府立病院の二等室は、其の頃疊が敷いてあつた。竹丸の母は其の二等室に入つてから、もう四ヶ月の餘にもなる。一度竹丸をよこして呉れと、度々父への便りに言つて來たけれど、父は取り合ひもしなかつた。
千代松といふ子供のやうな名を
有つて居る人があつた。四十二の厄年が七年前に濟んだ
未の
八白で、「あんたのお
父つあんと同い年や」と言つてゐるが、父に聞くと、「やいや、
乃公は
亥の
四緑で、千代さんより四つ下や」と首を振つてゐた。けれども竹丸の眼には却つて父の方が老人に見えた。竹丸は今年十二で、
二十歳ぐらゐの人はもう年寄のやうに思つてゐた。
千代松といふ人は
頭髮を
丁髷に
結つてゐた。幾ら其の頃でも、村中で丁髷はただこの千代松の頭の上に見らるゝだけであつた。年に比べて
髷が大きいといふことで、人々はよく千代松の髷のことを「××の金槌」と呼んでゐた。
其の千代松のところへ病院の母から、是非竹丸を連れて來て呉れといふ手紙があつたさうで、千代松は其の手紙を
懷中にして竹丸の家へ來た。
竹丸の家は、
天滿宮の
別當筋で、別當は僧體であつたから、血脈は續いてゐないが、第四十五世別當
尊祐の代になつて、國の政治に改革が起り、封建が
廢れたので、別當の名で支配してゐた天滿宮の領地二ヶ村半、五百石を
上地し、別當は
還俗して神主になり、名も前田
道臣と改め、髮の伸びるまでを
附髷にして、細身の大小を差し、
頻りに女を買つて歩きなぞした。それが竹丸の父である。
「
あんたの
阿母の來やはつた時は、えらいこツちやツた。七
荷の
荷でなア。……今でも
納戸におまツしやろ、あの箪笥や長持は皆
阿母が持つて來やはつたんや。あの
長押に掛けたある
薙刀も。……嫁入りの荷の來る時、玄關で薙刀を受け取るのが難かしいいうて、
わたへや忠兵衞はんが竹竿で稽古したもんや。」
丁ど道臣が朝の
日供に拜殿へ出てゐたので、千代松は竹丸を相手にして、社務所を兼ねた家の勝手口でこんなことを
喋舌つてゐた。
「
あんた、まア一つおあがりやす。
直ツきに戻つて來やはりますさかい。」
女中のお駒が、かう言つて番茶を汲んで出した。煙草を吸はぬ千代松は、手持無沙汰で
丁髷の
鬢を撫でたり、出もせぬ咳をしたりしてゐたが、
「相變らず
別嬪やなア、お前幾つや。」と、竹丸を棄ててお駒の方へ向き直つた。お駒はただ笑つてゐたけれど、
「ほんまに幾つや。」と、千代松が重ねて問ふので、
「六でおます。」と
羞かしさうに、袖で口を
掩うた。
「二十六?」
笑ひながら千代松の
嘲弄ふのを、お駒は眞面目に受けて首を振つてゐた。
「けんど十六とは見えんなア、十八九、
二十歳に見る人もあるやろ、大柄やさかい。」と、千代松はまじ/\と、お駒の眞ん圓い、色の白い顏の、眼のパツチリとした、
睫毛の長いのに見入つてゐた。
もうそろ/\春先きで、
逸早く這ひ出した蟻が、黒光りになつた臺所の大黒柱の
根方の穴へ歸つて行くのを見て、
「あゝ蟻さんのお歸り/\。」なぞと、お駒は
他愛もないことを言つた。
「お前も家の旦那と定はんと兩方では、骨が折れるなア。」と、千代松は丁髷頭を搖り/\、にや/\して言つた。
「知らん、嫌ひ。」と、お駒は長い袂を振つて立ち上つた。
「けんど用心せんといかんで、旦那は好きやさかいなア。お前も奧さんみたいな病氣になるで。……」
「へえ――。」と、お駒は中腰になつてゐた。
「眞言律で、魚は喰へず、
牝猫も飼へなんだのが、
還俗したんやもん。張りきつた馬の手綱を切つたやうなもんや。……平野屋のお源を手初めに、方々撫で斬りや。」
「家には昔馬がゐたんだすてなア。」と、お駒は珍らしさうにして訊いた。
「さうや、あの納屋の横に馬小屋があつて、旦那が馬に乘つて平野屋へ散財に行かはつたんや。お源に惚れはつてな。……もう十七八年も昔のこツちや。」
かう言つて千代松は、ヂツと考へ込む風をした。
「
わたへのまだ生れん前のことだすな。……妙なもんや。」と、お駒も何か考へ出したやうで、また其處の板の間に坐つた。
「何が妙や。……お前がまだ生れん先きから
女子狂ひしてた人と、
何んするのが妙やちふんかいな。」と、千代松は元の笑顏になつた。
「またあんなこと言やはる。嫌ひ。」
お駒はさツと
紅を
刷いたやうな顏色になつて、
俯いてゐた。
「まツさら嫌ひでもあるまい。頭が禿げてても、旦那は親切やろ。」
「うだ/\いうとくなはんな。
あんたとこのお時はんに恨まれまんがな。」
お時といふ名を聞くと、千代松は忽ち急所でも突かれたやうに默つて
了つた。
「
あんた、ちよツとも
白髮がおまへんな。毛も多いし、入れ毛してなはるんか、眞ン中は
禿げてまツしやろ。」
やゝ暫くしてから、お駒は罪もない物の言ひ樣をして、千代松の丁髷を見詰めた。
「何んの禿げたるもんか、入れ毛なんぞしてえへん。」と、千代松は頭の祕密を押し隱すやうに、右の手で
月代の
邊を押へた。
「

や、禿げたるさかい、そんな
わげ(
髷の事)に結うてはるのや。」
「禿げたるも
絲瓜もあるもんか。」と、千代松は
周章てたやうにして言つた。
「それ、言やはつた。」と、お駒は崩れんばかりに笑つた。千代松も氣が付いて共に笑つた。
言葉の間に「絲瓜」といふことを挾むのが千代松の癖で、村の人々は「絲瓜の千代さん」といふ
綽名を
命けてゐるのである。
二人で笑つてゐる最中に、道臣が拜殿から歸つて來た。
風折烏帽子に
淨衣、
利休を穿いて、右の手に
笏を持つてゐる。出入の度に門の敷居を跨ぐ時、「えへん、えへん」と
空咳をするのが、この人の癖であつた。
勝手口から上りながら、道臣は臺所の千代松をチラと見て、輕く
會釋をすると、次の
室に入つて、柱の折れ釘に
烏帽子を掛け、淨衣は
衝立の前に脱ぎ棄てた。表に
陵王の舞樂を極彩色にかき、裏に墨繪の野馬が三頭遊んでゐる
衝立の上には、お駒のヨソイキの
晝夜帶が、眞ツ赤なハギを見せてかゝつてゐた。
白衣に
淺黄の袴の平服になつて、
居室の爐の前に坐つた道臣は、ポン/\と快い音のする手を二つ鳴らしてお駒を呼んだ。
「お駒どんお召しだすで。」と千代松は
莞爾した。
「千代さんを
此方へ呼んどいで。」と、道臣は、四疊半の居室の入口に手を
支へてゐるお駒に言つた。
茶室がかつた四疊半に爐を隔てて對坐してゐる主客の姿が、勝手の方から見えてゐた。薄い毛を總髮のやうに撫であげた道臣の頭と、千代松の丁髷とが、かたみに少しづつ
搖いで、ねち/\とした話聲が、途切れ/\に聞えた。
この家は昔の六坊の一つであつた梅の坊といふのの建物である。東の坊に中の坊に梅の坊に西の坊に北の坊に
知足坊の六坊の中で、西、北、知足の三坊は疾くに廢絶して、其の跡は竹藪になつてゐるが、東、中、梅の三坊だけが
上地の時まで殘つて、村の人々は東さん、中さん、西さんと呼んでゐた。西さんといふのは梅の坊のことで、ズツと昔の西の坊のあつた時は、梅さんと呼ばれてゐたさうである。
別當の
館は、この六坊をば、たとへば
堵列した兵士のやうに見て、それに號令してゐる指揮官といつたやうな前面の地位にあつて、天滿宮の本殿、拜殿と並んでゐた。其の館のことを昔は役所と言ひ、別當の旨を受けて狹いながらも獨立した領地の裁判をする代官が詰めてゐた。其の北には祭事を扱ふ
御供所があり、其の東には形ばかりの
空濠に臨んで、
小ひさい牢屋があつた。
接近した他領の民が、或る惡事をして捕へられさうになると、よく天滿宮の領地へ逃げて來て、別當に
縋つてこの牢屋に入れて貰つたといふやうな昔話も殘つてゐる。高が五百石でも、何分幕府の
直轄であるから、かうなると他領の役人は手が出せない。人を助けるのが出家の役とでもいふのであらう、別當はこの牢屋に入つたものに自由を與へて、三度の食事は、總門前の水茶屋を兼ねた小料理屋から取り寄せることを許し、夜は外出をさせなぞした。
罪人に
嵌める手錠は、自分に拔き差しの出來る
緩いもので、牢屋の入口には締りをしてないから、土地の者でこの牢屋へ入れられた男なぞは、晝間でもブラ/\家へ歸つて、
月代をしたり、酒を飮んだりした。月代のしたてに代官から呼び出しがあると、
流石に青々と剃り立ての頭では
白洲へ出られない。そこで月代をした上へ
引火奴を黒々と糊で貼り付けて出ると、一通りの調べが濟んでから、代官が
繼ぎ
裃の
衣紋を正して、
「こりや源六……
面を上げい。」と叫ぶので、恐る/\顏を上げると、代官はにこりともしないで、
「
頭の火の用心をせい。」と言つたといふやうな昔話もある。
其の牢屋の跡には雜草が生ひ茂つて、春は村の子供等が
土筆を
摘んでゐる。役所と御供所との建物は一時小學校になつて、渡邊といふ漢學の老先生が來てゐたが、學校は別に新らしく建てられ、老先生はます/\老いて、往く處を知らずになつた。罪人の寢た牢屋の跡にも別當の住んだ館の跡にも、代官の坐つた白洲の跡にも、同じ雜草が生えてゐた。昔わざ/\都の
駝師を連れて來て造らせたといふ
遠州流の
前栽も殘らず草に
埋れて、大きな石の頭だけがニヨキツと見えてゐた。土地の
駝師が昔の名匠の苦心を雜草の中に學ばうとして、新らしい
草鞋を朝露にじと/\させながら、埋れた
泉石を探り歩いてゐることもあつた。
東の坊も中の坊も皆、知足坊、北の坊、西の坊の後を追うて竹藪になつた。
還俗して神主になつた別當は、ただ一つ取り殘された梅の坊に移り住んで、「西さん」と呼ばれてゐた。
「西さんそこへと飛んで來て、何をするかと見てあれば、
高天原に
神ずまり、
嚊の腹に子がやどる。……」なぞと、村の子守等は大きな聲で唄つた。
梅の坊は六坊の中で一番小ひさかつたけれど、天滿宮の廣い
境内の南の端の
崕の上にあつて、岩を噛む水の美しい山川が其の下を流れ、川邊には春の花、秋の
紅葉と、とりどりに良い樹が生えてゐた。庭には裏表とも梅の木が多くて、生活の叫びを立てるチヨン/\のさゝ啼きが、竹藪を出て、ホーホケキヨと戀愛の歌をうたふ頃になると、あの黄色い小鳥は、二羽も三羽もこの
閑寂な梅林へ來て遊んだ。「梅に鶯」と繪にある通りのものを、竹丸はよく
雪隱の窓から見た。
川を距てて、廣い青々とした昔の領地を望みながら、道臣は千代松と稍暫く語つてゐた。茶室がかつた
居室の庭先きには、八つ手なぞを植ゑ込んで眺めを妨げてあるけれど、大きな葉の間から麥畑や草の家がチラ/\と見えた。鍬を
擔いで野路を行く人は誰れであるかと、千代松は若い時から自慢の眼の、強い視力のまだ衰へぬのを試すやうにしてゐた。野路の
彼方には、低い小松山が枕屏風のやうに昔の領地を取り卷いてゐて、其の上の方には、秋の頃を思はせるやうな白雲が、ふはりと浮んでゐた。
「お駒もよいゲンサイやけんど、奧さんは品がおますさかいな。……長いこと
煩うて、あないになりやはつたけど、品はなア、身に備はつてゐますわい。」
煙草を呑まぬので兩手を持ちあつかつて、兩の肩を横に搖り動かしながら、千代松はこんなことを言つた。
「ふゝん。」と道臣は吸ひ飽きた
煙管を
弄びつゝ、ただ笑つてゐた。
「
此方へ來やはつてから、何んぼにもならん
中や、そいでも三四年してからやつたかなア、
孃やんが生れて
直き死にやはつて、奧さんが墓參りに行きやはると、何んでも寒い時で、雪が
散ら/\降つて來ましてなア、お供のお鶴どんが家へ傘を借りに來ましたんで、家内が嫁入りの時に持つて來た柄の長い
蛇の
目を袋から出してお貸し申すと、お鶴どんが其の傘を後から
翳しかけて
去なはつたのを、
わたへは山から戻りに見ましたけど、それや上品で、思はず頭が下がりました。」
ねち/\として、千代松はかういふ話をした。お駒と暫く遊んでゐた竹丸は何時の間にか父の
背後の方へ來て、千代松の言ふことを芝居の話のやうに思つて小耳に挾んでゐた。
「何んしよまア、たツた一人の
坊んちやもん、奧さんも久し振りに會ひたいのは、無理ごわへん。
わたへが連れて行きますさかい、一寸だけでも會はしたげなはれ。」と、千代松は
先刻から幾度も説いたらしいことを根氣よく言つた。
「會はしても仕樣がないやないか。」
舌の
爛れるまで吸うた煙管にまた煙草を詰めながら、道臣は
冷かに言つた。
「そら仕樣がないと言や仕樣がないが、さう言うたもんやおまへん。なア
坊んち、……
阿母さんに會ひとおまツしやろ。」と、千代松は
微笑みながら竹丸の顏を見詰めた。竹丸は父の氣を兼ねて首を振つてゐた。
「そんなら、あんたに任しますよつて、一寸連れていてやつとくなはれ。連れて行くと
屹と『一晩だけ竹を病院へ泊らして呉れ』と京子が言ひますやろが、それは
金輪際いきまへんよつて、泣いても何うしても構はずに、引き離して
他へ泊つとくなはれ。」と、道臣は到頭千代松の根氣に負けた。
「何もおまへんけど、
時分どきだすよつて千代さん。」と、お駒が低い足附きの膳を持つて來て千代松の前に据ゑた。
「もう
正午だすかいな。」と、千代松は自分の尻長と長話とに驚いたやうな顏をした。
其の晩、道臣は千代松の家へ行つた。酒がなくては食事の出來ぬ道臣は、朝飯にも晝飯にも一本づつお駒に
燗をつけさせるのであるが、夕飯には二本飮んで少し醉つたやうな風で、羽織も着ずに出て行つた。家の門を出て、
隨神門と總門との間の石の鳥居の前を通つて、廣い境内を東門から出ると、左へ曲がつてだら/\坂を、天滿宮の
空濠に沿うて登つた右側に千代松の家はあつた。
近頃建てた武家造りの門は、往來から少し引つ込んだところに、木の香がまだ新らしかつた。二つの扉は固く閉つて、少し手前には砂利が盛り上げてあつた。横手の
潛り
戸を押すと、鎖の付いた重い分銅が、ガヮラ/\と音を立てて、戸は一文字に開いた。門の内は稻を
扱いだり、
籾を乾したりするのに使はれる庭で、隅の方に柿の木が一二本立つてゐる外には、
納家と土藏と塀と門と、それから藁葺きの屋根が小山のやうに高い
母家とに取り圍まれたこの眞四角な廣場が、百姓の
閑な此頃はガランとしてゐた。盆になるとこの廣場でよく踊りがある。天滿宮の境内で催される
定例の盆踊は、場所がだだツ廣くて、若い衆と娘たちとが押し合ふのに工合がわるいさうで、
毎も餘り
はずまずに流れて了ふが、其の流れの一部がこの廣場を借りて
淨瑠璃音頭で、「お染は覺悟の
以前の
剃刀、おゝ」なゞと始めると、歸りかゝつた
近まはりの村々の男女までが引き返して來て、
脣の白くなる夜明け頃まで踊りつゞける。秋はまた村第一の山持ちと呼ばれるこの家の
松茸が、其處の土間に
堆く積まれて、廣場にも新らしい山の薫りが漂ふ。
「お
家はん、西さんの旦那がお越しだすで。」と、
晩くなつてから廣場を掃いてゐた下男の
治郎作が言つた。
千代松夫婦は、臺所の
巖乘な長火鉢に
對ひ合つてゐたが、妻のお安は治郎作の聲を聞くと、立つて自分の坐つてゐた場所を道臣の席にするやう座蒲圃を敷いたりした。
法事か何かで特別に招いた人の外は、どんな客とでも長火鉢の前で應接するのが、この邊の農家の習慣であつた。客座敷なぞは疊がへをした上へ
蓙を敷いて、其の上へまた澁紙を敷いて、
乾餅が干し並べてあつたりした。
道臣は暗い土間を通つて、中戸を越えて、中の口から長火鉢の前へ上り込んだ。娘のお時は、座敷の書院から石ボヤのかゝつた丸ジンの臺ラムプを持つて來て、黒柿の燭架のまゝ長火鉢の側に置いた。
燐寸を摺つてパツと灯を
點けると、お時の白い手が先づ
眩しいほどに光つて見えた。青い色の臺の裾を
掩ふほどに房々と編まれた毛絲のラムプ敷の赤いのが、ケバ/\しかつた。
其處に
先刻から點いてゐた五分ジンの煤けた吊りラムプを持つて、お時は何も言はずに勝手へ引き
下つた。母のお安はカチヤ/\と音を立てて、勝手で酒の支度を始めてゐた。
「
明日何時頃に行きなはる。お駒に竹を送らしておこしますわい。」
「八時頃から行きまへうかい。
わたへが行きにお家へ寄つて、竹さんを連れて行きますさかい、竹さんに支度さして待つてて
貰とくなはれ。」
こんなことを話し合つてゐる中に、千代松は莖ばかりの
雁が
音といふ煎茶を丁寧に入れて、酒の出るまでと道臣に進めた。
「
あんたんとこみたいな薄茶はごわへんので。」と千代松は、稍亂れかけた
丁髷を氣にするやうに撫でながら言つた。
チリン/\と盃の搖れる音がして、
茄玉子と香の物とでお時が酒を運んで來た。
此家へ來れば酒を飮むものと
極めてゐるらしい道臣は、直ぐ盃を取り上げたが、
燗が
微温さうなので、長火鉢の鐵瓶の中へ自分に徳利を
浸けた。
「
わたへが
無調法だすよつて、お合ひはでけまへんが、御酒は樽で取つておますよつて、何んぼでもあがつとくなはれ。……お安お前一つお合ひをしたらどうや。」
二十一になるお時を
頭に、まだ乳房を探りたがる義之助まで、男女七人の子を生んだお安は、取つて三十七で、道臣の妻と同い年であるが、ズツと
老けて見える。一日を子供の世話と
雇人等の
指揮とに疲れ切つて、夕暮のゴタ/\した勝手元で、大きな戸棚の中へ首を突ツ込んで、「
白鹿」と銘のある大樽の呑口から茶漬茶碗に一杯注いだ
冷酒をグツと
呷ることもある。それを千代松が薄々知つてゐるのである。
「へゝゝゝえ。」と、お安はただ笑つてゐるより外はなかつた。
十五の年に赤い振袖でこの家へ片付いて來たといふことは、村の一つ話になつてゐる。其の時はもうお時が腹の中に居たのだとは、お時自身にもよく人に話してゐる。隣り村の豪農で、天滿宮の
御家人といふものになつてゐる家に生れたのを、同じ村の若い衆さへまだ餘り眼を
注けぬ蕾の中に、千代松が頬冠り姿で、高塀を乘り越え、廣い庭先きから忍び込んで、其の蕾を

り取つたので、村の若い衆は他所の者に第一指を染められては顏が立たぬと騷ぎ出し、暗に
紛れて千代松を袋叩きにしようとしたこともあつたのを、お安の父が事面倒と見て、
可愛い一人娘を棄てるやうにして千代松に呉れたのである。
天滿宮には別當、六坊、社家の外に、八十人の御家人と、六十人の長谷川組といふものとが、近郷近在に散らばつてゐた。御家人といふのは天滿宮の祭神の家來筋といふことで、昔から
苗字帶刀を許されて、
郷士のやうな格になつてゐた。長谷川組といふのは別當の家來で、儀式の時だけは帶刀を許される武士格ではあるが、御家人に比べると一段劣るのである。千代松の家は長谷川組で、お安の
實家は御家人の筆頭であつたから、この縁は不釣合と、人々に評判されてゐた。けれども千代松のねち/\した根氣は、お安といふ戀女房を得てから、一生懸命に稼ぎ溜めて、山や田地を
殖やしたので、今では村一二の物持ちになつて、家柄なぞといふものの光のだん/\薄くなるとともに、
鷹揚な好人物の主人を
有つたお安の
實家が、村に唯一つの
瓦葺きの大きな家と、立派な長屋門とを殘して、財産は何時の間にかタバコの煙のやうにして了つたのに比べると、今では
提燈と釣鐘の地位が反對になつたやうにも思はれて來た。
「一つ何うや。」と、道臣はお安に盃を
獻したけれど、お安は相變らず笑つて受けなかつた。盃洗の水に三つ浮んで來た盃は、一つだけが絶えず道臣の手から口へ運ばれてゐて、他の二つは寂しさうに取り殘されてゐた。
「時やん、此處へ來て
金毘羅參りの話でもしいんかいな。」
家から下地のあるところへ、また二本ほど飮んだので、道臣はだいぶ醉つて、舌が少し
縺れかゝつた。
「へえ。」とお時は素直に答へて、道臣の側に坐つた。
一昨年頃は、お時が毎日風呂敷包を抱へて、道臣の家へ京子に裁縫を習ひに來てゐた。京子が墓參りに出た後に、道臣がお時の側へ寄り過ぎてゐたとかいふことで、一寸した騷ぎが起りかけたけれど、昔の領主といふ地位がこの片田舍では今もなほ後光が射して、
箒黨の
旗頭と呼ばれてゐる道臣には、こんなことがよくあるので、京子も諦めて
了つた。老いて
醜男の道臣も、この村では第一の色師のやうに見られてゐた。
其の
一昨年の春のことである。道臣は突然お時を連れて金毘羅參りに行くと言ひ出した。昔の主人筋の言ふことであるから、千代松夫婦は寧ろ喜んで承知した。もとより義理一遍ではあらうが、道臣は京子をも連れて行かうと言つた。京子は一寸考へて、それでは一所に行かうと言つて、一行は其の頃
十歳の竹丸をも加へて四人になつた。
道臣等の親子三人が支度を調へ、留守を昔の社家の長老に頼んで東の門まで出かけた時、お時の裾端折つて
緋縮緬の湯もじを精一杯見せた旅姿は、左の方のだら/\坂の半腹に見えた。丁ど舊暦の三月の半ばであつた。
四人は先づ大阪へ出て、船の出る川口に近い
博多山といふ家で、道臣の好物の
鰻で飯を喰べた。道臣は嬉しさうにして何時までもチビリ/\飮んでゐた。これから船に乘るのだといふことを聞いて竹丸は、丁ど博多山の奧座敷の前を通る荷舟を指さしつつ、「あれより大きい舟」なぞと訊いた。
川口から龜鶴丸といふ芽出たい名の汽船に乘つたのは、其の日の夕景であつた。ボウーと
厭な響の笛が鳴つて、家も岸も橋も皆後へ走つて行くやうに竹丸には思はれた。お時さへ一寸さう思つた。船は間もなく廣い海の中へ出てゐた。
多度津へ着いて、
金毘羅へ參つて、其處で二晩泊つて、
鞘橋の上で魚の
廉いのに驚いたりして、善通寺から丸龜へ出て、其處から便所のない和船に乘つて、
通じを
催したのを
堪へ/\て
備中へ渡つた。
「あの時ばツかりは、男に生れて來ると
好かつたと思ひました。」と、今でもお時は言つてゐる。
備中から備前、それから
播州巡りをして、石の
寶殿や
高砂の松を見て歩く中に、道臣はお時と、京子は竹丸と、別々の旅人のやうになつて歩いたこともあつた。兵庫へ着いて福原の清盛の墓の前で、四人はまた落ち合つた。
大阪へ戻つて、二三日道頓堀の宿屋に泊つてゐる中に、芝居見物をしたが、狂言は
不破伴左衞門、名古屋
山三の
鞘當であつた。花盛りの太い櫻の幹を山三が刀で切り開くと、女の
生首が現はれた。其の芝居を見て戻つた晩に、京子は宿屋で逆上して卒倒した。顏へ水を吹きかけたり、氣附藥を口に含ましたりして、やつと囘復はしたが、それからは餘り物も言はぬやうになつて、皆なが出かけて行く時にも、獨りで宿屋に
閉ぢ
籠つてゐた。竹丸も母と一所に殘つてゐることがあつた。大阪には伯父もあり叔母もあるのに、何故こんな家に泊るのかと竹丸は思つてゐた。
一月半ほどを旅に暮らして、道臣の一行は財布を空にして村に歸つて來ると、天滿宮の木立は見違へるほど繁つてゐた。出立の時には蕾の
脹みかけてゐた櫻が、すツかり若葉になつて、
花吹雪の
名殘りが少し見られるばかりであつた。鳥居の前の
老木の櫻に今年はまた枯枝が多くなつたのを見た時、京子もお時も、名古屋
山三の引き出した女の生首のことを思ひ出した。道臣は出立の時にしたやうに、拜殿の方に向つて祈念を
凝らしてゐた。
其の後道臣とお時とは、寄ると
障ると金毘羅參りの話ばかりしてゐた。千代松夫婦は二人の話を傍で聽いてゐるだけで、自分たちも金毘羅參りをしたのかと思ふほどに、
讚岐から播州へかけての名所を知つた。
「
あんたみたいに、
神さんの
守りをしてる人は、他のお宮へ參つても、まツさら他人のやうな氣がしましよまい。」と、酒も煙草も呑まぬ千代松は、三度目の
急須の茶を入れかへながら言つた。
「さいやなア。……」と道臣もこの答へには窮してゐた。
「金毘羅はんでも、
吉備津ツあんでも、參る/\いうてやはつて、ちよつとも拜みやはれへんのや。
可笑しい人。」
お時は
滴るやうな
色氣を眼元に含ませて、こんなことを言つた。お時の妹のお今といふ十一になるのが、
宵張りをして起きてゐるだけで、他の子供等は皆寢て了つた。子供の巣のやうなこの家も稍靜かになつた。
其の頃まだこの村へは汽車が通じてゐなかつた。電車なぞは何處にもなかつた。竹丸は千代松に連れられて村から一里あまり
距つた小ひさな町まで、水の美しい山川に添ひつゝ歩いて、其處から
人力車で五里の道を大阪へ行つた。
「北野まで何んぼで行く。」と、千代松は小ひさな町の坂の下のところで
路傍に客待ちしてゐた
車夫の群に聲をかけた。合乘り一臺の賃錢が折り合はずに、千代松は坂の半腹までさツさと歩いたが、竹丸の歩き澁るのに足元を見込んだ車夫は、
冷笑ひつゝ二人の後姿を見送つてゐた。此處を
外れるともう車がないので、千代松は殘念さうにしながら振り返つて車夫を手招きした。
一人乘りでも結構やと千代松の言つただけに、合乘りではゆツくりし過ぎるほどであつた。一面に麥畑の眞青な中を白くうね/\として行く平な國道を、圓顏に
頬髷を
[#「頬髷を」はママ]剃つた
痕の青々とした
車夫は、風を切つて駈け出した。
尊鉢といつて
釋迦の鐵鉢とかを藏してゐる白壁の寺のある村を過ぐる頃には、もう先きへ行く人力車を二臺も追ひ拔いた。
こツてりと油を付けて
結ひ上げた千代松の丁髷に、車夫の蹴立てる白い砂埃りが煙のやうに
掩ひかゝつた。
もつと
背後へ
凭れかゝつて呉れとか、足を踏ん張つて呉れとか言つて、
五月蠅い車夫であつたが、中肉中脊の屈強な足つきは、北野へ着くまでに、十臺からの車を拔いて、
正午少し前に千代松と竹丸とは鶴の茶屋の前へ下り立つた。
「よツぽど早うおましたで、ちいと増してやつとくなはれ。」と、
碌に汗もかゝねば疲れた風もなくて、車夫は
腿引の
塵埃を沸ひ/\言つたが、
「一時間や二時間早う着いても仕樣がない。先きい行く車追ひ拔いたかて、乘つてる客の手柄にならん。」と、千代松は
冷かに言つて、
定めただけの賃錢をやると、竹丸を連れてずん/\歩き出した。
「あれが
阿母さんの入つてはる病院や。」と大川の長い橋の上から指さしておいて、千代松はもう歩くのが
厭さうな竹丸を笑顏で引き摺るやうにして、だいぶ長いこと歩かした。また橋を二つも渡つて、川沿ひの赤い軒燈の出た宿屋に入つた時、
稍拗ねてゐた竹丸の機嫌も直つた。其の宿屋は竹丸が父母やお時と一所に金毘羅參りの時に泊つた宿屋らしくて、母が卒倒した時の怖ろしさを竹丸は思ひ出してゐた。二階座敷の欄干に
凭れて、川の中を
往來する小舟を見たり、小旗の立つた
蠣舟に出入りする人を數へたりして、竹丸は物珍らしい半日を送つた。
對う岸の家で欄干に赤い裏の蒲團を干してゐる女は、白い顏に笑ひを浮べて、竹丸に小手招きなぞした。
背後の賑やかな通りでは、人音がざわ/\聞えて、太鼓の響や
喇叭の聲が絶えずしてゐた。
「さアこれから阿母さんとこへ行くんや、嬉しおますやろ。」と夕飯を喰べてから、千代松は竹丸を連れ出した。また歩かせられることかと、竹丸は稍拗ねかけて見たが、千代松は直ぐ其處の橋の
詰から、今度は値切りもせずに合乘りの
人力車を呼んだ。車の上から飽かぬ街景色を見て行く中に、長い橋を渡つて、車は病院の鐵門の前に着いた。
病院の玄關には薄暗い灯が點いてゐた。
胡麻鹽の
腮鬚の長い受付の
老爺の顏を、半圓形の硝子窓の中に、覗きカラクリのやうに見て、右へ曲つて行くと、白い壁の長い廊下が續いて、其の片側には、下駄箱を横にしたやうに、一つ/\扉の附いた入口が幾つも並んでゐた。其の扉の一つの横の方に、黒い板へ白く「前田京子」と門の標札のやうに書いてあるのを、薄暗い中に目早く見付けた竹丸が、
「此處や、此處や。」と叫ぶと、千代松は
喫驚した顏をして、竹丸と同じやうに其の白い字の標札を仰いだ。
「さアお入りなはれ。」と千代松は標札の文字を確めてから言つたが、竹丸は俄に尻込みして、扉の白い
把手を握ることが出來なかつた。
「早う入りなはれな。」と、千代松はニヤ/\して言つた。さうして自分で把手に手をかけてギユツと押すと、扉が一尺ほど
開いた。
「誰れや。」と中から久し振りで聞く母の聲がしたので、竹丸はいよ/\尻込みして、廊下を一間ほども隣りの扉の前あたりまで逃げて行つた。千代松は笑ひながらそれを追うて、引つ捕へると、
容赦なく母の病室の中へ押し込み、自分も引き添うて入つた。
寢臺から下りて、疊の上に座蒲團もなく坐つてゐた京子は、薄暗いラムプの下で短刀を拔いて見てゐた。痩せこけた頬へ櫛卷きにした髮の
後れ
毛が振りかゝつて、大きな圓い眼は血走つてゐるやうに思はれた。
「怖い。」と竹丸は覺えず叫んで、また逃げ出さうとするのを、千代松は抑へて放さなかつた。
「あゝ竹ちやんか、千代さんに連れて來て貰うたのやなア。」
短刀を持つたまゝではあるが、京子の物の言ひ振りは、物靜かに優しかつた。さうして短刀の刃先を
檢めては、少しばかり
錆の出かゝつたのを文錢でゴシ/\
擦ることを止めなかつた。
今までニヤ/\してゐた千代松も、少し眉を
顰めて、京子の容子を見詰めつゝ、竹丸を
庇ふやうにして、短刀の
切先を避ける風にしながら、黄色くなつた疊の上に坐つた。
俄に氣がついたといふ
状で、京子は短刀を鞘に納めた。其の短刀は
鎧通しといふ鋭いもので、彼女の父がこればかりは一生肌身を離すなと言つて、道臣に
嫁する日に彼女の
手匣の中に入れてやつたもので、無銘ではあるが相州ものの古いところらしく、作りは父の好みで、彼女の爲めに
酉の歳に
因んで
金無垢の

の
高彫りを
目貫に浮き出させ、鞘は
梨子地で、黒に金絲を混ぜた
總付きの下げ緒が長く垂れ、赤地金襴の袋に入つてゐる。金で大きく蓋の上に
定紋の折鶴を現はした手匣とともに、今は亡き父の
記念品となつて、病院の枕元に置かれてある。
竹丸はよくお駒から
怪猫の話を聽かされてゐたので、自分の母は
疾くに何處かの古猫に喰ひ殺されて、猫が母の姿になつてゐるのではあるまいかと思つてゐた。この床下に母の白骨がごろ/\してゐるのではあるまいかと思ふと、身體中がぞく/\して來て、ザラ/\した
坊主疊に氷のやうな冷めたさを感じて來た。
「書置の事」とでもしてある封状が、其處らにありさうな光景だと千代松は考へて、京子と一通りの挨拶を交した後は、打ち解けた話もしにくいので、ツイ默つてゐた。京子も默つてゐた。
金毘羅參りから歸つた年の夏、
修驗者のやうな姿をした眼のよく光る男――其の男の眼を見てゐると自然に氣が遠くなる――が自分の家へ尋ねて來たことを竹丸は思ひ出した。其の時
丁ど父はお宮の用事で四五日泊りがけに
他へ行つてゐたが、母は忽ち其の見も知りもしなかつた修驗者と
懇ろになつて、金毘羅このかた起りかけてゐた今の病氣を
癒して貰ふ御祈祷だと言つては、まだ暑いのに室を閉め切つて、修驗者と二人で二時間も三時間も出て來なかつたことがあつた。夜になると修驗者は竹丸に向つていろ/\面白い話をしたが、竹丸は何んだか其の男が氣味わるくて、其の異樣に輝く眼の光に打たれると、氣が遠くなつて、死ぬとはこんなになるのではあるまいかと思はれてならなかつた。修驗者は日本國中を大抵
巡つたさうで、いろ/\の面白い事や怖い話を知つてゐた。
もう
明日あたりは父が歸るであらうといふ日、母はまた修驗者と二人で
納戸へ入つたまゝ戸を閉め切つて、夕方になつても出て來なかつた。其の頃居たお鶴といふ下女は、何も知らぬ顏をして、せツせと臺所を働いてゐた。餘り氣にかゝるので、竹丸は納戸の前まで忍び足で行つて、幾度か
躊躇ひつゝ、青地に金粉で
龍の丸をおいた襖を細目に開けて内を
覗いた。
昔
内佛の安置してあつたこの室は、この家へ
女氣が入るやうになつてから、納戸に用ゐられて、
紅白粉の匂ひで一杯になつてゐるが、竹丸の
怖々覗いた時、修驗者の姿は見えないで、母がただ一人衣裳箪笥の前に坐つてゐた。竹丸の覗いたのを直ぐそれと氣付いた母は、意外にも
莞爾々々として手招きしたので、二三日母に
疎くされてゐた竹丸は、喜んで襖を開け、駈け込むやうにして母に近づいた。母は直ぐと立つて、襖の開かぬやうに竹丸の手の屆かぬところへ
しんばり棒をしてから、靜かに竹丸の側へ寄ると、
他所の家へでも行つた風に
ちよこなんとしてゐた竹丸に向つて、「見に來ては可かんというたるのに、何んで見に來た。」と急に怖い顏をして叱つてから、あの金の

の
目貫の光る短刀を引き寄せながら、「お父つあんが戻つてから、あの小父さんの來たことをいふと、斬つて了ふよつて、よう覺えてゐや。」と短刀を半分ほど拔きかけた。其の
形相の物凄さに、竹丸は
慄へ上つて泣き出した。
それから竹丸は其の修驗者の姿を一度も見なかつたが、近頃お駒に教はつた
怪猫の話から、若しやあの修驗者が古猫で、母を喰ひ殺して母の姿になつてゐるのではあるまいかと、時折り考へることもあつた。
そんなことを思ひ出しながら、今かうやつて病院で母の姿を見てゐると、病み
窶れた顏から眼付きが、
何時かの修驗者に似て來たやうに考へられ、ぼんやりと射すラムプの光に、耳の尖つた口の裂けた髭の長い大猫の影法師が映るやうな氣がして、竹丸は
眞ともに母の方を見ることが出來なくなつた。
「もう
去なう。」と、竹丸は小ひさな聲で言つて、千代松の
背後へ隱れるやうに
膝行り寄つた。
例もの低い聲でねち/\と話し始めてゐた千代松は、
「
癒る癒らんも、
絲瓜もおまへん。癒つて見せうちふ氣一つだす。
病は。……」なぞと元氣よく言つて病人を勵ましつゝ、竹丸には頓着しなかつた。
「ずツと前に
診てもろた醫者が、リョーマチやいうて、其の藥ばかり呉れてたんが
惡おましたんや。子宮だしたんやもんなア、此處の院長さんが
診やはつて、餘ツぽどわるなつたるいうて、
喫驚してゐやはつた。」
「前に診てもろた醫者て、片岡だツしやろ。片岡なら確かだす。日本人の身體には矢ツ張り漢法醫がよいので、西洋醫者はあきまへんわい。」
西洋醫者を信じてゐる京子と、漢法醫者を尊んでゐる千代松とは、互ひに堅く
執つて動かぬといふ風を見せたが、
「わたし
御免蒙つて。」と、京子の方が先きに閉口して、大儀さうに寢臺の上へ這ひ上つた。
「ぼち/\行きまへうかな。」と、千代松は初めて竹丸の居るのに氣がついたやうな風をして、背後を
顧みた。
「竹は今夜泊つて行くなア。」と京子は寢臺の上から言つて、自分の身體を少し片わきに寄せつゝ、白い蒲團の上に自分と並んで竹丸の寢る場所を
拵へた。
「泊つて行きなはるか。……久し振りや、
阿母さんの
乳汁可味しおますで。」と千代松は微笑みつゝ言つて、
背後に
竦んでゐる竹丸を母の前へ引き出さうとした。
「
厭や。」と首を振つて、竹丸はシク/\泣き出してゐた。
「
前には阿母さんと一所に寢たいちうて泣いたもんやが、今は阿母さんがそないに厭になつたんか。そんなら早う
去に。……もう來いでもえゝ。」
不機嫌な顏をして京子は寢臺から下りた。千代松の横手から頭を出してゐた竹丸は、また後ずさりして其の背後に隱れ、千代松の
一帳羅の紋付羽織の脊筋を見てゐた。
「
あんたが、そんな高いとこで寢なはるさかい、竹さんは怖いんだすやろ、なア竹さん。」と、千代松は氣の毒さうにした。
「高いとこで寢るのが厭なら、あの蒲團を下へ敷いて
貰たげるよつて、今夜は阿母さんと一所に寢よう、なア竹。」
また優しい顏になつて、京子は竹丸を引き留めようとした。
「さう/\忘れてた、竹さん今夜
善哉喰べに行くんだしたな。そんならぼち/\行きまへう。」と、千代松は村ででも夜に入る見込みの外出には必ず懷中に入れて行く小ひさな小田原提灯を取り出して、用意のマッチをパツと
擦つた。竹丸は早や立ち上つて出口の扉に手をかけた。
「そんならもう
去んでだすか。」
何もかも諦めたといつた風で、京子は苦しさうな笑顏をしたが、
「
蝋燭がそれでは短いやろ、竹ちやんこれ持つといで。」と、
床頭臺の
抽斗から十本ばかりの蝋燭を取り出し、白紙に包んで、竹丸の方へ手を差し伸した。竹丸は千代松の顏を見い/\母の側へ寄つて、其の蝋燭を受け取つた。
「それだけ蝋燭があると、江戸まででも行かれる。」と、千代松は笑つた。
千代松と竹丸とは、其の翌くる日の朝早く宿を立つて、北野からまた合乘りの
人力車に乘つて歸つたが、丁ど半分道ほど來た時、向うから若い男と女とを乘せた
車夫が「賣るか」と聲をかけて、車夫同士で客の取り替へツこの相談を始めた。梶棒と梶棒とを
摩れ/\にして、何か知ら
符牒で暫く話し合つてゐる中に、忽ち纏りが付いて、千代松と竹丸とは向うから來た車に乘せられ、若い男と女とは
此方の車に乘つて、車夫は互ひに別れの懸け聲をして、各々の來た道を引き返した。
來る時に千代松が車賃を値切つた小ひさな町の坂の下で、二人は車から下りて、其處から村まで山川に添うて歩いた。竹丸は千代松に尻を端折つて貰つて、元氣よく先きに立つて歩いた。山川の美しい流れは、庭の小石までを透き通して見せてゐた。西の方の小山の裾に、お寺の大きな屋根を眞ん中にして、富んでゐるらしい
瓦葺きの家や藁葺きの家や白壁の光る土藏なぞが、ごちや/\と一塊りになつてゐるのは、××の部落で、其處の男女が三人五人、
剥いだ獸皮の眞白に見えるのを、この川原に持ち出して、清らかな水に
晒してゐた。雪のやうな肌をした女が、新らしい手拭を
被り眞赤な
襷をかけて、白い足を膝のあたりまで水の中に
浸しつつ、皮を引つ張つてゐるのも見えてゐた。春らしい風がそよ/\と吹いて、午後の太陽はどんよりと、大きな
暈をかぶつてゐた。
山川の曲つて流れてゐるところまで來ると、其處からが天滿宮の昔の領地で、「
殺生禁斷」と深く
刻つた大きな石標が川端に
苔むして、倒れさうになつたまゝ立つてゐる。竹丸は後をも見ずに駈け出して、二三町續いた松原を一散に、風の如く天滿宮の境内に歸つて行つた。
家では父がまた千代松の家へ行つたさうで、お駒は昨夜泊つたまゝ歸らぬといふ
從兄の定吉と話してゐた。
「
坊んち、戻りなはつたか。」と、定吉はお駒の背中にかけてゐた手を離して、竹丸を迎へた。
「今夜も泊つといで、休みやさかい、えゝやらう。家の
腎張さんが
五月蠅いよつて。」
お駒は、ほんのり
紅をさしたやうな圓い顏に笑みを浮べて、後の半分は聞えぬほどの小ひさい聲で、定吉を
流盻に見ながら言つてから、竹丸に、
「さあ、
着りもん着更へて。……」と早口をして、白メリンスの
兵兒帶に手をかけると、追ひ剥ぎのやうに竹丸のヨソイキの着物を脱がしかけた。
「
鹿島一日、
下はん
半日。休み嫌ひの仙藏はん、なほも嫌ひの
絲瓜はん。」と定吉は、村の草刈童のよく唄ふ歌を高い聲で唄つた。今日は久し振りに降つた雨を喜ぶ「あまよろこび」の休みが一日、村の若い衆や草刈童や雇人たちに與へられて、農作物のよく實るのを祝つてゐるが、近頃は
頓とこの種の休みが
尠くなつて、昔鹿島大盡が庄屋であつたり、下はんと呼ばるゝ好人物の旦那が村の支配者であつたりした時、一日或は半日の休みが始終貰へた時代を謳歌する聲が、今の若者たちの間にまで響いてゐる。
「この人は何を持つてゐやはるんやなア、
ほところ(
懷中)
膨らかして。」と、お駒は竹丸の附け紐を
解きながら言つて、
懷中を押さへてゐる兩手を引き退けると、
嵩張つた紙包がバタリと疊の上に落ちた。
「定はん貰ひや、大阪の土産やで。
可味しいもんやろ。……飴……猫の糞(
菓子の名)……羊羹……。」
半分は定吉に、半分は竹丸に言つて、お駒は樂しさうに紙包を開けて見た。
「何んや
阿呆らしい、蝋燭や。」とお駒は吐き出すやうに言つて、紙のまゝ其處に
放り出した。
「蝋燭の形に拵へた
かしん(
菓子の名)や知れんで。」と定吉は、自分の前にころ/\轉げて來た一本の蝋燭を取り上げて、
頻りに匂ひを嗅いでみたりした。
「
きりもん着んとお
父つあんに叱られる。ぽん/\になるのはまだ早い。おゝ寒い寒い。」と、お駒は竹丸が
裸體のまゝ板の間を駈け廻るのを追ひ廻して、ふだん
着を着せた。さうして、
「今日でもう五日も學校を休んで、……落第しますで。」と、母のやうな顏をして竹丸を睨んで、直ぐに
噴き出して笑つた。竹丸も共に笑つた。
「お
駒ちやん、矢ツ張り蝋燭やなア。」と定吉は、匂ひを嗅いだだけでは諦められぬらしく、マッチを擦つて火を點けてみて、板の間へ一たらし
滴した熱い蝋で其の蝋燭の尻を据ゑて、ジイ/\と燃えるのを見ながら言つた。
「わかつてるやないか。一寸見ただけで。」と、お駒は笑つて、定吉の顏を見詰めた。
「さうかいなア。」と、定吉はまだ白晝にとぼつてゐる蝋燭の赤い火から眼を離さずに、腰から新らしい革の煙草入を拔き取つて、ツイ昨日から始めた煙草を其の蝋燭の火で吸ひ付けた。
「あゝ
可笑し、定はん煙草呑むん。
何時から。」と、お駒は大變なことを見付けたやうに、頓狂な聲で言つた。
「きんの(
昨日)から。」と定吉はキマリのわるさうな顏をして、白い煙をプーツとお駒の顏に吹きかけた。
「あゝ臭い。」と、お駒は長い袂で其の煙を拂ひながら、定吉の新らしい煙草入を引き寄せて、緒締めの赤い玉なぞを
捻くつてゐた。
「お父つあんが十七から煙草呑んだちふさかい、
俺も十七で呑むんや。」
かう言つて、定吉は二服目の火をつけた。
「
二十歳から呑んだらえゝ、十七ではまだ早い。」と、お駒は圓い眼に
媚を
湛へて
嘲弄ふやうに言つた。
「煙草呑むんと、五斗俵持つんと、……ほえから、……色事するんと、この三つは一所に始まるもんやげな。」
にや/\と笑ひ/\、言ひにくさうにして定吉は言つた。
「定はんが、……嫌ひ。……」と、お駒は一寸横を向いて見せた。
「何が嫌ひや、誰れでもさういふやないか。」と、定吉はお駒の側へ摺り寄つて背中を撫でるやうにした。
「定はんはもう五斗俵が持てるのん。」
「やいや、まだ持てん。膝まで來るが腰が切れん。あかん。」
「それみい、煙草と……それから……其の……何……はしても、五斗俵が持ていでは一人前やないやないか。」と、お駒はツンとして言つた。
「お
駒ちやん、怒つたんかい。怒らんかてえゝやないか。」と、定吉も稍改まつた調子で言つた。
「怒れへん、ちよつとも怒つてやへん。」と、お駒はまた滴るやうな笑顏になつた。
「坊んち、こんな蝋燭どうしなはつたんや。」と定吉は、裏の梅林の方へ遊びに出て直ぐ戻つて來た竹丸を見つゝ言つた。まだ
核子の固まらぬ梅の實を取つて來て、掌に載せた鹽を附け/\、コリ/\
噛り始めてゐた竹丸は、
「病院で
阿母さんに
貰たんや、十二本貰たんを
絲瓜はんと半ぼん分けにしたん。」と、竹丸は板の間に腰をかけて、短い着物からニユツと出た二本の足を振つてゐた。
「蝋燭の土産て、妙やなア。
香奠の返禮みたいやないか。」
變な顏をしてお駒は言つたが、何と思つたか、定吉の煙草入と煙管とを引き寄せ、一服詰めてまだ燃えてゐる蝋燭の火につけ、苦さうに顏を
顰めて煙を吐くと、コン/\と咳をして、板の間に顏を摺り付けつゝ
咽せ入つた。
「お駒ちやん、もうこの頃は白い
丈長懸けんのかい。」と、定吉は、
俯向いて咽せてゐるお駒の
島田髷の
搖いでゐるのを見ながら言つた。
「
旦さんが、そんなものを懸けるな言やはるよつて。……」
漸く咳を止めて、眞ツ赤な顏に苦し涙さへ浮べたお駒は、かう答へて笑つた。
「さうかい。」と定吉がなほもお駒の頭に見入つてゐる時、竹丸はまた何か思ひ付いた風で、
鐵砲丸のやうに裏口から駈けて出た。
程暫くしてから、竹丸の聲で何か知ら「わアい/\」と
囃し立てるのが聞えたので、若い二人は其の
囃し聲に引かれて、裏口へ出て見ると、竹丸の姿は見えないで、突き當りの藪に近い土藏の白壁へ、大きく消炭で、無恰好な
相合傘と、其の下へ、握り飯に箸を突き差したやうな人の形とを書いて、上の方には、「大仲よし、定吉、お駒」と下手な字が行を並べて出來てゐた。若い二人は其の新らしい樂書の傍に寄り、ニヤ/\笑つて見てゐたが、
軈て定吉は下に落ちてゐた消炭を拾ふと、相合傘の側の「定吉」といふ字を消して、其の跡へ「道臣」と小ひさく書き、ベロリと舌を出して首を縮めた。するとお駒はまた自分の名を消して、定吉の棄てた消炭を拾ふと、「お時」の二字を大きく書いた。
「叱られるで。」と言ひながら、定吉は
軈て其の樂書を
悉皆消して了つた。
この村へは一年に一度か二度ほどしか來ることのない、變な帽子を
被つた電報配達人が、松原の入口を小走りに入つて來たので、村の人達は皆目を
欹てた。
「
何家やろ。」
「誰れが死んだんやろ。」
人の死んだことを知らせることより外には、電報といふものの使ひ道のあることを知らぬ村人たちは、配達人の提げた赤い印の付いた小鞄を恐怖の
征矢として、其の飛んで行く先きを見極めようとした。家の奧の方にゐた人は戸口まで出て見てゐた。自分の家の前をば無事に通り過ぎた赤い小鞄を見送つては、ほツとして、死神の來訪を
免れた喜びを顏一面に浮べた。
「
俺んとこは今親類に病人もなかつたんぢや。心配することはない。」
「けんど、急病
頓ころちふこともあるさかいなア。
きんのまでピチ/\してて、ケンビキが肩越して死ぬ人もあるやないか。」
配達人の行き過ぎてから、こんなことを語り合ふ人々もあつた。
電報配達人は、兩側に並んだ五六軒の家の何處へも入らずに走つて、天滿宮の東門前の水茶屋の前に立ち止まつた。
「梅鉢屋さんや、梅鉢屋さんや。」と人々は騷ぎ出した。武士が帶刀のまゝ天滿宮の境内に入ることの出來なかつた時代には、梅鉢屋の
女將が
赤毛氈を敷いた
店頭に立つて、「御門内はお腰の物が
許りまへん。……
息んでおいでやす。……お腰の物を預けておいでやす。」と叫んで、店を繁昌さしてゐた。殊に先々代の
女將は聲が美しく、
天滿村のきりぎりすと呼ばれて、村の
老人の中には今でも其の美しい
聲色をつかふものがある。
店頭に立ち止まつた配達人の姿を見ると、きりぎりすの孫に當る
螽のやうに痩せた今の若い
女將が飛んで出て、配達人に何か言つてゐた。配達人は何事をか教はつた樣子で、きりぎりすの代に建てた水茶屋の大きな土藏に添うて眞ツ直ぐに、天滿宮の東門の石段を登つて行つた。
「西さんや、西さんや。」
「西さんの奧さんが死なはつたんや。」と、人々はまた騷ぎ出した。
道臣は其の時丁どお時とお駒とを相手にして、
居室で酒を飮んでゐた。この二ヶ月ばかり、月日は目にも止まらぬほど早く經つて、麥の穗は黄色く、
四邊は若葉の匂ひに埋れた。もう少しすると鮎が捕れる山川は、此頃引き續いて雨が多いので、水が濁つて瀬も隱れた。眺望が
佳いからと言つてこの梅の坊を
擇んで
住居にした道臣も、此頃では、景色なぞはどうでも可い、といつた風で、毎日お駒やお時を相手にして酒ばかり飮んでゐた。
「
かんのし(
神主)て、えゝ商賣やなア。」と、毎晩のやうに來る定吉は羨ましさうにして言つた。
お駒が酒のお酌か何かに道臣の
居室へ入つて、長いこと
密々話なぞしてゐる時、定吉は別に何事をも感ぜぬらしく、竹丸を
嘲弄つたりして面白さうにしながら、
何時までも根氣よくお駒の出て來るのを待つてゐた。夜晩くなつてもまだお駒と道臣とが居室から出ないと、竹丸はよく定吉の膝に
凭れて眠つた。お駒は定吉の來て待つてゐるのを知つてゐながら、別に氣の毒がるといふことはなく、
憚るといふ風も見せずに、四時間も經つてから、のツそりとして出て來ると、定吉と顏を見合つて互ひにニヤリと笑つた。其の後から道臣が大手を振り/\、煙草盆を片手にノツシ/\と疊を踏んで出て來て、定吉とお駒とが
睦まじさうに膝突き合はしながら話してゐる仲間へ入つて、三人で嬉しさうに笑ひ興じた。
お時が絶えず出入りするやうになつてからも、男と女、女と女との間に、かういふことで互ひに遠慮し合ふといふやうな樣子は見えなかつた。これがこの村の一般の氣風であつた。武家に育つて、こんな氣風に慣れぬことから起つた京子の惱みが、其の不治の病に
罹る
因であるといふ噂もあつた。
「お時さんは
飮けるんやよつて。」と、お駒は道臣が自分に
獻した盃をお時の前へ置いて、波々と注いだ。
「あゝお
駒ちやん、
あんたの貰たお盃やないしか。一人で飮めんのなら、定はん呼んで來て
助けてお貰ひやす。」とお時は笑つて、
注がれた盃をお駒の前へ戻さうとすると、お駒がまた笑ひながら押し戻したので、酒はだら/\と疊の上に
溢れた。
「
勿體ない/\。」と、道臣も
菊石のある
赭顏を酒にほてらしつゝ、兩手に櫻と桃とを
翳した喜びの色を
漲らした。
「電報ツ。」といふ叫びは、この時玄關に響いた。
お駒が顏の色を變へて、立つて行かうとすると、お時も續いて立つた。
「
わたへが行きます。」
「いゝえ、
わたへが。」
二人の女の先きを爭つてゐるのを、道臣は細い
下り
目を溶けさうにして見やりつゝ、電報といふ恐ろしいものの來たことを氣にもかけぬ
状であつた。其處へ、何處かで遊んでゐた竹丸が、素早く電報を受け取つて持つて來た。先きを爭つてゐた二人の女は笑ひながら坐つて、電報の封を切る道臣の手を見詰めた。顏に比べて手の綺麗な道臣は、右の紅さし指に
嵌めた細い金の指輪を光らしつゝ、馬鹿丁寧に電報を
披いて讀むと、一寸考へる風をして、また元の通り電報を丁寧に疊んで、側の小机の上に置いた。
「何んの電信だす。……病院から。……」と、お時は膝推し進めて問うたが、道臣は默つて盃を差し出した。
徳利はまたお駒の手で熱いのに取り代へられたが、酒はもう
はずまなかつた。
「一寸大阪へいて來んならん。」
かう言つて道臣は、盃を足附きの
高膳の上に伏せた。
「お父つあんに知らして來まへうか。」とお時は心配さうな顏をして、小机の上の電報送達紙から眼を離さなかつた。
「さいやなア。これ持つて
去んで見せとくれ。」と、道臣は赤い封紙の正しく切られた電報をお時の白い手に握らせた。
千代松は大阪行の支度をして、
あたふたと出て來た。竹丸が電報を受け取つた時のまゝ珍らしく大玄關が開け放しになつてゐるので、砂利を敷いた其處の敷臺の前から、
「えらいことになりましたなア。これから行きまへう。」と、千代松は滅多には出さぬ高聲をして言つた。
「
あんたもいて呉れはるか。」と、道臣は醉つた顏に
笑を浮べて答へた。
「ハツキヨウちふんやさかい、どツち道輕いこツちやおますまいと思ひまして、金も
ちいと用意して來ました。」と、千代松はまだ少し早いが輕いからよいので着て來た
紺飛白の
單衣の裾を
捲つて、式臺に腰を下ろした。
「えへん、えへん、えへん。」と續けさまに咳をした道臣は、千代松が
喋舌る電報の中味を、竹丸やお駒に聞かせぬやうにしようとした。お駒は聞く耳を立てつゝ、道臣の
外出の着物を箪笥から出した。
ちやんと紋服に袴を着けて玄關に現はれた道臣の姿は、
流石に昔が
偲ばれた。其處へ定吉が來て、「留守を頼む。」なぞと道臣に言はれてゐた。
「火の用心に氣を付けて。……」と、道臣は繰り返し/\お駒に言つて、千代松を後に門を出た。
「猿にも衣裳や。」
お駒は定吉と二人で玄關横の
連子窓から、伸び上つて道臣の後姿を見送りながら、こんなことを言つて笑つた。
「千代さんは
仲間みたいやなア。村一番の良い衆(
金持ちの事)とは見えん。」と、定吉は、油のコテ/\した千代松の
丁髷が、午後の日影に光るのを見てゐた。
「竹にも見せて。」と
背後へ竹丸が來て、定吉の帶に取り付いたので、定吉は重さうに竹丸を抱き上げてやつた。道臣と千代松とは鳥居の前で丁寧に天滿宮を拜禮して、東の門の方へ、葉の繁つた櫻の
老木の蔭に姿を消した。
「奧さん死なはつたのん。」
「まだ生きてやはるんやらう。……
狂氣にならはつたんらしい。」
「狂氣。……」と、定吉は眼を圓くした。
「奧さんも氣の小ひさい人。……胸の狹い人や。」と、お駒は平氣な顏をしてゐた。
「お
駒ちやん、奧さんに喰ひ殺されるで。」と定吉は恐ろし氣な身振りをして見せた。
「
わたへよりお時さんが危い。」と、お駒は矢張り平氣で笑顏を續けた。
「けんどお前は常時此處に居るんやし、お時さんは自分の家に居るんやさかい、どうしてもお前の方が憎まれる。……寢てるとこ咽喉笛に
喰ひ付かれたら
南まん
陀佛や。」と定吉は氣味わるさうに言つた。
「負けるもんか、長いこと病み
呆けた人に。……出て來たらギユウと押へ付けてあげる。
健康な時でも
わたへの方が強い。」
「どうや知らん。」
定吉は不安さうに言つて、腰の煙草入を
弄つてゐたが、
「其の時は
俺が毎晩泊つたろ。」とさも名案を思ひ付いたやうに言つた。
「さうしとくれ、そんなら安心や。」とお駒は臺所の方へ行つた。
「坊んち、阿母さんが死んだら踊りまへうか。」と、定吉は手に唾を付けて、竹丸に角力を
挑む
状をしながら言つた。
「ふん踊らう。」と竹丸は妙な手付きと足踏みとで座敷中を踊り廻つた。定吉もそれに連れて、盆踊りの形をして靜かに踊つた。
「何んや定はん、置いとくれんか。子供みたいに、阿呆らしい。」
臺所から箒を持つて來て、掃除を始めようとしたお駒は、かう言つて、箒で一つ定吉の
臀を
どやし付けた。定吉は竹丸と一所に道臣の
居室に逃げ込んだ。後を追つて來たお駒は、其處に飮み荒らし喰ひ荒らしたまゝ殘つてゐた
杯盤を見ると、箒を棄てて、
「あゝ定はん、一杯飮みんか。
わたへが酌するよつて。」と、取り上げた徳利の尻を撫でてみて、夏になつても
爐塞ぎをせぬ煮立つた釜の湯に漬けて
燗をしなほした。
それからお駒は、定吉を道臣の座蒲團の上へ坐らして、
「さア
旦さん、一つお
喫りやしとくれやす。」と
恭しく盃を進めた。
「うん、駒、
燗はよいか。……えへん。」と定吉は道臣の眞似をしたが、どうも
耐へ切れぬといふ風で、其の眞面目腐つた顏を崩して、大きな聲で笑つて了つた。お駒も共に笑ひ轉げた。竹丸も變な顏をしながら笑つた。
其の翌日の午後、京子は
駕籠に乘つて大阪の病院から歸つて來た。
お駒と定吉とは、
正午少し前頃まで寢てゐて、門も雨戸も閉め切りになつてゐた。
節穴や
隙間から日の光が白く射し込んで、サーチライトのやうにお駒と定吉との枕元を照らした。前の晩獨り寂しく眠つた竹丸は、朝早く飯も喰べずに裏口から出て、遊び廻つてゐた。だいぶ熟しかけた梅の實を取つては、鹽を付けてポリ/\喰べた。
巡禮や參詣人が二三人も來て、神名帳や神符を頂きに社務所へ來たけれど、門が閉まつてゐるので、暫く扉を叩いては、ブツ/\言ひながら立ち去つた。
漸く眼を覺まして、餘りに日の高いのに驚きつゝ、定吉は起き上つて雨戸を繰り開けた。それに續いて、お駒も眼を
擦り/\起きて、よた/\しながら便所へ行つた。二人は縁側で
眩しさうな眼をして、顏を見合つたまゝ默つて突つ立つてゐた。白日は容赦なく二人の
しどけない姿を照らし付けた。
雨戸を開け、門を開け、掃除を濟まして、やつと
人心地が付いた時、川向うの潮音寺の鐘が、ゴーンと耳を刺すやうに響いた。
「やアい、
正午ぢやぞ。」と叫ぶ農夫の
濁聲が何處からか聞える。眠さうな牛の鳴き聲もしてゐた。
急いで炊き付けた釜の中の米が、漸く飯にならうとする時、「えへん、えへん」と道臣の咳が先づ聞えて、京子の乘つた駕籠が嫁入りの時のやうに、玄關へ乘り付けたのである。
股立を取つた道臣の袴にも、尻端折つた千代松の
腿引にも、砂埃りが付いてゐた。
駕籠舁夫が二人、
車夫が二人、ドヤ/\として井戸端で水を飮んだりするので、周圍が俄に混雜をして、お駒はただ茫然としてゐた。
客座敷と道臣の居室との間の六疊に、千代松の手で蒲團を敷いて、病人を寢さした。ツイ二三ヶ月前までは、瘠せて行くばかりであつた京子の身體に、甚だしい
水腫が來て、
角力取りのやうになつてゐた。眼が細く顏が大きくなつて、昔の面影は何處にもなかつた。
それを襖の隙間から覗いた竹丸は、
慄然として、お駒から聽いた化猫の話が、いよ/\確められたやうな氣がした。道臣は袴も脱がずに
竊と竹丸を小手招きして、便所の横の戸棚の前へ連れて行き、
「阿母さんは無茶いふよつて、あんまり側へ寄らんやうにしいや。竹、竹いうて呼んでも、聞えん風してるのやで。」と小ひさい聲で言つた。
「
疲勞れたと見えて、スヤ/\寢てはります。あの分ならまア
ちよいと安心だすなア。」と、何時の間にか千代松が足音も立てずに
背後へ來てゐた。
「さうだすか、
わたへ等もしつかり
疲勞れましたなア。まア
緩然一服しまへう。」と、道臣は稍どぎまぎしながら言つて、先きに立つて
居室へ入つた。
「三月に病院へいた時、蝋燭を十二本も呉れはつたので、可笑しいとおもてましたんやが、あの時から少し變つてましたのやなア。」と、千代松は
例も自分の坐るところへ例ものやうな形に、
版こで
捺した如くキチンと坐つて、肩を搖り/\低い聲で言つた。
「刃物
弄りさへせんと、まだ置いといてもよいのやが、と院長がいうてました。初め
剃刀を
弄つてゐたのを看護婦が
騙して取り上げたんやが、其の次ぎにまた
匕首を弄つてたのを見付けたんで、取り上げて了ふと、それから
暴れ出したんだすな。……院長もさうは言ひよらんけど、さうらしいと思はれますなア。」と、道臣は京子の短刀を懷中から出して机の上に置いた。
「其の匕首はあの人の
寶物や。肌身離さず持つてゐやはつたんやさかい、それを取り上げると氣も
狂ひまへう。……拔けんやうにして持たしとかはつたら、よろしいやろ。」
「拔けんやうにちうても、
狂人力で拔くかも知れんなア。」道臣は首を傾けた。
「
あんたも
疲勞れなはつたやろ、六里の道歩きなはつたのは近年ないこつちや。
わたへもだいぶ疲勞れましたわい。……駕籠屋と車屋
去なして來て、ちいと
息まして貰ひまへう。
あんたも息みなはれ、定はんが居るらしいよつて、あの子に病人を番してて
貰たらえゝ。」
かう言つて千代松は靜かに立ち上つたが、
「乘らん車屋に、
空車曳かして連れて來たんやもん、
阿呆らしい話や、錢只取られて。……けんど
わたへは一里も乘つたかいなア、
あんたは
全で乘りなはれへなんだなア。」と、物惜しさうな顏をして道臣の顏を見た。
「
わしも一町や二町、あれで乘りましたやろ。駕籠の側離れると病人が
喚き出して
轉げ出さうとするもんやよつて、到頭
駕籠脇の
武士みたいなことを初めて勤めて
了うた。」と、續けさまに煙草ばかり吸つてゐた道臣は、プツと細長く煙を吐き出してから言つた。
「天下茶屋の芝居の元右衞門みたいに、駕籠から太い腿を出して、バタ/\暴れられた時は、往來のもんが立ち止まつて見るし、
わたへも氣が氣やおまへなんだ。」と、千代松は言つて、臺所の方へ出て行つた。
道臣はポン/\と手を鳴らしてお駒を呼ばうとすると、次の
室で病人が
健康であつた時のやうに、「ハイー」といふ返辭をしたので、氣味わるがつて首を縮めつゝ、病室を覗いたが、京子はまた眼を閉ぢてスヤ/\眠つてゐた。其處へお駒が來たので、
「酒を持つて來て呉れ、酒を。」と言ひ付けて、
漸く氣が付いたやうに袴、羽織を脱ぎ棄て、襟垢の付いた
平常の白衣を引ツ掛け、白い帶をグル/\卷きにして、コロリと横になると、
手枕をして、
「チヤンヤリホイロ……」なぞと、輕く疊を叩きつゝ、手拍子を取つて、
篳篥の樂譜をやり出した。
其處へ千代松がまた猫のやうに、足音もなく入つて來て、小ひさな帳面に細かく書き付けたのを見てゐたが、
軈て懷中から玉の大きい老眼鏡を取り出し、道臣の枕元に坐つて、
委しく昨日からの入費を説明した。道臣はそれを碌に聞かないで、たゞ「ふん、ふん」と
點頭いてゐた。五百石を
上地した公債證書を千代松が預つて、道臣の家の不時の物入りを辨ずることになつてゐるので、綿密で周到な千代松は、一厘一毛までも誤りのないやうにしようとするのである。
果ては懷中から小さな
算盤を取り出し、節くれ立つた指で、やりにくさうに
彈き出した。
お駒が酒を持つて來たので、道臣は起き直つて膳の上でチビリ/\始めた。千代松はそれに構はないで、算盤と帳面とを睨んでばかりゐた。道臣も千代松には頓着なく、忽ち一本を傾け盡した。
「お父さん、お父さん。」と、次の
室で病人が途方もない大きな聲を出したので、道臣と千代松とは驚いて顏を見合はした。お駒は顏の色を蒼くした。
「お父さん、早うおいなはれ。……あゝ天神樣も御一所に。……
齋世親王樣もお姫樣も。……」
一向に分らぬことを、病人はいよ/\高聲で叫び出した。
道臣は盃を下に置き、千代松は眼鏡も帳面も算盤も一所に
懷中へ
捻ぢ込んで、京子の枕元へと急いだ。お駒は立つたり坐つたり、ただ
周章ててゐた。
「京子、氣を確かに持ちんか。……お前のお父つあんは、もう故人になられたやないか。」と道臣は、
動もすれば歩き出しさうな京子を押へながら言つた。
「あれ
あこへお父さんが來る。」と、京子は半ば起き返つて、障子のガラス越しに川向うを指さした。其のガラス障子は、何事にも珍らし物喰ひの道臣が、まだガラス障子といふものの出來たてに大阪へ註文して、この室の四枚だけを昔から
嵌まつてゐた黒塗り腰高のと取り替へたのである。其の頃は京子の
實家も全盛で、河から河へ廣い地面を貫いた網島の邸に贅澤をしてゐた。たま/\道臣が其の邸へ行つても、出入りの
骨董屋以上の待遇は受けられなかつた。「昔は五百石の
御朱印で」なぞと言つても、「
乃公の家の
糊米だ」と京子の父は高を
括つて道臣を見下げた。腹が
妾だといふので、長女には生れてゐても、京子は弟や妹ほど父に重んぜられなかつた。廣い家には道臣も昔から慣れてゐたけれど、網島の邸の内部の
數寄を
凝らしたのと、美しい小間使たちの多いのとには、キヨロ/\して京子に
窘められることも多かつた。其處の三階の小座敷で、
鼎形の瓶かけに
銀瓶の湯のたぎる音を聽きつゝ、前面の淀川からお城の
角櫓の白壁までを見渡したガラス障子越しの眺めに感心して、道臣は直ぐ自分の家にもガラス障子を
嵌めたのである。馬も網島の義父の眞似をして飼つてみたけれど、庭の泉水に羽を切つて放してあつた
丹頂の鶴は、羨ましがるだけで、眞似がしきれなかつた。
「あゝ孫一が來る。」と病人はまたガラス障子越しに指さしたので、道臣も千代松も前と同じやうにツイ其の方角を振り返つたが、川向うの縣道には人ツ子一人通らないで、里道との辻に立つた
自然石の常夜燈が、寂しく夕陽を浴びてゐた。
「孫一、大けなつたなア。」と病人はまた叫んだ。孫一といふのは、竹丸の兄で、生れて一ヶ月經たぬ中に
亡つた
稚子である。其の次ぎに産れた竹丸の姉は、一年ほど生きてゐたが、この二人の子は村の北山の別當代々の大きな五輪の並んだ後に、二つの小ひさな石碑となつてゐる。孫一の生れた時は、京子の父が初めての孫だと言つて、自分に孫一といふ名を選び、舊藩主から拜領の、
轡の紋を散らした黄金作りの大小を幼い孫へ贈り物にして喜んだ。
「あゝ西郷樣が。……西郷隆盛が。……」と、病人は今までよりもまた大きな聲で、殆んど怒鳴るやうに叫んだ。
「これ/\、氣を確かに持ちんか。」と道臣は、當惑の色を浮べて言つたが、ズツと前に網島の邸へ西郷隆盛といふ大入道が、粗末な
飛白の着物に白い
兵兒帶をだらしなく結んで、「
居るか」と太い聲をして來たことのあるのを思ひ出してゐた。鳥羽繪の西郷隆盛といつたやうな人相をしてゐるので、多分さうした
綽名のある何處かの奇人ででもあらうと思つてゐると、それが
眞個の陸軍大將西郷隆盛であつたのに驚いたことは、今でも半月に一度ぐらゐ思ひ出してゐる。京子の兄の一郎といふのは西郷戰爭の時賊軍に味方して「勝てば官軍……」と歌つたが、其の後アメリカに逃げたとか聞いてゐる。この亂暴者が
曾て父の愛馬を
厩から盜み出し、網島から一鞭あてて、六里の道を天滿宮まで乘り切り、
汗塗れになつた馬を
繋ぎもせずに、道臣を相手に大杯を傾けたことなぞが、次々に思ひ出された。病人がこの次ぎには必ず「一郎さん」と叫ぶであらうと、道臣は考へたが、今度は、
「竹ちやん、竹ちやん。」と優しく竹丸の名を呼んだ。
「竹さん、竹さん。」と、千代松は聽き取れぬほどの低い聲で、次の
室の方に向つて呼んだ。今まで何故竹丸の名を呼ばぬのかと、不思議に思つてゐたのであらう。この場合病人の心を
和げて、幾分でも落ち付かせるのは、竹丸を呼んで來るに限ると、千代松は遂に立ち上つて、竹丸を探さうとした。
母の側へ行くのに
怖氣をふるつてゐた竹丸は、お駒に引ツ張られ、定吉に押されて、病室の入口の襖の蔭まで來てゐたので、それを見た千代松は
否應なしに連れ込んで、京子の枕元に坐らした。
「竹ちやん、遠いとこをよう來たな。
しんどかつたやろ。」と、京子はちやんと起き上つて、
舐め付かんばかりの嬉しさを
湛へた。竹丸は木像のやうに四角張つて、眞正面を向いたまゝ、瞬きもすることが出來ぬらしかつた。
「竹ちやん、お前も十二やよつてな、櫻井の驛子別れの時の
正行と
同い
年や。
阿母さんのいふことを、よう覺えときや。……この
匕首はなあ、阿母さんのお父さん……竹ちやんの
祖父さんの
記念や、これをお前にあげるよつてなア、……阿母さんが死んだら、これを阿母さんやと思うて、大事にするんやで。……阿母さんの顏が見たうなつたら、これを拔いて見るのや、さうするとこの白刃の中に阿母さんの顏が映つてる。……若し阿母さんの惡口をいふ奴があつたら、こいで斬るんや。」
眼も何も
腫れふさがりさうな顏に、涙の露をたらして、京子はヂツと竹丸の顏に眼を注ぎながら、右の
空手で大事な物を握つてゐるやうにして、
恭しく前に差し出した。
「竹さん、阿母さんが、刀をあげると言やはるんだす。お辭儀して頂きなはれ。」と千代松は竹丸に言つて、
眼配せをしたけれど、竹丸は何が何やら分らぬので、腕まで腫れて來た母の拳を見詰めてゐた。
「そんなら、
わたへが取り次いであげまへう。」と言つて千代松は、兩手で京子から物を受ける眞似をして、一寸押し戴くと、更にそれを竹丸の
懷中へ入れてやる眞似をした。竹丸は
擽つたさうな顏をして、母の身體から眼を離さなかつた。
「竹ちやんも大けなると、
腎張になるんやろ。……親に
肖ん子は鬼子や。」と言ふかと思ふと、大きな聲でゲラ/\と笑ひ續けた。
「其處に居るんは誰れや。」
急に笑ひを止めて、京子は次の
室の敷居際に坐つてゐたお駒に眼を付けると、かう言つて
屹と睨めた。お駒は顏を
赧らめて尻込みするのを、千代松が取り成す風にして、
「駒だす。
あんたのお留守に一人で竹さんのお世話をしてゐました。」と言つた。
「駒……駒……駒鳥……將棋の駒……此處へお出で。」
また笑顏になつた京子は、ます/\尻込みしようとするお駒を、
腫れた
二重腮で
麾いた。道臣とそれから次の室の襖に半分顏を現はした定吉とは、冷水でも浴せられたやうな
状をした。
「お
駒ちやん、お召しや。」と、千代松は目顏で知らして、病人に
逆ふなと注意したので、お駒は澁々病床近く
膝行り寄つて、お辭儀をした。
「お駒ちやん。……ハヽヽヽ。可愛らしい名やなア。」と、京子は
眞向から大きな聲を浴せて、綺麗に結つたお駒の
頭髮と愛くるしい頸筋のあたりとを見た。
「お駒ちやん、お前は何や。……此處の家で
何んしてるんや。……お前に竹ちやんは
與らん。欲しいやろ竹ちやんが。……何んぼ欲しがつても
與らん、與らん、與れへん。」と京子は鋭く首を振つた。
「駒は
内方の召使やおまへんか。
女衆だすで、女中さんだツせ。」と、千代松は低い聲をして噛んで含めるやうに言つた。
「女中。……家の女中は代々『鶴』だす。駒といふ女中はおまへん。……駒は
てかけ(
妾の事)はんだすやろ。……女中なら
白丈長を掛けますが、
てかけはんだすよつて、赤い
鹿の
子掛けてます。」と、京子は憎々し氣にお駒の
頭髮を見入つた。
「
てかけでも足かけでもおまへん。
わたへが
請け合ひますさかい、安心しなはれ。」と千代松は微笑んだ。
居たたまらぬ風で、
冷汗を流しつゝ居室へ入つた道臣は、
燗冷ましの酒を手酌でグイ/\飮んだ。
子宮病から
劇しいヒステリーになつて、それから心臟をわるくしたという病院の見立てであつたから、かゝり付けの醫者もそれによつて投藥したけれど、京子の病氣は日増しに惡くなるばかりであつた。何をするか少しも油斷がならぬので、道臣と千代松と定吉とが代り合つて、日夜病床に附き切つてゐた。
「大事の/\
匕首がない。
腎張さんが盜んだんやろ、お父さんに申譯おまへん。」と、京子は突然泣き聲を出して、敷蒲團の下なぞを探つた。
「
あんたあの匕首は、
こなひだ竹さんにあげはつたやないか。」
「いゝえ、竹には
與れしまへん。竹が
持てよるんなら、盜みよつたのか。……竹……竹……竹。」と、京子は大きな聲で呼んだ。其の聲を聞くと、竹丸は驚いて表門の外へ逃げ出して了つた。
お時が厚化粧を
凝らして病氣見舞に來た。
「
あんたは何處のお方や。えらう綺麗にしてはるなア。」と、
先刻から蒲團の上に起き返つて坐つてゐた京子は、ケロリとした顏をした。
「まア奧さんとしたことが。」と、お時は情なささうな顏に涙を浮べて
俯向いた。
「まア奧さんとしたことが。……」と、京子は
嘲笑ひながら、お時の聲色を使つた。
「奧さん、ほんまに、
わたへがお分りになりまへんか。」と、お時はハンケチで涙を拭き/\、顏を上げて言つた。
「奧さん、ほんまに、……
わたへがお分りになりまへんか。」と、京子はまた口眞似をして、有り合はした手拭で涙を拭く形までして見せた。
「奧さん、氣を確かに持つて、よう
わたへを思ひ出しとくれやす。」
お時は絞り出すやうな聲で、かう言つて、また
溢れ落つる涙を拭いた。
「奧さん、氣を確かに持つて、……」と、今度は京子が
あかんべえをした。
何とも物の言ひやうがないので、お時はただ呆れた顏をしてゐると、京子の方から意地わるさうな聲を出して、
「奧さん。……」とやり始めた。お時は
堪らないほど悲しい顏をして、わツと泣き伏した。
「何んぼ何んでも、お時さんを忘れるちふことがあるか。……千代さんとこのお時さんやないか、お前がお針を教へたし、
金毘羅さんへも一所に參つたやないか。」と、道臣はお時の方を見い見い、氣の毒さうな顏をして言つた。
「またあんなこというて
騙すのや。……千代さんとこのお時さんは、天神さんのお
姫さんになつて、
齋世親王と牛車の中でな、……ほゝゝゝゝ。」と、京子は若い娘のするやうに、
科を作つて、
寢衣の袖で羞かしさうに、
脹れた顏を掩うた。
「何いうてるんや。……京子、お前氣を確かに持つて、ゆつくり考へてみいや。お前は夢でも見てるんやらう。」
道臣は物靜かに、よく分らせようとして言つたけれど、京子は
劇しく首を振つて、
「
阿呆らしい、そんな
勿體ないこと考へてるよつて、天滿宮さんの罰が當るんや。
道眞公の臣やいうて、道臣ちふ名をつけたかてあかんなア。」と道臣を尻目にかけて言つた。
道臣は差し俯向きつゝ、頻りに考へてゐた。お時は顏を上げて、泣き
腫らした眼をしばたゝきながら、ニヤリと笑つて道臣の方を見た。
「
空涙溢したかてあかん。」といふかと思ふと、京子は
すツくと立ち上つて、次の室から臺所の方へ歩き出したので、道臣もお時も
周章てた風で其の後に
隨いた。
臺所の板の間に居たお駒は、京子の姿を見ると
逸早く裏口へ逃げ出した。竹丸も續いて逃げたが、定吉だけは、今まで自分に並んで腰をかけてゐたお駒の尻の跡の暖かくなつてゐるところを撫でつゝ、獨りだけ逃げずにゐた。
「あゝ櫻丸がゐた。……お前の嫁はんはお八重ちふんやろ。……何處へ逃げた。」と、京子は定吉の前に立つて言つたが、何か急に思ひ出した風で、土間からお駒の古い利休を穿いて、キユー/\と厭な響をさせながら、裏の井戸端へ行つて、深い井戸の中を
覗き込んだ。
其の夜千代松が來て、
例もの通り足音も立てずに、猫の如く臺所から上つたが、誰れも居ないので、其處の圓形の大火鉢の前に坐つて、何うかすると薄ら寒い初夏の夜を、眞黒に煤けた
藥罐の上に兩手を
翳しつゝ、半時ばかり默つて過した。大きな古家の内は、死に絶えたやうに靜かで、奧の方にも咳拂ひ一つ聞えなかつた。横の方の柱には、珍らし物喰ひの道臣が、網島の邸の廊下にあつたのを見て、直ぐ同じ物を買ひ調へた反射器附きの掛けラムプが、此頃はもう
燻つたまゝぼんやり光つて、だだツ廣い臺所の隅々までを塵一本も殘さずに照らした昔の面影は見えなかつた。千代松は火鉢に
翳してゐた兩手を
懷に收めて、首を傾けつゝ、
傍の
俎板の上に澤庵漬けの黄色い
大根が半分だけ切り殘されて、庖丁とともに置きツ放しにしてあるのを見詰めてゐた。
奧の方に足音がして、大黒柱の横に寂しく姿を現はしたのは定吉であつた。
「あゝ千代さんが來てなはつたんだすか。」と、定吉は稍安心した容子であつた。見れば顏の色は蒼くなつてゐる。
「
狂人さんは何うしてはる。」と千代松は
何氣なく問うた。
「寢てやはる。……それより
わたへ今
しよんべんに上の
雪隱へ行くと、戸の中で
拍手が三つ鳴つた。あれは一體何んやらう。」と、定吉の顏色はまだ元の通りにならない。
「レコが入つてたんやろ。……あの人も雪隱で拍手を叩くなんて、少し
傳染つて來たかなア、
おきちが。」と千代松は
微笑んだ。
「旦那は
納家でお
駒ちやんと飮んでやはる。」と定吉は首を振つて、千代松の側へ摺り寄つた。
「納家で酒飮んではる。……」と、千代松は變な顏をして裏口の方を見た。
「
上の
雪隱には怪しいものが居るに違ひない。
俺ア
しよんべんしたいんだが、怖うてもう中の雪隱へも下の雪隱へも行かれん。」と、定吉は千代松にくつ付くやうにして、兩手を火鉢に
翳した。
「
わしが代りにいてこうか。」と、千代松は冷かしたが、心の中では初代の梅の坊が
女犯の罪を自ら責めて、別當への申譯に、あの上の
雪隱で舌を噛み切つて死んだといふ話に就いて考へてゐた。
梅の坊の幽靈なら拍手は打つまい。鐘を叩くか
珠數を揉むかするであらう。狸が腹鼓を打つたのが、拍手のやうに聞えたのではあるまいかとも思つた。
いつの頃であつたか、ズツと前の或る晩に、お時がこの家へ手傳ひに來た時、上の雪隱はお客用としてこの家の人が少しも入らないのを知らずに、あの暗い廊下を行くと、便所の中にあか/\と
燈火が點いてゐるので、此方から聲をかけたが、答へはなくて、
燈火がふつと消えて
了つたといふことをも思ひ出した。梅の坊へ入る人が代々色好みなのも、初代の祟りであらうといふ村人の噂も考へられた。
「上の
雪隱と言ひ、風呂場の
踏石と言ひ、この家には
祟り
氣のあるもんが多い。」
千代松も覺えず心細さうな獨り言をした。定吉は氣味わるさうに千代松の顏を見て、
「風呂場の踏石て何んだす。あの四角い大けな踏石が祟るんだすか。」と
慄へ聲をして言つた。
「祟るも
絲瓜もあるもんか。」と、千代松は俄に
態とらしく笑つた。
「
先刻お時さんが來やはつたけど、奧さんは分りまへんのや。
あんた何處の人やちうて問やはりました。それから妙なことばかり言やはりますのや。……お時さん泣いてはつた。」と、定吉は少しく落付いた
状をして言つた。
「さうやつたてな。けんどそれや
わしに言はすと

や。
何んぼ氣が
ちごたかて、
わしを知つてゝ、お時を知らんちふことがあるもんか。其處んとこは作り
狂氣や。……何んぼ何んでも、菅原の芝居やおまへんで、櫻丸や
菅秀才が出て來て
耐るもんか。……
わたへは憎まれ役やさかい、差し當り
時平公か松王ちふとこや。」と、千代松は何處までも
粘り強さうな顏に、太い皺の波を打たせた。
「
わたへらのまだ生れん前に、村で狂言(
素人芝居の事)があつた時、
あんたは
近江源氏の花賣佐々木を
演なはつたさうだすな。……今なら
わたへが盛綱を演て、
あんたに時政を演て貰ひますなア。」
「そんな臆病な盛綱では、
和田兵衞の鐵砲の音で眼を廻すやろ。」
二人は
相顧みて笑つた。其の時外の濡れ縁の横にある物置の邊で、ガチヤンといふ大きな音がしたので、定吉は忽ち顏の色を變へた。
「猫やろ。……シイツ/\。」と言つた。
「猫にしては、ちいと音が大け過ぎるなア。」と言ひ/\、千代松は立ち上つて靜かに障子を開けると、外は星月夜で、濡れ縁の前の
御所柿の黒い幹は人の姿のやうであつた。眼を据ゑてヂツと横の方を見ると、何やら動いてゐるものがある。
千代松は後を振り返つて、一寸定吉の頸筋を見てから、外へ出て、音のせぬやうに障子を閉めると、拔き足で濡れ縁から物置の前へ行つて、逃げようとする影のやうなものを中の便所に追ひ詰めた。逃げ場所がなくなつて後を向きつゝ、
「今晩は。……」と言つたのは京子であつた。
寢衣も何もはだけ放題にはだけて、
太腿までもあらはに、口の
邊には、
鐵漿のやうなものがベタ/\附いてゐる。千代松は先づ無言のまゝ京子を
伴うて、中の便所へ通ふ開き戸から、
鰒玉和歌集が
披かれたまゝ唐机の上に載つてゐる道臣の居間を經て、
行燈の薄暗い病室に送り込み、轉がすやうにして蒲團の上へ横にした。
裏口の戸を閉め切つて、納家の
蓆の上で、京子に知れぬやうに、お駒の酌で酒を飮んでゐた道臣は、腰の邊に藁屑の附いたまゝ、
微醉で病室に入つて來て、何も知らずに、
「京子、加減はどうやなア。」と言つた。
漸く放たれたお駒は、臺所で千代松の坐つてゐた跡へ、定吉に寄り添うて坐りながら、二三杯無理に飮まされた酒臭い息を吐いた。
「風呂場の踏石なア、あれが
祟つてるんやさうな。……千代さんがさういうてた。」と、定吉はお駒の顏を覗きながら言つた。
「さうや、あの踏石は、
旦さんが裏の藪にあつたんを運ばして据ゑたんやが、何んでも昔のえらい大將の石塔の臺やといふ話や。それが祟つて奧さんが病氣にならはつたんやろ。」と、お駒は事もなげに言つて退けた。
「千代さんがそんなこと知つてるんなら、なんで旦那に、あの臺石を元の藪に戻しなはれて言はんのやろ。……お
駒ちやんも、なんで默つてるんやなア。」と、定吉は不思議さうな容子をした。
「千代さんが、そんなこと旦那にいふもんか。……千代さんは奧さんの死なはるんを待つてるんやないか。お時さんを二度目の奧さんにしようと
おもて。……それからお時さんの妹がゐるやろ、あの子は十一かなア、あれを坊んちの嫁はんにしようと
おもてるんや。よう分つたる。……今に天滿宮さんを皆な千代さんが取つて了ふんやろ。」
聲は低いけれど、お駒は言葉に力を入れて、定吉に教へ込むやうにした。
「そんならお前も奧さんが死なはるやうに、風呂の踏石のことを旦那に言はんのやなア、あゝさうか。」と、定吉は
厭味らしく言つて横を向いた。
病室では千代松が道臣に默つて、京子の口の
邊に附いてゐる汚れを拭き取つて見ると、何か知ら青い色をしてゐるので、立つて元の物置を調べて見た。
物置の中には、いろ/\の物がゴチヤ/\してゐて、
緑礬の入れてあつた大きな茶碗へ新らしく水を盛つたのが、マッチの灯であり/\と見られた。京子は
緑礬を呑めば死ねると思つたのらしかつた。
其の翌日の夕方、道臣が風呂へ入つて、お駒に背中を流さしてゐるところへ、定吉が來て、
「お加減はどうだす。ぬるけれや焚きまへうか。」と言つた。
「焚いて好けれや、
わたへが焚くし 定はん、
放つといて。……それよりお前は奧さんとこへ附いてんと、また
よんべみたいなことがあるよつて。」
お駒は道臣の背中へ小桶で湯をかけながら、
素氣なく言つた。
「お
駒ちやんに言うてるんやない、旦那に言うてるんや。
直きに口出すんやなア、お前は。」と定吉はプリ/\した。
「もうえゝ、結構、それでえゝ。」
上機嫌の道臣はかう言つて、湯桶に
漬りながら、
「風呂場で
夫婦喧嘩すると、
乃公が困るやないか。……駒、お前一寸京子の番してて呉れ。定はん、そんなら一つ焚いてんか。頼む。」と、仲裁顏をした。
「よろしおます。」と、定吉は勝利を誇り顏に、出て行くお駒の帶のハギの赤いのを見送つてから、風呂柴を折りくべて、ドン/\と釜の下を焚いた。
「ぬるい中に入つて、後からだん/\熱うして貰ふのが一番やなア。大名風呂ちふのはこれや。」と、道臣はざぶ/\やつて、いよ/\上機嫌であつた。
「旦那、この踏石をどけて
了うて、他のもんに代へたらどうだす。」と、定吉は火氣と煙とに、額から汗をたらしながら言つた。
「お前もこの石が祟つてるちふんか。そんな阿呆らしいことがあるもんか。……よしんば祟つてたかて、えゝやないか。……あんな病人早う片付いた方が好いもんなア。……それでもまだ祟りさうやつたら、其の時元の藪へ戻しとこ。……それでよいやないか。」と、道臣は小ひさい聲で、奧座敷へ氣を兼ねるらしい
状をしつゝ、
洒々として言つた。
それから道臣は、風呂の流し場で、お駒の鏡臺を据ゑて、髯の多い顏を綺麗に剃り、まだ時候には早い
浴衣を輕さうに引つかけて、京子の病室に入つて行つた。
「えらう
やつしてなはるな。えゝ男にならはつた。……若いのんが出けると、自分も若うなるもんやなア。」と、京子は殆んど正氣の人のやうな物の言ひ樣をして、道臣を
冷かした。
其處へお駒が出て來て、何やら角張つたものが新らしい風呂敷に包まれたのを差し出し、
「これを大工さんとこから旦那に上げて呉れちうて、三ちやんが持つて來ました。」と道臣に渡さうとした。道臣は不思議さうな顏をして、それを受け取りかけたが、ハツと氣が付いた
状で、手を引つ込め、
「何んやこんなもん、こんなとこへ持つて來るんやない。
彼方へ置いといで、
阿呆んだら。」と
稀らしくお駒を叱つて、眼に
角立てた。
「さいだすか、そんなこと知りまへんもんやよつて。」と、お駒がぷツと
膨れて、風呂敷包を片手に立ち去らうとするのを、
「それ何や、
わしに見せとくれ。」と京子は手を差し延べて、お駒から風呂敷包を取らうとした。
「早う持つて行きんか。何グヅ/\してるんや。」と、道臣は
周章てふためいて、お駒の手から風呂敷包を引ツたくると、急いで玄關の方へ立つた。風呂敷の結び目が解けて、
衝立の陵王の舞樂の繪の前にころりと落ちたのは、刻み立ての白木の
位牌であつた。お駒は凄い眼付でそれを見てゐた。
神道葬祭記といふ本を取り寄せて、この間中から道臣は頻りに研究してゐたが、位牌だけは直ぐ間に合はぬので、出入りの大工を呼び寄せ、本に書いてある雛形を見せて造らしたのである。今風呂敷から拔け落ちた位牌を拾つて
納戸へ入ると、内から締りをして、本の繪と引き合はせた上、位牌をば片隅の人の氣付かぬところへ押し隱した。
「あれ何んやろ、
ごツつおう(
御馳走)か。」と、病室では京子がお駒に言つてゐた。
其の夜
丑三つの頃に、道臣は京子の枕元で看病をしながら、ツイうと/\と居眠りをしてゐたが、蚊帳越しに
颯と吹き込む夜露を含んだ冷たい風に顏を撫でられ、驚いて眼を覺ますと、京子の寢床は空になつて、縁側の雨戸は人の出入りの出來るほどだけ繰り開かれ、山川の瀬の音が
鼕々と聞えて、
行燈の灯は今にも消えさうにチラ/\搖いでゐた。
道臣は青い蚊帳を
撥ねて立ち上ると、帶締め直して、上の便所と中の便所とを見て廻つたが、京子の姿は何處にも見えぬので、臺所の次ぎの六疊に寢てゐるお駒と定吉とを蚊帳の外から起さうとした。二人とも看病疲れでグツスリ寢込んで、定吉の足は二本ともニユーと長く蚊帳の外に出てゐた。
道臣は二人を起さなければならぬ急場の用をも忘れて、窓から射し込む星明りをたよりに、顏を蚊帳に押し付けて覗き込んだ。
「うん。」と叫んで、定吉が寢返りを打つたので、それに誘はれたやうに道臣は、
「定はアん。」と大きな聲を出すと、定吉は漸く眼を覺まして、むく/\と起き上つた。お駒も殆んど同時に蒲團の上へ置き直つて、眼を
擦り/\、キヨロ/\してゐた。
「二人ながら一寸起きてんか。」
かう言ひ棄てて、道臣は病室に引き返した。定吉とお駒とは、手や顏を掻き/\後から病室へ入つて見て、病床の
空なのに、初めてハツキリと眼の覺めた容子になつた。
道臣と定吉とは手分けして、京子の行方を探しに出ることにした。定吉は道臣が、
「そんなもの持つて
行かいでもよいやないか。」といふのを無理に頼んで、脇差しを一本腰にぶち込み、喜び勇んで、
搦手の大將といつたやうな顏をしながら、西の門の方へ出て行つた。道臣はマッチを一つ袂に入れて、東の門の方へ行つた。
お駒は唯一人、
怖々で病室に坐つてゐたが、
兎ても
堪らぬといふ顏をして、玄關に廣い蚊帳を吊つて寢てゐる竹丸の蒲團に這ひ込んだ。
道臣は先づ東の門前の水茶屋の軒下に立つて、
何方へ行つたものかと考へた。水茶屋の戸は堅く締つて、雨風に
晒らされた
[#「晒らされた」はママ]黒い板のところ/″\に新らしく
繕はれた痕が、白く浮き上つて見えてゐた。夜の匂ひは薄暗に漂うて、戸の隙間から若い
女將の細い寢息が聞かれるかと思はれた。松原の方へ長く續いた里道の砂塵は、しツとりと露に濡れて、晝間は氣の付かぬ
凸凹したところが、一目にずうツと見られた。
水茶屋の横を川端へ下りて、猫柳の繁つた岸の上から、水の中を覗くと、星影が魚の目のやうに映つて、清らかな
水垢の
香が、今年も鮎の豐漁を思はせた。杭に繋いで錠をおろした水茶屋の
魚槽には、鯉の跳ねる音がした。
川沿ひに猫柳を分けて、南隣りの村へ渡る長い丸木橋の袂まで來ると、其處は淵になつてゐて、黒ずんだ水の底には、鐘が沈んでゐると傳へられてゐる。牛の寢たやうな岩の上に立つて、
夜目の屆く限り見渡したけれど、兩岸には人らしいものの影もない。小石を一つ拾つて投げ込むと、水音とともに
緩く波紋を起して、黒い淵は微笑してゐる巨人の脣のやうに見えた。
この底に京子は早や冷たくなつて吸ひ込まれてゐるのではあるまいかとも思つて、道臣は岩の周圍を探し廻つたが、冷かな岩は何事をも語らない。
引き返して、水茶屋の前に、また
女將の寢息が漏れるかと立ち止り、それから東の門を入つて行くと、
隨神門の内にマッチでも
摺つたらしい光がチラと見えた。道臣は神殿の
銅の
擬寶珠でも盜みに來たものがあるのではなからうかと思ひつゝ、隨神門の扉を押し開いて、兩側に並んだ石燈籠の蔭や、中をくり拔けば大きな水風呂の幾つも出來さうな、太い幹の松杉の根方などに眼を配りつゝ、拜殿へ昇つて行つた。
結界を越えて廣い板の間を歩くと、參詣人の投げた文久錢が足の裏に冷りとした。常に下ろしてある
簾をかゝげて、東の
局に入つたが、古臭い空氣が鼻を
衝いて、自分の姿さへ見られぬ暗黒である。袂からマッチを出して摺ると、今の先きまで人が居たやうで、神殿の
遷座式の時に使ふ手燭の
雪洞には、蝋燭が半分ほど燃えさして、吹き消した後の
暖みがありさうに見えた。道臣は二度目に摺つたマッチの火を、其の雪洞の蝋燭に移して、よく
四邊を見ると、食物を包んで來たらしい竹の皮などもあつて、疊に薄く積つた
塵埃の上の足跡や膝の跡から見て、三四人の者が車座で
賭博でもしてゐたらしかつた。白に黒の紋を置いた
縁の上には、煙草の吸ひ殼の生々しい燒け焦げも見えた。
京子が此處へ來たので、
賭博を打つてゐた者共が驚いて逃げたのではあるまいか。――と道臣は考へて、
雪洞に暗を照らしつゝ、西の局から
神饌所なぞを見て廻つた。西の局には、この天滿宮の神體になつてゐる菅公自作の木像を絹地に模寫したといふ、極彩色の衣冠束帶の軸物が掛かつてゐる。道臣は雪洞を
傍に置いて、其の軸物の前に拜伏し、稍暫く祈念を
凝らした。神饌所では
俯伏せにした黒塗りの
高坏に雪洞の光と自分の顏とが映つたが、道臣は恐ろしいやうに思つて、映つた自分の顏を正視することが出來なかつた。
雪洞を吹き消して拜殿を下りると、夜はもう曉に近くて、星の影も薄くなつた。拜殿の横から、ぐるりと神殿の後に廻ると、こんもりとした神域の木立は、紫の雲が垂れ下がつたやうで、
梟が一聲けたゝましく啼いた。
横の方の玉垣の側で、何やら白いものがチラと動いたやうなので、道臣は足音を
偸んで近づいて行くと、其處の大きな杉の幹へ、蝉のやうにピタリとくツ付いてゐるのは、寢衣姿の京子であつたから、道臣は
慄然として棒のやうに突つ立つた。
よく見ると、何時の間に持ち出したのか、だらりと垂れた手には金槌を持つてゐる。勇氣を出した道臣が息を吹きかけても分るほどの近さに進んでゐるのに、京子は少しも氣付かぬ風で、身動きをしなかつた。
よく見ると、杉の幹には丁ど京子の頭の屆く高さに、二つの小ひさな市松人形が、釘で打ち付けてあつた。京子が婚禮の時桐の箱に入れて持つて來た上製の京人形で、二つとも女であるが、一つには
緋縮緬の着物を着せ、一つには紫縮緬の着物を着せ、腰に下げた
將棊の駒の形の迷子札には、
麗はしい墨色で名前まで書いてあるのだ。
この二つの人形は、京子が
手匣に入れて病院まで持つて行つてゐたのであるが、今夜金槌とともに持ち出したのであらう。暗黒に慣れた道臣の眼には、杉の大木へ釘付けにされた二つの人形の、白い顏から眼鼻立ちまでが、
鮮かに見えた。
「京子、何してるのや。……
丑の時參りか。」と、力を込めた聲で言ふとともに、道臣は躍りかゝつて、金槌を持つた京子の腕を引つ
攫んだ。
この事があつてから、道臣の家は千代松の
工風で、雨戸も門も總て内から嚴重に締りの出來るやうにした。井戸には蓋をして、夜は錠を下ろした。刃物といふ刃物は、小ひさな
錐まで皆片付けた。
けれども、半月ほどする間に、京子の容態は、もう起き上ることも出來ぬほど惡くなつた。
「起してえ。」
「寢さしてえ。」
半時おきほどづつに、かう
極つたやうに言つて、看病人に
扶けられつゝ、半身を起き上らして貰つたり、寢さして貰つたりした。今はもうお時に對しても、お駒に對しても、ただ自分の全半身を寄せかけ、
靠れかゝつて、少しでも苦痛を忘れさして貰ふといふことより外には、何事も考へてゐない
容子であつた。
竹丸なぞは、もう見るのが
五月蠅さうであつた。
次の居間で、道臣がお時やお駒を相手にして、面白さうに酒を飮んでゐても、氣持ちを惡くするといふ風はなくなつた。
「其處開けて見せてえ――。」と、子供のやうに語尾を長く引いて言つた。
隔ての襖を開けて貰つて、道臣の酒を飮んでゐるのを、高枕の上から絲のやうに細く脹れ塞がつた眼で、樂しさうに見てゐた。
道臣等は初めそれを氣味わるがつたけれど、慣れて來ると、お時やお駒が
此方から聲をかけて、
「奧さん、御酒が始りますよつて、御覽なはれ。」と、襖を引き開けながら言ふやうになつた。すると京子は、うつら/\眠りかけてゐる時でも、分らんことを引つ切りなしに言つて、看病人を困り拔かしてゐる時でも、默つて一心に、道臣の盃の上げ下ろしに、自分の眼の珠をも上げ下ろしして見てゐた。
昔自分が酌をして、この四疊半で樂しい晩餐を取つたことが、
幻のやうに京子の頭に浮かんでゐるらしかつた。其の頃は京子も若かつた。十二違ひで少し年を取り過ぎてゐるが、道臣もまだ男盛りであつた。京子が二十一で、道臣が三十三の新婚の當夜も思ひ出されてゐるらしかつた。銀の燭臺に百匁蝋燭が白晝のやうで、この病室も、其の夜は光り輝いてゐた。この村始まつて以來、まだ見たことのない、上品な、氣高い、芝居に見る奧方のやうな花嫁の姿、それは今でも村人の語り草になつてゐる。明日をも知れぬ、今のやうな淺ましい身體になつて、自分の
決つた世界といふもののない、
紊れ
縺れた神經にでも、昔の折の鮮かな花嫁姿の誇りは、ハツキリと刻み込まれてゐるであらうか。――病の枕から道臣の晩酌を見てゐる京子の顏には、絶えず微笑があつた。
「皆んな其處で
御膳喰べてえ――。」と、京子は自分の枕から見えるところに、一同の膳を持ち出さして、
可味さうに喰べるのを喜ばし氣に見てゐた。半月前の狂暴を思ふと、同じ水脹れのやうな身體から、どうしてこんな人を泣かせる優し味が出るのであらうかと、
流石に道臣は鼻を詰まらして、折角の醉を内攻させることもあつた。
「竹ツ、退けツ。」と、京子が突然大きな聲を出すので、
一同は驚いて箸を止めたが、それは竹丸が一番先きに食事を濟まして、母の眼界から
遁れ去らうとする時、自分の身體で母の眼と一同の食膳との間を
遮つたのであつた。
母に叱られた竹丸は、風呂場へ行つて
丁ど沸きかけた風呂へ入り、手拭で
泡沫玉を拵へて遊んでゐると、お時が顏色を變へて走つて來た。
「竹さん、一寸早うおいなはれ。
裸體のなりでよいさかい。早う/\。」
口早やにかういふと、お時は直ぐ引き返して行つた。けれど竹丸は矢つ張り風呂の中で、ジヤブ/\やつてゐた。
「竹さん、ほんまに早う
おいなはらんか。……
阿母さんが今落ち入らはりますんやがな。」と、お時はまた呼びに來たが、今度は其の圓い眼が涙に濡れてゐた。「女といふものは何時でも
直きに泣けるもんやなア。」と竹丸は思ひながら、濡れた身體を
碌に拭かずに薄物を引ツかけて、母の病室へ來て見ると、
一同が枕元を取り卷いて、事あり氣に坐つてゐた。
「何んぢや立つたなりで。」と父は
背後を顧みて、竹丸を叱つた。手には
おろし立ての筆を持つて、茶碗の水を含ませ/\、幾度も京子の脣に塗つた。
「さア次は
坊んだす。たんと塗つてあげなはれ。」と、お駒も眼の縁を赤く泣き
脹らして、
背後を向いた。
「
末期の水だす。……なんでもつと早う
おいなはれんのや。」と、お時は道臣の持つてゐる筆を取つて、竹丸に渡した。
京子はもう石像のやうになつて、眼を
瞑つてゐた。竹丸はおづ/\しながら進み寄つて、教へられるまゝに、
慄ふ手で、紫色の硬さうな脣へ水を塗つた。今にもわツと口を開いて筆を持つた手に喰ひ付かれはせぬかと竹丸は思つた。
一同が順々に京子の脣へ水を
濡つてから、顏へ白い
片布を掛け、白い屏風を立て廻らして、枕元の小机には、水と鹽と
洗米とを盛つた
土器を置き、細い燈明の火がチラ/\してゐた。
「午後三時三十分だしたなア。」と、道臣は大きな銀側時計を
弄りつゝ言つたが、
軈て
居室へ退いてまた酒を始めた。京子の枕元には、お時が一人
團扇を持つて附いてゐた。
千代松が
周章てた
状もなくやつて來て、お時の渡す水筆で末期の水を塗つてから、道臣の居室へ入つて、
「遲かれ早かれ、かうならはるには
極つてるんやさかい、どうやつてもいかんのなら、早い方がなア。」と、
例もの通り兩方の肩を
搖り/\言つた。
「さいや。……早い方がなア、本人にも、
はたのもんにも。……」と、道臣は溢れるほどに注いた
[#「注いた」はママ]盃をグツと呑み乾したが、
「あゝさうや。」と俄に氣が付いた容子で、盃を置いて立ち上り、押入の小箪笥から京子の大事にしてゐた短刀を取り出して、死骸の
側へ置きに行つた。
「定はん、約束や。さア踊らう。」と、竹丸は臺所の板の間に駈けて行つて、其處に不安さうな顏を二つ並べてゐたお駒と定吉との前で、盆踊りの眞似をした。二人は顏を見合はせて苦笑してゐた。
「さアお
駒ちやん、お時さんを奧さんて言はんならん日が來たで。」
定吉はかう言つて、太い息を吐いたが、
「天滿宮さんも、いよ/\千代さんが占めるんかなア。……」と、言ひ足した。
(大正三年九月)