少年と海
加能作次郎
一
「お父、また白山が見える!」
外から帰って来た為吉は、縁側に網をすいている父親の姿を見るや否や、まだ立ち止らない中にこう言いました。この為吉の言葉に何の意味があるとも思わない父親は、
「そうかい。」と一寸為吉の方を見ただけで、
「どこに遊んでおった?」と手を休めもせずに言いました。
「浜に、沖見ていたの。」と為吉は縁側に腰掛け、「白山が見えとる。」ともう一度言いました。
父親は始めて手を休めて不思議そうに為吉の顔をしげしげと眺めました。そして、
「白山が見えりゃ何だい?」と優しく言いました。
父親はこの頃為吉が妙にふさいでばかりいるのが合点がいかないのでした。為吉はまだ八つでしたが、非常に頭のよい賢こい子で、何かにつけて大人のような考を持っていました。神経質で始終何か考えてばかりいる子でした。
為吉はうつむいて前垂の紐をいじっていて暫く答えませんでした。何か心の中で当てにして来たことが、ぴったり父の心に入らないで、話の気勢をくじかれたような気がしたのでした。そしてまだ自分の思うていたことを言わない先に、
「浜に誰かおったか?」と父親に尋ねられて、いよいよ話が別の方へそれて行くのをもどかしいように情ないように感じました。
「誰もおらなんだ。」
「お前一人何していたい?」
「沖見とったの。」
「えい、そうか。」と父親は腑に落ちぬ顔付をしましたが、深く尋ねようともしませんでした。
為吉はなおもじもじしていましたが、ふと思いついたように、
「暴風になって来ぬかしら?」と言いました。
「なぜ? なりそうな様子かい?」と父親は不思議そうに尋ねました。
「白山が見えてるから。」
「白山が見えたって、お前。」
「それでも、暴風になる時には、いつでも白山が見えるもの。」
父親は為吉が変なことを言うなと思いましたが、別に気にもとめず、
「どうもないだろう。」と坐ったまま廂の先から空を見上げて、「大丈夫やろう、あの通り北風雲だから。」と言いました。
「それでも白山が見えるから、今に南東風になるかも知れん。僕が沖を見ていたら、帆前船が一艘、南東風が吹いて来ると思うたか、一生懸命に福浦へ入って行った。ありゃきっと暴風になると思うて逃げて行ったのに違いなかろう。」と為吉は自信があるように言いました。
父親はにっこり笑いました。為吉の子供らしい無邪気の言葉が、父親にはおかしい程でした。そして、
「お前、三里も向うが見えるかい?」とからかうように言いました。
福浦というのは、為吉の村の向岸の岬の端にある港で、ここから海上三里のところにあるのでした。
為吉の村は、能登国の西海岸にある小さな漁村で、そして父親は貧しい漁夫でした。村の北の方は小高い山を負い、南に海を受けているので、南東の風が吹くと、いつも海が荒れるのでした。漁舟や、沖を航海している帆前船などが難船して、乗組の漁夫や水夫が溺死したりするのは、いつもその風の吹く時でした。そしてその風の吹く時には、きっと福浦岬から続いた海中に加賀の白山がくっきりと聳え立っているのが見えるのでした。その外の時には大抵、空の色合や、雲の具合で見えないのが普通でした。
「白山が見えると、南東風が吹く、海が荒れる、船が難破する、そして人が死ぬ。」
こんな考が、村の人達の話や、自分の実見やらで、いつの間にか為吉の頭に出来あがっているのでした。つい一カ月ばかり前にも、村の漁舟が一艘沖から帰りがけに、その風に遇って難破し、五六人の乗組の漁夫がみんな溺死して、その死体がそれから四五日もたってから隣村の海岸に漂著しましたが、その日も矢張り朝から白山の姿が物すごく海の中に魔物のように立っていました。この新しい恐ろしい出来事が為吉の頭にきざみ込まれているのでした。彼は今日学校から帰って、直ぐ浜へ遊びに行ったのですが、ふといつもの福浦岬の端の水天髣髴としているところに、白山の恐ろしい姿が薄青く浮んでいるのを見とめたので、早速父親に注意しに来たのでした。恐らく父親はこれを聞いたら、それは大変だ、早く船を揚げねばならぬと言って、浜へ飛び出して来るだろうと思っていましたが、父親は、一向平気でいるので、為吉はひどく張合が抜けたのでした。で、暫く黙って、家の前の野菜畑の上に眼を落していましたが、急に思い出したように、
「お父、あの仏壇の抽出しに、県庁から貰うた褒美があるね?」と尋ねました。
「何? そんなものがあるかな。」と父親はいぶかしそうに尋ねました。
「あのう、ほら暴風に遇うた船を助けた褒美だよ。」
父親はまるで自分とは関係のない昔話でも聞かされるような気がしました。
「そんなものがあったかな。そりゃお前、十年も昔のことで、お前がまだ生れない前のことだったが。」
遠い遠い記憶を呼び起すように、為吉の父はかがまっていた長い背を伸して、じっと向うの方を見つめました。
「どうして助けたのかね?」と為吉は尋ねました。
「あの時は、大変な暴風でな。」
「矢張り南東風だったね?」
「あ、大南東風だった。」
「えい。」と為吉は熱心になって、「その時も矢張り白山が見えていただろうね?」
「そんなことは覚えていないけれど、恐ろしい大浪が立って、浜の石垣がみんな壊れてしもうた。」
「よう、そんな時に助けに行けたね、――死んだものがおったかね?」
「何でも十四五人乗りの大きな帆前船だったが、二人ばかりどうしても行方が分らなかった。何しろお前、あの小が崎の端の暗礁へ乗り上げたので、――それで村中の漁夫がその大暴風の中に船を下して助けに行ったのだが、あんな恐ろしいことは俺ァ覚えてからなかった。」
為吉は眼を光らして聞いていました。父は為吉の問に応じて、その難破船の乗組員を救助した時の壮烈な、そして物凄い光景を思い出し話して聞かせました。その時為吉の父親は、二十七八の血気盛りの勇敢な漁夫で、ある漁船の船頭をしていたのでした。そして県庁から、人の生命を助けた効によって、褒状を貰いました。その褒状は仏壇の抽出の奥の方にしまい込んで置いて、もう忘れて了っていたのでした。
為吉は奥の仏間へ駆けて行って、その褒状を出して来ました。厚い鳥の子紙に、墨色も濃く、難破船を救助したことは奇特の至りだという褒め言葉が書いてありました。そして終りに××県知事従五位勲四等△△△△と、その下に大きな四角な印を押してありました。
「それから後には、もう、そんなことはなかったかね?」と為吉は尋ねました。
「漁舟なんかお前、一年に二艘や三艘打ちあげられるけれど、あんなことはなかったよ。」
父親は、眼をつぶって、昔を思い出している様子でした。
二
それから間もなく為吉は再び浜へ下りて行きました。入江には小さな漁舟が五六艘、舷を接してつながれていました。かすかな浪が船腹をぴたぴたと言わせていました。夏の暑い日の午後で、丁度昼寝時だったので、浜には誰もおらず、死んだように静かでした。ただ日盛りの太陽が熱そうに岩の上に照りかえしているばかりでした。大分離れた向うの方の入江に子供が五六人海水浴をしていましたが、為吉が、ここに来ていることに気がつきませんでした。
為吉は暫く岸に立って沖を眺めていましたが、やがて一番左の端の自分の家の舟の纜を引っ張って飛び乗りました。船が揺れた拍子に、波のあおりを食って、どの舟も一様にゆらゆらと小さな動揺を始めました。為吉は舳へ行って、立ったまま沖を眺めました。
「矢張り白山が見える!」
こう彼は口の中でつぶやきました。青い海と青い空との界に、同じような青の上に、白い薄いヴェールを被ったような、おぼろげな霞んだ色に、大きな島のように浮んでいました。白い雲が頂の方を包んでいました。
為吉は心をおどらせました。白帆が二つ三つその麓と思われるところに見えました。じっと見つめていると、そこから大風が吹き起り、山のような大浪が押し寄せて来そうな気がしました。あの白帆が、だんだんこちらへ風に追われて来て、真正面にこの村の岬へ吹きつけられ、岩の上に打ちあげられて、そこに難破するのではなかろうかと為吉は自分で作った恐怖におそわれるのでした。漫々として浪一つ立たない静かな海も、どこかその底の底には、恐ろしい大怪物がひそんでいて、今にも荒れ出して、天地を震撼させそうに思われました。耳をすますと遠い遠い海のかなたが、深い深い海の底に、轟々と鳴り響いているような気がするのでした。
ふと対岸の福浦岬の上にあたって、むくむくと灰色の古綿のような雲が上って来たのを見とめた時、為吉は、「南東風だ!」と思わず叫びました。ぬらっとして、油をまいたような平かな海面がくずれて、一体に動揺を始めたようでした。入江の出口から右の方に長く続いている小が崎の端が突き出ている、その先きの小島に波が白く砕け始めるようになって来ました。鴎が七八羽、いつの間にか飛んで来て、岬の端に啼きながら群れ飛んでいました。ずっと沖の方が黝んで来ました。生温い風が一陣さっと為吉の顔をなでました。
一心に沖を見ていた為吉は、ふと心づいてあたりを見廻しました。浜には矢張り誰もいませんでした。何の物音もなく、村全体は、深い昼寝の夢にふけっているようでした。鳶が一羽ものものしげに低く浜の方に翔っていました。
為吉はまた沖を眺めました。白山は益々はっきりして来ました。さっきの白帆が大分大きくなって、しまきが沖の方からだんだんこちらに近づいて来ました。あのしまきがこの海岸に達すると、もう本物の南東風だ、もう、それも十分と間がない、――白山、南東風、難破船、溺死――、こういう考がごっちゃになって為吉の頭の中を往来しました。誰か死ぬというような思が、ひらめくように起りました。胸が何物かに引きしめられて、息苦しいような気さえして来ました。何を思う余裕もなく、為吉は刻一刻に荒れて来そうに思われる海の上を見つめていました。自分が今どんなところにいるかということも忘れてしまっていました。
じっと耳をすましていると、どこかに助けを呼び求めている声が空耳に聞えて来るのでした。幾人も幾人も、細い悲しげな声を合せて、呼んでいるように為吉の耳に聞えました。何だか聞き覚えのある声のようにも思われました。一カ月前に難船して死んだ村の人達の声のような気もしました。為吉は身をすくめました。糸を引くような細い声は、絶えたかと思うと、また続きました。その声はどこか海の底か、空中かから来るような気がしました。為吉は一心になって耳をすましました。
いつの間にか入江の口にも波が立って来ました。自分の乗っている船腹に打ちつける潮のぴたぴたする音が高くなって、舟は絶えず、小さな動揺を続けました。
突然、恰もこれから攻めよせて来る海の大動乱を知らせる先触れのよう、一きわ、きわだった大きな波が、二三畝どこからともなく起って、入江の口へ押しよせました。それが次第に近寄って、むくむくと大蛇が横に這うように舟の舳へ寄って来たかと思うと、舳を並べていた小舟は一斉に首をもたげて波の上に乗りました。一波また一波、甚しい動揺と共に舷と舷とが強く打ち合って、更に横さまに大揺れに揺れました。
「わあッ!」という叫び声がしたかと思うと、もう為吉の姿は舳に見えませんでした。最後の波は岸に打ちあげて、白い泡を岸の岩の上に残して退きました。
午後三時頃の夏の熱い太陽が、一団の灰色雲の間からこの入江を一層暑苦しく照らしていました。鳶が悠々と低い空を翅っていました。
夕暮方に、この浜には盛んな藁火の煙があがりました。それは為吉の死骸をあたためるためでした。為吉の父も母も、その死骸に取りすがって泣いていました。
その頃から空が曇り、浪が高く海岸に咆哮して、本当の大暴風となって来ました。
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