坂の上の、大きな松の樹のある村總代の家で、あるきを呼ぶ太鼓の音が、ドーン、ドーン、ドン/\/\/\/\と響いてゐたのは、ツイ
店には誰れもゐないで、大きな眞鍮の火鉢が、人々の手摺れで磨きあげられたやうに、
「

「あゝお光つあん、其處だツか。……お
鼻をひこつかせるやうにして、猪之介は竹格子の間に白く浮き出してゐるお光の顏らしいものを、
「お
晝食の客に出した二人前の膳部の喰べ殼の半ば片付いた殘りを、丁ど下の川端の洗ひ場で莖漬けにする菜を洗ひ上げて來た下女に讓つて、お光は板場からクルリと臺所へ

一番ではあるが、際立つて小振りの丸髷に裏葉色の手絡をかけて、ジミな縞物の袷せのコブコブした黒繻子の襟の間から、白く細い頸筋が、引ツ張れば拔け出しさうなお
すらりとした撫で肩を一寸搖つて、青い襷を外してから、何心なく火鉢に手をやつて、赤味の勝つた細い比翼指輪の光る、
かういふ時にタバコを
「お前、タバコ呑んだら
二三年前に聟養子を離縁してから、お光の一身と一家とを引き受けて世話してゐる旦那は、よくこんなことを言つた。
若い時にカメオだとかオールドゴールドとかいふやうな舶來タバコを吸つて、村の人々に感心さした旦那は、今でも敷島や朝日を吸はずに、金口の高いのをこれ見よがしに吸ひながら、お光にもタバコを喫めと口癖のやうに勸めてゐる。
「

今は東京に住んで、三四年に一度づゝすら村へは歸つて來ない小池といふ畫を描く男の、縣だとか郡だとかいふことには一切頓着してゐない容子が、奧床しく思はれてならなかつた。大臣だとか議會だとかいふ話が出ても、豚小屋か蜂の巣の噂さほどにも思つてゐないらしいのも、お光には耐らないほど小池をえらく思はせた。
東京に展覽會なぞが開かれて、小池の描いた畫の評判が新聞や雜誌に出ると、お光は眼を皿のやうにして一々讀んだ。小池の評判がだん/\高くなるのが嬉しくてならなかつた。
「小池はんちう人はえらいんだすな、東京や大阪の新聞に、しよつちう名が出てまんがな。」なぞと、店へ來て話す人でもあると、お光はいよ/\嬉しくて、其の人を無理に引き留めて、一本漬けて出したりした。さうして田舍の新聞へ
「村で一番出世をしたのは、小池はんと、
學校を落第ばかりしてゐた新田の五郎作といふ馬鹿息子が、小池の後を追うて東京へ行つて、小池にたよらうとして跳ね付けられ、角力になつて××川と名乘り、此頃では新聞の勝負附けにも出るやうになつたのを、お光も面白いことの一つに思つてゐたが、そんなものと小池とを並べて話されるのが殘念にもあつた。
「わたへ、タバコ嫌ひだんがな、臭うて臭うて胸がわるうなる。……三十越したらまた喫む稽古して見ますわ、もう二三年だす、それまで待つとくなはれ。」
小さな
「こなひだ、指輪拵へるさかい十圓呉れいうたが、今さしてる其の指輪それか。……一寸見せてみい。」
旦那はタバコの
「これ十圓、高いな。二匁かゝろまい。」
かう言つて旦那は、お光に外させた比翼指輪を自分の節くれ立つた太い指に
「そやよつて、十圓はしえへんいうてますがな。……殘りであんたの下駄買うて來てあげましたやないか。……きらひ。」と、お光は
「
世の中に金ほど尊いものはないと信じて、黄色く光るものに、靈魂を打ち込んでゐる旦那は、細い比翼指輪の弱々しい金色にも凄いやうな白味の勝つた眼の光を浴せて、自分の幅の廣い白縮緬の
「知りやはらんのやなア、この人は。……今時そないに黄色い金
お光が
「お前は何んでも東京や、そないに東京が好いのんなら、東京へいたらえゝ。……わしは在所もんや、在所にゐて百里も先きの町の人の眞似したて何んにもなれへん。……混ぜもんした色のわるい金より、わしは矢つ張り二十金か十八金がえゝ、二十二金から純金ならなほえゝな、値打ちが違ふんやもん。」
旦那はお光の比翼指輪を其處へ放り出して、自分の左の指に
「お醫者はんの時計見たいな。……」と笑ひながら、お光は比翼指輪を取つて、元の通り右の紅さし指に
其の比翼指輪が、今長火鉢の側に腰をかけて、鐡作りの太い火箸を取り上げたお光の細い指に光つてゐるのが、眼を病むあるきの猪之介にもよく見えた。
「こなひだは御ツつおう(御馳走)はんだした。」と、猪之介は物を喰べた後のやうな

板場の方に近寄るほど、

「
「さうだツか、あんたは女護の島ちうとこへ行きなはつたことあるんやな、えらい運のえゝ人や。」とお光は相變らず細い指で太い火箸を
「猪のはん、女護の島へ行きなはつた折の話しとくなはれ、猪のはんみたいな男でも、
「お光つあん、物は何んでも拵へるより潰す方が樂やいふけど、井戸ばツかりは掘るより埋める方が手間がかゝりますてな。在所の井戸はまだえゝが、町の井戸になると第一土がおまへんさかいな、埋めるのは掘るよりお
「何言うてんのや猪のはん。藪から棒に。誰れも井戸を埋めえへんし。……それより何ぞ用だツかいな、いんま總代さんとこの太鼓が鳴つてたやおまへんか、あんたがおいなはると、碌なこと言うて來やはれへん。」と、お光は太い火箸でコン/\と五徳を突いてゐた。
「違ひない、碌なことやおまへんで。……今夜あんたんとこへ、もう三人兵隊さんを泊めて貰ふんだすて。」
「うだ/\言ひなはるな、猪のはん。女護の島へ十人も荒くれ男を泊めるんで、今朝から二人がテンテコ舞をしてるやおまへんか。お母あはんは居やはれへんし。……」
「そら分つてまんがな。けど總代さんも弱つてはりまんのや、今日の今になつて手違ひが出けたんで、役場へ打ち合はせに行く閑もあれへん。仕樣がないさかい、大黒屋へいてお光つあんに押し付けて來いて言やはりますのや。」
「押し付けられて耐りまツかいな。……何んぼ人を泊めるのが商賣やかて、一人前二十錢やそこらでお辨まで拵へて、………大黒屋は商賣やさかいよいわで、
短刀でも拔いたやうな風に、太い火箸を逆手に握つて、お光は猪之介の顏を見詰めた。
「そらよう分つてます。けんど俄の手違ひだしてな、總代さんも弱つてはりまんのや。三人だけだツさかい、總代さんとこへ泊めよかいうてはりますんやけど、總代さんとこは、大將の……本部やたらいふんで、えらい人ばツかり泊りやはりますんで、三人でもたゞの兵隊さんは泊められんのやさうだす。」と、猪之介はこの薄寒い初秋に額の汗を拭き/\した。
「俄の手違ひて、一體何うしやはつたんだすのや。」と、お光の色は稍和ぎかけた。
「それが聽いとくなはれ、かうや。……」
猪之介は漸く上り
「……あの白髮頭の
「そいで、其の投げ足がわたへんとこへ來たんだすかいな。……惡いきやなア。」と、お光は笑つた。
「けんどなア。……」と、猪之介は水彩畫のやうに明るい店の間から、トンネルの出口に似た裏口の方をズツト見

「……これには小池はんも係り合ひがおますのやで。……」と聲を密めて言つた。
「えゝ、ほんまに。……」
小池と聞いて、お光の胸は波打つたやうであつた。
「あの
「また郵便局で
「郵便局で
「信書の祕密ていふやないか。何んぼ郵便局かて、他人の手紙
「けんど小池はんも小池はんだすな。そんな惡いことを
猪之介はお光の横顏を見い/\、これだけのことを言つて、ほつと息を
この村では自分一人だけが小池の氣質を呑み込んでゐると思つてゐるお光は、兵隊の宿をするのが厭やさに、わざ/\宿替へをするといふことが、如何にも小池といふ人間をよく現はしてゐると考へた。さうして、もと/\小池の流した水が自分の家へ流れ込んで來たのだとすれば、迷惑も迷惑とは感じられずに、或る嬉しさをさへ覺えて來た。
「よろしおま、三人が五人でも、かうなつたら引き受けます。……惡いきついでや。」
元氣よく言ふと、お光はついと立ち上つて、板場へ入つたが、やがて鰊の

「猪のはん、藥鑵は
「氣の毒だすなア、これア。」
猪之介はぼんやりして、酒肴を睨めてゐたが、
「お辭儀なしに頂きます。……
大道の砂埃りを蹴立てゝ、新らしい小倉の袴を穿いた村役場の給仕が、風のやうに飛び込んで來た。
「大黒屋さん、信玄辨當二つ、……上等だツせ。……お梅どんに直き持たしておこしとくなはれ。郡役所の兵事係が二人腹減らして待つてはるんや。……報告終りツ。」と鈴のやうな聲で叫ぶと、兵隊のするやうな

「今時分そんなこと言うて來たかて、御膳もあれへんがな。……お梅、其の
「あゝ面倒臭い。」と、友染の湯もじの下から、細い
「七段目のおかるを逆さまに行くやうだツせ。……船玉さんが、……」と、猪之介は薄赤くなつた顏一面に、にや/\とした笑ひの波を湛へた。
一寸背後を振り返つて、お光もにやりと笑つたが、納戸の神棚や佛壇から、朝供へた茶椀や金椀に盛り上げてある供物の飯を持つてきて、お梅に渡すと、お梅はそれを飯櫃へあけ、杓子でほぐして瀬戸物の丸い辨當へ詰め込んだ。
「御膳も二度の勤めをするんや。商賣やよつて、これも仕樣がない。……猪のはんこんなこと人さんに言ふんやないで。」
納戸から長火鉢の側へ來て、お光は猪之介に對ひ合つて坐つた。
「誰れが言ひますもんか、
「何んしよまア言ふんやないで。」と、お光は改つた顏をして念を押した。
二つの信玄辨當を風呂敷に包んで、お梅が赤い襷を掛けたまゝ大急ぎで村役場の方へ行つた後から、
「毎度大けに。……頼んだことは間違ひおまへんな、お光つあん。」と、猪之介は入つて來た時とは別の人のやうになつて、ヒヨロ付きながら歸つて行つた。
店の時計が午後の三時を打つと間もなく、馬に乘つた身體の大きい兵隊が二人、蹄鐵の音を砂利路に立てゝ駈けて來た。さうして役場の人や村總代と連れ立つて、宿をする家々へ貼紙をして

お光の
兵隊の珍らしい村の子供等は、わい/\騷ぎながら二人の大きな兵隊の後から隨いて歩いた。學校歸へりの子供等も皆それに混つてゐた。兵隊の乘り棄てた馬は大黒屋の前の廣場の松の樹に繋いであつた。肥えた尻に短く切つた尾の
「學校の戻りに遊んでるんやおまへん、ちやんと家へ戻つて、『只今』をしてから遊びに行きなはらんかいな。」と、お光は小さい娘の顏を見詰めつゝ
お勝は行儀よく膝の上へ手を置いて、母の言ふことを聽いてゐた。在所で育てゝも娘を
お光は、お勝の
「お光つあんの子、あら養子の子かいな、いきり玉かいな。」
「あの子だけは、養子の子に相違これなく候や。……眼元なら口元なら、似たとは愚か、チンツンシヤン、瓜二つ……やないか。」
無遠慮な村人共が、淨瑠璃の文句までもぢつて、こんなことを言ふのが、度々お光の耳へも入るが、言はるゝ通り、この子は三年前に縁を切つたこの子の父に酷く似てゐる。とお光はまた今更にそんなことを思つた。
木綿ながらも、
學校の若い代用教員は、源氏物語とかの中から「おなじ目鼻ともおぼえず」といふ一句を拔き出して、お勝と

この
お光は突然こんなことを考へた。
其の頃から係り合つてゐた今の旦那のことが、だん/\表向きになつて來て、離縁にはなつてゐても、まだ戸籍の拔けてゐなかつたお勝の父の名も、旦那の骨折りで裁判にもならずに
それも氣の置けぬ大阪の知り合ひの許へ送つて、其處から弟の手で
「……おほかたはお聞き及びでもありませうし、さぞ/\光は淺ましい人間とあいそもこそも盡きはてたやうにお思ひなされておいでのことゝ存じます。淺ましい光はもう二度とこの世であなたさまにお目にかゝりません。一思ひに死んでお詫びがしたいのでありますが、年寄りの嘆きと幼いものゝ不憫さに、死んだ氣になつて、ぢつと辛抱して居ります。光は恥を恥とも思はぬほどに墮落した人間になりました。……」なぞと書いて、何うしたのか其の時は、掘り拔き井戸のやうに下から/\込み上げて來た涙に、長手紙が濡れて、「光は恥を恥とも」と書いたところなぞは、墨が
この長手紙を見た小池は、賣女の如き自分に親しんだことを悔いて、返事なぞはよこさぬことと、お光は獨りで決めてゐた。さうして、「小池はんかて、奧さんがあるやないか、惡いといへば二人とも惡いのや。わたへだけが遠慮することもあれへんやないか。」とも思はれ、「光は淺ましい人間」なぞと手紙に書いたことも殘念になつて、淺ましいのは男も同じであるのに、女だけが淺ましいものになつてゐなければならぬ世間體といふものが、馬鹿々々しくなつて來た。
ところが、小池からは返事が來た。……氣の置けぬ大阪の知り合ひの許へ

破るのが惜しいやうな綺麗な状袋の、鮮かな封じ目を簪の先きで突ついて、取出したのは、ハート形の透かしの入つた美しい紙であつた。五枚の裏表へこま/″\と書いてあるのは、例もの「人間は自由でなければならぬ」とか何んとかいふ難かしいことが多くて、お光にはよく呑み込めなかつたけれど、
「……淺ましい人間になつたとは、何ういふことですか。私なんぞは初めから淺ましい人間です、初めから終りまで淺ましいのです……」と書いてある一節を讀んで、ほツと安心した。
それから、「……恥を恥とも思はぬほど墮落した人間とは一體何を仕出かしたのです。一つ目小僧か、頭は人間で身體は犬の兒でも生んだといふんですか。それも面白いぢやありませんか。そんなことを決して彼れ是れいふ小池ではありません……」とあるのを讀んで、お光は一時
小池は自分の近頃の身の上を一から十まで知つてゐて、別に變る心もなく、遠方ながらに、幾久しく自分を可愛がらうとするのである。それに違ひない。
かう思ふと、お光は
先夫の胤の一人娘を傍へ引き付けておいたなりで、お光はさま/″\のことを、あれからこれへと考へてばかりゐた。小ひさいお勝は母の顏色を見て、自分が怒られてゐるものとのみ思ひ込み、張り裂けるやうな聲を立てゝ、わツと泣き出した。
膝元に兒のゐることも忘れて、怖い顏をしてゐたお光は、はツとして、
「何んだすのや、お勝ちやん。何泣いてなはる。」と、俄に優しい顏をして見せた。
お光はかう思ひながら納戸へ入つて、用箪笥の小抽斗の
熱田の宮のこんもりとした森を左に、夕日の輝く金の
「六日の朝の急行で立つ、大阪着は夜の八時二十五分、來られるなら其の時刻に梅田のステーシヨンへ來て、去年の薄暗い待合室で待つてゐて下さい。」
これだけのことをペンで走り書きした例のハートの透かしのある小池の手紙が、大阪の知り合ひから例の手續きで自分の手に渡されたのは、一週間前である。
「どんなに都合をしても、六日には屹と梅田で待つて居ります。だましては厭やですよ。」と、小説本で覺えた東京語の返事を、自分も近頃使ひ始めたペンで書いて、直ぐ大阪の知り合ひの方へ送つておくと、
「行くといへば必ず行く。火が降つても槍が降つても行く。午後八時二十五分といふ時刻を間違へないやうに。若しすツぽかすと一生恨む。」とペンで走り書きしたのが來た。
「一度お目にかゝつて、是非々々お話いたしたく、村までお歸りなされては都合あしく候につき、大阪までおこし下されたく、ぜひ/\お目にかゝつてお話し申した上、私も一生の覺悟をきめたく、手紙では
かう思つて、お光は其の「行くといへば必ず行く、火が降つても、槍が降つても……」と書いてある手紙を、
六日には是非大阪へ買物に行かねばならぬ。其の日は四里南の海邊の町の親類へ留守番がてら、手傳ひに行つてゐる耳の遠い老母に一寸家へ歸つて貰うて、自分が買物をした歸りに其の海邊の親類へ寄つて、手傳ひながら一晩泊つて來るといふことにして、旦那の前は首尾よく取り
小池はんがまた何故に、
さう思ふと、お光は有り合はした新聞を取つて、若い男と女とが立つて話をしてゐる插繪のある小説の初めの行から、入用な字だけに鉛筆で○を付けて行つたが、「六日は差支へます七日にして下さい」といふ字は、小説の終りまでに樂々と得られた。しかしこの新聞を突然小池に送つたところで、如何な小池でも何んのことやら分るまい、
小池かて、子供ぢやなし、六日の午後八時二十五分に自分の姿が梅田の何處にも見えぬからとて、其のまゝ鳩の使のやうに歸つて了ふこともあるまい。何處ぞへ宿を取つて例の知り合ひの手を經て、多少は違約を責めた恨みの文句が混らうとも、屹と嬉れしい手紙が來るに違ひない。
お光は一時こんなにも思つて諦めてみたが、いや/\あの氣の短い小池が、そんな悠長なことをする氣遣ひはない。一わたりステーシヨンを見渡して、自分の姿が眼にとまらなければ、碌々隅々まで探すといふこともせずに、何處ぞの温泉場へでも行つて了つて、自分よりも若い美しい女を見付けるかも知れぬ。幼馴染といふことは自分が小池に引き付けられる五色の糸であるやうに、小池が自分に引付けられて、百六十里も
美しい女が掃いて棄てるほどありさうな東京から、小池が遙々と自分のやうなものに引つ張られて來るのは、たゞ幼馴染の懷かしみを慕ふ爲めであらうか、ほん氣であらうか、戲れであらうか。
お光はぼんやりとこんなことばかり考へ續けながら、
店の時計が五時を打つた。旅行案内の
お光は立つても居ても、ゐられぬやうな氣がして來た。小さい懷中時計を見ると、もう五時五分、汽車は丁ど大垣に停つてゐるのであらう。窓から首を出して柿羊羮でも買つてゐるらしい小池の姿が目の前に浮んだ。
人に手紙でも持たして、梅田のステーシヨンへ遣らうにも、お梅を始め村の人々は皆旦那の隱し目付のやうなもので、少しも氣が許せぬ。大阪の知り合ひへは
何うしたら好からうかと、お光は今更氣が氣でなくなつて、小ひさな懷中時計の細い金鎖を握つたまゝ立ち上つて、納戸の中を急ぎ足で歩き

「何してんのや。」
あの聲は旦那であると思ふ間もなく、
「風紀衞兵て何んや。」と、旦那は突然大きな聲を出した。
「何んだツしやろ、何處に居ますのや。……」
「
旦那は手に持つてゐた二重


「お光、何かい。……お前んとこは確か十人が三人殖えたんやなア。總代がわしんとこへ來て、ひよこ/\してあやまつてよつた。……もうよツぽど準備が出けたかなア、何んなら誰れぞおこさうか、手が足らんことないか。」
かう言ひ/\、旦那は着物と對の細い龜甲形の大島の羽織の裾の皺になるのを氣にする風で、大事さうに
「何處ぞへ行きなはるんだすか。」と、お光は旦那の問ひには答へずに、此方から問ひをかけた。
「わしんとこも十人泊めるんやが、將校ばつかりで、たゞの兵隊は三人や。」
右の手の指を三本屈めて輕くお光の前に突き出してから、其の手を直ぐ帶のところへやつて金鎖を弄りつゝ、
「今朝から清助に鷄を十羽つぶさしといたさかい、あれでえゝやろ。酒は
また大けなことばツかり言やはる。とお光は心の裡で思ひながら、
「そいで、あんたは何處へ行きはるん。」と、また問うた。
「わしかいな、わしが居ると、お客さんが遠慮しやはるさかい、却つてわるいとおもて、わしは好いとこへ行くんや、常ならお前を連れて行くんやけど、今夜は仕樣がない。……兵隊の身になると、議員なんどしてる勢力家の家へ泊ると窮屈なもんやげな。そやさかい、わしは氣い利かして一人で外へ泊りに行くんや。……ぼし/\行かうかなア。」と旦那は早や押ツ立て尻をしかけた。
「一人やら二人やら、分れへん。」
お光は厭味らしく言つて、
「やいや一人や、二人で行かうにも相手があれへんがな。……わしの好きやんこれ一人や。」
變な聲を出してかういふと、旦那はツイと立ち上つたが、立ち際に毒々しいほど幅の廣い金指輪の光る節くれ立つた手を伸ばして、お光の
「お光、……お光。」と呼ぶ猜撫聲が聞えた。この男に「お光」と呼び棄てにされるのが心外でならなかつたのも、一二年から前のことで、今はもうそれを當然と思ふやうに、何んとも氣にとまらなくなつた。この男を自分の旦那にしたお蔭で、老いた母親と幼い娘と、自分と、それから先祖代々持ち傳へて來たこの大黒屋の店とを、飢ゑも朽ちもさせずに、やつて行かれるのであると思ふと、厭やな男に身を委して、子供の命を助け、家の名を完うした昔物語の女の名も、一つ二つ浮び出て來るとともに、旦那を粗末にするのが勿體なく思はれて、お光は急にいそ/\として、旦那に寄り添ふ風に長火鉢の横手へベタリと坐つた。旦那は思ひ出したやうに、袂をもぐ/\と探ぐつて、この邊では他に誰れ一人吸ふものゝない金口の紙卷タバコを一本大事氣に取り出して火を點けてゐた。
「お前、今日
旦那はかう言つて、タバコの煙をプツと細長くお光のツンと高い鼻の上あたりを目がけて吐き付けた。タバコの嫌ひなお光は襦袢の赤い袖口の長く
「厭やだんがな。」と、溢るゝ色氣を全身に漲らせて、甘え切つた聲で言つてから、
「明日もな、もう止めましたんや。……また今度……。」と旦那の顏をヂーツと見つめた。
「先程は
あるきの猪之介がまた入つて來て、店の土間から大聲でかう叫んだ。さうしてツカ/\と長火鉢の傍へ來て突ツ立つたが、
「お光つあん、先程は
また同じことを繰り返へして、猪之介は馬鹿丁寧に小腰を
「おい猪の、
「あゝ、淺川はん、お越しなはれ。」
猪之介は
「今になつて『淺川はん』もよう出けてけつかる。……おいこのお光は
だん/\威猛高になつて、旦那がやり出すのを、お光が見るに見兼ねるといつた顏をして、
「あんた、もうよろしいがな。……猪のはんかて、何も惡氣があつてしたんやあれへん。あんたのえらいことは皆んな知つてまんがな。……猪のはんには失禮やけど、何もあんたあるきさんなぞに、あんた、そないに威張りなはつたかて仕樣がおまへんがな。」と、旦那には分らぬほどの輕侮を混ぜて取做した。
「さうだすのや、淺川のだなはんのお越しなはつてるのは知つてましたけんど、うツかりして御挨拶もしまへなんだんや。……お光つあん、お
「厭やゝし、猪のはん、旦那の奧さんはお
厭やな心持ちになつて、かう言ひながら、お光は、もう四十に間のない旦那の本妻が始終半分ほど口を開きながら、人の好ささうな顏をして、四人の子供を育てつゝ、多くの下男下女と一所になつて農事に勵んでゐる
火の乏しい長火鉢を眞ん中にして、三人の男女は白け渡つた樣子で、
「……お光は
「あゝさう/\。」と膝を叩いたので、旦那も猪之介も、何事が始まつたかといつたやうな顏をした。
梅川忠兵衞の封印切りの場で、槌屋治右衞門が、井筒屋のおゑんをば、「……言はゞ女房も同じこと。……」といふのであるとお光は、あの花やかな舞臺面を思ひ出して、下手長火鉢の側には、おゑんに治右衞門、背中を見せた判人由兵衞、眞ん中には美しい梅川に忠兵衞、上手には憎々しい丹波屋八右衞門、丁度この家のやうに長火鉢の横手から二階へ通ふ階子段があつて、……なぞと、お光は茫とした心地になつて、おゑんや梅川が金故に苦勞するのが
何時の間にか娘のお勝がかどから戻つて來て、母と旦那との間にキチンと坐り、秋の夕風に冷たくなつた小ひさな手を長火鉢に
「お勝ちやん、
お光はたゞ舞臺の上の花やかな新町の井筒屋の光景と、今此處の我が家の陰氣臭い有樣とを思ひ比べて、
「
「外套……外套。……」と、この時始めて二重


「
「お前んとこへ、小池はんから便りがあるかいな。」
二重

「いゝえ。」と、簡單に答へて、覺えずペロリと舌を出しかけたのを

「あの人にも困つたもんや、あんな家を建て腐りにしといて、
「好きも嫌ひもあれしまんがな、あんな遠いとこへいて了うた人。……あかの他人や。」と、お光は突ツ立つたまゝ旦那の盆の窪を見下ろしてゐた。
「それもそやなア。」
旦那はかう言つて、首を傾けつゝ足早に出て行つた。一ヶ月ほど前にこの村へも通じた、旦那が取締役をしてゐる水力電氣會社の電燈が、店へも臺所へも板場へも、一時にパツと點いた。
お光は旦那の後姿を見送つてから、急いで納戸へ入つた。日は西の山に沈んで、夕闇は早や南の森の中から湧き出しさうになつてゐる。
臺所の方では、猪之介が何やら言つて下女を
東村の方から、喇叭の音が風に傳はつて聞えて來た。
「そら兵隊さんや。」と、猪之介はあたふた表へ駈け出した。近所の人々もおひ/\往來へ出て、兩側に
喇叭の音は朗かに聞えてゐるだけで、近付いて來る樣子が見えない。巧みなマーチは何時までも東村邊りに止つてゐる。人々は互ひに顏を見合せた。
「
東村まで駈けて行つて來た猪之介は、スウ/\息を切らしながら、路傍の力石の上へ倒れるやうに腰を下ろした。
「あの喇叭何んや。」と口々に言つて、人々は猪之介を取り卷いた。
「今日東村へ宿替へしよつた
猪之介はさも/\馬鹿らしいといつたやうな顏をして、兩手で頭を抱へつゝ差し俯伏いた。
「わるさやなア、
「
こんなことを言ひ/\、人々は四散した。お光はまた納戸へ入つて、懷中時計と旅行案内とを見比べつゝ、何んとも知れぬ悲しさに涙を拭いてゐたが、八時に近づくと、箪笥から着物を取り出して、亂れ箱へ入れた。
それから、今朝結つたばかりの丸髷を壞はして了つて、
「母アちやん、何處へ行きなはるの。」と言つたので、
「いゝえ、何處へも行けしまへんがな。」と言ひ/\、帶を締めて、黒縮緬の羽織を引ツかけ、指輪もよそいきの石の入つたのを一つ比翼指輪の上から
「そーれ見なはれ、何處やらへ行かはる。」と、お勝は眼を圓くして、立派になつた母の姿に見入つた。お光は廣くもない納戸の中をクル/\と三四度も歩き

「母アちやん芝居してはるのや。」と、お勝は寂しく笑つた。
「さうだす、母アちやん芝居してまんのや。……もツと見せたげまへうか。」
お光は立つて、また一二度納戸の中を歩き

「何うだす、母アちやん芝居したら、河合みたいだすやろ。……喜多村だすかなア。」と、お勝の顏を見詰めた。お勝は呆氣に取られてゐた。
この長襦袢に、この着物、この羽織を着て、あのコート、あのシヨールを纏うて、今夜の八時二十五分に小池を梅田のステーシヨンに迎へようと思つてゐたのである。それが爲に羽織の仕立てを急がして、三度も催促に行つた。髮も束髮にして行かうと思つてゐたのであるが、兵隊の爲に家を出られなくなつたので、今朝丸髷に結つて見たが、何うしても束髮にしなくては氣が濟まぬやうになつたのである。
お光はかう思ひながら、ちやんと帶の間に挾んで恰好よく鎖を垂れた懷中時計を出して見ると、八時二十三分になつてゐる、もう二分のことである。小池の汽車は梅田ステーシヨンの構内に入つてゐるに違ひない。
あの廣いプラツトフオームへ、怪蛇の眼玉のやうな
「よく來られたね。」とさういふであらう、屹とさういふであらう。
胸に動悸を打たせつゝ、お光はこんなことを考へて、耐まらなくなつた。また懷中時計を出して見ると、八時半になつてゐる。
「今夜歸へらなけや、叱られやしないか。大丈夫か。」と、小池はまたかう自分に言ひさうである。けれどもそんなことをいふべき相手が見付からぬので、方々を探しあぐんで、今頃はあの穴藏のやうな待合室で、何うしたものかと考へてゐるであらう。いや/\自分がちやんとプラツトフオームまで迎へに出てゐても、此方から聲をかけねば氣が付かずに、何處か別のところへ行つて了ひさうな人だから、もう電車にでも乘るか、上り汽車に乘る都合にしてゐるかも知れぬ。
懷中時計の針は容赦なく進んで、三十五分から四十分にならうとしてゐる。
お光は
「兵隊さんや、兵隊さんや。……」と叫ぶ聲が聞えて、表の方が俄に騷がしくなつた。
喇叭の音は聞えないが、ゴト/\と重さうな車の
お光はシヨールをとりコートを脱いで、お召の着物に黒縮緬の羽織、博多の帶の間に金鎖を
將校の朗かな號令の聲が、鎭守の方に聞えてから暫くすると、ドヤ/\ガチヤ/\と、靴の音、サーベルの音を立てゝ、一群れの子供等に附き纏はれつゝ、十人あまりの兵隊がお光の店へ入つて來た。お光は下女に案内させて、將校五人を二階の一番と二番とを打ち通した室に案内させ、下士卒八人を
お光は二階へ上つて行く人、
下女の手で火鉢に火が
「人の戀路の邪魔する奴は……」と心の裡でさう思ひながら、如才なく愛嬌を見せて、茶菓を進めた。
お客樣は皆お光の身なりの立派なのを見て、眩しさうな顏をした。中には
「奧さん、今晩は御厄介になります。」と、圓顏のデツプリ肥つた上座の人は、無邪氣な聲を出した。お光は去年の秋小池と田舍町の宿屋に泊つた時、下女や主婦から「奧さん」と呼ばれたのが生れて初めで、
旦那の家の
「お家はんがさう言やはりましたんだすがなア、お取り込み中を氣の毒だすが、
「畏まりました。後でお梅に持たしてやります。……けどなア寅やん、
お光は羽織を脱ぎ、お召の上から前垂れを締め、襷をかけて板場へ下り立つた。其處へあるきの猪之介が何處で飮まされたか、眞赤な顏をしながら、ひよろ/\して入つて來て、長火鉢の側へ腰をおろすと、
「今、地内で淺川の旦那が、
「猪のはん、何んで叱られはつたんや。」と、眉を顰めて問うた。
「
お光はほと/\と、旦那の淺ましさが厭やになつた。
其の夜、お光は床の中で寢返へりばかりして、まんじりともしなかつた。小池は何處で寢てゐるであらうかと、そればかりを考へてゐる中に、早や
朝早く兵隊さんは立つて行つた。馬の膝までを浸す清らかな山川の水を濁して、幾輛かの砲車が對岸の縣道へ進むのが、お光の家の納戸の縁側からよく見られた。フト前日の新聞を取り上げて見ると、この一隊の演習行軍の記事が出てゐて、「
あれが繪卷物かなア。と思つて、お光はまた對岸を見やつた。それから三日ほどの間、饅頭笠を被つた郵便配達の姿の見えるのが、待ち遠しくてならなかつた。
(大正四年一月)