故郷に帰りゆくこころ

嘉村礒多




 秋になつて来ると、何がなし故郷がなつかしまれる。村はづれの深山の紅葉とか、それから全体として山や水やを恋するやうな心持が頻りに強く動く。
 周防すはうの方に私の故郷の村がある。隣村は長門の国になつてゐて、そこに、長門峡ながとけう、といふ奇勝がある。なんでもA川の上流が、七八里余り渓山の間を流れつづいて、べつだん村落が展けるでもなく、両岸には蒼潤さうじゆんの山が迫り、怪石奇巌ならび立つて、はげしい曲折の水が流れては急渓、湛へては深潭しんたん――といつた具合で、田山先生も曾遊そういうの地らしく、耶馬渓やばけいなどおよびもつかない、真に天下の絶景であると言つてゐられた。
 その入口から二里くらゐ入つたところに雪舟の山荘の跡とつたへらるるところがある。そこらは川幅も広く、瑠璃一碧るりいつぺきの水に山色を映して、ほんたうに高爽脱塵かうさうだつぢんの境である。
 私は秋になると、毎年、紅葉を見にそこへ行つた。何百年もの昔、旅の画家が、雨の降るとき、日の照るとき、くらくなるとき、あかるいとき、この山この水に対して、朝夕画道に専念したのであらうか? 徹底印象派ともいふべき雪舟の作品が、その取材の多くを支那の山水に求めてゐることは言ふまでもないが、この長門峡にも亦ひそかに負うてゐるのではないかしら。私は折があつたら専門の方に問うて見たいと思つてゐる。
 雪舟が周防のY町の雲谷うんこくに住んでゐたのは、四十歳を五つ六つ過ぎた頃であらう。文芸復興期の明から帰つて来て、豊後にちよつとゐて、それから当時大内氏が領主であるY町に来たのである。室町幕府は義政ぐらゐのところで、京都よりY町の方がみいいと思つたのであらうか。Y町在のM村の常栄寺にも長い間寄食してゐて、その寺は大層気に入つたと見え、裏山に走り懸つた飛泉ひせんを引いて、支那の洞庭湖を模した庭を作つたりした。その庭は、その寺にのこされた多くの仏画や山水画と共に国宝になつてゐる。他にも雪舟の作つた庭と伝へられるのが一二ヶ所ある。
「どうだ、和尚、支那流の庭を築いてやらうか。」
 そんな風の押柄あふへいなことを言つて、寺から寺を歩いたかもしれん。或は、居候三ばい目には箸をおき、であつたかもしれん。おそらく後者であつたらうと私は信じてゐる。今でこそ、画聖とあがめられ、名宝展などで朝野の貴顕きけんに騒がれようとも、応永の昔の雪舟は高が雲水乞食に過ぎないのである。よし、当時は大内氏の全盛時代で、Y町の文化が※(「二点しんにょう+向」、第3水準1-92-55)さきに京都を凌ぐものがあつたにしろ、他の通俗的な工芸美術の跋扈ばつこに圧倒されて、雪舟の墨絵ぐらゐ、それほど重きに置かるわけはない。
「おれは、北京の礼部院の壁画をかいて、あつちの天子共をおどろかしてやつたわい。」
 と、威張つて見たところで、さう本当に聞く人は沢山なかつたであらう。それにかれは峻峭しゆんせうな性質で、気節を以て自ら持してゐたから、領主の招きに応ずることもいさぎよしとしなかつたらしい痕跡がある。私は、Y町の県の図書館で、いろ/\読んでみたので、幼稚な独断を書き記して見たのである。
 少年の頃京都の寺にやられ、絵がすきでお経を覚えないところから、短気者の和尚さんに荒縄で柱に縛り付けられて、口惜しい余り傍らにあつた硯の墨を踵になすつて畳の上に五六疋の鼠を描くと、その黒い鼠の群がむつくと起き上つて忽ち荒縄を喰ひ切つて少年の雪舟を助けたといふ童話を、私は今でも信じたいやうな気がしてゐる。
 自然こそは我が師なり――と言つてゐたさうであるが、それも非常にきびしい意味であらう。あふるる強い感情を外界の自然物象に託してゐる著しい点は、かれが青年時代に私淑したとか師と仰いだとかいふ周文などの消極的な作品とは、隔絶した雄渾ゆうこんなものと私は思つてゐる。私の田舎の家に、末派の模写した雪舟の仏画があるが、厚い脣などには、実に生々なま/\しい苦悶の色が見え、長く切れた眼尻など、決して決して澄んだ感じのものではない。濁つた/\、気味の悪い、それでゐて、どうにも抜き差しならないのである。一切のイデオロギーは、極く初歩の思想であることを故郷の家の床の間の、あの懸軸かけぢくを思ひ浮ぶ時、私には然う分つて来るのである。

 真のリアルには、思想を叫ぶ余裕がない。如何なる高遠な理想でも、理想を遠ざかれば遠ざかるほど、その人生と芸術とは高くなつて行くのであるが、そこに永遠に人生の迷ひがあるのである。所詮、日の下に、ほんたうに新しいといふことは、新しい自覚の衝動のみである。

 雪舟はやがてY町を去つてしまつた。石見岩見の方へ旅をつづけた。一簑一笠いつさいちりふの旅であり生活である。そして、もう老いた。七十、八十といふ歳になつた。日本海の浦々を歩いた。岩に砕ける荒浪は恐ろしくなつた。髣髴はうふつたる海天に青螺せいらのごとく浮いてゐる美しい島島の散在を望んでも、も早詩が胸から無くなつた。人間墳墓の地を忘れてはならない!
 雪舟は生れ故郷の備中とやらに帰らうとでもしたらうか。待つ人はなくても故郷へ帰りたかつたであらうが、病を得て、石見か岩見のあたりで死んだ。





底本:「日本の名随筆 別巻41 望郷」作品社
   1994(平成6)年7月25日第1刷発行
底本の親本:「嘉村磯多全集 下巻」南雲堂桜楓社
   1965(昭和40)年9月
入力:浦山敦子
校正:noriko saito
2022年10月26日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(https://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード