷら注文しといたで……」
「いいえ、私おなかなんか空いていやしませんの、それにまだ胸がわるいんです……」
「まあいいやね、日が長いずら……」
そうこうしているうちに、前の小娘が
私は実際まだ胸が落ち着いていなかった。で、申し訳にちょっと
やがて、男の食事も済んだので、待ちかねて私はまた、傘の
すると男は「ああいいとも」と
私は救われたような気がした。
「雨が止みましたって? ああ嬉しい、どれ……」
私も立ち上って外を見ようとした。と、その途端!
私はもう眼がくらくらと
ああ何という悪魔で彼はあったろう。振り払い、振り払い、矢を負った
私は人違いをしていたのだった。朝鮮から帰って来た当座、祖母につれられて小松屋という一番小さい叔母の婚家さきにお客に行ったことがあったが、その叔母の義弟に当る男をこの男だと思い込んでいたのだった。ところが、実はこの男は叔母の義弟ではなくて、その時私が、近所の家に風呂をもらいに行って会ったことのある男のうちの一人だったのである。
このことを私は、今までついぞ一度も
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私は
ただ一つ私の息ぬきの出来るところは叔父の
言うまでもなく千代さんもよく叔父の寺に遊びに来た。千代さんは心から叔父を愛していた。
ところがこの頃、千代さんには一つの縁談が持ち込まれていた。千代さんに直接ではなく、千代さんのお父さん――実は父ではなく五十も年の違った兄だったのだが、ここにはそれを説明する必要もなかろう――にまで持ち込まれていた。
ある日千代さんは、
千代さんは二、三日
千代さんはもうどうすることもできなかった。千代さんは自分の愛するものを持っていた。けれど千代さんは自分の夫を自分で選ぶことを許されなかった。千代さんはただ、奴隷のようにか品物のようにか、売られたのだった。
千代さんは
千代さんは、その事情を、私や叔父に話した。そしてどうかしてこれを断る法がないかと相談した。だが、
千代さんの真心からの訴えにも、叔父の心は動かなかった。叔父はただ義理一ぺんの挨拶をするだけだった。
「悲しいことだ。あなたばかりじゃない。僕も苦しい」
こんな風に叔父は言った。だけれどじきにまたその後につけて言うのだった。
「だけど僕らの力は余りに弱い。僕らにはどうすることもできない。運命だ。
哀れなる千代さんよ! 千代さんは見知らぬ男に
だが、だが、それでいて二人は、千代さんと叔父との二人は、やはり依然としてその関係をつづけているのだ。
叔父は自分が既に捨て去った女と。
たとい運命にしろ、他の男に身を任そうと決心している女と。
千代さんは、既に見捨てられたことを知っている男と。
自分では既に新しい相手を胸に描きながら、過ぎ去った恋の
私が余りに叔父の寺にばかり入りびたっているので、親類たちはそうした関係が叔父の仲間に知れると叔父の信用がおちて失敗するかも知れないと心配し始めた。
そこでみんなは、私を叔父から遠ざけると共に、叔父には誰かいい相手を押しつけようと相談した
よし江さんは器量もよし、お針も出来るし、その上、家柄もよければ、年恰好も叔父にはちょうどよかった。
叔父は今までしばしば母の家を訪ねていた。それだから、無論よし江さんを知っていた。いや、ただ知っているというくらいではなく、少くともその気持ちの上ではかなり親しい仲にさえなっていた。何でも、よし江さんを通して叔父と知り合いになったよし江さんの学校友達の一人が、叔父に恋文を寄越したとか何とかで、よし江さんとその友達とは遂に
が、叔父に縁談を持ちかけて来たものは私の祖母たちばかりではなかった。私が叔父の寺に入りびたっていた時分にも、叔父が京都にいたとき知合いになったという、奈良の田舎の坊さんからその娘の
「その娘は美人なんだがなあ。しかし京都ならいいが、奈良の田舎ではなあ」と叔父はその時私に話したことがあった。
それのみではない。叔父のところにはよく女のところから手紙が来た。すると叔父はそれを、少しも
私は別に
夏休みももう終わろうとしていた。
八月の二十六日か七日かのこと、私は小松屋にいた。と、そこへ、昼過ぎに祖母が叔母に用事があってやって来た。
その晩、私と祖母とは小松屋の叔父につれられて町の
活動はもう始まっていた。祖母と叔父とはやっと
西洋劇の第一幕が終った。ふと気がついて見ると、私のすぐ左側に、いつの間に来たのか、
私はちょっとその青年を見て、すぐまた第二幕目の画面に眼を向けた。しばらくすると突然その青年が私に言葉をかけた。
「あの失礼ですが、これあなたのではありませんか。今、僕の足に何かさわったと思ったので手さぐりに探してみるとこれが落ちていたんです」
青年はセルロイドの
「いいえ、私のではありません」
「そうですか、困ッちゃったなあ」と青年は独り言のように呟きながら、後ろの窓際まで行ってその
私はちょっと小うるさい気がしたので「何でしたか、私今来たばかりなので」とそっけなく答えた。そして画面を熱心に眺めた。
が、青年はそれには構わず、次ぎから次ぎへと何か話しかけてきた。今だからこそ、私ははっきりと自分の心持ちを
そうしているうちに、大胆にもその青年は、いきなり私の手を握りしめた。私はかなりびっくりしたが、別に振り放そうともしなかった。人込みの中で騒ぎたてては
青年の手に自分の手を握られながら、私はじっとしていた。すると、青年は今一度、ぎゅっと力をこめて私の手を握りしめたが、今度は何だか四角な堅い紙を私に握らせた。私はそれも黙って受け取った。そして人知れず、こっそりと
一体それは何なのだろうか、はやく私は見たかった。で、帰りがけに、出口の明るい電灯の下で、そっと
暑中休暇が終ったので、私はまた浜松に帰って来た。なんだか
夜だった。家のものは皆どこかへ出かけたと見えて、玄関が締めきってあった。が、私はよく勝手を知っていたので、庭の目隠しの下から手を差し込んで
暑いので、私はまず戸を開け放った。それから、汗に
「まあ、ふみ子が帰って来てたの、私、締めといた家が開いているのでどうしたのかとびくびくものだったんだよ」
「たった今帰ったの……、お腹が空いたから御飯たべているけど、このお
「ああ好いとも……それで、甲州では皆達者?」
「ええ、皆達者だわ……叔母さんどこへ行って来たの」
「今夜はそれ、
「そうお、お父さんや賢ちゃんは?」
「あの二人は石橋さんとこへ寄るって行った。でも、私はこんななりで行くのはいやだったから先に帰って来たのさ……」
こんなことを話しながら、叔母は着物を
その間に私は、食べたものを片づけて洗った。そして初めてゆったりと落ち着いて座った。叔母は、急に何か思い出したように、「ふみ子、いいもの見せようか」と、
彫刻した
私は驚いた。驚いてきいた。
「まあ、何かでお金が
「何、
叔母はそれを、両方の薬指に一つずつ嵌めてみて、ほんとに金に見えるかどうかを試しているようであったが、自分で自分を説き伏せようとでもするように、
「天ぷらでもまんざら馬鹿にゃならんよ、お父さんのあの時計だって眼鏡だって皆天ぷらだけどかれこれもう二年にもなるがまだ色もそう変らないからね」と附け加えた。
ああ、叔母もとうとう、父に感化されてしまったのだ。どうしてこの人達は、こんなさもしい
父たちと自分との隔たりが、ことごとにはっきりとして来るのが、私には悲しかった。そうして私は、こんな生活でなく、自分で自分の生活を持ちたいという慾望に自然と駆られて行くのだった。
活動で逢った瀬川に手紙を書いたのは、それから四、五日経ってからであった。それも、どんな風に書いていいのかわからなかったので、叔父のところへ来ていた女の手紙を憶い出し憶い出し文句もそっくりそのままそれに
すぐに返事が来た。とき色の封筒で、差出人を女の名前にして、中には怪しげな英語がやたらに使われていた。
私はまた学校へ通わねばならなかった。が、いやな裁縫は出来ないし、学科は余り馬鹿げているし、ますますその学校がいやになった。
そこで私は、半ばやけになって、学校でわざと先生に反抗したり、家では何か手当り次第に本を読んでばかりいた。が、父の家にある本とてはただ、講談本ぐらいのものなので、それにも
私はそこで、東京へ行かせてくれと父に頼んだ。が、父は無論それを許してはくれなかった。
「馬鹿な、女じゃないかお前は」と父は私を
「東京なんかに若い女をそう手軽におっぽり出せると思うか、馬鹿な。世間というものはお前の考えているほど、やさしいものじゃないんだよ、早い話が、男がちょっと女に道を
父は自分達のしたことをもう忘れているのである。また、父たちが勝手にきめたことは、私が承知しようがしまいが、絶対に権威のあることと信じているのである。
だが、私はこうして、いつまでも父の圧制のもとにいなければならないのだろうか。読むものがないので、たまにある講演会に聴きに行くのをさえ禁じられるといったそんな暴圧の下に、私は自分を閉じこめておかなければならないのだろうか。
若い生命は伸びたがる。伸びないではいられない。
私はとうとう、学校をやめることに決心した。そして、教師にも父にも誰にも無断で、そのいやでたまらない裁縫学校から
父は無論、
祖父たちはしかし、今度は叔父の寺に入りびたりになることを私に許さなかった。私は小松屋に引きとられて、またしても町の裁縫塾へと通わされた。
一つの地獄を逃れて来て、また他の地獄に押し込められたのである。私には、それから逃れる力がなかったのだ。私はまだ一人前の人間ではなかったのだ。私には自分の好きな途に進んでゆくに必要なお金がない。私は私でない生活に縛りつけられねばならないのだ。
こうした境遇に置かれた時、私が
やけになった私は、家のことなどは何もしなかった。子供のお守はおろか、自分の食べた
瀬川は土地の中学の四年生だったが、退校したのかさせられたのか、とにかく彼は、私が小松屋に来た時分にはもう東京に出て、
千代さんの結婚は、のびのびに延びていた。そしてその間、千代さんは相変らず叔父のところを訪ねていた。いつかもまた私は、叔父のところで千代さんと一緒になった。
千代さんはその時、一人の友達をつれて来ていた。日が落ちて夕べになって、食事をすましても、千代さんはまだ
「ねえ、千代さん、もう遅いから今晩は泊っていらっしゃいよ。そうすれば私も一緒に泊って行くから……」
千代さんは無論そうしたかったのであるが、ただ友達と一緒なのでもじもじしていた。すると友達もまた、千代さんの心持ちを
「ふみ子さんも一緒だから、円光寺でも何とも思わないでしょう。泊っていらっしゃいよ」と、私と一緒に千代さんの泊って行くことをすすめた。
千代さんはしかし、「でも、あなた一人で帰るのは寂しいでしょう」と友達に気兼ねしたが、友達は「いいえ、大丈夫!」と多少不満な顔をしながら一人で帰った。
私はもう、朝鮮から帰った最初の晩のようにぐっすりとは眠れなかった。けれど、むしろまた千代さんに同情もした。
その後叔父は、千代さんに別れのはなむけとして、千代さんが
十一月の中頃、千代さんはとうとう、お嫁に行くこととなった。式は東京でするとのことであったが円光寺では、少くとも幾人かの村の人々に別れをしなければならぬといって、
祝宴の手伝いをする村の人達は忙しそうに立ち働いていた。が、
「へん、俺はまだ、こんな
こう円光寺の
その夜、千代さんは、こっそりと起きて長い最後の手紙を、永遠のお
千代さんは眼を泣きはらしていた。そして今もまた止めどない涙をながした。私は千代さんに同情した。私達はしっかりと抱き合って泣いた。
だが、その日のうちにもう千代さんは、泣いて
お嫁に行った千代さんは、半月ほど経ってから叔父のもとに手紙を寄越した。叔父は無造作にその手紙の封をきって、さらさらと読んでから「ちえッ……人を馬鹿にしてやがらあ」と、しかし別に怒ったという風でもなく、寂しくなったという様子もせず、ただちょっと苦笑をその口もとに浮べながら、手紙を私の前に投げ出した。
私はもう、その文句なんかは覚えていない。が、何でもそれには、新しい家の生活を記して女中のほかに
千代さんは半月前までの
年も押しつまった暮の二十八、九日頃、瀬川は簿記の速成科を終えたといって帰って来た。
瀬川の家は小松屋からものの三町とは離れていないところにあった。私達は朝夕必ず顔を合わせた。でも、どんなに私がふて腐れているとはいっても昼間はやはりお
冬の夜の寒さは
こうして私は、約半月もの間、ほとんど毎晩のように、家をぬけ出しては、二時までも三時までも瀬川と一緒にそこいらをうろつきまわったのであった。
こんなふて腐れた生活をしながらも私はなお、私の真実の望みや目的を
私の真実の望み! 真実の目的!
それはもっといろいろの本を読み、もっといろいろのことを知り、そして私自身の生命を伸びるだけ伸ばしたいということであった。私はしかし貧乏である。私はほかの金持の息子、
こう考えた私は、叔父に頼んで、その足りないだけの学費を
諸学校の入学期がもう近づいていた。私はそこで、学校の規則書を取り寄せて、入学願書を
私はその願書をもって叔父を訪ねた。ところが、叔父はいつもには似ず浮かぬ顔をして私を迎えた。私はしかし、それには別に気をとめなかった。何と言っても千代さんがいなくなったので寂しくなったのだろうぐらいに考えたからであった。
私は、取るものも取りあえず叔父に願った。
「あの、私、きょう願書書いて来たの、判を
「願書!」と叔父は一層むっつりとして私に言った。「うむ、師範の願書だね。それはしかし僕に少し考えがあるから、当分見合わせて欲しいんだ。そして、僕の考えでは何だな、ふみちゃんはやっぱり浜松のお父さんのとこへ帰ったがいいね」
「どうして?」と私はこのだしぬけの叔父の言葉に、すっかりと面くらって訊ねた。
「どうしてッてと言うこともないがね」と叔父はちょっと笑いを見せたが、じきにまたもとの暗い顔にかえってむっつりとした調子で言った。「とにかくわけは後で解るから、今日はこれでお帰り。僕ちょっと忙しいことがあるから……」
ああ何という私の
私はしぶしぶと小松屋に帰ったが――どうしてだろう、何を叔父は考えているのだろう――と考えて一晩じゅう私はまんじりともしなかった。
翌日、叔父は
「どうしたの、
「どうしたのかわしにもわからん。だけど、元栄が二、三日したら来ると言うから、そしたらわかるだろう」
祖母が何も知らないはずがないと、しかし私は考えた。
「じゃあ、どうして祖母さんは私と一緒に来たの」
「どうしてッてことはない。ただ、元栄がお前をつれて行ってくれと言うから来ただ。わしも久しぶりにたかのにも会いたいから……」
私はもう、祖母に何もきかなかった。私はただ、重大な危機が今私にせまっているということだけを感じていた。
私達は父の家に着いた。この前私は、父と
私の心は沈んでいた。私は父とも祖母とも叔母とも話したくはなかった。私はただ独りでいたかった。独りいて独りで考えたかった。そして事実、独り別になって新聞を読んだり考えたりしていた。
祖母は私について何も話したようでなかった。ただ、叔父が後で来るということだけは私の前でも話していた。
やがて叔父が来た。が、叔父はやはり私には何も言わなかった。いや、私の前では、父にも叔母にも何も話さなかった。
父と叔父とは酒をのんだ。祖母もその
「何だ、馬鹿にしている」と、猛烈な反抗心にそそられるのを覚えた。自分から、父や叔父のところに乗り込んで行って思いきり
けれど私はそれをじっと耐えた。過ぎ去ったことはどうにでもなれ、これからだ、これからのことが大切だ、と私は考えた。
話がすむと、叔父は泊りもせずに、すぐその日のうちに引きかえして行った。
私は、叔父を玄関に見送った。叔父は私に言った。
「何もかもお父さんに話してあるから、後でよくきいておくれ」
私は父を見た。父はふくれた顔をして私を
叔父を送り出すと、父はもうたまりかねたとばかりに、叔父を送ってまだ玄関の
「この畜生め! このばいため!」と、憤怒の声をしぼりながら、突然、私の肩のあたりを蹴った。
不意を打たれた私は、ぎゅっと
父は続けた。
「よくもそんなふざけた
ようやく意識を
「何をです? 私が何をしたんです?」
すると父は、
「何だと? 何を貴様がしたかと、よく胸に手をあててきけ、わかったか、わからんか、わからなければわからしてやろう」と、再びまた私の足のあたりを蹴った。
「お父さん、何をするんです。およしなさいよ、およしなさいってば……」と、台所の方にいた叔母がこのとき駆け出して来て、父の腕を
「何をするんだ。何でこんなやつを
「もういいよ、いいよ。後でわしがまたよく言ってきかすから……」と祖母もおずおずしながら父を
「勝手にするがいい。俺はもう知らん。勝手にしろ」
父はこう、最後の
父が去ると、叔母は起き上って私を起した。叔母は私の
「どうもしなかったかい?
「いいえ、どうもしません。何ともありません」と、私は自分で、蹴られた方の腕を振ってみて答えた。
叔母は私を、父のいない部屋につれて行った。祖母も私達と一緒に来た。
「おい、たかの、酒をもって来い」と、父が叫んだ。
叔母はぶつぶつ言いながら父の部屋に行った。祖母と私とは、沈黙を守って、思い思いの考えに沈んだ。そうして約小半時間も経ったであろう。父は酔った
叔母が再び私達のところに来て座った。私は初めて叔母に訊ねた。
「叔父さんは私のことを何て言ったの?」
「なあに、もともとお父さんがわるいんだよ」と叔母は私と祖母との顔を比べ見るようにして言った。「叔父と
「うまく行かなかったってどういうこと?」と私はもう大体はわかっていたけれど、もっとはっきりと知りたかったので重ねて訊いた。
「つまり、元栄はお前との夫婦約束を取消しに来たッてわけさ」と叔母は
「ああそう? ちったあ自分のことも考えてみるがいい」と私はただこれだけを言って黙ってしまった。
私にはもうすべてが明白であった。私はもう、何を訊く必要もなく、何を語る必要もなかった。
四つ五つの時分から、だらしない性生活の教育をうけて来た私である。不自然な性の目覚めに
私が父や叔父のしたと同じことを、いや、ほんのそのかおりくらいのことをしたというので、叔父は私をいい加減おもちゃにし、父は私を道具に使った
私が何も知らぬ間に、私がお寺のおかみさんに適当するかしないかを考うることもなしに、ただ、一人は私をおもちゃにするために、一人は私を自分の生活の安全弁にせんがために、勝手に夫と定め、妻と定めたことに、何らの責任がないと言うのであろうか。
小さい時分にその母と一緒に捨て去った子を、ふと十年の後に見て、急にその子の上に親権を振りまわし、物品同様に小さなお寺のだいこくに売る約束を一人で勝手に決めておいて、それが自分の思うようにならぬと言っては、畜生
私は何も弁解の要はない。私は何ももうききたくはない。
「何、かえっていいんだよ。元栄のためにも、ふみ子のためにも、かえっていいんだよ。わしらはとうからこうなるのを願っていたんだけど、どうにもならないでいたんだ。ちょうどいいんだよ」と祖母もこう言って、別に私を
――
こう私は心の中で言っていた。けれど、口に出しては何も言わなかった。
転期が、私の生活をすっかり変ったものにする変転期が、私を待っている。
こんなことがあったものの、私はまだ父の家から追ん出されはしなかった。私もまた、将来の
ところが、やがて間もなく、とうとう爆発する時が来た。父と私とが永久に別れねばならぬ時が来た。
それは私の弟の
私は私の弟のことについて、まだ何も話さなかった。で、ちょうどいいこの場合をかりて、弟の賢のことを少しばかり記しておくこととする。
父と母とが別れたとき、私は母の手に育てられ、弟は父のもとで養われるということが、父と母との間で取りきめられたこと、及び弟が三つの時父に引きとられたこと、それは既に私の書き記した通りである。
賢は母の
叔母は非常に賢を可愛がった。「姉さんには義理がある。せめてあの子だけでも可愛がってやらなきゃ申し訳がない」叔母はいつもこう言っていたが、しかし私の眼に映る二人の間柄は、義理といったようなそんな冷たいものでばかりでつながっているのではなかった。何事につけても、叔母は賢を親身に可愛がっていた。我が子同様に、何らの
だから、賢が学校に出るようになった時も、例の無籍者なので出られないとわかったとき、叔母は父の反対をおしきって、自分でさっさと自分の私生児として届けて、無事に入学させたくらいであった。
けれど、賢の教育方針については、父の誤った考え方から、賢は決して幸福ではなかった。賢は私とは違って、身体は大きいが、知らない人には物も言えないほどの内気もので、非常に
そういった計画の下に、父の教育方針は立てられていた。で、学問にはあまり向かない賢を、無理にも向かそうとして、時々自分の前に賢を座らせては、
しかもそれでいてなお、例の「佐伯家系図」の前に座らせて、その系図に礼拝させ、太政大臣藤原の何とか
父は賢に教えるのだった。
「こうした立派な系図に生れたお蔭で、わしはこれまでどんなに貧乏しても、他人に馬鹿にされた覚えはない。早い話がこの浜松ででも、俺よりお金持の人はたくさんあるが、そんな人達もみんなわしを佐伯さん佐伯さんといって何かにつけ俺を上に置こうとする。これはみな、系図のおかげだ。系統はおろそかにしてはいけない」
こうして、何事をも素直に受け
私は常々からそれを
賢を大学にやって法律家にし、あわよくば司法大臣か総理大臣にでもしようという考えから、父は、賢をまず中学に入れようとした。そして、ちょうど私が女子師範に這入ろうとしていたと同じ頃、賢に県立中学の入学試験を受けさせたのだったが、賢はとにかく、どうやらその試験に合格した。
父の喜びようったらなかった。
「偉い! 出かした……」父は天にものぼった心地して賢をほめた。
「さすがはわしの子だ。しっかりやれ! 西洋には二十二、三で法学博士になった者さえあるからね」
そうして父は、叔母に命じて赤飯を炊かせ、賢の出世の
その翌日、着物を
一週間ほど経って、
「ねえ賢、あんたも知っているように八円のと十二円のと二通りあったが、あんたには十二円のを
賢は喜び勇んで、その靴を
「お父さんは嘘言ったね」と、さも不満そうに父に喰ってかかった。
「どうして?」
「どうしてって、僕学校に行って見たら、僕の靴、いい方でなくて安い方だったじゃないか」
父は多少どぎまぎして、苦い顔をして答えた。
「いいえ、お父さんは決して嘘は言わない。それはたしかに十二円の分です」
が、賢は承知しなかった。
「だって、梅田君のも鈴木君のも八円だって言ってたが、僕のとそっくりだもの。十二円の分を穿いてるものもあったが、それはずっと
父はてれ隠しにエヘンと
「いいえ……お父さんはいくら貧乏していてもあんたにだけは肩身の狭い思いはさせません。父さんはちゃんと十二円払いました」
賢はまだ父の言葉を信じかねたが、仕方なしに自分の部屋に
「ねえ、お母さん、姉さん、お父さんはあんなこと言うが、僕のはたしかに八円の分だね」
事実、賢の言う通りだった。
父は
私は父のそのさもしい
私は大きな声で、父にきこえよがしに
「お父さんみたいにくだらん
と、父は突然立ち上って来て、またしても私を
「だまれ。親に対して何という失敬なことを言うんだ。お前のような親不幸者は[#「親不幸者は」はママ]俺の家に置くことはならん。出て行け、さあ今出て行け。お前が来たばかりに、うちはしょっちゅうごだつき始めたじゃないか。お前の来る前は、俺の家は至極平和だったんだ。それだのに、ふん、
賢は
「およしなさいよ、お父さん。そんなひどいことを言うもんじゃないわ」と叔母は
けれど父は承知しなかった。叔母に口どめされるとますますたけり狂って私を
「貴様が朝鮮を追っ放われたのは
父はもう私の
とはいえ、父が「貴様が来てから家はもめだした」と言ったのは事実である。今まで記してきたように、私と父とは何から何まで気が合わなかった。意見も合わなかった。ことに、叔父の一件から、私達はほとんど敵同志のようになっていた。二つの
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「お前に今うちを出られては、いかにもわしが
けれど私はもう
東京に出てから当分の間は何もできないだろう。その間、衣類のことなんかには
新聞が来ると何よりもさきに職業案内のところを見たり、英語や数学の学校の生徒募集の広告を切り抜いては
だが、それにしても私は、東京に出てどうすることができようか。どこに誰を頼って行こうとするのであるか。そんなことについて、私は
激情の過ぎ去った後の父は、無論その時ほどには私を憎みはしなかった。けれど、自ら進んでどうしてやろうというような親切は
いつまで考えていても、どうするという計画は立たなかった。私はもう、当って
「明日、東京へ行きます」と。
父も叔母も今はもう私を止めなかった。私はその翌朝、ひとり父の家を出た。
私の懐中には汽車賃ともでやっと十円ほどあった。
一脚の机もなければ、一枚の
自分にしっくりと合った生活を求めて、どこかにそうした生活があると信じて、私は私の
私の十七の春だった。
さらば父よ、叔母よ、弟よ、祖母よ、祖父よ、叔父よ、今までの関係に置かれた一切のものよさらば、さらば、今こそ私たちの
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東京へ! 東京へ!
東京の生活はそんなにも望ましい理想的なものであろうか。私はそれを知らない。けれど、まだ何も知らぬ青春の子女にとっては、東京こそはその望むところの一切を与えてくれる地上の楽園ででもあるように思われるのである。
東京へ! 東京へ!
ああ
生れ落ちた時から私は不幸であった。横浜で、山梨で、朝鮮で、浜松で、私は始終
私はもう自立のできる年齢に達しているのだ。そうだ、私は私の生活を自分で
東京へ! 東京へ!
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私はとうとう東京に着いた。着くとすぐに、かねて
私はしかし、前もって手紙を出して頼んでおいたのではない。第一、生れて一度も手紙の
けれど無論私は、この大叔父一家のものから、私の目的に対して何らの賛成をも助力をもかち得たのではない。毎晩一合の
「なあ、ふみや、よく考えてみるがいいぞ。お前は今、馬鹿に学問をしたがっているが、そうして苦労して勉強して、さて、いよいよ学校の先生になったところで、せいぜい五十円か六十円そこそこの月給しか取れやしないんだよ。そんなことでどうして暮して行けるんだ。そりゃなるほど、独りものの時はそれでいいかも知れん。が、いつまでも独りじゃいられんから、いずれは嫁に行かねばならん。嫁に行けば子供が出来る。子供が出来て見ろ、大きな腹を抱えて学校に通うなんて余り
大叔父のこう言ってくれる心持ちは私にもわかった。この人としてはこれは当然な考え方でもあり、従ってそう言ってくれる心にも感謝する。もっとも、こう言ってくれたからとて私がすぐ「それではどうかそうして下さい」と頼みでもしようものなら、当分私はこの家の女中代りの役を
だが、私はもう、誰の家にも
「ありがとうございます。だけど私見たような女は、とても商人の妻なんかにはなれそうもありませんから……」
が、大叔父はなかなか私の言い分を通してはくれなかった。
「若いときは誰しもそう思うもんだ。だけど、若いものはいつでも夢見たようなことばかり考えているんだ。まあよく考えてみるがいい」
こういったことを言って大叔父は幾晩も幾晩も、同じことを繰り返し繰り返し、私にお説教をするのであった。私は
「まあ私に、私の思うようにさせて下さい。私は固い決心をもって来たんですから……」
「そうかね」、大叔父は多少機嫌を
「ええ、ようござんす。私はもちろん、おじさんに助けていただこうと思って来たのではないんです。自分で苦学の
「ふむ! まあ、やってみるがいいさ」
こうして私はやっと、自分で自分の運命を開拓するために、苦学の途を探しに、町に出ることが出来るようになった。
だが、大叔父がこんなにまで
大叔父は私の祖父から三番目の弟で、若い頃、縁続きに当る隣村の
大叔父は別に商才というほどのものを持っていたという訳ではなかった。が、いろいろの失敗から素敵なしまり屋になった。また石橋を
もっともこれには妙なことからの「運」も手伝っているにはいるのだ。
大叔父の
私の来た時分には長男は家を出て
二人のうちでは、上が女で下が男であった。ところがこの男の方がまだ小さかったので、上の
ところで、この大叔父の家の婿とりの話が面白い。これは後に私が、花嫁である花枝さんから聞いた話であるから嘘であるはずはない。
花枝さんが私に話して言うには……
――その頃私は、ちょうどあなたの今の年、だから数え年の十七でした。小学校を出て、近所の仕立屋に通ってお針の
「どうしてこんな髪に結ったの?」と私が
ところがまあ、私、なんて子供だったんでしょう。そのうち私は、家の中はいつもと違って
「一体どうしたの? おっ母さん」と訊くと、母は、
「今晩はお前の婚礼なんだよ、さあ早く着物を
その時の私の驚きようったら、
でも仕方がありません。私はとにかく、親たちの言うがままに、その着物を着て二階の座敷につれて行かれました。するとどうでしょう、昼間父と話していた男が、やはり紋附を着てちゃんと座っているじゃありませんか。そして親類たちは、私とその男とを並べて座らせて、例の
どうです、変ってるじゃありませんか。これが私たちの結婚だったのです。しかもその婿さんというのは、
しかもこれは花嫁の花枝さんにだけ起ったことではなかった。そのお婿さんの
つまりここでもまた、本人同志の意志が少しも
だが、源さんはこの大叔父に気に入られただけあって、花枝さんの婿さんとなってからも、実直と倹約一方であった。親のやっている
こんな風な家であった。だから、学問をしたいなどいう私の目的に賛成してくれるはずはなかった。
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大叔父の家に
何かいい苦学の途がないかと、あてもなく市内をぶらついていると、ふと私は、「苦学奮闘の士は
蛍雪舎は上野
店の入口には
「ごめんください」と私は多少どぎまぎしながら硝子戸をあけて、中の青年に呼びかけた。
青年は帳簿から眼を離して無愛想に私の顔を見た。
「あの、私、使っていただきたいんですが、御主人はいらっしゃいますでしょうか」
「さあ」と青年はちょっと首を
私はその主人に、苦学をしたいから使ってほしいと願った。主人は黙ってじろじろと私の顔を眺めていたが、これも無愛想に、
「なかなか苦しいですからな。女の方ではとても辛抱ができませんよ」と言った。
どんなに苦しかろうが、そんなことは平気だと、私は心の中で思った。また、こんな都合のいいところはない、ぜひ入れてもらわなければならぬと決心の
「どんなに苦しゅうても
けれど、主人は容易にウンとうなずかなかった。
「女も二、三使って見たが、どうも長続きがしなくてねえ。それに、女が来ると男の方との関係がうるさくて……」
「いいえ」私は熱情をこめて訴えた。「私はもう随分苦しい生活をしてきました。そのことを思えば何でもできます。それに、ご覧の通り私は男のような女です。男との間に面倒なことなんか起りっこありません」
主人はしばらく考えていたが、やがて決心がついたように、
「じゃ、とにかくやって見るか、いつからでもいらっしゃい」と晴やかな顔を見せた。
私はこの主人に
「ありがとうございます。ではどうかよろしく」
すると、主人はてきぱきと一切のことをきめて言った。
「今、うちには十人ばかりいるが、みんな男で、この前の家に同居している。が、君は女だからそこに寝泊りするわけには行かんからこちらにいるといいだろう。そこで、食料や
私は天にも上ったような気持ちで三の輪の大叔父のところに帰って来た。そして自分の荷物をすっかり
翌日の夕方から私は売りに出た。
おかみさんが子供をおんぶしながら私をその三橋の売場まで連れて行ってくれた。そして
「ね、お客さんがただ新聞をくれって言ったら、何を上げましょうと、
東京夕刊は他の新聞より
白旗新聞店に這入ると、すぐ私は入学金その他に必要なだけの金を店主から前借りして、学校に通い始めた。店主は私に、女学校に通えとしきりにすすめた。けれど私自身は女学校にはもうこりごりしていたし、第一女学校に通うくらいなら何もこんな苦労をしなくてもいいと思った。私としては、英数漢の三科目を専門に学んで女学校卒業の検定試験を受けた上、女子医専に進もうと独りできめていたのだ。で、浜松にいた頃取っておいた新聞の切抜きを出して、英語は神田の
そのうち二松学舎の方だけはどうしても時間の都合がつかなかったので月謝を納めたきりで一日も出なかったが、研数学館では代数の初等科に入り、正則では午前部の一年に入った。
正則にも研数学館にも女の生徒というのはほとんどなかった。が、こうして私がわざと男の学生と一緒になるような学校を選んだのは、私自身の都合からであった。それは、自分の生活が生活なので、女の仲間に這入って衣類の競争なんかに
白旗新聞店、すなわち、蛍雪舎には、私のような苦学生がいた。藤田という青年と今一人何とかいった青年は東京中学に通っており、背のひょろ高い、何となく
こうした苦学生のほかに普通の売子も三、四人はいた。
一人は「腕の喜三郎」という
苦学生達は大抵、新聞を歩合で売っていたが、この三人は自分で紙を買い取って売り残りは古新聞の値段の一枚二厘くらいの割で新聞店に引き取ってもらっていた。言うまでもなくそういったいい条件の下では、その代りに場所がぐんと悪いところにまわされていたから、うっかりすると食いはぐれそうですらもあった。
こういった連中の間に一人、特異な存在があった。何でも早稲田の哲学科とかを出たのだそうで、口数の少い、難かしい顔をした、いつも小さな
上野の三橋では鈴を振ることが禁じられていた。で私は、夕刊、夕刊、と大きな声で叫んで、客の注意をひかなければならなかった。初めの間は、それがなかなか出来なかった。声が
私は、朝、正則に行って、正午までそこで学び、それからまた三時までは研数学館にいて、帰って来るとすぐ
その頃はもう夏だったので、夕日がかんかんと頭から
私はしかしその苦痛をもじっとこらえた。
希望がその苦痛を克服して余りがあった。
ある日のこと、近くのそばやの女中さんが新聞を買いに来て、小銭があったら替えてくれといった。小銭は無論大分たまっていたので、私は
女中さんは同情したように私に言った。
「随分お暑いでしょう、
「ええ」と私は感謝の念で一ぱいになった心で女中さんに答えた。「暑いばかりでなく喉が渇いて声も出なくなるんですよ」
女中はそこで店に帰ったが、しばらくたつと
「ありがとうございます、ありがとうございます」と幾度か礼を言って私はそれを飲んだ。全くいい気持ちであった。それに元気を回復して、私はまた叫びつづけた。そして喉が渇いて来るとまた、橋の
おかげで私は助かった。しかしその代りまた、三、四円小銭がたまるとはすぐ替えてもらいに来る女中さんの願いをもきかなければならなかった。
そうしたことが約半月ばかり続いた頃であった。夜、店に帰って来ると、おかみさんがいつもの通り私の売上げを調べながら不機嫌な顔をして言った。
「金子さん、お前さんのお金はいつも大きいのはどうしたの? 一円札で一枚や二枚買う人に売っちゃいけないって、ちゃんと言っておいたはずだがね」
私は事情を話した。おかみさんはしかし、その事情を
「困ってしまうねえ、そんなことでは……小さいお金はうちで
このことについては、おかみさんがやかましく言うのには理由があった。おかみさんは売子の集めて来た小銭を両替店に持って行って、いくらかの歩合をもらって来るのを自分の内職としていたのだ。私はそれを知らないでいたのである。
私達の労働時間――売る時間――は夕方の四時半から夜中の十二時半まででざっと八時間だった。が、その間ずっと立ち通しなのでかなり疲れた。七時頃までは人通りも多いし、ちょうどその頃は夕刊を見たい時分なので、新聞はよく売れた。だからその頃までは
急に雨の降り出した日などはもっと
だが、人間というものは面白いもので、私がそうするのは別に何らの
こういった特殊の収入は売子の特権であるということを喜三さんが内緒で教えてくれた。それはまたそうでなくてはならないと私も思った。で、私もそれを自分の
私の売場の
ある晩私は、新聞が売れないのに気を腐らせて、どうにでもなれといった気で、籠を前の方にぶらさげながらぼんやり立って演説をきいていた。するとそこへ一人の青年がやって来て、
「あなたは白旗から来ているのでしょう」と私に話しかけた。
私は多少どぎまぎしたが、でもはっきりと、
「ええ、そうです」と答えた。
「そうですか、僕、原口というものです。以前、白旗にいたことがあります。白旗さんによろしく言って下さい」
そういって男は私に、一枚のリーフレットをくれた。それには「ロシヤ革命」の何とか書いてあった。
それから四、五日経った後の夜のことであった。その連中がまたやって来て演説した。そして演説がすむと、「社会主義の世の中になったら」とかいったパンフレットを五、六冊ずつ手に持って、立ってきいていたものに買うようにとすすめた。
社会主義者のいうことは、何が何だか私には解らなかったが、でも、何かしら、買わねばならぬような気がしたので「私に一冊下さい」と小さな声で言ってみた。
「へい、四十銭です」とそれを持っていた男が、一冊を取って私に渡した。
すると、いつか原口と自分を名乗った男がそれをききつけて、
「おい、君これは我々の仲間になるべき人間だ。原価でわけてあげよう」とその男に言った。
「うん、そうだ。そうしよう」と前の男もそれに賛成して二十銭でいいと私に言った。
なるほど、間もなく私は「仲間」になった。「仲間」になってから考えてみると、初め私に本を渡そうとしたのは確か、その後米村に殺された高尾さんで、その一団は、後に巣鴨の労働社に集まった連中だった。
雨の降る日の夕刊売りは全く
ある夜、私は、出ばなの小一時間をひどい夕立にやられた、そのために客足がぱったりと
でも私は、どうかして売らなければならなかった。私は
濡れた電信柱に
思い出したように私は「ゆうかーん」と、だるそうな声で往来の人々に呼びかけた。が、やはり、誰も買ってくれる者がなかった。忘れた頃に一人二人立ち寄って一、二枚買って行くが、それも必要というよりはむしろ私の哀れな姿に同情して買って行く人々らしく見えた。
時が経つに従って人足はますます減った。
もう見込みがない、いつまで立っていても
やがて私は家の近くにまで来ていた。大通りを曲って路地に
「誰だね、今頃帰って来たのは?」
「私です、金子です」と私は顔をあげて二階の方を見上げた。
二階には誰か客が来ているらしく、主人と客とはビール瓶を中に向い合って座っていた。
「金子君か、まだ早いよ、十一時にもなってやしないじゃないか」と主人はやや調子を柔らげたが、しかし寛容を示さなかった。そしてつづけた。
「まだ一人だって帰って来てはいないよ。それだのにあんないい場所をもっている君が一番さきに帰るなんて法はないよ」
「ええ、ですけど、ちっとも売れないんです。夕方の夕立で人足がすっかり減ってしまったんです」
私は訴えるような気持ちでこう言ってみた。が、主人はなお私の立場に同情してくれそうもなかった。
「そりゃたまには悪い晩もあろうさ。だが、あんないい場所を今頃からあけてもらっては困るよ、売れなくても規定の時間だけは辛抱して立っていてくれなきゃ、今後、場所がわるくなるからね」
不承不承私はまた引き返した。が、人通りはもうめっきり減って数えるほどもなかった。無論私は「ゆうかーん」を叫ぶ勇気はなかった。たまに一声二声叫んでみると、その声は上野の森に
橋の
広小路の方から空の人力車が一台やって来て私の前に止まった。若い車夫が
「すみませんが新聞を二、三枚くれませんか」
「はい、何を差し上げましょうか」
「いや、何でもいいんです。残っているものを何でも……」
要らないのに同情して買ってくれるのだなと私は思った。新聞も渡さずに私は相手の顔を見まもった。
相手は学生帽をかぶっていたが、
自分も苦学をしているのだという一種のヴァニティーも手伝って私は急に元気づいた。
「あなた学校へ行っていらっしゃるんですね、ねえ、そうでしょう。どこなの学校は?」
相手はしかし、ただ笑っているばかりで何とも答えなかった。私が二度三度繰り返して訊ねたとき、やっとその男は答えた。
「あなたと同じ学校の、同じクラスですよ」
「ええ? 同じ学校の、同じクラス?」と私は驚いてきき直した。
「そうです。あなたは気がつかなかったかも知れませんが、僕はとうからあなたを知っていました。あなたが学校でよく
私達はそこでしばらく立ち話しをした。
その男の話したところによると、その男は伊藤といって、近くの救世軍に属する軍人、――すなわち、クリスチャンであった。
夕刊を売り始めてから七日目の晩に、あぶなく私は、苦学生誘拐専門の男に
伊藤は私に忠告した。
「こんな仕事じゃ疲れて仕様がありませんよ。それに、まだ今はいいですが、だんだんと心も
悲しいうら寂しい心を抱いている時であった。私は泣きたいほど嬉しかった。感謝に充ちた晴やかな気持ちで私達は別れた。
白旗新聞店は苦学生に勉学の便利を与えるということを表看板にしていた。そして事実ここには、白旗新聞店のために、働くことによって学校に行っている一団の苦学生がいた。苦学生はもちろん私のように、自分ではどうすることも出来ない連中ばかりであったには相違ない。だから、とにもかくにもこうして学校に通えるような機会を与えてくれた白旗氏に対しては感謝すべきであろう。私は別にこれを不当なこととは思わない。だが、白旗氏がもし、「俺がお前達を救ってやっているのだから、お前達は俺のために、俺の言いなりに働かねばならぬ」と言ったとするならば、それは恐らく正当ではなかろう。なぜなら、苦学生が白旗氏によって勉学の便宜を得ているのも事実だが、同時にまた、白旗氏が苦学生によってその生活を支えられているのも事実だからである。そして私の見たところでは、白旗氏はむしろ与うるよりは取る方が多過ぎていたように思う。
というのは、初めのうちこそは私には何もわからなかったが、十日おり、二十日いる間に自然と私は、白旗氏の人格も私の父の人格とそう大して変ったことがなく、白旗氏の家庭も私の家庭も似たり寄ったりなものであるというところを知ると同時に白旗氏にそんなことをさせるものは、一つはその生れつきにもよるか知らないが、少くとも白旗氏においては、苦学生より得る金が多すぎるからであるということを知ったからである。
白旗氏には二人のおかみさんがあった。一人は今白旗氏と共にいるおかみさんで、今一人は、今のおかみさんが来て白旗氏のところから追ん出したいわゆる白旗氏の先妻であった。もっとも先妻といえば既に別れてしまったものかと思うが実はそうでなく、白旗氏は今にそのおかみさんの世話を見ているのであるから、白旗氏はやっぱり二人のおかみさんを持っていると言っていいであろう。
何でも人の話によると、今のおかみさんは、白旗氏が浅草あたりのお茶屋に遊びに行っていた時分に出来合った女で、前のおかみさんを追ん出したと言われるだけになかなかのしっかりものであった。いや、というよりはむしろ、おそろしく神経質な女で、ヒステリイが起った時などは手もつけられないしたたかものであった。
ところが、白旗氏には今また、もう一人、船橋あたりにお
が、一方ではこんなことをしているかと思うと、一方前のおかみさんの方は
私はこの家に来てからも実に、私自身の家の
さて、白旗新聞店にいる私自身の生活は?
私は今まで、夕刊売りに出たときのことしか話さなかった。だが、私のここの生活はそれだけではないのだ。
私はまず、午後の四時に夕刊売りに出て、十二時に家に帰って来る。が、私はすぐに眠れるのではない。いずれも十二時頃に帰って来る人達の売上高を私の部屋でその場で調べる。白旗氏自身がそれをやってくれる時には、仕事を部屋の一方に片寄せて私だけを寝させてくれるが、おかみさんの時には決してそうはしてくれなかった。部屋じゅうに新聞が
七時に起きて部屋を掃除したり食事の仕度をしたりしている間にじきに八時になる。ところが私の学校はきっかり八時始まりであるから、八時に家を出ても、電車に乗って三十分もかかる関係上、一時間目は満足に授業を受けられないのであった。それだのに、その上まだ私は、幼稚園にゆく二人の子供のお伴をおかみさんに仰せつけられるのであるから、学校に行ってみると最初の一時間はもちろん、子供たちにむずがられた時などは二時間目までも終っていることがあるのだった。
正則をおひるまで、おひるから三時までを研数学館に、そして家に帰るとすぐ、私は労働に出なければならなかった。汗と
だからまた勝ちすぎる荷と連夜の睡眠不足のために、学校に行って机に
私は最初、白旗氏に向って、どんな苦労でもする、どんな
私はとうとう考え出した。
「いくら意地を張っても駄目だ。それは不可能だ。勉強したいばかりに、こうした苦しい生活もするのであるが、これは苦しさを通り越している。勉強ができないようになっている。こんな風では意味をなさない」と。
そう思うと私はもう、いても立ってもいられなくなってきた。
白旗新聞店を出ることを私は決心した。が、考えてみると私は、月謝だの衣類だのに要した金を十二、三円借りていた。だから、出るなら私は、この金を返して行かねばならなかった。といって私には、そんなことのできるはずはなかった。
車夫の伊藤が、「そんなところにいて、人の
仕方なしに私は、時期を待つことにしていた。ところが、私がここを出たいと思っていることを誰にきいたのか――多分私が、この家の生活の苦痛を訴えて、何かもっと他の仕事をしたいと仲間のものに話したので、それが伝わったのであろう、ある日、白旗氏は
「金子君、君はここを出たいといろいろ
私としては借金を返すまでは辛抱していようと思っていたのであるが、そしてそれまでは黙っているつもりでいたのだが、こう問いつめられると嘘を言うわけには行かなかった。
「ええ、実はあまり体が疲れて勉強も何もできませんので、借りたお金を返してからおひまをいただこうかと思っていたんです……」
「そうかね、それだから僕は最初からそう言っておいたんだが」と白旗氏は一層むッつりとした顔で「よろしい、出たけりゃ出てくれたまえ。そして、こちらの都合があるから明日にもそうしてくれ給え」と厳に私に言い渡した。
こう言われた限り、もうここに止まることができないと観念して、「はい」と私は答えた。だがそれにしても私は、どうすればいいのであろう。私は
もう明日は出なければならぬ私である。ところがその私を白旗氏は、その晩売れ行きのわるい本郷三丁目の角のところにまわした。そして私はその一晩の間に五十幾銭かの借金を増やした。
私を主人の方から追ん出したのである。で、無論その借金は棒引きにしてくれるのだと私は思っていた。ところが、その後私は、私が白旗氏のところを出るとすぐ、白旗氏は二人挽きの車で三の輪の大叔父の家に乗り込んで、私の悪口を並べた揚句、詳しい計算書を見せて借金の返済を迫ったということを、大叔父のところできいた。何でも白旗氏はその時、大きなカステラの
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白旗新聞店を出たのはもう夕方であった。
さていよいよそこを出はしたものの、出るだけで準備がまだできていないうちに無理に追ん出されたのであるから、第一その行き場所がなかった上に、
が、どう考えて見ても
傘がないので私は、着物の
水曜日か木曜日だった。いつもなら戸が締っているのだが、何か集会でもあるのか、電灯があかあかと輝いていた。人の集まっている気配であった。
いささか気おくれがして、私はしばらく、その前に立って
三十名近くの人がベンチに腰をかけていた。前から二、三番目のベンチにかけていた伊藤はいちはやく私を見つけてやって来た。
「とうとう出されたんです」と私は、伊藤を見るなり言った。
伊藤は私を
「話は後でゆっくり伺いましょう。今晩は神田の本営からK少佐が特別講演に来られるので、臨時集会が開かれているんです。もうやがて始まるでしょう、いいところへ来ました。まあ掛けておききなさい」
私は伊藤に案内されて婦人席の方に腰をおろした。伊藤は小さい聖書と讃美歌集とを持って来て、その夜、講義されることになっている箇所をあけてくれた。そして自分はまた、もとの席へと帰って行った。
私は聖書なんか読むどころでなかった。不安な思いばかりが胸の中を往来した。穴の中へでも引き込まれるような心細さがひしひしとせまってきた。
ほどなく集会が開かれ、
説教が終ると讃美歌がまた歌われた。そのリズムは
自ら感激にせまって言葉もつまるような少佐の祈祷がそれにつづいた。悩める霊に代ってその救いを求める少佐の祈りは必ずきかれなければならぬような気もちを起こさせるのに充分であった。祈祷がすむと、信者たちの「あかし」が始まった。死ぬほどの苦しみを抱いていたものが信ずることによって救われた、という意味のことを店員風の青年が立って
私は何だか、じっとしてはいられないような気がしてきた。何かしら私の頼るべきものがあって、それが私を手招きしているように私には思われた。そうして私は、何だかわけのわからぬ力に引きつけられて行くのであった。ふと気がついてみると、私はもう、小隊長の足下にまで進んでいた。私は小隊長の脚下の床に
小隊長はまた「アーメン」と叫んで私の腕を握った。そして私を抱き起して、いろいろのことを訊いた。
私は泣きじゃくりながら、問われるままに率直に答えた。小隊長はそれをいちいちノートに書きとめた。それから「皆さん、救われた一人の
酔えるものの如く私は感激していた。一切の苦悩を忘れて、みんなと一緒に私も神を讃美していた。そうして私は、いつの間にかクリスチャンの仲間にはいっているのであった。
伊藤は私に、湯島の
場所は神田の
鍋町から丁字形に、表の電車通りに突き当ろうとする角のところが、私の新しい売店であった。
私の側には、講談倶楽部や子供雑誌や彩色刷の浮世絵などを並べた古本屋があり、その隣にはとうもろこし屋のお婆さんが、箱の上に座りこんで、前に置いた台の上に
私はまず向いの古着屋さんと隣の古本屋さんとに仲間入りの挨拶をした。古着屋さんは見るからにずるそうな男であったが、古本屋さんは人の
「お前さんがかね、へえ、何売るんだね!」
と、お爺さんは、口もとに微笑を浮べながら
「粉石鹸をもって来ました」
「ほおう、しゃぼんやさんだね、まあしっかりやりなされ」
こう言ってお爺さんは、珍らしそうに私が店をひろげるのを見ていたが、不案内な私の
夜店で暮している人達である。だから、無論楽な人達ではあるまい。けれどとにかくそうした人たちの店はそれ相当の構えをしていた。ところが、私の店と来たらどうだろう。
私の店には第一、品物を並べる台がなかった。地べたに新聞紙を四、五枚敷いたその上に商品が載せられているのであった。しかも、商品といったところで、例の粉石鹸の袋が三十足らずあるっきりで、その間に小さな暗いランプが申し訳けのように
隣のお爺さんは面白い親切な人だった。いつも酒で顔を赤くほてらしていたが、酒の
「姐さん、お前さんとこの店は馬鹿に陰気臭いね。まるで
商いがなくていつも退屈している私は自然とお爺さんの話の相手となった。
私は答えるのだった。
「駄目よ、おじさん。いくら埃をはたいても台がないんだから。品物は往来を通る人の埃をじかに浴びるんだもの。それに今日なんかはもっとひどいよ、私がここに来て見ると、往来に水を
「ふん、なるほど湿気てるね、そんな
「いけないわよ、おじさん、しけってはいけないって、ちゃんと袋の裏に書いてあるわ」
「じゃ、台を
「そりゃ、言われるまでもなく知ってるさ。だけどおじさんお金がないんだもの。ねえ、おじさん、それよか」と私はお爺さんの掛けている古本の空箱をちらと横眼で見ながら、「その空箱貸してくれない? おじさんの腰掛けている箱を。台にちょうどいいわ」と言ってみた。
するとお爺さんは、驚いたように眼をまるくして、
「ええ、この箱かい、こりゃ困るな。この箱を取りゃお前さんの方の都合は
こうして私達はいいお友達ともなり、いい隣人ともなった。が、それがかえって私を寂しがらせた。せめてこんなお爺さんが自分の祖父か父かであってくれたなら……と、私はこう思うのであった。
店の様子が陰気なので大抵の人は気がつかずに行きすぎたり、気がついてもちらと
「ちょっとお待ち下さい」と私は客に言い置いて、客の渡した金をお爺さんに渡して細かいのに替えてもらうと、たった十銭を自分の手に残したきり、残りはそっくりそのまま客に返してしまうのであった。
そんな風であったから一晩の売上げは五十銭か七十銭、せいぜいのところで一円ぐらいだった。それで三割の
それに気づいた隣のお爺さんが
「姐さん、それじゃいけねえな、人間てな変なもので、早い話がたった一帖の紙を買うのにも、出来るなら大きな立派な店で買いたがるものだよ。だから不景気な店はますます不景気になり、
全くだった、日が経って、商品が少くなるにつれて、だんだんと売れなくなった。そしてそれと共に、私の
でも、ぶっ続けに立ち通しの夕刊売りに較べると、ずっと楽なので、売れても売れなくても私は、皆の引き上げるまでは夜露を全身に浴びながら、夜の路傍の地べたに座っているのだった。
引き上げは
私は、商売道具の
そうした時、夏でも夜は涼しかったが、その代り、蚊が猛烈に襲撃して来るので、なかなか容易に眠りつけなかった。やっと見出した工夫は、商品を包んだ風呂敷で頭を
疲れているので、多くの場合はぐっすりと眠りついたが、時々は夜中に急に降りだした雨にたたかれて起されたり、おまわりに見つけられて交番につれて行かれたりなんかもした。
こうした生活はしかしいつまでも続き得るものではなかった。ことに四、五日も続けて雨に降られた時には、一文の
だが、これはまた新米の私にはこの上もなく困難な仕事であった。毎日、学校から帰って来るとはすぐ、
こんな弱いことでどうするのか、と自分を
ある暑い日の昼下りのことだった。私は例の汚い
この四、五日ほとんど
私はもう、
表通りから細い横町に折れて七、八間行くと、ちょっとした庭のある小ぢんまりとした住宅があった。そっと家の中を覗いて見ると、玄関わきの部屋の窓際で、おかみさんらしい女が鏡台の前に座って、
「ごめんくださいまし」と私はおどおどしながら言った。
「はい」と
「奥さん、粉しゃぼん買っていただけないでしょうか……安くてよくおちるのですが……」
こう言って私は、包の中から品物を出そうとした。けれど、品物を取り出すひまもなく、きっぱりと
「せっかくですが、今手がふさがっていますから」
手が
「まあ、何てうるさいんでしょう、この頃は毎日のように孤児院が来るのねえ。私、初めのうちは可哀相だと思って五銭六銭出してやったが、でもきりがないので、この頃はもう片っ端から断ってやることに決めてるのよ」
「ええ奥さん、それが一番ですよ。可哀相だ可哀相だといってた日にゃ、こちらの口が
「ほんとに、全くだわ」
そう言って二人が高笑いしているのを、私はその家の外に出たときにきいた。
せっかくの勇気をへし折られて、私の足は一層重くなった。またもや私は、ただ、ぶらぶらと歩いた。が、もう日暮どきであった。私はどうかして食べものにありつかねばならなかった。と、ある横町の路地の奥で、
「ほんとうにお前見たいないたずらっ児はないよ、さっき着せてやった新しい着物がもうこれだ。見ろ、こんなに車の油なんかつけて、ちっとも落ちやしないから……」
女はこうその男の子を
私はつかつかとその側に近寄って行った。夜店で毎晩、わざわざ白布に機械油をしませて
「きっと落ちます、なんなら私が一つためしてみましょうか」とさえ私は言った。
「じゃ一袋おいて行って下さい」と、おかみさんは、
「ありがとうございます」と私は、金を受け取るなり、走るようにその路地から大通りに出た。そして、かねて硝子戸越しに目星をつけておいた団子屋へ飛び込んで、二皿の餅菓子を食べた。朝から一食もとらない空腹を充たすには不足だったが、でも、それで幾分かは元気づいた。
行商にもしかし幾分か
歩きづめであるから
学校は、時間はあるが月謝の工面がつかぬので正則だけにした。その頃私は二年級にいたが、夏期の特別講習なので朝の七時から出なければならなかった。
私は朝早く起きて聖書の一くだりを読む。そして
金のある時には
講習会に出るようになってから、私は一つの恩恵にありつくことができた。それはこの講習会に来た二、三の女生のうちの一人、河田さんが、毎日大きな弁当箱に御飯を一ぱい詰めて持って来てくれたことである。河田さんは戸塚あたりに住んでいるある社会主義者の妹さんであった。
だがそれにもかかわらず私はもうどうにもこうにもならなくなっていた。そこでふと思いついて、冬の衣類を二、三枚風呂敷に包んで
「へえ、いらっしゃい」と、薄暗い店で
もじもじしながら、私は
「へえ……どなたかの紹介でもお持ちでしょうか。手前共の方では初めてのお方とは取引きを致しませんのですが……」
「いいえ、紹介は別にもっていませんが、私の住居はすぐそこですから、何なら、ちょっと見届けて下さってもいいんですが……」
だが、番頭はもう私を相手にはしなかった。面倒臭さそうに、帳簿に目を落したまま答えた。
「ええ、ですけど、どうも規則として紹介のない方のは頂くわけに参りませんので……」
仕方なく私はすごすごと帰った。そして今度は、何か売るものがないかと考えて、
新聞店にいた頃、古本屋で一円五十銭で買った代数の参考書と、三円いくらした英和辞典とのみが金に代りそうな品物であった。私はそのうち、差し当り必要でない代数の参考書をもって古本屋に行った。私はそれで、少くとも七、八十銭はもらえると思っていた。が、売ってみるとそれはたった二十銭でしかなかった。――その後私は、同じ古本屋で、その本が一円七十銭という札を貼られているのを見て恨めしかった。
とはいえこの際二十銭でも結構であった。私はその金をもらうとすぐ、簡易食堂に走った。そしてガツガツしている私の胃の
簡易食堂で私は、時たま伊藤と一緒になった。
伊藤はやはり、夜間だけ車夫をしていたがあがりは少かった。それでも私の困っている時には自分の食を減らして二十銭三十銭と私に持って来てくれた。学校からの帰りなどに偶然かち会うことがあると、よく二人で一緒に「めし屋」に這入ったりした。
が、そうした場合にも伊藤は、信仰の話しかしなかった。
「あなたの信仰はこの頃どんな
私に逢って最初に発せられる伊藤の言葉はこれであった。何か込み入った相談でもある時には路傍でも軒下でもいい、伊藤はまず跪いて熱心に祈るのであった。
伊藤は私に、日曜の朝の礼拝には必ず出て来なければならぬと言った。困った時や苦しい時には祈りをせよと言った。「祈りはあなたに力を与えます」と励ました。力を与えてくれるくらいではどうにもならぬ私には、伊藤のこの言葉は余り理解のある言葉ではなかった。けれど私は、いわれるままに教会にも出席し、祈りもした。
私は奇蹟を信じられなかった。けれどそれに対しても伊藤や秋原は、ただ信じろ、信じさえすればわかると言った。なるほど、私にはそれらが信じられないにもかかわらず、私はただ伊藤に信頼して教会にも行けば、祈りもし、また、他人に奉仕するために朝早く起きて、黙って宿の便所の掃除までもした。――それも、伊藤がそうしろと言ったからで……。
こうして私は、神に仕え、人に奉仕した。けれど私はその
私はとうとう、いつか秋原さんから話のあった女中奉公に出ようと決心した。そして、売れ残った自分の荷物をまとめてその家を出た。
出るとき私は、荷物を玄関に置いて「どうも永い間御世話になりました」と、
「いいえ、どう致しまして、さよなら」と冷たい
眠りを破るのを遠慮して、借りている部屋にも帰らずに露天に寝たり、自分の用さえ足しかねるほど忙しい苦しい身でありながら、しないでもいい便所の掃除までしたそれらの心づくしは、遂に何ものにも価いしなかったのである。
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秋原さんの世話で私は、浅草
この家には五十四、五になる夫婦と、若夫婦と、若夫婦の子供が二人に、弟が二人のほかに、店員と女中とが
老主人というのは店を息子に譲って自分は家のことは何一つせず、いつも家を空けて外にいたが五日に一度ぐらいしか戻って来なかった。これは後で知ったことであるが、この老主人は何でも浅草公園附近の
私がこの家に行ってから一月ばかり経ったある日、「久し振りに聖天さまへお
大奥さんというのは病的なまでに潔癖家で、部屋の中の畳の上をさえスリッパを
たまに大旦那が帰って来ると、火鉢を中に向い合わせに座って、ひっきりなし何か
「うるさいなあ、
若主人は別にこれという特徴を持たぬ平凡なそして品行方正な男であったが、奥さんはなかなかの器量よしであった。夫婦仲も決してわるい方ではなく、むしろ並以上の
が、
弟の
末の
この家にはどのくらいの財産があったのか知らないが、財産はみんなに分配されているとかで、ただその日その日の食事だけを一緒にしているだけのことであった。
さてこの家に来てはみたものの、東京に出て来た唯一の目的である学校をやめて女中奉公なんかすることの寂しさがひしひしと身に
来てくれただけで私はもう飛び立つような嬉しさを感じた。しばらくひまをもらって私達は街をぶらぶら歩きながら話した。
手紙では書けなかった事情を私は河田さんに話した。河田さんはその事情をきいて一層私に同情してくれた。そして私に言った。
「あのね、私の兄が近いうちに市内へ出て印刷屋を始めることになっているのよ。で、どう? あなたそこへ来て働いてみては。そうするとあなたは学校に行けるようになると思うけれど……」
無論、私は、できるならそうしたいと思った。ただ、そうすることは、私が社会主義者の仲間に入るということを意味するので、今まで世話になった伊藤にすまないと思った。
「ありがとうございます。私にとっては、それに越したことありません。けれど」と私は、この伊藤のことを話して「そうすると伊藤さんに
「そうね」と河田さんはしばらく考えていたが、やがて晴やかな顔をあげて言った。
「いいじゃないの? その伊藤っていう人には、今までの恩恵を――恩恵といったところでその心の恩恵までもというわけには行かないけれど、せめてあなたに
私はもう、
翌々日河田さんから二十五円の
「ねえ、おふみさん。今あなたに出られてはうちはどうにもならなくなるんだよ。何しろ、嫁はあの通り体が弱い上に
そう言われると私も困ったが、同時にまた、河田さんにすまないと思った。
「ええ、それは私も存じていますのですけれど……私にはまたとこんないい工合の仕事が見つかりそうもありませんので……」
大奥さんはしかしどうしても私を放そうとはしなかった。「せめて私の手が
それをすらも振り放して出るということは私にはできなかった。で、止むを得ずすべてを
河田さんの親切を無にしたことを私は心苦しく思った。けれど、どうにも
伊藤は三日にあげず店に来て、信仰友だちである店員の山本や家人の
私はもう待って待って待ちくたびれた。そこでそれを、為替にして伊藤に送った。
「わけは後でお話ししますが、私にちょうど要らない金がありますのでお送りします。これだけあれば一ヶ月やそこいらは間に合うと思います。どうぞ、当分の間、仕事を休んで、しっかり勉強して試験を受けて下さい」こういった意味の手紙を書いて、為替を同封して送った。封筒にはもちろん男のように「金子生」と書いた。
二、三日して伊藤が来た。私はいつものように、彼を電車停留所のところまで送って行った。
二人になると伊藤は言った。
「お金ありがとう。だが、あれにはちょっとびっくりしましたねえ。用事があれば僕の来た時話してくれるとして、これからは決して手紙なんか
「ええ、でも待ちきれなかったんですもの。それに、だからと思って字も名前も男のように書いたつもりだけど……」
「いや、そのお志はありがたいんです。ただ、手紙なんか寄越さないで……」
「すみませんでした」と私は寂しい気持ちで答えた。そして別れた。
とはいえ、私は決して伊藤を恨んだのではなかった。それどころか、私の心のうちにはますます深く伊藤への信頼が喰い入っていた。で、伊藤が来るたびごとに私は、伊藤を送って出た。夜などは、「あの電灯の下まで」とか、「あの柱のところまで」とか、ついかなり遠いところまでも話しながら歩いて行くのであった。が、家の人たちは、伊藤をも私をも信じていたから、決して私達を
その頃の私は、学校という重荷をちょっと肩からおろして置いただけに、生活には割合楽であった。で、今までとは反対に、私が伊藤を助けることの方が多くなった。
心づけなどに
ある夜私は、例によって伊藤を送り出して行った。ちょっと
「一体、それ何です?」と
「これ? これね、もう大分寒くなったでしょう。で、あなたに
伊藤はびっくりして、
「どうしてあなたは僕の枕の汚れてることまで知ってるのです」と訊き返した。
「どうして知ってるって? それはねえ、この間あなたのところへ、うちの番頭さんが寄って昼寝したでしょう。山本さんは帰って来て、あなたの枕が豚小屋の
「それで
「そうです。ほんとうは、私の
「ありがとう」と伊藤は幾度も礼を言った。私も何となく晴やかな喜びを感じた。
十一月三十日、忘れもしない、その日の晩だった。
しばらく顔を見せなかった伊藤が、ひょっくりやって来た。がいつもに似ず、伊藤の顔色がわるく元気もなかった。どうしたのだろうと心配しながら、私は急いで家の用をすました。そしていつものようにまた、主家に断って送って行った。
七、八町も歩く間、伊藤は黙っていた。ただ、私の話すことに
「金子さん、僕は
「僕はあなたを見違えていました。というのは、僕は実は、あなたを不良少女だと思っていたのです。ところが、近頃やっとわかりました。あなたは本当の愛の人だということをです。僕は小隊長とも永らくつき合いましたが、その他にもかなりたくさんの女の信者仲間をもっています。けれどあなたのように、温かいやさしい女らしい気もちをもった人は初めてです。僕はあなたの前に自分の不明を謝します」
この言葉は私を
不良少女! その言葉をきいたとき、私は鋭い針でちくりとさされた気持ちがした。が、すぐその後で言った「初めて見た温かい女」という言葉には何とも言えぬ恥かしさを感じた。嬉しいような悲しいような、妙な気持ちであった。
私は黙って話をきいた。私は何も言わなかった。が、ふと気がついて見ると、今はもう
私は驚いて立ち止まった。
「もう十一時すぎですわ。この辺でおわかれしましょう」
「そうですねえ、大分遅くなりましたねえ」と伊藤はしかし落ち着いた調子で言った。そしていつもは自分から帰れ帰れと言うのに、今日に限ってなかなか別れようとはしなかった。
「実は僕はもう少し話したいことがあるんです。上野のあたりまで歩きませんか。帰りは電車に乗ることにして」
「ええ。じゃ、もっと歩きましょう」と私の心の奥にあるものが、私の理性を押しのけて
黙然として、思い思いのことを考えながら、私達はまた歩き出した。そして、上野の
静かな晩だった。あたりにはもう人影はなかった。
「今も話したように、あなたが湯島にいた頃から、僕は自分を抑えに抑えていたのです……だが近頃はもうどうにもならなくなってしまったのです。あなたを隣人として見ることだけでは満足出来なくなったのです……この意味おわかりですね。……うちで本を読んでいてもいつの間にか思いはあなたの上に飛んでいるのです。一日逢わないでいると寂しくて仕様がないんです。そんなわけで、勉強は少しも
それはひそかに私の待ち望んでいたものであったに相違ない。私は躍る胸を抑えて黙って聞いていた。
伊藤はまた続けた。
「で、僕はいろいろ考えてみたんですが、結局僕はあなたを忘れて以前の僕に立ちかえらねばならぬと考えたのです……そう決心したのです。それがお互いのためだと思ったからです……最後まで一緒に生活が出来るという
どうしてこんなことを考えるのだろう、と、私はやや失望した。けれど、伊藤はなおつづけた。言葉を強めて、自分で自分を励ますように言いきった。
「それで僕は今晩をかぎって断然あなたと
言い終るとすぐ、伊藤は立ち上った。
私は内心不満であった。何という
「そうですか、ではさようなら……」
追い
寂しい、悲しい、それでいて、何となく
仲木砂糖店の生活振りはかなりだらしのないものだった。学校に通う伸ちゃんが朝の七時に家を出なければならないので、私達は朝の五時から起きてその用意をしなければならなかったが、伸ちゃんが学校に行って小一時間も経った頃若夫婦が起きて来る、十時頃に銀ちゃんが起きる、最後に十一時頃に大奥さんが起きて顔洗いに狭い台所を小半時間もふさいでしまう。味噌汁が冷えるので三、四度も温めなければならぬ。大奥さんが朝食をすまして大根一本もって聖天さまへお詣りに出かけると、ちゃぶ台をたたむ間もなく若夫婦たちの昼食の仕度をする。こんな風で、私達は、まったく台所仕事ばかりで一日を終るのであった。いや、そればかりではない。朝やおひるはそれほどでもなかったが、夜になるとは洋食だの、
それは実際苦しい日課であった。過度の労働と睡眠の不足は、今までのどの仕事にも劣らず私に負いかぶさってきた。それでいて私はなお、主家に忠実ならんことを欲した。私は今、懺悔しなければならぬ。私は真に主家のためを思ったのでなく、ただ、主家に気に入られたいばっかりに同僚のおきよさんにはこっそりと早くから起きて、おきよさんが起きて来た時分にはもう一通り食事の準備も出来ているようにしたり、伸ちゃんのお友達が来ると、自分はただの女中でないということを示すために、わざと学校の話をしたり、数学のノートを見ては「ここ違ってるわ」などと
自分の今までの生活を顧みて何よりも多く自らを責めるのはこのことである。何というさもしい
待ちに待った
大奥さんは、「おかげ様で大変助かりました」と礼を言ってくれて、「これは旦那からのお礼です。もっとあげたいんだけれど、何分、年上のきよが以前からいるんでその
解き放たれた気持ちで、私は、風呂敷包をかかえて勝手口から出た。電車の停留所までゆくと折よくそこへ赤電車が来た。それに乗って私は、
電車には十三、四人しか乗っていなかった。出口の空席の広い所に腰を落ちつけて私は仲木から貰って来た紙包をそっと出して見た。驚いたことには中には五円紙幣三枚しかなかった。
三ヶ月と一週間の不眠不休の労働に対してである。私の期待はまんまとはずれたのである。私は大きな声で自分を
給金をきめなかったのは私がわるい。けれどそれは要するに秋原さんの教訓に従ったまでだ。秋原さんは言った。「お金のことなんか言うものではありません。それは
私は、人を怒るよりも自分を
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砂糖屋を出てから、いわゆる「主義者」の間を一、二ヶ所
「言わんことじゃない。新聞売りや夜店商売なんかで学問の出来るはずはない。それも男ならまだしも、女じゃないか。
と大叔父は私をたしなめた。けれど、私の
私はまず、朝の五時に起きて、電灯を低く引きおろして勉強をしながら御飯を炊いたり味噌汁を
砂糖屋にいた時の忙がしさとたいした変りはない。けれど、何といってもここは身内の家であるから多少の時間の
学校で私は二人の社会主義者を知った。一人は
徐は朝鮮の富裕な家庭から留学しているのではなく、私と同じに、始終生活におびやかされながら勉強していたので、多分学校に出る余裕もなくなったのであろう。やがて程なく来なくなった。が、その後約一年の後、私が
今一人は、大野某という男で、多分その前年に起った東京市電従業員のストライキの際首になったとかいうことであったが、私の真ん前の机に腰をかけ泣き声を出してリーダアを読んでいた。その頃彼は「
社会主義は私に、別に何らの新しいものを与えなかった。それはただ、私の今までの境遇から得た私の感情に、その感情の正しいということの理論を与えてくれただけのことであった。私は貧乏であった。今も貧乏である。そのために私は、金のある人々に
ああ私は………………………………してやりたい。私達哀れな階級のために、私の全生命を犠牲にしても闘いたい。
とはいえ、私はまだ、どうして私のこの精神を生かして行けるかを知らなかった。私は無力である。何かしたくとも、それをする準備も手がかりもない。私はただ、不平、不満、反抗の精神に充たされた一個の漫然たる反逆児にすぎなかったのだ。
そうした心を抱いて
「ふみちゃん、ふみちゃん」と私を呼びとめるものがあった。
誰だろうと思って私は黙って後を振り向いて見た。
瀬川がそこに立っていた。私は
「まあ! 瀬川さんなの? どうしたの?」
瀬川は口もとに笑いを含ませながら、落ちついた態度で言った。
「随分待っていたんだぜ、この近所で」
「待っていたって? まあ、どうして判ったんでしょう、私がここにいるってことが」
「そりゃわかるさ、随分探したんだもの。だが、それはそうと、まあ、こっちへお出でよ。ちょっと話があるんだから」
瀬川にひかれて私は
彼が私のここにいるのを知ったのは、ある私立大学の夜学部で、私の寺の叔父と一緒になって叔父からきいたためであった。彼は今、何でも、どこかの役所に勤めているとかであった。
上京して苦学している間、瀬川のことなんかてんで思い出してもみなかったのに、今またこうして会って見ると、やっぱり何か、瀬川にひかれるものがあった。私は彼に、彼の下宿を訪ねることを約束して別れた。
夏休みが近づいて来たとき、浜松の父から四円だったか七円だったか、とにかく
生活に疲れ果てた身には、少しでも肉体を楽にしておいてくれることはありがたかった。町そのものさえも、東京のあの騒がしさや
とはいえ、父の家の空気は二年前も三年前も同じであった。父のひとりよがりや、
で、私はもう、父の家にはいたたまらなくなって、甲州の方へまわってみた。が、ここもやっぱり同じであった。母はまたしても田原家を出て独りで製糸場に通っており、祖母や叔母たちは私が苦学しているのを幸いに、学校を出て小学校の先生にでもなったら母を見てやれなどと私を説くのであった。自分の子を見捨てて自分の生活の安全をのみ求めた母に対して、死ぬほどの苦労をして勉強している、行く末がどうなるかの見透しさえつかぬこの私に義務を負えとせまるのである。
私はもうここにもいたたまらない。私はまた東京へ帰らねばならぬ。
東京に戻って来たのは八月の末であった。それから四、五日経ったある日の夕方、私は、市内に用たしに出かけたが帰りがけ、
私はいつものように案内も
「雨にふられてひどい目に
瀬川は机の上の手紙を慌ててかくし、
私はもちろん、行儀のいいお嬢さんのようではなかった。不良少女のようながさつものであった。濡れた着物の
「一体いつ帰ったの?」
「つい四、五日前」
「随分永い旅だね、五十日も六十日もどこをうろついていたんだい? 手紙を出そうにもどこにいるのかわからないしさ、一度ぐらい何とか言って来たってよさそうなものじゃないか」
「だって別に用事もないんだもの」
「用事がない? ふん、するとふみちゃんはあれだね、用事がなきゃ手紙を出さないんだね、離れてりゃ僕のことなんかけろりと忘れてるんだね」
「さあどうだか? あるいはそうかも知れないわ、あなたもそうであるようにね……それはそうと、私おなかが
もうしかし、下宿の夕食は済んだ後だったので、瀬川は私におそばを取ってくれた。
電灯のつく頃には雨が止んでいたが、私はもう帰らぬことにして腰をおちつけた。そして二人でいろいろのことを話していると、そこへ「ごめんください」と二人の男が
二人とも二十三、四らしく、一人は色が白くて背が高く、も一人は中肉中背で、
瀬川は二人を私に紹介した。毛の長い方は、かねて瀬川からきいていた鮮人の社会主義者で
「この下宿にね、玄という朝鮮の社会主義者がいるんだが、尾行が二人もついていて、そりゃたいしたものだよ」と、いつか瀬川が私に話してきかせたことがあるので、私は特に注意して玄を見た。が、別にたいして変ったところもなし、社会主義者らしい話もしなかった。それに私が来ているのでわるいと思ったのか、ほんのちょっと話したきりで瀬川の部屋を出て行った。
その夜私は、いつものように、一組しかない
翌朝、宿の女中が朝飯の膳を運んで来たが、一人前しかなかった。瀬川はしかし私の分を注文しなかった。自分一人で
「ふみちゃん、御飯たべるかい? 食べるなら僕の分残しておくけど……」と言った。
私は何だか不満だった。
「いいわ、私うちへ帰って食べるわ」
こう言って私は、机に
「ふみちゃん、来てご覧、
「そう?」と私は気のない返事をした。そして、さっきから独り考えていたことについて瀬川に言った。
「ねえ、博さん、こんなことしていて……もし子供でも出来たらどうするつもり?」
実際真面目に私はこのことを考えていたのである。「もし子供が出来たら……」私はその結果を
「子供が出来たらどうするかだって? 僕はそんなこと知らないよ……」
突然私は、
私達の間にほんとうの愛があったのでないことは私も知っていた。だから私は決して瀬川ばかりを責めはしないだろう、けれど、それにしてもそうした場合の責任ぐらいは瀬川とても持たなければならぬはずである。それだのに、何という無責任だろう。結局私がおもちゃにされたのだということを初めて痛切にさとった。
寂しさと
瀬川は何か言って私を止めた。けれど私は返事もせずに、そのまま裏階段の下の方にある洗面所に行った。そしてそこで私は、その洗面所に近い部屋に昨夜紹介された
玄は荒い
私はそこで顔を洗った。タオルで顔を拭きながら、再びまた玄の部屋の方を見た。玄もその時には本をふせて私の方を見ていた。
「おはようございます。昨晩は失礼しました」と私は声をかけた。
「いや、僕の方こそ……。昨晩は雨でしたが、今日はいい天気ですねえ」と玄は挨拶を返した。
私は彼の部屋の入口のところまで行って、
「あなたの部屋はいいんですねえ、庭が見えて……」と彼の部屋を通して見える庭の植込みを眺めまわした。
「まあお這入りなさい。僕別に用なんかないんですから……」
こう言って玄は、テーブルの脇に今一つの
壁のあちこちに有名な革命家の肖像画だの写真だのがかかっていた。宣伝ビラのようなものもベタベタと貼ってあった。
私は立って、それらのものを念入りに眺めた。そして一つの写真の前に立ったとき、
「おや、この写真、G会の連中でしょう」ときいた。
「そうです、あなた知っていますか、この連中を」と玄はその写真をとって
「ええ三、四人はね」と私は答えて、写真の上に顔を
「ああ、やっぱりそうでしたか。昨晩見たとき、どうもそうらしいと思ったんですがね、きくのも変だと思って黙っていたんです」と、私を彼らのカムレードと見て嬉しそうな顔をした。
これが糸口となって、玄は明らかに急に打ちとけてきた。私もまた、特に彼が朝鮮人であるということに懐かしさを感じた。親しい友に久しぶりに会ったような楽しい気持ちになった。
私達はそこで打ちとけて話し合うことができた。朝鮮に足かけ七年も住んだことを私は話した。玄は朝鮮での自分の家のことなどを話した。彼の話によると、彼は
「そうですか、ではあなたは運動ばかりしているんですか」と私が訊くと、
「いいえ、運動といっても僕のようなものはプチ・ブルだとかインテリだとかいって、ほんとうの仲間には入れてくれないんです」と玄は寂しく笑った。
私とてもその頃はまだ、別にこれという団体に属しているのでもなく、真剣な運動に携わったこともないので、別にこれを
と、ふと私は、
「ふみちゃん、そう誰の部屋へでも出入りしては困るね、帰っといで」
「何ですって?」と私は、さっきからの腹立ちをとうとう爆発させてしまった。そして
「大きなお世話です。私の足で私が歩くのに、何でいけないんです。私の勝手だわ。黙っていらっしゃい」
「だって玄さんが迷惑するじゃないか。朝っぱらから邪魔をされては……」
「お黙んなさい」私は一層かッとなって怒鳴りたてた。「玄さん自身が承知してるのに、あなたが何を言う権利があるんです。そんなおせっかいをするより弁当でも持ってさっさと出ていらっしゃい。それが一とうあなたに似合ってるわ」
「覚えていやがれ!」と瀬川も
多分たいした恥や苦痛も感ぜずに勤めに出たのであろう、瀬川はそれっきりもう来なかった。
私がこうして瀬川を
それから小一時間も、私は玄と話した。瀬川を罵ってやった痛快さに
玄のところを出たのは九時すぎだった。が路地を出外れて一、二町も行くと、後から誰かが私を呼びとめた。
見るとそれは玄だった。背広に
私は立ちどまって玄を待った。玄は私に言った。
「あなた御飯はもう頂きましたか……実は僕まだ頂いていないんです。下宿の御飯はまずいんでね。それで今、どこかへ何か食べに行こうと思ってるんですが、あなたもつき合いませんか。ひまを取らせはしませんから……」
「そうですか、それはありがとう。実は私もまだ頂いていないんです」
「じゃあ、ちょうどいい、参りましょう」
それから二人は電車通りから離れて坂を上った。郵便局の前に来ると、玄は私を待たせておいて
天神わきの小ぢんまりとした洋食屋の二階に私達は上った。朝のうちなのでお客はほかに誰もなかった。
私達はもう、全く旧いお友達のようであった。
翌日学校から帰って来てみると、玄から手紙が来ていた。白い小さい西洋封筒に「速達」と朱書きしてあった。開けてみると上等な
残暑はまだ厳しかった。橋の上には涼を追うて集まった人々で一ぱいだった。私は
「あ、ふみ子さん、よく来てくれました」と、玄はいきなり私の手を握った。
私達は公園の中を歩いた。
「僕、すっかりあなたに魅せられてしまったのです」
玄はこう私に言った。
「私もあなたは好きです」
私はこう玄に答えた。
私達はまたある小料理屋に行った。ああそしてまた私は……。
私は私の希望やら、現在の境遇やらを玄に話した。
「じゃ、二人でどこかへ家を持ちましょう」と玄は私に約束した。
それから私は、わけもなく玄に引きつけられて行った。玄に会わない日が少しつづくと寂しくてたまらなかった。そんなときには玄の後を追って彼の行きそうなところを探し歩いた。そしてとうとう玄に行き逢うことができないで疲れ果てて帰って来ることも度々あった。
大叔父の家でも私に警戒し始めた。それからはちょっと私も出にくくなった。
「家はまだ見つからない?」と私はこう玄に会うたびに訪ねた。
「毎日さがしているんだけど」と玄は、
早く家を持ちたい、早く大叔父の家を出たい、こればっかりが私の願いとなった。
ある日、もう夜の九時過ぎだった。
茶の間に座って
玄は電話で言うのだった。
「ふみちゃん? ああそう、あのね
久能女史はもう三十五、六の女社会主義者だった。何でもある思想家との間に二人の子までがあるのに夫を捨てて運動にとび込んでいる女だった。私は今までにも彼女に度々会っていた。彼女は若い社会主義者と一緒に貧しい生活をしながら血みどろな闘争をつづけていた。その女史がいつの間に病気になったのだろう。私は彼女を見舞ってやらねばならぬ。
「そう? じゃ参りましょう。今行きますから待っててね」
「待っています。じゃすぐ来給え」
そこで私は、大叔父の家に断って急いで出かけた。
「嘘ばっかり。またあの何とかいう男に逢いたくなったもんだから、電話なんかかけさせたんだよ」と、私が仕度をしている間に花枝さんは、わざと私にきこえるように言っているのを私はきいた。
無論私は、玄に逢えるのを嬉しいとは思った。けれど、この際は真実、久能さんのことをばかり考えていた。だから、花枝さんが何を
玄が待っているという玄の友人の下宿へ着いたのはそれから三十分ほど後であった。
友人の部屋に通されてみると、その部屋には三、四人の男が寝そべったり足を投げ出したりして何か話していた。
「今晩は、どうもお待たせしました……さあ松本さん出かけましょう」
けれど玄は立ち上ろうともしないで、ただニヤニヤと笑っていた。かえって友だちの一人が立ち上って来て「そんなこと嘘ですよ、さあお這入りなさい」と私の手をとって中に引き入れた。
「まあひどい! 嘘ですって?」と私は腹をたてて怒ってはみたが、しかし何となく嬉しくもあった。
「じゃどうしたの? 人を電話でなんか呼びつけて? どうしようっての?」
「あのねえ、ふみちゃん」とその時、玄が口を出した。「今さっきね、盲目の人が
玄はたしかに何か寂しさを感じていたに違いなかった。彼の声にはセンチメンタルな響きがあった。
「仕様がないねえ、坊っちゃんたち……」
こう言って私は部屋の中に這入った。
みんなは私を歓迎してくれた。
「実際寂しい晩だねえ、しかしあなたが来て下さったので大分気分が晴れました」と、部屋主の友人が言って、幾皿となく洋食や支那料理をとって御馳走してくれた。
男たちはビールをのみ、果物を食べた。そして、さんざ
早く帰らねばならぬ、と私は気が気でなかった。それでいて私はどうしても、振りきって帰ることもできなかった。十時はいつの間にかすぎて十一時も廻った。けれそ[#「けれそ」はママ]、みんなはなお帰ろうとはせずトランプを始めた。トランプは私の最も好きな遊びなので私はまた引きとめられた。そしてやっと気がついて見ると、電車の
私はとうとう泊り込んだ。離れのようになっている一間を、玄の友人が、玄と私とのために借りてくれた。
翌朝、眼ざめたとき、真っさきに頭に来たものはうちのことであった。昨夜、うちを出るときに花枝さんの言った言葉が、ぴんと頭に響いてきた。
たとい自分ででっち上げた計画ではないにしても、とにかく私は久能さんを訪ねはしなかったのだ。そして事実玄に逢って、帰ることもしなかったのだ。大叔父の家のものが、どんなに私をさげすみ
私達はまた玄の友人の部屋に集っていた。友人達はまた洋食をとり、それがすむと再びまた
「ふみちゃん、こっちへいらっしゃいよ。どこか悪いのですか」と、時々彼らは
私はもう耐えきれなくなった。私は玄に言った。
「あのねえ松本さん、ちょっと座をはずしてくれない? わたしうちに帰ろうと思うんだけど、
玄はいやいやながら仲間をはずれて立ち上って来た。私達はまた、昨夜泊った別の部屋に行った。
「ねえ玄さん」と、部屋の中に座ると私は言った。「こうして私、しょっちゅう出歩いたり泊ったりしているでしょう。私もう、うちには
二人が知り合ったそもそもから、玄は、静かな郊外に家を借りて
「あああの話ですか」と玄はすぐに応えたけれど、その顔は明らかに当惑げに見えた。「あの話は……そう、今、家を探しているんですが、そして家もあるにはあるんですが……上野の友だちの借りた家があるにはあるんですが、友だちが
やっぱりいつものように捉えどころのない言葉だった。体裁よく
「そう?……」と私はそこで考え込んだ。
今、何と言っても仕様がない。やっぱりこの捉えどころのない言葉を信じて当てもなく待つよりほかに
「じゃ、それはそれとしてね、昨夜は久能さんとこへ行くって出て来たんでしょう。だからこのまま帰るのは何だか工合がわるいの。それで私、久能さんとこへ行って来たという証拠になるものを何か欲しいんだけど、考えて見ると、この春、私の着物を久能さんが質に入れたのがあるが、久能さんのところへ行って来たというしるしに、それでも持って帰りたいんだけど……」
こういうことは玄にお金をせびることである。それは互いに愛し合っている者同士の間なら何も不思議はない。けれど、玄がもし私をおもちゃにすることだけしか考えていなかったとすれば、私がこうした願いをするのをいい幸いにして、私が肉を売った報償として要求したのだという口実を彼に与えることになる。私はそれがいやであった。が、うちへの手前、この着物は絶対に必要であるような気持ちがして、言っていいのか悪いか
「ああ、そうですか、判りました、判りました。それがいいでしょう、そうしなさい」と玄は、晴やかにそして軽やかに私の申し出でに応じた。そして、そう言いながらポケットを探っていたが、「ちょっと待って下さい」と立って出て行った。
ちょうどその時、前の廊下を、
通りすぎながら
「ねえ、すみちゃん、あの女一体なんだろう?」
「大かた下宿屋廻りの
とそこへ玄が戻って来た。そして五円紙幣を一枚私の手に握らせた。涙を呑んで私はそれを受取った。
騒ぎつづけている人達を残して私はその下宿を出た。もう十時すぎだった。ひどくはないが雨が降っていた。傘もなし
「ごめんなさい」と私は、久能の家の玄関の中に飛び込んだ。
「はい」と答えて出たのはしかし久能ではなかった。
「あの、久能さんは?」
「久能さん? そんな人知りませんが……」
私は
労働社にも私の知っている者は一人もいなかった。けれど久能さんの消息だけはわかった。
「久能さんですか、あの人は
「そうですか、困っちゃったなあ」と私が言うと、
「何か御用だったのですか、失礼ですがあなたはどなたですか」と相手は言って、まあ遊んで行けとすすめてくれたけれど、私は自分の名をも語らずにそこを出た。
久能の行きつけの質屋を私は知っていた。私はその質屋を訪ねた。
「へえ、確かにそれはお預りしました」番頭は私の名指した品物について語り出した。「だけど、お気の毒さまですが、先月で期限がきれましたものですからこちらで処分してしまいました。何しろ、何度かけ合ってもただの一度も
最後に残されたたった一つの救いの
私は別にその着物が欲しかったのではない。ただ、今の場合、絶対にそれが必要だったのだ。のみならず、久能のやり方は何という不誠実だろう。今まで「主義者」というものを何か一種特別の、偉い人間のように思っていたことのいかに馬鹿らしい空想であったかということを、私は今はっきりと見せつけられたような気がした。
寺の叔父が病気になって三の輪の大叔父のところへ訪ねて来た。全く衰え果てた哀れな姿で彼はあった。あれほど
叔父は空しく帰らなければならなかった。私は彼を
「さようなら、お大切に」
「ありがとう、しっかり勉強おし」
叔父は自分の
汽車が出ると、私は
ぼんやりと立って街の
「ちょうどいいところでした。僕、話したいことがあるんで会いたかったんです」と玄は、本郷の
趙のところへ私は行った。玄は二、三分間前に趙のところに着いていた。
「話ッて何なの?」と私はきいた。
「話というのはですね」と玄は例の通り廻りくどい表現でもって、趙と二人で
私はもう諦めていた。
「そうですか、それは結構です」
「おわかれに愉快に遊びましょう」と趙は言って、洋食だの酒だのを取った。
私は別に悲しいとも、
無茶苦茶に私はウイスキイを
こうして私は、大叔父の家にもいたたまらなくなった。失った恋に傷ついた胸を抱いて、大叔父の家を私は出た。
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大叔父の家を出た私は、
それは「社会主義おでん」の名で通っている店で、主人は社会主義の同情者でもあり、自分も一ぱし社会主義者顔をしていたので、かえってそれが呼びものとなって、新聞記者だの社会主義者だの会社員だの文士だのといった社会の一部のインテリ連を多く集めていた。
私はここで、昼間客を接待し、夜は学校に通った。店からは学校の月謝と電車賃とを出して貰う約束で……。
今までは昼間の学校に通ったのであったが、夜の学校に転じてから、私は一人の女の友人を見出した。
初代さんは恐らく私の一生を通じて私が見出し得たただ一人の女性であったろう。私は初代さんによって多くのものを教えられた。ただ教えられたばかりではない。初代さんによって私は真の友情の温かみと力とを得た。今度、検挙されてから、警視庁のお役人が初代さんに「女の友だちで誰が一番好きか」と訊かれたとき、初代さんは一も二もなく私を名指したそうであるが、私もまた、初代さんが一番好きだと言いたい。初代さんはしかし、もうこの世の人ではない。私は今ここまで書いて来て、初代さんに私の手を差し伸べたい
初代さんは私より二つばかり年上であったが、その頃はやっと二十一になったばかりだった。非常に頭のいい人であったが、同時にまた、よい意味における男性的な性格の持ち主でもあった。意志が
初代さんの家庭は裕福だとまでは行かなくても私のようなルンペン的な家庭ではなかった。といっても、初代さんは決して恵まれた生活をその家庭から受けはしなかった。お父さんは酒のみで子供のことなどに構ってくれる人ではなかった上に、初代さんが女学校の二年生のときに死んでしまった。それから間もなく初代さんは肺を病んで、半年以上も郷里である新潟の田舎に帰って静養しなければならなかった。初代さんが生死の問題に悩んで仏教を研究し始めたのはその頃であったらしい。病気はしかし大したことはなかった。そこで再び東京に出て、何でも府立の第二か三を、優等で卒業した。
初代さんの素質のよさを知っている人々は、初代さんにもっと上の学校へ進むようにとすすめた。初代さんはけれど、父に死なれ、小さい妹をかかえている母の
どうして初代さんと友達になったのか、はっきりと私は覚えていない。ただ、夜学校で私達女の生徒が――四、五人はあったろう――教室の前の方に一緒に座らせられた関係上、初めはただ、ものも言わずに
それというのも、私が、初代さんのすることなすことに何らかの魅力を感じていて、いつか近づきになりたいという考えを、夜学で初代さんを見るとすぐ抱き始めていたからであったのは言うまでもない。
この問題について初代さんが言うのであった。
「私は肺病です。だから死については、かなり深く考えたつもりです。で、私は思うんです。人が死を怖れるのは死そのものを怖れるのではなく、死に移る瞬間の苦痛を怖れるのではなかろうかと。なぜって、人は睡眠を怖れないじゃありませんか。睡眠は意識を喪失する点において、これもやはり一時の死であると言ってもいいのに……」
それをきいていながら私は、かつて朝鮮で死を決したときの感じを今一度はっきりと認識した。私は私の体験から、初代さんのこの議論が間違っていると思って口を出した。
「私はそうは思いませんね。私は私の体験からこう断言することができるんです。人が死を怖れるのは、自分が永遠にこの地上から去るということが悲しいんです。言葉をかえて言えば、人は地上のあらゆる現象を平素はなんとも意識していないかも知れないが、実は自分そのものの内容なので、その内容を失ってしまうことが悲しいんです。睡眠は決してその内容を失ってはいません。睡眠はただ忘れているだけのことです」
無論この議論は両方とも決して正しいとは言えないだろう。が、とにかくこれを
「あなたには死の体験があるのですか」と、初代さんは
「ええ、あります」と私は答えた。
そうして、そんなことから私達は、学校がひけて帰るときにもその話をつづけた。そして私達はじきに大の仲よしとなった。
今から考えて見て、私は別に、直接には初代さんの思想を学んだとは思わない。けれど、初代さんの持っている本を通して、私は多くのものを得た。長い間私は本を読みたかったが本が買えなかった。ところがこうして初代さんの友だちとなってからは、初代さんのもっている多くの本を借りて読んだ。
『労働者セイリョフ』を感激をもって私に読ませたのも初代さんであった。『死の前夜』を貸してくれたのも初代さんであった。ベルグソンだとかスペンサアだとかヘーゲルだとかの思想の一般を、もしくは少くともその名を、知らせてくれたのも初代さんであった。中でも一番多く私の思想を導いたものは、初代さんの持つニヒリスティックな思想家の思想であった。スティルネル、アルツィバーセフ、ニイチェ、そうした人々を知ったのもこの時であった。
どんよりと
「いらっしゃい」と
それは玄からの便りで、途中から私にあてたものだった。母
「ふん」と言って私はその手紙をそこに投げ出したが、もう別に腹も立たなかった。鄭もやはりそれについては何も言わなかった。
むしろ、私が手紙を読み終るのを待っていたとでもいうように、鄭は今度は、三、四枚の印刷物を私に見せた。それは鄭が出そうとしていた菊倍八頁の月刊雑誌の校正刷で、かねてその計画を私にも話してあるものだった。
「そう? もう出来たの?」と私も鄭と共に喜びを
ただ一つ私の眼にとまったものは、終りの方の片隅に載せられている短かい詩であった。
私はその詩を読んだ。何と力強い詩であろう。一くさり一くさりに、私の心は強く引きつけられた。そしてそれを読み終ったとき、私はまるで
私はその作者の名前を見た。私の知らない人の名前であった。
「これ誰? 朴烈てのは?」と私は鄭にきいた。
「その人ですか。その人は僕の友達ですがね、しかしまだあまり知られてない、プーアな男ですよ」と、鄭は軽くその作者を扱った。
「そうですか? しかしこの人には何とも言えぬ力強さがありますよ。私はこんな詩を見たことがない」と、私はむしろ、この作者を認めない鄭を
鄭はそれを余り喜ばない風だった。
「この詩のどこがいいですか」
「どこがってこたあない。全体がいい。いいと言うんじゃない、ただ力強いんです。私は今、長い間自分の探していたものをこの詩の中に見出したような気がします」
「馬鹿に感心したんですね。一度会いますかね」
「ええ、会わして下さいな。ぜひ」
いつの間に降り出したのか、外には粉雪がさらさらと静かな音をたてていた。下の廊下で時計が六時を打った。同宿の学生が何か声高に話しながら、前の階段を降りて行った。
「おや、あなた学校は?」と鄭は私に注意した。
「学校? 学校なんかどうだっていいの」と私は、こともなげに答えた。
鄭は
「どうしてです。あなたは苦学生じゃないんですか」
「そう、もとは熱心な苦学生で、三度の食事を一度にしても学校は休まなかったのですが、今はそうじゃありません」
「それはどうしてです」
「別に理由はありません。ただ、今の社会で偉くなろうとすることに興味を失ったのです」
「へえッ! じゃあなたは学校なんかやめてどうするつもりです?」
「そうね、そのことについて今しきりと考えているのです……。私は何かしたいんです。ただ、それがどんなことか自分にも解らないんです。がとにかくそれは、苦学なんかすることじゃないんです。私には何かしなければならんことがある。せずにはいられないことがある。そして私は今、それを探しているんです……」
実際私はこの頃、それを考えているのだった。一切の望みに燃えた私は、苦学をして偉い人間になるのを唯一の目標としていた。が、私は今、はっきりとわかった。今の世では、苦学なんかして偉い人間になれるはずはないということを。いや、そればかりではない。いうところの偉い人間なんてほどくだらないものはないということを。人々から偉いといわれることに何の値打ちがあろう。私は人のために生きているのではない。私は私自身の真の満足と自由とを得なければならないのではないか。私は私自身でなければならぬ。
私はあまりに多く他人の奴隷となりすぎてきた。余りにも多く男のおもちゃにされてきた。私は私自身を生きていなかった。
私は私自身の仕事をしなければならぬ。そうだ、私自身の仕事をだ。しかし、その私自身の仕事とは何であるか。私はそれを知りたい。知ってそれを実行してみたい。
恐らくこれは、初代さんを知ってから、初代さんが私に読ませてくれた本の感化によるのかも知れない。また、初代さんそれ自身の性格や日常の生活に
「そうです、たしかに僕達の前には、僕達がほんとうにしなきゃならんことがあります」と鄭も真面目になって私に賛成した。
私達はそこで、今までにかつてなかった真面目さで、いろいろなことを語り合った。が、ふと私は思い出した。今夜、
私は鄭に別れを告げた。そして学校に行って、初代さんを誘って講演会に出かけた。街路はもう雪で真白かった。
この頃から私には、社会というものが次第にわかりかけてきた。今までは薄いヴェールに包まれていた世の
けれど、実のところ私は決して社会主義思想をそのまま受け
「民衆のために」と言って社会主義は動乱を起すであろう。民衆は自分達のために起ってくれた人々と共に起って生死を共にするだろう。そして社会に一つの変革が
指導者は権力を握るであろう。その権力によって新しい世界の秩序を建てるであろう。そして民衆は再びその権力の奴隷とならなければならないのだ。しからば、××とは何だ。それはただ一つの権力に代えるに他の権力をもってすることにすぎないではないか。
初代さんは、そうした人達の運動を
「私は人間の社会に対してこれといった理想を持つことができない。だから、私としてはまず、気の合った仲間ばかり集まって、気の合った生活をする、それが一ばん可能性のある、そして一ばん意義のある生き方だと思う」と、初代さんは言った。
それを私達の仲間の一人は、
私はそれをしたい。それをすることによって、私達の生活が今ただちに私達と一緒にある。遠い
ある寒い寒い夜のことであった。例の通り私はカンバセーションをエスケープして鄭の宿へ遊びに行った。
いつもの通り私は、案内も
見知らぬ男はあまり背の高くない、
「いらっしゃい」と鄭は私を迎えた。
見知らぬ男はちょっと私を見たきり、口をつぐんで、火鉢の火に視線を向けた。
「随分寒いわねえ」と、私は、つかつかと部屋に
「二、三日見えなかったですねえ、どうかしましたか」と鄭は訊いた。
「いいえ別に」と私は答えたが、ふと私はこの
「あなたは
「そうでしたか?」と客は答えた。
が、それっきり、いたともいなかったとも言わなかった。そして静かに立ち上った。
「まあ
しかし客はやはり何とも答えないで、どっしりと畳の上に立ったまま、濃い眉毛の下から黒いセルロイド縁の眼鏡越しに、冷やかに私を
何とはなしに私は、ある
と、しばらくしてから「失礼します」とはっきりとした声で言って、部屋を出て行った。
「ああ君、今晩はどこに泊りますか、僕のところへ泊って行っていいですよ」と鄭は思い出したように急いで立ち上って、廊下に客を追いながら叫んだ。
「ありがとう、今晩は
何となく私はすまないような気がした。私の精神はひきしめられていた。
「鄭さん、あの人、何て言うの?」
「ああ、あの人? あれはいつかあなたが大変感心した詩の作者
「あらッ! あの人が朴烈?」と私は思わず顔をあかめて叫んだ。
「そうです、あの男です」と鄭は落ち着いた調子で答えた。
私はそれから、朴烈についていろいろのことを鄭に訊ねた。鄭の言うところによると、彼は今まで人力車夫や立ちん坊や郵便配達や人夫なぞをしていたが、今は別にこれという職がなく、ただ一晩一晩と親しい友人の処を泊り歩いて過ごしているらしかった。
「それじゃあの人、まるで宿なし犬見たようね、それでいてどうしてあんなにどっしりしているのだろう? まるで王者のような態度だわ」
「ああして友人のところを廻って食いつなげる間はねえ」と鄭は多少軽蔑的に言ったが、私がそれに不服そうなのを見て、「でも偉いですよ、あの男は。あの男ほど真剣に考え、真剣に行動するものは我々の仲間でもそうたくさんはありませんよ」と言った。
――そうに違いない、そうに違いない。と私は心の中で叫んだ。
何ものか私の心の中で
彼のうちに働いているものは何であろう。あんなに彼を力強くするものは何であろう。私はそれを見出したかった。それを我がものとしたかった。
私は鄭と別れた。別れて店に帰った。
途中私はまた思った。
――そうだ、私の探しているもの、私のしたがっている仕事、それはたしかに彼の中に在る。彼こそ私の探しているものだ。彼こそ私の仕事を持っている。
不思議な歓喜が私の胸の中に躍った。昂奮して私は、その夜は眠れなかった。
翌日、朝早く私は鄭を訪ねた。そして、朴と交際したいから会わしてくれと頼んだ。
「だが、あの男は始終ふらふらしているから、ちょうどいいように
「いいんです。私の店に来てくれればいいんです。あなたがそう伝えてくれさえすればそれでいいんです」と私は答えた。
鄭はそれを承諾した。
だが、朴は来なかった。四、五日経って私はまた鄭を訪ねた。
「あなた話してくれましたか」
「ええ、二、三日前の会で会って、話しておきました」
「その時、朴さんは何と言って?」
「そうねえ、朴君はただ――そうですか、と言ったきり何も言いませんでしたよ。あまり乗り気でもなかったようです」
私はやや失望した。私のようなものは相手にせぬというのであろうか、と不安な気持ちになった。だが、私はまだ望みを捨てなかった。私はただ、朴の訪ねて来る日を待った。
十日経った。けれど朴は来なかった。二十日経った。朴はまだ訪ねて来なかった。
――ああ、とうとう駄目か、と私は自分に言った。
私は寂しかった。自分に何らの価値のないことを朴に裏書きされたような気がして、一層寂しかった。仕方がない、自分は自分で生きるために、初代さんのようにタイピストにでもなって、職業を持とう、とさえ、私は決心した。
と、鄭に
朴の顔を見ると私の胸はドキドキと躍った。
「おや、とうとう来て下さったのね」と、二組ばかりの酒のみ客を相手にしていた私は、朴を部屋の隅っこの
「ちょうど
こう言って私は、御飯をよそって、煮込み豆腐や大根を持って行って朴に食べさせた。
やがてもう、私の学校へ行く時間である。私は二階に上って
いつものように腕に
が、電車通りまで出ると、朴はふと立ち
「あなたは神田へ行くんですね。僕は京橋へ用事がありますから、これで失礼します」
そして彼はすたすたと歩き出した。
「ああちょっと」と私は後から追い
「ありがとう、参ります」
脇目もふらず彼は去った。何となく私はもの足りなかった。
翌日はおひる頃に来た。
朴の
「今晩学校の前に来ていて下さらない?
「学校ってどこですか」
「神田の正則」
「ええ、行きましょう」と彼はきっぱりと答えた。
やっと私は安心した。そしてその夕方を待った。
約束の通り朴は学校の前の裸の街路樹の下に立っていた。
「ありがとう、大分待って?」
「いいや、ほんの今来たばかりです」
「そうですか、ありがとう、少し歩きましょう」
人通りの少いところを
神保町通りに出たとき、大きな支那料理屋を私は見つけた。
「ここへ上りましょう」と私は、つかつかとその階段を上った。朴は黙って私の後について来た。
三階の小さな部屋に私達は落ち着いた。
ボーイが、茶を運んで来た。何か見つくろって二、三品持って来てくれと、私はボーイに言いつけた。
ボーイが去ると、私は、お茶碗の
「ねえ、このお茶の
「どうするんですかね、僕はこんな立派なところへ這入って来たことがないから知りませんが……」と朴は言いながら、やっぱり私と同じように蓋をとってみたり、また、蓋をしてみたりしていたが「しかし、呑むものだから要するに呑めばいいでしょう。何か規則でもあるというのですか」と蓋を少し斜めにしてその間から呑んだ。
「ああ、なるほど、そうすればいいですね、きっとそんなことでしょう」と私も朴の
ボーイが料理を運んで来る間、私達はただ、雑談を交えながら食事をとった。私はあまり進まなかったが、朴はかなりお腹が空いているらしい食べぶりだった。
私は私の用件を話したかったが、どうも固くなって話し
「ところで……私があなたに御交際を願ったわけは、多分鄭さんからおきき下さったと思いますが……」
「ええ、ちょっとききました」
朴は皿から眼を放して私の方を見た。私達の
私はつづけた。
「で、ですね、私は
何という下手な求婚であったろう。何という
「僕は独りものです」
「そうですか……では私、お伺いしたいことがあるんですが、お互いに心の中をそっくりそのまま
「もちろんです」
「そこで……私日本人です。しかし、朝鮮人に対して別に偏見なんかもっていないつもりですがそれでもあなたは私に反感をおもちでしょうか」
朝鮮人が日本人に対して持つ感情を、私は大抵知りつくしているように思ったから、何よりもさきに私はこれをきく必要があった。私はその朝鮮人の感情を恐れたのだ。しかし朴は答えた。
「いや、僕が反感をもっているのは日本の権力階級です、一般民衆でありません。
「そうですか、ありがとう」と私はやや楽な気持ちになって微笑した。「だが、もう一つ伺いたいですが、あなたは民族運動者でしょうか……私は実は、朝鮮に永らくいたことがあるので、民族運動をやっている人々の気持ちはどうやら解るような気もしますが、何といっても私は朝鮮人でありませんから、朝鮮人のように日本に圧迫されたことがないので、そうした人たちと一緒に朝鮮の独立運動をする気にもなれないんです。ですから、あなたがもし、独立運動者でしたら、残念ですが、私はあなたと一緒になることができないんです」
「朝鮮の民族運動者には同情すべき点があります。で、僕もかつては民族運動に加わろうとしたことがあります。けれど、今はそうではありません」
「では、あなたは民族運動に全然反対なさるんですか」
「いいえ決して、しかし僕には僕の思想があります。仕事があります。僕は民族運動の戦線に立つことはできません」
すべての
次第に深く引きつけられて行く自分を私は感じた。
「私はあなたのうちに私の求めているものを見出しているんです。あなたと一緒に仕事ができたらと思います」
私は遂に最後にこう言った。すると彼は、
「僕はつまらんものです。僕はただ、死にきれずに生きているようなものです」と、冷やかに答えた。
八時近くでもあったろう。「また会いましょう」と私達はボーイに会計を頼んだ。三円いくらであった。
「僕が出しましょう、今日は僕お金を持っています」と、朴はオーヴァの外ポケットから、裸のバットを三、四本と一緒に、もみくちゃになった紙幣を二、三枚と銅貨や銀貨を七、八箇
「いいえ、私が払います」と私は
そして二人は連れ立ってそこを出た。
私達はそれからたびたび会った。私達はもう、ぎごちない心で話し合う必要はなかった。私達は互いに心と心とで結ばっているような安らかさを感じていた。そしてとうとう、私達の最後の
夜はまだ冷たかった。二人は握り合った手を朴のオーヴァのポケットの中に突き込んだまま、どこというあてもなく、足の向くままに歩いた。
公園には
朴は常になく陽気に語った。
朴の語るところによると、彼は
独立運動に参加しようとしたのはその頃であった。けれど彼はただちにその運動の虚構を知った。支配者が変ったところで、民衆には何のかかわりもないと、彼は思った。そして十七の春東京へ来た。
東京へ来てからの彼の生活は苦闘の歴史そのものだった。彼はだんだんと自己に
もっともこれは、この時すべて彼が語ったのではない。彼は余り自己を語らない男である。彼の語ったのは断片的なことばかりだった。その断片的なことを、私が後から人に聞いたところによってつづり上げただけのことである。
私達は事実、過去を語るよりは将来を語った。二人で拓り開いて行くべき道を、
「ふみ子さん、僕は本当に真剣に運動するために
「木賃宿ですか、いいですねえ」と私は答えた。
「しかし汚ないですよ、
「できますとも、そんなこと辛抱できないくらいなら、何もしない方がいいでしょう」
「そうです、たしかにそうです……」
こう言って朴はしばし口を
「ねえ、ふみ子さん。ブルジョア
「面白いですね、やりましょう」と私は少しはしゃぎ気分で賛成した。「何をやりましょうか。私、クロのパン略〔クロポトキン『パンの略取』〕を持っているが、あれを二人で訳しましょうか」
朴はしかし、反対した。
「あれはもう訳が出ていますよ。それに、人のものなんか出したくないですね、それよりも貧弱でも二人で書いた方がいいですねえ」
私達はそうした計画に熱中していた。気がついて見ると、いつの間にか私達は公園を出て街の往来に出ていた。そして時ももうかなり進んでいるようであった。
「何時でしょう、九時には私帰らなきゃならんのだけど……」
残り惜しい気持ちで私が言った。
「さあ、じゃ、ここで待ってて下さい。僕ちょっと見て来ますから」
こう言って朴は、電車交叉点前の交番まで時計を
朴はやがて戻って来た。
「九時に十七分前です」
「そう? じゃ帰らなきゃならないわねえ」と私が言うと、朴が言った。
「もう三十分はいいでしょう。だって、学校が九時に
「どうもありがとう、あなたはいいことを教えてくれます」
そこで私達はまた手を
が、いよいよもう時がなくなったので、名残り惜しげに立ち上った。
公園の出口に近づいた時、私は訊ねた。
「で、今晩はどこへ帰るの?」
「そうですねえ」と朴はちょっと考えていたが「
「そう! だけど、そうして家がなくても寂しくありません?」
「寂しいです」朴は
「そうね、人は冷たいですからねえ、それにあなたは少しきゃしゃ過ぎるようだけど、今までにひどい病気したことがありますか、東京へ来てから……」
「あります。去年の春でした。僕はひどい
ある一つの感情が胸にこみ上げてきた。涙ぐんだ眼をしばたたきながら、私は朴の手をひしと握りしめた。
「まあ、私が知っていたなら……」
しばらくしてから、朴はきっぱりとした調子で、
「ではさようなら、また逢いましょう」と、私の手を振り放して、神田方面行きの電車に飛び乗った。
見送りながら、私は心の中で祈るように言っていた。
「待って下さい。もう少しです。私が学校を出たら私達はすぐに一緒になりましょう。その時は、私はいつもあなたについています。決してあなたを病気なんかで苦しませはしません。死ぬるなら一緒に死にましょう。私達は共に生きて共に死にましょう」
[#改ページ]
私の手記はこれで終る。これから後のことは、朴と私との同棲生活の記録のほかはここに書き記す自由を持たない。しかし、これだけ書けば私の目的は足りる。
何が私をこうさせたか。私自身何もこれについては語らないであろう。私はただ、私の半生の歴史をここにひろげればよかったのだ。心ある読者は、この記録によって充分これを知ってくれるであろう。私はそれを信じる。
間もなく私は、この世から私の存在をかき消されるであろう。しかし一切の現象は現象としては滅しても永遠の実在の中に存続するものと私は思っている。
私は今平静な冷やかな心でこの粗雑な記録の筆を