女から切り出された別れ話
天明六年のことであった。老中筆頭は
その悪人の物語。――
梅が散り桜が咲いた。江戸は
その日
いつも決まって
女は先刻から待っていた。
やがて酒肴が運び出され、愉快な酒宴が始められた。
そうだいつもならこの酒宴は、非常に愉快な酒宴なのであった。
この日に限って愉快でなかった。女の様子が変だからであった。ろくろく物さえいわなかった。下ばっかり俯向いていた。そうして時々溜息をした。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」若侍は気に掛かった。
と、女が切り出した。別れてくれというのであった。
これには若侍も面食らってしまった。で、しばらく黙っていた。
不快な沈黙が拡がった。
「ふふん、そうか、別れようというのか」こう若侍は
「余儀無い訳がございまして……」
女の声も
また沈黙が拡がった。
「別れるというなら別れもしよう。だが
「どうぞ訊かないでくださいまし」女は膝を手で撫でた。
「どうもおれにはわからない。藪から棒の話だからな」若侍は嘲けるようにいった。相手を嘲けるというよりも、自分を嘲けるような声であった。「では今日が逢い
決して厭味でいうのではなかった。それは顔色や眼色で知れた。本当にサラリとした心持ちから、そう若侍は言っているのであった。
「そうと話が決まったら、今日だけは気持ちよく飲ましてくれ」
若侍は盃を出した。女は俯向いて泣いていた。
「おや、どうしたのだ、泣いているではないか。おれは
若侍は睨むようにした。
恋敵は田沼主殿頭
「というのは他でもない。おれとお前とは二年越し、
じっと女の様子を見た。女は顔を上げなかった。
若侍は徳利を取った。自分の盃へ注ごうとした。その手首を握るものがあった。
「わたしは買われて行くのです」女は突然ぶっ付けるようにいった。「それをあなたは
「何、買われて行く? 吉原へか?」
「女郎ならまだしもよござんす。
「うむ、そうして行く先は?」
「はい、あなたの大嫌いな方」
「おれには厭な奴が沢山ある。人間はみんな嫌いだともいえる」
「一人あるではございませんか。とりわけあなたの嫌いな人が」
「なに、一人? うむ、いかにも。が、それは大物だ」
「そのお方でございます」
「老中筆頭田沼主殿頭!」
「はい、そうなのでございます」
「それをお前は承知したのか?」
「お
「うむ、田沼から受け取ったのだな?」
「
若侍は立ち上がった。だがまたすぐに坐ってしまった。
「よくある奴だ。珍らしくもない。ふん。金持ちの権勢家、
翌日弓之助は軽装をして、三浦三崎へ出かけて行った。千五百石の安祥旗本、白旗小左衛門の次男であって、その時年齢二十三、神道無意流の大先生戸ヶ崎熊太郎の秘蔵弟子で、まだ皆伝にはなっていなかったが、免許はとうに通り越していた。武骨かというに武骨ではなく、柔弱に見えるほどの
「五、六日ご厄介になりますよ」「へえへえ、有難う存じます」
その翌日から弓之助は、
銅銭会茶椀陣
しかしよい歌は出来なかった。別れた女のことばかりが、胸のうちにこだわっていた。もちろん女と別れたことも、彼には随分寂しかったが、その女を取った者が、田沼主殿頭だということが、一層彼には心外であった。というのはほかでもない、彼の父なる小左衛門が、わずか式第の
「側御用人の小身から、将軍家に
「一向三崎も面白くないな。どれそろそろ帰ろうか」
空の吟嚢を胸に抱き、弓之助は江戸へ引っ返した。
最初の予定が五、六日、それを二日で切り上げたのであった。
ある日弓之助は屋敷を出た。上野の方へ足を向けた。花の盛りは過ぎていたが、上野山下は景気立っていた。茶屋女が美しいので、近ごろ評判の一
女が渋茶を持って来た。ふと見ると弓之助の正面に、一人の老武士が腰かけていた。雪白の髪を総髪に結んだ、
「はてな?」と弓之助は呟いた。武士の眼使いが変だからであった。顔を正面に向けながら、瞳だけをそっと眼角へ送り、じっと何かを見ているのであった。他人に気取られずに物を見る。――こういう見方で見ているのであった。「これはおかしい」と思いながら、老人の瞳の向いている方へ、弓之助はこっそり眼をやった。そっちに小座敷が出来ていた。そこに二人の町人がいた。その一人のやっている事が、弓之助の心をちょっとそそった。茶飲み茶椀と土瓶とで、変な芸当をしているのであった。茶椀の数は十個あった。しかし土瓶は一個しかなかった。その十個の茶飲み茶椀を、ある時はズラリと一列に並べある時はタラタラと二列に並べ、または方形にまたは弧形に、そうかと思うと向かい合わせたりした。そのつど土瓶の位置が変わった。非常に手早くやるのであった。いったい何をしているのだろう? そうやって遊んでいるのだろうか? 座敷の隅で、チビチビ酒を飲んでいた。見ているような見ていないような、不得要領な眼使いを一人の町人はして、茶椀の変化へ眼を付けていた。二人は懇意の仲とも見え、また全くの他人とも見えた。そういう不思議な茶椀の芸当が、しばらくの間繰り返された後、二人の町人は茶屋を出た。ややあって老武士が編笠を
「銅銭会の茶椀陣」こう老武士は呟くようにいった。それから茶屋を出て行った。
「銅銭会の茶椀陣」老人の言葉をなぞって見たが、弓之助には意味がわからなかった。しかし何んとなく心に掛かった。意味を確かめて見たかった。そこで老武士の後を追った。
もうそれは夕暮れであった。花見帰りの人々が、ふざけながら往来を練っていた。老武士はズンズン歩いていった。足は谷中へ向いていた。この時代の谷中辺はただ一面の田畑であった。飛び飛びに
「いったい誰の屋敷だろう?」ここまで
「大岡様のお屋敷でございますよ」
「ああそうか、大岡様のな」
弓之助は礼をいって足を返した。
「享保年間の名奉行、大岡越前守と来たひには、とても素晴らしい人傑だったが、子孫にはろくな物は出ないようだ。今の時代に大岡様がいたら、もっと市中は平和だろうに。……ナーニ案外駄目かもしれない。名君でなければ名臣を、活用することは出来ないからな。……それはそうと今の老人、大岡家のどういう人だろう? 非常な老年と思われるが、歩き方など若者のようだ。家老や用人ではないらしい。途方もなく威厳があったからな」
北町奉行曲淵甲斐守
彼の屋敷は本所にあった。
「お帰り遊ばせ」と若党がいった。
「ああ」と受けて部屋へはいった。小間使いが茶を
「お父様は?」と弓之助は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「お兄様は?」と彼は訊いた。
「はい、ご書見でございます」
「みんな勉強しているのだな。何んのために勉強するのだろう? 論語を読んでどうなるんだろう? どこかの世界で役立つかしら? どうもおれには疑問だよ。そんな事より行儀でも習って、頭の下げっ振りでも覚えるんだね。そうでなかったら
「若旦那様何をおっしゃるやら、ホッホッホッホッ、そんな事」小間使いのお菊は無意味に笑った。
「ホッホッホッホッそんな事か? なるほど、こいつも処世術だ。語尾を
「厭でございますよ、若旦那様」小間使いのお菊は逃げてしまった。
弓之助は寝ることにした。
「どぎった事はないものかしら? ひっくり返るような大事件がよ。俺はそいつへ食い下がってゆきたい。何んだか知らねえがおれの心には変てこな
北町奉行
その翌日のことであった、弓之助は叔父を訪問した。屋敷内が騒がしかった。与力が右往左往した。同心どもが出入りした。重大な事件でも起こったらしい。弓之助は叔母の部屋へ行った。
「叔母様、何か取り込みで?」
「おやこれは弓之助さんかい。何んだか
弓之助には母がなかった。五年ほど前に
「お茶でも
「ええ有難うございます」
お茶を飲んで世間話をした。叔父は帰って来なかった。御殿へ詰め切りだということであった。夜になってようやく帰って来た。その顔色は蒼褪めていた。弓之助は叔父の部屋へ行った。
「毎日ご苦労に存じます」
「おお弓之助か、近ごろどうだ」こうはいったがいつものように、優しく扱かってはくれなかった。いわゆる心ここにあらず、何か全く別のことを、考えているような様子であった。
「これは大事件に相違ない」弓之助は直覚した。「何か大事件でも起こりましたので」顔色を見い見い訊いて見た。
「うん」と甲斐守は物憂そうにいった。「前古未曽有の大事件だ」
「いったいどんなことでございますな?」
「絶対秘密だ。いうことは出来ない」甲斐守は苦り切った。
変な噂は聞かなかったかな?
甲斐守は深沈大度、喜怒容易に色に出さぬ、代表的の役人であった。今度に限ってその甲斐守が、まざまざ憂色を
「これ弓之助ちょっと待て、少し聞きたいことがある」甲斐守は急に止めた。
「はい、ご用でございますか」弓之助は座に直った。
「お前は随分道楽者で、盛り場や悪所を歩き廻るそうだな」
「おやおや何んだ、面白くもない。紋切り形の意見かい」弓之助は苦笑したが、
「これはどうも恐れ入ります。はい、さようでございますな。いくらかは道楽も致しますが、決して親や兄弟へは、迷惑などは掛けないつもりで」
「いやいや意見をするのではない。若いうちは遊ぶもよかろう。親父のようにかたくなでは、ろくな出世は出来ないからな。どうだ
「おやおやこいつは
「実はね、叔父さん、出来ましたので。茶汲み女ではありますが、どうしてどうして一枚絵にさえ出た、素晴らしい別嬪でございますよ。だがね、叔父さん、つい最近、縁を切られてしまいました」
「切られたというのは変ではないか、お前が縁を切ったんだろう。
「いいえそうじゃありません。女から
「ほほうそうか、それは偉い」
「偉い女でございますよ」
「いやいや偉いのはお前の方だ」
「叔父さん
「冷かすものか、本当のことだ。遊びもそこまで行かなければ、堂に入ったとはいわれない」
「振られて帰る果報者。叔父さん、こいつをいっているんですね」
「いやいやそれとは意味が異う。男へ引導を渡すような女だ、いずれ鉄火に相違あるまい。そういう女をともかくも、占めたということは偉いではないか」
「これはどうも恐れ入りました」弓之助は変に気味悪くなった。「この叔父貴変梃だぜ。金仏のような風采でいてそれで消息には通じている。ははあ昔は遊んだな」
その時甲斐守は一膝進めた。
「そこでお前に訊くことがある。盛り場ないし悪所などで近ごろ何か変わった噂を耳にしたことはなかったかな?」
「さあ、変わった噂というと?」
「銅銭会というようなことを」
「あっ、それなら聞きました。いや現在見たんです」
「ふうむ、そうか、知っているのか。……ひとつそいつを話してくれ」ピタリと甲斐守は坐り直した。
そこで弓之助は昨日、上野山下一葉茶屋で、怪しい振る舞いをした町人のことと、老武士のこととを物語った。じっと聞いていた甲斐守は、一つ大きく頷いた。
「いやよいことを教えてくれた。ついては弓之助頼みがある。これから大至急谷中へ行き、大岡侯の下屋敷へ伺候し、その老体と面会し、もっと詳しく銅銭会のことを、聞き出して来てはくれまいかな」
「はい、よろしゅうございます。しかしはたしてその老人、会って話してくれましょうか」
「俺から書面をつけることにしよう」
「へえ、それでは叔父様は、その老人をご存知で?」こう弓之助は不思議そうに訊いた。
銅銭会縁起録
「さよう」といったが
「まず知っているとして置こう。あの老人は人物だ。徳川家の忠臣だ。しかし一面
「はい、よろしゅうございます」
書面の面には京師殿と、ただ三文字書かれてあった。
書面を持って飛び出した。ポンと備え付けの駕籠に乗った。
「急いでやれ! 行く先は谷中!」
深夜ゆえに掛け声はない。駕籠は一散に宙を飛んだ。やがて大岡家の表門へ着いた。
トントントンと門を叩いた。「ご門番衆、ご門番衆」
「かかる深夜に何用でござる」門の内から声がした。
「
で、潜戸がギーと開いた。それを潜って玄関へかかった。
「頼む。頼む」と二声呼んだ。
と、小間使いが現われた。
「これを」と書面を差し出した。
一旦小間使いは引っ込んだが、再び現われると
十畳の部屋へ通された。間もなく現われたのは老人であった。
「
懐中から写本を取り出した。
「愚老、研究、書き止め置いたもの、甲斐守殿へお見せくだされ。……さて次に弓之助殿、昨日は一葉茶屋で会いましたな」
「ご老人、それではご存知で?」
「さて、あの時の茶椀陣、この意味だけは本にはない。よって貴殿にお話し致す。――貴人横奪、
「して、茶椀陣とおっしゃるは?」
「うむ、茶椀陣か、それはこうだ。銅銭会の会員が、茶椀と土瓶の位置の変化で、互いの意思を伝える法」
「火急の場合、これでご免」
「謹慎の身の上、お見送り致さぬ」
で弓之助は下屋敷を辞した。門を潜ると駕籠へ乗った。
駕籠は一散に宙を飛んだ。
間もなく甲斐守の屋敷へ着いた。門を潜り、玄関を抜け、叔父の部屋へ走り込んだ。
依然
「おお弓之助か、どうであった?」
「まずこれを」と
「うむ、銅銭会縁起録」
「他に
「うむ、そうか、どんなことだ?」
「先ほど、私お話し致しました、上野山下一葉茶屋で、一人の町人の行なった茶椀芸についてでございますが、あれは銅銭会の茶椀陣と申し、茶椀の変化によりまして、会員同士互いの意思を、伝え合うところの方法だそうで、あの時の茶椀陣の意味はといえば、貴人横奪、槐門周章。
「ううむそうか、よく解った」甲斐守はじっと考え込んだ。「……貴人横奪? 貴人横奪? これはこの通りだ間違いない。いかにも貴人が横奪された。槐門周章? 槐門周章? 槐門というのは宰相の別名、当今の宰相は田沼殿、いかにもさよう田沼殿は、非常に
「日柄のことではございませんかな。たしか
将軍家治誘拐さる
「おっ、なるほど、そうかもしれない。うむ、よいことを教えてくれた。いかにもこれは日柄のことだ丙から壬というからには、丙から数えて壬の日まで、すなわち七日間という意味だ。一所集合? 一所集合? これは読んで字のごとく某所へ集まれということだろう? 牙城を屠る? 牙城を屠る? 敵の本陣をつくという意味だ。急々如律令は添え言葉、たいして意味はないらしい……さてこれで字義は解った。貴人を横取りしたために、宰相田沼殿が
甲斐守は沈吟した。
「解ったようで解らない。だがともかくも今度の事件が、銅銭会という秘密結社の、会員どもの
「叔父様」と弓之助は窺うように、「貴人とおっしゃるのはどなたのことで?」
甲斐守はジロリと見た。
「これはな、天下の一大事だ。本来ならば話すことは出来ぬ。これが世間へ知れようものなら、忽ち謀叛が起こるだろう。が、お前には功がある。特別をもって話して聞かせる。貴人というのは将軍家のことだ」
「えっ!」と弓之助は眼を
「一昨日の晩、盗み取られた」
「へえ」といったが弓之助は二の句を継ぐことが出来なかった。
時の将軍家は
しかるに最近事件が起こった。近習山村彦太郎が、三河風土記を講読した。すると家治は慨嘆した。「俺は今までこんないい本が、世間にあろうとは思わなかった。もっと彦太郎読んでくれ」
そこで彦太郎は
しかし将軍家はそれ以来大分心が変わったらしい。やや田沼を
こうして一昨日の夜となった。その夜将軍家は近習も連れず、一人
女は先に立って歩いて行った。将軍家は後を追った。近習の一人がそれを見付け、すぐ後を追っかけた。御天主台と大奥との間、そこまで行くと二人の姿が――すなわち将軍家と女とが、掻き消すように消えてしまった、爾来消息がないのであった。
弓之助感慨に耽る
甲斐守はこう語った。
弓之助は奇異の思いがした。
「これは陰謀でございますな。狐狸の
「うん俺もそう思う。振り袖姿のその女は、銅銭会の会員だろう」
「申すまでもありません。しかし私は銅銭会より、銅銭会をあやつっているある大きな人物が……」
「これ」と甲斐守は手で抑えた。「お前、田沼殿を疑がっているね」
「勢いそうなるではございませんか」
「が、ここに不思議なことには、今度の事件では田沼殿は、心の底から
「さては芝居がお上手と見える」
「いやおれの奉行眼から見ても、殿の
叔父の家を出た弓之助は、
「田沼の所業に相違ない。将軍家に
彼はブラブラ歩いて行った。
「田沼にいかに権勢があっても、深夜城門を開くことは、どんなことがあっても出来るものではない。だが城門を開かなかったら、城から外へ出ることは出来ない。それだのに突然消えたという。どうもこいつがわからないなあ」
弓之助には不思議であった。
「もしかすると将軍家には、千代田城内のどの部屋かに、隠されているのではあるまいかな? お城には部屋が沢山ある。秘密の部屋だってあるだろう。どこかに隠されてはいないかな?」
神田を過ぎて下谷へ出た。
「山村彦太郎が将軍家へ、風土記を講読したというが、結講な試みをしたものだ。そのため将軍家の眩まされた眼が、少しでも明いたということは、非常な成功といわなければならない。もっとも今度の大事件の、そもそもの発端というものは、その三河風土記の講読にあることは争われないが、決してそれを責めることは出来ない、聞けば山村彦太郎は、賢人松平越中守様に、私淑しているということだが、ひょっとかすると越中守様の、何んとはなしの
弓之助の社会観
弓之助は上野へ差しかかった。
「越中守はお偉い方だ。ああいう方が廟堂に立ち、政治をとってくだされたなら、日本の国も救われるのだが、そういう事も出来ないかして、いまだに
そこは浅草馬道であった。
「お色め、今頃どうしているだろう? まだ
観音堂の方へ歩いて行った。昼は賑やかな境内も、人影一つ見えなかった。家々の戸は閉ざされていた。屋根が水でも浴びたように、銀鼠色に光っていた。巨大な
観音堂の裏手へ廻った。花川戸の方へ歩いて行った。どこもかしこも寝静まっていた。家々がまるで廃墟のように見えた。隅田に添って両国の方へ歩いた。一方は大河一方は家並、その家並が一所切れてこんもりとした森があった。
「どれ、神様でも拝むとするか」森の中へはいって行った。はたして社が祀ってあった。その拝殿へ腰を掛けた。一つ大きく
「実際現代は息苦しい。重い石が冠さっている。勇気のある者は
また感慨に耽り出した。
舁ぎ込まれた一丁の駕籠
と、その時一丁の駕籠が、森の中へ担ぎ込まれた。
「こんな深夜にこんな所へ、担ぎ込まれるとは不思議千万、何か様子があるらしい」弓之助は社の
「おお先棒もうよかろう」「おっと合点、さあ下ろせ」
駕舁きはトンと駕籠を下ろした。それから額の汗を拭いた。それからヒソヒソと
「おい
「あい」と可愛らしい声がした。「もう着いたのでございますか」中から垂れが上げられた。「おやここは森の中、駕舁きさん、厭ですねえ。気味が悪いじゃあありませんか。どうぞ冗談なさらずに着ける所へ着けておくんなさい」言葉の調子が町娘らしい。
「まあ姐さん、
先棒は及び腰をして覗き込んだ。
「のう姐さん、もうおおかた、見当は着いているだろう。いかにも
「おおおお六やどうしたものだ。そう
「ナアーニ姐さん心配しなさんな。外見はちょっと
駕籠の中からは返辞がなかった。どうやら顫えてでもいるらしい。と、ようやく声がした。
「まあそれじゃああなた方は、悪いお方でござんしたか」
振り袖姿に島田髷
「さあね、大して善人じゃあねえ。だがこいつもご時世のためだ。こんな事でもしなかったら、酒も飲めず、
「厭だと
女の声はここで途絶えた。
「それじゃあ妾はどんなことをしても、
「へえ、そうかい、こいつあ偉い。ひどく判りのいい
「だがねえ」と女の声がした。「見ればあなた方はお二人さん、妾の体はただ一つ、二人の亭主を持つなんて、いくら何んでも恥ずかしいよ。どうぞ二人で
「なるほどなあ、こいつあ理だ。六ヤイ手前どう思う」
「そうよなあ」と気のない声で「
「そいつあこっちでいうことだ。おいどうする引くか厭か?」「どうも仕方がねえ引くとしよう。せっかく姐さんのいうことだ。逆らっちゃあ悪かろう」「よしそれじゃあ
源太は頭上へ手を延ばし、松の枝から葉を抜いた。
「さあ出来た。引いたり引いたり」「で、どちらが長いんだい?」「冗談いうな、あたぼうめ、そいつを教えてなるものか。ふふん、そうよなあ、こっちかも知れねえ」「へん、その手に乗るものか。こいつだ、こいつに違えねえ」
六蔵は松葉をヒョイと抜いた。
「あっ、いけねえ、短けえや!」
「だからよ、いわねえ事じゃねえ、こっちを引けといったんだ」
源太は駕籠へ飛びかかった。「おお姐さん、婿は決まった」駕籠へ腕を差し込んだ。「恥ずかしがるにゃあ及ばねえ、ニッコリ笑って出て来ねえ」
グイと引いた手に連れて、若い娘がヨロヨロと出た。頭上を蔽うた森の木の梢をもれて、月が射した。板高く結った島田髷、それに懸けられた
「可愛いねえ、お前さんかえ、源さんや。花婿や」キリキリと腕を首へ巻いた。「さあ行こうよ、お宿へね」源太をグイと引き付けた。
「痛え痛え恐ろしい力だ。まあ待ってくれ、
「
「む――」と源太は唸ったが、ビリビリと手足を
手を放し、足を上げ、ポンと娘は源太を蹴った。一団の火焔の燃え立ったのは、脛に纏った緋の
「
息杖を握ると飛び込んで来た。と、娘は入り身になり、六蔵の右腕をひっ掴んだ。と、カラリと息杖が落ちた。「ワ――ッ」と六蔵は悲鳴を上げた。とたんにドンと地響きがした。六蔵の体が地の上へ潰された
怪しの家怪しの人々
クルリと娘は拝殿へ向いた。ポンポンと二つ
社の蔭に身を隠し、様子を見ていた弓之助は、胆を潰さざるを、得なかった。
「素晴らしい女もあるものだ。どういう素性の女だろう? ……待てよ、島田に大振り袖! ……ううむ、何んだか思いあたるなあ。一番後を
数間を隔てて後を追った。浅草河岸を花川戸の方へ、引っ返さざるを得なかった。女はズンズン歩いて行った。月の光を避けるように、家の軒下を伝って歩いた。遠くで犬が吠えていた。人の子一人通らなかった。隅田川から
「おい誰だ。名を
「俺だよ、俺だよ、勘助だよ」
「うむそうか、女勘助か」
ギ――と潜り戸があけられた。女の姿は吸い込まれた。八重桜の花がポタポタと散った。
弓之助は思わず首を
その時往来の
「何人でござるな、お
「
すると潜り戸がギーと開いた。浪士の姿は中へ消えた。同時に潜り戸が閉ざされた。
とまた一つの人影が、ポッツリ月光に浮き出した。博徒風の小男であった。心持ち前へ首を傾げ、足先を見ながら歩いて来た。急に人影は立ち止まった。例の屋敷の門前であった。ツと人影は潜り戸へ寄った。同じことが繰り返された。指先で潜り戸をトントンと打った。
「誰だ誰だ、名をいいねえ」
「新助だよ、早く開けろ」
「稲葉の兄貴か、はいりねえ」
潜り戸が開き人影が消え、ふたたび潜り戸がとざされた。
その後はしばらく静かであった。
またもその時足音がした。足駄と
「かかる深夜に何人でござるな?」
「鼠小僧外伝だよ」
つづいて六部が忍ぶようにいった。
「俺は
例によって潜り戸が、ギ――と開いた。二人の姿は吸い込まれた。ゴトンと鈍い音がした。どうやら
ガラガラと飛び出した四筋の鎖
闇に佇んだ弓之助は、考え込まざるを得なかった。「女勘助、紫紐丹左衛門、稲葉小僧新助、火柱夜叉丸、それからもう一人鼠小僧外伝、これへ神道徳次郎を入れれば、江戸市中から東海道、京大坂まで名に響いた、いわゆる天明の六人男だ。ううむ偉い者が集まったぞ。ははあそれではこの屋敷は、
スルスルと彼は家蔭を出た。
「いやいや待て待て、考え物だ。これから叔父貴の屋敷へ行き、事情を語っているうちには、夜が明けて朝になる。せっかくの獲物が逃げようもしれぬ。逃がしてしまってはもったいない。ちょっとこいつは困ったなあ」彼ははたと当惑した。
「気にかかるのは女勘助だ。島田髷に大振り袖、美人の装いをしていたが、大奥の後苑へ現われて、上様を誘拐したという、その女も島田髷、振り袖姿だということである。……
彼は剣道には自信があった。それに彼は冒険児であった。胸に出来ている
彼は潜り戸へ身を寄せた。それから彼らの真似をして、指でトントンと戸を打った。中は森閑と静かであった。人のいるような気勢もなかった。彼は塀へ手を掛けた。ヒラリと上へ飛び上がった。腹這いになって
こう書いてあった。
「はてな、どういう意味だろう?」
で、弓之助は首を傾げた。突然ガチャンと音がした。部屋の片隅の柱の中から、鎖が一筋弧を描き弓之助の方へ飛んで来た。右手を上げて打ち払った。キリキリと手首へまきついた。「しまった!」と呻いたそのとたん、反対側の部屋の隅、そこの柱の中央から、またもや鎖が飛び出して来た。キリキリと左手へまきついた。またもや鎖の音がした。もう一本の柱から、同じように鎖が飛び出して来た。それが弓之助の胴をまいた。ともう一本の柱から、またもや鎖が飛び出して来た。それが弓之助の足をまいた。四筋の鎖にまき
だが屋敷内は静かであった。
「どうもこいつは驚いたなあ」心が静まるに従って、弓之助の心は自嘲的になった。「人間を相手に切り合うなら、こんな不覚は取らないのだが、鎖を相手じゃあ仕方がない。……これは何んという戦法だろう? とにかくうまいことを考えついたものだ。敵ながらも感心感心。……といって感心していると、どんな
彼は体を
恋文を書く銀杏茶屋のお色
「痛え痛え、おお痛え。滅多に体は動かせねえ。莫迦にしていらあ、何んということだ。仕方がねえから
依然屋敷は静かであった。
銀杏茶屋のお色は奥の部屋で、袖垣をして
「恋しい恋しい」という文字や「嬉しい嬉しい」という文字も、目茶目茶に
「あらあらかしく、お色より、恋しい恋しい弓様へ」こう結んで筆を置いた。封筒へ入れて封じ目をし、さも大事そうに
「ちょっとお母さん出て来てよ」
「さあさあどこへなといらっしゃい」長火鉢の前へ片膝を立て、お誂え通りの長煙管、
「いらざるお世話、よござんすよ」
「観音様へ参詣しお賽銭ぐらいは上げるだろうね」
「おや、そいつは本当だね」
いい捨ててお色は戸外へ出た。プーッと春風が鬢を吹いた。で彼女は鬢を押さえた。プーッと春風が裾を吹いた。今度は前を抑えなければならない。「風さえ
「厭だねえこの鳩は、邪魔じゃないか歩くのにさ」
御堂の前で掌を合わせた。帯の間から銭入れを抜き、賽銭箱へお宝を投げた。
「どうも有難う、観音様。みんなあなたのご利益よ」
で彼女は歩いて行った。
「何て今日はいい日なんだろう。みんな
往来の人が
「あれが評判のお色だよ」「どうでえどうでえ綺麗だなあ」「今日は取りわけ美しいぜ」
「はいはい皆さん有難うよ」彼女は笑って口の中でいった。
「でもね、皆さんお
逢ってくれない弓之助
走り使いの喜介の家は、二丁目の露路の奥にあった。お色は煤けた格子戸を開けた。
「ちょいと喜介どん、頼まれて頂戴」
「これをね」とお色は
「これはこれはいつもながら。……お気の付くことでございます。……そこで益ご繁昌」
「
喜介は門を飛び出した。お色は両国を渡って行った。「春の海
「いい景色、嬉しいわね」お色は
横へ
「おやお色さん、早々と」
「さあお通り。……後からだろうね?」
ヒョイと
「私今日は嬉しいのよ」お色はトンと店へ上がった。
「そうだろうね。嬉しそうだよ」
「うんとご馳走を食べるよ」
「
「そうして今日は三味線をひくわ」
「一の糸でも切るがいいよ。身受けされるっていうじゃあないか」
「その身受けが助かったのよ」
いつもの部屋へ通って行った。ちんまりと坐って考え込んだ。
「私あの人を
恐ろしいことを考え出した。
「逢い戻り! いいわねえ」――いいことばかりが考えられた。「初めてあの人と逢うようだわ」自分で自分の胸を抱いた。ちょうどあの人に抱かれたように。「だが何んだか心配だわ」今度は少し心配になった。「あの人何んておっしゃるだろう」これはちょっと問題であった。「のっけに私はこういうわ。もういいのよ。済んだのよ。お
「でも随分待たせるわねえ」
まだ十分しか待たないのに。
床に
「いらっしゃったか、やっとのこと」彼女は急いで居住居を直した。だが足音は引っ返した。
「莫迦にしているよ。人違いだわ」彼女はだんだん不機嫌になった。
長いこと待たなければならなかった。女中が茶を
でもとうとうやって来た。弓之助でなくて喜介であった。
「どうもお色さんいけません。昨日お出かけになったまま、今日まだお帰りにならないそうで」
喜介の
両国橋の乞食の群
「案じた通りだ、出来たんだわ、ええそうよ、ほかに女が」まず彼女はこう思った。「そういうものだわ。男というものは」別れ話を持ち出したのが、彼女自身だということを、彼女はここで忘れていた。
「何んだか眼の前が真っ暗になったわ」両国橋へ差しかかった。橋の欄干へ身をもたせた。「河なものかまるで
「ドボーンと
ダラリと袖を欄干へ垂らし、ぼんやり
涙を透して見る時は、すべてそんなように見えるものであった。
体の筋でも抜かれたように、グンニャリとした歩き方で、お色は橋を向こうへ越した。すぐ人波に
お色の
やや離れた欄干に倚り、それを見ている老武士があった。編笠で顔を隠しているので何者であるかは解らなかった。
乞食は角石を右手へ置いた。それから小石を三個だけ、その左手へタラタラと並べた。
老武士が口の中で呟いた。
「銅銭会茶椀陣、その変格の
乞食はバラバラと石を崩した。角石をまたも右手へ置き、その左手へ二つの小石を、少し斜めにピッタリと据えた。それから指で二の字を描いた。
と、老武士は口の中でいった。「
すると
乞食は手早く石を崩した。小石ばかりを三個並べた。その後へ二つ円を描いた。
「ははあ同勢三百人か」口の中で老武士はいった。
乞食はまたも石を崩した。角石を取って右手へ置いた。一個の小石を左手へ置いた。その左手へ四個の小石を、四角形に置き並べた。そうして四角形の石の周囲へ、指で四角の線を引いた。
と、老武士は呟いた。「これ患難
乞食はまたも石を崩した。それから再び石を並べた。三個の小石を左手に並べ、三個の小石を右手へ並べた。中央へ二個の小石を置いた。
「これすなわち梅花陣だ」
周易の名家加藤左伝次
乞食は左右の手を延ばし、左右六個の石を取った。
「ははあ、花だけ残したな」
急に乞食は二個の小石へ、さらに一個の石を加えた。その左右に三個ずつ六個の小石を置き並べた。
「これはほかならぬ
乞食はまたもや石を崩した。十個の小石を一列に並べた。その中央へ角石を置いた。
「これはほかならぬ閂陣。戸という文字を暗示したものだ。三つを合わせると花川戸。ははあこれは地名だな」
乞食はまたも石を崩した。小石を五個一列に並べた。そうして指で「刻」の字を書いた。
「うん、これは五
乞食の石芸はこれで終った。人の往来が
老武士は悠然と欄干を離れた。橋の袂に駕籠屋がいた。
「駕籠屋」と老武士はさし招いた。「
すぐに駕籠は走り出した。
お色は俯向いて歩いていた。顔を上げると屋敷があった。門に看板が上がっていた。
当時易学で名高かったのは、新井白峨と平沢左内、加藤左伝次は左内の高弟、師に譲らずと称されていた。左内の専門は人相であったが、左伝次の専門は易断であった。百発百中と称されていた。
お色は思わず足を止めた。
「あのお方のお心持ち、ちょっと占って貰おうかしら?」
で門内へはいっていった。すぐ溜り場へ通された。五、六人の人が待っていた。一人一人奥へ呼び込まれた。嬉しそうな顔、悲しそうな顔、いろいろの顔をして戻って来た。やがてお色の番が来た。お色は奥の部屋へ行った。部屋の正面に床の間があった。脇床の違い棚に積まれてあるのは、
お色は何がなしにゾッとした。凄気が逼るような気持ちがした。遠く離れて膝を突いた。それからうやうやしく辞儀をした。
と、左伝次は
「恋だな、お娘ご
「えっ」とお色は度胆を抜かれた。
「もっとお進み、見てあげよう」左伝次の声は乾いていた。枯れ葉が風に鳴るようであった。やはり変に不気味であった。「年は
「は、はい、年は二十三で」
「妻はあるかな、その男には?」
「いえ、奥様はございません」
「ナニ、奥様? うむそうか。相当家柄の侍だな?」
「旗本衆のご次男様で」つい釣り込まれていってしまった。
「で、何を見るのかな?」
「はい、そのお方のお心持ちが……」赭くなっていい淀んだ。
「変わったか変わらないか見るのであろう?」
「は、はい、さようでございます」
「よし」というと筮竹を握った。「よいか、見る人と見られる人との精神が合盟一致した時、易というものは的中する。で、お前さんも一生懸命におなり」
お色は形を改めた。
「ヤ――ッ」と鋭い掛け声が、左伝次の口から
お色は心が
左伝次は筮竹を額へあてた。パチパチパチパチパチ。パチパチパチパチ。力をこめて
お色は思わず呼吸を呑んだ。
死中ただ一活路
「おお、お娘ご、これはいけない」気の毒そうに左伝次はいった。
「あのそれではそのお方の、お心持ちが変わったので?」お色はブルブルと
「いや心は変わっていない。……もっと大変なことがある」
「え、そうして大変とは?」
「死地にはいっておられるのだ」
「まあ」と叫ぶとフラフラと立ったが、すぐベッタリと坐ってしまった。
「では、お命があぶないので?」
「うむ」と左伝次は顔を曇らせ、「しかもそれが
「どこにおられるのでございましょう?」
「さあ、そこまでは解らない」左伝次はお色を刺すように見た。「だがただ一つ道がある。そうだその人を救う道がな」
「どうぞお聞かせくださいまし」お色はズルズルと膝を進めた。「先生お願いでございます」
「医は肉体の
「はい有難う存じます。それではお話しいたします。どうぞお聞きくださいまし。あの
――それから田沼に懇望され、その
左伝次は黙って聞いていたが、その顔には曖昧な、混乱したものが現われた。
「その人の名は何んというな?」やがて左伝次はこう訊いた。
「白旗弓之助様と申します」
「うむ、お旗本で白旗か……。小左衛門殿のご縁辺かな?」
「そのお方のご次男様で」
「では確か北お町奉行、曲淵様とはご親戚のはずだが」
「はい叔父甥の仲だそうで」
左伝次はじっと考え込んだ。「昨日から行方が不明なのだな?」
「はいさようでございます」
ここで左伝次はまた考えた。
「弓之助殿のご様子は? つまり容貌風采だな」
「色白の
「うむ、そうして腰の物は?」
「あの細身の蝋鞘の大小……」
「うむ、そうしてご定紋は?」
「はい丸に
すると左伝次はヒョイと立った。
「お色殿ちょっとこっちへおいで」
障子を開けると縁へ出た。
午後の陽が中庭にあたっていた。
お色は相手の気勢に引かれ、立ってその後へ従った。
縁は廻廊をなしていた。その外れに離れ座敷があった。不思議なことには、昼だというのに、雨戸がピッタリ閉まっていた。離れ座敷の前までゆくと、左伝次は入り口の戸を開けた。最初の部屋は暗かった。
その部屋には
途方もねえ目違いさ
一人の武士が四筋の鎖で、がんじ
左伝次とお色の姿を見ると彼らは一斉に顔を上げた。
と、左伝次はお色へいった。
「お色殿、この方かね」搦められた武士を指さした。
ヒョイとその武士が顔を上げた。お色はやにわに、
「弓様! 弓様! お色でございます!」ひとしきり部屋の中は静かであった。白旗弓之助はお色を見た。
「お色ではないか、どうして来た」驚いたような声であった。
「神道の兄貴、どうしたんだい?」
ややあって娘が――女勘助が、変な顔をして声を掛けた。
すると左伝次は苦笑いをした。
「飛んだ人違いだ。偉いことをやった。おいおい早く鎖を解きねえ」
鼠小僧外伝が、ガラガラと鎖を解き放した。と鎖は柱の中へ、
「おい貴様達、謝まってしまえ。詳しい話はそれからだ」易学の大家加藤左伝次、本名神道徳次郎はピタリと畳へ端坐した。それから両手を膝の前へ突いた。
「いや、白旗弓之助様、とんだ
「おいおい貴様達このお方はな、お旗本白旗小左衛門様の、ご次男にあたられる弓之助様だ、曲淵様の甥ごだよ」
「へえ」と五人は後へいざった。
「銅銭会員じゃあなかったのか?」火柱夜叉丸が眼を丸くした。
「うん、途方もねえ目違いさ」
「だが、それにしてはなんのために、
「そうだ、そいつがわからねえ」稲葉小僧新助がいった。
「おれはどうでもこのお侍は、銅銭会員だと思うがな」鼠小僧外伝がいった。「そうでなかったら責められないうちにそいつを弁解するはずだが」紫紐丹左衛門は腕を組んだ。
「本当にそうだ、そいつが解らねえ。そいつをハッキリいってさえくれたらおれたち殴るんじゃあなかったのに」弓の折れを指先で廻しながら、女勘助は眼を光らせた。
「いや、いずれその事については、白旗様からいい訳があろう。とにかくおれの見たところでは、銅銭会員じゃあなさそうだ」神道徳次郎はいい切った。
「さて白旗弓之助様、昨夜はどういう覚し召しで、ここへお忍びなされましたな?」
「それよりおれには聞きたいことがある。部屋の四隅の柱から、四本の鎖が飛び出して来たが、あれはなんという兵法だな?」これが弓之助の言葉であった。
六人の者は眼を見合わせた。
「おい兄貴
「待て待て」と徳次郎は叱るように。
「宝山流の振り杖から、私が考案致しました。捕り方の一手でございますよ」
「あれにはおれも降参したよ」弓之助は妙な苦笑いをした。「人間が斬ってかかったのなら、大して引けも取らないが、どうもね、鎖じゃあ相手にならねえ。……そこでもう一つ訊くことがある。紙に書かれた『川大丁首』いったいこいつはどういう意味だ?」
「それがおわかりになりませんので?」徳次郎は、いくらか探るように訊いた。
銅銭会縁起録内容
「随分考えたが解らなかった」弓之助はまたも苦笑をし、「そこにおいでの女勘助殿に、痛しめられている間中、その事ばかりを考えていたが、無学のおれには解らなかったよ」女勘助をジロリと見た。
女勘助は横を向き、プッと口をとがらせた。
「それで初めてあなた様が、銅銭会員でないことが、ハッキリ証拠立てられました」徳次郎は一つ頷いたが、
「あれは隠語でございます。銅銭会の隠語なので。「順天行道」と申しますそうで。天に
「ははあなるほど、そうであったか。扁を取ったり
「さてそこで白旗様、どうして昨夜はこの屋敷へ、忍び込まれたのでございますかな?」
するとクルリと弓之助は、女勘助の方へ体を向けた。
「おい勘助、偉いことをやったな。森の中でよ、社の森で」
「えっ」と勘助は胸を
「あんまり見事な
「あっ、さようでございましたか」女勘助は手を拍った。「そこでこの屋敷へ忍び込んだので?」
「そうさ天明の六人男、そいつがみんな揃ったとあっては、ちょっと様子も見たいからな」「ああこれで胸に落ちた」こう紫紐丹左衛門がいった。
北町奉行所の役宅であった。
その一室に坐っているのは、奉行曲淵甲斐守であった。銅銭会縁起録が開かれたまま、膝の上に乗っていた。
「
兵を発して少林寺を焼く、
これがきわめて簡単な、銅銭会の縁起であって、今日に至るまでの紆余曲折が詳しく
「公所(大結社)」のことや「会員」のことや「入会式」のことや「誓詞」のことや「諸律法」のことや「十禁」の事や「十刑」の事や「会員証」のことや「
しかし、将軍家紛失に関しての、暗示らしいものは記されてなかった。
とまれ非常な大結社で、支那の政治にも戦争にも、また外交の方面にも、偉大な潜勢力を持っていることが、記録によって
それと同時に会員のうちには、不良分子も潜在していて、悪いことをしているということも、支那人以外にも会員があって、気脈を通じているということも、相当詳しく記されてあった。
京師殿と甲斐守
「恐らく今度の事件なるものは、日本における会員の、不良分子の
甲斐守は沈吟した。
その時近習がはいって来た。
「京師殿と仰せられるご老人が、お目にかかりたいと申しまして……」
「何、京師殿、それはそれは。
近習と引き違いにはいって来たのは、両国橋にいた老人であった。
「おおこれは京師殿」
「甲斐守殿、いつもご健勝で」
二人は叮嚀に会釈した。
「さて」と京師殿は話し出した。「銅銭会の会員ども、今夜騒動を始めますぞ」
「何?」と甲斐守は膝を進めた。「銅銭会の会員がな? してどこで? どんな騒動を?」
「今夜五更花川戸に集まり、ある家を襲うということでござる。同勢おおかた三百人」
両国橋での出来事を、かいつまんで京師殿は物語った。
「銅銭会員にご用ござらば、即刻大至急にご手配なされ、一網打尽になさるがよかろう」
「よい事をお聞かせくだされた。至急手配を致しましょう」
「何か柳営に大事件が、勃発したようでございますな」
「さよう、非常な大事件でござる。実は一昨夜上様が……」
「いやいや」と京師殿は手を振った。
「愚老は浮世を捨てた身分、直接柳営に関することは、どうぞお聞かせくださらぬよう」
「いかさまこれはごもっともでござる」
そこで甲斐守は沈黙した。
間もなく京師殿は飄然と去った。
さてその夜のことであった。
花川戸一帯を修羅場とし、奇怪な捕り物が行われた。
歴史の表には記されてないが、柳営秘録には相当詳しく記されてあるに相違ない、この捕り物があったがため幕府の政治が一変し、
この捕り物での特徴は、捕られる方でも、捕る方でも、一言も言葉を掛け合わなかったことで、八百人あまりの大人数が、長い間格闘をしながらも、花川戸一帯の人達は、ほとんど知らずにおわってしまった。しかも内容の重大な点では、慶安年間由井正雪が、一味と計って徳川の
その夜はどんよりと曇っていた。月もなければ星もなかった。家々では悉く戸を閉ざし、大江戸一円静まり返り
と、闇から生まれたように、浅草花川戸の
その前で彼らは立ち止まった。
とまた十人の一団が一人の人間を真ん中に包み、闇の中から産まれ出た。それが屋敷へ近付いて来た。先に現われた一団と後から現われた一団とは、屋敷の門前で一緒になった。互いに何か囁き合った。わけのわからない言葉であった。
慶安以来の大捕り物
「
「一百八」
「途上虎あり、いかにして来たれる?」
「我すでに地神に請えり、全国通過を許されたり」
「汝橋を過ぎたるや否や?」
「我過ぎたり
「いずれの橋ぞ?」
「二
「これすなわち二板橋、何ゆえに二板の橋というや?」
「
「何んの木の橋ぞ?」
「否々これ樹板にあらず、左は黄銅、右は鉄板」
「誰かこれを造れるものぞ?」
「朱開、及び朱光の徒」
「二板橋の起原
「少林寺
こんな
銅銭会員三百人が、すっかり門前へ集まったのであった。
と、五、六人の人影が、スルスルと塀の上へ上って行った。音もなく門内へ飛び下りた。門を開けようとするのであろう。だが門は開かなかった。そうして物音もしなかった。人は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。
いつまでも寂然と静かであった。
十人の人影が塀を上った。それから向こうへ飛び下りた。何んの物音も聞こえなかった。そうして門は開かなかった。十人の者は帰って来なかった。何んの音沙汰もしなかった。いつまでも寂然と静かであった。
銅銭会員は動揺し出した。口を寄せ合って
「敵に用意があるらしい」不安そうに一人がいった。
「殺されたのか?
「どうして声を立てないのだろう?」
彼らの団結は崩れかかった。右往左往に歩き出した。
「門を破れ。押し込んで行け」
「いや今夜は引っ返したがいい」
彼らの囁やきは葉擦れのようであった。
「あっ!」と一人が絶叫した。「あの人数は? 包囲された!」
まさしくそれに相違なかった。往来の前後に黒々と、数百の人数が
銅銭会員は一団となった。やがて十人ずつ分解された。そうして前後の捕り方に向かった。
こうして格闘が行われた。
全く無言の格闘であった。だがどういう理由からであろう?
官の方からいう時は、
だがどうして銅銭会員は悲鳴呶号しなかったのであろう? それは彼らの「十禁」のうちに、こういうことがあるからであった。
「究極において悲鳴すべからず。これに
九指とは九族の
春の闇夜を数時間に渡って、無言の格闘が行われた。
その結果は意外であった。銅銭会員は全部死んだ。すなわちある者は舌を噛み、またある者は水に投じ、さらにある者は斬り死にをした。
将軍家柳営へ帰る
この間も屋敷の表門は、
捕り物がすっかり片付いた時、始めて門はひらかれた。
驚くべき光景がそこにあった。銅銭会員十六人が、
十六人のうち三人が、辛うじて蘇生をすることが出来た。その三人の白状によって、事件の真相が明瞭になった。
その夜の暁千代田城内には、驚くべき愉快な出来事があった。いつもの将軍家の寝室に、紛失したはずの将軍家が、ひどく
眼を覚ますと家治はいった。
「おれはうんと
「しかし上様には今日まで、どこにおいででございましたな?」老中水野忠友が聞いた。
「うん、越中の屋敷にいたよ」
「ははあ松平越中守様の?」
「うん、そうだよ、越中の屋敷に」
「どうしてどこからお
「それがな、本当に
『越中! お前の
『はい上様の寵臣が、ある結社を味方とし、上様を狙っておりますので』
『それでお前が助けたというのか?』
『毒を制するに毒をもってし、ある六人の悪漢を手なずけ、お連れ申しましてございます』――で、おれは黙ってしまった。そうして奥座敷へ通って行った。そこに彦太郎がいるじゃあないか。三河風土記を読んでくれた、近習の中山彦太郎がな。おれはすっかり喜んでしまった。風土記の続きが聞きたかったからさ。『おい彦太郎風土記を読め』おれは早速いったものさ。そこで彦太郎め読んでくれたよ」
嬉しい再会
「三河風土記ばかりではなかった。いろいろの
だが不幸にも家治将軍は、その後間もなく
しかし家治の遺志なるものは、幸い実行することが出来た。家治の死後電光石火に、幕府の改革が行われ、田沼主殿頭は失脚し、大封を削られて一万石の、小大名の身分に落とされてしまった。代わって出たのが松平越中守で、老中筆頭の位置に坐り、寛政の治を行うことになった。
青葉の季節が訪ずれて来た。
半太夫茶屋の四畳半で、愉快な
弓之助とお色との
「おいお色、おい女丈夫、お前は命の恩人だぜ」
「そう思ったら邪魔にせずに、
「あの時お前が来なかろうものなら、女勘助っていう奴に、おれはそれこそ殺されたかもしれねえ」
「ご身分を
「莫迦め、そんなことは出来るものか、がんじ
「ほんとにそれはそうですわねえ」お色は胸に落ちたらしい。
金魚売りの声が表を通った。燕のさえずりが空で聞こえた。
「六人の奴らどうしたかな?」
ふと弓之助は壊しそうにいった。「江戸にはいないということだが」
「泥棒なんて厭ですわねえ」お色は眉間へ皺を寄せた。
「それもご治世が悪かったからさ。人間いよいよ食えなくなると、どんな事でもやるものだからな」
ちょっと弓之助は感慨に耽った。
「ご治世は変わったじゃあありませんか。越中守様がお乗り出しになり」
「有難いことには変わったね。これから暮らしよくなるだろう。ところでどうだいお前の心は」
「何がさ?」
とお色は
「変わったかよ? 変わらないかよ?」
「そうねえ」
とお色は物憂そうにいった。「あなた、お役附きになったんでしょう?」
「越中守様のお引き立てでね」
「権式張らなければいけないわねえ」
「へえ、そうかな、どうしてだい?」
「お役人様じゃあありませんか」
「ほほうお役人というものは、権式張らなけりゃあいけないのかえ」
「みんな威張るじゃあありませんか」
「よし来た、それじゃあおれも威張ろう」
「では、
「おっと、おっと、どういう訳だ?」
「妾威張る人嫌いだからよ」
「俺が」と弓之助はゴロリと左寝の肘を後脳へ
「どうしてでしょう? 解らないわ」
「一方で威張る人間は、それ一方では
「ああそうね、それはそうだわ」
「おれの何より有難いのは、
この意味はお色にはわからなかった。
「お色、久しぶりで何か弾けよ」
「ええ」といって三味線を取った。「あら厭だ糸が切れたわ」
「三の糸だろう、薄情の証拠だ」
「お気の毒さま、一の糸よ」
「それじゃあいよいよ
「ゾッとするわ! 田沼の
「何さ、田沼のその位置へ、俺が坐ろうというやつよ」
「まあ」といって三味線を置いた。
「大して嬉しくもなさそうだな」
「
二人はそこで寄り添おうとした。有難い事には
「ああ私にはあの水が……」湯のようだと彼女はいおうとした。だがそういわなかった。「ああまるで火のようだわ」こう彼女はいったものである。
間もなく季節は真夏に入ろう。恋だって火のように燃えるだろう。だがその次には秋が来よう。結構ではないか実を結ぶ季節だ。
京師殿とは何者であろう? 結局疑問の人物であった。あの有名な天一坊事件、その張本の山内伊賀介、その後身ではあるまいか? 非常な学者だというところから、特に助命して大岡家に預け、幕府執政の機関とし、