先づごりがんといふ方言の説明からしなければならない。言葉の説明は、外國語でも日本語でも、まことに難儀なことで、其の言葉自身より外に、完全な説明はないのだ。言葉をもつて言葉を説明するといふほど愚かなことはない。言葉を説明するものは、言葉の發する音による以心傳心で、他のいろ/\の言葉を幾つ並べたとて、其の言葉を底の底まで透き通るほどに説明し得るものでない。しかし人間といふものがかうやつていろ/\の言葉を作り上げて、そいつを滑かに使つて來た
それでも、言葉や文字の中には長い間にちよい/\間違つて了つて、
別に言語學に楯を突いた譯でも何んでもない。ごりがんの説明を自然に捲き込んで置かうと思つて、これだけのことを書いてみたのだ。ごりがんとは先づ、駄々ツ兒六分に、變人二分に、高慢二分と、それだけをよく調合して出來上つたかみがたの方言である。「てきさん、どこそこで、ごりがんきめ込んだんやで」とか、「ごりがんでなア」といふのを聞き馴れてゐる人には迷惑であらうけれど、これだけのことは是非書いておかねばならぬ。
「ごりがん事三月十二日
それにしても、自分の父の死をば、ごりがん事なんぞと戲れて通知する息子も息子だと思つて私は、其の息子の天南といふ名前を眺めてゐた。
生れては死に、生れては死にする
困つたのは總領の天南であつた。本山の中學校を卒業してから、寺にぶら/\してゐたが、兎角父の老僧と氣が合はなかつた。老僧はごりがんの名で通るほどの人物で、檀家の評判はよくなかつたが、世襲住職の眞宗寺で、檀家から坊主を追ひ出すといふことは出來ない上に、また寺を追ひ出さうなぞと思ふ檀家があるほどの不評判でもなかつた。缺點はごりがんだけで、勤めることはちやんと勤めた。しかし天南はごりがんの上に大變人で、また
天南はよく蛇を
「晩にはあの蛙が大きなお饅頭を持つて禮に來るぞ。」と、父が言つたので、天南は其の夜どんなに饅頭を待つたか知れなかつたが、父の言葉は眞ツ赤の嘘であつた。それ以來天南は父を信用しなくなつた。
本堂のお花を取りかへるやうに、父から言ひ付かつたことが度々あつたけれど、天南は一度もそれをしたことがなかつた。
「天南ももう三十ぢやから、妻帶さしてやらんならん。わしは十七で妻帶したもんなア。」と、隆法は二三年前、それを最初にまた最後の上京の時にさう言つてゐた。
「さうですか。」と、わたしは田舍坊主の結婚なんか、別に氣にも留めなかつた。すると隆法老僧は、自慢の白髯の、それも甚だ
「歸りに京都へ寄つて、結納を渡して行かんならん。」と、獨言のやうに言ひ/\、中くらゐの信玄袋の口を開けて、「
「まア御立派でございますこと。」と、
「いやアもう。」と、老僧は口癖になつてゐることを言つて、少しばかり鼻を
「白衣料……はいゝね、普通には帶料としてやると、女の方から袴料として半分だけ返して來るんだが、お寺さんは白衣料かね。先方から袈裟料とでもして返して來るんですか。」と、私は老僧の手の
「
「へえん、お寺さんぢや、お
老僧は「東京見物に來たのぢや。」と言ひながら、一向見物に歩かなかつた。上野、淺草から丸の内、日比谷邊りを一りして來ようかと思つて、私が案内しようとしても、「いやそんなことは煩らはしい。かうやつてゆツくり話をしながら、茶を飮んでるのがよい。あんた行きたけりや、一人で行くがよい。わしは其の間
「お嫁さんは、どちらからお出でになるんでございます。」と、妻は水引に就いての無知を悟つたのか、テレ隱しのやうに言つた。
「矢張り寺です。寺は寺同志でなア。」と、老僧は持つてゐた煙管の吸口で耳の後を掻いてゐた。ずんど切りの變な形の煙管で、この老僧の持ち物にふさはしいと、私は子供の時から思つてゐた。老僧にも煙管にも、私はそれほど
郷里で、私の父は神主をしてゐた。老僧の寺は十丁ほど東にあつて、私の家から其の天臺に
「神主の社務所に眠る小春かな」といふやうなことを大きな聲でやりながら、願念寺はノツソリと私の邸の裏門から庭傳ひに、泉水の石橋を渡つてよくやつて來た。方言で文庫と呼ばるゝ猫脊をして、鼠の着物に白の角帶、其の前のところに兩手を挾み込んで、肩を怒らしてゐるのが、願念寺の癖であつた。自分の寺で盆栽を
「願念寺さん、ようお越し。」と言つて、白衣に紫地五郎丸の袴を穿いた父は、禿頭を光らしつゝ、煙草盆片手に、
「いや願念寺は動きません、罷り出でたるは願念寺の住職隆法にて候。」なぞと戲れをば、
「いち……ふく……頂戴。」と、氣取つた言ひかたをして、父の煙草盆の抽斗に手をかけた。――私は其の頃まだ若かつた願念寺を思ひ出して、今の老僧の姿と相對して坐りながら、ずんど形の煙管の昔しのまゝなのを見て、妙に寂しさが込み上げて來た。
「わしは一體、あんたのお父つあんの友人ぢやがなア、いつの間にか、あんたに横取りされてしもた。」と、老僧は火箸の先きで煙管の雁首をほじりながら、私よりは妻の方を顧みて言つた。「お友達にしちや、だいぶお年が違ひますこと。」と、妻は氣の置けぬ老僧の人柄に早くも親しんでこんなことを言つた。
「さいや。……けどなア、わしとこの人。……」と、ずんど形の煙管で私を指して、「この人のお父つあんとは、矢つ張りこのくらゐ年が違うたが、
私が郷里の邸を引き拂つて東京へ來てから十幾年、願念寺の隆法や、天南のことを忘れかけてゐるところへ、隆法が年よりはズツと老けた姿を私の家の玄關へ現はして、昔の風の「ものまう」と言つたのには、取次ぎの下女がどんなに驚いたか、願念寺のごりがんがだん/\甚だしくなるといふことは、郷里から流れて來るいろ/\の噂さに混つて聞えてゐたが、私は別段それを氣にも留めなかつたのである。
丁度正月の寒い時であつた。老僧は中くらゐの信玄袋を提げ、セルの被布の胸へ白い髯を疎らに垂れて、頭には芭蕉頭巾を被つてゐた。昔しながらの薄着で、肩が
「御婚禮は
「まだきまりません。」と、澄み切つたやうなハツキリした言葉で言つて、老僧は快ささうな眼をしながら、口を尖らして、煙草の煙りを眞ツ直ぐにふうツと吹いた。
「見合ひをなすツたんでございますか。」
「いゝえ、そんなことはしません。」
「ぢやア、お互ひに御存じな方なんでございますか。それはよろしいんでございますね。」と、妻は他人のことながら滿足氣な樣子をしてゐた。
「いゝや、本人同志はまた、ちよツとも知らんのぢや。ふうん。」と、老僧はそろ/\ごりがんの本領を見せかけた。
「それでお結納は
「年頃になつたから、家内を持たせる。年頃になつたから、片付けてやる。……それでよいのぢや。……生れようと思うて、生れるものはないし、死なうと思うて死ぬものもまア滅多にないのと
「まア。……」と、妻は呆れてゐた。
それから去年まで、私はこのごりがんの老僧に逢ふ機會がなかつた。一昨年の初夏、私の年中行事の一つとして、
願念寺に近い村の麥畑で、柔かい穗を拔いて麥笛を作つたのが、ピイ/\とよく鳴つたのを夏外套のかくしに入れて、私は東京へ歸つて來た。それが偶然音樂會の切符とともにかくしから出て來たので、妙に懷かしい氣持ちで見てゐたのは、
「……東京に××さんといふ人の居るのを忘れかけてゐるところへ、名刺のことづけで、漸く思ひ出し申し候。いづれまた出て來るであらう、其の節は久方振りに一ボラ試み度樂み居り候に、たうとう出て來なかつた。(老僧も時よ時節で、この節は少しづゝ江戸辯を使ふやうになつた。それから言文一致とやらも、ちよい/\やらかしてみるが、こいつなか/\便利ぢや)そこで、寒夜ならずとも、鍋を叩いて、大に文字禪を
これだけのことが、細かい字で書いてあつた。私は老僧の村にも電燈會社の蔓が延びて、あの薄暗い庫裡にタングステンの光つてゐるさまを想像するより外に、この葉書から感得する何ものもなかつた。それにしても天南と其の若い妻とはどうしてゐるのか、それが知りたいと思つた。
ところが去年の新緑の頃、また上國に旅をして、大阪船場の宿で雨に閉ぢ籠められてゐると、夕方電話がかゝつて來た。取り付いだ女中がくす/\笑つてゐて、何んといふ人からかゝつたのか一向分らない。問ひ詰めると、「ごりがんからや言やはりました。」と、袖を顏に當てゝ、笑ひ轉げた。
あの老僧と電話といふものとの對照が既に妙である。電燈を點けたり、電話をかけたり、流石のごりがんも征服されたかと思ひながら、電話口へ出ると、聲は老僧ではなくて、若い女らしく、「今夜これからお伺ひしようと思ふがいかゞでせう。御都合がわるければ明朝でも結構です。」と、ハツキリした東京辯であつた。其の夜は舊友と寄席へ行く約束がしてあつたから、「明朝お待ちしてゐます。」と、答へて私は電話を切つた。
すると、翌朝まだ私の寢てゐるうちに、老僧はやつて來た。取り敢へず次ぎの室へ通させて置いて、私は顏を洗ひ、食事にかゝつたが、隣りの室では、咳拂ひと、
「喫飯か。」と、言つた聲とゝもに縁側の障子がさらりと開いた。老僧が待ち兼ねて闖入して來たのである。手には二三年前東京で見たあの中くらゐの信玄袋を提げてゐる。
「失禮します。」と言つて、私は食事を續けた。老僧は給仕の女中が進むる座蒲團の上に痩せた膝を並べつゝ、キチンと坐つた。薄セル被布の下に痛々しく骨張つた身體が包まれてゐた。
「喫飯が何んの失禮なもんか。次ぎの間で待たすのが、よつぽど失禮ぢや。煙草盆一つ出さずに。」と、老僧はむつかしい顏をして言つた。
「まアお煙草盆も出せえしまへんでしたか。」と、女中は驚いたやうな顏をした。
「なに、
「いや、煙草盆はあるにはあつた。けどもそれはわしに出した煙草盆やない。前に來た客にでも出したんぢやらう。それがそんなり置いてあつたんで、もとより火も何もない。わしはこの通り御持參の煙草盆で吐月峯だけを
「なか/\ハイカラ坊主になりましたね、電燈は點ける、電話はかける。そんなものは持つ。……」と、矢張り笑ひながら言つて、私は食後の茶を飮んでゐた。
「いやア、便利ぢやからと言つて、人が勸めるんで、やつてはみるが、あんまり便利でもないて。……第一電燈の火では煙草が吸へんし、電話では相手の顏が見えんし、……人はどうか知らんが、わしは相手の顏が見えんと話をする氣にならん。そんなもんの中では、まだこれが一番ましぢや。」と言ひ/\、老僧は其の點火器を
「さうですか。」と、私は氣のない返事をして、茶を飮み續けた。
「これさ、主人ばかり茶を飮んで、客に茶を出さんといふことがあるか。」と、老僧は叱るやうに言つた。
「えらいひつ禮でおましたなア。」と、女中も笑ひながら、老僧に茶を出した。
「其の茶碗、疵がある、そつちの無疵のと變へてんか。」と、老僧は埋れ木の茶托にのつた六兵衞の茶碗を見詰めつゝ言つた。
「何處にも疵はおまへんがな。」と、女中も茶碗を見詰めて、
「いやある。
「まア、ほんまや、あんたはん千里眼だツかいな。」と、女中は呆れたやうな顏をした。
「わしは器物に疵のあるのが嫌ひでなア、長年の經驗から直覺するんや。」と、老僧は得意らしく言つた。
「あなたはもう
「孫どこかいな。天南の嫁に就いて、話がある。そいつを是非あんたに聽いて貰ひたうてな。新聞に宿が出てたから、わざ/\やつて來て、
老僧の話に據ると、天南は自分へ何んの話もなく、親が勝手に決めた縁談に、別段不服のやうでもなかつたが、婚禮の當日、花嫁が到着のどさくさ紛れに、何處かへ姿を隱して了つた。いざ三々九度の盃といふ時になつて、花聟の影を逸したのだから、混雜に混雜が加はつて、
本山の役僧が、末寺からの納め金を使ひ込んで、蒼い顏をして、願念寺に逗留してゐるうちに、便所で舌を噛み切つて死んだといふのは、老僧から三代も前のことだが、其の
途方に暮れた末、其の夜は取り敢へず花聟急病、祝儀延引と觸れ出して、
三日、四日、五日、七日、十日、……天南の行方は
「いや、わしの方では結納まで貰うて、一旦差し上げたもんぢや。連れて歸ることは
「××さん、わしはまだあの時ほど心配したことは、前後にないがな。房子(坊守の名)はあれが因で死によつた。」と老僧は此處まで話して、ホツと息を吐いた。其の眼には涙があつた。
「それからどうしたんです。」と、私は少し
「まア待つとくれ、ゆつくり話しするがなア。」と、老僧は例のずんど形の吸口の煙管で、ゆるゆる一服吸ひ付けてから、
「××さん、あんなもんかなア、今の若いもんといふもんは。……親のきめた縁談が不承知ぢやなんて、滅相な。」と老僧は驚いた顏をした。
「それはさうでせう、あなたの女房ぢやない、天南さんの女房でせう。人間は品物ぢやないから、さう勝手に行きませんよ。」
「勝手ぢや? ……怪しからん、親が子の嫁をきめてやるのが、何んで勝手ぢや。」
「あなたは家の中に電燈を點けても、頭の中に行燈をとぼしてるからいけない。何百年も昔しの人だつて、さういふ場合には、一應本人の了簡を訊いてからと挨拶して、親の一存で子の縁談は決めなかつたものでせう。
「全體あんた等が、そんなことを言うて、若い者にけしかけるからいかんのぢや。まア聞いとくれ。……」と、言つて老僧は語り續けた。――
天南の行方は、其の後一と月ほども分らなかつた。ところが、少女歌劇で名高いあの寶塚の山の上に、無住の庵室があつて、荒れ放題に荒れてゐたが、諸國漫遊の旅畫師が來て、暫らく其處を貸して呉れと言つたので、村人はどうせあいてゐるのだから、火の用心さへ氣を付けて呉れるなら、入つてもよい。しかし雨が漏らうと床が腐らうと、手入れは出來ない。それから幾ら壞れてゐようと、腰板なんぞ剥がして、焚きものにすることはお斷りだと念を押して旅畫師をその庵室に住はせた。旅畫師は可なりの畸人で、いろ/\の變つた動作が村人を驚かしたが、別に害にもならないことなので、皆笑つて見てゐた。
この旅畫師と天南とは何時のほどにか交りを結んでゐた。それを老僧は少しも知らなかつたので、少女歌劇とやらを觀に行くと言つて時々寳塚の方へ出かける天南をば、それも女欲しさの物好きと睨んだから、一日も早く家内を持たせるに限ると思つて、老僧の眼にも十人並を少し優れたあの娘なら、無斷で
若しやと思つて、老僧は寺男に寶塚の方を探させたのであつたが、山の上の庵室へまでは氣が付かなかつた。もう死骸になつて、何處かで腐つてゐるのではないかと、老僧よりも坊守りが悲嘆の涙にくれてゐたが、
其のうちに漸く、山の上の荒れ庵室に、旅畫師と二人で自炊をしてゐるといふ天南の消息が判つたので、なまじひ他のものが行つては、また奧深く取り逃がすといけないと思つて、天氣の好い日、老僧が草履穿きで、杖を力にとぼ/\と山を登つて行つた。庵室の屋根はつい其處に見えてゐるのに、いざ辿り着くまでの細路がなか/\遠くて、
久しく喘息の氣味で惱んでゐた老僧は、屡々絶え入るばかりの咳をして、里を見下ろす高い
戸の閉つてゐる玄關へかゝつて、「頼まう」と呼ぶと、
丁寧に初對面の挨拶をしても、香雲は相變らず
「どうか天南に逢はして頂きたいので。」と、なほも泣き付くやうに言ふと、香雲はうるささうにして、「天南、……天南。」と、佛壇の方に向つて呼んだ。すると何を入れる爲めなのかと先刻から思つて見てゐた佛前に据ゑてある二つの長持の一つの方の蓋が、むく/\と動いて、「現はれ出でたる……」と、義太夫の節で唸りながら、長持の蓋を兩手に差し上げつゝ、藁屑だらけの姿を見せて、大見得でも切りさうな樣子をしたのは、疑ひもない天南であつた。しかし、瞳を定めてよく見るまでは、全くそれと分らぬまでに、僅かの月日は彼れの樣子を變り果てたものにしてゐた。
まるで狂人ぢやと、其の時老僧は思つて、我が子ながらも氣味わるく、恐ろしくて、何んともいふことが出來なかつた。
「××さん、よう聞いとくれ、わしは其の時、何の涙か知らんが、ぽろ/\と頬を傳うて涙が流れた。ほんまに。」と老僧は兩眼に涙をいつぱい溜めて此處まで語つた。
それ以來天南は全く變つた人間になつて了つた。時々ひよつこりと寺へ歸つて來るが、默つて戻つて、默つて飯を喰つて、默つて寢て、默つて歸つて行くことが多い。香雲の弟子になつて、文人畫の眞似事が出來るので、寺へ歸つて來た時、襖へ筍を描いたり、
嫁に貰ふ筈で養女にして了つた娘は、其の後縁あつて、兵庫の寺へ片付けたが、西派の有福な門徒寺で、願念寺の坊守になるよりは仕合はせであらうと、老僧は漸く重荷を卸した氣になつたが、それにしてもあの優しい、素直な、氣だてのよい娘を、どうして天南が嫌つたのか、まだ兵庫へ片付かぬ前、山から歸つた天南に娘が挨拶をしても、天南は横を向いてゐた。
「××さん、天南は不具者ぢやないかと、わしは思ふのぢやが、あんたはどう考へる。」と、老僧は船場の宿で長話の未にさう言つて、こくりと首を傾けた。首を傾ける度に、骨が可なり大きな音を立てゝ鳴るのが、老僧の昔しからの特徴で、右に左に、首振り人形のやうにすると、骨がコトン/\と鳴つた。それが老僧には按摩の代りにもなつたのである。
精神的に不具なのか、肉體的不具なのか。私は其の天南といふ男を少し研究してみたいと思つた。小學校へ通つてゐる頃の天南を、私は薄く覺えてゐるけれど、其の後どんな男になつたか、私は全く知らない。それで其の日は先づそれきりとして老僧に別れたが、いづれ二三日のうちに願念寺を訪ふ約束をして置いた。さうして老僧と二人で、山の上の荒れた庵室に、香雲といふ旅畫師と天南とを見に行くことに定めた。
天南には弟が二人と、妹が二人とあるけれど、次ぎの弟は小學校も卒業しないで、諸國を
「わしは肉身の縁が薄い生れぢや。」と、諦めたやうに言つて、私の宿から歸つて行く老僧の後姿を見てゐると、初夏の青々とした世界にも秋風が吹いてゐるやうで、いかつた肩には骨が
約束の日は朝から好く晴れてゐた。船場の宿の座敷から眺めてゐると、
それ切り其のことを忘れてゐたが、今日はまた早くから、麗はしい朝日に照らされて、其の黄色い薄板が、
膳部を運んで來た女中にきかうとしては、何だか老僧の言葉を
「姉さん、あれ何んだね。
女中が膳部を下げてから、私はまた欄干の側へ出て、更に其ののやうな薄板が微風に
初夏にしては冷かな朝風が吹いて、宿の
客の込み
土が其のまゝ人になつたやうな農夫に、三人まで
願念寺の庫裡の入口に立つと、足音を聞き付けたらしい老僧の聲で、早くも「ずツとお上り」と言つた。庫裡の一室は疊が破れて、
「今日はあんたの案内で、山登りをせんならんと思うて、少し心配してたら、それに及ばんことになつた。えてもんが向うからやつて來よつた。まるで
「天南です。お久しおます。」と、
「君は畫を習つてるんですか。」と、私が問ひかけると、
「えゝ。……これが東京でいふしやれといふもんだツせ、解りまツか。」と、
別にさう大して
「君は女嫌ひだツてほんとですか。」と、私はまた問ひかけてみた。
「さア、どう見えます、あんたの眼では。」と、天南は澄まし込んでゐた。あの張り切つたやうな體格から考へても、女嫌ひでは通らなさうなのに、或は身體が不具でゝもあることかと、私は一種の痛ましい感じに打たれながら、天南の樣子を見詰めてゐた。
「また山へ歸るんですか。」
「えゝ。これはしやれやおまへんで。……下界は厭やだす。けどなア、飯だけは下界の方が
それ以來、私は老僧に逢はなかつた。もう一度大阪の宿へ尋ねて行くかも知れないといふことであつたから、二三日心待ちにしたまゝで、東京へ歸つて了つた。
この最後の對面の時、老僧は蟲が知らしたとでもいふのか、「××さん、わしが死んでも時々は思ひ出して呉れるやろな。思ひ出す種にこれを一つ進ぜよう。」と言つて、
歸りに京都で宇治の新茶を買つて、早速其の澁紙※[#「土へん+尼」、U+576D、30-16]の急須で淹れて飮んだことを、老僧に知らしてやると、「澁紙はうい奴にて候、仕合はせな奴にて候。
今年の一月に年始状を出して置いたが、先方からは何んとも言つて來なかつた。昨年の正月だつたか、骸骨の畫を書いた上へ、「ごし/\とおろす大根の身が減りて殘りすくなくなりにけるかな」とした老僧の葉書が、多くの「謹賀新正」の中に混つてゐたのを思ひ出して、私はいよ/\大根が摺り減らされたかと、哀はれに思つてゐたが、一月も末になつてから、子供の字で「賀正」としたのが老僧の名で來た。さうして其の次ぎの日に、苦惱の痕のまざ/\と見られる調はない字で、「世間並の流行感冒に罹つて漸く命は取り止めたり、それも束の間、肺がわるうなつて、旦夕に迫る」とした葉書が來た。
そこで私は、早速千住まで鮒の雀燒きを買ひにやつて、毛絲の肩掛けとともに送つてやつた。すると直ぐ、「うまいあたゝかい、うれしい」と書いた苦し氣な葉書と、「鮒の雀燒を喰ふと、また雀の鮒燒きが喰ひたくなつた。
雜司ヶ谷の鬼子母神へ行つて、雀の燒とりを買つて來て送つてやらうかと思つてゐるうちに、三月となつて、私は新らしい筆を起さなければならぬ長篇の準備に取りかゝつて、暫らく老僧のことを忘れてゐると、
「ごりがん事……永劫の旅路に」といふ天南からの訃報が來たのであつた。早速天南に宛てゝ、香料を送つておいたが着いたか、着かぬか、それさへ分らない。
近頃になつて