一
時は春、梅の盛り、所は信州諏訪湖畔。
そこに一軒の掛茶屋があった。
ヌッと這入って来た
「よい天気だな、茶を所望する」
トンと腰を置台へかけた。物やわらかい声の中に、凛として犯しがたい所がある。万事物腰鷹揚である。立派な身分に相違ない。大旗本の遊山旅、そんなようなところがある。
「へい、これはいらっしゃいまし」
茶店の婆さんは頭を下げた。で、恭しく渋茶を出した。
ゆっくりと取り上げて笠の中、しずかに喉をうるおしたが、その手の白さ、滑らかさ、婦人の繊手さながらである。
茶を呑み乍ら其の侍、湖水の景色を眺めるらしい。
周囲四里とは現代のこと、慶安年間の諏訪の湖水は、もっと広かったに違いない。
信濃なる衣ヶ崎に来てみれば
富士の上漕ぐあまの釣船
西行法師の歌だというが、決して決してそんな事は無い。歌聖西行法師たるもの、こんなつまらない類型的の歌を、なんで臆面も無く読むものか。富士の上漕ぐあまの釣船
が、併し、衣ヶ崎は諏訪湖中での絶景である。富士が逆さにうつるのである。その上を釣船が漕ぐのである。その衣ヶ崎が正面に見えた。
水に突き出た高島城、四万石の小大名ながら、諏訪家は仲々の家柄であった。石垣が湖面にうつっている。
「うむ、いいな、よい景色だ」
武士は惚々と眺め入った。時刻は真昼春日喜々、
思い出す木曽や四月の桜狩。
これは所謂翁の句だ。翁の句としては旨くない。だが信州の木曽なるものが、いかに寒いかということが、此一句で例証はされる。昔の四月は今の五月、五月に桜狩があるのだとすると、これは確に寒い筈だ。ところで諏訪も同じである。矢張り木曽ぐらい寒いのである。侍は婆さんへ話しかけた。
「話はないかな? 面白い話は?」
「へえへえ」
と云ったが茶店の婆さん、相手があまり立派なので、先刻からすっかり萎縮して了って、ロクに返事も出来ないのであった。
「へいへいさようでございますな。……これと云って変った話も……」
「無いことはあるまい。ある筈だ。……それ評判の鵞湖仙人の話……」
こう云った時、手近の所で、ドボーンという水音がした。
侍は其方へ眼をやった。
と、眼下の湖水の中に、老人が一人立泳ぎをしていた。
寒い季節の水泳! まあこれは可いとしても、その老人が打ち見た所、八十か九十か見当が付かない。そんな老齢な老人が、泳いでいるに至っては、鳥渡びっくりせざるを得ない。
「信州人は我慢強いというが、いや何うも実に偉いものだ」
侍は感心してじっと見入った。
ところが老人の泳ぎ方であるが、
水府流にしても小堀流にしても、一伝流にしても大和流にしても、立泳ぎといえば大方は、乳から上を出すものである。それ以上は出せないものである。にも関らず老人は腰から上を出していた。で、まるで水の上を、歩いているように見えるのである。
侍はホトホト感心した。
「だが一体何流かしらん? こんな泳ぎ方ははじめてだ、まことに以て珍らしい」
だが侍の驚きは、間も無く一層度を加えた。と云うのは老人が、愈々でて愈々珍らしい、[#「、」は底本では「。」]不思議な泳ぎ方をしたからであった。
老人はズンズン泳いで行った。湖心に進むに従って、形が小さくなる筈を、反対にダンダン大きくなった。しかし是は当然であった。老人は泳ぐに従って、益々体を水から抜き出し、二町あまりも行った頃には、文字通り水上へ立って了ったのである。
二
これでは水を泳ぐのではない。水の上を辷っているのだ。
スーッと行ってはクルリと振返り、スーッと行ってはクルリと振返る。
侍は腕を組んで考え込んだ。
「む――」と侍は唸り出して了った。だが軈て呟いた。「
はたしてパッと水煙が上った。同時に湖上の老人の姿が、煙のように消えて了った。
見抜いた武士も只者では無い。
むべなる哉この侍は、由井民部介橘正雪。
南宗流乾術第一巻九重天の左行篇に就いて、説明の筆を揮うことにする。
これは妖術の流儀なのである。
日本の古代の文明が、大方支那から来たように、この妖術も支那が本家だ。南宗画は本来禅から出たもので、形式よりも精神を主とし、慧能流派の称である。ところが妖術の南宗派は、禅から出ずに道教から出た。即ち老子が祖師なのである。道教の根本の目的といえば、長寿と幸福の二つである。この二つを得るためには、代々の道教家が苦心したものだ。或者は神丹を製造して、それを飲んで長命せんとし、或者は陰陽の調和を計り、矢張り寿命を延ばそうとした。幸福を得るには黄金が必要だ。それで或者は練金術[#「練金術」はママ]をやって、うんと黄金を儲けようとした。
神仙説を産んだのも、矢張り長寿と幸福との為めだ。
だが、併し、妖術の元は、幸福を得るというよりも、長寿を得ると云う方に、重きを置いていたらしい。ところで妖術の著書はと云えば、枹木子を以て根元とする。そこで筆は必然的に、枹木子に就いて揮わなければならない。
ところが洵に残念なことには、枹木子の著者は不明なのである。これほど素晴らしい本の著者が、不明というのは不思議であるが、しかし一方から見る時は、不明の方が本当かもしれない。屹度神仙が作ったんだろう、と云ってた方が勿体が付いて、却って有難くもなるのだから、尤も一説による時は、
ところで枹木子は内篇二十篇外篇五十二篇という大部の本だ。詳しい紹介は他日を待ってすることにしよう。
枹木子は妖術の根本書で、非常に非常に可い本である! ただ是だけでいいでは無いか。
だが、本当を云う時は、この枹木子は妖術書では無くて、仙術の本という可きである。
で、真実の妖術書といえば、その枹木子の精粋を取り、更に他方面の説術を加味した「南宗派乾流」という本なのである。
三
その有名な妖術書の「南宗派乾流」は足利時代に、第一巻九重天だけ、日本へ渡って来たのである。第一巻九重篇だけでも、どうしてどうして素晴らしいもので、それを体得しさえしたら、どんな事でも出来るのだそうだ。
それを何うして手に入れたものか、鵞湖仙人という老人が、何時の間にか手に入れて、ちゃんと蔵っているのであった。
それを何うして嗅ぎ付けたものか、由井正雪が嗅ぎ付けて、それを仙人から奪い取ろうと、遙々江戸から来たのであった。
物語は三日経過する。
此処は天竜の上流である。
一宇の宏大な屋敷がある。
薬草の匂いがプンプンする。花が爛漫と咲いている。
鵞湖仙人の屋敷である。
その仙人の屋敷の附近へ、一人の侍がやって来た。他ならぬ由井正雪である。
先ず立って見廻わした。
「ううむ、流石は鵞湖仙人、屋敷の構えに隙が無い。……戌亥にあたって丘があり、辰巳に向かって池がある。それが屋敷を夾んでいる。福徳遠方より来たるの相だ。即ち東南には運気を起し、西北には黄金の
で、正雪は丘へ上った。
「ははあ、八九の間取りだな。……財集まり福来たり、一族和合延命という図だ。……ええと此方が八一の間取り。……土金相兼という吉相だ。……さて此方は一七の間取り。僧道ならば僧正まで進む。……それから此方が八九の間取り。……仁義を弁え忠孝を
由井正雪は感心した。
正雪は一代の反抗児、十能六芸武芸十八番、天文地文人相家相、あらゆる知識に達していたので、曾て驚いたことが無い。
それが驚いたというのだから、よくよくのことに相違無い。
「さて、これから何うしたものだ」
彼は思案に打ち沈んだ。
「路に迷った旅人だと、嘘を云って乗り込もうか。いやいや看破かれるに違いない。では正直に打ち明けて「術書」の譲りを受けようか。なかなか譲ってはくれないだろう。……うん、そうだ。忍び込んでやろう。俺は忍術葉迦流では、これでも一流の
四
忍術も支那から来たものである。六門遁甲が根本である。「武備志」遁用術も其一つだ。
しかし忍術は日本に於て、支那以上に発達した。それは日本人が体が小さく、敏捷であったが為である。
忍術の根本は五遁にある。即ち水火木金土だ。
ところで葉迦流は水遁を主とし、葉迦良門の開いたもので、上杉謙信の家臣である。
「滴水を以て基となす」
こう極意書に記されてある。
一滴の雨滴が地面に落ちる。それをピョンと飛び越すのである。二滴の雨滴が地面へ落ちる。それを復ピョンと飛び越すのである。
雨滴はだんだん量を増す。地面の水域が広くなる。それをピョンピョン飛び越すのである。
しまいには池となり沼となる。もう其頃には人間の方も、それを平気で飛び越す程の力量が備わっているのである。
これ葉迦流の跳躍術の一つ。
その他水を利用して、さまざまの忍びを行うのが、葉迦流忍術の目的なのである。世の勝れた忍術家なるものは、勿論、科学者ではあったけれど、更に夫れ以上忍術家は、心霊科学で云う所の、「霊媒(ミイジャム)」であったのであった。
霊媒とは霊魂の媒介者である。
人間は現在活きている。だが人間はいずれ死ぬ。さて死んだら何うなるか? 勿論肉体は腐って了う。しかし霊魂は存在する。これ霊魂不滅説だ。その霊魂は何処にいるか? 霊魂の世界に住んでいる! そうして夫れ等の霊魂は、活きている人間と通信したがる。しかし普通の人間とは、不幸にも絶体に通信が出来ない。そこで特別の器能を備えた、――霊魂の言葉が解る人間――即ち霊媒を要求する。
霊媒とは霊魂のどんな言葉をでも、解し得る所の人間なのである。
のみならず勝れた人間になれば、草木山川の言葉をも――宇宙の生物無生物の言葉。それをさえ知ることが出来るのである。
そういう人間は此浮世に、極わめて稀に存在する。その中の或者が夫れを利用し、勝れた忍術家となったのである。
由井正雪は丘を下り、どこへとも無く行って了った。
こうして深夜五更となった。
すべて忍術家というものは、五更と三更とを選ぶものである。
鵞湖仙人の大館は森閑として静まっていた。
月も無ければ星も無い、どんよりと曇った夜であった。
と、竹藪から竹の折れる、ピシピシいう音が聞えて来た、風も無いのに竹が折れる、不思議と耳を傾けるのが、普通の人の情である。しかし、そっちへ耳傾けたが最後、心が一方へ偏して了う。偏すれば他方ががら空きとなる、そこへ付け入るのが忍術の手だ。
竹の折れる音は間も無く止んだ。後は寂然と音も無い。
鵞湖仙人はどうしているだろう? 由井正雪は何処にいるだろう? 勿論竹を折ったのは、正雪の所業に相違無い。
と、厩で馬が嘶いた。さも悲しそうな嘶き声である。
だが夫れも間も無く止んだ。そうして後は森閑と、何んの物音も聞えなかった。
屋敷は益々しずまり返り、人の居るような気勢も無い。
と、二階の窓が開き、ポッと其処から光が射した。
そこから一人の若い女が、夜目にも美しい顔を出した。どうやら何かを見ているらしい。仙人の屋敷に美女がいる? 少し不自然と云わざるを得ない。
と、天竜の川の上に、ポッツリと青い光が見えた。それがユラユラと左右に揺れた。そっくり其の儘人魂である。
すると窓から覗いていた、若い女が咽ぶように叫んだ。
「おお幽霊船! 幽霊船!」
五
「幽霊船だって? 何んの事だ?」
こう呟いたのは正雪であった。
彼は此時
で、キラリと眼を返すと、天竜川の方を隙かしてみた。
いかにも此奴は幽霊船だ。人魂のような青い火が、フラフラ宙に浮いている。……提灯で無し、篝火で無し龕燈で無く
どうやら帆柱のてっぺんに、その光物は在るらしい。正雪は何時迄も見詰めていた。次第に闇に慣れて来た。幽霊船の船体が、朧気ながらも見えて来た。
天竜川は黒かった。闇に鎖ざされて黒いのである。時々パッパッと白い物が見えた。岩にぶつかる浪の穂だ。その真黒の水の上に、巨大な船が浮かんでいた。それは将しく
そうして戦楼にも甲板にも、無数の人間が蠢いている。人魂のような青い火が、船を朦朧と照している。
人々は甲冑を鎧っている。手に手に討物を持っている。槍、薙刀、楯、弓矢。……
おお然うして夫れ等の人は、鵞湖仙人の屋敷の方へ、挙って指を指している。何やら罵っているらしい。しかし話声は聞えない。
彼等はみんな痩せていた。
と、続々甲板から、水の中に飛び込んだ。十人、二十人、三十人。……しかも彼等は溺れなかった。彼等は水の上に立っていた。
飛ぶように水面を走り乍ら、続々と岸へ上って来た。彼等は岸へ勢揃いした。それから颯っと走り出した。
鵞湖仙人の屋敷の方へ!
近寄るままによく見れば、彼等はいずれも骸骨であった。眼のある辺には穴があり、鼻のある辺には穴があり、口のある辺には歯ばかりが、数十本ズラリと並んでいた。
甲冑がサクサク触れ合った。骨と骨とがキチキチと鳴った。
竹藪の方へ走って来る。
流石の正雪もウーンと唸った。すっかり度胆を抜かれたのである。
彼は地面へ腹這いになった。
サーッと彼等は走って来た。彼等の或者は正雪の背中を、土足のままで踏んで通った。しかし少しの重量も無い。彼等には重量が無いらしい。大勢通るにもかかわらず、竹藪はそよとの音も立て無い。一片の葉さえ
いやいや併しハッキリと、恐ろしい形が見えるでは無いか! 甲冑をよそった骸骨の形が! そうだ、それは確かに見える! だが夫れは見えるばかりだ。物質としての容積を、只彼等は持っていないのだ!
即ち彼等は幽霊なのだ!
幽霊船の幽霊武者! そいつが仙人の屋敷を目掛け、まっしぐらに走って行くのである。
物凄い光景と云わざるを得ない。
幽霊武者は一団となり、土塀の裾へ集まった。
と、彼等は土塀をくぐり、サッと屋敷内へ乱入した。勿論土塀には穴が無い。それにもかかわらず潜ったのだ。
湧き起ったのは女の悲鳴!
「ヒーッ」という魂消える声! つづいて老人の呶鳴り声! 鵞湖仙人の声らしい。討物の音、倒れる音、ワーッという閧声! ガラガラと物の崩れる音。
「お爺様! お爺様! お爺様!」
「おお娘、しっかりしろ!」
ドッと笑う大勢の声。
「ヒーッ」と復も女の悲鳴。
意外! 歌声が湧き起った。
武士のあわれなる
あわれなる武士の将
霊こそは悲しけれ
うずもれしその柩
在りし頃たたかいぬ
いまは無し古骨の地
下ざまの愚なる
つつしめよ。おお必ず
不二の山しらたえや
きよらとも、あわれ浄 し
不二の山しらたえや
しらたえや、むべも可
建てしいさおし。
訳のわからない歌であった。しかし其節は悲し気であった。くり返しくり返し歌う声がした。そうして歌い振りに抑揚があった。或所は力を入れ或所は力を抜いた。あわれなる武士の将
霊こそは悲しけれ
うずもれしその柩
在りし頃たたかいぬ
いまは無し古骨の地
下ざまの愚なる
つつしめよ。おお必ず
不二の山しらたえや
きよらとも、あわれ
不二の山しらたえや
しらたえや、むべも可
建てしいさおし。
由井正雪は腹這ったまま、じっと歌声に耳を澄ました。
くり返しくり返し聞える歌!
深夜である。
山中である。
その歌声の物凄さ!
六
復も土塀から甲冑武者が、恰も大水が溢れるように、ムクムクムクムクと現れ出た。
彼等は何物かを担いでいた。
数人が頭上に担いでいた。女である! 女の死骸だ! 窓から顔を差し出して「幽霊船!」と叫んだ女だ! その死骸を担いでいる。
走る走る甲冑武者が走る。
竹藪を通って天竜の方へ!
或者は正雪の頭を踏んだ。或者は彼の足を踏んだ。そうして或者は手を踏んだ。矢張り重量は感じない。
彼等は川の方へ走って行った。そうして水面を辷るように歩き、船の上へよじ上った。
と、船が動き出した。天竜川を上るのである。人魂のような光物が、ユラユラと宙でゆらめいた。上流へ上流へと上って行く。
立ち上った正雪は腕を組んだ。
「深い意味があるに相違無い。彼奴等の歌ったあの歌にはな。……今夜の忍び込みはもう止めだ。……ひとつ手段を変えることにしよう」
彼は竹藪からするすると出た。そうして何処ともなく立ち去った。
その翌朝のことである。
鵞湖仙人の屋敷を目掛け、一人の武士が歩いて来た。
余人ならぬ由井正雪。
玄関へ立つと案内を乞うた。
「頼もう」と武張った声である。
と、しとやかな畳障り、玄関の障子がスィーと開いた。婦人がつつましく坐っている。
それを見た正雪は「あっ」と云った。
これは驚くのが、尤である。幽霊武者に担がれて行った、昨夜の娘が坐っているのだ。
「どちらからお越しでございます?」
その婦人は朗かに云った。幽霊では無い、死骸では無い。将しく息のある人間だ。妙齢十八、九の美女である。ちゃんと三指を突いている。
「驚いたなあ」と心の中。正雪すっかり胆を潰した。しかし態度には現さず「拙者こと江戸の浪人、由井正雪と申す者、是非ご老人にお目にかかり度く、まかり出でましてございます。この段お取次ぎ下さいますよう」
「暫くお待ちを」と娘は云った。それからシトシトと奥へ這入った。間違いは無い足がある。どう睨んでも幽霊では無い。
正雪、腕を組んで考え込んだ。
そこへ娘が引き返して来た。
「お目にかかるそうでございます。どうぞお通り下さいますよう」
で、正雪は玄関を上った。
通されたのは奇妙な部屋だ。三間四方の真っ四角の部屋、襖も無ければ障子も無い。窓も無ければ出入口も無い。
「はてな」と正雪は復考えた。「俺はたしかに案内されて、たった今此部屋へ這入った筈だ。それだのに一つの出入口も無い。一体どこから這入ったのだろう?」
どうにも彼には解らなかった。四方同じ肉色の壁で、それが変にブヨブヨしている。そうして無数に皺がある。その皺が絶えず動いている。延びたかと思うと縮むのである。壁ばかりでは無い。天井も然うだ。天井ばかりでは無い床も然うだ。現在坐っている部屋の板敷が、延びたり縮んだりするのである。床の間も無ければ違い棚も無い。一切装飾が無いのである。
気味が悪くて仕方が無かった。
「ううむ、こいつは遣られたかな」
正雪は心を落ち着けようとした。彼は眼を据えて板敷を見た。と不思議な筋があった。その筋は三本あった。部屋の一方の片隅から、斜めに部屋を貫いていた。
それを見た正雪はブルブルと顫えた。しかし恐怖の顫えでは無く、それは怒りの顫えであった。
「巽から始まった天地人の筋、一つは
矢庭に抜いた腰の小柄、ブツーリ突いたは板敷の真中! 途端に「痛い!」と云う声がした。
その瞬間に正雪は、もんどり打って投げ出された。
飛び起きた時には其部屋は無く、全く別の部屋があった。
違い棚もあれば床の間もある。床の間には寒椿が活けてある。棚の上には香爐があり、
床の間を背にして坐っているのは、他でも無い鵞湖仙人、渋面を作って右の掌を、紙でしっかり抑えている。そこから流れるのは血であった。
七
「ひどいことをなさる、由井正雪殿」
老人は相手を怨むように云った。
「お互いでござるよ、鵞湖仙人殿」
正雪は哄然と一笑したが「いかがでござる。傷は深いかな?」
「深くは無いが、ちょっと痛い」
「アッハハハ、お気の毒だな。……手中に握った天罰でござる」
「でも宜く心が付かれたな」
「天地人三才の筋からでござる」
「大概な者には解らぬ筈だが」
「なにさ、手相さえ心得て居れば、あんなことぐらいは誰にでも解る。……が、あれは何術でござるな?」
「さよう、あれは、十宮伝」
「南宗派乾流九重天、第一巻の其中に、矢張りあるのでござろうな?」由井正雪は鎌をかけた。
すると老人はジロリと見たが、
「さあ何うだかな、わしは知らぬ」
「え、それではご存じか」正雪ちょっとドキリとした。
「それに昨夜はご苦労だった。折竹探法、
「畜生」と正雪は腹の中「爺め、何んでも知っていやがる」しかし彼は屈しなかった。
彼は一膝グイと進めた。
「が、流石のご老人も、幽霊船にはお困りのようだな」
「さて、そいつだ」と老人は、繃帯した右手を膝へ置いたが「余人ならぬ正雪殿だ、真実の所をお話しするが、仰せの通り、あれには参った」
「ご老人ほどの方術家にも、どうにもならぬと見えますな」
「天人にも五衰あり、仙人にも七難がござる。……死霊だけには手が出ない」
「歌に就いてのお考えは?」
「え、歌だって? なんの歌かな?」
「彼奴等の歌ったあの歌でござる」
「あああれか、考えて見た。……が、どうも解らない」
「ところが拙者には解って居る」
「ふうん、さようかな、その意味は?」
「不可ない不可ない」と手を振った。「そう安くは明されぬて」
「さようか、それでは聞かぬ迄だ」老人、不快そうに横を向いた。
「ところで一つお聞きしたい」正雪は老人を見詰め乍ら「あのご婦人はお娘御かな?」
「さようでござる、孫娘で」
「どうして活きて戻られたな?」
「いや夫れは毎晩でござる。毎晩彼奴等が征めて来ては、あの娘を死骸とし、船へ運んで虐んだ後、活かして返してよこすのでござる。……可哀そうなのは孫娘でござる。だんだん衰弱いたしてな、……つまりわしには祟れぬので、そこで弱い娘に祟り、わしを間接に苦しめるのでござるよ」
「老人、何か過去に於いて殺生なことはなされぬかな?」
「いいや、断じて」と老人は云った。「わしはこれでも方術家、一切罪悪は犯していませぬ」
「今後はなんとなされますな?」
「手が出ませぬ。捨てて置きます」
「お娘御のお命は?」
「可哀そうに、死にましょう」
「拙者、退治て進ぜよう」正雪は復も膝を進めた。
「いかがでござろう、褒美として、秘巻はお譲り下さるまいか」
老人はじっと考え込んだ。それから徐ろに口をひらいた。
「最早秘巻此わしには、殆ど必要が無いのでござる。何故と云うに既にわしは、秘巻の意味を知り尽したからで、そこで他人に譲りたく、人材を求めたのでござる。その結果四人を目付けました。第一が他ならぬご貴殿でござる。第二が山鹿素行殿、第三が熊沢蕃山殿、第四が保科正之侯。……で、湖畔で貴殿に会いその人物を験めそうものと、例の立泳ぎお目にかけました。が、貴殿には残念にも、心に不軌を蔵して居られる。天下を乱すに相違無い。然るに南宗派乾流は、そういう人物には有害なのでござる。で、貴殿には譲りたくござらぬ。とは云え悪霊を退治して、娘をお助け下さるとあっては、矢張り譲らねばなりますまい。よろしうござる、お譲りしましょう」
つと老人は立ち上り、隣の部屋へ這入って行った。持って来たのは一巻の巻物、恭しく額に押しあてたがやがて正雪の前へ置いた。
「術譲り! 襟を正されい」
正雪はピタリと襟を正した。
「さて、秘巻はお譲り致した。……悪霊退散の方法はな?」
八
「不浄場をお取り壊しなさるよう」
これが正雪の言葉であった。既に秘巻を譲られたからは、老人は彼に執り師匠であった。そこで言葉を慇懃にした。
「先生は博学でございます。それが
武将霊柩在地下
必不浄不可建
武将の霊柩地下に在り、必ず不浄を建つ可からず。――このようになるのでございます。ところで何うしてこの私が、それに気が付いたかと申しますに、彼等が歌をうたう時、頭と尻とへ特別に、力を籠めるからでございました。……で、恐らくお屋敷内の便所の下に古武将の柩が、埋めてあるのでございましょう。その上へ便所が立ちましたので、その霊魂が憤慨し、仇をしたものと存ぜられます」必不浄不可建
そこで老人と正雪とは、急いで便所を取り壊し、その地の下を掘って見た。果たして一個の霊柩があり、甲冑を鎧った骸骨が、その附近に散在していた。