放翁鑑賞

その七 ――放翁詩話三十章――

河上肇




渭南文集五十巻、老学庵筆記十巻、詩に関する
説話の散見するものを、拾ひ集めて此篇を成す。

      放翁詩話

       (一)

 呉幾先嘗て言ふ、参寥の詩に五月臨メバ平山下路、藕花無数満汀洲と云へるも、五月は荷花の盛時に非ず、無数満汀洲と云ふは当らず、と。廉宣仲云ふ、此はだ句の美を取る、もし六月臨平山下路と云はば、則ち佳ならず、と。幾先云ふ、只だ是れ君が記得熟す、故に五月を以てまされりと為すも、実は然らず、だ六月と云ふも亦た豈に佳ならざらんや、と。(老学庵筆記、巻二)

       (二)

 杜子美の梅雨の詩に云ふ、南京犀浦道、四月熟黄梅、湛湛トシテ長江去、冥冥トシテ細雨来、茅茨疎ニシテ湿、雲霧密ニシテ開、竟日蛟竜喜、盤渦与岸回と。蓋し成都にて賦せる所なり。今の成都は乃ち未だ嘗て梅雨あらず、だ秋半積陰、気令蒸溽、呉中梅雨の時と相類するのみ。豈に古今地気同じからざるあるか。(老学庵筆記、巻六)

       (三)

 欧陽公の早朝の詩に云ふ、玉勒争門随仗入、牙牌当殿報班斉と。李徳芻言ふ、昔より朝儀未だ嘗て牙牌報班斉と云ふ事あらずと。予之を考ふるに、実に徳芻の説の如し。朝儀に熟する者に問ふも、亦た惘然、以て有るなしと為す。然かも欧陽公必ず誤まらざらん、まさに更にひろく旧制をかんがふべき也。(老学庵筆記、巻七)

       (四)

 張文昌の成都曲に云ふ、錦江近西煙水緑、新雨山頭茘枝熟、万里橋辺多酒家、遊人愛誰家宿と。此れ未だ嘗て成都に至らざる者なり。成都には山なし、亦た茘枝なし。蘇黄門の詩に云ふ、蜀中茘枝出嘉州、其余及眉半有不と。蓋し眉の彭山県(註、成都の南方)、已に茘枝なし、況や成都をや。(老学庵筆記、巻五)

○以上の四項は、いづれも放翁が如何に実事の追究に徹底的であつたかを示さんがために、写し出したのである。
 その雑書と題する詩(剣南詩稿巻五十二)に云ふ、枳籬莎径入荊扉、中有村翁百結衣、誰識新年歓喜事、一※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)一犬伴東帰と。そして自註には※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)犬皆実事としてある。また貧舎写興と題する詩(詩稿巻六十八)に云ふ、粲粲新霜縞瓦溝、離離寒菜入盤羞、贅童擁[#「竹/彗」、読みは「すい」、489-12]枯葉、瞶婢挑灯縫破裘と。そしてこゝにも亦た自ら註して贅瞶皆紀実としてある。彼は自分で詩を作る場合にも、決して好い加減のでたらめを書いては居ないのである。
 私は之についてゴルキーを思ひ出さずには居られない。今私の手許にある彼の『文学論』は、十分信頼の出来る訳書だとは思へないが、その中から、彼の見解の一端を見るに足る或る一つの個所を、ここに写し出して見よう。
 次の一節は、マルチャノフといふ新人の長編小説『農民』について言つてゐる言葉である。――
「多くの批評家はマルチャノフをひどく称讃してゐるが、私は次のことを言はざるを得ない。即ち彼は才能ある人ではあるが、文学者としては恐ろしく無学であると。その証拠には、二一〇頁に、「ヴラディミル・イリイッチの命によつて、マドヴェイは前世紀の九十八年にペテルブルグからウラル地方へ移り、そこで老ボルシェヴィク親衛兵の戦闘部隊を組織した」などと書いてあるが、しかし九十八年にはヴェ・イリイッチは追放されてゐたので、ペテルブルグには居なかつたのである。またこの作者は、どんな戦闘部隊について語つてゐるのだらうか? 元來このやうな戦闘部隊が出来たのは、ずつと後年のことである。作者はまた或る場所で、めす鶯の震へ声のことを書いてゐるが、鳥の雌が鳴かない位のことは、農村の子供なら誰だつて知つてゐる。作者はまた、ある富農の家でキリスト変容祭を祝ふために準備された御馳走のことを、「酸クリームでこつてり味をつけ、そしてバタを初氷のやうに薄くぬつた大麦製のでかい饅頭、アンナの胸のやうに豊麗な小麦製の白いシャニガ(訳注、凝乳菓子の一種)、食卓一杯に並んだ大きな魚入饅頭、それから数へ切れないほどのフヴォーロスト(訳注、油で揚げた焼菓子)や凝乳菓子など。またペーチカの床の上には、脂ぎつた肉のシチュー皿、鱈の耳のスープ皿、ハム、犢肉、松※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)の肉、粥、バタ、ソース等々が、ずらりと並んでゐた。云々」と書いてゐるが、作者が書き並べた数だけの皿を農家のペーチカの床の上に置くことは、物理学的に不可能なのである」。
○序ながら放翁の文中に見えてゐる茘枝レイシのことを説明しておく。この木は、高さ三丈許、葉の状は箭鏃の如くにして平滑、その果は竜眼リュウガン(新村出氏の『辞苑』にその図出づ)の実に似て、熟すれば真赤になり、肉は白くして甘き汁に富む。蘇東坡の潮州韓文公廟碑の終にココニ茘丹与蕉黄としてあるが、この茘丹と云ふのが即ち茘枝の果である。恐らく之は極めて珍らしいものなのであらう。放翁は次のやうな事も書き残してゐる。「予、成都議※[#「巾+莫」、よみは「ばく」、490-16]に参し、事を漢嘉に摂し、一たび茘子の熟するを見る。時に凌雲山、安楽園、皆な盛処。糾曹何預元立、法曹蔡※(「しんにゅう+台」、第3水準1-92-53)肩吾、皆な佳士。相ともに同じく楽む。薛許昌、亦た嘗て成都幕府を以て来り郡を摂す。未だ久しからずしてめ去る。故に其の茘枝の詩に曰ふ、歳杪監州曾見樹、時新入座但聞名と。蓋し時に及ばざりしを恨める也。つねに二君と之を誦す」。更に次のやうな他人の事まで書き誌してある。「余深、相をめて福州の第中に居る。茘枝あり初めてみのる。絶大にして美、名づけて亮功紅と曰ふ。亮功は深家御書閣の名なり。靖康中、深、建昌軍に謫せられ、既に行く。茘枝復た実らず。明年深帰りしに、茘枝復たもとの如し。云々」。茘枝と云ふものの極めて珍らしきものなることを想像するに足る。
○序に今一つ書き添へておかう。東坡が恵州に謫されてゐた頃の詩に和陶帰園田居六首と題するものがあり、その引の中には「茘子※(「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1-90-24)※(「壘」の「土」に代えて「糸」、第3水準1-90-24)※(「くさかんむり/欠」、第3水準1-90-63)実の如し。父老あり、年八十五、指して以て余に告げて曰く、是の食ふ可きに及んで、公、能く酒をたづさへて来り游ばんかと」としてあるが、更に※(「くさかんむり/意」、第3水準1-91-30)苡と題する詩の中には、「草木各※(二の字点、1-2-22)よろしきあり、珍産南荒にならぶ。絳嚢茘枝をけ、雪粉※(「木+光」、第4水準2-14-63)榔をく」といふ句がある。カウはこきあかき色。茘支が真赤に熟したのを、あかき嚢を懸けたやうだと形容したのであらう。ここにも南荒の珍産としてあるから、暖い南支那以外には滅多に見られないものなのであらう。さて余談のまた余談になるが、続国訳漢文大成に収められてゐる蘇東坡詩集を見ると、先きに引いた句が次のやうに講釈されてゐる。「草木とても各※(二の字点、1-2-22)宜しきところがあつて、南荒の地に於ては、殊に珍産が並列して居る。茘支は、赤い嚢を雑へて懸くべく、※(「木+光」、第4水準2-14-63)榔を断ち破れば、中には雪の如き粉があつて、とりどりに珍らしい云々」。ところで、赤い嚢を雑へて懸けるとは、どんなことをするのであらう。不思議に思つて字解のところを見ると、蔡君謨の茘支の詩に、厚葉繊枝雑絳嚢とあるとしてある。なるほど厚葉繊枝の間に雑ざつて茘丹が赤い嚢のやうに懸かつてゐると云ふのなら解かるが、ただ赤い嚢を雑へて懸けるでは、どうにもならない。一体誰がこんな事を書いてゐるのかと巻首を見たら、文学博士久保天随訳解としてあつた。

       (五)

 張継の楓橋夜泊の詩に云ふ、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船と。欧陽公之を嘲りて云ふ、句は則ち佳なるも、夜半は是れ打鐘の時にあらざるを如何せんと。後人また謂ふ、だ蘇州にのみ半夜の鐘ありしなりと。皆な非なり。按ずるに于※(「業+おおざと」、第3水準1-92-83)褒中即事詩に云ふ、遠鐘来半夜、明月入千家と。皇甫冉、秋夜会稽の厳維の宅に宿すの詩に云ふ、秋深臨水月、夜半隔山鐘と。此れ豈に亦た蘇州の詩ならんや。恐らく唐時の僧寺には自ら夜半の鐘ありしなり。京都街鼓今尚ほ廃す。後生唐の詩文を読んで街鼓に及ぶ者、往々にして茫然知る能はず。いはんや僧寺夜半の鐘をや。(老学庵筆記、巻十)

○唐詩選岩波文庫版の註には、この夜半の鐘声について次の如き註が加へてある。「夜半に鐘声あるか無きかに就いて古来論あり。胡応麟曰く、夜半の鐘声客船に到る、談者紛紛、皆昔人のために愚弄せらる。詩は流景を借りて言を立つ、惟だ声律の調、興象の合ふに在り、区々の事実彼れ豈に計るに暇あらんや。夜半の是非を論ずるなかれ、即ち鐘声を聞くや否やも未だ知るべからざるなりと」。かくの如く、胡応麟は、詩に於ては区々の事実は豈に計るに暇あらんや、として居るが、放翁の態度が之と徹底的に対蹠的であることは、以上各項の示すが如くである。
○放翁自身にも宿楓橋と題する七絶があるが、それには七年不到楓橋寺、客枕依然半夜鐘としてある。これはもちろん実際に半夜の鐘声を聴いたのではない、張継の作によつて其の遺響が今尚ほ詩の世界に伝はつてゐるのを、物理的な鐘声よりもより鮮かに聴いたのである。これは夜半鐘声到客船といふ張継の詩が遺つてゐたが故に、始めて生じる詩境である。かくて私はここでも復た、ゴルキーの「真の芸術は拡大誇張の法則を有する、それは単なる空想の所産ではなくて、客観的な諸事実の全く合法則的な且つ必然的な詩的誇張である」とか、「偉大な芸術にあつては、ロマンチズムとリアリズムとが何時でもまるで融合されて居るかのやうである」とかいふ言葉を思ひ出す。
○平野秀吉氏の唐詩選全釈には、「後、張継、再び此に来り、重泊楓橋と題して、白髪重来一夢中、青山不改旧時容、烏啼月落江村寺、欹枕猶聴夜半鐘と詠じたが、詩品も劣り、且つ全唐詩にも載せざるを見れば、或は後人の偽作か」としてある(簡野道明氏著『唐詩選詳説』にも之と同じことが書いてある)。しかるに明の朱承爵の存余堂詩話を見ると、「張継の楓橋夜泊の詩は、世多く伝誦す。近ごろ孫仲益の楓橋寺を過ぎる詩を読むに、云ふ、白首重来一夢中、青山不改旧時容、烏啼月落橋辺寺、欹枕猶聞夜半鐘と。亦た前人の意を鼓動すと謂ふ可し矣」としてある。これで見ると、平野氏の言ふ所とは作者が違ひ、詩も江村寺が橋辺寺となつてゐる。

       (六)

 (跋東坡詩草) 東坡の此詩に云ふ、清吟雑夢寐、得マタと。固より已に奇なり。晩に恵州に謫せられ、復た一聯を出して云ふ。春江有佳句、我酔堕渺莽と。即ち又た少作(わかき頃の作)に一等を加ふ。近世の詩人にして、老いて益※(二の字点、1-2-22)厳なる、蓋し東坡の如きは未だ有らざる也。学者或は易心を以て之を読むは何ぞや。(渭南文集、巻二十七)

○これは多分東坡の自筆に成る詩稿に加へられた跋文であらう。東坡の此詩に云ふとあるより考ふれば、詩は恐らく只だ一首だつたのであらう。ところで清吟雑夢寐、得句旋已忘といふ句のある東坡の此詩の全容はどんなものであるのか、私の坐右にある蘇東坡詩集の中には、いくら探しても出て来ない。それは宋人朱継芳の塵飛到処、山色入※(「尸+(彳+婁)」、第4水準2-8-20)バウク、乗興一長吟、回頭已忘句を思ひ起さしめるが、恐らく朱継芳の方が年代は後であらう。春江有佳句、我酔堕渺莽の方は、幸にして詩の全体を求めることが出来た。それは和陶帰園田居六首の一つで、かういふのである。
窮猿既林、  痩馬初
心空飽新得、  境熟夢餘想
江鴎漸馴集、  蜑叟已還往
南池緑錢生、  北嶺紫筍長
グモ豈解センヤ、  好語時見
春江有佳句、  我酔堕渺莽
 さて此の最後の一聯について久保天随氏の講釈を見ると、それにはかう書いてある。「春江に臨めば、自然、佳句も出来るが、やがて我は酔うて、草木渺莽たる中に倒れて寐てしまつた」。これでは東坡先生も苦笑されざるを得ないだらう。詩にいふ渺莽ベウバウは、広くしてはてしなき貌。そしてその渺莽に堕つるものは、東坡先生ではなく、春江の佳句である。かくして、句を得てまた已に忘ると云ふやうな、おもしろくはあつてもまだ露骨なるを免れなかつたものが、春の霞の如く詩化され、そこに一段の進境を示す。放翁の老いて益※(二の字点、1-2-22)厳といふ評言は、それを指すのであらう。
○前に引いた朱承爵の存余堂詩話を見ると、「東坡、少年詩あり云ふ、清吟雑夢寐、得句旋已忘と。もとより已に奇なり。晩に恵州に謫せられ、復た一聯ありて云ふ、春江有佳句、我酔堕渺莽と。即ち又た少作に一等を加ふ。書家を評して筆年老に随ふと謂ふ、豈に詩も亦た然らざらんや」としてある。詩話など書くほどの人が先人の説を剽窃して平気で居るのであらうか。

       (七)

 東坡の牡丹の詩に云ふ、一朶妖紅翠欲流と。初め翠欲流の何の語なるやを暁らず。成都に遊ぶに及び、木行街をぎりしに、市肆に大署して曰ふあり、郭家鮮翠紅紙鋪と。土人に問うて、乃ち蜀語の鮮翠は猶ほ鮮明と言ふがごとくなるを知る。東坡蓋し郷語を用ひて云へるなり。(老学庵筆記、巻八)

○東坡の詩は和述古冬日牡丹四首と題せるものの一にして、それは次の如くである。
一朶妖紅翠欲レント、  春光囘照雪霜羞
化工只欲新巧、  不間花少休
 続国訳漢文大成を見るに、ここは岩垂憲徳氏の訳解になつて居り、そして私がここに引いた老学庵筆記が引用されてゐる。私はこれによつて此の筆記が必ずしも世に顧みられないものでない事を知るを得た。なほ岩垂氏は字解といふ所で、宋の高似孫の緯略なるものを引用してゐる。それには、かう云つてある。「翠は鮮明の貌、色に非らざる也。然らずんば、東坡の詩、既に紅と曰へり、又た翠と曰ふ可ならんや」。

       (八)

 東坡、嶺海の間に在りて、最も陶淵明柳子厚の二集を喜び、之を南遷の二友と謂ふ。予、宋白尚書の玉津雑詩を読むに、云ふあり、坐臥将何物、陶詩与柳文と。則ち前人、蓋し公と暗合する者あるなり。(老学庵筆記、巻九)

       (九)

 東坡の絶句に云ふ、梨花澹白柳深青、柳絮飛時花満城、惆悵東闌一株雪、人生看得幾清明と。紹興中、予福州に在り、何晋之の大著を見しに、自ら言ふ、嘗て張文潜に従うて遊ぶ、文潜の此詩を哦するを見るごとに、以て及ぶ可らずと為せしと。余按ずるに、杜牧之、句あり云ふ、砌下梨花一堆雪、明年誰ココ闌干と。東坡もとより牧之の詩をぬすむ者に非ず、然かもつひに是れ前人已に之をへるの句、何んすれぞ文潜之を愛するの深きや、豈に別におもふ所あるか。いささか之を記し以て識者をつ。(老学庵筆記、巻十)

○東坡の詩は、和孔密州五絶の一で、東欄梨花と題するもの。杜牧之は世にいふ小杜、杜牧のこと。彼は晩唐の人である。

       (十)

 柳子厚の詩に云ふ、海上尖山似剣鋩、秋来処処割愁腸と。東坡之を用ひて云ふ、割愁マタ剣鋩山と。或は謂ふ、割愁腸と言ふべし、だ割愁と言ふ可からずと。亡兄仲高云ふ、晋の張望の詩に曰ふ、愁来不可割と、此れ割愁二字の出処なりと。(老学庵筆記、巻二)

○東坡の詩は白鶴峰新居欲成夜過西隣※(「羽/隹」、第3水準1-90-32)秀才二首と題せるものの一。問題の句は、繋悶豈無羅帯水、割愁還有剣鋩山といふ一聯を成せるもの。前の句は韓退之、後の句は柳子厚によることは、その自註に記してある。但し続国訳漢文大成では、自註に引く所の柳子厚の句が海上尖峰若剣鋩[#「峰若」に白丸傍点]となつてゐる。放翁は記憶に従つて筆を執り、誤つて峰を山となし若を似となしたのであらうか。蔵書に乏しい私は、今これを審にし得ない。

       (十一)

 夜涼疑有雨、院静似無僧。これ潘逍遥の詩なり。(老学庵筆記、巻五)

○東坡の詩
佛燈漸暗饑鼠出、  山雨忽來脩竹鳴
何人舊詩句、  已應我此時情
といふ七絶の題には、「少年の時、嘗て一村院をぎり、壁上に詩あるを見る。云ふ、夜涼疑雨、院静似僧と。何人の詩なるやを知らざる也。黄州禅智寺に宿せしに、寺僧皆な在らず、夜半雨おこり、尚ほ此の詩をおぼゆ。故に一絶を作る」としてある。知是何人旧詩句の知るは、知らずの意であること、言ふまでもない。東坡の詩によつて伝へられた此の句は、私のやうなものでも記憶してゐるから、長生して書物ばかり読んでゐた放翁が、ふとこんな事を見付けて居るのは、何も不思議はない。潘逍遥は名を※(「門<良」、第3水準1-93-50)ラウと云ふ。宋の太宗に召されて進士第を賜ひ、事に坐して中条山に遁れ、後収繋されしも、真宗その罪を釈し、※(「さんずい+除」、第3水準1-86-94)州参軍となす。詩集及び詞集あり。日本では中野逍遥、坪内逍遥などいふ文学者が居た。これらの人はこの潘逍遥を知つて居たのであらうか。

       (十二)

 (跋淵明集) 吾年十三四の時、先少傅に侍し城南の小隠に居る。※(二の字点、1-2-22)たまたま藤床上、淵明の詩あるを見、因て取りて之を読む。欣然会心、日まさに暮れんとし、家人食に呼ぶも、詩を読むまさに楽く、夜に至つてつひに食に就かず。今之を思ふに、数日前の事の如く也。慶元二年、歳在乙卯、九月二十九日。山陰陸某務観、書於三山亀堂、時年七十有一。(渭南文集、巻二十八)

○放翁六十九歳の作に読陶詩と題するものあり、その冒頭に、「我が詩淵明を慕ふ、恨むらくは其の微にいたらざることを」とあり、また八十三歳の作に自勉と題するものあり、その冒頭には、「詩を学べばまさに陶を学ぶべく、書を学べば当に顔を学ぶべし」としてある。以て如何に彼が陶淵明に傾倒せしかを知るに足る。

       (十三)

 茶山先生云ふ。徐師川、荊公の細落花リテスルコト、緩芳草ルコトに擬して云ふ、細ツノ李花那、偶行キテ芳草スルコトと。初め其意を解せず、久くして乃ち之を得。蓋し師川は専ら陶淵明を師とせる者なり。淵明の詩、皆な適然寓意、物に留まらず。悠然見南山の如し。東坡の其の決して南山を望むに非ざるを知る所以ゆゑんなり。今、細数落花、緩尋芳草と云へば、留意甚し、故に之をふと。又云ふ。荊公多く淵明の語を用ひ而かも意異なる。柴門雖設要常関、雲尚無心能出岫の如き、要字能字皆な淵明の本意に非ざる也と。(老学庵筆記、巻四)

○これは全部他人の説を引いただけのものだが、もちろん賛同の意を含めての引用である。文中にいふところの荊公とは王安石のこと。詩は北山と題する七絶で、全文を写し出せば次の如くである。北山輸シテ横陂、直塹回塘※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)時、細落花リテスルコト、緩芳草ルコト
○なほ文中に東坡の云々と言つてあるのは、東坡の次の説を指したものである。「采東籬、悠然トシテ南山。これは菊を采る次いでに偶然山を見るのである。初めより意を用ひずして、境と意と会ふ、故に喜ぶべき也。もし望南山となせば便ち興味索然たるを覚ゆ」。

       (十四)

 (跋王右丞集) 余年十七八の時、摩詰の詩を読む最も熟す。後、遂に之を置くものほとんど六十年。今年七十七、永昼無事、再び取つて之を読む。旧師友を見るが如し、間闊の久きを恨む。(渭南文集、巻二十九)

○王右丞、摩詰、共に王維のこと。この跋文は王維に対する放翁の関係を知るに足るもの。

       (十五)

 (跋花間集) 花間集は皆な唐末五代の時人の作。の時にあたつて、天下岌岌、生民死を救うていとまあらず、士大夫乃ち流宕かくの如し。歎ずべけんや。或は無聊の故に出づるか。(渭南文集、巻三十)

       (十六)

 (跋詩稿) これ予が丙戌以前の詩、二十の一なり。厳州に在るに及んで、再編、又た十の九を去る。然かも此の残稿つひに亦た之を惜み、乃ち以て子聿に付す。紹煕改元立夏日書。(渭南文集、巻二十七)

○丙戌は乾道二年、放翁四十二歳の時に当る。厳州にて再編すと云ふは、淳煕十四丁未年、放翁六十三歳の時に属す。この年始めて詩を刻せり。紹煕元年庚戌は六十六歳の時に当り。以後家居、この年また詩稿を刪訂せるなり。
○趙翼の甌北詩話には、次の如く書いてある。「古来詩を作るの多き放翁に過ぎたるはなし。今その子、子※[「虚/八」、よみは「きょ」、498-15]が編する所の八十五巻に就いて之を計るに、已に九千二百二十首。然かも放翁六十三歳、厳州に在りて詩を刻し、已に旧稿をつて痛く刪汰を加ふ。六十六歳、家居して又た詩稿を刪訂す。自跋に云ふ、これ予が丙戌以前の詩、十の一なり、厳州に在りて再編、又た十の九を去ると。然らば則ち丙戌以前の詩にして存する者はわづかに百の一のみ」。即ち私の見てゐる渭南文集には、丙戌以前詩二十之一としてあるのが、趙翼の引く所では十之一となつてゐる。私は今どちらが正しいかを確め得ない。

       (十七)

 岑参の西安幕府に在るの詩に云ふ、ナンラン故園月、マタ鉄関西と。韋応物作郡の時亦た詩あり云ふ、ナンラン故園月、今夕在西楼と。語意悉く同じ、而かも豪邁間澹の趣、居然自ら異る。(老学庵筆記、巻三)

       (十八)

 劉長卿の詩に曰く、千峰共ニス夕陽と。佳句なり。近時僧癩可これを用ひて云ふ、乱山争落日と。たくみなりと雖もせまる。本句に※(「しんにょう+台」、第3水準1-92-53)およばず。(老学庵筆記、巻四)

○放翁六十歳の時の詩に、「独り立つ柴荊の外、頽然たる一禿翁、乱山落日を呑み、野水寒空をさかさまにす」といふ句がある。

       (十九)
 呂居仁の詩に云ふ、蝋燼堆盤酒過花と。世以て新となす。司馬温公、五字あり、云ふ、煙曲香尋篆、盃深酒過花と。居仁けだし之を取れる也。(老学庵筆記、巻四)

       (二十)

 唐の韓※(「雄のへん+羽」、第4水準2-84-90)の詩に云ふ、門外碧潭春洗馬、楼前紅燭夜迎人と。近世、晏叔原の楽府詞に云ふ、門外緑楊春繋馬、床前紅燭夜呼盧と。気格乃ち本句に過ぐ、之を剽と謂はざるも可なり。(老学庵筆記、巻五)

○呼盧とは賭博のことなり。 ○晏叔原、字は幾道、宋人なり。その詞の全文は次の如し。家近旗亭酒易※(「酉+古」、第4水準2-90-35)、花時長得酔工夫、伴人歌扇懶妝梳。戸外緑楊春繋馬、牀頭紅燭夜呼盧、相逢還解有情無。(放翁の引くところでは、戸外が門外、牀頭が牀前となつてゐる。)
○薛礪若の『宋詞通論』には、晏叔原の詞について、次の如く述べてある。「彼の詞、最も善く詩句を融化す。後期の周美成と正に復た遥々相らす。例へば彼の浣渓沙「戸外緑楊春繋馬、牀頭紅燭夜呼盧」の二句の如きは、完全に唐の韓※(「雄のへん+羽」、第4水準2-84-90)の詩句を用ひ、わづかに原詩「牀前」の「前」字をつて一個「頭」字に易へ、而かも用ひ来つて直ちに天衣無縫の如し、云々」。

       (二十一)

 白楽天云ふ、微月初三夜、新蝉第一声と。晏元憲云ふ、緑樹新蝉第一声と。王荊公云ふ、去年今日青松路、憶似聞蝉第一声と。三たび用ひて※(二の字点、1-2-22)いよいよたくみ。詩の窮り無きを信ず。(老学庵筆記、巻十)

○王荊公とは既に述べた如く王安石のこと。

       (二十二)

 唐の王建の牡丹の詩に云ふ、可零落ズヰ、収シテと。工なりと雖も格卑し。東坡その意を用ひて云ふ、未スニ泥沙牛酥ギウソ落蕊と。超然同じからず。(老学庵筆記、巻十)

       (二十三)

 水流天地外、山色有無中。王維の詩なり。権徳輿の晩渡揚子江の詩に云ふ、遠岫有無中、片帆烟水ほとりと。已に是れ維語を用ふ。欧陽公の長短句に云ふ、平山闌檻倚晴空、山色有無中と。詩人ここに至つてけだし三たび用ふ。東坡先生乃ち云ふ、記取酔翁語、山色有無中と。則ち欧陽公この句を創為すと謂ふに似たるは何ぞや。(老学庵筆記、巻六)

       (二十四)

 欧陽公、夷陵に謫せられし時、詩に云ふ、江上孤峰蔽緑蘿、県楼終日対嵯峨と。蓋し夷陵の県治、下は峡江に臨む、緑蘿渓と名づく。此より上にさかのぼれば、即ち上牢下牢関、皆な山水清絶の処なり。孤峰は即ち甘泉寺山、孝女泉及び祠ありて万竹の間に在り、亦た幽邃喜ぶ可し。峡人歳時遊観頗る盛。予、蜀に入る、往来皆な之をぎる。韓子蒼舎人、泰興県道中の詩に云ふ、県郭連青竹、人家蔽緑蘿と。欧公の句にちなめるに似て而かも之を失す。此の詩蓋し子蒼の少作、故に云ふところをつまびらかにせず。(老学庵筆記、巻七)

       (二十五)

 荊公の詩に云ふ、閉戸欲ルモ愁、愁終と。劉賓客の詩に云ふ、与老無キモ期約、到来何等閑ナルと。韓舎人子蒼、取りて一聯として云ふ、推愁不また相覓、与老無期稍と。古句に比して蓋し益※(二の字点、1-2-22)たくみなり。(老学庵筆記、巻八)

       (二十六)

 杜詩の夜闌更秉燭、意は夜の已に深きを謂ふなり。睡るべくして而かも復た燭を秉る、以て久客帰るを喜ぶの意を見る。僧徳洪妄云ふ、更はまさに平声に読むべしと。なんぞ是あらんや。(老学庵筆記、巻六)

○杜甫の詩は羌村(村の名、当時杜甫の妻子の寓せし地)と題するもので、その全文は次の如し。
※(「山+榮」、第3水準1-47-92)タリ赤雲西、  日脚下平地
柴門鳥雀噪、  歸客千里ヨリ
妻孥怪ルヲ、  驚マツテマタ
世亂レテ飄蕩、  生還偶然
鄰人滿墻頭、  感歎シテ歔欷
夜闌ニシテ、  相對シテ夢寐
 徳洪妄は更字をさらにの意に読まずに、こもごもの意に読まさうとしたものと思はれる。

       (二十七)

 老杜の哀江頭に云ふ、黄昏胡騎塵満城、欲城南城北と。言ふこころは方に皇惑、死を避くるの際、城南に往かんと欲して、乃ちいづれが南北なるやを記する能はざる也。然るに荊公集句両篇、皆な欲往城南城北とす。或は以て舛誤となし、或は以て改定となす、皆な非なり。けだし伝ふる所の本、※(二の字点、1-2-22)たまたま同じからず、而かも意は則ち一なり。北人は向を謂ひて望となす。城南に往かんと欲して乃ち城北に向ふと謂ふは、亦た皇惑、死を避け、南北を記する能はざるの意なり。(老学庵筆記、巻七)

○問題とされてゐる句は、少陵の野老声を呑んで哭す、春日ひそかに行く曲江の曲といふ句で始まる七言古詩の結句である。岩波文庫版には欲往城南忘南北とし、脚註に「一本に南北を城北に作れるあり」としてあるが、私は城北を南北としては全く駄目だと思ふ。
○荊公集句とは王荊公唐百家詩選のことか。

       (二十八)

 今人杜詩を解する、だ出処を尋ね、少陵の意初めより是の如くならざるを知らず。且つ岳陽楼の詩の如き、昔聞洞庭水、今上岳陽楼、呉楚東南※(「土+斥」、第3水準1-15-41)、乾坤日夜浮、親朋無一字、老病有孤舟、戎馬関山北、憑軒涕泗流、此れ豈に出処を以て求む可けんや。たとひ字字出処を尋ね得しむるも、少陵の意を去る益※(二の字点、1-2-22)遠し。けだし後人と杜詩の古今に妙絶なる所以ゆゑんのもの何処に在るやを知らず、だ一字も亦た出処あるを以てたくみと為すも、西崑酬倡集中の詩の如き、何ぞかつて一字の出処なき者あらん、便すなはち以て少陵に追配せんとする、可ならんや。且つ今人の作詩、亦た未だ嘗て出処なきはあらざるも、かれ自ら知らざるのみ、若し之が箋注を為さば、亦た字字出処あらん、但だ其の悪詩なるを妨げざるのみ。(老学庵筆記、巻七)

       (二十九)

 老杜の薛三郎中に寄す詩に云ふ、上馬不扶、毎扶必怒瞋と。東坡の喬仝を送る詩に云ふ、上山如飛瞋と。皆な老人を言ふ也。蓋し老人は老をむが故のみ。し少壮なる者ならば、たすけらるるも扶けられざるも与に可、何のいかることか有らん。(老学庵筆記、巻八)

       (三十)

 欧陽公、梅宛陵、王文恭の集、皆な小桃の詩あり。欧詩に云ふ、雪裏花開イテ人未知、摘相顧ミテ驚疑、便ベシメテ花前、初今年第一枝と。初めだ桃花に一種早く開ける者あるのみとおもへり。成都に遊ぶに及んで、始めて所謂小桃なる者は、上元前後即ち花を著け、状は垂糸の海棠の如くなるを識る。曾子固の雑識に云ふ、正月二十開、天章閣賞小桃と。正に此を謂ふなり。(老学庵筆記、巻四)[#原文は括弧「〔〕」を使うが、他の所と一致させるため改める]

○上元は旧暦正月十五日。即ち小桃と云ふのは、百花に先だちて正月匆々に咲く海棠に似た花なのである。東坡の陳述古に答ふと題する詩に
小桃破萼未春、  羅綺叢中第一
聞道キクナラク使君歸ルノ後、  舞衫歌扇總
といふのがあるが、放翁の説明によつて起承二句の意味がよく分かる。ところで続国訳漢文大成の蘇東坡詩集を見ると、岩垂憲徳氏は、之に対して次のやうな講釈を加へて居られる。「春風が柳を吹いて、緑は糸の如く、晴れた日は、紅を蒸して小桃を出すと云ふが、小桃が紅萼を発いたので、却て春にへられない風情がある。そして綾錦羅綺の中に、解語の第一人がある」。凡そ此の種の講釈本をたよりに、漢詩を味ふことの如何に難きかは、之によつて愈※(二の字点、1-2-22)悟るべきである。
○放翁自身の詩にも次のやうなのがある。序に書き添へて此の稿を了ることにしよう。
西村一抹煙、  柳弱小桃妍
春風、  先生※(「手へん+主」、第3水準1-84-73)
  八月に入りてより屡※(二の字点、1-2-22)高熱を発し、九月に入るも未だ癒えず。病間この稿を成す。
昭和十六年九月九日  閉戸閑人





底本:「河上肇全集 20」岩波書店
   1982(昭和57)年2月24日発行
底本の親本:「陸放翁鑑賞 下巻」三一書房
   1949(昭和24)年11月発行
入力:はまなかひとし
校正:今井忠夫
2004年5月18日作成
2005年11月2日修正
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