文吾(五右衞門の幼名)は、唯一人畦の
隣り村には、光明寺といふのがあつて、其處の老僧が近村の子供たちに手習ひをさして實語教なんぞを讀むことを教へてゐる。文吾も今年の春から其の寺へ通ひ始めたのであるが、朝寢坊の癖があるので、いつも遲れ勝ちで、朋輩が雙紙を半分も習ひ終つた頃、文吾の小まちやくれた姿が
「文吾はん、早う起きいしいや。」と、母は朝の支度が出來た時、文吾の枕邊に立つて、優しく呼び起すのであるが、文吾は微かに眼を見開いて、母の世帶疲れのした顏を見守つたばかり、また眼を閉ぢて、スヤ/\と眠つてしまふ。こんなに眠がるものをと、母は足音を忍ばせつゝ、勝手の方へ立つて、井戸端に絞り上げてある洗濯物を竿に懸けてから、御飯は文吾が起きてからと、お膳を片寄せて置いて、板の間につくねてある賃仕事の縫ひ物にかゝらうとしたが、幾ら何んでもあんまり遲い。もうお寺通ひの子は殘らず行つてしまつて、表には子守唄が、のんびりと聞えてゐる。文吾は狸寢入りをしながら、母のすることを一つ/\手に取るやうに、座敷の寢床の中で知つてゐるのである。
ねんねこ、さんねこ、
酒屋の子。
樽にもたれて、
寢た心。
こい/\。
子守唄は文吾の耳へもハツキリと聞えて來る。こんな、眠りを誘ふやうな唄をうたはれても、文吾は更に眠くないのである。もう起きてやらうかと、小さな身體をもぐ/\さしてゐる酒屋の子。
樽にもたれて、
寢た心。
こい/\。
ねんねこ、さんねこ、
酒屋の子。
樽にもたれて、
寢た心。
こい/\。
さらに近く子守唄が、窓の外で聞えた。母の足音は、文吾の枕邊まで來て、はたと止つたが、今度は「文吾はん、起きいしいや。」といふ聲も聞えないて、たゞ側に近く人が立つてゐるといふ酒屋の子。
樽にもたれて、
寢た心。
こい/\。
ぽつり。………
雨の日に、この荒れた家の天井から落ちるやうな雫が、文吾の頬に垂れかゝつて、冷やりとした心持ちは、文吾の全身をビク/\と慄へさせた。文吾はまた細く眼を見開かうかと思つたが、ヂツとこらへて、頬にかゝつた雫の、全身に滲み渡るのを感じつゝ、何か劇しい藥でも付けられて肉を
頬にかゝつた雫が、母の涙であることを、文吾は直ぐ悟つたのであるが、母の涙には、恐ろしい毒でも混つてゐるやうに思はるゝことがあつた。愛兒の
文吾が寺へ手習ひに行くのは、毎朝こんな風で遲れるのであつた。お師匠さんも、もう小言を言はなくなつた。朋輩もあまり待たされるので、誘ひに來なくなつた。文吾の机は、みんなが雙紙を半分から習つてしまふまで、毎朝必ず空であつた。文吾が來るまでに、欠伸の一つや二つは、お師匠さんの齒のない口から漏れた。
寺へ手習ひに行く道で、文吾は大きな柿の木に、京紅で染めたやうな、眞ツ赤の御所柿が、枝もたわゝに熟してゐるのを見た。
「
「一つ取つてやらうか。」と思つて、身の輕い文吾は、其の柿の木に登りかけた。人が見てゐやしないかと思つて、一番下の枝に足をかけながら、方々を眺めしたが誰れも見てゐるものはなささうであつた。文吾の小さい身體は、夥しく實つた御所柿の中へ潛り込むやうにして入つて行つた。一匹の蟻をば砂糖壺の中へ投げ込んだやうに、文吾は
さうして、一番小ひささうなのを一つ取つて袂へ入れた。
この時どうして、一番小ひささうなのへ手が行つたのか、文吾は後で考へてみて、どうも解らなかつた。一生解らなかつた。五右衞門になつてからも、この折の心持ちを考へてみて、幾度首を傾けたか知れなかつた。
「どいつちや。……柿
大きな聲を、眞下から鐵砲丸か花火のやうに打上げられた文吾は、足を踏み外さんばかりに驚いたが、兩手でしツかり枝に捉まりながら、柿の實の間から下を覗くと、弓矢を持つた獵師が、眞ツ赤な口を開いて立つてゐた。あの大きな口の中へ、柿の實を一つ投げ込んでやりたいと思ひながら、文吾は默つてゐた。
「どいつちや。人んとこの柿を盜みさらして。……さア下へ降りて、取つた柿を出せ。降りやがらな、打つぞツ。」と怒鳴つて、獵師は弓に矢を
初めは
「こら、やい。この柿、
獵師の罵る聲は、雲に響くばかりに高かつた。文吾はいよ/\度胸を据ゑてしまつて、もう少しの恐怖もなかつた。
「さア取つた柿を返せ。返したらお上へ突き出すことだけは宥してやる。」と、獵師は稍靜かに、恩に着せるやうに言つた。
「返さん……俺の取つた柿は俺のもんや。……お前の腰に提げてる鳩がお前のもんなら、俺の袂に入つてる御所柿は俺のもんや。」
文吾が落ち着き拂つて言ふ言葉と、小まちやくれた態度とは、實に/\踏み潰してやりたいほど憎らしかつた。
「何んぢや、この鳩が俺のもんなら、この柿は貴さまのもんぢや?
「何んぢや、たつた一つか。」と、獵師の言つた言葉は、文吾の耳へ嘲笑はれたやうに響いた。
もつと大きなやつを、ドツサリ取つてやれば好かつたと文吾は殘念でたまらなかつた。さうして、彼れは怨めしさうに、大きな御所柿の木を見上げた。
それから文吾は、夜になるのを待つて、其の御所柿を取りに行くことにきめた。しツとりと夜露に濡れた柿の實の風味は、また格別であつた。
「これ貰うて來たんや。」と言つて、大きなのを二つばかり、母に持つて歸つてやると、柿の好きな母は、何も知らずに、ほく/\喜んで、研ぎ減らした
「關白さんの
さう言つて、母はもく/\と淡紅色の御所柿の
あんまり毎晩、見事な御所柿を持つて來るので、母はそろ/\怪しみ始めた。文吾はそれを知らないのではなかつた。母の心を疑はせるといふことが、文吾には何んとなく面白いのであつた。
「文吾はん、あんたこの柿を何處のお方に貰うといなはるね。こないによう毎晩呉れはりまんな。」
母は少しむづかしい話になると、いつもかうやつて、目上に物を言ふやうにして、文吾に對するのであつた。そら來たな、……と文吾は思つた。
「人に貰へやしまへん。天から授かりまんね。」
文吾はかう言つて、ニヤリと笑つた。それがどうして、
けれども、母は滅多に外出をしないで、家で賃仕事をしてゐるから、隣り村の大きな御所柿の木のことは知らなかつた。木に
「文吾はん、何んであんたは、そんなさもしい心になつて呉れたんや。」と言ひ/\、小ひさい膝を、皺だらけの手で搖り動かした。
「
「無茶言ひなはるな。……川の水と柿とが一緒になりますかいな。」と、母は
「取つて喰べるのが惡いのんなら、人の見る前で
「無茶ばつかり言うて、そんなら文吾はん、あんたはこれから、人のもんも自分のもんもない、欲しなつたら、何んでも取りなはるんか。」と、母は涙の眼を輝かして、文吾の小ひさな膝に詰め寄つたが、また忽ち崩れるやうにひれ伏してわつと泣き出した。
「文吾はん、あんたはお父つあんの顏を知らんのやなア。」
夜も更けて、母子枕を並べて寢てゐる時、母はこんなことを言つた。文吾がよく眠つてゐると思つて、獨り言のやうに言つたのを、折節眼を覺ましてゐた文吾は、「うツすら覺えてる。顏の平たい、大けな人やつた。」と、寢惚け聲でかう言つて、何か喰べてでもゐるやうに、口をむにやむにやさした。
「あゝ、あんた起きてなはつたのか。」と、母はきまりわるさうにして、向うへ寢返りをした。其の途端、蒲團が狹いので、足がドタリと疊の上へ滑り落ちた。この村で疊の敷いてあるのは、この石川の家のほかには、庄屋ぐらゐのものであつた。家は荒れ果てても、破れ疊に昔榮えた名家の跡を見せてゐた。疊の敷いてある家と言へば、それがどんなに破れてゐても、人は其の家を敬ふことを忘れなかつた。古疊の上へ足を滑らせると、冷りとした氣持ちが、得も言はれぬ感じを母の胸に與へて、痩せても枯れても、石川の家には、まだ疊が敷いてあるといふ誇りが、全身に漲るのであらう。母は古疊の上へ足をバタ/\させてゐた。
「文吾はん、あんたの
「文吾はん……」と、母はまたくるりと此方へ寢返りをして、疊の上へ滑り落した足をバタ/\やつてゐる。
「
「文吾はん、あんたのお父つあんはなア、……」と言ふなり、母はむツくと起き直つて、床を這ひ出し、文吾の側へ寄つて來て、ひしとばかりに其の寢姿に取り付いた。
「文吾はん、あんた、死んだお父つあんの代りになつて、わたしの言ふこと聽いとくれ、」と、母の聲は、涙とともに、塞いであつたものを取り除いたやうに溢れ出た。――
文吾の父は、由緒ある武士石川左衞門の後裔で、先祖代々伊賀の郷士であつたが、だん/\に家が衰へて、多くあつた山林田畑も賣り拂ひ、其の日の米や鹽にも困るやうになつた。しかし、酒だけはどうしても缺かすことが出來ないといふので、母が
「酒がないのは、生命がないのも同じことぢや。」と父は毎朝必ずさう言つて、母に酒の才覺を促したさうである。
酒のほかにもう一つ、父の求むる心の甚だ強いものがあつた。それは子だ。「男の子が一人欲しい。仕方がなけれや女でもよい。」と、父は熱心に考へてゐた。酒と子供……それが父の求むる二つの大事なものであつた。しかし、酒は母の苦心によつて、毎晩のこなからは缺かさないが、子供だけは、母一人の力でどうにもならなかつた。
「石川の血統が絶える。……」と、父は毎日溜息ばかり吐いてゐた。
ところが、或る日、どうしてもこなからの濁酒の手に入らぬことがあつた。母は八つ時の頃から、草履の尻を摺り切らして、山一つ越えた向うの里まで行つたが、酒を
もう當てはないけれど、父の憤りをヂツと見てゐることは出來ないので、母はまた瓶子を持つて外へ出た。五月の空はどんより曇つて、村の家々は、燃ゆるやうな青葉の匂ひに包まれてゐた。破れ草履を脱ぎ棄てたので、足の裏が冷たく、霑ひをもつた土に吸ひ付くやうであつた。
酒のありさうな家へは、皆行つてしまつたので、この上は神の力に縋るよりほかはないと思つて、母は毎朝
近付くほど餘計に願ひ事が叶ふかと考へられるので、階段を足で探つて、砂だらけの板の間へ上つて行くと、暗に馴れた眼は、眞正面に据ゑてある
「平井大明神……この賜物を頂いて、夫を喜ばせます。それからどうか子供を一人お授け下さりませ。」と、母は覺えず大きな聲で祷つた。
其の時、何處から現はれたか、白衣を着けた大きな男の姿が、母の眼の前にあつた。母は「きやツ」と叫んで、氣絶せんばかりに驚いたが、其のかよわい手を掴んで、ぐいツと引き寄せた白衣の男は、母の耳に口を寄せて言つた。
「わしはお前に、
それは、ほんたうに神の聲のやうであつた。――
此處まで語つて、母はあとを言ふことが出來ないで、泣き
「文吾はん、わたしはなア、お父つあんを喜ばさうと思うた餘り、お酒と子供が欲しさに、言はうやうのない大きな罪を犯したんや。神さんのお宮を穢したんや。お父つあんが生きてゐるうちに、何遍白状しようと覺悟したか知れんが、言ひそゝくれて、臨終の床にも間に合はんことになつた。お父つあんの代りに、文吾はん、あんたに白状したのやよつて、どうでもしてわたしを責めとくれ。」と、母の言葉は矢張り涙とともに溢れ出た。
けれども、それから母がまた涙とともに言ふところに據ると、文吾はどうも、自分のほんたうの父は、其の暗黒の中から出た怪しい白衣の男だと思はれた。「あんたの
都にまで響いた
父は文吾を、平井明神の申し子だと信じ切つて、有り難がつてゐた。自分の面ざしに少しも似てゐなければ、性質のまるで反對な文吾をば、却つて餘計に可愛がつた。……
文吾は、母の口からこんな風の痛ましいことばかり、いろ/\と聽かされて、深く自ら心に決するところがあつた。
寺へ手習ひに行く時、文吾は街道の賣屋の前を通るのが厭であつた。
冬の寒い盛りにも、賣屋の表は障子が一枚だけ開いて、街道を人が通る度に、蒼白い主婦の顏は、きツと此方を見た。足音がしないでも、人さへ通ると、主婦はそれを其の低く平べツたい鼻で嗅ぎ取るかのやうに、直ぐ感知して、此方を向いた。文吾が藁草履に砂埃りを立てて通つても、深沓の破れたのに泥を踏んで行つても、賣屋の主婦の窪んだ濁つた眼は、決してそれを見遁さなかつた。
文吾はもとよりこの主婦が、文吾の通る時だけにさうするのだとは思つてゐなかつた。自分ばかりが主婦に注目されてゐるのではないことをよく知つてゐた。日がな一日、其の賣屋の店の奧に坐り込んで、鰊蕎麥や燒豆腐の物の臭ひを嗅ぎながら、まるで關所の役人か何かのやうに、一々街道を往來する人に目を着ける。それはもう主婦の心では、見たいといふことを離れて、人さへ通れば、たゞ何かなしに表を見るのだ。人の足音さへ耳に入ると、眼はもう往來を向いてゐる。それがだん/\練れて來ると、もう足音なんぞは聞えなくとも、人さへ通れば、眼の球の方が先きにそれを知つて、
文吾は賣屋の主婦が、自分の通る時ばかり氣を配つて此方を見るのではないことを知つてゐながら、主婦にジロリと自分の姿を見られるのが、厭で/\たまらなかつた。どんなに足音を忍ばせて歩いても、杉の葉の吊してある其の軒下に文吾の影がさすと、主婦の蒼白い顏は、きツと此方を見た。曇つた時や、雨の降る日でも、主婦は決して文吾の通るのを見遁さないから、それが文吾は憎らしくてたまらなかつた。酒を賣るしるしに軒へ杉の葉を吊しておいても、備へた樽はよく空になつてゐた。杉の葉も黄色く枯れかゝつて、焚き付けになりさうであつた。其の杉の葉を指さして、空樽に失望した酒好きの旅人が、主婦を談じつけてゐる隙に、文吾は今日こそ主婦に姿を見られまいぞと思つて、小走りに駈け拔けようとしても、主婦は一心に何やら喋舌りながら、客と睨み合つてゐた眼をば、稻妻のやうに文吾の方へ向けることを忘れなかつた。「さアしまつた。」と文吾は思つた。
どうかして、主婦に見られないやうに、あの杉の葉を吊した店の前を通り過ぎることは出來ないものかと、
「文吾はん、鼠が何んにも落せしまへなんだか。……」と言ひ/\、母はあたりを見したが、古疊の上には、
「いゝえ、何も落せしません。……其の齒痛の
山城へ行き、近江へ拔ける旅人は、文吾の育つた村の街道を歩かない。大和から伊勢へ、伊勢から大和へ、伊賀路の物靜かな
「あゝア、また六部の鉦が鳴るわいな、……」と、母は痩せた胸を、洗ひ晒した澁染めの單衣の上から押へながら、今にも秋ならぬ時雨の來さうな顏をして、六部の鉦の遠ざかり行くのに耳を澄ましてゐた。一人の六部が行つてしまうて、また一人の六部の鉦が、杉の葉を吊した賣屋の方から流れて來た。
「あツ、……」と叫んだ母は、兩手で
六十六部の鉦が、夕暮までも鳴つてゐると、母は頭痛を起して、奧の納戸へ倒れ込んでしまつた。其處の
槍があつたら、其の槍で、あの賣屋の婆の眼を突いてやるのにと思つて、文吾は※[#「木+咼」、U+6947、207-2]を隱した懷中を押へつゝ、表の往來へ駈け出して行つた。賣屋の前を歩いて、婆がいつもの通り此方を見よつたら、いきなり飛び込んで行つて、其の目尻の下つた兩眼を突き刺してやらうと、文吾は其の時、ほんたうにさう考へたのであつた。
文吾の眼からは婆でも、賣屋の主婦は、まだ三十七八の殘りの色香を、櫻の若葉に留めてゐるほどの女であつた。年中血の道で、蒼白くふさいでゐても、琵琶をとつては、平家の一曲に村人の涙を唆ることもあつた。この日は
きつと此方を見るであらう、見たらこの※[#「木+咼」、U+6947、207-17]であの厭な眼を一突きと、後の難儀も思へないで、飛んだことを考へてゐた文吾は、ほツと息を吐きつゝ、首尾よく賣屋の主婦の眼から遁れて、あの店の前を通ることが出來たのを喜んだ。
それから毎日々々、文吾は何か知ら居合はせた子狗なり、鷄なり、雀なり、或る時は空の鴉なりを種につかつて、其の方へ賣屋の主婦の注意を惹き付けておいて、自分だけは其の關所役人のやうな目尻の下つた眼から見遁されることを工夫し始めた。うまく行く時もあるし、しくじることも多かつたし、寺で教はる手習ひよりも、文吾には賣屋の前で身を忍ぶ工夫を練るのが面白くなつて、うまく行つた日は終日氣持ちがよく、しくじつた時は、腹が立つて仕樣がなかつた。しかし、もうあの鋭く尖つた※[#「木+咼」、U+6947、208-8]で賣屋の主婦の眼を突き刺さうなぞといふことは考へなかつた。
朝遲いにきまつてゐた文吾が、此頃は早く來るやうになつたので、お寺の和尚さんも、寺子朋輩も、「これやえらいこツちや」と思つた。早く來ると言つても、矢ツ張り文吾が一番遲かつた。しかし、今までは、みんなが雙紙を一面習ひ終つた頃に、さして急ぎ足でもなく入つて來た文吾が、まだ墨を磨つてゐるうちに來ることもあるやうになつた。一同が机の前に頭を揃へて和尚さんにお辭儀してゐる時に文吾の姿が見えるのは、餘ツぽど早いのであるが、遲くとも雙紙を二三枚習はぬうちに、文吾の机にも硯や筆や墨が取り出されてあるやうになつた。
或る時はまた文吾が、何時の間に來たのか、隣りの机の子さへ知らぬことがあつた。文吾はまだ來んなアと、和尚さんも朋輩も皆さう思つてゐるうちに、文吾がにこ/\して、もう雙紙を一二枚習ひかけてゐるのを見て、あツと驚かされることもあつた。
文吾はそれが得意であつた。賣屋の主婦の眼を晦ますことを覺えてから、それをいろ/\の人に試みたが、うまく行くことの多いのに、嬉しくてたまらなかつた。「これはうまいなア。」と、文吾は獨りで叫んだ。
たゞ足音を忍んで、人の眼を晦ますだけでは詰まらないといふことを、文吾の小ひさな胸は考へ始めた。
初夏から眞夏になる頃には、文吾の忍び足も、おひ/\に習練の效を積んで來た。それでも時々、賣屋の主婦の目尻の下つた眼には見現はされることがあつて、「あの糞婆め。」と齒噛みをしたが、家の母や寺の和尚さんの眼を晦ますことは、もう何んでもなくなつた。
人の眼を晦ますことが何んでもなくなるに連れて、それをたゞぼんやりとやつてゐることが、文吾には詰まらなくなつたのである。去年の秋の末に
棚の上を走る鼠の足音の方に、母の心を引き付けておいて、首尾よく一本の※[#「木+咼」、U+6947、210-1]を懷中に隱し了せたのと、店の土間へ這ひ込んだ
裏の崩れた土塀の上を、毛の汚れた野良猫がノソリ/\と渡つて行く。折柄絲を紡いでゐた母の眼は、其の猫の方へ惹き付けられてゐて、文吾が直ぐ背後に立つてゐるのを知らなかつた。
ビイビイビイビイビイビイ。
チヨン。
ビイビイビイビイビイビイ。
チヨン。
絲車は靜かにつて、じんき(白い綿をチヨン。
ビイビイビイビイビイビイ。
チヨン。
ビイビイビイビイビイビイ。
チヨン。
異國の歌でも聽くやうな絲車の音は、うツとりとして、人の眠りを誘ふやうであつた。靜かな伊賀の山里の、村人は皆午睡の夢をチヨン。
文吾は再び拔き足して、母の傍に忍び寄ると、其の新らしいじんきの束を
文吾は攫つた二束のじんきをば、母の直ぐ側へ投げて、忍び足に寺へ立ち戻つたが、七つ過ぎに家へ歸つて、今度は大びらに入ると、母はまだ神棚の前に坐つてゐた。
「文吾はん、氣い付けなはれや。今日は魔物が家の中へ入り込んでるよつて、……」と、聲を震はして言つた。文吾は獨りクス/\笑つてゐた。
光明寺の和尚さんは、伏見から取り寄せた駿河屋の羊羮で、宇治の玉露を
夏だから襖も障子も開け放してあるので、手習ひをしてゐる本堂の片隅から、
其の頃は他の國々に、まだよく戰があつて、馬の蹄や、雜兵の草鞋に田畑を踏み荒らされたり、家を燒かれたり、女を攫はれたりする噂が、よく耳へ入つたけれど、この伊賀の國だけは、さういふ難儀から暫らく
「
「
「兵粮運びしたら、駄賃呉れはりまツか。」と、其の手習ひ子は、嬉しさうな顏をした。
「駄賃は呉れんな、駄賃の代りに、流れ矢を貰うて死ねぐらゐのものや。」と、和尚さんは冷に笑つた。
「人の
「どうもしやうがないなア。
「強いもんなら、惡いことをしてもだいじおまへんのやなア。」と、其の子は腑に落ちぬといふ顏をした。
「
「強うならな、あかんわい。」と、誰れやらが大きな聲で、頓狂に言つたので、みんなは一時にどツと笑つた。しかし文吾だけは笑はなかつた。
文吾は笑ふよりも考へたかつた。「強いといふことは、善いといふこと、正しいといふことより一枚上手ぢや。」と言つた和尚さんの言葉を、しみ/″\と噛みしめて味ひたかつた。さうして、「強うなれ、強うなれ。」と、口の裡で叫んだ。
けれども、よく考へてみると、一人だけでは幾分強くなつたとて、大勢でかゝつて來られては、兎ても敵はない、これは何んでも手下をドツサリ拵へなければならない、其の手下の出來るまでは、近頃覺えた忍び足の法でやつてやらう、他人に出來ないことを自分がするといふのも、矢張り一つの強さだ、強いといふことが、善いといふこと、正しいといふことより一枚上手なら、もう大威張りぢや、自分はこの忍び足といふ強さで、賣屋の婆に勝つた、家の
其の夜の丑三つに、大膽な文吾は、東の山へ現はるゝといふ大きな星と弘法大師のお姿とを拜むのぢやと、母に告げて、壞れかけてガタ/\してゐる雨戸の外へ出たが、其のまゝ
「誰れぢや。……奈良枝か。」
暗黒の室の欄間のあたりから、手習ひの折の小言で、耳の底深く滲み込んでゐる和尚さんの聲が、いやにそは/\した調子で聞えた。
これや、しまうたわい、と思つて、文吾は暗黒の室内を、瞳が二つあると言はれる眼で透かして見た。自分が今五寸ばかり雨戸を開けて、小ひさい身體を斜めに忍び込んだところから射す星明りに、茶箪笥や火桶や
文吾は不思議でならなかつた。和尚さんの今の聲は、一體何處から響いたのであらうか。さう思つて、つい鼻の先きにある羊羮に手をかけることも出來ないで、隅の方に小ひさく、蜘蛛のやうになつて、壁へ身體を摺り寄せつゝ、ヂツと樣子を窺つた。
晝間は遠くから眺めてゐるばかりで、足の親指の先きだけでも敷居の内へ入れることを許されない和尚さんの居間の疊を蹈んだのは、たいしたことをしたものだといふ誇りが、文吾の胸に湧いて來た。怖ろしいことをしたとか、年に似合はぬ惡いことを企てたといふことは、少しも考へなかつた。見付けられたらまゝよ、和尚さんの鶴のやうな首へ食ひ付いてやれといふ大膽さが、腹いツぱいに
本堂の片隅から遠く眺めただけでも、文吾の隼のやうな眼は、この室の模樣を手に取る如く突きとめてゐた。しかし今かうやつて、深夜に此處へ忍び込んでゐると、茶箪笥や火桶や
生きてゐるのは人間ばかりぢやないのか。――そんなことを文吾は考へた。鑵子に足が出來て、羊羮に羽根が生えて、歩いたり飛んだりしたらどうであらう。……深夜といふ怪しい魔の力は、幾ら利巧でも、矢張り幼い文吾に、こんな事が今にも眼の前に起るやうに思はせた。さうして文吾はまた母が曾て平井明神の拜殿で、白衣の怪しい男に手をとられたのも、かういふ夜であつたかなぞといふことを思ひ浮べた。
「奈良枝、……奈良枝。」
和尚さんの聲は、また同じ高いところから聞えた。文吾は頭を
「誰れぢや……奈良枝か。」
今度は和尚さんの聲が低いところで聞えたと思ふと、文吾の寄り添うてゐた壁が、大地震でもあるやうに、ぐら/\と動いた。文吾は吃驚してしまつて、これは大變なことになつた、自分より和尚さんの方が矢ツ張えらいなアと感心した。しかし、このまゝむざ/\取り押へられるのも業腹だから、忍び足の法で、隱れられるだけは隱れてこまさうと、不思議に動く壁を離れて、目指す羊羮の入つた茶箪笥の傍に潛んだ。暗いから隱れるのには都合のいゝやうなものの、晝間だけの修行では、夜の仕事にさつぱり役立たぬのを、文吾は泣きたいほど殘念だと思つた。第一和尚さんの眼を晦ます種を、何も見付けることが出來ない。鼠なり猫なり、居合はせた何ものかを種に使つて、相手の氣を其の方へ奪はせ、眼をもそれへ向けさせるといふ工夫が、かう暗くてはどうにもならぬ。これは駄目だ、夜の修行をしなければならぬと、文吾は一つの大きな決心をした。
「奈良枝、……なにしてる。」
和尚さんの聲は、また高いところで聞えた。文吾はいよ/\、不思議でたまらなかつた。聲ばかり聞かされて、姿の見えぬ
其の時、自分の入つて來た雨戸が五寸ばかり開いたまゝになつてゐるのを、一尺ほどに開け擴げたものがある。文吾はぎよつとして、そつちを見た。鑵子に足が生えて、動き出すより前に、雨戸が獨りで敷居の溝を滑つたのかと、驚きの眼を瞠つてゐると、流れ星の光りが深い軒を掠めて飛んだのとともに、白い
「奈良枝、……奈良枝。」と、また先刻からの版木で捺したやうな聲が聞えるとともに、正面の壁が三尺四方ばかり、眞四角にバタリと開いて、大きな怪物の口かなんぞのやうに、其處だけが殊に黒く見えた。
「奈良枝、てんごしいなや。」といふ和尚さんの聲が、其の黒い穴の中に聞えたと思ふと、カチ/\と
「なんにもしえしまへんがな。今來たばかりだす。」と言つたのは、たしかに女で、それがあの路傍の賣屋の肥えた娘であることも、文吾の暗を探る眼にはよく分つた。
「言ひなや、いかいこと待たしといて、それからあんなてんごしても、吃驚しえへんで。……」と、和尚さんの身體は、其のつる/\した頭から、ぽつ/\溶けかゝりさうであつた。
「まア、何んでもえゝわ。こつちへおいで、……」と、和尚さんの枯木のやうな手は、賣屋の娘の
二人の影が四角い穴の中に消えた時、其處にもちやんと疊を敷いた室のあることを、文吾の眼はチラと見た。其の途端、四角い穴は元の壁なりに塞がつて、接ぎ目も分らぬ暗黒になつてしまつた。
文吾は何んだか夢のやうな氣がした。あの娘の名はたしか磯菜で、奈良枝ではなかつたがなア、とも思つた。して自分もうつら/\と眠くなつたが、ぐらつと頭を茶箪笥の角に打ち付けて、ハツと眼が覺めるとともに、眞夜中……男……女……といふ疑ひの雲が、其の頭の中に
東の空には白い星が大きく輝いて、村の噂の弘法大師の姿は見えなかつた。文吾はぞつと身慄ひをして、母の寢息の籠つた
翌る日、寺へ行つて和尚さんの顏を見るのが樂みであつた。其の途中で籠に入れた
寺では珍らしく文吾が眞ツ先きに來たので、腰衣で本堂を掃除してゐた小僧が、先づ驚きの眼を
「今日は雨が降るぞ。」と、
「
「庭の石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹根が引き拔きにくい。……さア、文吾、かうやつて三遍續けて言うてみい。」と、和尚さんは澄まし切つて、村の
「なんぞ褒美おくなはるか。」と、文吾は
「慾の深いやツちやなア、こいつ。褒美は望み次第ぢや。」と、和尚さんは齒の尠い口を尖らした。
「そんなら、あの羊羮一きれおくなはれ。そいたらうまいこと言ひまツせ。」
「よし、やらう。言うてみい。」
「庭の
「もうよい。……えらいやツちや。」と、和尚さんの褒め言葉の終らぬうちに、文吾の小ひさい掌は、お重ねをして、和尚さんの鼻ツ先きに出てゐた。和尚さんは、「あはゝゝゝ。」と大きく笑つて、居間の方へ行つたが、稍手間取れると思ふ頃、白紙に包んだ二きればかりの羊羮を、大事さうに持つて來て、
「さア、歸つてから喰べるんぢやぞ。此處で喰べると、ほかの寺子にわるいによつて。」と、嚴かに言つた。
「京の三十三間堂の佛の數は三萬三千三百三十三體あるといなさうかいなほんかいな。……さア文吾、これを七遍息をせずに續けて言うてみい。そしたらあるだけの羊羮をみんなやる。」と、和尚さんはまたこんなことを言ひ出した。
文吾は口の裡で、「京の三十三間……」のと繰り返して言つてみたが、四五度まではどうやら言へるけれど、あとの二度がどうしても續かなかつた。一生懸命にやればやるほど息が切れて來た。其のうちに、手に持つてゐた筈の羊羮の紙包みがなくなつてしまつた。
「
「何を。」
「羊羮を。」
「お前の袂に入つたる。」と、にこりともしないで和尚さんの言つた途端、文吾の右の袂が急に重くなつて、文吾は外から羊羮の紙包みの四角なのを、柔かく探ることが出來た。
まだ/\和尚さんには
其の夕方、家へ歸つて、黒々と墨の附いた手で先づ袂の四角い紙包みを取り出し、いそ/\として披いて見ると、現はれたのは、紅を刷いたやうな駿河屋の羊羮ではなくて、羊羮を切つた形に
こんなことがあつてから、文吾は寺の和尚さんが大好きになつた。今までは好きでも嫌ひでもなかつたのが、好きでたまらなくなつた。手習ひは相變らず厭だし、「山高きが故に貴からず、木あるをもつて貴しとなす。……」と義理一遍に讀むのも、面白いことではないが、文吾は成るたけ早く寺へ行つて、少しでも多く和尚さんの側に居たかつた。
どうしても、和尚さんの居間の茶箪笥にある羊羮が喰べられない。それを喰べ得られるまでに、修行をしなければならぬと、文吾は考へた。
まさか丑三つの深夜に、大膽な文吾が寺へ忍び込んだとは、
家へ歸つてから、それとなく光明寺の怪しい室のことや、賣屋の娘が和尚さんに手を引かれて其の室へ入つたことを、晝間の話になほして、母に告げると、母は
「滅相な、文吾はん。……あんたまア何んでそんなことを言ひなはる。は盜人の始めといふが、……」と言ひさして、さめ/″\と泣き出した。何んでまたこんなことで母が泣くのか、とそれが文吾には解らなかつた。
「やない、わいが見たんやもん。」と、文吾は力を籠めて言つた。母を面白がらせようと思つたことが、母を泣かしてしまつたので、文吾は躍起とならずにはゐられなかつた。
「あの
「それやけど、わい見たんやもん。」と、文吾は自分よりも寺の和尚さんの方が、母に信用されてゐるのが殘念でたまらなかつた。
「それはあの
夏から秋になるのは早かつた。寺へ通ふ路の傍に大きな御所柿が、今年は不作だといふことで、ちらほらと枝の間に紅い實が見えるくらゐであつたが、其の代りに去年よりも一昨年よりも、ズツと大きく見事なものであつた。しかし文吾はもうそんなものにはあまり心を惹かれなかつた。もう少しよいものをと、文吾の鋭い
秋と冬との間に、青地の村では、若い衆たちの伊勢參りの道中がある。それは五年目々々々に行はれる村の行事で、伊賀から伊勢へ、さう遠くもないところを、ぐるツとり道して往復七日がかりで、木遣り音頭を謠ひながら、白裝束に脚絆、甲掛け、菅笠に金剛杖といふ山登りの姿をして、ゆる/\と出かけるのである。鹿島立ちから參宮までは、
文吾も、夏から其の伊勢參りの同行に加はりたくてならなかつた。それを母に言つても、「あれは子供の行くとこやない。」と、頭から顧みられないし、若い衆の頭に頼んでも、「ふゝゝ。」と鼻の先きで笑はれてしまつた。
「行きたいなア、行きたいなア。」と、秋になつてから、文吾はそればかり考へて、もう御所柿でも、羊羮でもなかつた。
いよ/\鹿島立ちも十日の後に迫つた或る夕、文吾は昨夜見た伊勢參りの夢を想ひ出して、獨りぶら/\と杉の葉を吊した賣屋の前を歩いてゐると、向うの方の
「文吾はん、杉の屋の風呂の
「厭ぢやい、そんなわるいこと。」と、文吾は大きな聲で言つて、首を振つた。
「しツ、しツ。……」と、手を振りつゝ若い衆は文吾の高聲を制して、「やい、や、わるいこツちやない、ちいとわけがあつて、あそこの風呂の栓拔いたらんならん、今、娘が入つてよるさかい、早ういて拔いて呉れ。頼む/\。」と、若い衆は神佛を拜むやうに、文吾の前に手を合はした。
「伊勢參りに連れていて呉れるんなら、あの
「早う、早う。」と
「
「騙しやせん。……早うして呉れ。お
文吾は漸く駈け出して行つたが、覺え込んだ忍び足の法で、賣屋の人々の眼を晦ましつゝ、背戸へつて、繁つた
「あゝツ……。」と叫んで、娘が風呂から飛び出したところへ、若い衆の一人は急用でもある風をして、表から飛び込んで來た。あわてふためいて、何をする間もない娘のまる裸體が、稻妻のやうな若い衆の眼光に映つた。
「これぢや、これぢや、疑ひなしぢや。」と、賣屋から出て來た若い衆は、右の手で腹の膨れた形をして見せながら言つた。
「さア、これから相手の詮議ぢや。」と、
「伊勢參りに連れていて呉れるなア。」と、文吾も其處へ顏を出した。
青地の村から出た伊勢參りの同勢八人のうちに、子供が一人居るといふことは、道中筋で人々の眼を集めた。
「あれや何んぢやい、あんなもん連れて行ツとる。」
「あんな
憚り氣もなくこんなこと言ふのが、ちよい/\と文吾の小ひさい耳へ入るが、文吾はたゞニヤ/\と笑つてゐた。伊勢參りの願望の屆いたのが嬉しくて嬉しくて、人が何んと言はうとそんなことは構はないのである。
木遣り音頭の聲賑かに、殆んど村中の人殘らずに送られつゝ、先づ隣り村の平井明神に參詣して、だん/\伊勢路へ向ふのであるが、其の時から文吾の小ひさい身體は笑はれ通しであつた。先達の源右衞門さへ、時々後を振り向いては笑つてゐた。
何故そんなに
「あの人もえゝけど、まだお伊勢參りが濟まんよつてな。」と、村の娘たちは、伊勢參りに行かない若者を、幾分嘲笑の眼をもつて見た。處女の重んぜらるゝのは、いつの世でも同じことであるが、男の方でお伊勢參りの濟まぬものは駄目であつた。
出立の前夜、文吾の母は、いろ/\に心配して、
旅の支度に忙しいなかで、母の出て行く後姿を見送つた文吾は、にこり笑ふと、直ぐ表から飛び出して、畦道傅ひに源右衞門の家へ先きりをした。
源右衞門の家は、中くらゐの百姓であるが、家柄は文吾の家の次ぎに位してゐた。文吾の家は
今度も、先達に講元を兼ねてゐるので、大きな藁家の傍に一坪ばかりの土地を淨めて、
文吾も直ぐ後から眞ツ暗な土間へ入つた。白い砂が疊のやうに美しく
源右衞門は鹿島立ちの酒に醉ひ仆れて、
「これは、これは。」と源右衞門は眼を擦りつゝ起き直つた。亡き夫左衞門と、先祖との光りが見る影もない後家の上にまで輝いて、蔭では何んと言はうと、面と向つて文吾の母を侮るものはまだなかつた。
「御用なら、お人を下されば上りましたのに。」と源右衞門は居住ひをなほし、
「あのわるさがお伊勢參りするんや言うてきゝまへんので若い衆も連れて下さりますさうで、いづれまア、あんたはんの御厄介や思うて、お頼みに參じました。あんな小ツこいもんが色事も存じまへんでへうし、皆さんの足手纏ひになるやらうと思ひますと、お氣の毒さんで……」と、母は早口に言つて、
色事の二字に、文吾はハツとして首を傾けた、光明寺の夜の不思議と、道傍の賣屋の風呂の
「お伊勢參りに子供を連れて行くのも、樂しみなもんぢやらうと思ひましてなあ。……」と言つてニヤ/\笑つてゐるだけで、源右衞門は別に何も言はなかつた。母はもつと言ひたいことや頼みたいことがあつたらしかつたけれど、親の口からは出しにくい言葉だと見えて、もぢ/\して言ひそゝくれたまゝ歸つて了つた。
「可哀さうに心配してらるなア。」と、源右衞門は内儀を顧みて、矢張りニヤ/\しながら言つた。文吾は呆氣ないやうな氣もしたが、色事の二字を、仔細に胸の裡で考へつゝ、また風のやうに源右衞門の家を飛び出すと、先きりして母よりもズツと早く自分の家へ戻り着くなり、元の樣子で旅支度のものを
さうして、翌日の出立に、源右衞門の家の勢揃ひへ眞ツ先きに行つたのは文吾で、
「妙ぢや、妙ぢや。妙ちきりんぢや。あれ見い、子供の伊勢參り。……」と、道中の何處でも囃し立てるやうに呼ばれた。全く其の頃の土地では、お蔭參りの時のほか、子供の伊勢參宮が、それほど珍らしかつたのである。伊勢參りといふことが、妙な意味に取られる伊賀あたりの風儀であつた。
伊勢參りから歸つた文吾は、小ひさい身體が急にめき/\と
「俺はもう子供でないぞ。」と、人に向つて威張りたくなつた。
「あの
「何んでもえゝ、店の法通りにして呉れ。」と、旅慣れた源右衞門も、少し困つた風で、役人の前へでも出たといふ形をして言つた。六人の同行は、そら來たとばかり、待つてゐたらしい顏をして、面白さうに眺めてゐた。
やがて文吾唯一人のところへ、
「
其の女は、前で結んだ美しい帶を、白い手で撫でながら、かう言つて、
白粉の化け物! さう思つて文吾は、睨むやうに其の女を見詰めた。さうして、一つ驚かしてやらうかと考へてみたりした。
「
「あゝ、
「そんな手の鳴らしやうではあかん。」と言ひさま、女は文吾に飛びかゝつて、其の手を自分の手に持ち添へつゝ鳴らさうとしたが、四つの手が一つになると、兎てもうまくは行かなかつた。
「この子、妙なことをする子やなア、氣味がわるい。」と言つて、女の手は固く文吾の手を握つた。それを振り離して、火桶の縁を一つトンと叩くと、文吾の姿は、また女の眼から消えてしまつた。
「ポン、ポン、ポン。……」
今度は女の方から、
「ペチヤ、ペチヤ、ペチヤ。……」
文吾の小ひさな手は、女の直ぐ前に、小兎が餅でも
「この子はまア、可愛らしいと思うてたら、怖らしいわえ……」と、女はさも/\感心したやうに言つた。
其の頃ポルトガル國から初めて渡つて來たタバコといふものの煙を、大きな灰皿の附いた管で、スパ/\吸ふことを、この古市あたりの女は少しづゝやつてゐた。伊賀の奧から出て來た文吾は、それが珍らしくて、女に教はり/\、火を點けて貰つたのを、一口吸ひ込んだが、厭にいがらつぽくて、眼を白黒にして
「さいぜんの敵打ちや、あんたは伊賀の山椒賣りの子や思うて、侮つてたら、えらいことしなはつたなア、そやけど、タバコには降參だすやろ、兜脱ぎなはれ。」と言ひ/\、女は文吾に摺り寄つて來た。
「わつはゝゝゝ。……」
次ぎの間に大きな笑ひ聲が聞えたのは、源右衞門を始め同行の若い衆たちで、先刻から樣子如何にと、次ぎの間へ來て窺つてゐたのであるが、襖の隙から覗いたものが、こらへかねて大きな聲で笑ひ出したのに和して、五六人がどつと一時に笑つた。
羞かしいといふことを、文吾は其の時初めて知つた。今までの恥かしいといふ心持ちとはまるで異つた羞かしさ! そんなものがこの世にあることを少しも知らなかつたのだから、全く文吾には或る世界の夜が明けたやうなものであつた。
浮世の夜はだん/\更けて行くのに、文吾の夜は明けかゝつた。まだ固い寒梅の蕾が一夜の南風に綻び初めるやうなものであつた。
「おうい、邪魔すなやい。
醉ひしれた源右衞門の千鳥足が、廣い廊下に響いて、文吾の小ひさな座敷を覗く同行たちを叱り飛ばす聲が聞えた。
ほんたうに浮世の夜が明けるのは、秋のこととて、長いことであつた。それを長いとも短いとも、文吾は一切夢であつた。浮世の夜が明けて、文吾の夜も全く明けた。文吾はたゞぼんやりしてゐた。其の小ひさい背中をば、女が輕く叩いた。
「何考へてなはる、
「山吹さん。……」と、文吾は大人のする大きな枕に押し付けてゐた耳へ、よく覺え込んでゐた女の名を改めて呼んでみたが、何も言ふことはなかつた。
「はい。……」
「…………」
「何んです。……何んとか言うとくなはれ。」
今日はもう山吹に別れなければならないのかと、文吾の悲んでゐるところへ、源右衞門は頓に若返つた五十面を、朝酒にほんのりさせて、入つて來た。
「石川の
「おゝ、嬉しい。……」と、山吹が
古市二日といふ村の伊勢參りの掟を破つて、三日も
どうしてもこれは、村から呼び金をするよりほかはないが、其の使には誰が立つ。同行八人が一室に集り、女を退けての評定が、三日目の辰の刻に始つた。伊勢から伊賀へほんの隣り國ではあるけれど、古市は東南へ寄つてゐるので、達者な足で、
さういふ時には、きつと籤にしようといふことになるのを、この時は小ひさい文吾が言ひ出すまで、皆忘れてゐた。
「負うた子に教へられて淺瀬を渡る。」なぞと呟きながら、源右衞門だけを拔きにして、源右衞門が籤を拵へた。一番長いのを
「何んぼ先達でも、源右衞門さんが拔けるのは、ちつとすこいなあ、源右衞門さんを入れて、文吾はんを拔いたらえゝ。」と、言ひ出したものがあつた。
「成るほどさうぢや。こんなもん籤に當つたかて、使に行かれへん。よしんば行けても、金の工面が出けえへん。」と合槌を打つものがあつた時、文吾はカツと怒つた。
「こんなもん……とは、何んぢやい。使に行かれんか、金が出けんか、やらしてみてから言へ、くそ垂れめが。」と叫んだ文吾の小ひさい口からは、火を吐きさうで、唇は眞ツ赤に燃えたやうであつた。
「俺はもう大人ぢやぞ。」
更にかう文吾が叫んだ時、一同は噴き出した。文吾にくそ垂れめがと罵られたものも、共に笑つてゐた。
「籤なんぞ引かんかて、
「まア/\。」と、源右衞門は、さながら若い主人を宥める家老のやうにして、文吾のいきり立つのを押へながら、最初の定めの通り籤親の自分だけが拔けて、一同に
「どうれ、
文吾には、どの紙捻が一番長くて、どれが短いといふことがよく分つてゐた。どういふもので分るのか、それは文吾も知らないが、兎に角、源右衞門の汚い握り拳を透いて、中の
七人の
「さあ、
暫らくしてから、源右衞門が、氣がゝりでたまらないといふ顏をして、山吹の部屋へ來た時、源右衞門の眼には、女が唯一人立て膝をして、長い煙管の瀬戸物の吸口から、頻りに煙を吸つてゐるのだけしか見えなかつた。
「
「バア。」
廣い廊下を己れの部屋へ入つた源右衞門の後姿を見屆けてから、文吾は山吹にかう言つた。
「可愛うて、仕樣のない子やなア。」と、山吹は溜息とともに、撫で肩を
日が暮れかゝる頃、文吾は、源右衞門を始め、同行のものにはもとより、廣くて多い油屋中の男女にも餘り知られないやうに、忍び足の法で往來へ出ると、直ぐ他の遊女屋へ入つて行つた。廊下や部屋の樣子は、油屋で呑み込めてゐたから、ズン/\入つたりつたりして、鏡臺や
しかし、幾ら部屋々々を探して歩いても、お金を貰ふことが出來なかつた。仕方がないから、
文吾の心には、貰ふといふことと、盜むといふこととの間に、隔ての障子が立てられてゐなかつた。村で御所柿を貰うた時からさう思つてゐる。人間が尠うて品物は多い。人間が殖えて行くよりも品物の殖える方が早い。欲しいといふものが皆貰へたら、誰れも欲しがるものはない。さうしないで、こんなところに珊瑚や瑪瑙を、五つも六つも隱して置くから、持つてゐないものが欲しがるのだ。まアこれを皆貰うて行けと、懷中へ押し込んだ時、肌が冷りとした。
待てよ、こんな玉は貰うても喰へない。肌に着けたとて、何んの藥にもなるものではない。それをどうして人が欲しがるのか。文吾の智慧はなか/\急に其の譯を考へ付くことが出來なかつた。
あゝ分つた。こんな美しい玉は、柿や栗や米や麥や粟のやうに、さうドツサリあるものではない。世界中にあるのを、海の底に生えてゐるのまで、皆持つて來たら、總ての人に一つ宛こんな珊瑚の玉一つぐらゐ行き渡らんこともあるまいが、誰れも皆持つてゐては値打ちがない。同じやうに裸體で生れて來た人間に、外から値打ちを附けようと思うて、こんな玉を拵へよつた。さうして態と其の數を尠うして、誰れでも手に入れることが出來ないやうにして置く。
紺屋の職人がどうにでもして勝手に染められる色にさへ値打ちを附けて、光明寺の和尚さんはまだ赤い法衣が着られないと言つてゐた。阿呆め、物の色はお天道さまの光で、いろ/\に見えるのだ。人間の眼の加減で、赤いとか青いとか紫だとかになるまでぢや。それにこれは
御領主の富田樣から、お
人間が誰れでも蹈んで歩けて、
こんなことを、文吾は獨りで考へながら、大きな赤い玉を一つ取つて、疊の上へころ/\と轉がしてみた。
其の時廊下に、山吹らしい足音が、バタ/\と響いたので、文吾は周章てて、數々の珠玉を押し隱しながら、
「
廊下の足音は山吹でなくて、源右衞門さんであつた。あんまり心配して、歩きつきがひよろ/\と女のやうになつてゐた。
「もういておいなはつたのか。」と、源右衞門さんは驚きの眼を
「もう、いて來ました。……お金はこれだけ、これは家の阿母さんに貰うて來ました。賣つてお金にして、餘つたのを持つて戻れというてだした。」と、文吾は平氣な顏をしてお金と玉とを出した。
源右衞門を始め、同行は皆どうも怪しいと思つたけれど、
翌朝出立に、文吾は突然、「あツ痛ツたゝたゝツ。」と腹を押へて、山吹の膝に倒れかゝつてしまつた。
八人の同勢が七人になつて、村へ下向の途に就いた。
(大正九年七月)