父の婚禮といふものを見たのは、決して自分ばかりではない。それは繼母といふものを
有つた人々の、よく知つてゐることである。
曾て、クロポトキンの自傳を讀んだ時、まだ二十とはページを切らぬところに、父の婚禮を見ることが書いてあつたことを覺えてゐる。
……母が死んでから、父はもうそろ/\其の眼を世間の若い美しい娘たちの上に投げた。――といふやうなことが、あの黄色い假表紙の本の初めの方にあつたと思ふ。父の第二の婚禮の折の、子としての寂しさ、悲しさも書いてあつたであらう。いや確かに書いてあつた。
自分はそれを讀んだ時、
礑と自分の身の上に突き當つたやうな氣がして、暫く其のページを見詰めてゐた。さうしてゐると、あの一面に刷つた小ひさな文字が、數知れぬ粟のやうな腫物に見えて來て、全身がむず痒くなつた。それ以來自分はあの書物のあの邊を披いたことがない。
自分の母の亡なつたのは、六月の七日で、村の若い衆たちが、娘のある家をつぎ/\へ、張店を
素見すやうにして歩き

るには、おひ/\と好い時候であつた。
昔は其の土地の支配者であつたといふ身分の程も考へねば、もう五十に間もないらしい年と、
二十歳臺からかうであつたと自身には言つてゐる其のツル/\とした高張といふ名のついた頭とに、恥づる風もなく、父は毎晩若い衆たちに混つて、娘のある
家へ夜遊びに出掛けた。
「
父母の
齡をば知らざる可からず。」
かういふ言葉が、自分の其の頃無理に習つた難かしい本の中にあつたので、自分は時々父に向つて、
「お父つあん幾つ――。」と問ふことがあつた。其の度に父は
態とらしい大聲を出して笑ひながら、
「お父つあん、十八。」と答へるのが常であつた。父は何故あのやうに
年齡をいふことを厭がるのであらうか、と其の頃自分は不思議でならなかつた。
父の一人兒であつた自分は、其の腰巾着のやうに、行くところへは必ず附いて行くといふ風であつた。
九歳頃から十二三まで、殊に母の亡つた十二の年なぞは、夜も父と同じ蒲團に寢た。たゞ父は夜になつて外へ出る時だけ、決して自分を連れて行かうとはしなかつた。自分も夜は外へ出るものでないと思つてゐた。
客があると、自分は何時でも、父の
側に坐つて、
會話を聽いてゐた。話の模樣によつては、自分も時折口を出したりした。厭な子供だと嘸客がさう思つたであらう。今考へると冷汗が出る。
食事時になつて、客に酒を出したり、飯を進めたりしても、自分は父と客との
傍を動かなかつた。父は客に出した肴を自分にも手鹽皿へ取り分けて呉れて、むしや/\と喰べることを許した。鍋物なぞが出ると、自分は遠慮なく鍋の中へ箸を入れた。
「大變に頂戴しました。……結構ですな、御子息は、お幾つだすか。」
「十二になります、柄ばつかりで
薩張りあきまへん。……死んだ母親は醫者にしたがつてましたが、本人は軍人になるいうてますよつて、軍人にしようおもてます。……親の跡を襲いでこんなとこで神主してても仕樣がおまへん。」
客と父とがこんなことを言ひ合つて、幼い自分を肴にまた酒をはずませることがあつた。自分は下女のお駒に箸と茶碗と
飯櫃とを持つて來させて、酒臭い座敷で手盛の飯を喰べた。
「時に
あんた幾つにならはるな、何時もお達者で結構や。……ほんまに幾つだすかなア。」
こんなことを客が言ひ出すと、父は俄に酒に咽せた風をして、こん/\と咳なぞをしてから、
「
こなひだ、豐彦の雪中山水を手に入れましたが、一つ見とくなはれ。」なぞと、立ち上つて、
年齡のことを誤魔化して了ふのが常であつた。客が三四人もあつて、一座の雲行が年齡の話にならうとするのを、際どいところで見究めて、それとなく座を外すことが、父は甚だ上手であつた。こんな時、客は
屹と父の敷いてゐた座蒲團の模樣を見詰めつゝ、
「
此家の旦那一體幾つやろな。頭は昔からあんな工合に茶瓶さんやがな。」
「
道臣さんかいな、あの人の年こそ分らんな。……戸籍にや何んぼとか、だいぶ若いやうになつたるさうなが、
ほんまのとこは分らへん……
ぼんち、お父つあん幾つだんのや。」と、果は自分に訊くこともあつた。父はもう襖の外まで戻つてゐながら、室の中へはよう
入らずに、耳を澄まして突ツ立つてゐるのが、自分にはよく分つてゐた。
「竹丸さん幾つやなア。」と人から訊かれると、「十二」と直ぐ答へる自分と違つて、父は何うしてあんなに年齡をいふのが嫌ひなのであらうかと、自分は其の頃よく考へることがあつた。
父は大きな廣い家の内の、四疊半
一室を
居室に定めて、其處で食事をすれば睡眠もするし、客も引くといふ風であつた。其の四疊半は茶室仕立に出來てゐて、眞ん中に爐が切つてあつた。爐には八角の
摘み手の附いた
助炭がかゝつてゐて、釜の湯は何時も熱く、よしや湯の冷めてゐる時があらうとも、釜の下を探れば必ず火があつた。事によると、螢ほどの火種しかないこともあつたけれど、父が一度それへ堅い池田炭を手際よくつぐと、忽ち炭から蒼い炎がぽツぽと燃えて、威勢よく火が起つた。
「お前らは炭を逆まにつぐよつて、火がおこらへん。」と、父はよく言つて笑ひ/\した。けれども自分には何うしても切炭の
本末が分らなかつた。二尺五寸ばかりの長さにして、炭には勿體ないほどの立派な箱に入れたのが屆くと、父は嬉しさうな顏をしながら、
弦の附いた鋸で
尺をあてつつ、その炭を同じ長さに切つて、
大匏の
横腹を
刳り拔いた炭取に入れた。一箱の炭は二十本ほどで、同じ太さに揃つてゐたが、父はそれを切り上げるのに半日を費した。少しでも皮の剥けかゝつたのが出來ると、臺所へ下げて
雜用に使はした。
爐の灰が殖えると、町の灰屋が來て、一升一圓に買つて行つたことを覺えてゐる。子供心の自分には、一圓が途方もない大金であつたので、今から考へると、パンテオンに改葬したエミイル・ゾラの灰ほどの尊さが、其の頃其の爐の灰にあるものと思つてゐたのであらう。
「
契待戀」といふ題で、「うたがはぬ心ながらに小夜ふけて待つとは人に契らざりしを」といふお家流の手蹟を短册に殘した高祖父の代から、この爐の火は傳はつてゐるのだと、父はよく言つてゐた。其の大事な火、高價な灰の入つてゐる爐へ、目見えに來たばかりの下女お駒が、
竈の下の焚き落しを十能に山盛り入れた時の騷ぎは、今でも鮮かに自分の眼に殘つてゐる。父は火のやうに
怒つて、絹篩にかけた程に柔らかな
良い灰の
上層から、ザラ/\した
燒土の如き灰を取り棄てるのに、
朝飯が
晝飯になるのをも忘れてゐた。一目見て色が違ふので、選り分けるのは何でもなささうに思はれたけれど、惡い灰へ良い灰を少しでもクツ付けて棄てまいとするところに、多くの苦心があつたのであらう。
お駒は爐の側に兩手を突いて、頸筋まで眞ツ赤にしながら差し俯伏いてゐた。幾ら
ませてゐても、まだ十五の頭に
白丈長をかけた島田は重さうであつた。怒つてゐた父の顏色はだん/\和らいで來て、灰を見る眼よりも、お駒の頸筋を覗く眼の方が
忙しくなつた。この時から早やお駒どんは下女ではなくて、お女中樣々になつたのであると、村の人たちは噂し合つた。
「
茶道の心掛のないものは仕樣がない。」と、父は口癖のやうに言つて、幼い自分や若いお駒が、短い裾や長い袂を火鉢に差した火箸に引つかけて灰を飛ばしたり、炭取に蹴躓づいて、黒い
粉を疊の上に散らしたりするのに、眉を顰めてゐたが、さりとて別に幼いものや若いものを捉へて、茶の湯を教へようとはしなかつた。また出入りする村人が無作法だと言つて、客火鉢に附いた眞鍮の火箸の頭を錐のやうに尖らして、火箸を灰に突つ立てた上へ掌を載せて火にあたることが出來ぬやうになぞした。村人がうつかり氣がつかずに、頭の尖つた火箸に掌を痛くするやうなことがあると、父は手を打つて喜んだ。
そんなでゐて、村人を相手に他愛もないことを話すのが好きであつた。なまじひ茶や花や行儀作法の心がけのある都の客なぞは、窮屈だと言つて嫌ひであつた。四疊半の居間へ、茶碗の持ち樣一つ知らぬ百姓共を集めて、
大服に立てた薄茶を飮まし、苦い顏をしながら、
周章てて菓子を摘むのを見るのが好きであつた。抹茶は先へ菓子を喰べるもの、といふくらゐのことすら教へないで、父はたゞ笑つてゐた。
茶の後で酒が出て、主人も客も大口叩いて打ち興じた。昔の無禮講といふものはこんなであつたらうかと思はれた。語るところは、幼い自分の耳にさへ、卑しく猥らに響くことばかりであつた。
よく來る村人の中に、平七といふ男があつた。若い時には
だいぶ茶屋酒を
腸に染み込ませたとかで、京の祇園町や大阪の新町の話を面白さうにした。わけても京の島原の話が得意で、太夫が立派な硯箱と
金紙の短册とを出して、何んぞ書けといふので、大變に弱つたが、仕方なしに、「秋の田のかりほの庵のとまをあらみわが衣手は露に濡れつゝ」と金釘流で書いたが、それは春の眞盛りで、御室の櫻が咲き揃つた頃のことであつた、なぞと言つた。
其の折の太夫の返歌は、「見しや夢逢ひしやうつゝ面影の……」といふので、
下の句は忘れたけれど、「忍ぶ心のしのばれぬかな」といふのではなかつたかと思ふ、或は違ふかも知れぬ、とも言つて、平七は前齒の二本拔けた口から微笑を漏らしてゐた。
「
坊んちの水揚は、
わたへが手引してあげまへうな。……姫買ひなら、誰が何んちうても島原に限りまつせ。座敷から、燭臺一つまで違ふし、お後架へいても、
あそこのは品がおますわい。」と、昔の夢に
憧憬れるやうな顏をして、こればかりが昔の
記念だといつてゐる金の吸口の煙管でタバコを喫んだ。
「坊んち幾つだすのやなあ、一體」と、平七は父と二人で燗徳利を三本空にしてから訊いた。
「十二。」と自分が、眩しさうに眼をクシヤ/\さして答へると、平七は口を「へ」の字なりに堅く結んで、暫くヂツと考へてから、
「來年からやなア。……十三ぱつちり、十四は
ちよこ/\、十五の春から、ていふことがおますやないか。……坊んち
確乎しなはれ、お父つあんに負けなはるな。……お父つあんが嫁はん貰やはるんなら、
わしにも貰ふとくれてなア。」と稍縺れかゝつた舌で、父の厭な顏をするのも構はずに、滿更
戲談ばかりでもなささうな調子で言つた。
「一つ珍物を喰はさうかなあ。」と、父は
毎も
年齡を訊かれた時にするやうな
手段で、話を
他へ持つて行かうとした。
「なア坊んち、さうだつせ。……お父つあんの嫁はんもえゝが、
わたへは坊んちみたいな人に、若い綺麗な嫁はん
宛行うて、雛はんが
飯事するやうなんを見るのが好きや。なア坊んち。……」と、平七は飽くまでも、自分の引き出した話の
緒を
捉まへて放さなかつた。
「何うやなア、これ。」と、父は茶箪笥の奧から祕藏の一物でも出すやうにして、小さな壺を持ち出した。
「何んだすのやそら、骨壺みたいだすなア。」と、平七は赤味の勝つた醉眼を
瞠りつゝ、ヂツと其の壺に見入つた。
「これ知らんかなア、お前の
飮酒家もまだ素人や。」と、父は丹念に壺の目貼を取つて、灰吹を掃除した時に出るやうな、ぬら/\した、汚らしいものを箸に挾み出して、
可味さうに舌打した。
「分つた、
海鼠腸。……
五島だつしやろ。……それ知らいで、
飮酒家と可味いもん喰ひの看板掛けとかれまツかいな。」
ぽんと膝を叩いてから、平七はかう言つて、村方の人さんと憚りながら一所にして貰ひますまいと、言ひたげな顏をした。
「えらい、それではこれを
下物に熱いとこをまア一本。」と、父は鼓のやうに能く鳴る手を二つ拍つた。
お駒の持つて來た燗徳利を父が受取らうとすると、平七は急しい手付で、膝の前の杯の中に波々と冷め切つてゐたのを取り上げ、グツと一口に飮み乾して、
「ドツコイ旦那、
あんたよりお駒ちやんに一つ注いで貰ひまへう。」と、首を左右に振りながら、お
駒の鼻ツ先へ杯を突き出した。
「おい、お
駒ちやん、旦那はえゝがな。……そらお前、旦那は燒いて喰はうと炊いて喰はうと、お前の勝手やがな。坊んちに手を付けると、
俺ア承知せんで。坊んちの水揚は誰が何んちうても俺がさすんや、……俺がえゝのを世話して後見になるんや。なア坊んち、をツさんが今に世話しまツせ、待つてなはれ。」
海鼠腸を
下物にお駒の酌で、熱いのを立て續けに三四杯呷りつゝ、平七はまたこんなことを言ひ出した。其の時自分は父の顏を見い/\、壺を引き寄せて、少しばかり手鹽に取り分けたのを喰べてゐたが、父は厭な/\顏をして、お駒に
彼方へ行けと眼配せをした。
「なア坊んち、坊んちの嫁はんは、十一二ぐらゐのとこかなア。それとも十四ぐらゐかなア。……お
駒ちやんみたいに、十六にもなつたもんは、姉さんみたいでいきまへんなア。」
平七は幼い自分の方を、赤い眼をして見詰めながら、かう言つて、
「わーしとおまへは、おないどしめうと、ひとつちがへば、なほよいがア。」と、聲張り上げて唱つた。
「平七つあん、まだ珍物があるがなア。」と、父は平七が
動もすると幼い自分の顏を見詰めて、「なア坊んち、坊んちの嫁はん」をやり出しさうにするので、またこんなことを言ひ出して、平七の心を向け變へようとした。
「旦那、……珍物結構、……頂戴。……頂戴。」と、平七は卷舌で言つて、上半身をグラ/\させながら、兩手を重ねて差し出した。父はツイと立ち上つて、奧から、小さな桐の箱に萠黄の打紐のかゝつたのを恭しく持つて來た。あゝあれかと、自分は直ぐさう思つたが、父は默つて、そろ/\と打紐を
解きかけた。平七は井戸の底でも覗く風にして醉つた眼を据ゑつゝ、父の手元を見入つてゐた。箱の中に何があるかを知り拔いてゐる自分も、父の手つきが
大業なので、一寸胸を躍らせて蓋の
撤らるゝのを待つといふやうな心地になつた。
「いよう、首實驗。……」と、平七は變な聲をして、身振をしつゝ言つた。
小さな桐の箱の蓋は
撤られた。中から現はれたのは、見窄らしい一つの
曲物であつた。「何んぢやい、埓もない。」と言ひたげな顏が平七の上に讀まれた。
父は一層勿體振つた手附をして、曲物の蓋を開け、黒い佃

のやうなものを、蜆貝に一杯ほど手鹽皿に盛つて、平七の前に押し進めつゝ、
「△△の宮さんからの拜領や。……この夏奈良へいた時、御殿へ出てお手づから頂戴したんや。……まア一つお前も頂いてみい。何んや分つたらえらいさかい。」と誇り顏に言つた。
「謂れを聞くと、
助老(
胡坐の事)組んでもゐられまへんなア。」と平七は坐り直して、手鹽皿に
ちよんぼり入れてある黒いものを一箸挾んでは首を傾け、一口嘗めては首を傾けした。
「分るかなア。」と、父は子供をあやすやうに言つて、冷かに笑つた。
「待てよ。」と、平七は思案投首の體で、二箸三箸、また黒いものを挾んで、精限り根限りの味覺を舌の
尖端に集めようとする
状で、ぴた/\と音させて、深く考へ込んでゐたけれど、到頭分らなかつた。
「分らんか、無理はない。」と、父は檢視の役人のやうな顏をして、平七の口元を見入つた。
「殘念ながら分りまへん。兜脱ぎます。……何んだすのや、こら一體、教へとくなはれ。」と、平七は平身低頭といつた風に、頭を下げ兩手を支へて、滑稽な身振をして見せた。
「杉菜の佃

や。」と、父は事もなげに言ひ放つた。
「杉菜ツて何んだすのや。けツたいな。……そいつまた
わたへ知りまへんがな。」
平七は怪訝な顏をしながら、膝の下に隱れてゐる金の吸口の煙管を探す風で、座蒲團の右左を手探りつゝ、父の顏を
眞正面に見てゐた。
「杉菜ちふのは、
土筆の姉さんや。」と、父の物の言ひやうは、一層事もなげであつた。
「あゝあの畦に生えてる
やつ。……
しやうもない。」と、手鹽皿の中の小さな黒い塊を見下しつゝ、平七は苦笑した。
「
しやうもないことがあるもんか。」
父は稍威猛高になるといつた樣子を見せて、
「あの杉菜も矢ツ張り
土筆と同じやうに、袴穿いてよるやろ。しかも
土筆と違うて、細い枝に一分おきか半分おきに袴や。あれを一つ/\手で袴脱がして、細う刻んで、佃

にする手間ちふたら、大抵やあれへん。……この
わげもん(
曲物の事)に一杯の佃

を拵へるのに、宮さんと尼さんが三人して、一月の餘かゝらはつたげな。」と、あとは優しく説き聽かせるやうに言つた。
「はえーん。……ふーうん。……」と、平七はたゞ感嘆の聲を漏らした。
「この
わげもん一つ頂くんは、金百圓頂戴するより有難いんぢや。」と、父はまくし立てる風に言つたが、平七はニヤ/\笑ひつゝ、「そら嘘や」と言ひたげな顏をして、
「今日は
わてへ一人で
御ツつおうの獨り占めや。……宮さんお手製の
土筆の姉さんの佃

まで頂いて、もう明日死なうと本望だすわい。」と、厭に滅入つた聲をした。
「まア、そんなこと言はいで、もう一杯飮んどくれ。……時に頼んだことはえゝやろな。」と、父の語氣は急に改まつたやうであつた。
「お時さんの一件だすか。……何んぼ醉うても、それ忘れてなりますかいな。……萬事は胸に、……」と、平七は頻りに胸を叩いて見せた。幼い自分は、お時さんといふ名にハツとして、覺えず父の顏を見た。父も自分の顏を見たので、父と子との視線は眞ん中で突き當つたが、父の方から先に眼を外らした。
「しんによた、よたア、……」
平七は低い聲で唱ひ出したが、やつと膝の下の煙管を見付け出して一服吸ふと、
「旦那、例の件は早速話付けて來まツさかい、
わたへんとこへも、まア一遍來とくなはれ。……
土筆の姉さんの佃

はおまへんけど、酒は樽に一杯おます。坊んち、坊んちもお父つあんと一所においなはれ。」と、言ひ/\、そろ/\
去にさうにした。
其後平七は二三度來たが、毎も四疊半の居室で父と
密々話をしては歸つて行つた。幼い自分が別に大人の話を聽かうとするのではなく、
例もの通り父の根付けの積りで、居間へ入つて行くと、父は珍らしく怖い顏と高い聲とで、
「
彼方へ行き。……」と睨んだ。自分の親しい味方で、父とはまた別な懷かし味を有つてゐる平七も、何うしたものか、難かしい顏をして、話を途切れさせつゝ横を向いて、タバコの煙を吐いた。
自分は臺所へ來て、黒光のする分の厚い板の間で、下女のお駒を相手に遊んでゐた。
「お時さんが坊んちのお母アはんにならはるんや。若いお母アはん、坊んちと九つより違えへん。」と言つて、お駒は厭な笑ひやうをした。
「お駒が
わたへのお母アさんになつて呉れるとえゝな。……平七つあんとこの小母はんがいうてたやないか、お駒は坊んちのお母アはんも同じことやて。……」
何心なく自分がかう言ひ放つと、お駒の圓い顏は、手水鉢へ赤インキを
滴らしたやうに、ぼうとなつて、
「坊んち嫌ひ。……お時さんは
一昨年からもうお母アさんやおまへんか。お父つあんと金毘羅まゐりしやはつた時から。……」と、兩の眼を
繍眼兒みたいにして、自分を見詰めた。
「そやかて、一昨年はまだ
わたへのほんまのお母アさんが生きてたやないか。」
腑に落ちぬといつた顏をして、自分もお駒の顏に見入つた。
「ほゝゝゝゝ。坊んちのお
母ん何人あるやら知れえへん。」と、お駒は下女だてらに、長い袖を振り/\、袂の先を口に當てて微笑んだ。
「いやア、今日はお預けしといて、芽出たい席で底拔けに頂戴しますわい。」といふ平七の高聲が、父の居室に聞えて、
密々話は酒にもならずに崩れた。
平七が歸つてから、父は大きな抽斗附の煙草盆を提げて、ヨタ/\と臺所へ來て、
丸爐形の大きな置火鉢の横に坐つた。其の火鉢では始終柴を折りくべて燃やすので、火鉢も其の周圍も黒燻りにくすぶつてゐた。地の底から掘り出したもののやうに時代のついた藥鑵には、飴色に濃く

出された番茶が半分ほど入つてゐた。
「竹ちやん。」
七つ八つの頃によく自分の名を呼んだ時の呼び方をして、父は優しく自分の方に向き直りつゝ、
「
明日、平七んとこへ連れていてやろ、平七が
御ツつおうするいふよつて。」と言つて、自慢の東京土産の村田張の眞鍮煙管を吸口深く銜へ込んで、精一杯煙を頬張つた。
「お父つあん、それ
面皰。……」と、自分は父の
脹れた口元にポツリと白く
膿を持つた、小さな腫物を指さしつゝ言つた。
「うーん。」と父は、丁度年齡を訊かれた時と同じ顏をして、
「番茶の焙じたのん、まだあつたかなア。」と、藪から棒にお駒の方を見て言つた。
「
昨日、旦さんがドツサリ焙じとくなはつたばツかりやおまへんか。」と、お駒は不審氣な顏をした。
「
こなひだ、お駒の面皰指で絞つてやつたら、白いシンがぷつツと出たで。……面皰絞るん面白い。」
まだ面皰のことを言つて、自分は父の口元を見詰めつゝ、如何にも大きく見事な父の面皰を絞りたさうにした。父は顏を
背向けて、「えへん、えへん。」と無理に
空咳をした。
「坊んち、何んで面皰出けまへんのやろなア。」と、お駒までが面皰のことを話しかけて、其の白く眞ん圓い顏を撫で

しつゝ、パツチリと鈴を張つたやうな眼を光らして、幼い自分の搗き立ての餅のやうな
膚理の
細い顏を覗き込んだ。
「
わたへ、まだ一遍も面皰出けえへん、何んでやろ。」と自分も顏を撫で

して、ごは/\と
凸凹の多い、硬さうな父の顏を覗き込んだ。
「竹ちやん。……もう十一時やろ、今日はお前が明神さんへ、
日供上げて來とくれ。」
さも大事のことを忘れてゐたといふ風をして、父がかう言つたので、自分は直ぐに立上つたものゝ、母が亡つてからこのかた、日供は愚か、
朔日十五日の神饌さへ忘れ勝で、村人が蔭でよく、「無性神主、腎張神主、
歌手何んとやら」と言つてゐるほどなのに、今日に限つて何故また頓狂に日供なぞと言ひ出したのであらうかと、幼心に訝りながら、お駒が
麩糊を入れてゐた神饌桶を掃除して、
洗米を拵へ、鼠糞の溜つてゐた
土器と三寳とを取り出し、總菜の餘りの
枯魚一枚、それから父の飮み餘しの酒を瓶子に移し、紺飛白の綿入のまゝ、五郎丸の袴を着けて、雀の巣の多い明神さんの拜殿へ持つて行つた。
其の翌る日は、小春日和の暖かい天氣であつた。父は午後の二時頃から自分を連れて平七の
家へ行つた。村の南の外れの明神の森から、北の端の平七の家へ行くには、村の眞ん中を突き切らねばならなかつた。
桔※[#「槹」の「白」に代えて「自」、U+6A70、77-8]から水を汲んで、眞ツ蒼に苔の蒸した石疊の井戸端で、米を洗つてゐた赤い襷の乙女は、自分たち
父子の姿を見ると、周章てて籾を乾した蓆に蹴躓づきつゝ、白壁の土藏と鎧板の納屋との間に逃げ込んで行つた。父は乙女の赤い帶の見えなくなつた跡を、立ち止つてまで飽かず眺め入つてゐた。
ごろ/\した荒い
砂利を敷いた
新道を拔けると、自分の二番目の母になりさうなお時の家の横へ出た。古びた大きな藁葺の家の棟には、烏が何處からか物を銜へて來て、頻りに
啄んでゐた。此處でも籾を
乾してゐる牛部屋の前の廣場には、人影が見えないで、耳の垂れた
洋犬が
此方を向いて大きな欠伸をした。
平七の家へ近づいた時、お時の家の下男が向うから
空の肥桶を擔いで來て、輕く會釋して行き過ぎた。其處の垣根には、ひよろ高い山椒の木が一本混つてゐたので、父は手を伸ばして、其の老い硬ばつた一葉を摘み取りつゝ、少しづつ口へ入れて前齒で噛みながら歩いた。
「いよう、旦那、なんでもつと早う來んのかい。」
自分が先きに立つて、父が後から、平七の家の
かどへ入つて行くと、物の言ひ樣の
ぞんざいなので、村中に名を取つてゐる家内が、かう言つて聲をかけた。
「さア旦那、待ちかねてましたで。」と、平七も
莞爾々々して、玄關代りの縁側へ現はれた。
「坊んち來たな。……さア小母はんが
裸體にして檢査してやろ。」と、家内は幼い自分に躍りかゝつて來た。冷え性ださうで、腰へ綿の入つた
奴袴のやうなものを當てて、肥つた身體をえごちやらと自分を追ひ

した。自分は父の身體を楯にして、其の
周圍を逃げ歩いたが、父は直ぐ座敷へ上つて了つたので、自分は更に
かどの大きな柿の木の周圍をクル/\と

つて逃げた。爛れたやうに熟し切つた柿の實が、ぽたりと音をして自分の肩口に落ちると、惡性の腫物の崩れたやうに、血膿のやうな汁が、頬から頸筋へ撥ねかゝつた。自分はハツとして泣き顏をしながら足を止めたが、其の隙に家内は、ツト進み寄つて、自分を引ツ捕へ、大變な力で自分を横抱きに抱き上げた。
「それ見い、逃げるさかいこんな目に遭ふのやがな。」
かう言つて家内は、自分の内懷へ手を入れて擽りながら、自分が足をピン/\さして、泣き聲を立てるのも構はず、縁側まで抱へて來て、擽つてゐた手で雜巾を取つて、
熟柿に汚れた肩のところを拭いて呉れた。
「この熟柿、可味いやろ。鴉の喰ひ餘しや。……中風の藥になる。」と言つて、家内は自分の首筋に附いた柿の汁を、ペロ/\と舌を出して

めた。
「こそばアい。」と、自分は高く叫んで身を藻掻いたが、家内の手から離れることは出來なかつた。
亡つた母の肌の匂ひとはまた別な、三十五六の大年増の烈しい香が、強い酒のやうに自分の鼻を衝いて、白く圓く肥えた大きな顏、剃つた痕の青々した眉、吊り上つた眼、隆い鼻、廣い口、毒々しい赤い唇と舌、それらのものが丁ど遠いところから眺めてゐた山の巖や松やを、登つて近く見たやうに、直ぐ自分の前に押ツかぶさつた。
家内は、幼い自分をギユーツと引き締めて、首筋から咽喉のあたりまで

め

した上、更に頬までをペロ/\とやつた。舌が柔らかく、生温かいのが氣味わるくて、自分は、
「汚アい。」と、絞り出すやうな聲で叫んだ。
「これ、えゝ加減にしときんか。……酒の燗をしとくれ。」と、平七が縁側へ現はれたので、家内は一寸手を緩めた。自分は、其の
隙に太く脂切つた手を振り離して、座敷に駈け込んだ。其處には父が厚い座蒲團の上へ坐つて、金米糖で玉露を飮んでゐた。
「
あんたは、雨風やなア、
孰方もいけるんやさかいえらい。……
わたへは其の甘いもんは、見ただけで胸がむかつきますわい。」と言ひ/\、平七はチリン/\と盃洗の中に鳴る杯の音とともに、大きな脇取盆を抱へ込む風にして、ヨチ/\と運んで來た。
かんてきは、ぽツぽとおこる炎とともに座敷の眞ん中に据ゑられ、それを取り卷いて大きな皿に美しく
鷄肉の並べられたのや、海苔卷き鮓を金字塔の形に盛り上げた鉢や、青い葱や、白い豆腐や、さま/″\のものが置かれて、たゞ喰ふ爲めの粗笨な食味の匂ひといつたやうなものが、廣い京間の八疊に充ち流れた。
かんてきにかけた鋤鍋へ、平七が巧みな手つきで黄色い脂肉を入れて、
熔けたところへ砂糖を加へ、紫を注すと、ジユウツといふ音とともに、湯氣がむら/\と舞ひ
騰り、黒ずんだ天井の眞ん中に貼つてある大神宮の劍先
神符が、白雲に蔽はれた山寺の塔のやうに、暫く見えなくなつた。
「さア旦那、何うぞ
入つとくなはれ。」と、平七は父に箸を進め、自身に一杯毒味して、其の杯を獻した。幼い自分も平七から箸を貰つて、直ぐ鍋に入つた。
「ぼんち、あかんな。……
わたへに負けるんやもん。……あれではまだ嫁はん貰へんわい。」
ぴん/\と頭へ響く高聲で、かう言ひつゝ家内は、吸物を持つて來て、ベタリと自分の横へ寄り添ふ風にして坐つた。最前と同じ
執濃い大年増の匂ひが、鼻をもぎ取るほどに、ぷんとした。この家内はよく間男といふ惡い事をするといふことが、幼い自分の耳にも入つてゐた。それで矢ツ張り
先刻自分にしたやうなことをして、其の惡い事をするのであらうか、なぞと自分は考へながら、少しづつ膝を父の方へ摺り寄せて、家内の肥つた身體から離れようとした。
「旦那、お芽出たうおます。……芽出たい言うても、手付けは三年も昔に
納つたるんやもん。……お時さんのお父つあんも、毒性な人や、手付けだけ取つといて、尻食ひ觀音はなア。……そいでもまア話が附いて好かつた。」と、家内は稍眞面目くさつた物の言ひやうをした。
「何んや、もうそないなこと言はいでもえゝがな。話はちやアんと分つたる。……お時さんのお父つあんもな、
餘り……旦那の前で言ひ憎いが、……其の何んや、
年齡が違ふもんやよつて、土壇場になつて考へはつたんやけんどなア、吐いた
唾液呑み込めんちふことがある。約束は約束やし、それに……其の……お手付けが三年前に濟んでゐるんやもん。……」と、平七は家内を
窘めておいて、ニヤリと笑ひつゝ父の顏を見た。
「ほんまや、お時さんかて、もう箱入りで通用しやへん。」と、家内も笑つた。鋤鍋のものは、グツ/\

立つて、杯は幾度か父と平七との間を往來した。
「旦那も、薄茶や、濃茶や、生花やいうて、上品がつてはるが、行き詰りは矢ツ張りレコやなア。」
いつもながらに醉ひに

りの早い平七は、もう少し卷舌になつて、かう言ひながら、右の手に波々と注がれた杯を持ち、左の拳を妙な形に拵へて、父の眼の前に突き出した。
「阿呆かい、此奴は。……そんなこと言はんかて分つてるがな。どんなえらい人かて、學者かて、落つれば同じ谷川の水や。……なア坊んち、坊んちかて、嫁はん欲しいやろな。」と、家内はまた自分の方へ摺り寄つた。
「坊んよ、坊んよと、何時まで坊んよ。坊んの、……や。坊んちにや
わたへが今に三國一の花嫁さんを貰うたげるんや。ちやアんと約束したアる。」と、平七は今にも溢れさうな右の手の杯の酒を、グツと一息に飮み乾した。
「
わしやまた、坊んちに嫁はん世話するより、自分に坊んちみたいな
稚い子の嫁はんになつてみたいな、一日でよいさかい。……」と、家内は白い顏をほんのりとさして、水の溜つたやうに
霑ひの多い眼で、幼い自分の一擧一動を見守つた。
「何んぢやい、貴さんみたいな婆ア、糞婆ア、腎張婆ア、坊んちが相手にしやはるかい。」と、平七は憎々し氣に家内の方を見て言つた。
「さうでもないなア、坊んち。……お半長右衞門を裏表にすれや、
わしと坊んちや。」と、家内はニタ/\と平氣であつた。
「お時さんのお父つあん遲いなア。……あれほどいうといたんやさかい、來やはるにや違ひあろまいが、もう一遍使やつてみたらどうやろ。」
肝心のことを忘れてゐたといつた顏をして、平七は改まつた調子で言つた。
「噂をすれば影、だツせ。」と、重々しい口振で言つて、鳥羽繪に描いた徳川家康のやうな下膨れの圓顏に、辛抱強さを見せた千代はん(お時さんのお父つあん)は、縁側からぬうツと入つて來た。今では村中で唯一人の
丁髷が、結立てで餘計大きく見え、髯を剃つた痕が蒼々としてゐた。
「遲かりし由良之助。……」
微醉の父は、かう叫んで、持ち合はした杯を
獻した。
婚禮は舊暦十月の亥の子の日であつた。庭の柚子が眞ツ黄色に熟して、明神の境内には、
銀杏の落葉が
堆かつた。村の家々ではお
萩餅を拵へ、子供たちは亥の子藁といつて、細い棒をシンに藁を
束ねて繩でキリ/\と堅く卷いたもので、ポン/\と音させつゝ地べたを打つて、
「亥の子ろ餅や、祝ひまへうかい。」と叫んでゐた。明神にはお百燈が點くので、晝の中からざわ/\してゐた。
媒妁人に料理番を兼ねた平七は、朝の中から家内と一所にやつて來て、亥の子なぞには頓着なしに、盃事や御馳走の用意に忙しがつてゐた。亡き母の葬式の時きり土藏から出たことの無かつた輪島の本膳が二十人前、箱のまゝ擔ぎ出されて、お駒や近所から手傳ひに來た
嚊衆の手によつて空拭きをかけられた。
「お
駒ちやん、おいとしぼや。……」なぞと、お駒を
嘲弄ふものもあつたが、お駒は洒々として、襷がけで働いてゐた。手は大勢あつても、勝手が分らぬので、皆んなは矢張り若いお駒に手頼らなければならなかつた。「臺所奉行」なぞと、お駒を呼ぶものがあつて、遂には
彼所からも
此所からも、「おい臺所奉行」と叫ぶ聲が聞えた。
「
此家の旦しう、幾つやろな、若いのやら年寄りやら分れへん。」と、
膾の大根を刻みながらいふものがあれば、
「若い筈や七十五日づつ何遍生き延びてはるか分れへん。……お
駒ちやん、お時さん……やない今度の奧さん。こいだけでもう百五十日や。お
駒ちやんは、明けて去年の霜月の、まだ蕾の十五や、もんなア、一人で三百日ぐらゐの値打がある。そやないかお
駒ちやん。」と、里芋の
頭をこそげながら、唄の節を混ぜて戲れるものもあつた。
自分の
家はお
萩餅どころでなかつた。それでも平七が忙しい中で、亥の子藁を拵へて呉れたので、自分はそれを持つて門の外へ出た。
「坊んち、あかん、そんなもん持つて遊ぶんでは、嫁はん貰へん。」と、平七の家内は襷がけで、
櫺子窓から見ながら言つた。
同じやうに亥の子藁を持つてゐる友達の群に入つて行つても、皆んなは自分を仲間外れにして、遊んで呉れなかつた。「お時さんの子や」とか、「あんな若いお
母んあれへん」とか言つて、自分を
せびらかした。其の中にはお時さんの弟も混つてゐた。
また家へ歸つて行くと、丁度魚屋が來て、鯛や海老や蒲鉾の入つた
蒸籠を、大人の
身長の高さほど積み上げたところであつた。ドツサリのお魚やと思つて、自分が呆れた顏をして見てゐると、何時の間にか嬉しさうな顏をした父が側へ來て、
「死んだお
母さんの來た時は、魚がこの三倍あつたんやで。」と、小ひさな聲をして言つた。
夜が近づくと、亥の子藁を打つ音が、方々でだん/\盛んになつた。自分の
家は平生一度も雨戸を繰つたことのない室へまで、あか/\と
燈火が點いた。
「ぼんち、ちやツちやと、
着物着更へや。」と、いやに自分を
幼兒扱かひにした、平七の家内の聲が聞えたので、自分は皆んなの集まつてゐる納戸へ入つて行つた。其處は亡つた母の室で、亡き人の手垢を留めた大きな鏡臺や箪笥が、根を下ろしたやうに疊へ喰ひ入つて据ゑられてゐた。
父は何時の間にか髯を剃つて、黄色い着物に青い袴を穿いてゐた。平七も家内も別の人のやうになつて、大きな紋所をハツキリと明るいラムプに映し出してゐた。
やがて花嫁の一
群は、迎へに行つた平七夫婦に導かれて門の外に近づいて來た。亥の子藁を持つた子供の一隊は花嫁らを取り圍んで、
「亥の子ろ餅や、祝ひまへう。」と、口々に叫びつゝ、花嫁の白足袋を擲り付けるほどにして、ぽん/\とやつた。
「あゝ祝うて呉れ/\。」と言ひ/\、先きに立つた平七は圓に柏の紋の附いた箱提灯を振り照らして、道を開いた。黒い着物にクツキリと白い襟を見せて、前
跼みに歩いて來た花嫁、それが自分の新しい母であるとは、何うしても思はれなかつた。亡くなつた母の居た時分、裁縫を習ひに來ては、自分に無理を言はれ、虐められて、泣いて歸つたお時さんとは、なほさら思はれなかつた。
一行が玄關へ差しかゝつた時、自分が、ぱツぱと瞬きをしてゐる燭臺を持つて出ようとすると、父は、
「お前がそんなとこへ出るんやない。」と、
例になく邪險に叱つたので、自分は周章てて次ぎの六疊へすツ込んだ。其處にお駒が上氣した顏をして立つてゐて、自分と顏を見合はせると、ペロツと赤い舌を出した。
「儀式の席に座蒲團は要らん。」
平七が座敷へ座蒲團を出さうとしたので、父がかう言つて、叱るやうに止めると、平七は紋付きの袖をあげて、頭を掻き/\、また元のところへ更紗の座蒲團を十枚抱へて行つた。
自分はたゞ一人納戸へ入つて、亡つた母の手摺れのした道具の前に、ぼんやりとしてゐた。其處には何うしたことか、ふツくりと柔らかな新らしい蒲團が長く敷いてあつたので、自分は袴を穿いたまゝ、其の上へ寢轉んだ。上を見ると、亡つた母の半身の寫眞が、額になつて長押から見下してゐる。黒い柄に青貝を
鏤めた薙刀もかゝつてゐる。自分は生れてこのかた覺えたことのない、寂しさと悲しさとに、蒲團へ頬摺りして、涙を擦り付けてゐた。
其處へお駒が呼びに來たので、自分は涙を見られないやうにして、座敷へ出て行つた。床の前に父とお時さんが並んで坐つてゐて、其の次ぎの空いたところへ、平七は自分を坐らした。自分の次ぎには、徳川家康のやうな顏をした千代はんが坐つてゐて、微笑みながら時々自分の方を見た。
平七の家内が三寶に土器を載せたのを持つて、錫の銚子を手にしたお駒がそれに引添うて進んだ。
「右のお足からそろり、……」なぞと戲談を言つて、先刻平七の家内がお駒を嘲弄つてゐたのを思ひ出して、自分は今泣いた顏に笑みを浮べた。
三寶と土器とが花嫁の前へ行つた時、互ひにお辭儀し合つたお時さんとお駒との、ビラ/\の附いた同じやうな簪が、縺れ合つて兩方とも拔け落ちたのには、一座が皆眼を注いだ。お駒は靜かに簪を拾つて、一つを恭しくお時さんに渡し、一つを自身の頭に插した。
其の夜、自分は誰れと寢るのかと思つて考へてゐた。
「竹と寢ると、温うて炬燵は要らん。」と、始終父はさう言つてゐたけれど、もう昨夜かぎり、父と同じ蒲團に寢ることは出來ぬと、幼い自分も今朝から覺悟はしてゐた。
四疊半の居室へ、長持から客蒲團を出して、暖かさうな、廣い寢床を取つた側へ、今夜は殊に見窄らしく見える自分の煎餅蒲團が敷いてあつたので、自分はまだ座敷の方のお開きにならぬ中に、其處へ潛り込んで寢て了つた。
フト眼を覺ますと、薄暗い
短檠の
下に、綺麗な友禪の長襦袢一つになつたお時さんの姿が、覗きからくりの繪のやうに、夢ともなく幻ともなく動いてゐるらしかつた。
(大正四年一月)