婦人は美くしいものである。
だから婦人は画家にとつて何時の時代でもよき画材とされてゐる。古来からの名画の中には婦人を描いたものは甚だ多い、もし古今東西の美術の中から「婦人」を除いたら実に寂寥たるものであらう。実に「女ならでは夜の明けぬ」は只にこの世のみの事ではない。美術の王国は美のみの国だけに一層に婦人を尊しとするのである。
一体、美術、殊に絵画の極は何と云つても人物画につきると云つても過言ではない程、美術にとつて、人物を描くといふ事は面白い又むつかしい事なのである。古来から美術作品の中その美的内容の最も深いところのものはどうも多く人物画に止めを刺す。
これは何故か、人物画といふものは、人が人を描くのであるだけに、美術に於ける「形」以上の世界が広く、又深い。一体人間の顔程、画家にとつていろ/\な美術的感興を興させるものは他にない。人の顔は実に複雑である。そして深い多くの
彼のオランダの古大家、ヤン・フアン・エツクの描いた様々な男女の肖像画を見るならばこれ等の事はよく分る筈である。
兎も角も、人物画といふものは、描く人にとつても、またその画を観る人にとつても、ともに最も深い芸術的感興の対象であり得るといふ事は大体に於て云ひ得る。勿論、偉れた花鳥画は、平凡な人物画よりいいと云ふ事は論をまたないが、只画的対象としてみる時、「人物」はたしかに他のものより画的興味を引き起す素因が多く又深いといふ事は云ひ得るのである。
人物画には只に、眼に見える形の美以外に、「生けるもの」としての感じがある。否「生ける人」としての感じがある。「人」を描く、この事は又、「心」を描くといふ事である。
昔からよく、「人物」や、「生きもの」を描く時は、眼は最後にこれを描くといふ事を云ふ。仏像などでも眼は最後に入れたもので、「開眼」といふ言はこれからはじまつた由聞き及んでゐる。が、とも角この事は決して無稽な事ではない。生きものや人物画を描くに当つて眼は実に大切である。眼は心の窓といふ事があるが、画家に於ても、その事は本当である。眼でその画の活殺が極ると云つて過言でない程、この眼といふものは大切である。
人物画(及び動物画)にあつては眼を立派に描き得るといふ事は、とりもなほさず「形」以上のものを描き得るといふ事である。私の常に云ふ美術に於ける唯心的領域とはこれであつて、どんな美術にでも何等かの現はれ方でこの形以上の世界の描かれてゐないものは凡作であると云つてさしつかえない。「形」以上のものと云つたところで、それはやはり形の上に宿つて表現されるのであつて、画家はやはり形を描く事によつてその形以上のものを表現するより外にない、だからつまりすぐれた画家は形以上の形を描く人と云ふ事が出来る。
心を以て心を描くといふ事は、肖像製作又は動物画等「生けるもの」を描く時に一層よく優れて画家の経験するところであるが、即ち眼に見える、対象の形以上の感じ、即ち「精神」を只に手工のみでなく、深い心をその手先にこめて描く事である。
人物又は生きものの眼を描く時この事を知らなくては、それを本当に生かして描く事は出来ない。かく人物画のコツがその眼にあるといふ事は決して過言ではなく、昔からの名人の逸話や、八方にらみの竜などの云ひつたへが決して只に通俗な御話でのみないといふ事が分る。
近来、印象派や或る自然主義以降、この人物画などに、さういふ「心」を描くとか、又は「性格」を表はすとか、「人」としての感じを生かすとかいう事は昔の事であつて、美術は只色を描き形を描けばよろしいといふ考が新しいとされる傾向がある。これ等の人に云はせると、「人」を「人」として描くといふ事は、その画家の知識が入るのであつて絵画は純粋に感覚を以てすべきものであるから知識の混入は不純であるといふ。眼に見えて、一つの色として、
が、これ等の考は、吾々が描かうとする対象を見る時、只それ等を色として光として蔭としてのみ感じるのが、絵画的に純粋であると断定したところに致命的な誤りがある。絵画又は造形芸術の対象となり得べきものは決して、形や色の感覚のみに限られない。絵画上の対象となり得る感覚には、吾人の知覚、想像、生活上の経験聯想、及びそれ等に対する価値上の批判等によりて引き起こされる色々の「感じ」もこれを、造形上の利益となし得る、たとへば、人物の顔を描くに当り、その人の如何にも善良らしい風貌や、眼に宿るやさしさ、「心」等は、これは決して、色の感覚でも形の感覚でもない、もとより色、形によりてそれ等は見えるが、色、形そのものの感覚ではない。しかし、さうだからとて、それを、画に描き得ないものでもなく、従つて、描いてはならぬものではない。描き得ないものを強ひて描かうとするなればそれは誤である。印象派其他の考へはこれ等のものを絵画に於て描く可らずとしたところにその致命的誤りがある。
即ちこの場合は、その人物の善良さとか眼の愛の心持とか云ふ様なものは、一つの造形的感覚となり得るのであつて、これを形の上に或る法をとれば充分描き得るのである。
それは画家が観照し得さへすれば充分に、感覚される一つの造形上の感覚である。形として色としてそれを感じるのではないが、しかし、造形芸術以外の何ものに於ても表出出来ない一つの芸術上の表現要素を其処に見る事は確実である。画家は只それを色と線と形とトンによりて表はすのである。
人物を描くにあたつて、それを色の美として、塊の美として光と蔭の美として表はす事は勿論悪くはなからう。しかし「人」を「人」として描き得る事は更に人間として又画家として喜びであらねばならない。
話が大分横にそれたが、これは、人物画としての婦人画の御話をする前に一応、皆さんに解つて頂き度いためと、もう一つばかりしていろ/\美術上の御話をしたいためとかく多少わざとわきへそらしたのである。
さて、これで人物画といふものが、美術の上で殆ど最も重きをなすものだといふ事を説明したが、その人物画の中、何と云つても婦人は、「美」に
よく男性美などと云ふ事を云ふ。しかし、所謂男性美といふものは、どうも少し粗野で簡単で、概念的になりやすい。私は画家として男性美といふ語はあまり好まない。
男性美といふ考は、婦人美又は曲線美の持つ、「綺麗」とか美くしいとかいふ、美の通俗性に対してその逆を行つたもので、力の美といふ事を、綺麗とか、優美とかいふ事より一層、高踏的なものと考へたものである。
しかし、「力」の美といふものは必ずしも、綺麗とか優美とかいふ美よりも高踏的なものとは云へない。又綺麗とか優美とかいふ事は必ずしも、通俗な美でもない。力の美にしても又は優美な美くしさにしても、只大切なのはその美の内容である。美はその表はれる形式の性質によつて必ずしも深浅を定められない。美そのものが深ければ、如何なる形式に於て表はれても深いのである。只綺麗とか優美とかいふ事は、美の表はれ方に於ては最も普遍的であつて、分りやすいものであるため、大体に於て、美術に於ける最も深い感じは「綺麗」とか優美とかの美の他に於て表はされる場合が多い。しかし、必ずしも絶対にさうなのではなく、フロレンスの古い大家のフラアンヂエリコとか、レオナルドの
だから、必ずしも、綺麗なものは浅いといふ事は云へない。力の美といふ事は、綺麗といふ事から見ると一歩、美の形式としては進んではゐる。つまり幾分専門的な審美感がないと分りにくい美的要素である。しかし、それだからとて、力の美が綺麗の美より深いといふ事は云へないのは前述の理由で明かである。
のみならず、力の美といふものは、綺麗とか優美とか云ふものよりは、美の形式としてずつと、局部的な、そして狭いものであるだけに、どちらかと云ふと、力の美だけで独立して最も深い美的主観を表はすといふ事はむつかしい事になる。だから、その主観さへ深ければ、力の美でも最も深いものを表はせると云ふ事は理窟では云へても、実際では、最も深い美的主観へ力の美をとの美的形式の主とする事はまづない。客として用ゐる事はあるけれど。
要するに、美の最も深い感じは、「静寂感」又は「無限感」にあるのだから、「力」といふ様な多少でも動的意義のあるものは最後の美の主的形式となるには応はしくない。これに反して、綺麗とか優美とか云ふ様なものは、静寂にずつと近い素質を持つてゐるので、最高の美感の形式としてはずつと適当なものであると云ひ得る。
かういふ理由からみても、男性美といふものが、深い美と大した交渉がないと云ふ事が分るが、更に、この力の美がよし、最高の美は表はすに応はしいものであるといふ事に仮定したとしても、この男性美といふものは必ずしも本当の力の美であるか否かには多くの疑ひがある。
所謂男性美といふものゝ意味する「力感美」といふものに内容は多くの場合甚だしく粗漫で雑駁である。「力」といふ事の解釈が極めて通俗的で表面的であるのが甚だ多い。
本当の力の美といふものは、必ずしも強さうな筋肉とか、肢体とかに宿るものではない。それは、「力の概念」であつて力の美ではない。力が美となつたものが、力の美であつて、「力」といふ概念は美でも何でもない。多くの男性美と云はれる、考へにはこの概念的な力を、直に力の美と混同したものが多い。それ等には多く、筋肉の力感の誇張、力にみちたる如き肢体等をみるがその意図は、多く、美に列する理解が概念的で浅薄である。
仁王様などといふものにしても、どうもいゝものは少い。これは必ずしも男性美といふ様な概念から生れてはゐないが、その美的意図が「動」の美にあるだけに、どうもしんみりした美の安定の気持を欠く。これに比して仏像は、その本体は大体に於て男性である可き筈であるのに、静寂とか無限とかを表はすために多くその形式が優美端麗柔和等の女性美又は曲線美をとつてゐる。
ミケルアンヂエロの彫刻や壁画等は、さういふ風なところがあるのでどうも余の審美感を満足させない。ミケルアンヂエロは無論相当偉大な人間にはちがいない、しかし、私は、芸術には更にもう一つ深いところのある事を他の芸術家たちによつて教へられる。
ここに男性の肉体を描いて、而もその力感を描いて、それが実に深い美をして表はされてゐる画がある。即ち、レオナルド・ダヴインチの背向きの男の裸体画であるが、これ等は全く、男の裸体を描いたものゝ白眉であらう。又仁王様では私の知つてゐる範囲では大和法隆寺の入口にある二体の仁王様が素晴らしくいゝものである。
これ等を見ると、その線には決して概念的な「力」がない。その表現は要するに「静」を目指してある。レオナルドの裸にしても、その双の手と、双の足を心持ち開いて、どつしりと立つてゐる感じは永遠の安定を思はせ、その線やその黒白のトンは比重の感じを持つてゐる。其他レオナルドの男の顔を描いた
其他ギリシヤの彫刻などで男性をとりあつかつたものがあつてそれ等は美術として立派なものであるがしかしそれ等の美は男性美ではなく、むしろ所謂男性美を捨てたところにその美の出発があるから、これは問題外である。
だから、男性美といふ様なものも必ずしも浅薄なものではなく、描く人によつては実に深いものとなるのであるが、しかし、所謂男性美といふものは多く浅薄で余はこれを好まない。
扨てこれから美術に表はれた婦人の事を話すとしよう。
余の最も感心してゐる婦人を描いた画の中、先づ、人に多く知られてゐるのはあのモナリザ・ヂヨコンドの肖像画である。これは今から三四百年前のイタリーのレオナルド・ダヴインチといふ人によつて描かれたものである。
この画は実に深い。恐らくこの位見てゐて深い心地にさそはれる画は世界にさう沢山はあるまい。この画の感じは、完成の感じである。恐らくこの画位、全き完成の感じを与へる画は世界にさう沢山はあるまい。レオナルドは、この画を三年とかで描いたさうだ。そして、猶、自分では未完成のつもりでゐたさうだ。その途中でモデルの、モナリザ・ヂヨコンド夫人は長逝したのだ。
しかし、前々からの画をみる時、其処に少しの未完成の感じを見出せない、完成されずしてゐる程に完成された感じがする。これは製作者の自作をより善きものにしたいと云ふ望みと、深い表現が出来れば出来る程、一層更に深い自然がみえて来るところの製作その一つの法則とによる事である。かくて第三者がみては実に完成されたものと見えるものも、作家にとつては未成品であるといふ場合はよくある事である。
只その場合、作家より、第三者の方が深い自然を見得る人である時はこれが正反対になる。即ち、作家がもうどうしてもこれ以上は描けないといふ所まで描いて、これを完成したと思つても、その作品を観る第三者が、その作家より自然観照に於て深い人である時は、その作は実に描き足らぬものとなる。
レオナルドと、ヂヨコンド夫人との間には清いそして淡い恋があつたと云ふ説もある。しかし、それは解らない。この画の顔は、不思議な笑みをもらしてゐる。人にはこれを謎の笑ひと云ふ。幽玄な、深い気持のするその顔の中、うすい微妙極みない線を持つたその唇は、かすかに彎曲して、微妙なほゝ笑みをもらしてゐる。
恐らくレオナルドの唇にはこの唇をかく時には、同じ微妙なそして同じ幽玄極まりない微笑をもらした事であらう。実際画をかく時、笑ひ顔を描く時は作家はどうしても思はず知らず一緒にほゝ笑むものである。又泣いた顔をかく時はやはりしかめつらをしなくてはかけない。これは
この画でもう一つ驚嘆する事はそのふくよかな、手である。
古来、手を美くしく描き得る画家があればその画家は必ず偉れた美を知つてゐる画家であるといふ事が云ひ得る。手は人間の肢体の中でも最も線の交響の微妙な部分である。其処には無数の美くしい線が秘くされてある。力のある画家はその力その美を捕へる。
手は眼に次いで、神秘な「生きものの」感じを持つ。手にこの
この、モナリザの手は、それ等の手の中でも、たしかに優れた美くしさを持つものゝ一つである。
それはどこ迄もふくよかに、くらい中にほの白く浮いた様な、神秘的な感じを持つて、しかもその皮膚の下にはあたゝかい血がしづかに流れてゐる様な、この世のものであるやうで、又幽界のものである様な、不思議な美さを持つ。
そのモデリング(丸味凹凸の調子)は又不思議である。微妙なそのふくらみは陰影と明るみとの不思議に微細なテクニツクによつて織り出されてゐる。その調子はどこ迄もやはらかい。その明暗は、微妙にとけ合つて、細かな凹凸が描けるが如く、描かざるが如くに表現されてある。そしてその味は又一種の荘重である。
この手とともに、余はレオナルドの足の
このモナリザ婦人の画を、或る人々は肉感的であると云ふ。しかし、この画は見るものに只肉感だけを与へるものではない。
この画には一面さういふ、肉感的と云はれる様な或る感じがある事はある。その謎の笑ひも、決して浄きものゝ浄き喜びではない。しかし、それは、不浄なるいやしい笑ひでは更にない。その手は、神を拝する手ではない。その手には、あたゝかい血と肉が不思議に動いてゐる。しかしその感じには少しの不浄とか肉慾の気持はない。
モナリザの肉感は、犯し得ない肉感である。それは肉感でないとは云へない。しかしそれは肉の神秘感である、肉の幽玄感である。彼女の眼には不思議の情がある。しかし、それは燃えてはゐない。静かである。
余はこれを異端の味と呼ばう。彼女は黙つてほゝ笑んでゐる。そのほゝ笑みは、レオナルドのほゝ笑みである。そして、「芸術」といふものゝ持つほゝ笑みである。
実にこの画は、「芸術」の何であるかといふ事を語る。芸術が道徳でもなく宗教でもなく実に芸術であるといふ事はこの画のほゝ笑みの謎を解するものには解る。その肉感に芸術にのみゆるされる異端の域の或るシンボルである。
レオナルドは、この画を描く時、彼独特のアトリエの中で、モナリザ・ジヨコンド夫人を坐らせ、その近くで絶えず微妙な音楽を奏せしめて、ヂヨコンド夫人の心を絶えず、楽しませ、その
実にこの画は芸術の三昧といふ事がふさはしい気がする。其処には実に複雑な心が生かされてゐる。荘重、肉感、幽玄、神秘、そしてそれ等が不思議な完成を示してゐる。
因にこの画は十年程前、仏国の美術館に懸けられてあつたが、盗まれて、数年
大分、モナリザの事をかいたが、今度は東洋画の李竜眠の婦人の