随筆「断片」

河上肇




     一

 京都帝大の経済学部教授をしてゐた頃、大正九年九月の新学期から、私は経済学部の部長に補せられた。この地位には大概の教授がなりたがるのだが、私にとつて之は頗る迷惑であつた。と云ふのは、私はすでにその前年の一月に個人雑誌『社会問題研究』を創刊し、大概毎月一冊づつ之を刊行して居たから、いつも講義の準備に追はれてゐる私は、殆ど手一杯の仕事をして居るので、この上学校行政の俗務に携はりたくはなかつた。ただ学部の内規として、教授は就職順に一ヶ月づつ部長を勤めることになつて居たので、私一人がそれを断る訳にも行かなかつた。
 ところが都合の好いことには、一月もたたないうちに私は病気に罹かつた。感冒で寝込んだ後、微熱が去らないので、当時医学部の内科教授をして居られた島薗博士に診察して貰ふと、病気はたいしたこともないが、なんにしても痩せてゐて、よくないからだだから、転地して少し休養されるが可からう、私が診断書を書いて上げるから、とのことであつた。私はこのもつけの幸を歓び迎へ、すぐに部長の職を辞して紀州の田辺町といふ南海の浜辺にある小都会へ、転地療養に出掛けることにした。紀州人であつた島薗博士が予めそこの女学校長に依頼の手紙を出してくれられた。で私は、着くと直ぐに、船まで出迎へてくれられた其の校長さんの世話で、小さな宿屋の一室に身を落ち付けることが出来た。大きな松林が砂地の上に並んでゐる海浜に近い所であつたが、宿は安宿で、私に当てがはれた陰気な部屋には、床に粗末な軸物が懸かつてゐた。丁度真南に当つた所の松林の中には立派な旅館が見えて居たが、律義な校長さんは、長く滞留する筈になつてゐる私のために、費用の点を顧慮されたのであらう、その立派な方の旅館は避けて、貧弱な安宿の方に私の部屋を取つて置いてくれられた。一日分の宿泊料も相当格安に予約されてゐた。すこし安過ぎると思つたが、果して出してくる茶器にしても、食器にしても、夜具にしても、平生家に居て簡素な生活に甘んじてゐる私ですら、少し粗末過ぎると思ふほどであつた。器具類はともかく、食事の粗末なのは、折角転地療養に来てゐてその甲斐がないと思つたから、私は間もなく宿泊料の値上げをして見たが、それもさした効果はなく、青魚の腐敗したのを食べさせられ、全身に発疹したやうなこともあつた。しかし私は、元来どんな境遇にでも満足し得る人間だから、暖い日には海岸を散歩したり、半里ばかり奥にある田辺の町を訪ねて、菓子を買うて来たり(甘党の私は田舎へ行くと、うまい菓子が食べられぬので、いつも弱つた。田辺町の本通りまで買ひに出て見ても、田舎町のこととて気の利いた菓子は得られなかつた。)絵具を持つて写生に出掛けたり、(私は長男の使つてゐた絵具と二三枚の板を持つて来て居た。庭には柑橘類が黄いろく実り、軒下には大根の干してある百姓家を写生したのが一枚、鉢に入れた林檎の静物が一枚、自画像が一枚、これがその時私の描いたもので、後にも先にも私の描いた油絵といへば、一生のうち此の三枚があるだけである。)たまには本を読んだりして、十二月から一月にかけ、この寂しい町の寂しい宿で、丁度一ヶ月の間、日を過ごした。
 私の携へた書物は二三冊に過ぎなかつたと思ふが、その中に一つ、ロシヤ革命のことを書いたサックの『ロシヤ民主主義の誕生』といふ本があつた。私はそれをおもしろく読んだ。(あとで述べるやうに、このことが此の物語全体を生む機縁となつた。当時の私は、病気でもしてこんな所へ来て居なかつたなら、とてもこんな本に読み耽ける余裕は有つて居なかつたのだが。)で、京都に帰つてから、二月に私はそれを材料にして「断片」と題する随筆を書き、これを雑誌『改造』に寄せた。それは全部SとBとの問答から成り、この二人が故人Kなるものの遺稿の断片を整理しながら、感想を語り合ふ形にしたもので、(SだのBだのKだの云ふのは、全く出たらめに選んだのだが、世間の一部では、Sは堺利彦、Bは馬場孤蝶、Kは幸徳秋水のことだらうなどと噂された。)小説欄に入れる訳に行かないにしても、せいぜい謂はゆる中間の読物に過ぎないので、論説として扱はるべき性質のものではなかつた。しかし『改造』はこれを四月号の巻頭に載せた。それは三月中旬に発売されたが、発売と同時に、安寧秩序を妨害する廉を以て、忽ち差押を喰つた。私の書いたものでさうした厄に遇つたのは、これがそもそもの初めである。

     二

 めつたに旅行することのない私が、当時は偶※(二の字点、1-2-22)山口に出張してゐた。山口高等商業学校の教授であつた作田荘一君(後に京都帝大の教授となり、退官後は満洲建国大学の副総長となつた人)を京都帝大に迎へるため、校長に直接談判をしに出掛けたのである。同君は東京帝大の出身であり、当時はまだ纏つた著述も出されて居ず、発表された論文も極めて少く、余り人に知られては居なかつた。しかし古くから交際してゐる私は、その能力を信じて居たので、助教授として同君を京大に迎へんことを教授会に提議し、熱心にこれを主張して、遂に教授会の承認を経るに至つた。しかし同君は山口の方で大事な人だつたので、横地といふ校長が容易に手離さうとしなかつた。で旅行嫌ひの私も奮発して山口まで出向いたのである。
 ほぼ用件を了へ明夕は立つて帰らうとしてゐた日の夜、すでに眠つてゐた私は、真夜中に電報が来たと云つて眼を覚まさされた。改造社からのもので、四月号の『改造』が発売禁止になつたといふ知らせなのである。間もなくまた一通の電報が来た。同僚の河田嗣郎君が同じことを京都から打電されたものである。
 雑誌が発売禁止になつたとて、それを真夜中に打電するなど云ふことは、如何にも大袈裟に聞こえるであらうが、当時の情勢は必ずしもさうでなかつたのである。私は、既に述べたやうに、前々年の一月から『社会問題研究』を刊行して居たが、元来こんなものを私が創刊したのは、今後出来得るかぎり、大学教授の地位を利用しながら、社会主義の宣伝をしてやらうと腹を決めたからのことで、自然、創刊後間もなく、それは権力階級の間において物議の種子となつた。私が以前京都で懇意にしてゐた滝正雄君は、(後に近衛内閣の時、法制局長官を経て企画院総裁となり、退官後、貴族院議員に勅選された人。同君が京都帝大経済学部の講師を辞し、初めて衆議院議員の候補者に打つて出た時は、演説嫌ひの私が、その選挙区たる愛知県下に出張して、何日間か応援演説をして廻つたほど、私はそれまで同君と懇意にして居たのである。当時同君はすでに床次内相の秘書官になつてゐた。)私に書面を寄せて、先生の『社会問題研究』はいま頻りに問題にされてゐる、面倒な事態の起らぬ中に、一日も早く刊行を中止するやうお勧めする、などと言つて寄越した。私はその書面を見て思つた、懇意にしてゐた人ではあるが、何にしても今は政党員で、内務大臣の鞄持ちをしてゐる男のことだ、面倒なことが起ると云つたところで、首になる位が関の山だ、下手に脅かしに乗つて自分から引込むでもあるまい、私はさう思つて、表面上親切な此の忠言を冷然と黙殺した。また同じ頃に福田徳三君は、私が『社会問題研究』の第四冊を、マルクスの『賃労働と資本』のエンゲルス版の全訳に献げたのを見て、河上は研究の名に隠れて主義の宣伝をしてゐる、内務省はなぜあれを発売禁止にしないのか、などと盛んに咆哮した。でも無事に大正八年が過ぎ、大正九年も過ぎ、今は大正十年三月である。ところで、この頃になると、私は愈※(二の字点、1-2-22)その筋から、大学教授中の「危険思想家の巨頭」だと極印づけられ、いつ問題にされるか知れない状態になつてゐた。少くとも私の書いたものが発売禁止になつたら最後、その時こそは直ぐに免官になる筈だといふ噂が、まことしやかに立てられて居り、私自身も已にその覚悟を決めてゐた。(私の場合には限らない、総じて大学教授の書いたものが安寧秩序を妨害すと認められ、発売を禁止されると云ふことは、その地位が問題とされる事由となり得る虞れがある。だから、さういふ危惧のある場合は、著者自身が発売禁止の処分に先だち、市場からの自著の引上げ並びに絶版を決行する習はしである。京都帝大の経済学教授では、ずつと以前に河田嗣郎氏が、近頃では石川興二氏が、さうした処置を取られた。)かうした事情を考慮に入れたなら、旅先の枕許へ二通の電報が舞ひ込んだのも無意味でないことが分からう。
 大学教授の書いたもので、社会の安寧秩序を妨害すと認定され、発売を禁止されたのは、多分これが初めてであつたであらう。で、警保局検閲課の役人も遠慮がちな態度を採り、「断片」以外の論文や小説にも二三いけない個所があると言つて、なるべく事態を漠然たらしめようとした。大学教授は研究発表の自由を有つてゐるのだから、何もあのやうな形式で物を言はれなくとも済む筈だ、などいふ言ひ訳らしい当局者談なるものも、新聞に載せられた。今になつては夢のやうな話だが、二十年余り前の大学教授といふものは、それほどの権威を有ち、軍部的警察的帝国主義の治下に在りながら、大学の一角に拠り、敢然として言論の自由を享受してゐたのである。(当時私は民間の社会主義者よりも遥に広い言論の自由を有つてゐた。堺利彦、山川均などいふ人が筆にすれば直ぐに発売禁止になるやうなことでも、私は伏字も使はずに平気に書いてゐた。昭和二年末、日本共産党が公然その姿を民衆の前に現はすに至るまでは、日本の資本家階級はまだ自信を失はずに居たので、大学における学問研究の自由については、まだ比較的寛大であつた。それに大正の初年に起された同盟辞職の威嚇によつて京都帝大の贏ち得た研究の自由は、牢乎として此の大学の伝統となり、私は少からず其の恩恵に浴したのである。)
 さて山口の一旅館の二階で電報のため眼を覚まさされた私は、愈※(二の字点、1-2-22)来たなと思つたが、電灯を消すとそのままぐつすり寝込むことが出来た。朝、眼を覚まして、案外落ち着いてゐるなと、自分ながら感心した。
 その晩に私は山口を立つた。もうこれで大学教授といふ自分もおしまひだらうし、一生のうち再び機会はあるまいと思つたので、私は一等の寝台車を奮発した。辛うじて発車間際に乗り込んだので、私の慌てた様が物慣れぬ風に見えたのか、それとも私の風采が貧弱であつたためか、寝台車に入ると、すぐボーイがやつて来て、ここは一等だと云ふ。フムフムと返事をするだけで、一向に立ち退く様子も見せないので、ボーイはたうとう私に寝台券を見せろと要求した。案に相違して、ちやんと一等の乗車券と寝台券をポケットから出して見せたものだから、彼は無言のまま、渋々ながらも私のために寝台を用意してくれた。私は癪に障つたから三文もチップはやらなかつた。
 京都駅に着いて見ると、急に西下した改造社の山本社長が、プラットフォームに立つて私を待ち受けてゐた。駅前には自動車が待たせてあつた。すぐそれに同乗して、氏は私を吉田二本松の寓居に送り込んだ。それから私は東京方面の情報を聴いたに相違ないのだが、どんな話を聞いたのか、今は総て忘れた。
 その後改造社から送つて来た何百円かの原稿料は、すぐに返した。四月は大衆雑誌の書入れ時の一つで、どこの社でもいつもよりは部数を余計に刷る。殊にこの時の『改造』は三周年記念特別号として編集されたもので、頁数も多く、部数もうんと増刷された。それがみな駄目になつたのだから、私が改造社にかけた損害は少くない。それを賠償することは出来ないが、相手に大きな損害をかけながら、自分は懐を肥やすと云ふのでは気が済まないから、せめて原稿料だけでも犠牲にしようと、私はさう思つたのである。ところが改造社は東京から一人の記者を寄越して、この小切手だけは納めておいて貰はぬと困るとのことであつた。いくら私が自分の気持を話して見ても、之をそのまま持つて還つたのでは子供の使みたいで立場がなくなると言ひ張り、相手も亦たどうしても折れなかつた。二人は大きな瀬戸物の火鉢を挟んで話してゐたが、私はたうとう癇癪を起して、それなら仕方がない、この小切手は焼いてしまはふと云つて、火にくべかけると、相手は私の手を抑へて、焼いたところで誰の得にもなりません。さうまで仰しやるのなら之は頂いて帰ります、と云ふことになつた。
 発売禁止後に起つた事件と云へば、ただそれ位のもので、私は別に免官にもならず、休職にもならず、戒告一つ受けるでもなしに終つた。私が愈々辞表を出さねばならなくなつたのは、昭和三年四月のことで、此時からあとまだ七年の間、私は大学教授として無事に生き延びることが出来たのである。(尤も一等の寝台車の方は、この時が最初で、また最後になつた。)

     三

 さて「断片」の齎らした波瀾が以上に終つたのなら、私は別にこの思ひ出を書かなかつたであらう。ところが、当時の私はむろん夢想だもしなかつたことだが、この一文は計らずも一人の青年の頭脳に決定的な影響を与へ、それが公にされてから略ぼ二ヶ年半の後には、かの虎の門事件と称される重大事件が起るに至つた。
 かねてより革命思想を抱き、至尊に向つて危害を加へ、これによつて天皇制に対する疑惑を民衆の心に植ゑ付けんとの、大胆極まる計画を胸に描きつつあつた難波大助は、「断片」を読んで愈※(二の字点、1-2-22)その最後の決意をなし、それより熱心にその準備行為に取り掛かつたのである。
 彼の郷里は山口県熊毛郡岩田村である。実はその地方の旧家で大地主であり、当時彼の父は衆議院議員に選出されてゐた。故伊藤博文公と古くから近い関係のあつた家で、(伊藤公も亦た熊毛の産である、)家の什器の一つに、往年同公が英京ロンドンで手に入れたといふピストル仕掛けのステッキがあつた。さすがに巧妙に出来てゐて、外形はどう見ても普通のステッキと少しも違はなかつたが、折り曲げて見ると、中には極めて精巧なピストルが装置されてあつた。大助は猟を始めたいからと称して、その使用を父に請うた。かねてから一室にばかり蟄居してゐて、何だか物を考へてゐるらしい様子を見て、あれでは健康を害するであらうと気遣つてゐた父は、大助が心機一転したらしいのを見て、喜んでその申出を許した。で大助は公然火薬購入の免許を得、そのピストル銃を持つて山にはいり、長い間射撃の練習をした。そして漸く自信を得たので、今度は東京の情勢や地理などを研究するために、暫く東京に出てゐた。
 ところが大正十二年の九月一日には、(それは「断片」が出てから二ヶ年余り過ぎた頃のこと、)関東に大震災が起つて、東京は忽ち焼野原となり、夥しい人々が惨死を遂げ、損害は五十五億円の巨額に達した。この時、無政府主義者大杉栄は甘粕といふ憲兵大尉に惨殺され、また南葛労働組合の幹部であつた平沢計七、河合義虎等数名の者も亀戸で惨殺され、更に無名の朝鮮人で何の謂はれもなく惨殺された者は無数に上ぼつたが、かうした事件は恐らく難波大助に少からざる刺戟を与へたものであらう。
 彼は愈※(二の字点、1-2-22)その宿志を決行するため、震災後東京を立つて郷里に向つた。例のステッキを取りに帰つたのである。
 丁度震災後間もなくのことであつた、まだ交通運輸の状態も平生に復して居らず、時折罹災者と称して金の無心をする者が訪ねて来たり、何となく物情騒然たる雰囲気の漂つてゐた頃、一人の青年が吉田二本松の私の寓居をおとづれた。妻が取次に出ると、自分は山口県熊毛郡岩田村の難波といふ者だが、東京から帰国の途中、旅費がなくなつて困つて居るから、一時取り替へてくれぬか、とのことであつた。妻はその時、岩田村といふのは、自分の弟が養子に行つてゐる村の名であるとは思つたが、その親戚に難波といふ家のあることには気付かなかつた。青年は之を先生に見せてくれと言つて、一片の紙片を渡した。私はその時二階の応接間で友人の小島祐馬君と話をしてゐたが、妻の持つて来た紙片を見ると、姓名住所はなく、自分は共産主義者であるがとあるだけで、あとは口頭で言つたのと同じやうなことが、鉛筆で走り書きしてあつた。どうしたものでせうと小島君に相談すると、共産主義者などと書いてなければよいが、スパイみたいな人間でないとも限らぬし、まあ断つた方が無難でせう、との意見であつた。私も尤もと思つてその通りにした。青年は強要もせず、そのまま辞去した。
 ずつと後になつて分かつたことだが、この青年が計らずも難波大助であつた。彼は私の所で断られたものだから、次には親戚関係のある医学部の市川教授を訪ね、そこで所要の旅費を調達した。そんな関係で、事件後市川教授は、裁判所に召喚されて一応の取調を受けたりした。それがもし私であつたならば、「断片」と二重の関係になるので、相当面倒なことになつたかも知れない。しかし難波が近い親戚を差しおいて先づ私の所を訪ねたのは、「断片」の筆者に一脈の友情を感じてゐたためであらう。それを失望させたのは、今考へると、済まなかつた事のやうにも思はれる。
 一旦郷里に帰つた難波は、例のステッキを携へて再び上京し、年末の十二月二十七日、議会の開会式に行幸のあつた折の鹵簿を待ち伏せて、狙ひ撃ちをした。沿道の警戒は例によつて厳重を極めて居たけれども、彼の携へゐたピストルの外形は完全に普通のステッキだつたので、誰も疑ふ者はなかつたのである。丸は鳳輦のガラス窓に的中した。しかしガラスは特別製のものであり、丸は直線的に貫通しなかつたので、玉体には何の御恙もなかつた。
 これが謂はゆる虎の門事件なるものであり、その責を負うて、約三ヶ月前の九月二日、大震災の惨禍の真只中に成立した山本権兵衛内閣は、その日のうちに総辞職をなし、時の警視総監湯浅倉平(後の宮内大臣、内大臣)は懲戒免官に処せられた。
 当時私はこの事件が自分に何等かの関係があらうとは、夢にも思はなかつた。しかし難波家は、私の義弟大塚有章が養子に行つてゐる国光家と姻戚関係があつたので、予審の内容は一切極秘に附せられて居たにも拘らず、難波の陳述中に「断片」が自分のために最後の決意をなさしめたといふ自白のあることが分かつた。初めてその事を聞き知つた義兄の大塚武松は、当時文部省の維新史料編纂官を勤めてゐたが、事の重大なるを憂慮し、東京に居た私の末の弟、左京に旨を含めて京都まで知らせに寄越した。手紙に書くことをすら用心したのである。
 この難波大助といふ青年は、――後年の共産党員が、一たび検挙されると、有名な巨頭から無名の末輩に至るまで、相次いで転向の誓約を敢てしたのとは反対に、――最後までその自信を曲げず、徹頭徹尾、毅然たる態度を持した、世にも珍らしい、しつかりした男であつた。彼のために裁判長をした当時の大審院長(今その名を逸す)は、後年退官後、何十年かに亘る彼の司法官生活の回顧の中で、自分の取扱つた被告は無数であるが、その数多き被告の中で、自分は難波くらゐしつかりした男を見たことがない、と言つた。大逆人と目さるべき人間について彼がこのやうな事を書いてゐるのは、難波の態度がよくよく立派なものであつたことを思はしめる。(その文章は、「法窓回顧」とか云ふやうな題で『大阪毎日』に連載されたものの中に在つた、と記憶する。もし好事の人が図書館にでも行つて調べたなら、きつと見付かるだらうが、今の私にはさうした面倒を見る余力がない。)
 難波は決して自分の行為を後悔すると言はなかつた。しかしそんな人間が一人でも皇国日本に生まれ出たと云ふことになつては、皇室の尊厳にとつて甚だ忌むべき、由々しき不祥事であつたから、当局者は、裁判を行ふ前、百方手をつくして、被告に悔悟を勧めた。それには有らゆる苦肉の策が施された。難波も最初の中は頑として之に応じなかつたが、彼の最も愛してゐた妹を差し向け、何遍でも彼の面前で泣かしめるやうになつてから、遂に閉口して、ともかく表面上では、当局者の注文通りにしようと約束することになつた。そこで裁判の当日は、先づ被告が、自分の所業は全く間違つて居りました、今では本当に後悔いたして居ります、といふ趣旨の陳述をなし、それによつて、裁判長は悔悛の情顕著なるものありと認め、情状を酌量し、死一等を減じて無期懲役の判決を下すことに、一切の手筈が決まつてゐた。さうすれば、皇室に向つて本気の沙汰で弓矢をひく者は、やはり日本中に一人も居ないのだ、と云ふことになり、更に死一等を減ずることによつて、天皇の名において行はれる裁判の上に、皇室の限りなき仁慈を現はすことも出来る、と考へられたのである。で、判事も検事も弁護士も親兄弟も、みなそのつもりで、一応の安心をしてゐた。ところが、裁判の当日、法廷に立つた難波は、その場に居た総ての人々の予期を破つて、意外にも堂々と自分の変はることなき確信を述べ、最後に声を張り上げてコミンテルン万歳を三唱した。判事も検事も弁護士も、一座の者は尽く色を失ひ、初めて自分たちがだまされてゐたことを悟り、愕然として驚いたが、もはやどうしようもなかつた。かくて難波は、彼の希望通り、年若くして刑場の露と消え去つたのである。(序に言つておくが、コミンテルンは早くから個人に対するテロを排斥してゐる。しかし大正十年代の日本における共産主義の思想はなほ極めて幼稚であつて、コミンテルンの政策などまだ十分には知られて居なかつた。思ふに難波がもつと後の時期に出て居たなら、彼は必ず別種の行動を採つたに相違ない。)

     四

 以上の事実を委しく知つてゐる者は、極めて少数であらう。偶然にも私は、難波が私の義弟の家と姻戚関係があつたばかりに、これらの事実を委細伝聞することが出来たのである。ところで、更にまた偶然の廻り合せで、私は難波大助の屍体が葬られた当時の有様をも、或時委しく知ることが出来た。
 昭和十年の冬、小菅刑務所に服役中だつた私は、ひどい胃痛に襲はれたため、暫く病舎に収容されてゐた。この病舎には独居房は一つしかなく、当時それは瀕死の重病人で塞がれてゐたために、私のやうな治安維持法違反の受刑者は、本来ならば他と隔離して独居房に収容さるべき筈のところ、差当り十数台のベットの並べてある雑居房に入れられた。で私は、――雑談の取締が病舎では案外に寛大であつたおかげで、――側のベットに寝てゐた一人の受刑者から、難波のために墓を掘つた日の出来事を、委しく聞くことが出来た。
 難波が死刑に処せられたのは、恐らく市ヶ谷監獄であつたであらう。小菅には死刑台の設備はなかつた。しかし荒川放水路を隔てた向ふの河岸には、一つの小さな寺院があつて、そこにこの刑務所附属の墓地があつた。難波の屍体はそこへ葬られたのである。当時は社会主義者の一味が途中を擁して彼の屍体を奪ひ取る計画をしてゐるといふ噂があつたので、当局者は神経を尖らし、色々な事に特別の警戒を施した。私に話をした男は、或日の昼間、仲間と一緒にくだんの共同墓地に連れて行かれ、(刑務所のかこひの外で働くかうした受刑者のことを、刑務所用語では外役といふ、)穴を掘らされたが、どうしてこんなに深い穴を掘るのかと、不思議でならなかつた。五寸角の大きな木材も何本か用意されてゐた。埋葬は夜分になつて行はれたが、その時もこの男は仕事を手伝つた。荒川の堤防の上には、提灯をつけた巡査や憲兵が所々にたむろしてゐた。棺は深く地中に埋め、その上を、かねて用意してあつた木材を縦横に組んで堅牢に固め上げ、最後に土砂をかけて仕事を終へたが、その時初めて担当看守から事情を聞かされた。春の彼岸と、秋の彼岸と、毎年十月二十日に行はれる獄中死歿者法会の折とには、いつも外役の者が共同墓地の掃除に行くが、今でも難波大助といふ墓標がありますぜ、などと言つてゐた。私が熱心に聞くものだから、相手は調子に乗つて、もつと事細かく手に取るやうに話してくれたが、今では記憶がうすれて、以上の程度にしか再現できない。
 私はこの話を聞いて、出獄の暁には、ぜひ一度くだんの墓地を訪ねて見たいと思つて居たが、さて出て見ると、それも思ふやうには行かなかつた。
 最後に私は難波に対する判決文のことを書いておかう。裁判は傍聴禁止のもとに極秘の裡に行はれたから、裁判長が被告に読み聞かせた判決文もまた極秘に附せられた。もちろん司法部その他の高官たちは、総ての事情を聞き知つたであらうが、事は皇室に関する問題であり、殊に被告の態度には皇室の尊厳を汚すものがあつたので、慎み深い高官たちの中には、誰一人として余計なおしやべりなどする者は居なかつた。幸運な私は、おかげで助かつた。もし此の判決文が新聞紙にでも掲載されようものなら、私はとくの昔し甘粕大尉のやうな人に、何遍殺されてゐるか知れないのだ。
 と云ふのは、判決文はごく短いものだが、その一節には、河上肇の「断片」を読みて遂に最後の決意をなし云々といふことが、明記されて居るのである。以前京都帝大の教授をしてゐた頃、親しくしてゐた同僚の一人である××〔滝川〕教授が、司法省に保存してある秘密文書の中から、それを書き抜いて来て、私に見せてくれられたことがある。短いものだから其の全文を写し取つて置けばよかつたのに、今では惜しいことをしたと思ふ。
 惜しいと云へば、「断片」の原稿の無くなつたのも残念である。私は改造社に頼んで、一旦印刷所へ廻されて活字の号数などが赤インキで指定してある其の草稿を、送り返して貰つた。私はそれを特別に大事なものに思ひ、余り大事にし過ぎ、家宅捜索など受けるやうな場合に没収されてはと、別置きにして居たものだから、書類整理箱のどの抽出しを調べて見ても、今は見付からない。

     五

 さて以上の思ひ出を書き了へて、私のつくづく思ふことは、私は実に運の善い男だと云ふことである。
 もう今では紙の縁が黄いろくなつてゐる当年の『改造』を出して見ると、「断片」の中には、一九〇四年に内務大臣シピアギン、ウーファ知事ボグダノウ※[#小書き片仮名ヰ、85-3]チ、カールコフ知事オボレンスキー公などの暗殺を計画し指揮した青年テロリスト、グリゴリ・ゲルシュニーが死刑の宣告を受けた場合のことが、最初の方に誌されてゐるが、(このゲルシュニーは一旦死刑の宣告を受けたけれども、その後脱獄に成効し、日本、米国を経由し、仏国に渡つてから病死した。彼が長崎から東京に行つた折には、日本の社会主義者は彼の名誉のため厳粛な歓迎会を催し、また彼が横浜を立つ前には特に送別会を開いた。)私はそこへ、「暗殺さるる者よりも、暗殺する者の方が、より鋭き良心の所有者たること在り得るを注意せよ。」といふやうな感想を書き加へてゐる。また一九〇六年、二十八歳の妙齢を以て断頭台の露と消えたコノプリアンニコーファといふ婦人の裁判廷における陳述の中には、「汝等は余に死刑を宣告するであらう。しかし如何なる場所で余は死ぬるにしろ、――絞首台にしろ、流刑地にしろ、その他如何なる場所であつても、――余はただ一つの考を以て死にゆく。「許せ我が人々! 我の汝に与へ得るところのものは、僅に我がいのち、ただこれしかない。」かくて余は、嘗て詩人の歌ひけるやう、「□□はよろめき倒れるであらう、そして自由の太陽が、ロシヤの全平野に上ぼるであらう。」といふ日の来るべきことの、固き信念を以て死にゆくであらう。」とか、「生活そのものが私に次の如く教へた、……汝は銃剣を以て思想を刺し殺すことが出来ないと同様に、汝はまた思想のみを以て銃剣の力に対抗することも出来ない筈だ。」とか云ふやうな言葉もある。思ふに、どこの誰が言つたことにしろ、こんな言葉を活字に附することは、今は何人にも絶対に許されぬであらう。二十余年も以前のことだとは云へ、私はそれを敢てしながら、遂に聊かの咎めをも受けなかつたのである。この頃の人に話したら、恐らく不思議に感ずるであらう。
 つい近頃のことである、京都帝大経済学部の教授石川興二君は、その著書に禍されて休職になつたが、――その著書といふのも、両三年前、著者自ら市場より引上げ且つ絶版に附して居たものである、――元来同君の如きは、盛んに国体主義を振り廻はし、天皇中心の思想を宣伝これ努めて居たのであるのに、偶※(二の字点、1-2-22)資本主義制を不用意に非難し過ぎたといふ廉を以て、忽ちこの災に遇つた。問題にされた著書の如きも、嘗て発売禁止にもならず、暫くの間無事世上に流布されて居たものであるが、一朝にしてこの災に遇つた筆者は、さぞかし意外とされたであらう。これに比べれば、私などは、ただ「断片」一つを書いただけでも、その当時已に馘首されてゐて然るべきであつたのに、その後引続き七年間も大学に居て、相変らず思ふ存分のことを書き、大学をやめてからも、勝手放題のことを仕出かしながら、今も尚ほ無事に生きながらへてゐて、この世界大乱の時節に、貧乏はしながらも悠々自適、気の向くままに時にはこんな思ひ出など書きながら、余生を楽むことが出来ると云ふのは、考へて見ると、実に過分の幸福と謂はねばならぬ。さう思ひながら、私はここにこの思ひ出、第十一の筆を擱く。
┌昭和十八年四月二十四日稿了┐
└  同  四月二十九日清書┘





底本:「日本の名随筆 別巻96・大正」作品社
   1999(平成11)年2月25日発行
底本の親本:「河上肇全集 続7」岩波書店
   1985(昭和60)年12月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「×」は、底本が用いた伏せ字用の記号です。
※2行にわたる丸括弧は、罫線素片に置き換えました。
入力:加藤恭子 
校正:篠原陽子
2005年2月20日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。



●表記について