文吾(
五右衞門の幼名)は、唯一人畦の
小徑を急いでゐた。山國の秋の風は、冬のやうに冷たくて、崖の下の水車に通ふ筧には、槍の身のやうな
氷柱が出來さうであつた。布子一枚で其の冷たい風に慄へもしない文吾は、
實つた稻がお辭儀してゐる田圃の間を、白い煙の立ち
騰る隣り村へと行くのである。
隣り村には、光明寺といふのがあつて、其處の老僧が近村の子供たちに手習ひをさして實語教なんぞを讀むことを教へてゐる。文吾も今年の春から其の寺へ通ひ始めたのであるが、朝寢坊の癖があるので、いつも遲れ勝ちで、朋輩が雙紙を半分も習ひ終つた頃、文吾の小まちやくれた姿が
庫裡の入口に現はれるときまつてしまつた。
「文吾はん、早う起きいしいや。」と、母は朝の支度が出來た時、文吾の枕邊に立つて、優しく呼び起すのであるが、文吾は微かに眼を見開いて、母の世帶疲れのした顏を見守つたばかり、また眼を閉ぢて、スヤ/\と眠つてしまふ。こんなに眠がるものをと、母は足音を忍ばせつゝ、勝手の方へ立つて、井戸端に絞り上げてある洗濯物を竿に懸けてから、御飯は文吾が起きてからと、お膳を片寄せて置いて、板の間につくねてある賃仕事の縫ひ物にかゝらうとしたが、幾ら何んでもあんまり遲い。もうお寺通ひの子は殘らず行つてしまつて、表には子守唄が、のんびりと聞えてゐる。文吾は狸寢入りをしながら、母のすることを一つ/\手に取るやうに、座敷の寢床の中で知つてゐるのである。
ねんねこ、さんねこ、
酒屋の子。
樽にもたれて、
寢た心。
こい/\。
子守唄は文吾の耳へもハツキリと聞えて來る。こんな、眠りを誘ふやうな唄をうたはれても、文吾は更に眠くないのである。もう起きてやらうかと、小さな身體をもぐ/\さしてゐる
枕頭へ、母の足音が、遠くから響くやうであつた。また起しに來たのだなアと思ふと、文吾は起きるのが厭になつた。さうして、ヂツと眼を瞑つて熟睡を裝うてゐた。
ねんねこ、さんねこ、
酒屋の子。
樽にもたれて、
寢た心。
こい/\。
さらに近く子守唄が、窓の外で聞えた。母の足音は、文吾の枕邊まで來て、はたと止つたが、今度は「文吾はん、起きいしいや。」といふ聲も聞えないて、たゞ側に近く人が立つてゐるといふ
氣色を、文吾の狸寢入りの
魂魄に感じさせるだけであつた。
ぽつり。………
雨の日に、この荒れた家の天井から落ちるやうな雫が、文吾の頬に垂れかゝつて、冷やりとした心持ちは、文吾の全身をビク/\と慄へさせた。文吾はまた細く眼を見開かうかと思つたが、ヂツとこらへて、頬にかゝつた雫の、全身に滲み渡るのを感じつゝ、何か劇しい藥でも付けられて肉を
爛らし、骨を燒く苦みが、今にもやつて來るやうに思はれてならなかつた。
頬にかゝつた雫が、母の涙であることを、文吾は直ぐ悟つたのであるが、母の涙には、恐ろしい毒でも混つてゐるやうに思はるゝことがあつた。愛兒の
枕頭に立つて、其の寢顏に見入つてゐる母の爲めに、文吾はいつまでも狸寢入りをしてゐなければならないやうな氣がした。
文吾が寺へ手習ひに行くのは、毎朝こんな風で遲れるのであつた。お師匠さんも、もう小言を言はなくなつた。朋輩もあまり待たされるので、誘ひに來なくなつた。文吾の机は、みんなが雙紙を半分から習つてしまふまで、毎朝必ず空であつた。文吾が來るまでに、欠伸の一つや二つは、お師匠さんの齒のない口から漏れた。
寺へ手習ひに行く道で、文吾は大きな柿の木に、京紅で染めたやうな、眞ツ赤の御所柿が、枝もたわゝに熟してゐるのを見た。
「
可味さうだなア。」と、文吾は思つて、唾液を呑み込み/\した。「喰べたいなア。」と思つて立止つた。それが爲めに、寺へ行くのが遲れた上をなほ遲れた。
「一つ取つてやらうか。」と思つて、身の輕い文吾は、其の柿の木に登りかけた。人が見てゐやしないかと思つて、一番下の枝に足をかけながら、方々を眺め

したが誰れも見てゐるものはなささうであつた。文吾の小さい身體は、夥しく實つた御所柿の中へ潛り込むやうにして入つて行つた。一匹の蟻をば砂糖壺の中へ投げ込んだやうに、文吾は
可味さうな柿の實に包まれてしまつて、まご/\した。どれから

り取らうか、と手のやり場に困つた。
さうして、一番小ひささうなのを一つ取つて袂へ入れた。
この時どうして、一番小ひささうなのへ手が行つたのか、文吾は後で考へてみて、どうも解らなかつた。一生解らなかつた。五右衞門になつてからも、この折の心持ちを考へてみて、幾度首を傾けたか知れなかつた。
忙しい手付きで、小ひさな柿を一つ取つて、袂へ入れると、次ぎにはまたどれを取らうかと、手がまごつき始めた。左の手にシツカリと枝を握つて、右の手では、近まはりの柿の實を撫で

した。何んだか

り取るのが可哀さうにも思はれて來たのである。
「どいつちや。……柿
盜人、
奴盜人。」
大きな聲を、眞下から鐵砲丸か花火のやうに打上げられた文吾は、足を踏み外さんばかりに驚いたが、兩手でしツかり枝に捉まりながら、柿の實の間から下を覗くと、弓矢を持つた獵師が、眞ツ赤な口を開いて立つてゐた。あの大きな口の中へ、柿の實を一つ投げ込んでやりたいと思ひながら、文吾は默つてゐた。
「どいつちや。人んとこの柿を盜みさらして。……さア下へ降りて、取つた柿を出せ。降りやがらな、打つぞツ。」と怒鳴つて、獵師は弓に矢を
番へつゝ、キリ/\と引絞つた。それでも文吾は動かなかつた。打つなら打つてみいと思つて、動かなかつた。すると、獵師の引絞つた滿月のやうな弓は、八日頃の月くらゐに縮つて、弱々しいひよろ/\矢が、びゆうとも音せずに飛んで來ると、文吾の眼の前の、この木では一番大きいと思はれる實に、ぐさとばかり突き刺さつた。味なことをする獵師だと感心して、文吾は木から降りてやる氣になつた。
初めは
喫驚しても、文吾の小ひさな度胸は、もうスツカリ据わつてしまつた。矢でも鐵砲でも持つて來いといふ氣になつた。一番下の枝まで傳うて來て、其處から草原へ飛び降りると、獵師は持つてゐた弓矢を投げ棄て、手甲のかゝつた大きな手で、ぐいツと文吾を引き据ゑた。
「こら、やい。この柿、
何家の柿やと思うてけつかる。」
獵師の罵る聲は、雲に響くばかりに高かつた。文吾はいよ/\度胸を据ゑてしまつて、もう少しの恐怖もなかつた。
「さア取つた柿を返せ。返したらお上へ突き出すことだけは宥してやる。」と、獵師は稍靜かに、恩に着せるやうに言つた。
「返さん……俺の取つた柿は俺のもんや。……お前の腰に提げてる鳩がお前のもんなら、俺の袂に入つてる御所柿は俺のもんや。」
文吾が落ち着き拂つて言ふ言葉と、小まちやくれた態度とは、實に/\踏み潰してやりたいほど憎らしかつた。
「何んぢや、この鳩が俺のもんなら、この柿は貴さまのもんぢや?
阿呆吐かせ。」と、獵師は呆れ返つた顏をした。さうして餘りな圖々しさを憎むのあまり、文吾の襟元を
攫んで突き轉ばした。其の途端に袂の柿がころ/\と草原に轉がり出た。選りに選つて
見窄らしい小ひさな柿なのを、獵師も意外に思ふ風で見てゐたが、更に文吾を捻ぢ伏せて、兩の袂から、懷中までを檢めた。
「何んぢや、たつた一つか。」と、獵師の言つた言葉は、文吾の耳へ嘲笑はれたやうに響いた。
もつと大きな
やつを、ドツサリ取つてやれば好かつたと文吾は殘念でたまらなかつた。さうして、彼れは怨めしさうに、大きな御所柿の木を見上げた。
それから文吾は、夜になるのを待つて、其の御所柿を取りに行くことにきめた。しツとりと夜露に濡れた柿の實の風味は、また格別であつた。
「これ貰うて來たんや。」と言つて、大きなのを二つばかり、母に持つて歸つてやると、柿の好きな母は、何も知らずに、ほく/\喜んで、研ぎ減らした
小刀で、薄く細く長く皮を
剥いた。都は三條の大橋の欄干に凭れて、白い玉を溶かしたやうに美しい水の上まで、剥いた柿の皮を屆かしたといふのが、母の自慢話の一つであつた。若い頃都で御殿奉公をしてゐた母の言葉には、京訛りが殘つてゐた。
「關白さんの
上る柿や。」
さう言つて、母はもく/\と淡紅色の御所柿の
一片を前齒で噛んでゐた。奧齒の一つもない母は、馬のやうに前齒でばかり喰べるので、噛んだものが膝の上へぽろ/\とこぼれ落ちた。
あんまり毎晩、見事な御所柿を持つて來るので、母はそろ/\怪しみ始めた。文吾はそれを知らないのではなかつた。母の心を疑はせるといふことが、文吾には何んとなく面白いのであつた。
「文吾はん、あんたこの柿を何處のお方に貰うといなはるね。こないによう毎晩呉れはりまんな。」
母は少しむづかしい話になると、いつもかうやつて、目上に物を言ふやうにして、文吾に對するのであつた。そら來たな、……と文吾は思つた。
「人に貰へやしまへん。天から授かりまんね。」
文吾はかう言つて、ニヤリと笑つた。それがどうして、
七歳や
八歳の幼いものゝ口から出る言葉かと、母は呆れてしまつて、文吾の
幼顏に浮ぶ不敵の
面魂を見詰めてゐた。さうして、急に差し俯向くと、文吾の小ひさい膝の前に
ひれ伏して、めそ/\と泣き出した。母の方が幼い者のやうになつてしまつた。
けれども、母は滅多に外出をしないで、家で賃仕事をしてゐるから、隣り村の大きな御所柿の木のことは知らなかつた。木に
生つたのを盜んで來るのか、何處かの家に
藏つてあるのを
攫つて來るのか、ハツキリとは分らないが、どうしても正しい品ではないと思ふと、母は今まで喰べた
美味い御所柿を、殘らず吐き出したいと思つたのであらう。いきなり首を擡げると、前にあつた二つの大きな御所柿を取つて、表の方へ投げ付けた。さうして、
「文吾はん、何んで
あんたは、そんなさもしい心になつて呉れたんや。」と言ひ/\、小ひさい膝を、皺だらけの手で搖り動かした。
「
阿母さん、柿はあゝやつて、
自然に
生つてゐるんやおまへんか。人間に喰べさせようと思うて生つてゐるんやおますまい。あの井戸の水が人間に飮まれようと思うて湧くのやないのと同じこツちやらう、柿を取つて喰べるのが
盜人なら、井戸の水を汲んだり川の水を掬うたりして飮むのも盜人や。」と、文吾の幼い智慧は、えらいことを考へ出して來た。
「無茶言ひなはるな。……川の水と柿とが一緒になりますかいな。」と、母は
百結衣の袖でそつと涙を拭いた。
「取つて喰べるのが惡いのんなら、人の見る前で
生らん方がえゝ。生るよつて喰べるのは、當り前やないか。これは俺の柿や言うて、自分一人のもんと勝手にきめたかて、柿の方では、そんなこと知りよれへん。持つてる人が木へ登つて

らな、ほかのもんでは堅うて取れんし、また木へも登れん、よしんば登つて柿をとつて來ても、持つてる人やなけれや、皮も剥けんし、齒も立たんといふのんなら、ほんまに其の人の持ち物ときめることが出けるけど、誰れでも登らうと思うたら、其の木へ登れるし、持つてる人の手でなうても、

ると取れるし、取つて來たらかうやつて、誰れにでも喰べられるんやもん、これは俺の柿やときめるのは

や。誰れの柿でもない、柿は柿の柿や、そやなかつたら、皆んなの人の仲間持ちや。」と、文吾は母の前に片肱怒らして、小憎らしいことを言つた。
「無茶ばつかり言うて、そんなら文吾はん、あんたはこれから、人のもんも自分のもんもない、欲しなつたら、何んでも取りなはるんか。」と、母は涙の眼を輝かして、文吾の小ひさな膝に詰め寄つたが、また忽ち崩れるやうに
ひれ伏してわつと泣き出した。
「文吾はん、あんたはお父つあんの顏を知らんのやなア。」
夜も更けて、母子枕を並べて寢てゐる時、母はこんなことを言つた。文吾がよく眠つてゐると思つて、獨り言のやうに言つたのを、折節眼を覺ましてゐた文吾は、「うツすら覺えてる。顏の平たい、大けな人やつた。」と、寢惚け聲でかう言つて、何か喰べてでもゐるやうに、口をむにやむにやさした。
「あゝ、あんた起きてなはつたのか。」と、母は
きまりわるさうにして、向うへ寢返りをした。其の途端、蒲團が狹いので、足がドタリと疊の上へ滑り落ちた。この村で疊の敷いてあるのは、この石川の家のほかには、庄屋ぐらゐのものであつた。家は荒れ果てても、破れ疊に昔榮えた名家の跡を見せてゐた。疊の敷いてある家と言へば、それがどんなに破れてゐても、人は其の家を敬ふことを忘れなかつた。古疊の上へ足を滑らせると、冷りとした氣持ちが、得も言はれぬ感じを母の胸に與へて、痩せても枯れても、石川の家には、まだ疊が敷いてあるといふ誇りが、全身に漲るのであらう。母は古疊の上へ足をバタ/\させてゐた。
「文吾はん、あんたの
四歳の時に死んだお父つあんはなア、あれは、……」と、母は向うをむいたまゝ言ひかけて、もう泣き聲になつた。文吾は母がまた何を言ふことかと、頓着もしないで、もう御所柿にも飽きたから、明日は一つ、手習ひに行つた時、お師匠さんの菓子箪笥にある饅頭を喰べてやらうと思つて、頻りに其の方法を考へてゐた。喰べたくなるのは自然だ。欲しいものを取つて喰べるのは當り前だ、といふ考へは、文吾の
魂魄に深く/\植ゑ付けられて、なか/\拔き去ることの出來ぬものになつてゐる。
「文吾はん……」と、母はまたくるりと此方へ寢返りをして、疊の上へ滑り落した足をバタ/\やつてゐる。
「
阿母さん……」と、文吾も夢のやうな聲で呼んだ。
「文吾はん、あんたのお父つあんはなア、……」と言ふなり、母はむツくと起き直つて、床を這ひ出し、文吾の側へ寄つて來て、
ひしとばかりに其の寢姿に取り付いた。
「文吾はん、あんた、死んだお父つあんの代りになつて、わたしの言ふこと聽いとくれ、」と、母の聲は、涙とともに、塞いであつたものを取り除いたやうに溢れ出た。――
文吾の父は、由緒ある武士石川左衞門の後裔で、先祖代々伊賀の郷士であつたが、だん/\に家が衰へて、多くあつた山林田畑も賣り拂ひ、其の日の米や鹽にも困るやうになつた。しかし、酒だけはどうしても缺かすことが出來ないといふので、母が
瓶子を抱いて、遠い山路を濁酒など求めに歩いたものであつた。何處の酒屋でも、石川と言へば相手にしなくなつてゐるのを、無理やりに瓶子を突き付けて、推し込んで行かねばならぬ母は、どんなに辛いことであつたらう。
「酒がないのは、生命がないのも同じことぢや。」と父は毎朝必ずさう言つて、母に酒の才覺を促したさうである。
酒のほかにもう一つ、父の求むる心の甚だ強いものがあつた。それは子だ。「男の子が一人欲しい。仕方がなけれや女でもよい。」と、父は熱心に考へてゐた。酒と子供……それが父の求むる二つの大事なものであつた。しかし、酒は母の苦心によつて、毎晩の
こなからは缺かさないが、子供だけは、母一人の力でどうにもならなかつた。
「石川の血統が絶える。……」と、父は毎日溜息ばかり吐いてゐた。
ところが、或る日、どうしても
こなからの濁酒の手に入らぬことがあつた。母は八つ時の頃から、草履の尻を摺り切らして、山一つ越えた向うの里まで行つたが、酒を
借して呉れる家がなかつた。家へ歸ると膳の上に瓶子のないのを憤つた父は、「もう生きてゐられん。酒がなけれや死んでしまふ。」と、狂氣のやうに駄々を
捏ねる。
もう當てはないけれど、父の憤りをヂツと見てゐることは出來ないので、母はまた瓶子を持つて外へ出た。五月の空はどんより曇つて、村の家々は、燃ゆるやうな青葉の匂ひに包まれてゐた。破れ草履を脱ぎ棄てたので、足の裏が冷たく、霑ひをもつた土に吸ひ付くやうであつた。
酒のありさうな家へは、皆行つてしまつたので、この上は神の力に縋るよりほかはないと思つて、母は毎朝
跣足まゐりをしてゐる隣り村の平井明神の森へと志した。神の青葉は人の青葉よりも更に美しかつた。それが夜だから、こんもりと雲か山かのやうに見えてゐる中へ、鳥居の下を通つて進んで行くと、燈明もない拜殿の中は、洞穴のやうに思はれた。
近付くほど餘計に願ひ事が叶ふかと考へられるので、階段を足で探つて、砂だらけの板の間へ上つて行くと、暗に馴れた眼は、眞正面に据ゑてある
八足臺の上に注がれて、木の間を漏るゝ星明りに映し出された
錫の
神酒瓶手が一
對、母を引き寄せるやうにして立つてゐた。母は覺えず手を伸ばしかけたが、神さまのものを勿體ないと思つて、慄ふ手を引ツ込めても、其の手はまたいつの間にか伸びて、錫の瓶子にかゝつてゐた。殆んど無意識に、其の瓶子を振つてみると、酒か水か、トプン/\と音がした。夫の喜ぶ顏を想ふ嬉しさに、勿體なさも忘れて、瓶子の口に鼻をあててみると、芳醇な匂ひが、ぷうんと來た。
「平井大明神……この賜物を頂いて、夫を喜ばせます。それからどうか子供を一人お授け下さりませ。」と、母は覺えず大きな聲で祷つた。
其の時、何處から現はれたか、白衣を着けた大きな男の姿が、母の眼の前にあつた。母は「きやツ」と叫んで、氣絶せんばかりに驚いたが、其のかよわい手を掴んで、ぐいツと引き寄せた白衣の男は、母の耳に口を寄せて言つた。
「わしはお前に、
美い酒を授けてやつた。これからえらい子供を授けてやる。……」
それは、ほんたうに神の聲のやうであつた。――
此處まで語つて、母はあとを言ふことが出來ないで、泣き

りになつた。
「文吾はん、わたしはなア、お父つあんを喜ばさうと思うた餘り、お酒と子供が欲しさに、言はうやうのない大きな罪を犯したんや。神さんのお宮を穢したんや。お父つあんが生きてゐるうちに、何遍白状しようと覺悟したか知れんが、言ひそゝくれて、臨終の床にも間に合はんことになつた。お父つあんの代りに、文吾はん、あんたに白状したのやよつて、どうでもしてわたしを責めとくれ。」と、母の言葉は矢張り涙とともに溢れ出た。
けれども、それから母がまた涙とともに言ふところに據ると、文吾はどうも、自分のほんたうの父は、其の暗黒の中から出た怪しい白衣の男だと思はれた。「あんたの
四歳の時に死んだお父つあんはなア、……」と、母が泣き顏をして言ひかけては、後を止めてしまつた言葉の
破片が殘りなく拾はれたやうな氣がした。
都にまで響いた
大盜賊の何某が、六十六部に姿を扮して長いこと平井明神の拜殿に隱れてゐたといふこと。……
父は文吾を、平井明神の申し子だと信じ切つて、有り難がつてゐた。自分の面ざしに少しも似てゐなければ、性質のまるで反對な文吾をば、却つて餘計に可愛がつた。……
文吾は、母の口からこんな風の痛ましいことばかり、いろ/\と聽かされて、深く自ら心に決するところがあつた。
寺へ手習ひに行く時、文吾は街道の

賣屋の前を通るのが厭であつた。
畦を渡り、
小徑を拔けて、少しでも近い方を行くのであるが、其の

賣屋の前だけは、どうしても通らなければならなかつた。一束の杉の葉を吊した軒下に、「名物にしん蕎麥」といふ字が、障子へ大きく書いてあつて、其の奧に主婦の蒼白い顏が、ふは/\と水にでも浮いてゐるやうに見えてゐた。薄暗いところで、黒い着物を着てゐるので、顏だけがくツきり現はれて、身體は

物の臭ひの漂ふ中に
暈されてしまつた。
冬の寒い盛りにも、

賣屋の表は障子が一枚だけ開いて、街道を人が通る度に、蒼白い主婦の顏は、きツと此方を見た。足音がしないでも、人さへ通ると、主婦はそれを其の低く平べツたい鼻で嗅ぎ取るかのやうに、直ぐ感知して、此方を向いた。文吾が藁草履に砂埃りを立てて通つても、深沓の破れたのに泥を踏んで行つても、

賣屋の主婦の窪んだ濁つた眼は、決してそれを見遁さなかつた。
文吾はもとよりこの主婦が、文吾の通る時だけにさうするのだとは思つてゐなかつた。自分ばかりが主婦に注目されてゐるのではないことをよく知つてゐた。日がな一日、其の

賣屋の店の奧に坐り込んで、鰊蕎麥や燒豆腐の

物の臭ひを嗅ぎながら、まるで關所の役人か何かのやうに、一々街道を往來する人に目を着ける。それはもう主婦の心では、見たいといふことを離れて、人さへ通れば、たゞ何かなしに表を見るのだ。人の足音さへ耳に入ると、眼はもう往來を向いてゐる。それがだん/\練れて來ると、もう足音なんぞは聞えなくとも、人さへ通れば、眼の球の方が先きにそれを知つて、
背後向きに坐つてゐても、くるりと首を
捩つて、往來を見るやうになつた。それで、今日はこの往來を幾人ぐらゐ人が通つたかといふことを、主婦はちやんと知つてゐて、客が來ると、通つた人の數や種類を大聲に話してゐた。文吾も時々それを小耳に挾んで、大和へ越え、伊勢に通ふこの街通筋が、日によつて通る人の數に、大層な違ひのあるのを知つてゐた。
文吾は

賣屋の主婦が、自分の通る時ばかり氣を配つて此方を見るのではないことを知つてゐながら、主婦にジロリと自分の姿を見られるのが、厭で/\たまらなかつた。どんなに足音を忍ばせて歩いても、杉の葉の吊してある其の軒下に文吾の影がさすと、主婦の蒼白い顏は、きツと此方を見た。曇つた時や、雨の降る日でも、主婦は決して文吾の通るのを見遁さないから、それが文吾は憎らしくてたまらなかつた。酒を賣るしるしに軒へ杉の葉を吊しておいても、備へた樽はよく空になつてゐた。杉の葉も黄色く枯れかゝつて、焚き付けになりさうであつた。其の杉の葉を指さして、空樽に失望した酒好きの旅人が、主婦を談じつけてゐる隙に、文吾は今日こそ主婦に姿を見られまいぞと思つて、小走りに駈け拔けようとしても、主婦は一心に何やら喋舌りながら、客と睨み合つてゐた眼をば、稻妻のやうに文吾の方へ向けることを忘れなかつた。「さアしまつた。」と文吾は思つた。
どうかして、主婦に見られないやうに、あの杉の葉を吊した店の前を通り過ぎることは出來ないものかと、
八歳の文吾が小ひさい
魂魄は、いろ/\に苦勞を始めた。或る時は、餘りに憎らしくなつて、自分を見るあの主婦の眼を、突き刺してやらうかと思つて、文吾は母の使ひ古した
※[#「木+咼」、U+6947、205-6]を一本持ち出したことさへある。毎日絲を紡いでゐる母は、
絲紡ぎ車から外した※
[#「木+咼」、U+6947、205-7]の古いのを、危いからと言つて、高い棚の上へ載せてゐた。蹈臺を用ゐても、文吾はまだ其の棚へ手が屆かなかつた。ところが棚の領主のやうにして、
塵埃を蹴立てつゝ暴れてゐる鼠が、※
[#「木+咼」、U+6947、205-9]を一本轉がし落したのが、ぐさとばかり古疊の上へ突つ立つた。文吾は急いで駈け寄つて、其の※
[#「木+咼」、U+6947、205-10]を取り上げたが、錆びてはあつても、尖つてゐて、錐より鋭かつた。其處へ母が來かゝつたので、文吾は手に持つた※
[#「木+咼」、U+6947、205-12]を隱す暇もなく、「鼠ツ、鼠ツ」と棚を指さして叫ぶと、母は慌てた樣子で、上を仰ぎ見たから、其の間に文吾は※
[#「木+咼」、U+6947、205-13]を懷中へ忍ばせて了つた。
「文吾はん、鼠が何んにも落せしまへなんだか。……」と言ひ/\、母はあたりを見

したが、古疊の上には、
齲齒が痛むとよく紙に包んで痛い齒に噛ませられる
鼠矢が五粒ほど、黒くバラ/\こぼれてゐるだけであつた。
「いゝえ、何も落せしません。……其の齒痛の
禁厭だけだんがな。」と言つて、文吾は※
[#「木+咼」、U+6947、205-17]を隱した懷中を押へつゝ、つぼんと立つてゐた。母は文吾の言葉を疑ふ樣子もなく、昔榮えた家の面影を殘してゐる廣い裏庭の、崩れかけた土塀の側へ行つて、丹念に
しんし張りをつゞけた。張つて
麩糊を引いてゐるのは、文吾の單衣になる、繼ぎ
接ぎだらけの大和木綿であつた。初夏の空は淺緑に晴れて、山も里もキラ/\と輝き渡つてゐた。
山城へ行き、近江へ拔ける旅人は、文吾の育つた村の街道を歩かない。大和から伊勢へ、伊勢から大和へ、伊賀路の物靜かな
麥秋の頃を、六十六部が多く通つた。
「あゝア、また六部の鉦が鳴るわいな、……」と、母は痩せた胸を、洗ひ晒した澁染めの單衣の上から押へながら、今にも秋ならぬ時雨の來さうな顏をして、六部の鉦の遠ざかり行くのに耳を澄ましてゐた。一人の六部が行つてしまうて、また一人の六部の鉦が、杉の葉を吊した

賣屋の方から流れて來た。
「あツ、……」と叫んだ母は、兩手で
耳朶に蓋をした。六十六部の多く通る麥秋の頃には、文吾の家の表戸が閉め切つてあつて、六部に留守だと思はせるやうにしてあつた。報謝を受けようとする鉦の音が、いつまでも家の前に鳴つてゐるのを避ける用意だと、文吾は去年あたりから氣付いてゐた。
六十六部の鉦が、夕暮までも鳴つてゐると、母は頭痛を起して、奧の納戸へ倒れ込んでしまつた。其處の
長押には槍と薙刀とをかけた跡があつて、得物は疾くに失はれてゐた。
槍があつたら、其の槍で、あの

賣屋の婆の眼を突いてやるのにと思つて、文吾は※
[#「木+咼」、U+6947、207-2]を隱した懷中を押へつゝ、表の往來へ駈け出して行つた。

賣屋の前を歩いて、婆がいつもの通り此方を見よつたら、いきなり飛び込んで行つて、其の目尻の下つた兩眼を突き刺してやらうと、文吾は其の時、ほんたうにさう考へたのであつた。
文吾の眼からは婆でも、

賣屋の主婦は、まだ三十七八の殘りの色香を、櫻の若葉に留めてゐるほどの女であつた。年中血の道で、蒼白くふさいでゐても、琵琶をとつては、平家の一曲に村人の涙を唆ることもあつた。この日は
茜染の單衣若々しく、背中を往來に見せて坐つてゐたが、人が表を通る毎に、細い首を
捩ぢ向けて、眼の光りを投げかけることは、一人々々に怠らなかつた。文吾がこの

賣店に近づいた時は、何處で棄てられたか、見馴れぬ
子狗が一
頭、鼻を土に摺り付けて、物の臭ひを嗅ぎ

つてゐた。
懷中から
※[#「木+咼」、U+6947、207-11]を取り出して、
路傍の缺け瓦に
尖端の錆を磨りおとした文吾は、白く光る針のやうな鋭さに見入りながら、これで

賣屋の婆の眼をば、飛び込んでたゞ一突きと、氣が狂うたやうに、草履の足音もバタ/\と、急ぎ足に通りかゝる途端、あの子狗がくん/\鼻を鳴らして、

賣屋の土間へ入つて行つた。さうして、其處にあつたお客からの預り物の簔の端を
銜へて引つ張つたので、主婦は其の方へ氣を取られて、この時ばかりは、店の前を
態と荒々しく通る文吾の方に眼が屆かなかつた。
きつと此方を見るであらう、見たらこの※
[#「木+咼」、U+6947、207-17]であの厭な眼を一突きと、後の難儀も思へないで、飛んだことを考へてゐた文吾は、ほツと息を吐きつゝ、首尾よく

賣屋の主婦の眼から遁れて、あの店の前を通ることが出來たのを喜んだ。
それから毎日々々、文吾は何か知ら居合はせた子狗なり、鷄なり、雀なり、或る時は空の鴉なりを種につかつて、其の方へ

賣屋の主婦の注意を惹き付けておいて、自分だけは其の關所役人のやうな目尻の下つた眼から見遁されることを工夫し始めた。うまく行く時もあるし、しくじることも多かつたし、寺で教はる手習ひよりも、文吾には

賣屋の前で身を忍ぶ工夫を練るのが面白くなつて、うまく行つた日は終日氣持ちがよく、しくじつた時は、腹が立つて仕樣がなかつた。しかし、もうあの鋭く尖つた※
[#「木+咼」、U+6947、208-8]で

賣屋の主婦の眼を突き刺さうなぞといふことは考へなかつた。
朝遲いにきまつてゐた文吾が、此頃は早く來るやうになつたので、お寺の和尚さんも、寺子朋輩も、「これやえらいこツちや」と思つた。早く來ると言つても、矢ツ張り文吾が一番遲かつた。しかし、今までは、みんなが雙紙を一面習ひ終つた頃に、さして急ぎ足でもなく入つて來た文吾が、まだ墨を磨つてゐるうちに來ることもあるやうになつた。一同が机の前に頭を揃へて和尚さんにお辭儀してゐる時に文吾の姿が見えるのは、餘ツぽど早いのであるが、遲くとも雙紙を二三枚習はぬうちに、文吾の机にも硯や筆や墨が取り出されてあるやうになつた。
或る時はまた文吾が、何時の間に來たのか、隣りの机の子さへ知らぬことがあつた。文吾はまだ來んなアと、和尚さんも朋輩も皆さう思つてゐるうちに、文吾がにこ/\して、もう雙紙を一二枚習ひかけてゐるのを見て、あツと驚かされることもあつた。
文吾はそれが得意であつた。

賣屋の主婦の眼を晦ますことを覺えてから、それをいろ/\の人に試みたが、うまく行くことの多いのに、嬉しくてたまらなかつた。「これはうまいなア。」と、文吾は獨りで叫んだ。
たゞ足音を忍んで、人の眼を晦ますだけでは詰まらないといふことを、文吾の小ひさな胸は考へ始めた。
初夏から眞夏になる頃には、文吾の忍び足も、おひ/\に習練の效を積んで來た。それでも時々、

賣屋の主婦の目尻の下つた眼には見現はされることがあつて、「あの糞婆め。」と齒噛みをしたが、家の母や寺の和尚さんの眼を晦ますことは、もう何んでもなくなつた。
人の眼を晦ますことが何んでもなくなるに連れて、それをたゞぼんやりとやつてゐることが、文吾には詰まらなくなつたのである。去年の秋の末に
顎の外れるほど大きな口を開いて、夜露に
霑うたうまい
やつをドツサリ喰べたあの御所柿も、今年は不作と見えて、花が尠かつた。其の御所柿の樹から、「人のものは我が物、我が物は人のもの。」といふやうなことを教へられた文吾は、今度偶然に覺えかけたこの忍び足の法で、人のものを我が物にしてやるのも面白いことであらうと考へた。さうして、それを先づ家の母に試みてやらうと思つて、寺の
午休みに、
竊と自分の家へ忍び込んで見た。
棚の上を走る鼠の足音の方に、母の心を引き付けておいて、首尾よく一本の※
[#「木+咼」、U+6947、210-1]を懷中に隱し了せたのと、店の土間へ這ひ込んだ
子狗に、

賣屋の主婦の眼を晦ましたのとが、文吾の忍び足の法を會得しかける最初であつたが、近頃ではもう、鼠や子狗がうまく出て來なくとも、小ひさな石ころを一つ、あらぬ方角へ投げ付けた物音の中に、身を隱すことも出來るやうになつた。
裏の崩れた土塀の上を、毛の汚れた野良猫がノソリ/\と渡つて行く。折柄絲を紡いでゐた母の眼は、其の猫の方へ惹き付けられてゐて、文吾が直ぐ背後に立つてゐるのを知らなかつた。
ビイビイビイビイビイビイ。
チヨン。
ビイビイビイビイビイビイ。
チヨン。
絲車は靜かに

つて、
じんき(白い綿を
胡瓜の小ひさなのぐらゐにしたもの)は長く母の左手で絲になつて伸びると、右の手で

してゐた車が、チヨンと
把手を鳴らす音とともに、
※[#「木+咼」、U+6947、210-12]に卷き着く絲の玉は、だん/\太くなつて行く。
ビイビイビイビイビイビイ。
チヨン。
異國の歌でも聽くやうな絲車の音は、うツとりとして、人の眠りを誘ふやうであつた。靜かな伊賀の山里の、村人は皆午睡の夢を
貪つてゐるのに、文吾の母だけは、
夜業をしても足らぬ賃仕事の絲紡ぎにかゝつてゐるのであつた。寺の午休みに駈け戻つて來た文吾は、母の手元にある
じんきの束を取つて、
竊と物蔭へ身を忍ばせつゝ、樣子を窺つてゐると、自分の

す絲車の音に自分の眠りを誘はれながら、ぼんやりと向うの土塀の上の野良猫に見入つてゐた母は、左の手に乏しくなつた
じんきを繼ぎ足さうとして、手さぐりで
じんきの束を求めたが、指先きに當るのは、古疊の
藺のほつればかりなので、やツと眼が覺めた風で
四邊を見

したが、
じんきはそこいらに一本もなかつた。いぶかしさうに小首を傾けた母は、立つて行つて戸棚から一束の
じんきを持ち出し、またビイビイビイと
紡ぎ始めた。
文吾は再び拔き足して、母の傍に忍び寄ると、其の新らしい
じんきの束を
攫つて、更に物蔭へ隱れた。今持つて來たばかりの
じんきの束が、また見えなくなつたのに呆れた母は、暫らく考へてゐる風であつたが、やがて絲車を片付け、膝の上の綿埃りを拂つてから、臺所へ行つて火打箱を取り出し、
燧石をカチ/\やつて、神棚に燈明を上げた。さうして、其の前に長いこと瞑目祈念してゐた。
文吾は攫つた二束の
じんきをば、母の直ぐ側へ投げて、忍び足に寺へ立ち戻つたが、七つ過ぎに家へ歸つて、今度は大びらに入ると、母はまだ神棚の前に坐つてゐた。
「文吾はん、氣い付けなはれや。今日は魔物が家の中へ入り込んでるよつて、……」と、聲を震はして言つた。文吾は獨りクス/\笑つてゐた。
光明寺の和尚さんは、伏見から取り寄せた駿河屋の羊羮で、宇治の玉露を
淹れて飮むのを樂んでゐた。紅を刷いたやうな四角い長いものを、和尚さんが大事さうに庖丁で切つて、齒のない口でもぐ/\やつてゐる度に、手習ひ子等は何を喰べてゐるのかと思つて、遠くから不思議さうに眺めてゐた。羊羮といふ名なんかは、もとより知らうやうもなかつた。文吾は、初めにそれを見た時、家へ歸つて、母に和尚さんの不思議の食物のことを話すと、若い頃都の水を飮んだ母は薄笑ひをして、「それは伏見の駿河屋の晒し羊羮といふもんや。」と教へてくれたので、羊羮といふもののことをよく知つてゐたし、此頃宇治で出來た玉露といふお茶のことをも、母に聞いてゐた。さうして其の羊羮といふものを
一片喰べてみたくてたまらなかつた。
夏だから襖も障子も開け放してあるので、手習ひをしてゐる本堂の片隅から、
庫裡の奧まで、一目に見通すことは出來るが、手習ひ子は庫裡へ片足でも踏み込むことを禁ぜられてゐるから、羊羮の
納つてある茶箪笥へ近づくことは、文吾の忍び足にもなか/\むづかしかつた。殊に本堂と庫裡との綴ぢ合はせのところには、賢さうな小僧が一人机を控へて、別にお經をさらつてゐるし、まだ若い寺男の眼も、臺所や庭前から光つてゐる。其の中を潛り拔けて、和尚さんの居間に忍び寄ることは、文吾が一生の大事のやうに思はれた。
其の頃は他の國々に、まだよく戰があつて、馬の蹄や、雜兵の草鞋に田畑を踏み荒らされたり、家を燒かれたり、女を攫はれたりする噂が、よく耳へ入つたけれど、この伊賀の國だけは、さういふ難儀から暫らく
免れてゐた。ところが、此頃毎夜丑三つの刻限に、東の山の上へ怪しい星が現はれて、其の星の下に弘法大師のお姿があり/\拜まれるといふことを言ひ觸らすものがあつた。誰れが言ひ出したのか分らないけれど、光明寺の和尚さんも、スツカリそれを信じて、「これはきつと近いうちに、この伊賀にも戰があるに違ひない。それをお大師さんが教へて下さるのぢや。」と、手習ひ子たちにも言ひ聞かせてゐた。
「
和尚さん、
戰があると、わたへ等はどないになりますのや。」と、一番年上の手習ひ子は和尚さんに問うた。
「
戰があつたら、もうお前ぐらゐの年のものは、
軍役というて、兵粮運びなんぞに使はれるし、家にあるお米や麥は皆取り上げられ、家の
納屋も燒かれる。」と、和尚さんは教へた。
「兵粮運びしたら、駄賃呉れはりまツか。」と、其の手習ひ子は、嬉しさうな顏をした。
「駄賃は呉れんな、駄賃の代りに、流れ矢を貰うて死ねぐらゐのものや。」と、和尚さんは冷に笑つた。
「人の
家のお米や麥をたゞ取つて、駄賃も呉れいで兵粮運びさしまんのか。そいで家を燒く。まるで無茶やでな。……
和尚さんそんな無茶しても、
だいじおまへんのか。」と、横合ひから、眉を
顰めつゝ問うた手習ひ子があつた。
「どうもしやうがないなア。
軍人は強いよつて。……」と、和尚さんは微笑んでゐた。
「強いもんなら、惡いことをしても
だいじおまへんのやなア。」と、其の子は腑に落ちぬといふ顏をした。
「
現世ではしやうがないなア。……強いといふことは、尊いといふこと、正しいといふことより、一枚上手ぢや。」と和尚さんは、矢ツ張り笑ひ續けた。
「強うならな、あかんわい。」と、誰れやらが大きな聲で、頓狂に言つたので、みんなは一時にどツと笑つた。しかし文吾だけは笑はなかつた。
文吾は笑ふよりも考へたかつた。「強いといふことは、善いといふこと、正しいといふことより一枚上手ぢや。」と言つた和尚さんの言葉を、しみ/″\と噛みしめて味ひたかつた。さうして、「強うなれ、強うなれ。」と、口の裡で叫んだ。
けれども、よく考へてみると、一人だけでは幾分強くなつたとて、大勢でかゝつて來られては、兎ても敵はない、これは何んでも手下をドツサリ拵へなければならない、其の手下の出來るまでは、近頃覺えた忍び足の法でやつてやらう、他人に出來ないことを自分がするといふのも、矢張り一つの強さだ、強いといふことが、善いといふこと、正しいといふことより一枚上手なら、もう大威張りぢや、自分はこの忍び足といふ強さで、

賣屋の婆に勝つた、家の
阿母さんにも勝つた、これから一つこの和尚さんに勝つて、どうしてもあのおいしさうな駿河屋の羊羮を喰べねばならぬと、文吾は小ひさな胸に、自ら問ひ、自ら答へて、深く決心した。
其の夜の丑三つに、大膽な文吾は、東の山へ現はるゝといふ大きな星と弘法大師のお姿とを拜むのぢやと、母に告げて、壞れかけてガタ/\してゐる雨戸の外へ出たが、其のまゝ
跣足に夜露を踏んで、飛ぶが如く光明寺へ駈け付けると、うま/\和尚さんの居間に忍び入つた。
「誰れぢや。……奈良枝か。」
暗黒の室の欄間のあたりから、手習ひの折の小言で、耳の底深く滲み込んでゐる和尚さんの聲が、いやにそは/\した調子で聞えた。
これや、しまうたわい、と思つて、文吾は暗黒の室内を、瞳が二つあると言はれる眼で透かして見た。自分が今五寸ばかり雨戸を開けて、小ひさい身體を斜めに忍び込んだところから射す星明りに、茶箪笥や火桶や
鑵子が、晝間の通り正しく位置してゐるのを知つただけで、人間の姿は何處にも見えなかつた。
文吾は不思議でならなかつた。和尚さんの今の聲は、一體何處から響いたのであらうか。さう思つて、つい鼻の先きにある羊羮に手をかけることも出來ないで、隅の方に小ひさく、蜘蛛のやうになつて、壁へ身體を摺り寄せつゝ、ヂツと樣子を窺つた。
晝間は遠くから眺めてゐるばかりで、足の親指の先きだけでも敷居の内へ入れることを許されない和尚さんの居間の疊を蹈んだのは、たいしたことをしたものだといふ誇りが、文吾の胸に湧いて來た。怖ろしいことをしたとか、年に似合はぬ惡いことを企てたといふことは、少しも考へなかつた。見付けられたらまゝよ、和尚さんの鶴のやうな首へ食ひ付いてやれといふ大膽さが、腹いツぱいに
蔓つた。
本堂の片隅から遠く眺めただけでも、文吾の隼のやうな眼は、この室の模樣を手に取る如く突きとめてゐた。しかし今かうやつて、深夜に此處へ忍び込んでゐると、茶箪笥や火桶や
鑵子に、一つ/\皆息が通つて生きてゐるのではないかと思はれた。殊に鑵子なんぞは、今にも足が生え、尻尾が出來て、むく/\と歩き出しさうな風に見えた。
生きてゐるのは人間ばかりぢやないのか。――そんなことを文吾は考へた。鑵子に足が出來て、羊羮に羽根が生えて、歩いたり飛んだりしたらどうであらう。……深夜といふ怪しい魔の力は、幾ら利巧でも、矢張り幼い文吾に、こんな事が今にも眼の前に起るやうに思はせた。さうして文吾はまた母が曾て平井明神の拜殿で、白衣の怪しい男に手をとられたのも、かういふ夜であつたかなぞといふことを思ひ浮べた。
「奈良枝、……奈良枝。」
和尚さんの聲は、また同じ高いところから聞えた。文吾は頭を
擡げて、欄間を見上げたが、暗くて何も分らなかつた。
「誰れぢや……奈良枝か。」
今度は和尚さんの聲が低いところで聞えたと思ふと、文吾の寄り添うてゐた壁が、大地震でもあるやうに、ぐら/\と動いた。文吾は吃驚してしまつて、これは大變なことになつた、自分より和尚さんの方が矢ツ張えらいなアと感心した。しかし、このまゝむざ/\取り押へられるのも業腹だから、忍び足の法で、隱れられるだけは隱れてこまさうと、不思議に動く壁を離れて、目指す羊羮の入つた茶箪笥の傍に潛んだ。暗いから隱れるのには都合のいゝやうなものの、晝間だけの修行では、夜の仕事にさつぱり役立たぬのを、文吾は泣きたいほど殘念だと思つた。第一和尚さんの眼を晦ます種を、何も見付けることが出來ない。鼠なり猫なり、居合はせた何ものかを種に使つて、相手の氣を其の方へ奪はせ、眼をもそれへ向けさせるといふ工夫が、かう暗くてはどうにもならぬ。これは駄目だ、夜の修行をしなければならぬと、文吾は一つの大きな決心をした。
「奈良枝、……なにしてる。」
和尚さんの聲は、また高いところで聞えた。文吾はいよ/\、不思議でたまらなかつた。聲ばかり聞かされて、姿の見えぬ
時鳥のやうな和尚さんは、何處に居るのか、さう思つて、キヨロ/\と、暗い中を見

したが、茶箪笥、火桶、鑵子、それ等のものよりほかに何もなかつた。
其の時、自分の入つて來た雨戸が五寸ばかり開いたまゝになつてゐるのを、一尺ほどに開け擴げたものがある。文吾はぎよつとして、そつちを見た。鑵子に足が生えて、動き出すより前に、雨戸が獨りで敷居の溝を滑つたのかと、驚きの眼を瞠つてゐると、流れ星の光りが深い軒を掠めて飛んだのとともに、白い
布を頭から被つて、其の端を口に
銜へた一つの人影が、すうつと縁側へ上つて來た。
「奈良枝、……奈良枝。」と、また先刻からの版木で捺したやうな聲が聞えるとともに、正面の壁が三尺四方ばかり、眞四角にバタリと開いて、大きな怪物の口かなんぞのやうに、其處だけが殊に黒く見えた。
「奈良枝、
てんごしいなや。」といふ和尚さんの聲が、其の黒い穴の中に聞えたと思ふと、カチ/\と
燧石の音が聞えて、先刻の流れ星のやうな薄い光りが、ぴか/\したが、やがて手燭の火とともに、和尚さんのつる/\した頭は吐き出されるが如く其の四角い穴から現はれた。
「なんにもしえしまへんがな。今來たばかりだす。」と言つたのは、たしかに女で、それがあの路傍の

賣屋の肥えた娘であることも、文吾の暗を探る眼にはよく分つた。
「

言ひなや、
いかいこと待たしといて、それからあんな
てんごしても、吃驚しえへんで。……」と、和尚さんの身體は、其のつる/\した頭から、ぽつ/\溶けかゝりさうであつた。
「まア、何んでもえゝわ。こつちへおいで、……」と、和尚さんの枯木のやうな手は、

賣屋の娘の
脂ぎつた太い手をとつて、怪物の四角な口の中へ食はれて行くやうにして、入つてしまつた。和尚さんの手にある手燭の光りは、白い單衣に鼠色の丸ぐけを締めた鶴の如き姿をくつきりと映し出したとともに、丸く肥えて足の短い龜のやうな娘の
容を描き出した。
二人の影が四角い穴の中に消えた時、其處にもちやんと疊を敷いた室のあることを、文吾の眼はチラと見た。其の途端、四角い穴は元の壁なりに塞がつて、接ぎ目も分らぬ暗黒になつてしまつた。
文吾は何んだか夢のやうな氣がした。あの娘の名はたしか磯菜で、奈良枝ではなかつたがなア、とも思つた。して自分もうつら/\と眠くなつたが、ぐらつと頭を茶箪笥の角に打ち付けて、ハツと眼が覺めるとともに、眞夜中……男……女……といふ疑ひの雲が、其の頭の中に
徂徠した。けれど、幾ら智慧が走つてゐても、まだ幼い文吾には、それがとつくりと解るまでには至らなかつた。けれども變な氣持ちは、彼れの頭を押し付けるやうで、肝心の羊羮を盜むことを忘れたまま、ぼんやりと家へ歸つて來た。
東の空には白い星が大きく輝いて、村の噂の弘法大師の姿は見えなかつた。文吾はぞつと身慄ひをして、母の寢息の籠つた
紙帳の中へ
潛り込んだ。寺で蚊に食はれた痕が、急に
痒くなつて來た。
翌る日、寺へ行つて和尚さんの顏を見るのが樂みであつた。其の途中で籠に入れた
茹莢を抱へた

賣屋の娘に行き逢つた。「お早う。」と頷いて行く彼女の頬は、はち切れさうに膨れて、針のさきで輕く突いても、紅い血がパツと迸りさうであつた。この勢ひのよい女と、あの枯木のやうな和尚さんと、それが眞夜中に何の用があつたのかと、文吾はつく/″\考へた。
寺では珍らしく文吾が眞ツ先きに來たので、腰衣で本堂を掃除してゐた小僧が、先づ驚きの眼を
瞠つた。和尚さんは
庫裡から本堂への通り路に、美しく敷き詰めた
礫の兩側へ、
縁をとるやうにして植ゑてある石竹の花の麗はしく咲いたのを見やりつゝ、石像の如くに蹲つてゐたが、「
善海子ツ。」と、いつもとは違ふ清らかな聲で小僧を呼びかけて、
「今日は雨が降るぞ。」と、
朝晴れの
蒼空を見上げた。ほんたうに雨が降るのかと思つて、ほんの一瞬間だが、蒼空を仰いだのは、利巧な文吾にも似合はぬおぞましさであつた。文吾は
てれかくしに、つと和尚さんの側へ寄つて、
「
和尚さん、綺麗だんな。」と言つて、和尚さんの視線を辿りつゝ、同じ石竹の花を見ようとした。
「庭の石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹根が引き拔きにくい。……さア、文吾、かうやつて三遍續けて言うてみい。」と、和尚さんは澄まし切つて、村の
聖顏をしたが、どうしたことか、今朝の和尚さんは、いつもよりズツと聲も樣子も若々しかつた。
「なんぞ褒美おくなはるか。」と、文吾は
石竹の莖を持つて、一本引き拔かうとしたが、なか/\堅くて、成るほど引き拔きにくかつた。
「慾の深いやツちやなア、こいつ。褒美は望み次第ぢや。」と、和尚さんは齒の尠い口を尖らした。
「そんなら、あの羊羮一きれおくなはれ。そいたらうまいこと言ひまツせ。」
「よし、やらう。言うてみい。」
「庭の
石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹根が引き拔きにくい。庭の石竹……」
「もうよい。……えらい
やツちや。」と、和尚さんの褒め言葉の終らぬうちに、文吾の小ひさい掌は、お重ねをして、和尚さんの鼻ツ先きに出てゐた。和尚さんは、「あはゝゝゝ。」と大きく笑つて、居間の方へ行つたが、稍手間取れると思ふ頃、白紙に包んだ二きればかりの羊羮を、大事さうに持つて來て、
「さア、歸つてから喰べるんぢやぞ。此處で喰べると、ほかの寺子にわるいによつて。」と、嚴かに言つた。
「京の三十三間堂の佛の數は三萬三千三百三十三體あるといなさうかいなほんかいな。……さア文吾、これを七遍息をせずに續けて言うてみい。そしたらあるだけの羊羮をみんなやる。」と、和尚さんはまたこんなことを言ひ出した。
文吾は口の裡で、「京の三十三間……」のと繰り返して言つてみたが、四五度まではどうやら言へるけれど、あとの二度がどうしても續かなかつた。一生懸命にやればやるほど息が切れて來た。其のうちに、手に持つてゐた筈の羊羮の紙包みがなくなつてしまつた。
「
和尚さん、返しとくなはれ。」
「何を。」
「羊羮を。」
「お前の袂に入つたる。」と、にこりともしないで和尚さんの言つた途端、文吾の右の袂が急に重くなつて、文吾は外から羊羮の紙包みの四角なのを、柔かく探ることが出來た。
まだ/\和尚さんには
兎ても
敵はぬ、この和尚さんに教はるのは、手習ひよりもほかにあると文吾は考へた。
其の夕方、家へ歸つて、黒々と墨の附いた手で先づ袂の四角い紙包みを取り出し、いそ/\として披いて見ると、現はれたのは、紅を刷いたやうな駿河屋の羊羮ではなくて、羊羮を切つた形に
捏ね上げた寺の粟飯であつた。文吾はあツと呆れた。
こんなことがあつてから、文吾は寺の和尚さんが大好きになつた。今までは好きでも嫌ひでもなかつたのが、好きでたまらなくなつた。手習ひは相變らず厭だし、「山高きが故に貴からず、木あるをもつて貴しとなす。……」と義理一遍に讀むのも、面白いことではないが、文吾は成るたけ早く寺へ行つて、少しでも多く和尚さんの側に居たかつた。
どうしても、和尚さんの居間の茶箪笥にある羊羮が喰べられない。それを喰べ得られるまでに、修行をしなければならぬと、文吾は考へた。
まさか丑三つの深夜に、大膽な文吾が寺へ忍び込んだとは、
流石の和尚さんも思つてゐないやうである。文吾の方からは、もとより何も言ひ出さなかつた。

賣屋の娘が夜中に寺へ忍び込んだことと、和尚さんの居間の壁には仕掛けがあつて、其處から内證の一室へ行かれることは、たゞ面白い話として人に言ひたいのは山々だが、それを言ふと、自分が深夜に和尚さんの居間へ忍び込んだことが知れる。一體

賣屋の娘は、何んの用があつて、夜中にわざ/\寺へ來たのであらうか。それをハツキリとは知らない文吾であるけれど、またまるツきり解らないのでもない。男……女……夜といふことが、文吾の幼い頭にも少しづゝ判じがつきかゝつて來た。和尚さんは老人でも、男である。

賣屋の娘は若い娘である。若い娘でも、文吾の眼には一人前の大人である。母と同じやうな大人だと思つてゐる。母が亡父の寢酒を求め歩いた果てに、平井明神の
神酒を盜まうとした時、神の名を騙つて、母の手を捉へた白衣の男と母との關係は、丁度寺の和尚さんと

賣屋の娘のそれと、同じことではあるまいか。平井明神は宵の口、光明寺は夜中、たゞそれだけの違ひである――と此處まで考へて來た時、文吾の心は怪しく震へた。さうして自分も、もう一人前の大人になりかけたといふ氣がした。男と女……人間といふものが、どうしてこの二つに別けられてあるのか、自分は今まで少しもそれに就いて考へなかつた。これからはもう、羊羮どころぢやないぞと思つた。
家へ歸つてから、それとなく光明寺の怪しい室のことや、

賣屋の娘が和尚さんに手を引かれて其の室へ入つたことを、晝間の話になほして、母に告げると、母は
紡いでゐた絲車の手を止めて、
「滅相な、文吾はん。……あんたまア何んでそんなことを言ひなはる。

は盜人の始めといふが、……」と言ひさして、さめ/″\と泣き出した。何んでまたこんなことで母が泣くのか、とそれが文吾には解らなかつた。
「

やない、
わいが見たんやもん。」と、文吾は力を籠めて言つた。母を面白がらせようと思つたことが、母を泣かしてしまつたので、文吾は躍起とならずにはゐられなかつた。
「あの
活佛の光明寺さんに、そんなことがあつたら、天地がひつくりかへつてしまひますぞよ。」と、母は短い兩袖で涙を拭きながら言つた。
「それやけど、
わい見たんやもん。」と、文吾は自分よりも寺の和尚さんの方が、母に信用されてゐるのが殘念でたまらなかつた。
「それはあの
娘が何んぞ用でもあつて、お寺へ行かつたんやろ。それから其の壁のひツくりかへるところは
梵妻部屋というてな、何處のお寺にもあるんやが、光明寺さんは其の部屋を使ふやうなお方やない。晝間やもんなア、あんたがそれを見たのは。……そんなことはない、あつてたまるもんか。」と、母も少し氣にかゝり出したやうであつたが、強ひて櫛卷きの首を振つてゐた。文吾は夜の話を晝になほしたばかりに、自分の言ふことが弱くなつたのを、またしみ/″\と殘念に思つた。さうして、其の「夜」といふものに就いて、いろ/\と考へた末、自分もこれからは、其の「夜」といふものを、自由に使はなければならぬと考へた。
夏から秋になるのは早かつた。寺へ通ふ路の傍に大きな御所柿が、今年は不作だといふことで、ちらほらと枝の間に紅い實が見えるくらゐであつたが、其の代りに去年よりも一昨年よりも、ズツと大きく見事なものであつた。しかし文吾はもうそんなものにはあまり心を惹かれなかつた。もう少しよいものをと、文吾の鋭い
重瞳の眼は、他の方を睨んでゐた。
秋と冬との間に、青地の村では、若い衆たちの伊勢參りの道中がある。それは五年目々々々に行はれる村の行事で、伊賀から伊勢へ、さう遠くもないところを、ぐるツと

り道して往復七日がかりで、木遣り音頭を謠ひながら、白裝束に脚絆、甲掛け、菅笠に金剛杖といふ山登りの姿をして、ゆる/\と出かけるのである。鹿島立ちから參宮までは、
戲談一つ言はずに、精進潔齋して行くが、
下向の第一夜を古市の姫買ひに明かすのが、參宮よりもズツと大事な彼等の唯一の希望で、それからは次々の宿場に、飯盛りと戲れぬ夜とてもない。往きはよい/\復りはこはい
疾を獲て、鼻のない顏を生涯、村に晒しつゝ、有り難い記念を留むるものもあるけれど、そんなことは頓着なしに、若い衆たちは指折り數へて、五年目の「やアとこせ、よういやな」を待つのである。
文吾も、夏から其の伊勢參りの同行に加はりたくてならなかつた。それを母に言つても、「あれは子供の行くとこやない。」と、頭から顧みられないし、若い衆の頭に頼んでも、「ふゝゝ。」と鼻の先きで笑はれてしまつた。
「行きたいなア、行きたいなア。」と、秋になつてから、文吾はそればかり考へて、もう御所柿でも、羊羮でもなかつた。
いよ/\鹿島立ちも十日の後に迫つた或る夕、文吾は昨夜見た伊勢參りの夢を想ひ出して、獨りぶら/\と杉の葉を吊した

賣屋の前を歩いてゐると、向うの方の
路傍に立ち話してゐた五六人の若い衆が、手に/\文吾を招いた。伊勢參りの話ではないかと思つて、文吾は胸を躍らせながら、若い衆の群に近寄ると、其のうちの頭だつた一人が、一層近く文吾の顏を、胸にまで引き付けて、
「文吾はん、杉の屋の風呂の
栓拔いて來て呉れんかい。
俺等が行くと目立つさかい、お前なら丁度よい、早う/\。」と促し立てるやうに言つた。杉の屋とはあの

賣屋のことで、今日は杉の枯葉が、青々として新らしいのに取りかへられてあつた。この
家の風呂場は裏の方にあつて、栓が長く背戸の小溝の上に出てゐるのも、文吾はよく知つてゐた。
「厭ぢやい、そんなわるいこと。」と、文吾は大きな聲で言つて、首を振つた。
「しツ、しツ。……」と、手を振りつゝ若い衆は文吾の高聲を制して、「やい、や、わるいこツちやない、ちいとわけがあつて、あそこの風呂の栓拔いたらんならん、今、娘が入つてよるさかい、早ういて拔いて呉れ。頼む/\。」と、若い衆は神佛を拜むやうに、文吾の前に手を合はした。
「伊勢參りに連れていて呉れるんなら、あの
栓拔いて來る。」と、文吾は若い衆の足元を見て言つた。若い衆は顏を見合はせて困つた樣子をしたが、「よし/\、連れていたるさかい、早う拔いて來い。」と、言ふと、皆々それに
同じて、
「早う、早う。」と
急き立てた。
「
騙すんなら厭ぢや。」と、文吾はまだ動かなかつた。
「騙しやせん。……早うして呉れ。お
娘があがると何んにもならん。」と、若い衆は
焦慮つた。
文吾は漸く駈け出して行つたが、覺え込んだ忍び足の法で、

賣屋の人々の眼を晦ましつゝ、背戸へ

つて、繁つた
蓼のそろ/\枯れかけてゐる上へぬツと出てゐる竹の筒の栓を拔くと、後の世には自分が大人になつてからの名で呼ばるゝ五右衞門風呂の湯が、じやアと噴き出した。
「あゝツ……。」と叫んで、娘が風呂から飛び出したところへ、若い衆の一人は急用でもある風をして、表から飛び込んで來た。あわてふためいて、何をする間もない娘のまる裸體が、稻妻のやうな若い衆の眼光に映つた。
「これぢや、これぢや、疑ひなしぢや。」と、

賣屋から出て來た若い衆は、右の手で腹の膨れた形をして見せながら言つた。
「さア、これから相手の詮議ぢや。」と、
年嵩の若い衆は言つた。
「伊勢參りに連れていて呉れるなア。」と、文吾も其處へ顏を出した。
青地の村から出た伊勢參りの同勢八人のうちに、子供が一人居るといふことは、道中筋で人々の眼を集めた。
「あれや何んぢやい、あんなもん連れて行ツとる。」
「あんな
小ツぺいにお
女郎買ひが出けるやろか。」
憚り氣もなくこんなこと言ふのが、ちよい/\と文吾の小ひさい耳へ入るが、文吾はたゞニヤ/\と笑つてゐた。伊勢參りの願望の屆いたのが嬉しくて嬉しくて、人が何んと言はうとそんなことは構はないのである。
木遣り音頭の聲賑かに、殆んど村中の人殘らずに送られつゝ、先づ隣り村の平井明神に參詣して、だん/\伊勢路へ向ふのであるが、其の時から文吾の小ひさい身體は笑はれ通しであつた。先達の源右衞門さへ、時々後を振り向いては笑つてゐた。
何故そんなに
可笑しいのか。それはこの頃この國のお伊勢參りが、古市の姫買ひを目的として、神信心は附けたりであつたから、子供の參宮をば、八十の老婆の嫁入りよりも、まだ不思議なこと、可笑しいこととしたのである。先達を除いては、皆血氣の若者ばかり、六人のうちで四五人までは、この度の旅によつて、其の處女性を破らうとしてゐる。それまでは愼んでゐて、これからそろ/\といふのを、一生の誇りとしてゐる。後の世に行はれる神前結婚式……先づさうした嚴肅な意味に、お伊勢參りをば、性的の行動と觀るのであつた。元服の
烏帽子親を選ぶやうな心を、お伊勢參りの人がもつてゐた。
「あの人もえゝけど、まだお伊勢參りが濟まんよつてな。」と、村の娘たちは、伊勢參りに行かない若者を、幾分嘲笑の眼をもつて見た。處女の重んぜらるゝのは、いつの世でも同じことであるが、男の方でお伊勢參りの濟まぬものは駄目であつた。
出立の前夜、文吾の母は、いろ/\に心配して、
先達源右衞門の家へ尋ねて行つた。嬉しさに包まれて、旅の支度をしてゐた文吾は、背戸を出て行く母の姿を見て、直ぐ源右衞門の家へ行くのぢやなアと覺つた。人の姿を見て其の行方を知るといふことは、文吾が忍び足の法とともに、此頃自得した一つの神經作用であつたが、大抵は誤らなかつた。あの人は何處へ行くといふことを知るのは、さうむづかしいことではないやうに思はれた。殊に母の場合には、それが手に取る如く分つた。
旅の支度に忙しいなかで、母の出て行く後姿を見送つた文吾は、にこり笑ふと、直ぐ表から飛び出して、畦道傅ひに源右衞門の家へ先き

りをした。
源右衞門の家は、中くらゐの百姓であるが、家柄は文吾の家の次ぎに位してゐた。文吾の家は
後家と子供とだけだから、村の寄り合ひの正座も奪はれてしまつたのであるが、源右衞門も家柄だけでは正座へなほることが出來ないで、成り上りが幅を利かしてゐる不平を、酒に紛らしつゝ憤つてゐる。今年五十一になるまで、四度お伊勢參りの先達を勤め、大和の行者參りには八度も先達になつたのを誇りとしてゐる。
今度も、先達に講元を兼ねてゐるので、大きな藁家の傍に一坪ばかりの土地を淨めて、
神籬を立て、
八足の机を置き
新菰を敷いて、大神宮樣が祀つてある。文吾はこの神籬の中へ入つて、母の來るのを待つてゐると、察しに違はず聞き覺えの尻切れ草履の足音がした。さうして入口の敷居を跨ぐ影が薄く幽靈のやうに見えた。
文吾も直ぐ後から眞ツ暗な土間へ入つた。白い砂が疊のやうに美しく
均してある神籬の中へ、若し土足を踏み込めば、直ぐ腰が立たなくなると、村人は皆恐れてゐて、
靈代を安置する平井明神の神主のほかは、誰も入るものがない。それを文吾は子供らしくもない好奇心から、神の罰で腰が拔けたら、
明朝の出立も糠喜びになるのを忘れて、ついフラ/\と、
神籬の中へ忍び込んだのである。しかし榊の枝がざら/\と袖に觸れて鳴つただけ、腰も拔けなければ、
跛足になることもなかつた。文吾はニヤ/\と笑つて、暗い土間に倒れてゐる鍬の柄に躓きもせずに、すうツと風のやうな足どりで、
圍爐裡の切つてある板の間の前まで行つて蹲つた。
源右衞門は鹿島立ちの酒に醉ひ仆れて、
榾の火にあか/\と顏を照らされながら眠つてゐた。文吾の母は、源右衞門の内儀と一言二言話してゐたが、うんと寢返りをした源右衞門を、内儀は「もし、もし」と呼び起して、「左衞門旦那のが、わせらツた。」と告げた。
「これは、これは。」と源右衞門は眼を擦りつゝ起き直つた。亡き夫左衞門と、先祖との光りが見る影もない後家の上にまで輝いて、蔭では何んと言はうと、面と向つて文吾の母を侮るものはまだなかつた。
「御用なら、お人を下されば上りましたのに。」と源右衞門は居住ひをなほし、
胴服の襟を引ツ張りながら言つた。お人を下さるにも何んにも、母子二人切りの家では、どちらか一人が使に出るよりほかはなかつた。家柄よりも物持ちを貴ぶ風は、山城大和から此頃この伊賀の國へも吹き込んで、田地持ち山持ちが上座になほるのを憤つてゐる源右衞門には、態とらしく丁寧に文吾母子を扱ふ傾きがあつた。それは文吾母子を敬ふのは石川の家柄を敬ふので、石川の家柄を敬ふのは、詰まり家柄を重く見ることを村人に知らせようとするに當る。石川に次いでの家柄をもつた源右衞門が石川を貴ぶのは、また自分の家を村人から貴ばせようとすることになるのであつて、源右衞門の心は、こんな簡單なことに對して、甚だ複雜に働いてゐた。
「あの
わるさがお伊勢參りするんや言うてきゝまへんので若い衆も連れて下さりますさうで、いづれまア、あんたはんの御厄介や思うて、お頼みに參じました。あんな小ツこいもんが色事も存じまへんでへうし、皆さんの足手纏ひになるやらうと思ひますと、お氣の毒さんで……」と、母は早口に言つて、
萎びた手を圍爐裡の火に翳してゐた。
色事の二字に、文吾はハツとして首を傾けた、光明寺の夜の不思議と、道傍の

賣屋の風呂の
栓と、この二つの新らしい事件は、文吾の幼い頭を掻き亂して、何やら其處に物があるやうな氣がしてゐた。お伊勢參りがしてみたいといふ心も、これが爲めに一層強くなつたのだといふことは、自分にもよく分つてゐる。
「お伊勢參りに子供を連れて行くのも、樂しみなもんぢやらうと思ひましてなあ。……」と言つてニヤ/\笑つてゐるだけで、源右衞門は別に何も言はなかつた。母はもつと言ひたいことや頼みたいことがあつたらしかつたけれど、親の口からは出しにくい言葉だと見えて、もぢ/\して言ひそゝくれたまゝ歸つて了つた。
「可哀さうに心配してらるなア。」と、源右衞門は内儀を顧みて、矢張りニヤ/\しながら言つた。文吾は呆氣ないやうな氣もしたが、色事の二字を、仔細に胸の裡で考へつゝ、また風のやうに源右衞門の家を飛び出すと、先き

りして母よりもズツと早く自分の家へ戻り着くなり、元の樣子で旅支度のものを
弄つてゐた。
さうして、翌日の出立に、源右衞門の家の勢揃ひへ眞ツ先きに行つたのは文吾で、
白衣に脚絆甲掛けの姿が可愛らしかつた。
「妙ぢや、妙ぢや。妙ちきりんぢや。あれ見い、子供の伊勢參り。……」と、道中の何處でも囃し立てるやうに呼ばれた。全く其の頃の土地では、お蔭參りの時のほか、子供の伊勢參宮が、それほど珍らしかつたのである。伊勢參りといふことが、妙な意味に取られる伊賀あたりの風儀であつた。
伊勢參りから歸つた文吾は、小ひさい身體が急にめき/\と
筍のやうに伸びるやうな氣がした。
「俺はもう子供でないぞ。」と、人に向つて威張りたくなつた。
「あの
坊んち、どないしまんね。殺生なことしやはつて。……」と、古市の油屋で、先達の源右衞門が赤い前垂の女に叱られるやうな物の言ひやうをされてゐるのを、文吾は恐ろしいやうな、可笑しいやうな氣持ちで聞いたのであつた。
「何んでもえゝ、店の法通りにして呉れ。」と、旅慣れた源右衞門も、少し困つた風で、役人の前へでも出たといふ形をして言つた。六人の同行は、そら來たとばかり、待つてゐたらしい顏をして、面白さうに眺めてゐた。
やがて文吾唯一人のところへ、
衣摺れの音とともに現はれたのは、母を少し若くしたほどの女であつた。
「
坊んち、泣かんやうに、よう遊びなはれや。」
其の女は、前で結んだ美しい帶を、白い手で撫でながら、かう言つて、
莞爾と笑つた。其の顏には小
皺が多くて、ツンと高い鼻の側面に一かたまりの
菊石が、つくねたやうになつてゐた。其の菊石の上の白粉は殊に濃くて、美しい帶を撫でてゐる手の甲にも白粉の痕が見られた。
白粉の化け物! さう思つて文吾は、睨むやうに其の女を見詰めた。さうして、一つ驚かしてやらうかと考へてみたりした。
「
坊んち、何んにも怖いことあれへん。わたしがよう遊ばしたげるがな。……何んぞ
手遊品持つて來たらよかつたなア。」と言つて、女が四邊を見

してゐるうちに、文吾は例の忍び足の法で突然女の前から姿を隱した。
「あゝ、
坊んち、何處へ行かはつた。」と、女は白粉の顏をあげて、きよろ/\した。文吾が隅の屏風のところから、ぺちや/\と手を叩くと、女もぽん/\手を拍つた。文吾の手はよく鳴らないが、女の手は表へ聞えるほど朗かに響いた。
「そんな手の鳴らしやうではあかん。」と言ひさま、女は文吾に飛びかゝつて、其の手を自分の手に持ち添へつゝ鳴らさうとしたが、四つの手が一つになると、兎てもうまくは行かなかつた。
「この子、妙なことをする子やなア、氣味がわるい。」と言つて、女の手は固く文吾の手を握つた。それを振り離して、火桶の縁を一つトンと叩くと、文吾の姿は、また女の眼から消えてしまつた。
「ポン、ポン、ポン。……」
今度は女の方から、
迷子でも探すやうにして、一層朗かに手を拍つた。
「ペチヤ、ペチヤ、ペチヤ。……」
文吾の小ひさな手は、女の直ぐ前に、小兎が餅でも
搗くやうな音を立てたと思ふと、其の呑まれたやうに大きな丹前を着た姿が、元の通り火桶を前にして坐つてゐた。
「この子はまア、可愛らしいと思うてたら、怖らしいわえ……」と、女はさも/\感心したやうに言つた。
其の頃ポルトガル國から初めて渡つて來たタバコといふものの煙を、大きな灰皿の附いた管で、スパ/\吸ふことを、この古市あたりの女は少しづゝやつてゐた。伊賀の奧から出て來た文吾は、それが珍らしくて、女に教はり/\、火を點けて貰つたのを、一口吸ひ込んだが、厭にいがらつぽくて、眼を白黒にして
咽せ返つた。女はよく鳴る手を拍つて笑ひこけた。
「さいぜんの敵打ちや、あんたは伊賀の山椒賣りの子や思うて、侮つてたら、えらいことしなはつたなア、そやけど、タバコには降參だすやろ、兜脱ぎなはれ。」と言ひ/\、女は文吾に摺り寄つて來た。
「わつはゝゝゝ。……」
次ぎの間に大きな笑ひ聲が聞えたのは、源右衞門を始め同行の若い衆たちで、先刻から樣子如何にと、次ぎの間へ來て窺つてゐたのであるが、襖の隙から覗いたものが、こらへかねて大きな聲で笑ひ出したのに和して、五六人がどつと一時に笑つた。
羞かしいといふことを、文吾は其の時初めて知つた。今までの恥かしいといふ心持ちとはまるで異つた羞かしさ! そんなものがこの世にあることを少しも知らなかつたのだから、全く文吾には或る世界の夜が明けたやうなものであつた。
浮世の夜はだん/\更けて行くのに、文吾の夜は明けかゝつた。まだ固い寒梅の蕾が一夜の南風に綻び初めるやうなものであつた。
「おうい、邪魔すなやい。
後家さんに頼まれて來たことがあるんぢや。」
醉ひしれた源右衞門の千鳥足が、廣い廊下に響いて、文吾の小ひさな座敷を覗く同行たちを叱り飛ばす聲が聞えた。
ほんたうに浮世の夜が明けるのは、秋のこととて、長いことであつた。それを長いとも短いとも、文吾は一切夢であつた。浮世の夜が明けて、文吾の夜も全く明けた。文吾はたゞぼんやりしてゐた。其の小ひさい背中をば、女が輕く叩いた。
「何考へてなはる、
坊んち。」と、言つた聲は、文吾の耳に
滲みた。
「山吹さん。……」と、文吾は大人のする大きな枕に押し付けてゐた耳へ、よく覺え込んでゐた女の名を改めて呼んでみたが、何も言ふことはなかつた。
「はい。……」
「…………」
「何んです。……何んとか言うとくなはれ。」
今日はもう山吹に別れなければならないのかと、文吾の悲んでゐるところへ、源右衞門は頓に若返つた五十面を、朝酒にほんのりさせて、入つて來た。
「石川の
坊んち。今日も
流連や、幸ひ雨になりさうで、結構なこつちや。」と、丹前姿で突つ立つたまゝ言つた。
「おゝ、嬉しい。……」と、山吹が
魁けて
欣んだ。流連の意味が文吾にはよく解らなかつたけれど、雨が結構ぢやと言つた源右衞門の言葉と、女の嬉しさうな顏とから推し測つて、文吾もぞく/\と嬉しかつた。
古市二日といふ村の伊勢參りの掟を破つて、三日も
流連したので、日取りの狂ひは後の道中で取り返すから、下向の迎ひを平井明神の境内に待ち惚けさせる心配はないが、苦勞なのは、めい/\の
懷中であつた。源右衞門は講の積み金を持つて出たのだけれど、それは今までの
旅籠賃と、
御師への禮物と、太神樂の奉納とに、あらかた使ひはたして、幾らも殘つてはゐない。
どうしてもこれは、村から呼び金をするよりほかはないが、其の使には誰が立つ。同行八人が一室に集り、女を退けての評定が、三日目の辰の刻に始つた。伊勢から伊賀へほんの隣り國ではあるけれど、古市は東南へ寄つてゐるので、達者な足で、
久居から林へ拔けて、上野へ出ても、一日では兎ても行かれない。二十里あまりの
道程を、往復七日がかりの參宮は、氣樂過ぎる道中だが、今日往つて明日金を持つて復るといふのは、少しむづかし過ぎるので、誰れも彼れも、この使は尻込みするのが當然であつた。
さういふ時には、きつと籤にしようといふことになるのを、この時は小ひさい文吾が言ひ出すまで、皆忘れてゐた。
「負うた子に教へられて淺瀬を渡る。」なぞと呟きながら、源右衞門だけを拔きにして、源右衞門が籤を拵へた。一番長いのを
抽いたものが、金の使に立つといふ定めになつた。
「何んぼ先達でも、源右衞門さんが拔けるのは、ちつと
すこいなあ、源右衞門さんを入れて、文吾はんを拔いたらえゝ。」と、言ひ出したものがあつた。
「成るほどさうぢや。こんなもん籤に當つたかて、使に行かれへん。よしんば行けても、金の工面が出けえへん。」と合槌を打つものがあつた時、文吾はカツと怒つた。
「こんなもん……とは、何んぢやい。使に行かれんか、金が出けんか、やらしてみてから言へ、くそ垂れめが。」と叫んだ文吾の小ひさい口からは、火を吐きさうで、唇は眞ツ赤に燃えたやうであつた。
「俺はもう大人ぢやぞ。」
更にかう文吾が叫んだ時、一同は噴き出した。文吾にくそ垂れめがと罵られたものも、共に笑つてゐた。
「籤なんぞ引かんかて、
俺が其の使したる。」と、文吾はいよ/\威丈高になつた。
「まア/\。」と、源右衞門は、さながら若い主人を宥める家老のやうにして、文吾のいきり立つのを押へながら、最初の定めの通り籤親の自分だけが拔けて、一同に
紙捻の籤を抽かした。
「どうれ、
俺が一番長いのを引いて、使にいたろ。金もドツサリ持つて來たるぞ。」と、文吾は一晩のうちに聲變りがしたのか、大人のやうな調子で言つて、眞ツ先きに源右衞門の節くれ立つた手にある白く細い籤を摘まんだ。
文吾には、どの紙捻が一番長くて、どれが短いといふことがよく分つてゐた。どういふもので分るのか、それは文吾も知らないが、兎に角、源右衞門の汚い握り拳を透いて、中の
紙捻がギヤマンの鉢に浮く
慈姑の根のやうに見えてゐた。
七人の
親指と
食指とが、皆源右衞門の擧の上に集つたところで、源右衞門は「よしか。」と一聲、パツと指を開くと、七つの手に一本づゝ
紙捻がブラ下つた。比べて見ると、成るほど文吾のが一番長かつた。
「さあ、
俺が使に行く。金もドツサリ持つて來てやるぞ。」と言ふなり、文吾は山吹の部屋へと長い廊下を躍る風にして行つた。後に七人は、金魚が水を吐くやうに、ぽかんとして、顏を見合はせてゐた。
暫らくしてから、源右衞門が、氣がゝりでたまらないといふ顏をして、山吹の部屋へ來た時、源右衞門の眼には、女が唯一人立て膝をして、長い煙管の瀬戸物の吸口から、頻りに煙を吸つてゐるのだけしか見えなかつた。
「
坊んちはもうお立ちだしたで。何んやら急な用やいうて。」と、白粉の
斑になつた口元に微笑を寄せつゝ、女は言つた。其の背後の屏風の蔭に文吾の立つてゐるのを知らずに、源右衞門はいよ/\心配さうな顏をして、腕組みをしながら、山吹の部屋を出て行つた。朝酒もスツカリ醒めたらしく、舌を吐いて文吾の覗く丹前の後姿を、松風が冷たく撫でてゐた。
「バア。」
廣い廊下を己れの部屋へ入つた源右衞門の後姿を見屆けてから、文吾は山吹にかう言つた。
「可愛うて、仕樣のない子やなア。」と、山吹は溜息とともに、撫で肩を
窄めつゝ言つて、
莞爾と笑つた。
日が暮れかゝる頃、文吾は、源右衞門を始め、同行のものにはもとより、廣くて多い油屋中の男女にも餘り知られないやうに、忍び足の法で往來へ出ると、直ぐ他の遊女屋へ入つて行つた。廊下や部屋の樣子は、油屋で呑み込めてゐたから、ズン/\入つたり

つたりして、鏡臺や
手匣の類を
撥き探した。忍び足の法が、こんなにまで人に氣付かれないで、役に立つものかといふことは、文吾自身にさへ驚かるゝほどであつた。人が來れば、壁……襖……屏風……何んでも、有り合はしたものに寄り添うてさへゐれば、それで先方は氣付かずに行く。壁に近付けば壁と同じやうになるし、襖にぴつたり身體を押し付けてゐれば襖の繪にでも見えるのか。曲折のある屏風は身を忍ぶに最も屈強のものであつた。
しかし、幾ら部屋々々を探して歩いても、お金を貰ふことが出來なかつた。仕方がないから、
珊瑚珠、
瑪瑙、水晶なんぞ、玉ばかりを多く貰つて、お金はほんの少しばかり。これでは足りないであらうと思ひながら、油屋へ戻つて來た。部屋へ入つて見ると、山吹はゐなかつたから、貰つて來たものを殘らず出して、疊の上へ並べて見た。
文吾の心には、貰ふといふことと、盜むといふこととの間に、隔ての障子が立てられてゐなかつた。村で御所柿を貰うた時からさう思つてゐる。人間が尠うて品物は多い。人間が殖えて行くよりも品物の殖える方が早い。欲しいといふものが皆貰へたら、誰れも欲しがるものはない。さうしないで、こんなところに珊瑚や瑪瑙を、五つも六つも隱して置くから、持つてゐないものが欲しがるのだ。まアこれを皆貰うて行けと、懷中へ押し込んだ時、肌が冷りとした。
待てよ、こんな玉は貰うても喰へない。肌に着けたとて、何んの藥にもなるものではない。それをどうして人が欲しがるのか。文吾の智慧はなか/\急に其の譯を考へ付くことが出來なかつた。
あゝ分つた。こんな美しい玉は、柿や栗や米や麥や粟のやうに、さうドツサリあるものではない。世界中にあるのを、海の底に生えてゐるのまで、皆持つて來たら、總ての人に一つ宛こんな珊瑚の玉一つぐらゐ行き渡らんこともあるまいが、誰れも皆持つてゐては値打ちがない。同じやうに裸體で生れて來た人間に、外から値打ちを附けようと思うて、こんな玉を拵へよつた。さうして態と其の數を尠うして、誰れでも手に入れることが出來ないやうにして置く。
狡猾い奴ぢや。こんなものは、貰うてやるに限る。
紺屋の職人がどうにでもして勝手に染められる色にさへ値打ちを附けて、光明寺の和尚さんはまだ赤い法衣が着られないと言つてゐた。阿呆め、物の色はお天道さまの光で、いろ/\に見えるのだ。人間の眼の加減で、赤いとか青いとか紫だとかになるまでぢや。それにこれは
俺の色だ。
外のものは赤い
法衣を着ることならんといふのぢやもの。人の物とか我れの物とかいふのは、一番分らん話ぢや。赤い色は許さぬぞよと威張つてみても、御所柿の實が自然に赤く染まるのを、將軍樣だつてどうすることも出來ぬぢやないか。烏瓜の實は大僧正の緋ごろもよりも赤いぢやないか。阿呆め。駒鳥の胸は、御領主樣の緋縅の鎧よりも綺麗ぢやぞ。
御領主の富田樣から、お
布令が出た。あのお布令といふものが、自體氣に喰はね。村總體を一つの同じお布令で縛らうとしても、太いものがあつたり、細いものがあつたりして、工合よう行くものか。人間一人にお布令一つ宛別々でなけれや、
ほんとには行かん。
ほんとと言つても御領主樣の役人が考へてゐる
ほんとは、
ほんとの
ほんとぢやない。
俺を叱るお布令と源右衞門さんを叱るお布令と同じことでは、キツシリ行くものか。源右衞門さんにはお内儀があつて、子を産んだからお芽出たうと人が祝ふけれど、光明寺の和尚さんが、女子を引つ張り込むのは極内ぢや。

賣屋の肥えた娘のことは、俺のほかにまだ誰も村で知るものがないけれど、あれが和尚さんの子を生んで、若しそれが知れたら、えらい目に遭ふのは和尚さんであらう。同じことをしても、源右衞門さんなら芽出たうて、和尚さんなら惡い、といふ理窟が立つなら、御領主のお布令は、村方の人間一人々々別々に、一つ宛拵へて貰はねばならぬといふ理窟も立つ。
人間が誰れでも蹈んで歩けて、
蚯蚓や
けらが自由に棲んでゐる土地へ、勝手に繩張りをして、これは俺のものぢや、と言つてゐるのも可笑しいが、海の底から拔いて來たものを、こんな玉にして、これは俺のぢや、俺よりほかにこんな見事なのは滅多に持つてゐるものがないぞ、と
ひけらかしてゐるのも阿呆ぢや。
こんなことを、文吾は獨りで考へながら、大きな赤い玉を一つ取つて、疊の上へころ/\と轉がしてみた。
其の時廊下に、山吹らしい足音が、バタ/\と響いたので、文吾は周章てて、數々の珠玉を押し隱しながら、
「
俺は矢ツ張り惡いことをしたのかなア。……」と思つて胸を抱いた。
廊下の足音は山吹でなくて、源右衞門さんであつた。あんまり心配して、歩きつきがひよろ/\と女のやうになつてゐた。
「もういておいなはつたのか。」と、源右衞門さんは驚きの眼を
瞠つた。
「もう、いて來ました。……お金はこれだけ、これは家の阿母さんに貰うて來ました。賣つてお金にして、餘つたのを持つて戻れというてだした。」と、文吾は平氣な顏をしてお金と玉とを出した。
源右衞門を始め、同行は皆どうも怪しいと思つたけれど、
偖文吾がどうして金と玉とを手に入れたか、見當の附けやうもなかつた。さうして、背に腹はかへられぬので、數々の珠玉を源右衞門が松坂の町へ持つて行つて、お金に換へて來た。其のお金は油屋の支拂ひをして、まだドツサリ餘つた。それが皆文吾の懷中に入つた。
翌朝出立に、文吾は突然、「あツ痛ツたゝたゝツ。」と腹を押へて、山吹の膝に倒れかゝつてしまつた。
八人の同勢が七人になつて、村へ下向の途に就いた。
(大正九年七月)