想像と装飾の美

それを持つ特殊の個性によって生かさるべし

岸田劉生




 日本画をもって写実の道を歩こうとする事は根本から間違っている。日本画を以て写実を行うよりは駱駝らくだの針の穴を通る方がやさしいといいたい位である。この意味で今日の新らしい日本画はほとんど皆駄目だ。物欲しそうな感じしか与えられない。
 写実の道を歩みたいのなら諸君の前には至極便利な油画具えのぐがもう五、六十年も前から輸入されてある。一度日本画具を使って日本画師として立った以上、その画の具にあくまで仕えなくてはならないような気もするのだろうが、そういう貞節は馬鹿々々しい。美術の事はもっと上の事、「美」に対して本当に仕える事を知るなら、この事はおのずとわかって来るはずである。今時まだ日本画の画具でどうしても写実を完成してみせると力む人もあるが、そういう人は画家ではなく発明家の部類に入るべき人で、もしその人が本当の美というものをリアルの上に見たならば、なんでいつまで表現に不自由な日本画の苦心を重ねる必要があるか、その人の内に燃える創作欲はそんな事しているまどろこしさに耐えるものではない。かかる事をいう人は畢竟ひっきょう「美」を知らぬ人で画家ではなく、うまく行って日本画具使用法改良研究者に属する人である。但しかくの如く、「美」を知らぬ人の「審美」によって出来た画具使用法が如何いかに改良されても、本当の画家にとって有難いものであるか否か、うけがわれない。
 しかしまた一方にはあれは写実ではないという人もあろう。無論本当の美術としての写美にはなっていない。物象の如実感が「美」にまで達していない。
 しかし或る人々がそれを写実ではないという意味とはちがう。或る人々は写実でなくてもう一つ別の芸術境であるといいたいのである。しかしそれは嘘だ。日本画としてああいう風に彩描して行く事の一番底に流れている要求は何か? 多少の様式化をしていながら、何故日本絵具ですっかり厚くぬりつぶしたり、モデリングをつけたり、遠近、光陰をつけたりするか。卑近にいえば、洋画に引かれているから。何故洋画に引かれているのかといえば、写実という事が一般画家にとって、大なる大なる誘惑であるから。物を如実に表わしてみたいから。
 かくて彼らは何と弁解しても写実のみちを歩こうとしている事は否めない。ただそれが本当の写実にならないのはひとり日本画のみならず、日本はおろか世界中の数千万の凡庸画家の画は殆ど皆ことごとく、ふみちがえた写実に堕しているものなのだから仕方がない。
 それなら将来の日本画はどういう道に生れるか。いわゆる旧派の日本画はもう形式になり終って、その型になり切った美術的要素には新らしい日本の心を盛る力がない。それなら何が残るか、ただ残るのは紙と、筆と墨と画具である。それと、日本画(あるいは東洋画)のそれらの質料の持つ型にならない美術品的要素である。(例えば毛筆のカスレ、ニジミ、紙と墨との特殊の味、線のカレやふくらみ、東洋風の色調の持つ味その他無数)これは保存すべきものであり、或る特殊の個性にとっては持って来いのよき質料である。
 美術というものを何でも写実でなくてはいけないと思い込む人が多いが写実は美術の最も一般的な道ではあるが決して写実のみが美術ではない。美術というものは元来人間の想像のはなである。その根本は装飾の意志本能にある。美術とは世界の装飾にあるともいえる。美は外界にはない、人間の心のうちにある。それが外界の形象をかりて表われると自然の美となりその表現が写実となる。それが外界の形をかりずにすなおにじかに内からうねり出て来たものが、装飾美術になる。古代の器具や、野蛮人や農夫の器具に何ら自然物にたよらぬ線状で(波状輪状等)美くしい装飾のあるのは即ちその一例で、その他建築の屋根の曲線や、瓶壺等の線などにそれは表われる。美術はすなわちこの装飾が元である。「美」に置くという事が装飾で、その美は人間の衷なる心の要求でありまた本能である。この意志の欲する装飾が即ち美術でありここに造形の原因がある。もとよりもう一つの方面である所の模造の本能も美術の原因にはなる。しかし美術が芸術として人の「心」のかてとなるには、最も根本のものは模造は第二で装飾が根元である。模造の本能とこの装飾の本能との有機的な必然的な一致が写実芸術の原因である。即ち内なる美と外界の形象との合一が「自然の美」でありその表現の写実の道である。かくて写実の道は芸術の域を広め深め美を複雑にした。装飾の美術ばかりの時代には知らなかった美を微妙な自然の線の中に見たり色の中にみたりした。しかしこれはついに内なる装飾の発育に過ぎない。自然を人が美くしいとみる事は、その瞬間に内において世界を装飾化した事であり、肯定した事であり、その表現はその証拠であり確定である。
 しかし美術の上においては自然の形象に即して美(装飾)を見てそれを追求するものを写実といい内の無形の美を主として自然の形は想像的にこれをかりてそれによって内にうごめくものをあらわすのを想像または装飾の道という。ともにその根元は「内なる美」(装飾)だけれど、追求のしかたが違うのである。
 将来の日本画はこの装飾または想像の美術の上に生かされるべきである。ただ装飾といっても人々のすぐ思うような模様化されたものではない。例をとっていうと、日本の古典や仏像には美くしい想像と装飾がある。人々が装飾的だと思う光琳こうりんなどは僕の目には本当の装飾の感じをうけない。形式がいやに目について装飾の感じは来ない。装飾の感じは線や何かが有機的に生かし合っている、そして如何にも精神を以てこの世界を飾るという感じがする。ウィリアム・ブレークやシャバンヌなども装飾的だ。ブレークの描く人間の形は布局の線のための形だ。その表情から来る想像の力をぬかせば。
 こういう内容の一部を生かすのには日本画法はよい手法である。花鳥でもいい人物でもいい風景もよかろう。写実に行かずとも充分に内からく美で形を与える事の出来る内容(即ち内なる美)を取る人が執るとあの資料はたしかに世界に特殊な美を生んでくれると思う、昔の日本画にはそういうものがわりに沢山ある、いろいろの程度で。
 或る個性が特に日本画ばかりかくのもよかろうし、洋風の画家が或る時の内容を日本画法によって生かすのもいい。西洋にもエッチングのみやる人と、彩描のかたわら或る内容をエッチングで表す人との二種があるように。
 しかしここに殊に注意したいのは、一般的に見て、そういう装飾の道を通る個性は、写実の道を通る個性より少いのが本当だという事である。前にもいった通り美術の元は装飾だが、それが模造(写実)の本能と一致して更に芸術として立派に発育したものなのだから。画家となるという事は、太古から、ものの形を写す事と同じといっていい位の意味になっている。古来美術の堕落期は常にこの写実が装飾のさくを越えて主客が転倒した時であるが、それほどに画とは物を写す事と思われ、また事実、画家は物象の形によって内なる美をまされるのが多い。恐らく十中八位までそうで少数の異例が夢幻的な美を幼い時から内に感じるのである。
 かくて一般的には写実の道を執るのが自然である、昔の日本画の中にも写実を欲する意志はみえる。しかしそれ以上に伝統的に立派な装飾的要素があるので、不自由な画具に早くあきらめをつける事が出来たのだ。しかしこの事は殆ど無自覚的にされていた事なので、時とすると不知不識しらずしらずの間にしなくてもいい写実に引っかかって物の表相にとらわれ無駄な力を入れ、出るべかりし美をこわしている例などが多い。円山応挙まるやまおうきょなどはそのあわれなる犠牲者の一人と見ていいと思う。錦画にしきえなども初期のものは、写実に捕われず線の美などを主としたから美くしいが、明治初代のものなどになるほど、妙に自然派らしい写生に捕われたりして低級なものになっているのはその一例である。
 とにかくむかしは画具などの不自由から、写実の道はどうしても発達し切れないので、強く欲しつつその不足を皆が皆装飾によって足していた。この意志は日本画の歴史を見ると解ると思う。むかしでも画をめるのに、「美くしい」といってほめる人より、「実物の通り」といってほめる人が多かったに違いない。今見るとこれが本物の通りにみえたのかと思うほど写実とかけはなれた物にそういう賞讃の伝説がのこっているものが多い。これはつまり、その「美」や生きている感じが人を撃つのを、画は写実だという頭からよく出来たというかわりに本物の通りといわれたものであろう。
 かくて、画家は少くもその八分通りまでは本来は写実につくべきである。今の日本画家たちも、本来は早くその日本画具を捨てなくてはならぬ連中なのである。もし通俗作家になるのがいやなら。世間的では満足出来ない人であるなら、そして画具に奉公する気でないなら。
 しかし、自分は、彼らがたとえ日本画をすて、洋画をとったとて、其処そこから本当の写実が生れるかどうかは決して保証する勇気を持たない。しかし、あるいは有望な人もあるかもしれない。そういう有望な人がつまらぬ習慣に引っかかっていないとも限らない。少くも諸君が、もう一層熱心に、燃えて来たら、その仕事は捨てなくてはなるまい。そして、洋画法を執るならば少くも今日よりはよりよき芸術的経験を君たち自身が感味するだろう。この事はもし現われるとしたら、今日の画壇にとって或る喜びであろう。よき芽はよき畑にまかれる必要がある。ついでだからいうが今日の展覧会に行ってみると、画が皆大きすぎる。あんなでっかいものを何だって描くのだといいたくなる。美を本当に見ると、あんなまねは出来なくなるものだという結論だけを、ここに唯かきそえておこう。
 もっとも今日の日本画家のうちに面白い道を切り開きそうになっている人が少しはある、まだいられるかもしれないが知らない。小林古径こばやしこけい君のものや、名は忘れたが国展の選外かに古池と古寺?かなにか描かれた人のもの、その他の会場で皆名を忘れたが二、三の人のものによき素描の芽を見た。唯その上に欲しいのは力だ。(力強い画という意味ではない)もう一つ深い味だ。魅力でももう一つ力が欲しい。
 僕として、日本画をかくとしたら白描か、黒白こくびゃくを主としたものに少し色をつけるものをやってみたい。しかし、どういう風な描き方でなくてはいけないという事は決していえるものではない。さっき、写実の道としてけなした、日本画の西洋画のような描力にしても、すでにそういう美術品要素が出来しゅったいした以上、今日ではそれは下らないものだが内容さえよく、そしてぴったりすれば、その描方でもあるいは生かす事が出来よう。尤もかなりなまぬるい感じの画品だが、しかしそれにある美の内容がもしあればそれは生きる事が出来る。ただ無理にそれに内容を合わす必要はなく、そんな事をする事はすでに内容が死んでいる証拠である。
 要するに、結局は今日の日本画は殆どすべて駄目、今日の日本画家の大半は西洋画にうつるべし、さもなければ通俗作家たれ。日本画は日本人の美の内容をもてる一つの技法としてのこり、装飾想像の内容を生かす道となり、そういう個性によりて今後永久に生かされるべし。以上。





底本:「岸田劉生随筆集」岩波文庫、岩波書店
   1996(平成8)年8月20日第1刷発行
初出:「国粋 第二号」
   1920(大正9)年11月
※底本では題名の「想像」に「イマジネーション」のルビが付いています。
入力:鈴木厚司
校正:noriko saito
2007年1月6日作成
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