1
「おいおいマリア、どうしたものだ。そう嫌うにもあたるまい。まんざらの男振りでもない
ユダはこう云って抱き
「ふん、なんだい、金もない癖に。持っておいでよ、銀三十枚……」
「え、なんだって? 三十枚だって? そんなにお前は高いのか」
「胸をご覧、
マリアはグイと襟を開けた。盛り上った二顆の乳が見えた。ユダはくらくらと目が廻った。
「持っておいでよ、銀三十枚。……そのくらいの値打はあろうってものさ」
「マリア、忘れるなよ、その言葉を。……銀三十枚! よく
ユダは部屋を飛び出した。引き違いにセカセカ入って来たのは、革
「さあさあマリア、銀三十枚だ。受け取ってくれ、お前の物だ。……その代わりお前は俺のものだ」
革財布をチャラチャラ揺すぶった。
「どれお見せ!」と引っ攫ったが、チラリと財布の底を見ると、
「ほんとにあるのね、銀三十枚。……じゃアいいわ、さあおいで」
寝室の戸をギーと開けた。
充分満足した革商人が、彼女の寝室から辷り出たのは、春の月が枝頭へ昇る頃であった。
マリアは深紅の寝巻を着、両股の間へ襞をつくり、寝台の縁へ腰かけていた。
銀三十枚が股の上にあった。
「畜生!」と突然彼女は叫んだ。
「一杯食った! ヤコブ面に!」
三十枚の銀をぶちまけた。
「マリア!」とその時呼ぶ声がした。
「
「解らないのかい。驚いたなあ」
「あら解ってよ。お入んなさい」
彼女の情夫、祭司の長、カヤパが寝室へ入って来た。
「これはこれは」と彼は云った。
「
「よかったらお前さん持っておいでな」
「気前がいいな。そいつアほんとか?」
カヤパは
2
イエスと十二人の使徒の上に、春の夜が深く垂れ下っていた。ニサン十三夜の朧月は、
十三人は歩いて行った。
小鳥が
と、夜風が吹いて来た。暖かい咽るような夜風であった。ケロデンの
月光は黎明を想わせた。
十三人の顔は白かった。そうして蒼味を帯びていた。練絹のような春の靄! それが行く手に立ち迷っていた。
イスカリオテのユダばかりが、一人遅れて歩いていた。
ユダがイエスを売ったのは、マグダラのマリアの美貌ばかりに、誘惑されたのではないのであった。
彼にはイエスが疑わしく見えた。
イエスに疑念を
女の産んだ最大の偉人、バプテズマのヨハネが礼を尽くし、二人の使者をよこした時、イエスはこういう返辞をした。
「
その時ユダはこう思った。
「これは途方もない傲慢な言葉だ。仮りにも預言者と称する者が、何ということを云うのだろう」
しかしユダはこんなことぐらいで、決してイエスを裏切ったのではなかった。
「神とは一体何だろう?」
ユダはここから発足した。
「宇宙の生物と無生物とを、創造し支配する唯一の物!
3
ユダはその説とは反対であった。
「宇宙は[#「「宇宙は」は底本では「 宇宙は」]決して支配されてはいない。万象は勝手に動き廻っている。勝手に生れ死んでいる。神! そんな物は存在しない」
イエスの行なう様々の奇蹟も、アラビヤ人の手品としか、ユダの眼には映らなかった。
そうしてそういう幼稚な奇蹟に、惑い呆れ驚嘆し、「イスラエルの救い」だと立ち騒ぐ、愚にもつかない狂信者や、そのイエスの奇蹟に
ガリラヤの湖水が眼の下に見える美しい小さい丘の上で、またぞろイエスが手品を使い、五千人の信者を熱狂させ、その喝采の鳴り止まぬ中に、一人姿を眩ました時も、ユダは冷やかに笑っていた。
そのイエスがカペナウムの村で、こう信者達に説いた時には、ユダは本当に怒ってしまった。
「お前達が
「莫迦な話だ」とユダは思った。
「預言者どころの騒ぎではない。
ユダがイエスを裏切ったのは、こういう考えの相違からであった。
十三人は歩いて行った。
次第に夜が更けてきた。月光は少しずつ冴えて来た。十三人は痩せて見えた。
ユダ奴が俺を売ったらしい。パリサイ人の追手達が、身近に逼っているらしい。
――イエスはすでに察していた。彼の動作は狂わしかった。いつものような
イエスの体は顫えていた。ひどく恐れているらしかった。
「さあお前達は
こう云ってイエスは奥へ進んだ。
「俺は一人で祈りたい。お前達も帰って監視しろ」
ついに三人をさえ追い払った。
イエスはよろめき躓きながら、一人奥へ入って行った。
と、林が立っていた。楊、
突然イエスは自分の体を、大木の根元へ投げ出した。
「もし出来ることでございましたら、どうぞ私をお助け下さい! 父よ、あなたは万能です」
4
ユダは後を
彼はすっかり満足した。彼は行なった自分の行為の、
「
「いざ捕縛という間際になり、素晴らしい奇蹟を現わしたら? そうして難を遁れたら?」
彼は心に痛みを感じた。
「絶対にそんな事があるものか。だがもし万一あったとしたら、あるいは彼奴は預言者かも知れない。そうして彼奴が預言者なら、俺は潔く降伏しよう。とまれ預言者か大山師か、それを確かめる方便としても、俺が彼奴を売ったのは、決して悪い思い付きではない」
梢から露が落ちて来た。楊の花が散って来た。イエスの祈る咽ぶような声が、いつ迄もいつ迄も聞こえていた。
やがてイエスは立ち上り、使徒達の方へ帰って来た。
不安と
イエスは一人々々呼び起こした。
「眠っては
ユダを抜かした十二人の者は、そこで改めて祈りを上げた。
しかしどうにも眠いと見えて、使徒達はまたも眠り出した。[#「眠り出した。」は底本では「眠り出した、」]麻痺的に病的に眠いらしい。
「また眠るのか、何ということだ!
イエスは
と、にわかに叫び声を上げた。
「時は近づいた! 遣って来た!」
麓の方を指さした。
山葡萄の茂みに身をひそめ、ユダは様子をうかがっていたが、この時麓を隙かして見た。
打ち重なった木の葉を透し、チラチラ松火の火が見えた。兵士達の持っている松火であった。時々兵士達の兜が見えた。松火の火で輝いていた。剣戟の触れ合う音もした。
「うん、来たな」とユダは云った。
それからその方へ小走って行った。
ユダを認めると兵士達は、足を止めて敬礼した。その先頭にマルコがいた。祭司長カヤパの家来であった。
「マルコ」とユダは近寄って行った。
「接吻が合図だ。間違うなよ」
「大丈夫だ。大丈夫だ」
そこで一隊は歩き出した。
「山師なら悲しみ恐れるだろう、預言者なら奇蹟を行なうだろう。……二つに一つだ。面白い芝居だ」
ユダは走りながらワクワクした。
マルコと兵士の一隊は、イエスと使徒との前まで来た。
使徒達はイエスを
イエスはマルコを凝視したが、その眼は火のように輝いていた。だがその態度はおちついていた。もう顫えてはいなかった。死海の水! そんなように見えた。
その時
「ラビ、安きか!」とユダは云った。
そうしてイエスを抱擁した。それから突然接吻した。
イエスの顔はひん曲がった。琥珀のように青褪めた。唇と瞼とが痙攣した。
が、その次の瞬間には、
兵士の方へ寄って行き、それからイエスはこう訊いた。
「お前達は誰を
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「ナザレのイエスを? では俺だ」
マルコと兵士とは後退りした。
「お前達は誰を訊ねるのだ?」
またイエスはこう訊いた。
「ナザレのイエスを」とマルコが云った。
「それは俺だと云っているではないか。……お前達は俺を
こう云ってキリストは使徒達を眺め、行けと云うように手を上げた。使徒達は地上へ
ユダだけは一人立っていた。
5
それは劇的の光景であった。
だが何物にも変化はなかった。
沈むべくして月が沈んだ。その代わり十字星が輝いた。遥かに湛えられた地中海では、波がその背を蜒らしていた。ガリラヤの湖、ヨルダン川では、飛魚が水面を飛んでいた。ピリピの分封地、ベタニヤの町、エリコ、サマリアの小村では、人々が安らかに眠っていた。
ひとりの祭司長の庭園では、赤々と焚き火が燃えていた。パリサイの学者、サンヒドリンの議員、それらの人々が焚火の
それは劇的の光景であった。
使徒の一人、シモン・ペテロが、突然叫んで飛び上った。腰の刀を引き抜いた。マルコの耳がその途端、木の葉のように斬り落とされた。
「ペテロ!」とキリストは手で制し、斬られた敵を気の毒そうに見た。
「父から
彼は両手を差し出した。
彼は、
誰も彼もみんな立ち去った。
ユダ一人が残っていた。
「悲しみもせず、また奇蹟も行なわず、死を
ユダはすっかり驚いてしまった。悉皆目算が外れてしまった。
どうにも不安でならなかった。
イエスに対する審判は、その夜のうちに行なわれた。
祭司長カヤパはこう訊いた。
「お前は本当に神の子か?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「人の子
カヤパの司どる
人を死罪に行なうには、
サンヒドリンの議員やパリサイ人や、祭司長カヤパは夜の明ける迄、愉快そうにイエスを嬲り物にした。
やがて夜が明けて朝となった。羅馬公庁ピラトの邸へ、カヤパ達はイエスをしょびいて行った。
それは金曜日にあたっていた。おりから
ピラトは思慮のある官吏であった。しかし心が弱かった。
イエス一人を庁内へ呼び、
「お前は猶太の王なのか?」
彼は先ずこう訊いた。
「我国はこの世の国ではない」
これがイエスの返辞であった。
「とにかくお前は王なのか?」
「そうだ」とイエスは威厳をもって云った。
「俺はそのために生れたのだ。……すなわち真理を説くために」
イエスの謂う所の王の意味と、キリストの謂う所の国の意味とを、ピラトはそこで直覚した。
玄関へ出て彼は云った。
「この男には罪はない」
しかし群集は喜ばなかった。イエスを
「十字架に附けろ! 十字架に附けろ!」
エルサレム城外カルヴリの丘、そこへキリストを猟り立てて行った。
草の芽が満地を蔽っていた。樹立が丘を巡っていた。祭壇から煙りが立ち昇り、犠牲の小山羊が焚かれていた。殿堂では鐘が鳴らされていた。
イエスは十字架へ附けられた。
彼の苦しみは三時間つづいた。
「事は終った」と彼は云った。
彼の
6
この頃ユダは
「彼は恐れず悲しまず、
ユダにはそうは思われなかった。
「彼奴は帰する所妄信者なのだ。ただ預言者だと妄信しただけだ」
ユダはある歌を想い出した。それはイエスが
彼は
道を地に立て終るまでは
彼は侮どられて人に捨られ
「彼奴の
「侮どられて人に捨られぬ」
「ほんとに侮どられて捨られた」
「彼は衰えず落胆せざるべし」
「これも全くその通りだ。最後まで落胆しなかった。……はてな、それではあの男は、そういう事を予期しながら、なおかつ道を立てようとして、ああ迄精進したのだろうか?」
ユダはにわかに行き詰まった。
「よし預言者でないにしても、妄信者以上の何者か、偉大な人間ではなかったろうか?」
彼の胸は痛くなった。
「いけないいけないこういう考えは! 世の中に偉人なんかありはしない。あると思うのは偏見だ。生きている物と死んでいる物、要するにただそれだけだ。そうして生物の世界では、雄と雌とがあるばかりだ。雌だ! 女だ! あっ、マリア!」
ユダは
マグダラのマリアは唄っていた。
キリスト様が死んだとさ
「ふん、いい気味だ、思い知ったか。……「マリア!」とユダが飛び込んで来た。
「銀三十枚! さあどうだ!」
ユダはマリアを抱き
「まあお待ちよ、どれお見せ」
革財布をひったくり、一眼中を覗いたが、
「お気の毒さま、贋金だよ! 一度は妾も
ここ迄話して来た
「まあご覧なさい、これですよ、いまの
ドサリと投げるように
「私がエルサレムへ行った時、ある古道具屋で買ったもので勿論本物ではありません。あっちにもこっちにもあるやつでね。漫遊者相手のイカ物ですよ。……だが面白いじゃアありませんか、今も
私は銀貨を手に取った。厚さ五分に幅一寸、長さ二寸という大きな
「恐ろしく重いじゃアありませんか」
私は
「ほんとに猶太の古代貨幣は、こんなに恐ろしく重かったのでしょうか?」
「さあ、そいつは
いかにも面白い紋章であった。
「どうです私の今の話、小説の材料にはなりませんかね」
「ええなりますとも大なりです」
こうは云ったが私としては、そう云われるのは厭であった。大概の人は小説家だと見ると、
とは云え確かにこの話は、書くだけの値打はあるらしい。偶像破壊、価値転倒、そうして無神論、虚無思想が、色濃く現われているからであった。勿論書くならイスカリオテのユダを、当然主人公にしなければなるまい。
7
「是非お書きなさい、お進めします」
旅行家でもあり蒐集家でもある、佐伯準一郎氏はこう云った。
「ついては貨幣をお貸ししましょう。その紋章を調べるだけでも、趣味があるじゃアありませんか。一枚と云わず三十枚、みんな持っておいでなさい。実は私は明日か明後日、またちょっと旅行に出かけますので、当分それは不用なのです。
事実私はその貨幣にも、貨幣の紋章にも興味があった。そうして物語に綴るとしても、何かそういう貨幣のような、物的参考があるということは、確実性を現わす上に、非常に便利に思われた。
私は遠慮なく借りることにした。
その中タクシがやって来た。
佐伯氏は貨幣を革財布へ入れ、そうしてタクシへ運び込んでくれた。
「いずれ旅行から帰りましたら、お手紙を上げることにいたしましょう。いや私がお訪ねしましょう。文士の家庭を見るということも、ちょっと私には興味があるので、しかしこんなことを申し上げては、はなはだ失礼かもしれませんな」
佐伯氏は玄関でこんなことを云った。タクシがやがて動き出した。
「左様なら」と私は帽子を取った。
「左様なら」と佐伯氏は微笑した。
だが私にはその微笑[#「微笑」は底本では「微少」]が、ひどく気味悪く思われた。
名古屋の夜景は美しかった。鶴舞公園動物園の横を、私のタクシは
8
私のタクシは駛って行った。
公園は冬霧に埋もれていた。
公園を出ると町であった。町の燈も冬霧に埋もれていた。
名古屋市西区児玉町、二百二十三番地、二階建ての二軒長屋、新築の格子造り、それが私の
そこへタクシの着いたのは、二十五分ばかりの後であった。
妻の
「遅かったのね」と咎めるように云った。私をしっかりと抱き
二階の書斎へ入って行った。
「おい好い物を見せてあげよう。これはね、
財布から銀貨を取り出した。
「まあやけに大きいのね」
彼女は愉快そうに笑い出した。彼女の歯並は悪かった。上の前歯は二本を抜かし、後は全部
その眼で愉快そうに笑った。
私はそこで説明した。
「これはね、途方もない贋金なのさ。銀のようにピカピカ光っているだろう。だが銀じゃアないんだよ。鉛かなにかが詰めてあるのさ。借りて来たんだよお友達からね。こいつで物語を作ろうってのさ。まあご覧よ紋章を」
紋章はみんな
もう一つの貨幣を取り上げて見た。それにも肖像が打ち出されてあった。
「うん、こいつはイスカリオテのユダだ」
私は
顔全体を蔽うているのは、懐疑的の憂鬱であった。
「いかなる物をも信じないよ」
こう云っているような顔であった。
9
「なるほど」と私は心の中で云った。
「従来の美学から云う時は、これは
「これは極端と極端だ、両立すべきものではない。師弟となるべきものではない。相克するのは当然だ。基督といえどもユダの上へ、君臨することは出来ないだろう。ユダといえども基督の上へ、君臨することは出来ないだろう。互いに領分をもっている。で、基督へ行きたい人は、行って安心をするがいい。で、ユダへ行きたい人は、行って何かを掴むがいい。[#「掴むがいい。」は底本では「掴むがいい、」]だが基督へ行った人は、去勢されるに相違ない。奴隷根性になるだろう。その代わり安心は出来るだろう。しかしユダへ行った人は、革命的精神を
基督とユダとを比べることによって、私はちょっと瞑想的になった。
一つ一つ紋章を調べて行った。その結果私は十二使徒と、
モーゼ、アブラハム、ヨブ、ソロモン、ダビデ、サムソン、ヨシュヤ、サムエル、エリヤ、その他の人々で、いずれも旧約聖書中の、大立者の肖像であった。肖像の下に有るか無い程の小さい小さい横文字で、署名書きがしてあったからで。
「
私は思わず呟いた。
「いいえ」とその時妻が云った。
「え?」と私は顔を上げた。
紋章の研究に心を奪われ、彼女の事を忘れていた。
「お前何とか云ったかい」
彼女は返事をしなかった。彼女の表情には変なものがあった。眼が銀貨に食い付いていた。燃えるような熱のある眼であった。頬が病的に充血していた。ふっと彼女は私を見た。疑惑に充ちた眼であった。
「
「
「気味が悪いって? どうしてだい?」
いわゆる唖然とした心持で、聞き返さざるを得なかった。
「贋金なんだよ、古代猶太のね」
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「何人からお借りしていらしったの? 聞かせて下さいよ。さあ直ぐに」
「佐伯って人だ。佐伯準一郎」
何だか私は不安になった。
「立派な紳士だよ、蒐集家なんだ」
「佐伯準一郎? 聞かない名ね。だって貴郎のお友達の中には、そんな名の方はなかったじゃアないの?」
私は急に厭になった。
「また何かを嗅ぎ付けやがったな、ほんとに仕方のない目っ早小僧だ! だが今度はお生憎様さ、ちょっとも引け目なんかないんだからな」
こんなように考えた。
で、私はやっつけるように云った。
「これから俺の人名簿へ、新しく
「ねえ貴郎」と彼女は云った。
「どうしてどこでお友達になって?」
「公園でだよ。鶴舞公園でね」
「いつ?」と彼女は追っかけて訊いた。叱るような声であった。
危うく反感を持とうとした。しかし私は差し控えた。不安どころか悲しみをさえ、彼女の顔に見たからであった。
「今日の昼さ。病院の帰りにね。……何だかひどく心配そうだなあ。その可愛い凸ちゃんを、心配させちゃア可哀そうだ。よし来た詳しく話してやろう」
――私はバセドー氏病の患者であった。毎週一回病院へ通って、かなり強いレントゲンの、放射を受けなければならなかった。その往復に公園を通った。鶴舞公園はいい公園で、日比谷以上に調っていた。一つのロハ台へ腰を掛け、好きなラ・ラビアを
冬も冬、一月中旬、冷たい風が吹き迷っていたのに、この習慣は止められず、その日も私はロハ台に
10
その時毛皮の外套を着た、四十五六の立派な紳士が、私の横へ腰を掛け、ゆるやかに葉巻を喫かし出した。
「あの大変失礼ですが、
紳士が卒然話しかけた。
「いえ」と私は素っ気なく云った。
私は私の趣味として、商売のことを訊かれるのと、年齢のことを訊かれるのとを、好まないばかりか嫌っていた。そうして私はそんなように、見知らない人から話しかけられるのを、これまた趣味として好まなかった。
紳士は外套の内
「私、佐伯と申します。最近
これは益々私にとっては、好ましくない態度であった。洋行帰りがどうしたんだ! あぶなく心で毒吐こうとした。しかしそいつをしなかったのは、その佐伯という紳士の態度が、よい意味における慇懃で、こしらえた所がなかったからであった。
私も名刺を手渡した。
「おやそれでは一條さんで。よくお名前は存じて居ります。たしかお作も見たはずです。いや私は最初から、芸術家でいらっしゃると思っていました。それでお言葉を掛けましたので。全く芸術家の方々には、一つの型がございますのでね」
この言葉は
「はなはだ突然で不作法ですが、ご迷惑でなかったら拙宅へ、これからおいで下さるまいか。お見せしたい物がありますので、恐らくお気にも入りましょう。実は私は好事家でしてな、その方面ではかなり広く、海外へも参って居りますので。相当珍品も集まって居ります。宅は公園の直ぐ裏で。ええそうです××町です。ナーニご遠慮にゃア及びません。私の方から見て頂きたいので。訳の解らない骨董屋などより、芸術家のお方に見て頂いた方が、どんなに有難いか知れません。物を集めるということは、自分の趣味性を充たすと同時に、やはり具眼者に見て頂いて、その批評を承わるのが、目的の一つでございますからね」
佐伯準一郎氏はこんなことを云った。
慇懃で如才なくて魅力的で、断わりかねるような云い方であった。そこで私は行くことにした。こうして私の見せられたのは、伝説の銀三十枚であった。
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私の話を聞いてしまうと、妻は一層不安そうにした。
「それでお借りしていらっしゃったのね。まあ本当に仕方のない方!」
バタバタと
彼女は書斎へ帰って来た。
「さあ比べてご覧なさい」
彼女は指環を投げ出した。
「ね、
指環は白金に相違なかった。それが白金であるがために、彼女はそれを虎の子のように、奥深く秘蔵していたものである。私は二つを比べてみた。銀三十枚と指環とを。
私は変に寒気立った。二つは全く同じであった。
「おい、こいつア
「贋金でなくて白金よ」
「この大きさでこの重さ……」
「数にして三十枚よ。さあお
「おい、自動車を呼んで来い!」
一人で行くのは怖かった。と云うよりも妻の方で、うっそり者のこの私を、一人でやるのが不安だったらしい。
で、自動車へは二人で乗った。
私の両手と彼女の両手とが、革財布を抑えていた。
考え込まざるを得なかった。
「これは何かの間違いなのだ。でなかったら陰謀だ。どうぞ陰謀でないように。俺は問題にならないとしても、聡明らしい佐伯氏が、贋金と白金とを見分けぬはずはない。知っていて俺に借したのだ。しかしあんな猪牙がかりに、借せるような物じゃアないはずだが。
私達のタクシは
「
徐行し、そうして停車した。
「どのお家! 佐伯さんのお家は?」
妻が私に呟いた。私は窓から覗いて見た。
「ご覧」と私は唾を飲んだ。
「赤い警察の
妻も唾を飲んだらしい。運転手が
「待て」と私は
佐伯家の厳めしい表門が、一杯に左右に押し開けられていた。赤筋の入った提燈が、二つ三つ走り廻っていた。遠巻きにした見物が、静まり返って眺めていた。門の
刺すような静寂が漲っていた。
「おい、運転手君、引っ返しておくれ」
――で、タクシは引っ返した。
彼女は何とも云わなかった。彼女の肩が腕の辺りで、生暖かく震えていた。
何か
「捕り物の静けさっていうやつさね。旅行しますと云ったっけ。ははあ刑務所のことだったのか。佐伯君、警句だぞ」
勿論腹の中で云ったのであった。
12
その翌日の新聞は、刺戟的の記事で充たされていた。
国際的大詐欺師
佐伯準一郎捕縛さる
勿論特号活字であった。佐伯準一郎捕縛さる
欧米、南洋、支那、近東、こういう方面を舞台とし、十数年間組織的詐欺を、働いていたということや、日本知名の富豪紳士にも、被害者があるということや、数ヶ月前名古屋に入り込み、ために司法部の活動となり、捜索をしていたということや、昨夜何者か密告者があって、始めて所在を知ったということや、家宅捜索をした所、贋物の骨董があったばかりで金目の物のなかったということや、書生や女中は新米で、様子を知らなかったということや、××町の屋敷へは、ほんの最近に移って来たので、まだ近所への
私と妻とは眼を見合わせた。どうしていいか
「おい、どうしたものだろう?」
「さあ、ねえ」と彼女は考え込んだ。
「訴えて出るのが至当でしょうね」
「うん」と私は考え込んだ。
「変にえこじに調べられると、カッと逆上する
「それに
「うん、目茶々々に忙しいんだ。動揺させられるのが一番困る。今が大事な時なんだからな。せっかくの空想が塞がれてしまう」
「それが一番困りますわね」
彼女は熱心に考え込んだ。
大方の芸術家がそうであるように、一面私は神経質で、他面私は放胆であった。又一面
だが私は私の病気を、祝福したいような時もあった。「空想」が奔馳して来るからであった。本来私という人間は、空想的の人間であった。空想には不自由しなかった。それが病気になって以来、その量が一層増したらしい。空で行なわれているエーテルの建築! それを破壊する電子の群れ! そんなものが私には、「見える」のであった。だがまだ私は
物を書きながら苦しむことがあった。後から後からと空想が、駈け足で追っかけて来るからであった。文字にして原稿紙へ書き取る暇さえ、ゆっくり与えてはくれないからであった。そんな時私はゴロリと寝た。動悸の烈しい心臓を抑え、空想の駈け抜けるのを待つのであった。
町を歩きながら立ち止まり、電信柱へ倚りかかり、湧き上って来る空想を、鼻紙の上へ書いたりした。
ある夜空想が湧き上って来た。折悪しく鼻紙を持っていなかった。一軒の商店の板壁へ、万年筆で書き付けた。そうして翌朝出かけて行き、写し取って来たような事さえあった。
今に私は往来の人の、背中へ紙をおっ付けて、そこで書くようになるかもしれない。
創作力に
急に妻は変に笑った。ゾッとするような笑い方であった。それから私をからかい出した。
「無理はないわね、貴郎としては。そうら出入りの呉服屋さん、ちょっと相場で儲けたと云って、
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「何だ莫迦め!」と呶鳴り付けた。
「そんな事を云い出して何になるんだ」
だが彼女はますます笑い、ますます私をからかった。
「
「莫迦め!」と私はまた呶鳴った。
「牢屋へ持ってって返せってのか」
「では貴郎には手が着かないのね?」
にわかに彼女は冷静になった。
「
「で、お前はどうするつもりだい?」
「貴郎それをお聞きになりたいの? では自分でなさるがいいわ」
彼女は再び揶揄的になった。
「だってそうじゃアありませんか、一切妾に委されないなら」
「だが俺には手が出ないよ」
「お書きなさいまし、原稿をね」
それは歌うような調子であった。
「そうして何にも思わないがいいわ。食い付きなさいまし、お仕事にね。貴郎は可愛いお馬鹿ちゃんよ。組織立ったことをさせるのは、それは無理と云うものよ。お信じなさいまし、妾をね」
私は彼女へ委せてしまった。何にも考えないことにした。さあ仕事だ! さあ創作だ! 空想よ駈り立ててくれ!
年が改たまって
妻の様子が変わって来た。
彼女と私とは恋愛によって、一緒になった夫婦であった。彼女は私を愛していた。ところがこの頃愛さなくなった。
「ねえ、お馬鹿ちゃん」
「ねえ、凸坊」
これが私への愛称であった。この頃ではそれを封じてしまった。彼女はひどく剽軽であった。途方もない警句を頻発しては、私を素晴らしく喜ばせてくれた。
「ね、ご覧なさいよ、ベッキイちゃんを、てまつくしているじゃアありませんか」
よく彼女はこんなことを云った。ベッキイというのは飼い犬であった。活動俳優の天才少女、ベビー・ベッキイの名を取って、彼女が
これは何でもない云い方かもしれない。しかし彼女が云う時は、光景が躍如とするのであった。犬ではなくて人間の、可愛い可愛いベッキイという少女が、さも愛くるしく手枕をして、眠っているように思われるのであった。
しかし彼女はこの頃では、もうそんなことも云わなくなった。私が散歩でもしようとすると、彼女はきっと呼び止めた。立ったまま私を抱き
「いい事よ、行っていらっしゃい」
こう云ってようやく放してくれた。が、それも遣らなくなった。
泣くことの好きな女であった。ある朝私は顔を洗い、冷たい手をして居間へ行った。と、彼女が化粧をしていた。胸が蒼白くて綺麗だった。冷たい手先をおっ附けてやった。それが悲しいといって泣き出した。大変美しい泣き方であった。勿論拵えた媚態であった。それが彼女には似つかわしかった。が、それもやらなくなった。
笑うことの上手な女であった。「無智の笑い方」が上手であった。利口な彼女が笑い出すと、無智な無邪気な女に見えた。それこそ実際男にとっては、有難い笑いと云わなければならない。瞬間に苦労が癒えるからであった。が、それもやらなくなった。
彼女は不思議な女であった。千里眼的の所があった。ウイスキイの二三杯もひっかけて――私は元は非常な豪酒で、一升の酒は苦しまずに飲んだ――
「ご機嫌ね、柄にないわ」
……時々
「厭な凸坊、キスしたのね。若い綺麗な芸子さんと。襟に白粉が着いてるわ」
……だが彼女はこの頃では、もうそんな事も云わなくなった。
私が
これは一体どうしたのだろう? 何が彼女を変えたのだろう?
彼女は丸髷が好きであった。いつかそれを
家に居たがる女であった。ところがこの頃では用もないのに、戸外へばかり出たがった。
驚くべきことが発見された。彼女は実に僅かな間に、奇蹟的に美しくなり、奇蹟的に気高くなった。
「美粧倶楽部へでも行くのだな。恋人でも出来たのではあるまいか? 恋人が出来ると女という者は、急に美しくなるものだ」
私の心は痛くなった。憂鬱にならざるを得なかった。
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仰天するようなことが発見された。ある夜私は戸外から帰って来た。彼女は私の書斎にいた。細巻
「その指環は?」と私は云った。
私の知らない指環であった。
彼女は無言で指を延ばした。そうしてじっとダイヤに見入った。その燦然たる鯖色の光輝を、味わっているような眼付きであった。二本の指で支えられ、ピンと上向いた煙草からは、紫の煙りが上っていた。一筋ダイヤへ搦まった。光りと煙り! 微妙な調和! 何と貴族的の趣味ではないか! 彫刻のような彼女の顔! 今にも唇が綻びそうであった。モナリザの笑い? そうではない! 娼婦マリヤ・マグダレナの笑い!
私は瞬間に退治られた。
数日経って松坂屋から、一揃いの衣裳が届けられた。それは高価な衣裳であった。帯! 金具! 高価であった。誂えたはずのない衣裳であった。私の知らない衣裳であった。
そこで私は懇願した。
「話しておくれ、どうしたのだ?」
ただ彼女は微笑した。例のマリヤの微笑をもって。
「おい!」と私は威猛高になった。
「処分したな、贓物を!」
「
「贓物ですって? 下等な言葉ね」
「売ったのだろう!
「貴郎」と彼女は繰り返した。
「約束でしたわね、訊かないと云う」
彼女は私を下目に見た。彼女は貴婦人そのものであった。
大詰の前の一齣が来た。
「馬鹿野郎!」と運転手が一喝した。
危く轢かれようとしたのであった。憤怒をもって振り返った。窓のカーテンが開いていた。紳士と淑女とが乗っていた。私は淑女に見覚えがあった。それは私の妻であった。彼女も私を認めたらしい。唇の間から
私はクラクラと眼が廻った。が、飛びかかっては行かなかった。肩を
冷たい物が手に触れた。それは入口の
真正面に人がいた。狭い額、飛び出した眼、牛のような喉、突き出した頬骨、イスカリオテのユダであった。
イエス・キリストがそれを呪った。マグダラのマリヤがそれを呪った。イスカリオテのユダがそれを呪った。みんな別々の意味において。そうして今や私が呪う。憎むべき銀三十枚を!
人は信仰を奪われた時、一朝にして無神論者となる。
人は愛情を裏切られた時、一朝にして虚無思想家となる。
ユダの運命がそれであった。
私は私の思想として、ユダの無神論と虚無思想とを、自分の心に
今や私は感情として、それを持たなければならなかった。
今、私はユダであった。
「助けて下さい! 助けて下さい!」
私は救いを求めるようになった。
しかし救いはどこにもなかった。
一つある!
キリストを売ったイスカリオテのユダは、売った後でキリストを求めただろう!
15
これがいよいよ大詰かもしれない。
その夜私は公園にいた。
私の精神も肉体も、磨り減らされるだけ磨り減っていた。長い間物を書かなかった。空想がすっかり消えてしまった。病気はひどく進んでいた。心臓の動悸、
誰も介抱してくれなかった。
お母様! お母様!
実家とは音信不通であった。それも彼女との結婚からであった。高原信濃! そこの実家! 誰とも逢わずに死ななければなるまい。
「もう一
私は私の両膝を、ロハ台の上へ抱き上げた。膝頭へ額を押っ付けた。小さく固く塊まった。
「もう一呼吸だ。指先でいい」
その時自動車の音がした。
私は反射的に飛び上った。
病院の方角から自動車が、こっちへ向かって
「もういい」と私は自分へ云った。
最後の一突きが来たからであった。花壇を越して林があった。目掛けて置いた林であった。私はその中へ分け入った。
「ユダも
木を選ばなければならなかった。木はみんな若かった。一本の木へ手を掛けた。幹へ額を押し付けた。ひやひやとして冷たかった。そうして大変滑らかだった。シーンと心が静まった。平和が心へ返って来た。
「脆そうな木だ。折れるかもしれない」
もう一本の木へ手を触れた。
その時私へ障るものがあった。誰かが肩を抑えたのであった。
私は静かに振り返った。
一人の男が立っていた。
鳥打を頭に載っけていた。足に
私はもっと壮健の頃、新聞記者をしたことがあった。
この男は刑事だな。私は直覚することが出来た。
「どうしたね?」とその男が云った。
「…………」
「黙っていては
刑事声には相違ないが、威嚇的の調子は見られなかった。
「不心得をしてはいけないよ」
むしろ訓すような声であった。
「無教育の人間とも見えないが」
刑事は私の足許を見た。
「君、どこに住んでるね」
「市内西区児玉町」
「何だね、一体、商売は?」
私は返事をしなかった。
「ナニ、厭なら云わなくてもいい。君もう家へ帰りたまえ」
刑事は背中を向けようとした。
「僕に家なんかあるものか」
「何イ!」と刑事は振り返った。
「児玉町に住んでいるって云ったじゃアないか!」
「家はあるよ。……だがないんだ」
刑事はしばらく睨んでいた。
「ははあ貴様酔ってるな。……妻君が家に待ってるだろう。……馬鹿を云わずに早く帰れ」
「妻君」と私は肩を上げた。
「妻君は自動車に乗ってったよ」
16
刑事はちょっと考えた。
「ふふん、こいつ
「妻君は自動車へ乗ってったよ。たった今だ。紳士とな」
「これは
「それじゃアあの女を知ってるのか。俺の
「あれが僕の妻君さ」
私は何かに駈り立てられた。畜生! こいつを
「君、あいつは詐欺師なんだ。あいつは
刑事はじっと聞き澄ましていた。
「捕縛したまえ。手柄になるぜ」
刑事は急に緊張した。だがすぐに揶揄的になった。
「君のような狂人の妻君に、あんな別嬪がなるものか。まあまあいいから帰りたまえ」
たくましい手をグイと延ばし、私の腕をひっ掴んだ。
「お前、金は持ってるのか?」
「うん」と私は頷いて見せた。
「いくらあるね、云って見給え」
「
刑事は腕から手を放した。
「調べてやろう、出したまえ」
私は袂から蟇口を出した。
「それ五円だ。それ赤銭だ。それ十銭だ。それ五円だ。まだあるぜ、それ十円だ」
「よしよし」と刑事は頷いた。
「それだけありゃア結構じゃアないか。歩いた歩いた送ってやろう。どうも手数のかかる奴だ」
また腕をひっ掴んだ。町の方へ引っ張って行った。私は変に愉快になった。で、のべつにまくし立てた。
「莫迦だなあ刑事君、あの女は詐欺師なんだ。白金三十枚を隠しているんだ、一枚や二枚は使ったろう。とても大きな白金なんだ。五十
刑事はニヤニヤ笑っていた。公園を出ると町であった。右角に
「おい、
「へい」と運転手が走って来た。
「この男を載っけてくれ」
すぐ自動車が引き出された。私はその中へ押し込まれた。
「金は持ってる、大丈夫だ。中村へでも送り込んでやれ。遊廓で一晩遊ばせてやれ」
こう云うと刑事は愉快そうに笑った。ひどく人のいい笑い方であった。
ゴーッと自動車は動き出した。
彼女は彼女の生活をした。私は私の生活をした。家庭生活は破壊された。だが一緒には住んでいた。彼女はますます美しくなった。近付きがたいまでに美しくなった。そうして素晴らしく高貴になった。
「貴女様は一体
こう云いたいような女になった。
行くべき所へ行き着いてしまった。私は放蕩に耽るようになった。酒だ! 女だ! 寝泊りだ!
ある時ある所で三日泊まった。四日目の夕方帰って来た。
と、貸家札が張られてあった。
「鳥は逃げた!」と私は云った。
「オフェリヤ殿、オフェリヤ殿、尼寺へでもお行きやれ」
シェイクスピアの
「尼寺なものか、極楽だ! マリア・マグダレナは極楽へ飛んだ」
私は大声で笑おうとした。が反対に胴顫いがした。
「だが、予定の行動を」
私は踵を返そうとした。
「お神さんえ、どうぞ一文、よし、俺は乞食になろう!」
「もし」とその時呼ぶ声がした。
「へえへえ」と私は手を揉んだ。
「旦那様え、何かご用で?」
乞食の稽古をやり出した。
17
「貴郎はここのご主人で?」
その洋服の紳士は云った。
「へえへえ左様で、昔はね。今は立ん棒でございますよ」
その紳士は微笑した。
「奥様からのお
「一体貴郎様はどういうお方で?」
「へい、タクシの運転手で」
「すぐ載っけろ! 馬鹿野郎!」
雨にはあらで落葉なる
明るき蒼き
さまよう物は残れる蛾
私のタクシは
街路樹がその葉をこぼしていた。人々は外套を鎧っていた。寒そうに首をすっ込めていた。冬がそこまで歩いて来ていた。白無垢姿の冬であった。
「俺も長い間苦しんだなあ」
クッションへ
「もう堪忍してくれないかなあ」
私はじっと瞑目した。
「でなかったら葬ってくれ。落葉がいいよ、
私のタクシは駛っていた。
「泣けたらどんなにいいだろう」
おずおず眼をあけて
そこは賑かな広小路であった。冬物が飾り窓に並べられてあった。それを覗いている女があった。寒そうに
立派な屋敷の前へ来た。自動車から下りなければならなかった。厳めしい門が立っていた。黒板壁がかかっていた。
運転手は一揖した。
「はい、お屋敷へ参りました」
私は無言で表札を見上げた。一條寓と記されてあった。
「家賃にして三百円!」
私は玄関の前に立った。
と、障子がスーと開いた。
妻か? いやいや知らない婦人が、恭しく手をついてかしこまっていた。
「旦那様お帰り遊ばしませ」
女は島田に結っていた。
「……で、貴女は?」と私は訊いた。
自動車の帰って行く音がした。
「はい、
私はヌッと玄関を上った。
「うん。ところで
直ぐ左手に応接間があった。その
「あの、お寝みでございます」
「伯爵夫人はお寝みか」
私は応接間へ入って行った。
一つの力に引き入れられたのであった。
その応接間には見覚えがあった。
佐伯準一郎氏の応接間であった。
18
爾来私達はその家に住んだ。
彼女は依然として出歩いた。あたかもそれが日課のように。
彼女は入念にお化粧をした。あたかもそれが日課のように。
毎朝牛乳で顔を洗った。
とりわけ爪の手入れをした。これにはもっともの
彼女は
彼女は踵に注意した。いつも円さと滑らかさと、
耳の穴、鼻の穴に注意した。
だが顔色は蒼白かった。それも彼女の好嗜からであった。血色のよい赦ら顔は、田舎者に間違えられる恐れがあった。都会の貴婦人というものは、蒼い顔でなければ面白くない。どうやら彼女は
臀部が目立って小さくなった。そうして腰が細くなった。彼女の姿勢は立ち勝って来た。
肌が真珠色に艶めいて来た。それは冷たそうな艶であった。
きっと滑らかなことだろう。
だが触れることは出来なかった。彼女がそれを断わるからであった。
遥拝しなければならなかった。
又その方がある意味から云って、私にとっても幸せであった。うっかり
「ああ彼女には洋装が似合う」
ある時私はつくづく云った。決して揶揄的の讃辞ではなかった。
その心配は無用であった。
翌日洋装が届けられた。肌色と同じ真珠色であった。
それを着て彼女は出かけようとした。
チラリと私の顔を見た。瞼を二度ばかり叩いて見せた。
命ずるような眼付きであった。
私は
その配慮は無用であった。
今日
時々彼女は私へ云った。
「
で私は腹の中で云った。
「まだこの女は成り切れない。そうさ貴族の夫人にはな! 『
この心配も無用であった。彼女はほんとに翌日から、遊ばせ言葉を使うようになった。
もう贋物には見えなかった。
生れながらのおデコさえ、どうしたものか目立たなくなった。
下手に嵌め込まれた
歯並の立派な誰かの歯と、きっと換えっこしたのだろう。
彼女の
彼女は毎日美食をした。洋食! 洋食! 油っこい物!
勿論私へも美食を進めた。私はあまり食べなかった。
一日に幾度も衣裳を変えた。しかも正式に変えたのであった。これも貴婦人の習慣であった。
そうして私へもそれを進めた。
私は心でこう叫んだ。
「謀叛人の女が
そうして私には感ぜられた、悲痛なマクベスの心持が。
彼女は
良人のあるということを、隠したがっているらしかった。
家財道具が新調された。黒壇細工!
植木屋が庭の手入れに来た。鋏の音が庭に充ちた。
大工が部屋の手入れに来た。鉋の音が部屋に充ちた。
屋敷が次第に立派になった。
「そうさ、
ある夕方自動車が着いた。
彼女は洋装で出かけて行った。
私は玄関まで
自動車は自家用の大型物であった。
自動車の中に紳士がいた。顎鬚を撫して笑っていた。この市の有名な市長であった。
「ははあ誘いに来たのだな。大方ホテルへでも行くのだろう。夜会だな、結構なことだ。……俺は書生部屋で豚でもつつこう」
だが一体どうしたことだ? 一晩も泊まっては来ないではないか。
どんなに遅くとも帰って来た。
「遠慮はいらない。泊まっておいでよ」
私は心で云ったものである。
「大方の貴婦人というものは、時々紳士と泊まるものだ。それも鍛練の一つじゃないか。何の私が怒るものか。また怒り切れるものでもない。第一お前はいつの間にか、絶対に私を怒らせないように、上手に仕込んでしまったではないか」
19
それは初冬のある日であった。私は書斎の長椅子にころがり、
「物質的には食傷している。精神的には空腹だ。これが現在の生活だ。変に
私は氈を撫で廻した。
「この毛並の軟らかさ、朝鮮産の虎の皮、決して安くはなさそうだ。児玉町に住んでいた頃には、空想する事さえ許されなかった品だ。そいつにふかふかと包まれている。さて私よ。幸福かね?」
そこで私は私へ答えた。
「悲しいことには幸福ではないよ」
私は正面の壁を見た。勿論小品ではあったけれど、
「彼女が買って来た絵だろうか? それとも色眼の報酬として、
私はまたもや私へ云った。
「よろしい彼女は伯爵夫人だ。それはどうしても認めなければならない。ところでここに困ったことには、彼女が伯爵夫人なら、ともかくも良人たるこの私は、自然伯爵でなければならない。私よ、伯爵を引き受けるかね?」
私は私へ云い返した。
「いいや私には荷が勝っているよ。けっきょく私は引き受けないよ。何故だと君は訊くのかい? 説明しよう。こういう訳だ。虹と宝石と香水と、こういう物に蔽われている、深い泥沼があったとしたら、誰だって住むのは厭じゃアないか。
大して気の利いた譬喩でもなかった。
「まあさ、それはそれとして、彼女は伯爵夫人だのに、どうして料理人を雇わないのだろう?」
私はこんな事を考え出した。
「二人の女中、一人の書生、五人ぐらしとは貧弱だなあ。夫人よ是非ともお雇いなさい。そうしたら私は献立を命ずる『安眠』という献立をね」
私は安眠さえ得られなかった。
「助けて下さい! 助けて下さい!」
依然として救いを求めていた。
救ってくれるものがあるだろうか?
あれば彼だ!
私は
「きゃつは詐欺師だ、殺人犯ではない。五年か十年、刑期さえ終えたら、出獄するに相違ない。取りに来るぞ、銀三十枚! どうしたらいいのだ。返すことは出来ない! 彼女はその間に使ってしまうだろう」
だが人間というものは、そのドン底まで追い詰められると、反動的勇気に駈られるものであった。ある日私は自分へ云った。
「基督を求めるには及ばない。他力本願は卑怯者の手段だ。自分のことは自分でするがいい」
で私はすることにした。
そこで私は「左様なら」と云った。
直接彼女へ云ったのではなかった。泥沼の生活へ云ったのであった。
そうして「左様なら」を実行した。大した勇気もいらなかった。ほんの簡単に実行された。
何にも持たずに家出をし、お城近くの安下宿へ、私は下宿をしたのであった。
お城の堀と石垣と、松との見える小さな部屋へ、私は体を落ちつけた。
霧深い厳冬のことであった。
「彼女が驚こうが驚くまいが、私の知ったことではない。彼女が探そうが探すまいが。私の知ったことではない。とにかく私は彼女を捨た。私にとっては一飛躍だ」
不思議と私の心の中は、ある平和が返って来た。ひどく苦しんだ人間だけが、感ずる事の出来る平和であった。
「ひょっとすると創作が出来るかもしれない」
で私はペンを執って見た。楽にスラスラと書くことが出来た。思想と感情とが統一された。バラバラなものが纏まった。空想さえも湧いて来た。
「少しの努力をしさえしたら、昔の私になれるかもしれない。……書けさえすれば私はいいのだ」
生活の上の不安はあった。しかし原稿が売れさえしたら、下宿代ぐらいは払えそうであった。
「贅沢な生活には懲りている。だからそれへの欲望はない。これは大変有難いことだ一つ一つ欲望を抑えて行って、うんと単純の生活をしよう」
20
性慾の方も抑えることが出来た。
私は長い間彼女のために「性のお預け」を食わされていた。いつの間にかそれが慣い性になった。それにもう一つ率直に云えば、私は異性に
「彼女のことを忘れなければならない!」
これも困難ではなさそうであった。しかし努力と月日との、助けを借りなければならなかった。
まずまず平和と云ってよかった。
一人ぼっちの生活は、こうして静かに流れて行って、体も徐々に恢復した。神経も次第に強くなった。事件以前の私よりもかえって健康になれそうであった。
規則正しい生活をした。早く起きて早く寝た。慣れるとそれにさえ興味が持てた。貧弱な下宿の食膳をさえ、三度々々食べることにした。慣れるとそれにさえ美味を覚えた。
こっそり町を散歩した。精々
「文字通りの清教徒さ」
私は聖書を読むようになった。昔とは
「貧しき者は
「不思議だなあ」と私は云った。
「事件以前の私だったら、卑屈な去勢的言葉として、一笑に付してしまっただろうに、今の私にはそうは取れない」
「不思議ではない」と私は云った。
「苦しみ悩んだ基督の思想は、苦しんだ者でなければ
そうして尚も私は云った。
「これは平凡な解釈だ。だが平凡でもいいではないか」
私は一種の法悦を感じた。
「容易に私は動揺されまい」
こんなようにさえ思うようになった。
そうしてそれは本当であった。
ある朝私は自分の部屋で、紅茶を
私の前に新聞があった。一つの記事が眼を引いた。
「佐伯準一郎放免さる。理由は証拠不充分」
私は動揺されなかった。しかし、
「さぞ彼女は驚いたろうなあ」と、彼女を
で私は呟いた。
「彼女よ。うまく切り抜けてくれ」
決して皮肉でも何でもなかった。私は心から願ったのであった。彼女を憎む感情などは、いつの間にか私からなくなっていた。それとは反対に愍れみの情が、私の心に芽生えていた。
私はロハ台に腰を下ろした。佐伯氏と逢ったロハ台であった。音楽堂が正面にあり、
と、誰か私の横へ、こっそり腰かける
「少しお痩せになりましたね」
こう云う声が聞こえてきた。私はそっちへ顔を向けた。一人の紳士が微笑していた。毛皮の外套を纏っていた。それは佐伯準一郎氏であった。
「これはしばらく」と私は云った。
私は動揺されなかった。ただまじまじと相手を見た。佐伯氏は変わってはいなかった。脂肪質の赧ら顔は、昔ながらに
「ただ今奥様とお逢いして来ました」
相変わらず慇懃の態度で云った。
「今はちょうどその帰りで」
「ああ左様でございますか」
「
「ええ」と私は微笑した。
急に佐伯氏は黙り込んだ。林の方をじっと見た。そっちから人影が現われた。それは
不意に佐伯氏は立ち上った。それからひどく早口に云った。
21
「私は大変急いで居ります。くだくだしい事は申しますまい。いずれ奥様がお話ししましょう。……さて例の銀三十枚、あれを頂戴に上ったのでした。しかし奥様にお目にかかり、私の考えは変わりました。……進呈することに致しました。いえ貴郎にではありません。貴郎の奥様へ差し上げたので。……奥様は大変お美しい。そうして大変大胆です。何と申したらよろしいか。とにかく私は退治られました。色々の婦人にも接しましたが、奥様のようなご婦人には、お目にかかったことはございません。……で、私は申し上げます。ちっともご心配はいりませんとね。銀三十枚と私とは、今日限り縁が切れました。あれは貴郎方お二人の物です。もしもこれ迄あの金のために、ご苦労なされたと致しましても、今後はご無用に願います。……全く立派なご婦人ですなア。……今度こそ私は間違いなく、日本の国を立ち去ります。ご機嫌よろしゅう。ご機嫌よろしゅう」
ロハ台を離れて大股に、町の方へ歩いて行った。
と、二人の外人が、その後を追うように歩いて行った。
噴水の向こうに隠れてしまった。
私はロハ台から離れなかった。だが私は呟いた。
「ひとつ彼女を祝福しに行こう」
それでもロハ台から離れなかった。
「大金が彼女の
私は公園を横切った。町へ姿を現わした。それから電車道を突っ切った。
こうして彼女の家の前へ立った。門を入り玄関へかかった。
「案内を乞うにも及ぶまい」――で私は上って行った。
書斎の
大きく茫然と眼を見開き、――白昼に夢を見ているような、特殊な顔を窓の方へ向け、彼女が寝椅子に腰かけていた。
私は書斎へ入って行った。彼女の横へ腰を掛けた。しばらくの間黙っていた。
沈黙が部屋を占領した。
黙っていることは出来なかった。私は厳粛に彼女へ訊いた。
「話しておくれ。ねどうぞ。信じていいのかね、あの人の言葉を? 私はあの人に逢ったのだよ」
だが彼女は黙っていた。ただ弛そうに身を動かした。非常に
私は厳粛にもう一度訊いた。
「あの高価な
すると彼女は頷いた。それから私の手を取った。彼女の両手は熱かった。そうして劇しく顫えていた。彼女の咽喉が音を立てた。どうやら固唾を飲んだらしい。
私はその手を静かに放し、書斎を抜けて玄関へ出た。
「やっぱりいけない。この家は」
私は門から外へ出た。
「彼女は一層悪くなった。……嬉しさに心を取り乱している。そいつが移ってはたまらない」
依然として下宿で暮らすことにした。
その翌日のことであった。
何気なく私は夕刊を見た。
「佐伯準一郎惨殺さる。自動車の中にて。……原因不明」
こういう記事が書いてあった。
「少し事件は悪化したな」
さすがに私は竦然とした。
「彼女の
ふと私はこう思った。
「昨日の佐伯氏のあの言葉は、どうも私には疑わしい。あれだけ高価の白金を、ああ早速にくれるはずがない。一度はくれると云ったものの、考え直して惜しくなり、取り返しに行ったのではあるまいか?」
私は理詰めに考えて見た。
「銀三十枚を取り返すため、佐伯氏が彼女を訪問する。彼女はそれを返すまいとする。必然的に衝突が起こる。それが嵩ずれば兇行となる。彼女の性質なら遣りかねない」
翌日の新聞が心待たれた。
だが翌日の新聞には、下手人のことは書いてなかった。
「では彼女ではないのかしら?」
私は幾分ホッとした。
「彼女に平和があるように」
それでも私は気になった。二三日新聞を注意して読んだ。原因も下手人も不明らしかった。それについては書いてなかった。間もなく新聞から記事が消えた。
「これを流行語で云う時は、事件は迷宮に入りにけりさ。……だが大変結構だ」
これも決して皮肉ではなかった。もしも彼女が下手人なら、一緒に住んでいたこの私も、必然的に渦中に入れられ、現在の穏かな生活を、破壊されるに相違ない。それは私の望みでなかった。それにもう一つ何と云っても、彼女は私の妻であった。その女の身に不幸のあるのは、私としては苦しかった。
事件は迷宮に入った方がよかった。
穏かな日が流れて行った。
だが十日とは続かなかった。次のような広告が新聞へ出た。
「銀三十枚の持主へ告げる。△△新聞社迄郵送せよ。報酬として一万円を与う」
22
「これはおかしい」と私は云った。
「銀三十枚の持主といえば、彼女以外にはありそうもない。そいつを請求出来る者は、佐伯準一郎氏の他にはない。だが佐伯氏は殺されている。誰が請求しているのだろう?」
新聞の来るのが待たれるようになった。数日経った新聞に、同じような広告が掲げられてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。報酬として二万円を与う」
「報酬金が倍になった」
私の興味は加わった。
数日経った新聞に、同じような広告が載っていた。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として三万円を与う」
「十二使徒だけを送れという。深い意味があるらしい。だが私には
数日経った新聞に、同じような記事が載せてあった。
「銀三十枚の持主に告げる。十二使徒だけを郵送せよ。報酬として五万円を与う」
「報酬金が五万円になった」
私の興味は膨張した。
と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。貴女の住居を突き止めた。貴女は東区に住んで居る。十二使徒だけを郵送せよ。もはや報酬は与えない」
「これは
「この言葉には脅迫がある。さあ彼女はどうするだろう?」
と、また新聞へ広告が出た。
「銀三十枚の持主に告げる。銀三十枚を郵送せよ。詐欺師の運命となるなかれ」
「これは恐ろしい脅迫だ!」
私はじっと考え込んだ。
「だが真相はこれで解った。広告主が持主なのだ。貨幣の
私の心は動揺した。
「国際的詐欺師の佐伯氏でさえ、容易に殺した人間だ。彼女を殺すぐらい何でもなかろう」
ポッと私の眼の前に、彼女の死骸が浮かんで来た。
「これはうっちゃっては置かれない」
私は急いで下宿を出た。
彼女の家へ駈け込んだ。
彼女は書斎に腰かけていた。彼女の顔は蒼白であった。銀三十枚が
私はツカツカと入って行った。
フッと彼女は眼を上げた。ゾッとするような眼付きであった。
「もう
「返しておしまい! 返しておしまい!」
「売りましょう! 売りましょう!
ひっ叩くように彼女は云った。
「持っていなければいいのだわ」
彼女はフラフラと書斎を出た。電話を掛ける声がした。
貴金属商へでも掛けるのだろう。
彼女は書斎へ帰って来た。私と向かって腰を掛けた。だが一言も云わなかった。時々ギリギリと歯軋りをした。
貴金属商の
一枚の貨幣を投げ出した。ソロモンのマークの貨幣であった。
商人は貨幣を一見した。
「これは贋金でございますよ」
「莫迦をお云い!」と彼女は呶鳴った。
「以前一枚売ったんですよ。二つと世界にない質のいい白金! こう云って大金で買ってくれたのに!」
「本物だったのでございましょう。貴女のお売りになった白金は。これは白金ではございません」
商人の言葉は冷淡であった。
「いいのよいいのよそうかもしれない。たくさんあるのよ。白金はね。一枚ぐらいは贋金かもしれない。これはどう? この貨幣は?」
彼女はもう一枚投げ出した。ダビデのマークの貨幣であった。
「これも贋金でございます」
商人の答えは冷淡であった。
私と彼女とは眼を見合わせた。
「ふん、そうかい。贋金かい、白金はたくさんあるんだよ。二枚ぐらいは贋もあろうさ」
彼女は努めて冷静に云った。
「これはどうだろう! この貨幣は?」
また一枚を投げ出した。使徒ポーロのマークの付いた、ぴかぴか光る貨幣であった。
「これは贋金じゃアあるまいね?」
商人は手にさえ取らなかった。
「やはり贋金でございますよ」
「いいわ」と彼女は呻くように云った。
革財布を逆さにした。全部の白金を吐き出した。
「幾枚あるの? 本物は?」
23
商人は一渡り眼を通した。上唇を綻ばせた。
「みんな贋金でございますよ」
「お帰り!」と彼女は呶鳴り付けた。
商人は冷笑して帰って行った。
「いえあいつは廻し者よ! 例の悪党の広告主、ええ、そいつの廻し者よ! 贋金だ贋金だと嘘を吐き、かっさらって行こうとしたんだわ! そんな古手に乗るものか! 電話ではいけない、行って来ましょう。行って店員を引っ張って来ましょう。信用のある金属商の、鑑定に達した店員をね」
彼女は書斎を飛び出した。電話をかける声がした。タクシを呼んでいるらしい。
間もなくタクシがやって来た。
彼女は乗って出て行った。
私は黙然と腰掛けていた。
「彼女はひょっとすると
私はしばらく待っていた。
「この家には用はないはずだ。一応の忠告! それだけでいいのだ。聞くか聞かないかは彼女にある。……贋金であろうと本物であろうと、私には大して関係はない」
で、私は下宿へ帰った。
数日経った新聞に、次のような広告が掲げてあった。
「銀二十九枚の送主に告げる。貴女は非常に聡明であった。イスカリオテのユダを残し、後を郵送してよこしたことは、我等をして首肯せしめ微笑せしめた。安心せよ。危害を加えず」
「ついに彼女は郵送したと見える。イスカリオテのユダの付いた、一枚の貨幣を送らなかったのは、以前売ったからに相違ない」
とにかく私はホッとした。
「だが彼女は貧乏になった。もうあの家には住めないかもしれない」
ある日私はこっそりと、彼女の家の方へ行って見た。家には貸家札が張ってあった。
「予想通りだ」と私は云った。
「流浪の旅へでも出たのだろう」
私は安心と寂しさを感じた。彼女とは永遠に逢えないだろう。こう思われたからであった。
間もなく春が訪れて来た。
やがて晩春初夏となった。
彼女に目つかる心配はなかった。自由に散歩をすることが出来た。事の過ぎ去った後において、その事のあった遺跡を尋ね、思い出に耽るということは、作家には好もしいことであった。で私は公園へ行き、首を釣りかけた木へ触れたり、佐伯氏と逢ったロハ台に、腰を掛けて考えたりした。
だんだん私は健康になった。
ある日久しぶりでK博士を訊ねた。
博士は有名な法医学者で、そうして探偵小説家であった。
その日も書斎で物を書いていた。
私はそこで話し込んだ。
と、博士が不意に云った。
「
「ああ左様でございますか」
「
私はちょっと興味を持った。
24
「それが大変探偵的なのです」
博士はいくらか小声になった。
「少し詳しく話しましょう。実は私は趣味として、フリーメーソンリイの内情を、調べたことがありましたのでね。今お話しした秘密文書ですが、紙に書かれてはいないのだそうです。三十枚の
「ははあ」と私は微笑して云った。
「本物の白金の貨幣というのは、ユダを紋章に打ち出した、その貨幣ではないでしょうか」
「おや、どうしてご存知です」
博士はさもさも驚いたように、
「仰せの通りそうなのですよ」
「だがどうしてその貨幣だけを、本物の白金で作ったのでしょう?」
「つまりフリーメーソンリイは、虚無思想家の集りなんです。で彼等の
私はそこで考えた。私の経験した物語を、博士の耳に入れようかしらと。……だが私は止めることにした。自慢の出来る物語ではなし、又その物語を語ることによって、消え去った不幸な私の妻を、辱しめる事を欲しなかったから。
それからしばらく世間話をして、私は博士の邸を辞した。
私には一つの疑問があった。
「すくなくも彼女はユダだけは、本物の白金だということを、心得ていて売ったのかしら? それとも偶然その貨幣を……」
「そんな事はどうでもいい」と私はすぐに打ち消した。
「一切過ぎ去ったことではないか。どうあろうと
下宿生活が不便になった。
「郊外へ小さな家でも借り、自炊生活でもやることにしよう」
私は借家を探し出した。
児玉町の方へ行って見て、旧居の前へ差しかかった。もう人が入っていた。これは当然なことであった。私には何となく懐しかった。しばらく佇んで見廻した。
「おや」と私は思わず云った。
表札に私の名が書かれてあった。私の文字で一條弘と。
「おかしいなあ、どうしたんだろう?」
格子の内側に障子があり、障子には
「おや」と私はまた云った。
見覚えのある長火鉢の横に、見覚えのある一人の女が、寂しそうにちんまりとかしこまり、縫物をしているではないか。人の
「粂子!」と私は声を上げた。
と、女はスッと立った。私は無意識に表戸を開けた。
彼女は土間に立っていた。
私は胸に重さを感じた。彼女の顔がそこにあった。私は両肩を締め付けられた。彼女の腕が締め付けたのであった。
彼女の口から啜り泣きが洩れた。
「
彼女は眼を上げて私を見た。で、私も彼女を見た。
「その眼がその眼である限りは、彼女の純潔は信じてよい」
そういう眼を彼女は持っていた。昔ながらに、依然として。
彼女の態度が一変し、バンプ型の女になったのには、大した意味はなかったのであった。そういう振舞いをすることによって、彼女は精神を大胆にし、そうして容貌を妖艶にし、そうして動作を高尚にし、それを武器として大詐欺師に
そうとも知らずに煩悶した私は、要するに馬鹿者に過ぎなかったのであった。
で、結果はどうだったかというに、彼女の勝利に帰したのであった。
これは当然と云わなければならない。敵を瞞ますには味方を計れ、こういう考えからしたことではあろうが、ともかくも
佐伯準一郎氏は恭しく、銀三十枚を彼女に献じた。
そうしてその帰路不幸にも、フリーメーソンリイの会員に、暗殺されてしまったのであった。――佐伯氏を追って行った二人の外人、あれが下手人に相違あるまい。
25
私達は一緒に住むことになった。
最初のうちは変なものであった。何となくチグハグの心持であった。だがそのうちに慣れて来た。
次第に二人は幸福になった。
彼女は昔の彼女になった。相変わらず私をあやしたりした。剽軽なことを云ったりした。
「今日は風が吹きますのよ。冬のように寒い風がね。まきまきするのよ、まきまきをね」
襟巻を巻けというのであった。
「たあたを穿くのよ。ね、たあたを」
足袋を穿けというのであった。
ある時私はこう云って訊いた。
「誰かと公園で媾曳をしたね。刑事が淫売婦だと云っていたよ」
「え、したのよ。県知事さんと」
大変サッパリした返辞であった。――それだから私には安心であった。
「お前は知っていて売ったのかい? ユダの紋章のある貨幣だけは、すくなくも本物の
「いいえ」と彼女は笑いながら云った。
「あのユダという人間が、一番厭らしい顔付きでしょう、それで妾売ったのよ」
「なるほど」と私は胸に落ちた。
「そうだすくなくもイスカリオテのユダは、女や小供には喜ばれない、そういう顔の持主だ」
私達二人は平和であった。
しかし私は時々思った。
「キッスぐらいは許したかもしれない」
だが直ぐ私は思い返した。
「いいではないかキッスぐらいは、私だってこれまでいろいろの女に、随分唇を触れたではないか」
穏かに時が流れて行った。
ここに一つ残念なことには――だが良人たる私にとっては、かえってひどく安心な事には、――彼女の容色がにわかに落ちた。
それは苦労をしたからであった。
いつも重荷を担いでいる、田舎の百姓の女達が、早くその美を失うように、彼女も重荷[#「重荷」は底本では「荷重」]を担いだため、俄然
精神的にしろ肉体的にしろ、あんまり重荷を担ぐことは、
私も随分苦労をした。
年より白髪の多いのは、重荷を担いだ為であった。
彼女のおデコが目立って来た。下手な義歯が目立って来た。
だがそれも結構ではないか。
美しい妻を持っていることは、胆汁質でない良人にとっては、決して幸福ではないのだから。
だが勿論将来といえども、いろいろ彼女は失敗を演じて、私を苦しめるに相違ない。
だが恐らく「伯爵ゴッコ」をして、苦しめるようなことはないだろう。
真夏が来、真夏が去った。[#底本ではここで改段]
二人の生活には変わりがなかった。
何でもないことだが云い落とした。
佐伯準一郎氏の旧宅へ、何のために彼女は越したのだろう?
やはりそれも佐伯氏を、威嚇するための策だったそうな。