東光院

上司小劍





 東光院とうくわうゐんの堂塔は、汽動車きどうしやの窓から、山の半腹はんぷくに見えてゐた。青い木立こだちの中に黒く光るいらかと、白く輝く壁とが、西日にしびを受けて、今にも燃え出すかと思はれるほど、あざやかな色をしてゐた。
 長い/\石段が、堂の眞下へ瀑布たきけたやうに白く、こんもりとしたしげみの間からいて見えた。
『東光院て、あれだすやろな。』
 おみつは、初めて乘つた汽動車といふものゝ惡いにほひに顏をしかめて、縞絹しまぎぬのハンケチで鼻をおほふてゐたが、この時やうやう言つて、其の小じんまりとした、ツンと高い鼻を見せた。
 小池こいけは窓の外ばかり眺めて、インヂンから飛び散る石油の油煙ゆえんにも氣がつかぬらしく、唯々たゞ/\乘り合ひの人々に顏を見られまいとしてゐた。
『こないによごれまんがな。』
 口元のやゝ大きい黒子ほくろをビク/\動かして、お光はハンケチで小池の夏インバネスのそでを拂つてやつた。
たまらないな、歸りには汽車にしやうね。二時間や三時間待つたつて、こんな變なものに乘るよりやいゝや。』
 小池は初めて氣がついたらしく、肩からひざあたりへかけて、黒い塵埃ほこりの附いてゐるのを、眞白なハンケチでバタ/\やつて、それからむかひ合つてゐるお光の手提袋てさげぶくろの上までを拂つた。
『そやよつて、もつと待ちまへうと言ひましたのやがな。あんたがあんまりきなはるよつて、ばちが當りましたのや。』
 底をかごにして、上の方は鹽瀬しほぜの鼠地に白く蔦模樣つたもやう刺繍ぬひをした手提てさげの千代田袋ちよだぶくろを取り上げて、お光は見るともなく見入りながら、うるほひを含んだ眼をして、ひとごとのやうに言つた。
『知つてる人に見られるとやだからね、この方角へさへ逃げて來れば、大抵たいてい大丈夫だからね。……逃げるは早いが勝だ。乘り物の贅澤ぜいたくなんぞ言つてゐられなかつたんだよ。』
 う言つて小池は、力一杯に窓の硝子戸がらすどを押し上げた。
 汽動車は氣味のわるい響きを立てつゝ、早稻わせはもう黄ばんでゐる田圃たんぼの中を、十丁程と思はるゝ彼方かなたに長くよこたはつたやさな山の姿に並行して走つてゐた。
『これから先きへ汽動車はまゐりません。先きへお出での方はこの次ぎへ來る汽車にお乘り下さい。』と、車掌しやしやうふしを附けてうたふやうに言つたので、小池もお光も同時にハツと頭を上げて車室を見渡すと、自分たち二人ふたりほかには、大きな風呂敷包みを背負せおつた老婆が、腰を曲げてまご/\してゐるだけで、多くの人々はや改札口をぞろ/\と出て行くのが見えてゐた。
何處どこへ行きますのや、……一體。……』と、お光はあたふたと車室を出る小池のあとから、小走りに續きながら聲をかけた。
ぼくは東京の人だもの、こんな遠方の片田舍かたゐなかの道は知らないからね。……君が案内をするんだよ。』
 屋臺店をやゝ大きくした程の停車場ステーシヨンを通り拔けると、小池は始めて落ちついた心持ちになつたらしく、燐寸まつちつてゆツたり紙卷煙草かみまきたばこを吹かした。青い煙がゆら/\として、澄み切つた初秋の空氣の中に消えた。
あたへかて、知りまへんがな、……こんなとこ。……』
 琥珀こはく刺繍ぬひをした白い蝙蝠傘パラソルを、パツとはすの花を開くやうにかざして、やゝもすればおくれやうとする足をお光はせか/\内輪うちわに引きつて行つた。
 駄菓子を並べた茶店風の家や、荒物屋に少しばかりの呉服物ごふくものを附け加へた家の並んでゐる片側町かたかはまちを通つて、やつと車の通ふほどの野道の、十字形になつたところへ來ると、二人は足を止めて、う行かうかと顏を見合はした。小學校歸りの兒童が五人八人ぐらゐづつ一塊ひとかたまりになつて來て、二人の姿をヂロヂロ見やつては、不思議さうな顏をしてけ去つた。
 ぐに行かうとしても、一筋道が長々と北へ續いてゐるだけで、當てもなく歩くといふ氣にはなれなかつた。右の方を見ると、山の上に何かありさうだけれど、たゞ歩いてゐても汗をもよほしさうな日に、坂道を登るのはと、お光が先づ首を振りさうであつた。
彼處あすこへ行つて見よう。』と、小池は大仰おほぎやうに決斷したふうに言つて、左の方へさツさと歩き出した。
 行手ゆくてには、こんもりとした森が見えて、銀杏いてふらしい大樹が一際ひときはすぐれて高かつた。赤くつた鳥居とりゐも見えてゐた。二人はそれを目當てに歩いた。お光は十けんあまりもおくれて、沈み勝にしてゐた。
 田圃たんぼの中の稻の穗の柔かにみのつたのを一莖ひとくき拔き取つて、まだ青いもみむと、白い汁が甘く舌の尖端さきに附いた。小池はさうやつて、三つ四つ五つのもみつぶしてから、稻の穗をくる/\と振り※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしつゝ、路傍みちばたたゝずんで、おくれたお光の近づくのを待つた。
『あゝ、しんど。……此頃はちよツとも歩きまへんよつて、ちいと歩くと、ぢつきに疲勞くたぶれますのや。』
 蝙蝠傘かうもりがさかつぐやうにして、お光は肩で息をしてゐた。薄鼠の絽縮緬ろちりめん羽織はおりは、いで手に持つてゐた。
御大家ごたいけのお孃樣……だか、奧樣だか、……阿母おつかさん……だか知らないが、お駕籠かごにでも召さないとお疲れになるんだね。』と、小池はひやゝかに笑つた。
り稻の穗を噛むのが癖だすな。……東京に居やはると、稻もおますまいがなア。……春は麥の穗を拔いて、秋は稻の穗や。きまつてる。』
 ひやゝかな小池の言葉には答へないで、お光は沈んだ調子ながらに、昔しの思ひ出をなつかしみつゝ語つた。


 別れた時は、おみつが十三の春で、小池は二十二であつた。
 今年三十三の小池が、指をかゞめて數へてみると、お光は二十四になつてゐる。
 麥畑のこみちを小池が散歩してゐると、お光があとからいて來て、小池が麥の穗を拔いてこしらへた笛を強請ねだり取り、小ひさな口に含んで吹いてみても、小池が鳴らすやうには鳴らぬので、後から/\と、小池のこしらへる麥笛を奪ひ取つたことや、秋の頃二人で田圃道たんぼみちを歩いて、小池が稻の穗の重さうにれてみのつたのを拔き取り、もみを噛んでは白い汁を吐き出すのを眞似まねして、お光も稻の穗を拔き、百姓に見付けられて怒鳴どなられたことや、いろ/\と昔の記憶を小池も思ひ出して來た。
 そんなことは、お光が十歳とをで小池が十九の時から、お光が十三で小池が二十二になつた時まで、三年の間續いてゐた。
 或る田舍町ゐなかまち藝妓屋げいしやゝをしてゐる家の小娘と、其の町へ來て新たに開業した醫者の息子むすことは、うちが隣りであつたので、ぐ親しくなつた。小學校の讀本の下讀みを小娘は醫者の息子に教はりに來た。
『あの小池ちうお醫者はんの息子が、都家みやこやのお光ちやんを可愛がるのは、ほかに目的があるんやろな。あんな尿臭しゝくさ小めろ可愛がつてもあけへんがな。』
 町のおカミさんたちは、二人の聞いてゐるところで、こんなことを言ひ/\した。
 お光と小池との最初のえんは、ういふことからつながれた。――
 縁と言へば、それが縁であらうと、小池にはしきりに十五年も前のことが考へられた。
 小學校の兒童が五人、八人づつ一塊ひとかたまりになつて歸つて來る。其のかたまりの中から可愛らしいお光を見出して家へ呼び込む。それが小池の毎日の仕事のやうになつてゐた。
 先刻さつき汽動車を下りてから間もなく、野道の十字點で見た小學兒童のむれ何處どこへ行つたかと、小池はそゞろ背後うしろを振り返らずにゐられなかつた。
 あの兒童のむれの中には、昔のお光に似たほどのものが一人も居なかつた。
 う思つて小池は、ハツと夢からめたやうに、自分に引きつて低首うなだれつゝ弱い足を運んでゐるお光の姿を見た。
 髮油のにほひ、香水の匂ひ、強い酒のやうな年増としまの匂ひが、たまらなく鼻をいた。
 其處そこに十五年の年月としつきがあつた。――


『まだなか/\暑いなア。氷が欲しくなつた。』
 丹塗にぬりの鳥居をくゞつて、大銀杏おほいてふの下に立つた時、小池はう言つて、おみつ襟足えりあしのぞき込むやうにした。
あつおまへうかいな、まだきうの八月だすもん。……八月のいらむしと言ひますのやさかいな。』
 太い/\銀杏いてふみきもたれかゝつて、ホツと息をきつゝお光は言つた。さうして、
愛宕あたごさんにも大けな銀杏いてふがおましたな、覺えてなはる。……はち[#「蜂の」は底本では「峰の」]巣を燒いてえらい騷動になりましたな。』と、またなつかしな眼をして、小池の顏に見入つた。
『覺えてるとも、こはかつたね、あの時は。……うなるかと思つた。』
 白粉おしろいに汚れた赤い襟の平常着ふだんぎ雛妓おしやくのやうな姿をしたお光を連れて、愛宕神社あたごじんしや[#ルビの「あたごじんしや」はママ]へ行つた時、内部なか空洞うつろになつてゐる大銀杏おほいてふに蜂が巣を作つてゐるのを見付けて、二人ふたり相談の上、わらに火をけて蜂の巣を燒かうとすると、火はたちま空洞うつろの枯れ果てた部分に移つて、ゴウ/\と盛んに燃え出し、村人が大勢で、火消し道具を持つたり、まとひを振り立てたりしてけ付けた時の恐怖おそろしさが、ツイ近頃のことのやうに、小池の胸にいて來た。
『黒い煙の中を蜂が子をくはへて逃げて行つたね。』と、小池はこの名も知れぬ神の宮の大銀杏おほいてふを、愛宕あたごさんの大銀杏でゝもあるやうに、見上げつゝ言つた。
『愛宕さんの銀杏、これより大けおますな。……あないに燒かれても枯れまへなんだな。……今年も仰山ぎやうさん實がなりました。……けどもな、あの穴へ手を入れると、あの時に燒けたのが消し炭になつてゐて、黒う手に附きまツせ。……あゝこの銀杏いてふめんやこと、實がなつてへん。』
 お光も小池と同じやうに、名も知れぬ神の宮の大銀杏おほいてふを見上げて言つた。ひよが二羽、銀杏の枝から杉の木に飛び移つて、汽笛きてきのやうな啼き聲を立てた。
 誰れから先きに動いたともなく、二人は銀杏いてふそばを離れて、盛り上げるやうに白砂はくさを敷いた道を神殿の方に歩いた。
 短い太皷型たいこがたの石橋を渡ると、水屋みづやがあつて、新らしい手拭に『奉納ほうなふ』の二字を黒々とにじませて書いたのが、微風びふううごいてゐた。
 ところ/″\にのぼり提燈ちやうちんを立てたらしい穴が、生々なま/\しく殘つてゐて、繩のはしのやうなものも、ちよい/\散らばつてゐるのは、祭があつてから間のないことを思はせた。
 村の男や女が着飾きかざつて、ぞろ/\この宮の境内けいだいに集まつて、佐倉宗五郎さくらそうごらうのぞきカラクリの前に立つたり、頭は犬で身體からだは蛇の物小屋ものごやに入らうか入るまいかと相談したり、食物や手遊品おもちやの店を見て※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつたりした光景を、小池は頭の中で繪のやうにひろげながら、空想は何時いつしか十五年前の現實に飛んで、愛宕あたごさんの祭のことを追懷つゐくわいしてゐた。
 愛宕さんの祭には花踊はなをどりがあつた。ある年の祭に町の若いしうだけでは踊り子が足りなくて、他所者たしよもん小池こいけまでが徴發ちようはつされて、薙刀振なぎなたふりの役をてられたことがあつた。
 白衣はくえはかま股立もゝだちを取つて、五しきたすきを掛け、白鉢卷に身を固めて、薙刀なぎなたを打ち振りつゝ、をどり露拂つゆはらひをつとめるのは、小池に取つてむづかしいわざでもなく、二三日の稽古けいこで十分であつた。
 都育ちの小池の姿が、四人一組の薙刀振なぎなたふりの中で、際立きはだつて光つてゐた。手振り身振りのあざやかさと、眼鼻立めはなだちのキリヽとして調とゝのつたのとは、町中の人々を感心さして、一種のそねみとにくしみとを起すものをすら生じた。
 町の藝妓げいこや娘たちからは、旅役者の市川鯉三郎いちかはこひざぶらうつて受けたほどの人氣が小池の一身に集まつた。
 其の祭の日に、稚兒ちごになつて出た町の小娘たちの中で、髮のひ振り、顏の作りから、着物のがら、身の※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はりのこしらへまで、すべてが都風みやこふうで、支度したくに大金をかけた町長の娘にも光を失はしたお光のうはさは、のぞきカラクリよりも、轆轤首ろくろくびものよりも、高く町中に廣まつた。
 薙刀なぎなたかゝへた白衣姿の小池と、母親が丹精たんせいこらした化粧けしやうの中に凉しい眼鼻を浮べて、紅い唇をつぼめたお光とが、連れ立つて歸つて行くのを、町の人は取り卷くやうにして眼をそゝいだ。
東男あづまをとこ京女きやうをなごやなア。』なぞといふさゝやきが、人々のむれから漏れた。
 まだけがれを知らぬ清淨しやうじやう少女をとめり出して、稚兒ちごに立てねばならなかつた。それをおみつは十二やそこらで、や月々の不淨ふじやうを見るさうなと言ひ出したものがあつて、さう言へばさうらしいなア、なぞと合槌あひづちを打つものも現はれ、けがれた娘を神前に出したたゝりは恐ろしい、しや神樣のいかりに觸れるやうなことがあつたら、都家みやこやとは町内の交際つきあひを絶つといふことにまでなつたけれど、幸ひに秋から冬にかけて惡い病も流行はやらず、近在きんざいみな豐作ほうさくで町もうるほふたから、神樣の方はそれなりに濟んで、たゞお光の早熟さうじゆくといふことを町の人々はうはさし合つた。
 こんなことのあつた昔を思ひ出してから、小池こいけは、自分に離れてひと水屋みづやで手を洗つてゐるおみつに聲をかけて、
愛宕あたごさんの祭は何日いつだつたかね。』と問ふてみた。
『來月の六日むいかだすがな。』と、おみつ先刻さつきから昔の祭の日の記憶を辿たどつて、さま/″\の追懷つゐくわいふけつてゐたらしく思はれた。
『今年は花踊をするとか、せえへんとか言ふて、町内がめてゐますのや。……』
 先刻さつきからいでゐた絽縮緬ろちりめんの羽織をまた着て、紺地こんぢ茜色あかねいろ大名縞だいみやうじまのおめし單衣ひとへと、白の勝つた鹽瀬しほぜの丸帶と、友染いうぜんの絽縮緬の長襦袢ながじゆばんとに、配合のい色彩を見せつゝ、其のスラリとしたで肩の姿を、田子たごの浦へ羽衣はごろもを着て舞ひ下りた天人が四邊あたりを明るくした如く、この名も知れぬびしい神の森を輝かすやうに、孔雀くじやくの如き歩みを小池に近く運びながら、お光はまたう言つた。
『君はもうお稚兒ちごに出られないだらうな。』と、小池は笑つた。
『十三の年から、もう一遍も出えしまへんがな。……あんたに別れてから一遍も出えしまへんのや。……十二の時、あんたと一所いつしよに祭に出ましたな、あれが出納でをさめだしたんや。』
 あの頃がなつかしくてたまらぬと言つた風に、お光は膚理きめこまかい顏に筋肉ををどらせつゝ、小池に寄り添うた。
けがれてる/\、ツてあの時んながさう言つたのは、眞個ほんとうだつたのかい。』
 小池が突然棄鉢すてばちのやうな調子でう言ふと、お光はべにいた如く、さつと顏をあかくした。


 やがて二人ふたりは、並んで拜殿はいでんの前まで行つて、狐格子きつねがうしの間から内部をのぞいた。
 海老錠えびぢやうのおりた本殿ほんでんの扉が向ふの方に見えて、薄暗い中から八寸ぐらゐの鏡が外面そとの光線を反射してゐた。扉の金具かなぐも黄色く光つて、其の前の八足やつあしには瓶子へいしが二つ靜かにつてゐた。
 拜殿の欄間らんまには、土佐風とさふうゑがいた三十六歌仙かせんが行儀よくつらねられ、板敷の眞中まんなかには圓座ゑんざが一つ、古びたまゝに損じては居なかつた。深閑しんかんとして、生物いきものといへばありぴき見出せないやうなところにも、何處どことなく祭の名殘なごりとゞめて、人のたゞようてゐるやうであつた。
愛宕あたごさんのはうがよろしいな。第一大けおますわ。』と、お光は横の方にみすのかゝつたつぼねとでも呼びさうなところを見詰めてゐた。
『こんなもの、見てゐても仕樣しやうがない。』と、小池は砂だらけの階段を下りて、ひさしの下にかゝげてある繪馬ゑまたぐひを一つ/\見ながら、うしろの方へ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はらうとした。
『不信心な人。……此處こゝまで來て拜みやはりやへんね。』
 うるほひのある眼で小池の後姿うしろすがたを見詰めつゝ、お光はう言つて、帶の間から赤い裏のチラ/\と陽炎かげろふのやうに見える小ひさな紙入れを取り出し、白く光るのを一つ紙に包んで、賽錢箱さいせんばこに投げ込み、石入いしいりの指輪の輝く華奢きやしやな兩手を合はして暫く祈念きねんした。
う言つて拜んだの、……神樣に何を頼んだんだい。……何かむづかしいことを持ち込んだのかい。……う言つて拜んだのか、モ一度大きな聲でやつて御覽ごらん。……』
 微笑ほゝゑみつゝ小池は、そばに寄つて來たお光に、遠くから見ればキツスでもしてゐるかと思はれるほど、顏を突き附けて言つた。
『さア、う言ふて拜みましたやろ、當てゝ見なはれ。』
 心持ち顏をあかくして、お光はニタ/\笑ひながら、小池のしたやうにして、繪馬ゑまたぐひを見て※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつた。
 諏訪法性すはほつしやうかぶとかぶつた、信玄しんげん猩々しやう/″\の如き頭へ斬り付けようとしてゐる謙信けんしんの眼は、皿のやうに眞んまるく、振り上げた刀は馬よりも長くて、信玄の持つてゐる軍配ぐんばいは細く弱さうで、天下泰平と書いてある――のが、一番大きな繪馬で、其の他には、櫻の咲いた下で短册たんざくに字を書かうとしてゐる鎧武者よろひむしやの繪や、素裸すはだかの人間が井戸の水を浴びてゐる上へ、きんへいが雲に乘つて下りて來る繪や、また今樣いまやう無恰好ぶかつかうな軍帽をかぶつた兵隊が、軍旗を立てゝ煙の中をひ出してゐる繪や、本式に白馬を一頭だけゑがいたのや、さま/″\の繪馬の古いの新らしいのが、塵埃ほこりよごれたり、雀の糞をかけられたりして並んでゐた。
 それらの繪馬ゑままじつて、女の長い黒髮の根元から切つたらしいのが、まだ油のつやも拔けずに、うやうやしく白紙はくしに卷かれて折敷をしきに載せられ、折敷のはしに『大願成就だいぐわんじやうじゆとらとしの女』と書いて、髮と折敷との離れぬやうに赤い糸でしかと結び付けてブラ下げてあるのを、おみつは一心に見入つてゐた。
とらとしの女、……お前も寅の歳だつたぢやないか。』
 小池も不圖ふと其の女の黒髮を見付けて、こんなことを言つてみた。
『知りまへんがな。……そんなこと。』
 怒つたやうに言つて、お光はやな/\顏をした。
『こんなことをして、これなんになるんだらう。』と、小池は細卷きの袋入りの蝙蝠傘かうもりがさ尖端さきで、其の女の黒髮を突ツついた。
『そんなこと、しなはんな。相變らずヤンチヤはんやなア。……さア行きまへう。』
 最後の一べつを女の黒髮に注いでお光は、さツさと社殿のうしろの方へ行つた。
 もう二月ふたつきもすればあかく染まりさうなかへでの樹や、春になれば見事な花を持ちさうな椿つばきの木や、そんなものが、河原のやうに小石を敷いた神苑しんゑんともいふべき場所に、行儀よく植ゑてあつた。
『前は鳥居や門や扉で、幾重いくへにもなつてますのに、後は板一枚だすな。……わたへ何處どこの宮はんへ參つても、さう思ひまんな。』
 本殿の眞後まうしろ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつた時、なゝめ破風はふの方をあふぎながら、お光はこんなことを言つた。
『さうだ、神樣に頼みたいことがあつたら、前から拜むより、うしろからさう言つた方がよく聞えるぜ、お賽錢さいせん此處こゝからの方がくよ。』
 腰板のところ/″\にある樂書らくがきを讀んでゐた小池は、う言つて笑つた。
 太い杉の樹をたふして、美しく皮をいたのがあつたので、二人は其の上に並んで腰をかけた。


『一生のうちに、こんなところへ來ることがあるとは思はなかつたね。』
わたへかて、さうやわ。……こんなとこ、用も何もあれへんよつて、……』
 もと來た野道を停車場ステーシヨンの方へ歩きながら、小池こいけとおみつとはこんなことを言ひ合つてゐた。
何處どこへ行きますのや。こんなとこばつかり歩いてたて、仕樣があれへん。』
『君の行くとこへ、何處どこへでもいて行かアね。……何處どこへでも連れてつてお呉れ。』
あんたの行きなはるところへなら、何處どこでもいて行きまんがな。わたへかて、……』
 果てしもないことを、互ひに言ひ續けつゝ、二人ふたりの足は自然に停車場ステーシヨンの方へ向つた。停車場ステーシヨンでは先刻さつきのが引き返へして來たのか、汽動車きどうしやはまた毒々しく黒い煙をげて、今にも動き出しさうであつた。
 手織縞ておりじま單衣ひとへ綿繻珍めんしゆちんの帶を締めて、馬鹿に根の高い丸髷まるまげに赤い手絡てがらをかけた人が、友染いうぜんモスリンの蹴出けだしの間から、太く黒い足を見せつゝ、うしろから二人を追ひ拔いて、停車場ステーシヨンけ込んだ。
私等わたへらもまたあれに乘りますのかいな。』
 停車場ステーシヨンに駈け込んだ人の後姿うしろすがたを笑ひながら見やつて、お光はう言つた。
『いや、あれやだ。日が暮れるまで待つても汽車に乘らう。』と、小池は横の方の茶店へ入つて行つた。
 店の間一杯に縫ひかけの五布蒲團いつのぶとんを擴げて、一心に綿を入れてゐた茶店の若い女房にようばうは、二人の入つて來たのを見ると、雪のやうにひざあたりへ附いた綿屑わたくづを拂ひてながら、愛相あいさうの好い顏をして出迎へた。
うぞ此方こつちへお上りやはつとくれやす。』と、土間どま床几しやうぎに腰をかけてゐる二人をひて、奧まつた一室に案内した。
『汽車にお乘りやすのやごわへんか。……この次ぎはキツチリ四時に出ますよつて、まだ一時間ござります。……こんな見るもんもない在所ざいしよへお越しやしとくれやして、……ほんまに仕樣しやうのないとこで、……』
 さへづるやうに言つて女房は、茶や菓子を運んで來た。狸が腹皷はらづつみを打つてゐる其の腹のところに灰を入れた煙草盆代たばこぼんがはりの火鉢は、前から其處そこにあつた。
『火がござりましたか知らん。』と、女房は一寸ちよつと狸の腹をでて言つた。
『君もうちに居るとあんなことをしてるんだらう。』
 帶のせまい女房の後姿うしろすがたを見送つて、小池はニヤ/\笑ひつゝ言つた。
『もう店はしてえしまへんがな。どもしも二人居るだけで、阿母おかアはんと四人よつたりだす。……お茶屋はんから口がかゝるとどもを送るだけで、家へはお客を上げえしまへん。』
 おみつも笑つて、氣味の惡いほど、まじ/\と小池の顏に見入つてゐた。
『暑いなア。』と小池はインバネスをいだついでに、竪絽たてろ濃鼠こいねずみ薄羽織うすばおりをもてると、お光は立つてインバネスを柱の折釘をれくぎにかけ、羽織は袖疊そでだたみにして床の間にせた。
『女ばかり四人ぢやア物騷ぶつさうだね。……君のおむこさんはうしたんだね。……』
『そんなもん、あれしまへん。……』
『初めツから。……』
 顏を眞赤にしてお光は、わざとらしく俯伏うつぶいてゐたが、其處そこへ女房がなしを五つばかり盆に載せ、ナイフをへて持つて來たので、顏を上げてそれを受け取ると、器用きような手付きで梨の皮をいて、つゆしたゝりさうな眞白の實を花の形に切り、ナイフの尖端さきに刺して小池の前に差し出した。
『君の方ぢや、梨をさういふふうにして客に出すことが流行はやるのかね。』と、小池こいけは其の梨の一片ひときれつまんで言つた。
『別に流行はやつてもゐえしまへんけど、藝妓げいこはんがこんなことをして出しやはると、お客さんが口で受けたりしてはりまんがな。』
 一番小ひさな一片ひときれを自分の口へ入れ、ハンケチで手を拭きつゝ、お光は言つた。
『ほんとに、君はまだお聟さんを貰はなかつたのかい。……一人娘だから、うせ貰はなけりやならないだらう。』
 小池はう言つて、娘と呼ぶには不似合ふにあひなお光の風情ふぜいを見てゐた。
『そんなこと、うでもよろしおますがな。……それより、あんたはん奧さんおまツしやろ、お子さんも。……』
 にはかきつとした調子になつたお光の聲は、今までと違つた人の口から出たものゝやうであつた。
『そんなものありやしない。僕のうちは男ばかり四人暮しだ。』
うそばツかり、……知つてまツせ。』
 小池もお光も、互ひに眞顏まがほになつて、口先きだけで笑ひ合つてゐた。
うして君は、今日僕を見付けたんだね。……よく分つたもんだ。』
 昨日きのふの朝東京を立つて、晩は京都へ着き、祇園ぎをんの宿に一泊して、今日の正午過ひるすぎには、大阪の停車場ステーシヨンの薄暗い待合室で、手荷物を一あづけにしやうとしてゐるところを、突然いきなり背後うしろから、束髮そくはつひ振りなり、着物の着こなしなり、一寸ちよつと見ると東京の人かと思はれるほどの、スラリとした女に、上方言葉かみがたことばで聲をかけられたことが、もう遠い昔のことでゝもあるやうに、小池には思ひ浮べられた。
『そら分りまんがな、ぢつきに。……カザがしますよつて、えカザや。……んぼ隱れなはつても、あきまへんで。』
 斯う言ひながら、また梨をき初めたお光の右の中指の先きが、白紙はくしはへてあるのを、小池は初めて氣がついたふうで見てゐた。
『あの時は、ほんとに喫驚びつくりしたよ。東京の何家どつかの女將おかみにしては野暮臭やぼくさくもあるし、第一言葉が違ふし、それにフイと下駄を見ると、ヒドいやつ穿いてるんだもの。東京の人はあんな下駄は穿かないね。』
惡口屋わるくちやはんやこと、相變らず。……そらあきまへんとも、わたへなぞ。東京のおかたはんは皆別嬪べつぴんで、贅澤ぜいたくだすよつてな。』
『お前のうちは昔から阿母おつかさんが東京好きで、長火鉢まで東京風のふちせまい奴を態々わざ/\取り寄せて、褞袍どてらなんか着込んで其の前へ新橋邊しんばしへん女將おかみさんみたいにして坐つてゐたが、娘も矢張やつぱり東京風に作るんだね……近くに大阪があるのに、それを飛び越して、遠い東京の眞似まねをするのは隨分ずゐぶん骨が折れるだらう。』
 つく/″\と小池は、田舍ゐなかの小ひさな町に住みながら東京風の生活にあこがれて、無駄な物入りに苦んでゐるらしい母子おやこ樣子やうすを考へた。東京の人と言へば、たふといものに見える田舍町の人の眼をもおもふた。
『だからね、あの下駄を改良かいりやうして、其の頭髮あたまを少し直せば、一寸ちよつと誤魔化ごまくわせるよ、……君は。……見る人が見れば直ぐ分るだらうが、僕なんぞにはね。』
『人のことを、そないに見るのはや。』と、お光は自身の身形みなりを見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はしてゐる小池の視線をまぶしさうにして、身體からだすくめた。
あんたやちうことが、なんで分つたと思てなはる。先刻さつき大阪で。……あの荷物の名札なふだを見ましたんやがな。……入つて來なはつた時から、さうやないかと思ひましたんやけど、大分だいぶん變りなはつたよつてな。……しやとおもて、名札を見ましたのや。……名札が裏返へつてたのを、そばへ寄つて知らん間にひつくり返へしてやつた。……』
 皮をかれた梨は、前のやうに花の形に切られたまゝ置かれてあつた。お光の眼にはなつかしさうなうるほひがまただん/\加はつて來た。
油斷ゆだんのならん女だね。……ほんとに君はまだおむこさんを貰はないのかね。』
『またや。』と、お光は笑ひ出した。
『切符を買うて參じまへうか。』
 茶店の女房は、にこ/\として出て來た。


『こんなとこへ、もう一生來ることあれへん。折角せつかく來たんやよつて、まア東光院とうくわうゐんへでも寄つて行きまへう。』と、おみつは、銀貨を取り出して、東光院へ行く停車場ステーシヨンまでの切符を女房に買はせた。やゝしばらくしてから、
『まアそないにおつしやらんと、こんなとこへでも、これを御縁ごえんにまたお越しなはつとくれやす。』と、女房にようばうは口元にゑくぼこしらへて、青い切符と釣錢の銅貨とを持つて來た。
『四時だツたね、汽車は。』と、小池こいけ懷中時計くわいちうどけいを見い/\歩くあとから、お光が小股走こまたばしりに停車場ステーシヨンの方へいて行くのを、女房は西日にしびを受けつゝ店頭みせさきに立つて、まぶしさうにぼんやりと見送つてゐた。
 汽車のうちたゞ二人ふたりだけであつた。萌黄もえぎのやうな色合いろあひ唐草模樣からくさもやうり出したシートのさまが、東京で乘る汽車のと同じであつたのは、小池に東京の家を思はせるたねになつた。
 若いつまや、幼い子供を連れて、箱根や日光へ行つた時の光景さまが描き出された。土産みやげたのしみにしながら留守るすをしてゐるものゝことが、しきりに考へられた。二年も居る下女の顏までが眼の前に浮び出た。
 今日きますと、京都から葉書を出して置いた大阪の叔母をばのことも思はずにはゐられなかつた。煙草たばこの好きな叔母が煙管きせるを離さずに、雇人やとひにん指揮さしづしていそがしい店を切盛きりもりしてゐるさまも見えるやうで、其の忙がしい中で、をひの好きな蒲鉾かまぼこなぞを取り寄せてゐることも想像されないではなかつた。
 う考へてゐると、横に寄り添つて腰をかけてゐるお光の身體からだが、蛇のやうにも思はれて來た。蛇の温か味が、お光の右のひざから自分の左の膝へ傳はつて來るといふ氣がした。
 執念深しふねんぶかまつはる蛇からのがれて、大阪に待つてゐる叔母の前に坐りたいと思はれて來た。早く東京の家へのがれ込んで、蛇から受けた毒氣を洗ひ落したいとまで思はれて來た。
『あゝ、此處こゝが東光院へ行く道やないのかなア。』
 窓の外を振り向いて、お光は獨言ひとりごとを言つた。驛名を書いた立札たてふだの雨風にさらされて黒く汚れたのが、雜草の生えた野天のてんのプラツトフオームに立つてゐる眞似事まねごとのやうな停車場ステーシヨンを、汽車は一せい汽笛きてきとゝもに過ぎ去つた。來る時に見た東光院のいらかや白壁は、山の半腹に微笑ほゝゑむが如く、汽車の動くとゝもに動いてゐるやうであつた。
『さうだ。此處こゝで下りるんだよ。……けども來る時に此處こゝで停つたかね。』と、小池は考へ込むふうをした。
 次ぎの停車場ステーシヨンまではやゝ遠かつた。其處そこに着くのを待ちねて、小池はお光とゝもに、小砂利こじやりを敷き詰めた長いプラツトフオームへ下りると、ざく/\と小砂利を踏みつゝ車掌しやしやうに近附いて、
『切符を賣つといて停車しないのは不都合ふつがふぢやないか。通過驛なら通過驛だと乘る時にさう言つて呉れないぢや困る。』と、二枚の切符を車掌の鼻先きへ突き出した。車掌はチラと切符の表を見たゞけで小腰こゞしかゞめつゝ、
『通過驛といふこともございませんが、あそこ停留場ていりうばでございまして、知らせがないととまりませんので、……』と、氣の毒さうに言つた。
『さうならさうと、乘る時に言つて呉れゝばいゝぢやないか。』と小池も言葉を柔かにした。
『誠に濟まんことを致しました。んなら次ぎのくだりでおへし下さりましたら。』と、車掌は無恰好ぶかつかうみ手をした。
 下りを待つとなると、また一時間もかゝつた上に、それが汽動車でゝもあつたらやなことだと、小池は切符を車掌に渡し、プラツトフオームから、線路を越えて、其處そこに見える街道の方へ歩いた。
何處どこへ行きますのやなア。』と、お光は黒い油のみ込んだ枕木まくらぎの上を氣味わるさうに踏みつゝ、うしろから聲をかけた。
『さア何處どこへ行くんだらうな。』と、小池はもう砂埃すなぼこりの立つ街道へ出てゐた。
 二人ふたりは暫らく無言のまゝ、當てもない街道を歩いた。
 其處そこ一寸ちよつとした町になつてゐて、荒物屋や呉服屋のやうなものも見えた。一膳飯屋いちぜんめしやと下駄屋とが並んでゐて、其の前にはからの荷車や汚い人力車がてゝあつた。赤い色で障子しやうじに大きく蝋燭らふそくの形をゑがいた家が、其の先の方にあつた。
 行き違ふのは多く車であつた。首に珠數じゆずけた百姓らしい中年の男女が、合乘車あひのりぐるまの上に莞爾にこ/\しつゝ、菊石あばた車夫しやふに、重さうにして曳かれて來るのにも逢つた。おびたゞしい庭石や石燈籠いしどうろうるゐを積んだ大きな荷車を、たくましい雄牛に曳かして來るのにも逢つた。牛の口からは、だら/\とよだれが流れてゐた。
 三丁ほど行くと、町は盡きた。水の汚い小川にかゝつた土橋どばしの上に立つて、小池が來た方を振り返へると、お光の姿が見えなくなつてゐたので、後戻あともどりして探さうとすると、お光は町はづれの小間物屋こまものやに荒物屋を兼ねたやうな店から、何か買物をしたふうあたふたと出て來て、うるほひのある眼のふちしわを寄せつゝ、ニツと笑つた。
『何を買つて來たの。』と、小池はお光の手に氣をつけて、何を持つて來たかを見やうとした。
『何買うたかて、よろしいがな。』
 お光の手には蝙蝠傘かうもりがさ手提てさげの千代田袋とがあるばかりで、買つたものは千代田袋の中にでも入つてゐるらしかつた。
んだらう、……何を買つて來たんだらう。隱すから餘計よけい見たいやうな氣がするな。……ほんとに何を買つて來たの。』
 千代田袋の中を透視とうしでもしやうとする風にして、小池は言つた。
『別に隱してやしまへんけど、男が、そんなことくもんやおまへん。』
 たゞ笑つてゐるだけで、お光は千代田袋を輕く振つてゐた。
『さア行かう。』と、小池はお光の買つた物を知らうとするのをあきらめて、さつさと歩き出した。灰のやうな土埃つちぼこりが煙の如く足元から立つた。
『行かうて、何處どこへ行きますのや。』
 今にも跛足びつこを曳きさうな足取りをしながら、お光は言つた。
何處どこへ行つていゝか、ぼくにだつて分りやしないぢやないか。』と言ひ棄てゝ、小池は小川に沿ふた道をズン/\歩いた。
一寸ちよつと待つとくなはれな……うしますよつて。』
 あはな聲を出して、やゝもすればおくれてしまひさうなお光は、高く着物を端折はしをり、絽縮緬ろちりめん長襦袢ながじゆばん派手はで友染模樣いうぜんもやうあざやかに現はして、小池に負けぬやうに、土埃つちぼこりを蹴立てつゝ歩き出した。
 沈み勝の、物悲しさうな、人懷かしさうな、痛々いた/\さまをして、男のすること、言ふことには、何一つそむくまいとするらしいのが、小池にはいぢらしく、いとしく見えて來て、汽車のうちで考へたやうな蛇にまつはられてゐるといふ氣は消えせ、金絲雀かなりやでもてのひらの上に載せて來たといふ心になつた。
 それで足の速度をゆるめて、おみつの歩き易いやうにしてやりながら、手でも引いてやりたいといふ氣がして來た。
 おかる勘平かんぺい道行みちゆきといつたやうな、芝居の所作事しよさごとと、それにともなふ輕く細く美しい音樂とが、しきりに思ひ出されて來た。
 みのつた四邊あたり一面の稻田いなだが菜の花の畑であつたならば、さうして、この路傍みちばたの柳にまじつて櫻の花が眞盛まさかりであつたならばと、小池は芝居のりのあざやかな景色を考へ出してゐた。
 鷺坂伴内さぎさかばんないのやうな追手おつてが、だん/\近づいて來はせぬかといふことなぞも思はれて來た。


『おい人車くるまに乘れば好かつたね。』と小池は、路傍みちばたの柔かい草の上を低い駒下駄こまげたに踏んで歩きつゝ土埃つちぼこりの立つことをふせいでゐるお光の背後うしろから聲をかけた。
『車、あれしまへなんだがな。たツた一つおましたけど、あんなん汚なうて乘れやへん。』
 かつぐやうにした蝙蝠傘かうもりがさ西日にしびが當つて、お光の顏は赤く火照ほてつて見えた。
停車場ステーシヨンにはきつ人車くるまがあつたんだよ。表口から出なかつたもんだから、分らなかつたけどね。』
人車くるまがあつても、乘つて行くとこが分れへんのに、仕樣しやうがおまへんがな。』
車夫しやふけば何處どこか行くとこがあつたらう。』
 こんなことを言ひ/\、二人は東の方へ山のすそに向つて歩いた。野道に入つてからは、車に行き逢ふことはなくて、村役場の吏員りゐんらしい男や貧乏徳利びんばふどくりげて酒を買ひに行くらしい女や、草刈童くさかりわらべや、そんなものに時々逢つた。逢ふほどの男女は、みな胡散臭うさんくさい眼をして二人を見た。
 東の山續きの左の方の、山懷やまふところのやうになつたところに、先刻さつき汽車から見えてゐた東光院らしいものが現はれて來た。
『あれが東光院だらう。折角せつかく行かうと思つたんだから、彼處あすこへ行つて見やう。』
 前途の希望に光が見えたといふふうで、小池は力附いて言つた。
『かう※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつて行きますのやろ、……ツぽど遠さうだすな。』と、お光はぐんにやりした。
 自然にまた小池の足が速くなつて、お光は半丁ほどもおくれた。小池は嫁菜よめなの花が雜草の中に咲いてゐる路傍みちばたに立つて、素直すなほに弱い足を運んで來るお光の追ひ付くのを待つてゐた。細卷きの蝙蝠傘かうもりがさ尖端さきで、白く孱弱かよわい嫁菜の花をちよい/\つゝついてゐた。
 おみつはと振り返へると、横のこみちからくはかついで來た百姓に小腰をかゞめつゝ、物をいてゐたが、やがて嬉しさうな顏をして小走りに小池に追ひ付き、
『十八丁だすて、東光院まで。……この道をぐに行きますと、駐在所ちうざいしよがあつて、其處そこから北へ曲るんやさうだす。』と元氣よく言つた。
 小川に沿ふた眞ツ直ぐな道は、なか/\長かつた。川はだん/\狹く汚なくなつて、も生えぬ泥溝どろみぞのやうになつた頃、生活のゆたかならしい農村の入口に差しかゝつて、其の突き當りに駐在所もありさうであつた。
 何か知ら惡事でも働いてゐるやうな氣がして、小池は赤い軒燈けんとう硝子がらすの西日にまぶしく輝いてゐる巡査駐在所の前を通るのに氣がとがめた。
 黒いこけの生えた石地藏に並んで、『左とうくわうゐん』とつてある字のわづかに讀まるゝ立石たていしの前を、北へ曲つてくと、二戸前ふたとまへ三戸前みとまへの白い土藏や太い材木を使つた納屋なやつた豪農がうのうらしい構への家が二三軒もあつた。道に沿ふて高い石垣をきづき、其の上へ城のやうに白壁の塀を※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)めぐらした家もあつた。邸風やしきふう忍返しのびがへしが棘々とげ/\長屋門ながやもんの横に突き出てゐた。
『この村は金持の村だね。』
 う言つて小池は、自分の住む東京の郊外の村の、せて荒れて艷氣つやけのないのとは違つて、この村のふツくりと暖かさうで、野にも家にも活々いき/\とした光のちてゐるのを思つた。さうして自分の家のことが、また少しづつ考へ出されて來た。
『良いやうでも百姓はあきまへん。うちでも田地でんぢを少しつてますが、税が高うて引合はんよつて、賣つてしまはうか言ふてますのやがな。』と、お光の物の言ひ振りが今までとは變つて、如何いかにも世帶染しよたいじみた、商賣の懸合かけあひでもするやうなふうであつたので、小池はこの時初めて女將ぢよしやうとしてのお光を見たと思つた。
 この村を通り過ぎると、次の村まではまた暫くの間人家じんかが無かつた。次の村の入口には、こはれた硝子戸がらすどを白紙でつくろつた床屋とこやがあつた。其の村は前の村よりも貧しさうであつた。
 東光院の長い石段の登り口は、其の村の中程にあつた。日はやうやく西の山に沈んで、雲が眞赤にまつてゐた。
『あゝア、やうやう來ましたな。……まア綺麗きれいやこと。』と、お光は石段をせなにして立ちつくしつゝ、西の空を眺めた。


 音に聞いてゐた東光院とうくわうゐん境内けいだいは、遠路とほみちを歩いて疲れた上に、また長い石段を登つてまで見にくほどの場所でもなかつた。本堂のほかに三つばかり小ひさな堂やお宮のやうなものがあるのを、二人は大儀たいぎさうにしながら一々見て※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はつた。お光は本堂で一寸ちよつと頭を下げてをがんだゝけで、他の堂は小池のするやうにして素通りした。
 庫裡くりの方では、何か事があるらしく、納所坊主なつしよばうずや寺男なぞが忙しさうにして働いてゐるのを、横目に見つゝ、二人は石段のくちに立つた。
 眞赤であつた西の空は、だん/\と桃色に薄れて、それがまた鶸色ひわいろに變つて行くまで、二人は眺め入つてゐた。はるか向ふに薄墨色をしてゐるやまから、夕靄ゆふもやが立ちめて、近くの森や野までが、追々薄絹に包まれて行くやうになつた。がうと響く遠音とほねとゝもに、汽車が北から南へ走るのが、薄絹をいて手遊品おもちやの如く見えた。其の煙突からは煙とゝもに赤く火をき出した。やみやぢり/\と石段を登つて來さうであつた。
うちでは何處どこへいたのや知らんとおもてよるやろ。』
 二人並んで石段を半分ほどりかけた時、お光は心細氣こゝろぼそげな顏をしてう言つた。
『家が戀しくなつたんだな。……これからぐ歸へれば、夜半よなかまでには着くよ。……阿母おつかさんの顏も見られるし。おむこさんの顏もね。……』と、小池はまた立ち止つて、海のやうに擴がつた夕暗ゆふやみの中をぼんやり見詰めた。
『またあんなこと言やはる。……お聟さんなんぞ、あれしまへんちうてるのに。……あんたこそ、奧さんが戀しおますのやろ。先刻さつきにから里心さとごころばツかり起して、考へてやはるのやもんな。……』
 う言ひ/\、お光はひとりで石段を下りて行つた。
『ほんとにお聟さんはないの。……ほんとのことを言つて御覽。』と、小池もあとからいて石段を下りた。
『まだあんなこと言ふてはる。……ほんまにあれしまへんがな。』と、お光は聲に力をめて言つたが、
『そら、あつたこともあるか知りまへんが、今はあれしまへん。うそと思ふんなら、うちへ來て見なはれな、阿母おかあはんと、ども二人と四人家内よつたりがないだすがな。』と、これだけはさゝやくやうに低く言つた。
まる女護によごの島だね。僕も是非一度行きたいな。』と、小池はもうお光の言葉を疑ふことは出來なかつた。
一遍いつぺん來とくれやす。きつとだツせ。……明日あした……明後日あさつて……そら阿母おかあはんが喜びはりまツせ。時々なア、あんたのうはさをして、うしてはるやろな、おとツつアんのお墓もあるのやよつて、一遍來なはるとえゝないふて、失禮やがわしは自分の子のやうに思はれるいふてはりますのや。』
 少しばかり家のことを思ひ出しかけてゐたお光は、もう何もかも忘れた風で、ひたと小池に寄り添ひつゝ石段を下りた。


 石段を下り切つたぐ前に、眞ツ黒な古ぼけた家が、やみの中から影の如く見えてゐた。内部なかのラムプの光で黄色く浮き出した腰高こしだか障子しやうじには、『御支度所おしたくじよ大和屋やまとや』といふ文字もんじぼうとして讀まれた。
 小池が其の障子を開けて入ると、お光も默つてあとから入つた。割合ひに廣い土間には、駒下駄が二三足そろへてあつて、※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)にものにほひがプンと鼻をいた。奧の方からは三味線さみせんが響いて來た。
『えらう遲い御參詣ごさんけいだすな。さアお上りやす。』と、すみの方の暗いところから、五十恰好かつかうふとつた女將おかみらしい女が、ヨチ/\しながら出て來て、かすれた聲で言つた。
『おでやす。えらい遲うおますなア。』と、奧からも女が出て來て、二人を導いた。思ひの外にふところの深い家で、長い廊下を過ぎて通されたのは、三味線ののする直ぐ隣りの八疊であつた。
かしわに致しまへうか。……御酒ごしゆは。』と、煙草盆たばこぼんを運んで來た女が問ふたので、鷄肉けいにくとサイダーとを命じて、小池は疲れ切つた風でインバネスのまゝゴロリと横になつた。お光は立つて、小池の背後うしろからしわくちやになつたインバネスをがし、自分のひと羽織ばおり一所いつしよに黒塗りの衣桁いかうへ掛けた。
 隣り座敷では三味線さみせんがいよ/\はげしくなつて、濁聲だみごゑうたふ男の聲も聞えた。唄ひ終ると、男も女もどつと一時に笑ひはやすのが、何かのくづれ落ちるやうな勢ひであつた。
『こんなとこで散財さんざいしてはる。』とお光は低く笑つた。
 間もなく普通の話し聲になつたと思ふと、三味線の音もんで、隣り座敷の客はドヤ/\と座を立つたらしかつた。廊下を歩く足音がバタ/\ときこえ、やがて、杯盤はいばんを取り片付け、はうきで掃いてゐる氣色けはひがした。
此方こつちへお出でなはツとくれやす。』と女は、むつかしい字の書いてある唐紙からかみを開けて、二人ふたりを次ぎの十疊へいざなふた。この家の一番奧の上等座敷らしく、眞中まんなか紫檀したん食卓ちやぶだいゑ、其の上へ茶道具と菓子とをせてある物靜かさは、今まで村の若いしゆが底拔け騷ぎをしてゐたへやとも思はれなかつた。
 座敷の三ぱう硝子障子がらすしやうじで、廊下がグルリと※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)はりえんのやうになつてゐた。障子の外へ出て見ると、中二階風ちうにかいふうに高く作られて、直ぐ下が稻田であると分つた。星明りにも見晴らしのいことが知られた。これで川があつたらばと小池は思つた。
 三味線さみせんいてゐた女であらう、二十歳はたちぐらゐの首筋に白粉おしろいの殘つたのが、皿に入れた鷄肉けいにくねぎ鋤燒鍋すきやきなべなぞを、長方形の脇取盆わきとりぼんに載せて持つて來た。薄赤い肉を美しく並べた皿の眞中には、まだからの出來ぬ眞んまるく赤い卵が寶玉のやうに光つてゐた。
『えらい遲い御參詣ごさんけいだしたな。』と、女は鍋を焜爐こんろにかけて、手際てぎはよく※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)にはじめた。
ねえさん此家こゝは景色がいね。』と、小池はお光のいだサイダーを冷たさうにして飮んだ。
『へえ、お蔭さんで、月見の晩やなぞは、大阪から態々わざ/\來て呉れはるお客さんもござります。』
 女はサイダーの瓶を取り上げて、『御免ごめんやす』と、お光にいだが、鍋のグツ/\と※(「睹のつくり/火」、第3水準1-87-52)上つたのを見ると、
『奧さん、うぞお願ひ致します。』と、あとをお光にまかして座敷を退すべり出た。
『奧さんや言やはる。』
 お光は女の足音の廊下に遠くなつた頃、低い聲でう言つて、首をちゞめた。
 足音がまた廊下に響いて、女が飯櫃めしびつを持つて來た頃は、小池もお光も、むさぼつた肉と野菜とに空腹を滿みたして、ぐんにやりとしてゐた。

一〇


『もう歩くのはやだね。……此家こゝとまつて行かうか。』
 小池は欠伸交あくびまじりに早口で言つて、お光の顏を見た。
『これから大阪までいても、何處どこぞへ泊らんなりまへんよつてな。……大阪からうちへはさみしいよつて、わたへもうようにまへんがな。』
 おみつわざとらしい欠伸あくびをして、同じやうに早口で言つた。
 く鳴らぬ手を小池が五つばかり續けて、ペチヤ/\とやると、遠くで返辭へんじが聞えて、白粉おしろいの殘つた女が出て來た。
『このうちとまれるかね。疲れちまつて、暗いところを歩くのもいやだから、今夜泊つて、明日あしたの一番で歸へらうと思ふんだが、うだらうね。』と、小池は言ひにくさうにして言つた。
『さうだツか、お泊りやすか。……其の方がゆつくりしてよろしおますな。……なア奧さん。』
 女はお光を見て、微笑びせうらしつゝ、立つて行つたが、やがて荒い格子縞かうしゞま浴衣ゆかたを二組持つて來て、
裾湯すそゆになつてますが、おとまりやすのなら、お風呂お召しやへえな。』とひざまづいた。
 赤い裏の紙入れを取り出して、お光は、女とうちとへそれ/″\心付こゝろづけをやりなぞした。
 二人とも浴衣ゆかた着更きかへ、前後してけむくさい風呂へ入つた。小池は浴衣の上から帶の代りに、お光の伊達卷だてまきをグル/\卷いてゐた。
明日あした、君のうちへ行かうか。』
 手枕をして横に足を伸ばしつゝ、紙卷煙草を吹かしてゐた小池は、自分の頭のぐ前で、お光が臺ラムプの光に懷中鏡くわいちうかゞみかして、湯あがりの薄化粧を始めたのを見やりながら言つた。
んぼんでも、不意に二人でいんだら、うち喫驚びつくりしますがな。』と、お光は自家うちへ小池を伴なつて歸るのをしぶる樣子であつた。
『今晩、東光院さんで淨瑠璃じやうるりがござりまんがな、んなら聽きにおでやしたら。……其のにおとこべときます。……素人しろうとはんだすけど、上手じやうずやちう評判だツせ。……先刻さつき此室こゝでお酒あがつてはつたお方もみな行かはりましたんだす。』
 また女が出て來て、う言つてすゝめたけれど、二人とも此のへやを動きたくはなかつた。女が去つてから、小池は莞爾々々にこ/\として、
『十五年も前の古い馴染なじみだから、ツイられて、君と一所いつしよにこんなとこへ來たんだね。……初めて會つたんだと、僕は君なんぞ見向きもしないんだけど。』と、不躾ぶしつけに言ひ放つた。
わたへかてさうや。……幼馴染をさなゝじみやなかつたら、あんたみたいな男、始めて見たて、眼に止まれへん。』
 可愛らしく薄化粧を終つたおみつは、ツンとして、う言つた。
 東光院でいたのであらう。初夜しよやの鐘の音が、ゴーンと響いて來た。





底本:「明治文學全集 72 水野葉舟 中村星湖 三島霜川 上司小劍集」筑摩書房
   1969(昭和44)年5月25日初版第1刷発行
底本の親本:「父の婚禮」新潮社
   1915(大正4)年3月
初出:「文章世界」
   1914(大正3)年1月
入力:いとうたかし
校正:小林繁雄
2012年1月4日作成
2016年1月18日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について


●図書カード