ここは両国広小路、隅田川に向いた
「悪いことは云わぬ、
「さあね、どうも気が進まないよ」
「馬鹿な女だ、こんないい話を」
「あんまり話がうますぎるからさ」
「気味でも悪いと云うのかい」
「そうだねえ、その辺だよ」
「案外弱気なお前だな」
「恋にかかっちゃあこんなものさ」
「ふん、馬鹿な、おノロケか」
「悪かったら
「いやいや一旦云い出したからには、俺はテコでも動かない」
「
「いやそいつは云われない」
「では妾も不承知さ」
「そう云わずと
「しかも金までくれるってね」
「うん、旅費として五十両、成功すれば礼をやる」
「だからさ本当におかしいじゃあないか、
「真面目に聞きな、嘘は云わぬ」
「そうさ嘘ではなさそうだね、だから一層気味が悪い。……ね、妾は思うのさ、これには底がありそうだね?」
「底もなけりゃあフタもないよ」
「馬鹿なことってありゃあしない」
「ではいよいよ厭なのだな」
「そうだねえ、まず
「よし、それでは覚悟がある」
「ホ、ホ、ホ、ホ、どうしようってのさ」
「秘密の一端を明かせたからには、そのままには差し置けぬ!」
「おやおや今度は嚇すのかい」
「嚇しではない、本当に斬る」
「何を云うんだい、伊集院さん、そんな
「いや本当に叩っ斬る!」
「
「ブッ、
「それはそうと、ねえお前さん、ほんとにあの人木曽へ行くの?」
「うんそうだ、しかも明日」
「で、いつ頃帰るのさ?」
「で、いつ頃帰るのさ?」
こう訊いた女の声の中には、危惧と不安とがこもっていた。それを
「さあいつ頃帰るかな」わざと
「ふふん、どうやら心配らしいな、教えてやろうか、え、お仙」
「ええどうぞね、お願いします」
「一年の後か二年の後、場合によっては永久帰らぬ」
「アラ本当、困ったわねえ」
「だからよ、おっかけて行くがいい」
「ナーニ、みんな出鱈目だよ、そうさお前さんの云うことはね」
「それもよかろう。そう思っていな、だがしかし明日から、
「それじゃやっぱり本当なのね」
「クドい女だ、嘘は云わぬよ」
「それじゃあ妾考えよう」
「何も考えるにも及ぶまい、解った話だ、うんと云いな」
「そうだねえ、うんと云おう」
「おお承知か、それは偉い、それ五十両、旅用の金だ」
「薄っ気味の悪い旅用だねえ」
「何を馬鹿な蛇ではなし」
「およしなさいよ、蛇々と」
薩摩の藩士伊集院五郎と、両国広小路の蛇使い、お仙との奇怪な話から、この物語は開展する。
さてその翌日の
ところでもう一人の旅人は、全く異様な風采であった。紺の
「困ったわねえ、はぐれちゃった」
府中の宿まで来た時である、男の足には叶うべくもなく、後へ残された女蝮捕りは、がっかりしたように呟くと、五月初旬の初夏の
甲州街道は日本一の難場、それを女の一人旅、これは困るのが当然である。
いわゆる芸が身を助ける、案外お仙の道中は、平穏無事なものであった。
蝮を捕り捕り旅をした。蛇使いが本職である。お仙が一度口笛を吹くと、いろいろの長虫が寄って来た。それを手鉤で
問屋場人足や雲助が、女と思って嘗めてかかると、お仙はびくから蝮を取り出し、これを振り廻して嚇しつけた。
可愛いい可愛いい蝮の子
陽やけて赤いやまかがし
蝮捕りの歌をうたいながら、陽やけて赤いやまかがし
だがもちろんこの頃には、恋しい男も伊集院五郎も、とっくに木曽へはいったことであろう。
福島宿、駿河屋という
そこへはいって来た一人の武士、
「許せ、今晩厄介になる」
「へいへいこれはお早いお着きで……おいおい
部屋へ通った若侍、年の頃は二十四五、
江戸小石川、山影宗三郎。水戸屋敷から出た武士である。
「宿の景気を眺めて来る」
「へえへえおいでなさいまし」
ここ木曽の福島宿は、山村甚兵衛の預かる所、福島関の存在地、いわゆる日本の裏門で、宵の口ではあったけれど、江戸とは
今日停車場のある辺り、その時代は八沢と云う。人家途絶えて木立ばかり、その
右肩から掛けて脇腹まで、大袈裟掛けのただ一刀! 斬られてしまっては話にならない。
前へ飛ばず横へ
「
「声も掛けず背後から、闇討ちするとは卑怯な奴、これ名を
宗三郎威勢よく畳みかける。
「斬って捨てるは易かったが、大事な用事を抱えた身、何より堪忍が大切と、酒手を出して詫びを入れ、胸を
サッと切り下ろした片手斬り、流名で云えば
不思議なことには手答えがない。敵はどうやら逃げたらしい。
「はてな?」と呟いた宗三郎、考え込まざるを得なかった。「浮世には素早い奴がある。俺の切り手をひっ外し、足音も立てずに逃げるとは? いやどうも驚いたなあ」
チャリンと鍔音高く立て、刀を納めたものである。空を仰げば明日は天気、一点雲なき星月夜、と大きく
「流星しばしば流るるは」
宗三郎微吟する。
「天下乱るるの兇徴なり」
よい声だ。澄き通る。悠然宿の方へ引っ返した。
享保十年夏五月、青葉
翌日宿を出た宗三郎、三
「
「そうともそうともお前の言う通りだ。薬草採りの連中が、一日に使う金額だけで、村の一月の生活は立つ、もうそれだけでも有難えじゃあねえか」
「風儀が悪くなるのお山が荒れるのと、そんな愚にもつかぬ旧弊は、今日では通用しねえってものさ。金さえ落ちればよいじゃねえか」
「思っても見るがいい、俺らの村を、田もなけりゃあ畑もねえ、あるものと云えば、山ばかりだ。米も出来なけりゃあ野菜も出来ねえ、そこで年中炭を焼き、やっとこさ
一人の
「まあ待ってくれお前達、そうガミガミ云うものではない。なるほど村方へ金は落ちる、こいつは決して悪くはない、悪いどころか有難いくらいだ。だから俺にも不平はない。ところがここに困ったことは、薬草採りという奴が、おおかた
七十を越した年格好、躍起となって
「山の神様が聞いて呆れらあ、お告げがあったもねえものだ。もしまたお前の云う通り、本当にお告げがあったのなら、そんな神様にゃア用はねえ。だって
「
「何んの神様のお告げなものか、
「その寝言にも程がある、三岳の村方一統へ、迷惑を掛けようっていうんだからな。こいつ
「みせしめのためだ、川へ流せ」
「谷の中へ抛り込め」
向こうみずの若者ども、老人を宙へ吊るそうとした。そこへ割り込んだのが宗三郎である。
「これこれ何んだ、乱暴な奴だ、やる事にも事を欠き、
今度は優しく扱った。
侍に出られては仕方がない、何か口小言を云いながらも、若者どもは立ち去った。
「どうだ老人、怪我はなかったかな」
「これは有難う存じました。へえへえ怪我はございません。いやはやどうも
「これこれ老人、お前も悪い」宗三郎は微笑した。「年寄りのくせにそういう悪口、だから若い者に憎まれるのだ。長い物には巻かれるがよく、年寄りは若者に縋るがいい。それはそうとどこに住んでいるな」
「へいすぐ近所でございます」
「送ってやろう、行くがいい」
「ナーニ、大丈夫でございますよ」
「
「それはどうもご親切様に、奴らは恐くはございませんがせっかくのご親切を無にしては、かえってお前様にお気の毒、ではお言葉に従って、小屋まで送っていただきましょう」
「気の毒だから送って貰う? アッハハハ驚いた
「ドッコイショ……これはいけない。……相済みませんがちょっと手を」
「やれやれ腰が立たないのか」
「さっきの奴らに二つ三つ、腰のあたりを蹴られましたので」
「人を助けるのも考えものだ、薄穢いお前の手を、では引かなければならないのだな」
「きっとよいことがございましょうよ。神様のお恵みだってございましょう。さあさあ遠慮なくお引きなすって」
「恩に掛けて手を引かせる、
グッと引くと顔をしかめ、
「お侍様、もっと手軟かにね」
山袴を穿き袖無しを着、頭巾を冠った老人を旅装派手やかな江戸の武士が、手を引いて行く格好は、全く珍らしい見物である。
「どうやら小屋へ参りました。お急ぎでなくばお立ち寄り、休んでおいでなさいまし。へえへえ
一方は谷、一方は曠野、名づけて
「おい婆さんや今帰ったよ」
門口に立って声を掛け、蓆を開いて
大きな囲炉裏、自在鉤、
円座へ坐った宗三郎、白湯で咽喉をうるおした。
と、その時どこからともなく、
「はてな?」と思って耳を澄ますと、隣りの部屋から来るらしい。「これは不思議」と立ち上り、仕切りの茣座を掲げて見た。
「むう」と唸ったものである。思いもよらない光景が、展開されていたからである。
真正面に白木造りの神棚、
ふと見るとその前にこの家の老人、端座して祝詞を上げている。と、老人は振り返った。
「お武家、礼拝なさるがよい!」命ずるような威厳のある声! まるで人間が
品位に打たれた宗三郎、思わずピタリと端座した。この老人何者であろう? 素性は不明、名は彦兵衛。
神代原から半里の北に、萩原の部落が出来ていた。
すこし前まではこの萩原、戸数二十戸、人数八十人、問題にならない小部落であったが、薬草採りが入り込んでからは、にわかに家が増し人数が殖え、戸数百戸、人数四百人、堂々たる山間の都会となった。
部落の中央
今日で云えばバラック建て、がんけんに作られた食卓や腰掛け、飾りらしい物は一つもない。
この日も酒場は賑わっていた。
「六文六文と馬鹿には出来ねえ、
「ははあさてはもてやがったな」
「星一つねえ真っ暗の晩だ、顔や姿は解らなかったが、すべっこい肌ったらなかったよ」
「ところが、そいつを昼間拝むと、鼻の欠けた化物だってね」
「うんにゃそれがそうでねえ、俺もそいつが心配だったので、真っ先に顔を撫でて見たやつよ。するとどうだ、鼻はあった。もっとも唇はとろけていたが」
「
「なんの婆さんを買ったんだろう」
「それも
「そうは云っても六文の中にも、お吉のような女もある、そうそう安く扱えめえ」
「あっ、お吉か、ありゃあ別だ」
「
「それに気象が面白いや」
「たとえ山巡りのお役人さんでも、厭だと一度首を振ったら、
「俺らの手には合わねえってものさ」
「そうかと思うと気に入ると、身銭を切って入れ上げるそうだ」
六文というのは私娼のことで、一回六文で春をひさぐので、そういう
また一方の片隅では、山巡りの役人の武士達が、こんな話を取り換わせている。
「山窩には全く閉口でござる。何んとかして根絶やしにしたいもので」
「どうも巣窟が解らないのでな」
「めっきり最近は横暴を極め、山を下って人里へ出、
「山窩とは云っても武芸に達し、それに多数
こっちの隅では薬草採り達が、採集の話に耽っている。その間を酒場の女が、燗瓶を持って飛び廻る。唄い出す奴、怒鳴る奴、笑い出す奴、口論する奴、女を捕えて
「酒だ!」「肴だ!」「飯だ!」「茶だ!」
人いきれと酒の香と、汗の匂いと髪の毛の匂い、ジャラジャラと音を立てるのは、
「殺すぞ!」「何を!」「止めろ止めろ!」
バタバタと五六人が取っ組み合う。棚が仆れ
山中へはいれば治外法権、自由で素朴で剛健で、殺伐で快活で明けっぱなしで、そうして強い者勝ちである。
とその時門口から、一人の男がはいって来た。
「
この酒場と中庭を隔て、立派な屋敷が立っていた。その一室で書見しているのは、この家の主人仁右衛門で、デップリと肥えたよい人相、いわゆる長者の風がある。この土地での名門家、萩原部落の名主である。
「あのお客様でごぜえます」
下女がおずおずはいって来た。
「どなたかね、茂十さんかえ」
「いんね、お武家様でごぜえます」
「ああ木場のお役人さんか」
「旅のお方でごぜえます」
「ふうん、旅のお侍さん……で、どんなご用だろう?」
「ご書面を持って参りました」
「何んということだ、
取り上げて見て
「中山備前より仁右衛門へ」こう書かれてあるからである。
「これは故主様ご家老よりの書面、これはこれは勿体ない」
こう云うと立ち上がって台所へ行き、
「水戸家の家臣
「客間の方へ
やがて仁右衛門は衣裳を着換え、客間の方へ出て行った。
「これはこれは山影様、ようこそおいでくだされました。私
仁右衛門頼もし気に云ったものである。
「私事は山影宗三郎、初めてお目にかかります。ご親切なるそのお言葉百万の味方を得たようでござる。ところで」と宗三郎膝を進めた。
「今回受けました拙者への主命、重大でもあれば困難でもあり、尚また一方から云う時は、奇怪至極のものでもあり、さらに想像を巡らせば、
「まずもってこれをご覧くだされ」
取り出したのは一巻の巻物、スルスルと両手で押しひらいた。現れたのは一面の画像、白髪白髯鳳眼鷲鼻、手に薬草を持っている。すなわち彦兵衛の神棚にあった、神農じみた老人の画像! しかし画面は同じでも、巻物は両者別であることは、紙質墨色の異うのでも知れる。
「何んと萩原仁右衛門殿、ここに書かれた老人を貴殿お見知りはござらぬかな?」
すると仁右衛門は首を延ばし、じっと画面を眺めたが、
「存じております、薬草道人様で」
「おお、さてはご存知か?」
「私ばかりではございません、
「ははあそれほど有名で?」
「有名にも何んにも活き神様で、崇拝のマトでございますよ。と申しますのはこのお方が、御岳山中に薬草あり、万病に効くとおっしゃったため、諸国から無数の薬草採りが、入り込んで来たのでございますからな」
「ははあなるほど、さようでござったか。いやそれで安心致した。しかと薬草道人には、この山中においででござるな?」宗三郎改めて念を押した。
「たしかにおいででございます」
「やれ有難い、大願の一歩、これで叶ったというものだ。ううむさすがはお館様、ご明察に狂いがない。全くもって恐れ入ったことで」こう云うと宗三郎誰にともなく、頭を下げたものである。
驚いたのは仁右衛門で、
「失礼ながら山影様、その薬草道人様に、何かご用でもございますので?」
「ご用もご用、これ一つだけ。すなわち薬草道人様に、お目にかかってお話し致し、江戸までご同道願うのでござる」
「え、江戸まで? それは駄目です」
どうしたものか萩原仁右衛門、強く横首を振ったものである。今度は宗三郎が
「これは不思議、何故駄目で?」
「出来ない相談でございますよ」
「いよいよ不思議どうしてかな?」
「第一あなた、道人様を、どこでどうして見付けられます」
「山中におられるとおっしゃったが?」
「御岳は広うございますよ」
「いずれこの辺へも参られるであろうが?」
「はいはいおいででございます」
「訳はないこと、その時お逢いし……」
「それが駄目なのでございますよ。まずまずお聞きなさいまし。道人様は名聞嫌い、活き神様で世捨て人、いえ仙人でございます。木曽の代官山村様。八千石の威光を屈し、一度会いたいと礼を尽くし、お招きした時もお
「ほほう」と云ったが山影宗三郎、決して失望しなかった。「いや事情よく解った。そういう人物であればこそ、古今の名医と云われるのであろう。古今の名医であればこそ、我らがご主君水府様、拙者をこの地へ派遣して、薬草道人の江戸入りを、お企てなされたに相違ない。道人山中におられる以上、誓って拙者お目にかかる。お目にかかったら懇願し、これまた誓って大江戸へ、お連れしなければ役目が立たぬ。いや困難は覚悟の前、そんなことには驚かぬ」こう云ったが宗三郎、にわかに砕けた調子となった。「ところで萩原仁右衛門殿、お連れ合いはどうなされた?」
これを聞くとどうしたものか、仁右衛門にわかに赤面した。
「はい愚妻は数年前に、世を去りましてございます」
「なくなられたか、それはそれは。……家中の者の噂では、貴殿のお連れ合いお花殿は、貴殿お館にご仕官の頃、やはりお館の奥向きに、仕えておられたと申しますことで?」
「冬木と申して奥女中、はい仕えておりました」
「お美しい方であられたそうで」
仁右衛門
と、宗三郎微笑した。
「お気にさわらば幾重にもお詫び、噂によれば貴殿とお花殿、ご一緒になられる経路には、こみいった事情がございましたそうで」
しかし仁右衛門返辞をしない。
「古傷に触れるはよくないこと、拙者としても本意でござらぬ、しかしこれとて止むを得ぬ儀、構わず卒直に申し上げる。……館の
「いかにも」と仁右衛門顔を上げた。「お手討ちになるところでございました」
「それを不愍と覚し召し、お館様にはこっそりと、貴殿ご夫婦を逃がされたそうで」
「爾来故郷のこの地へ引っ込み、今日までくらしてございます」
「するとお館は貴殿にとっては、
「命の恩人にございます」
「どうしてご恩を返されるな?」
「その儀については日夜肝胆……」
「ははあ、砕いておられるか?」
「いかにもさようにございます」
「その大恩あるお館様、目下窮境に立っておられる」
仁右衛門じっと眼を据えた。
「この際でござる、ご恩返しをなされ」
「私に出来ますことならば……」
「薬草道人を目付け出し、説いて江戸入りさせるのでござる」
「が、いったい何んのために、そうお館におかれては、道人様の江戸入りを、ご懇望なさるのでございましょう」
「よろしい、お話し致しましょう。お聞きなされ」
と膝を進めた。
この時ドッと酒場の方から、拍手笑声が湧き起こった。
そこで作者はペンを改め、再び酒場の光景を書こう。
「ようよう女神のご来降だ」一人の
「いよう
「莫迦を云うな、大明神なものか、歌舞の菩薩のご
杣夫、薬草採り、役人までが、頓狂の声を上げたというのは、酒場の美しい女主人、浜路が出現したからであった。
しかも浜路の出現たるや、並ひととおりのものではなく、堂々と馬に乗って現れたのであった。
「おや皆さんいらっしゃい。いつもご
馬を門口へ繋いで置いて、酒場の中へはいるや否や、こんな
草花を染め出した水色の小袖、
「いよう姐ご、大成功!」
「山窩めひでえ目に会やアがった」
酒場が陽気になったのは、まさに当然なことだろう。
「酒場の浜路さんにゃあ相違ないが、同時に
「おおおお大将何を云うんだ、何んの村ばかりの浜路さんなものか、御岳一円の浜路さんだ。薬草道人と浜路さん、これが御岳の
あちらでも讃美、こっちでも讃美、その中を軽快に駈け巡りながら、浜路は愛嬌を振り蒔いた。この陽気で華やかな酒場に、一人一向はしゃごうともせず、むしろ陰険な眼付きをして、じろじろ見廻している男がある。他ならぬ伊集院五郎である。
「競争相手の山影宗三郎、たしかにこの家へはいって行ったが、どういう関係があるのだろう? こいつを探る必要がある。それに少し気になるのは、薬草道人とかいう隠者の噂だ。はてそれではそんな老人が、御岳に住んでいるのだろうか? はたしてそんな者がいるのなら、こいつも探る必要がある。ふふん、どうやら俺の方が、今のところ少し歩が悪い」
尚様子を探ろうとしてか、チビチビ盃を嘗めながら、酒場の様子をネメ廻した。
「それはそうと耳寄りなのは、山窩の大軍がいるということだ。こいつアいいぞ、一思案! 面白い
勘定を払うと伊集院五郎、フラリと酒場から外へ出た。
もう
恋は不思議でも神秘でもない。人生には二つの慾望しかない。一つは食慾、一つは性慾、よき配偶を発見し、理想的に性慾をとげようとする。この行為が恋である。よき配偶というものは、オッチョコチョイには目付からない。そのため人は煩悶する。だが往々一瞬間に、配偶を目付けることがある。これすなわち一目惚れである。
「父が若い頃お仕えした、水府お館中納言様、そのご家来の山影様、今度大事なご用を持って、当地へおいで遊ばされた、むさくるしいにもお構いなく、当分ここへご滞在くださる。お前も気を付けてご介抱するよう」
こう云って紹介された時、パッと浜路が顔を赫めたのは、恋が、一目惚れが、
女色に淡い宗三郎ではあったが、浜路だけはひどく気に入ったらしい。
「ふうん、こいつは驚いたな。痩せて蒼白くてナヨナヨしている、
「ははあお娘ごの浜路殿で、拙者は山影宗三郎今後ご懇意にお願い致す」サックリとした竹を割ったような気象、言葉なぞもゾンザイで、時には皮肉も云い警句も云い、洒落さえ云いかねない宗三郎であったが、初対面ではあり相手は娘、しかも気に入った娘である、少しばかり固くなり、ぎごちない調子で話しかけた。
「はい、妾こそ、どうぞよろしく……あの田舎者で……
「そこでな、浜路」と父の仁右衛門、「お前に云って置く事がある、山影様のご用というのは、一口に云えば至極簡単、道人様を探し出し、江戸へお連れすることだ。ところがここに困ったことは、道人様のお住居が知れぬ。そこで何より真っ先に、そのお住居を突き止めなければならない。幸いと云ってはおかしいが、お前はお転婆で馬が好き、よく山中を駈け廻るらしい。で、ひょっとして道人様を、目付け出さないものでもない。よいか、そこだ、目付け出したら、早速知らせて来るようにな」
「ははあ馬が好きかな、それは何より、拙者も大好き、明日にも遠乗りを致しましょう」
「はい有難う存じます。でも妾は馬と云っても、ほんの自己流でございまして」
「いや自己流、それこそ結構、習った馬術で関東の平野を、ダクダク歩かせても仕方ござらぬ。山骨嶮しい御岳山中を、自在に乗り廻した自己流の馬術、それがほんとの馬術でござる」
「ハッハハハ日頃のお転婆も、今日はどうやら風向きがいいの、山影様にご教授を受け、正式の馬術を習うがいい」仁右衛門嬉しそうにニコニコする。
「まあ厭なお父様、お転婆お転婆とおっしゃって」
「いや、お転婆も結構でござる、活気があってなかなかよろしい」
「あなたまでが、そんなことを」
浜路バタバタと店の方へ逃げたが、楽しい空想がムクムクと、胸一杯に突き上げて来た。
この日からして宗三郎、奥庭に建ててある離れ座敷を、仮りの住居に借り受けて、道人探しに取りかかった。
物語り少しく後へ戻る。
ここは萩原への峠道、一本の
「可愛い可愛い蝮の子」
「ソーレお仙、歌い出した」
「陽やけて赤いやまかがし」
蝮捕りの歌、好きな歌。
「恋しいお方はおりませぬ」
どうやらこいつは自作らしい。
ひょいと
「随分来たねえ。山の中へ、江戸を離れて幾百里、ナーニそんなにも来やしない。だが
で、もう一匹引っ張り出す。
「オーヤ、オーヤお前もかい、おんなじようなご面相だねえ、見たくもないよ、そんな面は、蝮って本当にどいつもこいつも、こんなにも
でまた
お仙、どうやら
「考えて見りゃあ妾は馬鹿さ、伊集院なんて薩摩っぽに、けしかけられて来たんだからねえ。五十両の旅費だけふんだくり、隠れてしまやあよかったんだよ。蝮ばかりがトンマじゃあない、お仙よお前もトンマだよ。……だが本当に妾としちゃあ、山影さんに逢えないのなら、江戸にいる気はなかったんだからねえ。木曽の山奥へ行ってしまって、一年も二年も帰らないなんて、あの薩摩っぽに嚇かされてみりゃあ、ついフラフラと本気にもなり、後を追う気にもなるじゃあないか。……それはそうと一体全体、ここは何んという所だろう?
蝮を一匹掴み出し、キューッと
「さあさあお歩き、いい子だことね。お前の行く方へ妾も行くよ。宗さんのいる方へおいでおいで。その代り見やがれお前の行った方に、もしも宗さんがいなかろうものなら、皮をひっぺがして蝮酒にするよ」
すると蝮は動き出した。さあどっちへ行くだろう?
「おやマアそうかい、大洞なんだねえ、へえそっちにいらっしゃる。嬉しいわねえ、マアよかった。じゃあそっちへ行くとしよう、有難うよ、蝮さん」
蝮を
陽は明るく、日本晴れ、昔を思い出させる草いきれ、風は涼しく、小鳥は飛び、人気がないのでちょっと寂しい。しかし行手に恋人がいる、こう思うと浮き浮きする。だがいったいどうしたんだろう、行っても行っても草の斜面、道がだんだん細くなり、そうしていつの間にか消えてしまった。
「おかしいねえ、おかしいよ。いつの間に道が消えたんだろう?
「ではもう一度、蝮
「あっ、しまった!」と手を拍ったものの、大蛇使いのお仙としては、一世一代の失敗といえよう。
「仕方がないから帰ろうよ」道標の方へ引っ返した。しかし一旦迷った道は、容易に目付かるものではない。
次第に日が暮れ、霧が起こり、峰には
「今夜は野宿だ、仕方がないよ」こう度胸を定めてみれば、大して恐ろしいこともない。
「野宮でもあればいいのにねえ」でズンズン歩いて行く。
ピッタリ日が暮れて夜となり、もう歩くにも歩かれず、無理にも歩けば谷へ落ちるか、川へはまって死ぬだろう。もういけないと覚悟を決め、足を止めた時チラチラと、
「おや有難い、里があるよ」
で、お仙、走り出した。
丘の上に森があり、その森の中に五軒ほどの、木小屋めいた建物が立っていた。
「おい、お半さん、嬉しかろう、三番の甚さんとあいもどり、昨夜はさんざん融けたってね。それで帰って来ても口を拭いて、知らない顔とは気が強いよ、萩原の宿へ人をやり、十文がところ餅でも買おう。
「何を云うんだよ、お山さん、そういうお前こそ山役人の、あのいい男の本田さんに、永らく
「ねえねえ島さん、こうだとさ、あのお米さんの腕だっしゃは、大洞の金持ちの息子を
「気の毒だねえ、その息子は、だがそういう馬鹿息子が、チョイチョイあるので助かるのさ。それはそうとお万さんはね、もう駄目だということだよ。せっかく助かった左の眼も、いよいよ潰れるということだよ」
「へえそうかい、可哀そうだね、でもあの人は因果応報さ、随分アクドク稼いだんだものね。それでケチで出し惜しみをして、借金をしたら借りっぱなし、返した
こんな話が一軒の家から、大っぴらに戸外へ聞こえて来た。
そうかと思うと一軒の家からは、喧嘩の声が聞こえて来た。
「承知出来ねえ承知出来ねえ、盗むなら一足みんな盗め、草履片っぽ盗むなんて、しみったれ阿魔だ、承知出来ねえ。さあもう片っぽ盗んでくれ!」
「何を云うんだよ、このお波め! 手前この間
「おや偉そうに何を云うんだよ、小袖なんて聞いて呆れるよ、夏冬通して五年がところ、着通した小袖ってあるものか、小袖でなくてありゃあ
「おやおや大きく出ましたね、ああ襤褸さ、襤褸でもいいよ、何んだいお前んのは雑巾じゃあないか! 襤褸をお返しよ、さあお返し!」
「草履片っぽ返しゃあがれ!」
「雑巾女め、襤褸を返せ!」
「襤褸女め、草履を返せ!」
「襤褸だよ!」「草履だよ!」
「襤褸だよ!」「草履だよ!」
そいつを止める声がする。
「何んだよ、お前達、みっともないじゃあないか、ボロだよ草履だよ、ボロだよ草履だよ、屑屋とデイデイ屋とが軒を並べたようだ」
すると喧嘩がそっちへ移る。
「黙っておいでよ、止める
「おやおや、それじゃあ、お前だね、大事な八さんを取ったのは、道理で八さんこの頃中、水臭くなったと思ったよ! ワーッ、ワーッ」と泣き出したらしい。
いったいここはどこなんだろう? 山稼ぎの私娼団、すなわち六文の巣窟である。
お仙、えらい所へ迷い込んでしまった。
「こんな所へ泊まるより、野宿の方がよさそうだ」
逃げ出した時小刻みに、近寄って来る足音がした。
「どなた? お釜さん? お菅さん?」それは品のある声であった。
「いいえ妾は旅の者、女蝮捕りでございます。うっかり道に迷いまして」
「おやマアそれはお気の毒、野宿するより少しはまし、よろしくばお泊まりなさいまし」
束ね髪の
「ご親切に有難う存じます。でも、妾は、野宿の方が……」
「ホ、ホ、ホ、ホ、お前さんには、ここが怖いと見えますね。いいえ大丈夫でございますよ。女ばかりで男ッ気なし、取って食うとは申しません。それに妾が付いております。ここの
「まあ狼がおりますので?」
「狼どころかもっと怖い、山窩だっているのでございますよ。
「まあ恐ろしゅうございますこと」
と思わずお仙は顫えたものだ。
伊集院五郎が歩いている。と向こうから小娘が、途方もない大きな声を立て、何か喚きながら走って来た。
神代原と萩原との、真ん中どころの山道である。
「山窩が出たよ、山窩の野郎が、オーイ、オーイ、誰かおいでヨー、旅のお方を虐めているヨー!」
「これこれ」と伊集院は両手を拡げ、娘の行手を遮ぎった。「ちょっと聞きたい、待ってくれ、山窩が出たということだが、どの辺へ出たな、それが聞きたい」
「へえ」というとその小娘、
「いやいや天気の話ではない、山窩のことだ、な、山窩の、どこかへ山窩が出たといったが、どの辺へ出たな、教えてくれ」
「アイ妾は一人娘さ、大事な子だということだよ、
「いやいや違う、そうではない、山窩の話だ、解らないかな?」
「道人様は偉い方さ、只で薬をくれるんだからな、そこで父ちゃんは大信仰さ、画像があるよ、道人様の。父ちゃんだけが知ってるのさ、道人様の居場所をな。でもめったに云うことではない、叱られるからさ、道人様に」
「ふうん」と伊集院それを聞くと、眼を光らせたものである。「うんそうか、お前の爺が、道人の居場所を知っているのだな。いいことを聞いた、利用してやろう。……娘々、家はどこだ?」
「おお恥かしい、おお恥かしい、そりゃあね、時にはないこともないよ、妾のようなお多福でも、チョイチョイと物好きの男があって、袖を引くことだってあるんだよ。でもね、妾はことわるのさ、厭らしいねえよしゃあがれ! で、頬っぺたを撲るのさ」
「驚いたなあ、
「狼谷には狼がいるし、盆の沢には
「提灯ではない釣鐘でもない。家を明すが厭だったら、決して無理に聞こうとは云わない。山窩の出場所だ、教えてくれ。……それ、わずかだが、取ったり取ったり」小銭を懐中から取り出した。
「馬鹿にしているよ、六文じゃあないよ。六文買いたけりゃあ螢ヶ丘へ行きな。その代り鼻がおっこちるよ。三つばかり鼻の掛け換えがあったら、大丈夫だよ、行くがいいや。
萩原の方へ走り去った。後を見送った伊集院。
「あッ、そうか、つんぼだったのか?」
神代原を通り抜け、ズンズン先へ歩いていった。やがて丘となり谷となった。谷の底から青々と、一筋の煙りが上っていた。荒くれ男が五六人、そこで焚火をして話している。野太刀を横たえ弓矢を持ち、
「さっきの旅人、しみったれだったな、身ぐるみ剥いでわずか二両さ」
「世のセチ辛さがこれで解る、ちょっと
「何さ
「萩原宿へ押しかけて行き、火を掛けたら面白かろう」
「近頃酒にもありつかねえ、女っ気など嗅いでも見ねえ」
「そこで六文にも縁なしか」
「お頭も近頃は不機嫌だ」
「いっそ福島まで乗り出して行き、陣屋を襲うと面白いんだがな」
「その位のことはしてもいい、近頃山巡りの二本差しども、えこじに
「どんなにあいつらが狩り立てたところで、俺達の居場所が解るものか」
「さあ焼けた、食ったり食ったり」
兎の肉を食い出した。満腹になるとまた雑談。――
「俺らは本来兇状持ちさ、それで人里にいられずに、お前達の仲間へはいったんだが、さて中へ一旦はいってみると、里で想像したように、
「だが娑婆のように小うるさくはないよ。開けっぱなしで明るくて、智慧と
するともう一人の若い山窩、
「元亀、天正の戦国時代から見ると、浮世は進んだということだが、いったいどこが進んだんだろう?」
「手数をかけて金をかけて、時間をかけて
「お前の理屈からいく時は、進むってことはよくねえんだな?」
「そうさ、手間をかけてムダな物を作る、どう考えたってよくねえなあ」
「では何故みんな進みたがるんだろう?」
「考えが間違っているからよ」
「一人ぐらいはあるだろう、考えの間違わない人間が?」
「そりゃあ時々あるらしい、だが大勢にゃあ
「へえ、どうしてだい? 教えてくんな!」
「みんなが
「どうしてもビッコが引けねえ時は?」
「さあ、三つの
「浮世が進んで進み切ると?」
「大きな騒動が持ち上がり、コナコナに
「ワーッ、そいつあ有難くねえなあ」
「つまり何んだ、こう云った方がいい、今の浮世の連中は、コナコナになって
「破壊れたあげくはどうなるんだろう?」
「新しい奴らがやって来て、新しい浮世を作るのさ」
「どんな浮世を作るだろう?」
「今より住みいい浮世だろう」
「だが破壊れるなあ面白くねえ」
「まったくそうだ、面白くねえ、そこで俺らの仕事がある、浮世の進み過ぎた連中を、せいぜいあくどく引っ剥ごうぜ」
「何かの功徳になるのかい」
「
「それじゃあ俺らの追い剥ぎは、彼奴らにとっては親切な筈だが」
「あんまり大きな親切なので、それが彼奴らには解らねえのさ」銅兵衛ここで
これはいったいどうしたことだ、そう云ったとたんヒラヒラと、五枚の小判が降って来た。
「あッ、そうか、こういうお天気には、やはり小判が降るものと見える」トボンと山窩達空を仰いだ時、一人の旅人が突っ立った。
山窩の前へ突っ立ったのは、他ならぬ伊集院五郎である。
「使える金だ、取っとけ取っとけ」焚火を隔てて坐り込んだ。
驚いたのは山窩である。まず銅兵衛がお辞儀をした。
「へえ、旦那は旅の方で? それとも天の神様で?」
「そうさなあ」と伊集院、ヘラヘラ笑いをやり出したが、「五両で神様に成れるなら、成ってやった方がよさそうだ。場合によってはもう五両出そう、そうしたら今度は何にしてくれるな?」
「
「気に入ったな、ひどく気に入った、地獄の頭は面白い、だが閻魔になったからには、赤鬼青鬼の
「ようごす、
「ははあお前達が眷族になる? そいつあいい、してやろう、そこで早速ご命令だ、お前達の山塞へ案内しな!」
こいつを聞くと五人の山窩、チラリと顔を見合わせたが、にわかにドタドタと立ち上がった。
「解った解ったこの野郎、手前は役人の
「プックリ
「ソーレ、親切を尽くしてやれ!」
ギラギラと野太刀を引き抜いた。ゆっくり立ち上がった伊集院、
「ほほう、たいそう勇ましいの、だがすぐ後悔するだろう、物は
「何を!」と飛び込んで来た若い山窩、ザックリ肩を――切った
「ヤクザだなあ」と伊集院、足を上げると
「
「世辞にもうまいとは云えねえなあ。力はある、そいつは認める、太刀さばきは落第だぜ。
「アレ、この野郎、詳しいなあ」
卑怯にも足を
「野郎!」と云うと左右から、二人の山窩が切り込んで来た。はじめて抜き合わせた伊集院、右手の野太刀を払い上げ、左手の山窩を睨み付けた。大きな眼! 鋭い眼光!
「いけねえ」と山窩、飛び退いた。
遙か下がって腕を組み、じっと見ていた山窩の銅兵衛、
「おおおお
すると伊集院頷いたが、
「俺はな、薩州島津家の武士だ、是非ともお前達の頭に会い、折り入って頼みたいことがある、決して損のゆく話ではない。損がいくどころか儲けさしてやる。だから山塞へ案内してくれ」
「よろしゅうございます、案内しましょう、お頭もきっと喜びましょうよ……さあさあお前達刀を納め、一緒にこの方をご案内しよう」
そこで一行谷を横切り、どことも知れず立ち去ってしまった。
それから二日経った午後のこと、浜路とお六とが話しながら、神代原の方へ歩いていた。話すと云っても耳の遠いお六、口と手真似とで話さなければならない。
「六や、お父さんはいるだろうかね?」
「ああいるよ、大概いるよ」
「どうだろう、お母さんもいるだろうか?」
「
「ひどいことを云うね、お母さんのことを」
「ううん、あんな者アおっ母じゃあねえよ。慾が深くて口やかましくて、
「彦兵衛さんに比べると、ほんとにお榧さんは人が異うね」
「似ねえもの夫婦っていう奴だよ」お六、なかなかうまいことを云う。
お六の家を
萩原からは約半里、彦兵衛の家までは遠くない。さて行って見て
「毎日毎日
「そうガミガミ云うものでない、食って行かれればいいじゃあないか。なるほど
「なにを云やがる途方もねえ、世間に気兼ねして働かねえと?
「よかろう」と彦兵衛おちついている。「気に入ったな、遊ぶがいい。ほんとに遊ぶっていいことだ、気がノンビリしてぼんやりして、浮世のことなんか忘れてしまう、腹が減ったら減ったまでさ、木の実木の根を食ったところで、めったに人間は死ぬものでない。また死んだっていいじゃないか、何も彼も消えてなくなってよ、サバサバとしていいだろう。だがな、
お榧猛然と立ち上がり、雑巾桶をひっ抱えた。「ああ云えばこう云い、こう云えばああ云う、水喰らわせるぞオ、勘弁出来ねえ!」
「ご免ください」とそのとたん、門を潜った者がある。
「誰だア!」と喚いて振り返ったお榧、「ヒャーッ、これは浜路お嬢様で!」ペタペタ板の間へ坐ってしまった。名主で名望家で金持ちで、帯刀ご免の仁右衛門の娘、浜路とあっては歯が立たない。自分の家が掃き溜なら、鶴が下りたというものである。
「毎々お六がお世話になり、有難いことでごぜえます。今日はようこそお立ち寄り、むさくるしい所でごぜえますが、マアどうぞちょっとお上がんなすって、オイお六や座布団を! と云ってもお前は
彦兵衛愉快そうに哄笑した。「いや面白い婆さんだ、あいつと喧嘩をしていると、退屈しなくて結構だ、めったに浮世が厭にならない。それになかなか働き者でしてな、あいつが働くので食って行けます、実は私も内心では、感謝しているのでございますよ。もっとも少々口やかましく、世間の評判は悪いようで。その代り私は大助かり、お蔭で悪口云われません。いわば私の引っ立て役で」
彦兵衛ニコニコ機嫌がよい。「だがどうも少しあの婆さん、神様が嫌いでございましてな、これとて一方から考えれば、また大変よろしいので、元来神様を信じるのは、信心しなければならないような、心に弱味があるからでしてな、まずその点から云う時は、信心深い人間は、悪人と云うことが出来ましょう。ですから自然不信心家は、善人ということになりますなあ。で信心家がこの世を去ると、本来悪人というところで、間違いなく地獄へ参ります。したがって不信心家がこの世を去れば、元々善人というところで、
「あのね」と
「さあて私にお願いとは? いったいどんなことでございますな?」
「薬草道人様のお住居をね、妾お聞きに上がりましたの」
「ほほう」と云ったが彦兵衛老人、ちょっと厳粛の顔をした。「あなたがお知りになりたいので? それともどなたかに頼まれて?」
「そうよ」と浜路、卒直に、「江戸のお侍様がおいでになり、道人様をお探しし、お願い申して江戸表まで、お連れしたいということでしてね、妾の家におりますの。水戸様のご家中で山影様、よいお方でございます」
「ははあさようで、なるほどな。だがそいつは駄目でがす」彦兵衛ニベもなく首を振った。
「おや小父さん、どうしてでしょう?」
「とてもとても道人様は、江戸表へなど参りますまい、また私にしてからが、江戸などへ行かせたくはございませんなあ」
「でもね、小父さん、大変なのよ、もしどうあっても道人様が、江戸へおいでにならなければ、山影様は云うまでもなく、水戸様はじめ
「やれやれ途方もない大袈裟な話だ」彦兵衛ニヤニヤ笑ったが、「そういう訳なら尚さらのこと、道人様はやれませんなあ。と云うのは道人様は、仙人だからでございますよ。それ仙人というものは、高い所に坐っていて、下界の者どもを見下ろして、一人で住んでいるところに、値打ちがあろうというもので、俗界へ下りて行ったが最後、光りが薄れてしまいます。みすみす光りが薄れると知って、俗界行きを進めるのは、決してよいことではございません。まことにお嬢様はよいお方、せっかくのお頼みでございますので、是非とも道人様のお住居を、お教えしたいとは存じますが、こればっかりは、いけませんなあ」気の毒そうに云ったものである。
しかし浜路も負けていない。「そうはおっしゃっても道人様は、人助けが
愛する宗三郎のためである、浜路熱心に掻き口説く。
さあ彦兵衛何んと云うか?
「何んとおっしゃってもお嬢様、こればっかりはいけませんなあ」これが彦兵衛の返辞であった。
「と云うのはこの私は、いわばお弟子でございましてね、はいさようで、道人様のな、そうして止められておりますので。コレ彦兵衛、
こう云われて見れば浜路にしても、押して訊くことは出来なかった。しかし愛人のためである、方面を変えてカマを掛けた。
「では小父さん、そういう訳なら、詳しく聞きたいとは申しません、それではせめて方角でも。……ここのお家を中心にして、道人様のお住居は、東の方でございましょうか?」
「これはお上手、外交がな。……さあ西かも知れませんて」
「おやそれでは西なのね」
「さあ南かも知れませんて」
「ああそれでは南なのね」
「ひょっとかすると北かも知れない」
浜路なかなか
「いかになんでも道人様が、六文と一緒には住みますまい」
「あのそれでは狼谷?」
「道人様が仙人でも、狼を家来にはなさるまい」
もうこうなっては駄目である。浜路
「それはそうとお嬢様、山影とかいうお武家様、ほんとによい方でございますかな? たとえば信頼出来るような?」
「それならもうもう大丈夫!」浜路はじめて明るくなった。「人品勝れた立派な方、そうして大変ご親切で、物柔かでもございますの。キリッとしたご器量で、時々冗談もおっしゃいますが、厭らしいところはちょっともなく、あの、そうして……よいお方で」
どうしたものか彦兵衛老人、フッフッフッと含み笑いをした。「お嬢様もお年頃、そういうお方をご覧になれば、みんなよいお方に見えましょうなあ」
浜路、頬でも染めたかしら? いやいや赧くはならなかったが、それこそ火のように
「厭な小父さん」と云ったものの、大して厭でもなさそうである。
と、彦兵衛真面目になり、「お嬢様もよいお方、山影様もよいお方、そういうお方のお頼みを、むげに退けるもお気の毒、と云ってあからさまには明かされない、ほんの道順だけ申しましょう。道人様のお住居はな、螢ヶ丘の北を
と云い出した時、今まで黙っていた
「窓から、窓から、あの野郎が、
驚いて二人が振り返ってみると、もう人影は見えなかったが、いずれ誰かが二人の話を、立ち聞きしていたに相違ない。彦兵衛すっかり機嫌を損じ、堅く口を結んでしまった。
覗いていたのは伊集院五郎で、つんぼのお六に怒鳴られるや、横っ飛びに飛んで林へ隠れた。
「驚いたなあの娘め、耳は遠いが眼は早い、惜しいことをした、もう少しで、道人の居場所を聞き出せたものを」
伊集院五郎林の中で、腕を組んで考えた。「螢ヶ丘の北を通り、木場の屯所の南を過ぎ、七面岩の絶壁を上り……さてそれからどう行くのだろう? 是非ともこの後を聞きたいものだ」
するとこの時林の前を、萩原の方へ行く者がある。他でもない酒場の浜路。と行手から婆さんが来た。口やかましやのお榧である。
「おやおやこれはお嬢様、もうお帰りでごぜえますか、まあよろしいじゃごぜえませんか、あの萩原までめえりましてな、茶を一つまみ買って来ました。お茶を入れますだあ、お茶を入れますだあ」
「有難う」と云ったが酒場の浜路、微笑を含んだものである。「いいえそれには及びません、この次ご馳走になりましょう、彦兵衛小父さんによろしくね。さようなら」と行ってしまった。
「ふんとに綺麗なお嬢様だねえ、それになかなか愛嬌があるよ」見送って呟くお榧の前へ、ヒョイと現れたのは伊集院である。
「ご新造さん、ご新造さん」猫なで声で呼びかけた。
「ヒャッ」と云うと振り返ったが、「何かご用でごぜえますかな?」
「失礼ながらお前さんは、彦兵衛さんのお神さんで?」
「へえ、さようでごぜえます。それでは何か彦兵衛が、悪いことでも致しましたので? それならご勘弁願えますだ、根はいい人間でごぜえますが、神様
「いいえさ、何も彦兵衛さんが、悪いことなどしますものか、決してそうじゃあございませんよ。……これはほんのわずかだが」
一枚の小判を取り出した。
「差し上げましょう、お取んなすって」
「ヒャッ」というとお榧婆さん、あぶなく尻もちをつこうとした。「アーレまあこれは小判でねえか!」
「
「フエーこいつをおくんなさる?」
「さようさよう差し上げます」
「ヒャッ、お
「都から来た薬草採りで」
「それで解った、こうでがしょう、
「さよう」といったが声をひそめ、「実はお願いがありますのでね、というのは他でもない、彦兵衛さんを口説き落とし、薬草道人様のおり場所を、聞き出して教えてはくださるまいかな。うまくゆけば五両あげます」
「へえ、五両? ほんまかね?」
「何んで嘘を云いますものか」
お榧しばらく考えたが、「ちょうど
「おおさようか、それはそれは、是非お願い、なるたけ早くな」
「
「大丈夫」と云って胸を叩いた。と、チャリンという小判の音。「アッハッハッハッ、腐るほど持ってる」
「ふんとにお前様、福の神様だあ」
二人左右に別れてしまった。
「こっちはこれでよいとして、いずれ酒場の浜路めが、彦兵衛の話を山影へ、きっと話すに相違ない。と山影め明日か
その翌日のことである、山影宗三郎は家を出て、道人探しに発足した。
「浜路殿の話による時は、薬草道人のおり場所は、螢ヶ丘の北を過ぎ、木場の屯所の南を通り、七面岩の絶壁へ上り、それからどっちかへ行くということだが、まずともかくも七面岩まで、足を延ばしてみることにしよう」
夕立ち
この辺は一面の大野原で、いわゆる
慣れない山路で時間を潰し、午後の日も相当
と、行手の岩蔭から、一人の旅人が現われた。
「山影氏、しばらくでござった」
「どなたでござるな?」と宗三郎、
笠を脱いだ旅の者、薩摩の藩士伊集院五郎。
「おっ、貴殿は伊集院氏」
「さよう」と伊集院冷やかに、「両国広小路の大蛇使い、お仙と申す美婦を中に、ちょっと鞘あてをした伊集院でござる」
「いやいやそればかりではござるまい」山影宗三郎用心をした。「小仏峠、さては甲府、または木曽の福島で、拙者に仇をしかけたは、貴殿を置いて他にはない」
「さよう、いずれも拙者でござる」伊集院五郎ニヤニヤし、「それと云うのも主君同志、柳営にての争いが、家来にまでも伝わって、怨みを重ねたというものさ」
「そうして今のところでは、拙者の方に勝ち目がある。御岳山中に古今の名医、甲斐の
「うむ」と伊集院詰まったが、「いやそいつはまだ解らぬ、もしも薬草道人が、事実甲斐の徳本なら、
「
「そういう貴殿のお命を、実はここで戴くつもりさ」
「まずまずそれはなりますまい」宗三郎笑ったが、「おおかたは逆に行きましょうよ、行手を邪魔する貴殿のお命こそ、拙者この場で頂戴いたす」
「ははあ、お取れになりますかな?」
「まず大概取れましょうな」
「参るぞ!」
というと伊集院、刀の鯉口を切ったものである。と、ギラリと引き抜いた。
「参るぞ!」
とこれも宗三郎、サッと刀を引き抜いた。
とその時草むらの中から、五、六人の人影が現れた。
「伊集院さん、よろしいかね」
「ナニ俺らだけで片付けますよ」
「旦那はご見物なさるがいい」
それは山窩の群であった。手に手に野太刀を持っている。
太刀を引くと飛び
「しまった!」と思ったが宗三郎、逃げ出すような人間ではない。また逃げようとて逃げられもしない。
「野郎!」と叫ぶと命知らず、一人の山窩が飛び込んで来た。ザックリ一太刀、出鼻を利用し、宗三郎右肩へ切り付けた。
「ワッ」というと突んのめり、虚空を掴んだが手の指が、見る見る紫の色となり、二度ばかりうねると動かなくなった。
「強いぞ強いぞ、要心要心!」
口々に叫んだ山窩ども、ジタジタと後へ退いた。
宗三郎動かない。返り血一滴浴びていない。やんわりと握った太刀の柄、居付かぬように動かせば、
と、宗三郎飛び込んだ。「三つの先」のその一つ、「我より敵へ懸かるの手」だ、正面の山窩の右の腕を、肩の附け根から切り落とした。「ガッ」という悲鳴、そのとたんに、飛び込んで来たもう一人の山窩、野太刀を揮うを払い上げ、片膝敷くと
後に残った三人の山窩、ワーッと叫ぶと逃げかけたが、行手に廻った伊集院、「逃げれば切るぞ!」と一喝した。
盛り返して来た可哀そうな奴、左右同時に懸かるのを、まず右手の野太刀を抑え、
「オーイ! オーイ! オーイ! オーイ!」
最後に残った一人の山窩、横っ飛びに逃げながら、声を
「
山影宗三郎
「ふふん」とばかり伊集院、声を含ませて笑ったが、「卑怯ではない、兵法だ、勝ちさえすればそれでいい。一の備え二の備え、備えを立てて戦うのは、これ軍陣の常ではないか。山窩を指揮して戦うのも、いわば軍陣での備え立て! 一騎打ち勝負、何が偉い!」
「軍陣の講釈、結構結構。だが気の毒にも備えは破れた。もういけまい、可哀そうだなあ」
「そうさ、備えは破れたが、ここに大将が控えている」
「大将、首を取られるなよ」
「何を!」というと伊集院、身を沈めて引き足をしたが、小野派一刀流下段の構え、胸を突こうとするのである。
「いよいよ来るか!」と宗三郎、依然変らぬ片手上段、目差すは相手の真っ向である。左手をダラリと遊ばせて、時々小刀の柄へ掛ける。機に応じて抜くつもりだ。
山影宗三郎と伊集院、円明流と小野派一刀流、ピッタリ構えた太刀二本、
と、伊集院ジリジリと、足の爪先蝮をつくり、一分二分と迫り寄せて来た。益沈む肩の位置、柄頭を胸へ着け、左右の肘をワングリと張った。
が、宗三郎動かない。居待って討ち取る心組み、
「オーイ、オーイ、オーイ、オーイ!」
仲間を集める山窩の声が、次第次第に遠退いて、丘の
「大変だヨーッ」とまず叫んだ。
「浜路姉さんの大事な人が、
野遊びに来たつんぼのお六、二人の切り合いを見付けたのである。
「さあこうしちゃあいられねえ、萩原へ行ってみんなに話し、加勢の衆を連れて来よう! 来ておくれヨーッ、来ておくれヨーッ」
丘を飛び下り駈け出した。
「オーイ、オーイ、オーイ、オーイ!」
仲間を集める山窩の声!
「来ておくれヨー、来ておくれヨー!」
非常を告げるお六の声!
左右にだんだん遠ざかる。
さあどっちが早く着くか? 山窩が来れば宗三郎が危うい、萩原住民が寄せて来たら、伊集院五郎は遁がれられまい。
この時気合が充ちたのであろう、沈めた肩を聳やかし、猛然と飛び込んだ伊集院、胸の真ん中、丹田の上、ガバとばかりに突っ込んだ。これが決まれば
分を盗むは尺を盗む、寸を盗むは丈を盗む、ガッシリ構えた敵に向かい、ジリジリ迫り寄せるという事は、容易なことでは出来難い。それにも関らず伊集院、爪先で地面を刻みながら、ジリジリと宗三郎へ寄せて行く。只者ではない、腕があるからだ。敵の寄り身に驚かず、悠然立っていることは、それにも
と、伊集院飛び込んだ。
足は薙がれたが伊集院、切られるようなヤクザではない。「うむ」というと後ろざま、気合を抜いて飛び返った。同時に起き上がった宗三郎、小刀は下段、大刀は上段、はじめて付けた天地の構え、
で、ふたたびジリジリと寄る。
命をまぬかれた一人の山窩、オーイ、オーイと喚きながら、谷の方へ走って行く。
と谷間から答える声!
「どうしたどうした、何か起こったのか?」二人の山窩が現れた。
「仲間がやられた、五人やられた、伊集院さんが大苦戦だ! 早くお
「ヨーシ」というと二人の山窩、
「オーイ、オーイ!」と叫びながら、谷を潜って走り出した。
と、バラバラと三人の山窩、岩の陰から現われた。
「どうしたどうした、何か起こったのか?」
「伊集院さんが大苦戦、五人仲間がやられたそうだ、早くお頭へ知らせてくれ」
「ヨーシ」というと三人の山窩、
「オーイ、オーイ」と叫びを上げ、木の間をくぐって駈け出した。
とまたもや四人の山窩、灌木の茂みから現われた。
「どうしたどうした、何か起こったのか?」
「五人の仲間がやられたそうだ、伊集院さんが苦戦だそうだ、早くお頭へ知らしてくれ」
「ヨーシ」というと四人の山窩、例によって叫びを上げながら、山の斜面を突っ走った。
これ山窩の伝令法、瞬く間に
この頃お六は野の道を、萩原の方へ走っていた。
「大変だヨー、来ておくれヨー、山影様が殺されるヨーッ」
ほこりを蹴立て、小鬼のように、途方もない速力で走って行く。
この日浜路は酒場にいた。道人を探しに宗三郎と一緒に、七面岩へ行こうとしたところ、足手纒いでご迷惑であろうと、父に止められて果たさなかったのが、内心不平でならなかった。で、酒場の客を相手に、自由な話術を試みていた。
そこへ
「六ちゃんじゃアないか、どうしたんだろう?」
ちょっと聞き耳を引き立てた。
「山影さんが殺されるヨーッ、みんなみんな来ておくれヨーッ」
「え!」と浜路立ち上がった。
飛び込んで来たつんぼのお六、やにわに浜路に飛び付くと、「
歓楽の酒場が一瞬にして、混乱の庭と変ったのは、まさに当然というべきだろう。
「さあ皆さん来てください! 浜路に続いて来てください! お父様! お父様! 大変です! ……六や、馬を
そこへ現れたのは仁右衛門である。「槍を持って来い! それから馬!」
浜路と仁右衛門を先頭に立て、ドッと一同押し出した。棍棒、竹槍、鍬、脇差し、手に手に得物をひっさげて、その数およそ五六十人、萩原街道を走る走る。
と、進み出た一人の巨漢、
「伊集院さん、引きなせえ、助けに来やした、
山窩の頭領
「頼む」と叫ぶと伊集院、数間の後ろへ引き退いた。
「やっつけろ!」と喚く将監の声! ピューッと数条の征矢が飛んだ。山窩め、手に手に弓を引き、宗三郎を討ち取ろうとする。
「あッ、しまった、飛び道具か!」驚きはしたものの恐れはしない、傍らの立ち木を楯にとると、宗三郎は身を隠した。
果然将監狙いをつけた。竹林派の押し手弓、キリキリキリと引き絞り、満を持して放たない。と活然たる弦返りの音、
掛け声もなく宗三郎、横に払って矢を切った。間髪を入れずもう一本、面上をのぞんで飛んで来る奴を、小刀を上げて上へ刎ねた。三本目が股へ来る。キワドク飛んで辛く遁がれる。いつか宗三郎立ち木を離れ、全身を敵にさらしてしまった。
見て取った将監合図をした。と降りかかる十数本の征矢! 山窩の群が放したのである。
「もういけない!」と宗三郎、観念の眼をつむったが、天祐天祐
サッと飛び返り宗三郎、立ち木を楯にまた構えた。
「これ、水戸っぽ!」と多羅尾将監、大音声に呼ばわったが、丘をスルスルと中腹まで下り、
「今度こそ許さぬ、四本目の征矢! 受けたが最後、往生だ!」
キリキリキリと引き絞った。間は近い、将監も必死、放された矢は外れても、宗三郎の全身は、またも立ち木を離れるだろう、そこを目掛けて射かけようと、山窩の群は射手を揃え、鳴りをしずめて待っていた。
が、その時
「山窩だ山窩だ! 追っ払ってしまえ!」
「何を百姓!
両軍ドッとぶつかった。元が侍の萩原仁右衛門、槍を揮って突き伏せる。
「山影様、山影様!」血走った声を上げながら、浜路は馬を縦横にあおる。
もう弓は役立たない。野太刀を抜いた山窩の群、人殺しには慣れている、敏捷に飛び廻って切り立てる。
なだれ落ちる両軍勢! ムラムラと野原へ散開した。武士ではないが萩原住民、気象は武士に劣らない。「一人も遁がすな! 一人も遁がすな!」飛び込んでは叩き伏せる。
だが宗三郎はどうしたのだろう? どこにも姿が見えないではないか。
山影宗三郎はどうしたかというに、伊集院と山窩を相手にして、大岩の蔭で戦っていた。グルリを
「さあ水戸っぽ、くたばってしまえ!」――鍾巻流の小手返し、柳生流では「車返し」太刀をグルリと巻き返し、切っ先のぶかに切り込んだ。
左剣で払った宗三郎、右剣を飛ばせたがそこを狙い、横から飛び込んだ伊集院に、邪魔をされてきまらない。で、ツツ――と後へ引いた。
「さあ野郎ども一度にかかれ!」将監の声に山窩ども、いわゆる乱刃に切り込んで来た。次第次第に宗三郎、受け太刀となって後へ退る。
二人の強敵、他に山窩、いかに宗三郎が達人でも、
大岩に隠されているために、仁右衛門にも浜路にも解らない。
夕陽がすっかり山に落ち、宵闇が次第に逼って来た。ワッワッという叫喚の声! 悲鳴、怒号、仆れる音! 萩原住民と山窩とは、切り合い攻め合っているらしい。
宗三郎は切り立てられ、呼吸も逼り、筋も釣り、眼の前がチラチラ踊るようになった。
「右を打て! 左へ切り込め! 足を払え! 足を払え!」多羅尾将監が声を掛ける。
俄然形勢は一変した。
「山役人だア! 山役人だア!」山窩達は
多羅尾将監も伊集院も、もちろん逃げたに相違ない。萩原住民も引き上げたらしい。修羅場が一時にひっそりとなった。ころがっているのは死骸である。呻いているのは手負いである。
と、また響き渡る鉄砲の音、丘の
「ワーッ」という鬨の声! それも
シ――ンと後は絶対の
宗三郎はどうしたろう? どうなったか解らない。
雲切れがして星が出た。
と、唄い声が聞こえて来た。
「恋しいお方はおりませぬ」
組紐のお仙だ、お仙の声だ。
人影がポッツリ現れた。
「怖かったこと怖かったこと! ド――ンと鉄砲の音がして、沢山の人が逃げてったよ。戦争でもあったんじゃアないのかしら? アラ何んだろう? 人が寝ているよ! アッ、死骸だ! まあ気味が悪い! おやここにも! おやここにも! 厭だねえ、恐ろしいわ! 逃げよう逃げよう早く逃げよう!」
大岩の方へ走って来た。と死骸へつまずいた。
「いやだねえ、また死骸だよ」
雲切れがして月が出た。
「アラ!」と叫ぶと組紐のお仙、死骸の
「山影さんだヨーッ、宗さんだヨーッ」
「山影さんだヨ……、宗さんだヨ……」こう叫んだ組紐のお仙、ひしと宗三郎を抱きかかえた。これは悲しいに相違ない。
江戸から
「ああ
お仙、ボーッとしてしまった。
少し心が静まるに連れ、はじめて涙がこみ上げて来た。クッ、クッ、クッ、クッと
「……ああやっぱり
お仙じいいっと考え込んだ。
「生き返らないものかしら? ほんのちょっとでいいのにねえ。ポッカリ眼をあけてニッと笑って、おおお仙かよく来てくれた、こんな浮世は面白くねえ、オイ機嫌よく一緒に死のう。――一言こう云ってくだされたら、妾ア笑って死ぬのにねえ。……宗さん! 宗さん! 宗さん」と、お仙狂わしく呼び立てた。戦いの後の野の
「どう思ったって仕方がない、葬ってあげよう、土を掘って。……南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏。……お仙はこんなに泣いています、成仏なすってくださいまし、妾の涙がお顔へかかって……おお冷たいと覚しめしたら、どうぞね、ちょっと眼をあけて、……駄目だ駄目だ、死んでいらっしゃる」
またじいいっと考え込む。
「もろいわねえ、人の命は。……まるで何も彼も夢のようだよ。……去年の夏だよ、忘れもしない、女太夫を呼んでみよう、ほんの
またしっかり抱きかかえた。
「生きてくださいよ! 逃げ廻ってくださいよ!」
しっかり抱えてゆすぶった時、肌のぬくみが感ぜられ、胸の動悸が感ぜられた。死んだのではない、気絶しているのだ。
お仙、手を拍って飛び上がった。
「アラ、アラ、アラ、アラ、生きてるヨーッ」
さあさあお仙夢中である。
「はいはい有難う存じます! 神様、お礼を申します。おお嬉しい、おお嬉しい、嬉しくて妾は気が違いそうだ!」ベッタリ坐ると闇に向かい、誰にともなくお辞儀をした。
「さあこうしてはいられない!
で、宗三郎を抱き上げた。重い重い随分重い。で、グタグタとくず折れた。そこでまたもやしっかりと抱き、顔へ見入ったものである。
「おやおやおや、笑っていらっしゃるよ。お仙お前は親切だねえ、何だかこう云っているようだよ。……どこかに水はないかしら? 谷へ行こう、谷川へ。そうして水を汲んで来よう。あッ、しまった、汲むものがない! あったあった手拭いが! これへたっぷり湿して来て、キューッと口へ注ぎ込んであげよう。……そうすると宗さん眼をあけて、お仙、命の恩人だぞよ、江戸へ帰って夫婦になろう! きっとおっしゃるに相違ない! ……水! 水! 水! 谷川谷川……! でも何だか心配だわねえ。妾の行ったその留守に、誰かさらって行くかもしれない! あッ山窩! あッ狼! 食われてしまう、食われてしまう! 駄目駄目駄目、駄目だわよ。……やっぱりそうだ背負って行こう。……」そこでお仙宗三郎を背負った。「おお重いおお重い、恋の重荷を肩にかけ、嬉しいわねえ、重い方がいいわ」
二三間歩いたその時であった、丘の方からカバカバと、蹄の音が聞こえて来た。つづいて血走った女の声、
「山影様! 山影様! 浜路でございます!」
浜路、探しに来たらしい。
「どこにおいででございます! 浜路さがしに参りました! 山影様! 山影様!」
サ――ッと丘から駆け下りて来た。
驚いたのはお仙である。
「誰だろう? いったい、浜路って? あんなに宗さんを探しているよ! 女の声だよ、馬鹿にしているよ! 山影様、山影様、甘ったるい声をしやがって。……ははあ解った。この辺の、薄穢い浮気な女だろう? きっと宗さんに惚れてるんだろう! 畜生畜生、どうしてくれよう! 黙っていよう黙っていよう。勝手にいくらでも探すがいい! 取られてたまるか、ばか女め」
で、かたくなって隠れている。
馬上の浜路は夢中であった。馬を縦横に走らせて、新戦場を探し廻る。
「浜路でございます、山影様! ああ本当にどうしよう、山窩を追って丘を越して、思わず遠くまで行ってしまったが、気が附いてみると山影様がいない! それで探しに来たんだが、ああどこにもいらっしゃらない。……山影様! 山影様! ……切り死になすったのではあるまいが……あんな山窩の奴ばらに、とりこにされたのではあるまいが……ああ心配だ心配だ! あッここに死骸がある」
馬から下りると調べ出す。
「違う違う、おお安心! 山窩の死骸だ! ……いい気味だ! ……あッ、ここにも死骸がある。あっちにもこっちにも、あっちにもこっちにも。死骸だらけだ、厭らしいねえ。……これも違う、これも違う! まあよかった、山影様ではない」
いちいち死骸を検査した。
だんだん大岩の方へ寄って行く。
それらしい山影の死骸はない。
ふたたび馬に乗った酒場の浜路、
「山影様! 山影様!」恋と恐怖、それから悲哀、声を絞って呼び立てた。
「酒場の浜路でございます! 返辞をなすってくださいまし! 萩原の浜路でございます! 返辞をなすってくださいまし!」
サ――ッと一方へ走って行く。サ――ッと反対の方へ走って行く。空が曇って月が隠れ、大野っ原は闇である。闇を一層黒くして、前後左右へ駈け巡る。
「山影様! 山影様」
お仙のいる方へ走って来た。
蝮をひっ構えた組紐のお仙。
「目付けて声でも掛けてみろ、蝮を投げて食い付かせてやる!」
幸か不幸か酒場の浜路、目付け出すことが出来なかった。馬をあおって
「山影様! どこにおられます」馬の蹄も呼び声も次第次第に遠ざかった。丘の
ホッと安心した組紐のお仙、
「
女ながらも一生懸命、重い宗三郎を背中に負い、よろめきよろめき組紐のお仙、螢ヶ丘の方へ
間もなく姿が消えてしまった。
またも駈け来る蹄の音! 浜路が引っ返して来たらしい。馬上姿が現れた。
「どうでもこの辺にいなければならない、もう一度死骸を探してみよう」
ヒラリ馬から飛び下りた。
「これも違う、これも違う」
またもや死骸を調べ出した。宗三郎のおる筈がない。浜路とうとう泣きくずれた。
「妾は死にたい、死んでしまいたい! 山影様! 山影様! ……ああああどこにおられるのだろう? でも死骸がないからには、討ち取られたとは思われない。きっとどこかに怪我をされて、
ここでじいいっと考え込んだ。
「御岳は愚か、木曽一円、日本の国中探しても……目付けて見せる! 目付けてみせる!」
可哀そうな可哀そうな浜路である。恋人山影宗三郎を、横取りされたとは気が付かない。
と、立ち上がったが元気なく、馬に乗るさえ力がない。
「山影様!」とまたも未練、呼んだものの答えはない。丘を巡って萩原街道、家へ帰ろうとした時である、ボツボツと降り出した大粒の雨、やがてザ――ッと降って来た。神山を穢した人間の血を、洗い清めようとするらしい。
「降るがいいよ、うんと降れ、体も心も濡れるといいよ、冷しておくれよ、胸の火をね」
馬上にうなだれ足を運ぶ。と、行手から数人の人影、忍びやかに歩いて来る。
「山影さん?」と酒場の浜路、思わず声を掛けてみた。
「や、
味方の死骸を収めようと、山窩の一群が来たのである。
「それ遁がすな、からめとれ!」
「しまった!」と叫んだが酒場の浜路、
「払え、払え、脚を払え!」馬足を目掛けて太刀を揮う。
「見やがれ!」と叫ぶと一躍し、浜路左手へ駈け抜ける。
「遁がすな、遁がすな!」とムラムラ寄る。
そこを目掛けて引っ返し、馬の
五間あまり駈け抜けたが、左手で手綱をグーッと絞る。連れてグルリと馬が廻る。気合をこめると八重襷――大坪流での小柴隠れ、体を斜めに片足の
「ソレ、叩き落とせ、叩き落とせ!」
野太刀を揮う山窩の胸もと、鐙で蹴って仆れた上を、馬足に掛けるとまたも悲鳴、
「ソレ、引っ包め、引っ包め!」
執念深い山窩の群、円陣を描いて押し寄せる。
「まだ来る気か!」と叫んだが、浜路またもや馬を
あくまでも執念深い山窩である。またも四方から寄せて来た。しかし浜路の馬術には、
「追っかけるなら追っかけるがいいよ」浜路、悠々と打たせて行く。灌木の茂みまで来た時である。突然ヤッという声がして、黒い人影が飛び出した。棒で馬の脚を払ったらしい。
「しめた!」「捕えろ!」「お転婆め!」山窩バラバラと走り寄った。
「畜生、畜生!」と酒場の浜路、立ち上がって刀を振り廻したが、馬から放れては
「それ
ヨイショヨイショと走り出した。
「誰か来てくださいヨー、助けてくださいヨー」
浜路、助けを呼んだけれど、萩原までは道が遠い。野は広く人気がない。
と、その時、森の中から、レキ、レキ、レキ、ロク、ロク、ロク、
「お渡りでござる! お渡りでござる!」
清らかに澄み切った童子の声、銀鈴のように響き渡った。薬草道人現われたのである。
森から現れた道人の一行、真っ先に立ったは一人の童子、磨いた珠のような美男である。手に持ったは一本の松火、闇を開いて燃え上がる。後に続いたは四十年輩、片眼片耳しかも
気を奪われた山窩の群、無智の者だけに迷信深く、且つは薬草道人の、あらたかの噂も聞いていた、浜路を地上へ
と、差しかかった道人の一行、ピタリと止まったものである。
「小父様!」と叫ぶと酒場の浜路、彦兵衛の袖へ縋りついた。
「おお、浜路様……どうなされた?」
「ハイ、悪者の山窩達が……」
「うむ」というて彦兵衛の眼が、威厳をもって輝いた。「
「どうぞお助けくださいまし」
「ご安心なされ、大丈夫!」彦兵衛小腰をかがめたが、「道人様へ申し上げます、萩原部落の仁右衛門の娘、浜路と申してよい娘ご、お目をおかけくださいますよう」
すると道人微笑したが、「ああさようか、浜路さんで、よいご器量、
「はい、アノ、あちこち
「それはいけない、大いにいけない、
「かしこまりましてございます」彦兵衛手早く箱車から、
「はい」と浜路、押し戴く。
「なんのなんの、それには及ばぬ、安物だからの大変に安い。それだけで実費一文かな。只の薬草を摘んで来て、でっち上げた膏薬でな。ハイハイ戴くには及びません。が浮世のお医者さんは、大変高いお鳥目で、薬を売るということだの、サーテネ、いったい何故だろう? ……もっとも噂による時は、高くお鳥目を取らないと、名医に見えないということだが、あるいはそれはそうかもしれない。だがどうやら名医に限り、むやみと人を殺すようだなあ。研究のため、研究のため、さようさようこう云ってな。……まあまあ殺す方はよかろうが、殺される方はよくあるまい。人間みんな生きたいからなあ」道人すこぶる能弁である。「それはそうと彦兵衛さんや、そこに大変お行儀よく、土下座をしている男衆は、どういう身分のお方かな? みんな立派な体をして、強そうなご様子をしているが?」
道人、山窩達へ眼をやった。
道人に見られて山窩達、ブルブル肩を顫わせた。
進み出たのは彦兵衛老人。「道人様へ申し上げます。これこそ
すると道人首を傾げたが、「ははあ名高い山窩さん達で。大変善人だということだが」
「これはどうもとんでもないことで。悪人ばらでございます」
「何んの何んの彦兵衛さん、この人達は善人ですよ。……と云うのは弱い人達だからで」
「いや、いずれも剛健で」
「体ではない、心のことだ」
「心が弱いとおっしゃいますと?」
彦兵衛トホンと眼を見張った。
「境遇に負ける人間は、つまり心が弱いからで、どうもね、浮世は暮らしにくいらしい。まともに暮らすと損をするらしい。そこで止むを得ず悪いことをして、面白い暮らしをしようとする。つまり境遇に負けたんだね。ほんとに強い人間は、境遇の方を押し負かしてしまう。……ああこれこれ、山窩さん達よ、何も怖がるには及ばない、頭をお上げ、頭をお上げ。だが!」という道人の声、俄然
「と云うと何んだかこの私が、大変偉らそうな人間に見えるが、いやいやひどいヤクザ者でな
グッと睨むと背を伸ばした。その一瞬間道人の姿、無限に高く思われて、空を貫くかと感じられた。
篠つく雨もいつか止み、満天に懸かったは星である。星天上にあって以来、幾億年を経ただろう? しかしこのような光景を、照らしたことはないだろう! 兇悪の山窩、可愛い娘、美玉の童子、無数の鳥獣、信心深い老人と、車を曳いている片輪者、その真ん中に突っ立ったは、人にして神、すなわち神人! 乞食にして哲学者、名医にして社会改良家!
「個人に罪なし、浮世が悪い」ふと道人は呟いた。「おおそうそう」と憂わしそうに、「切り合いがあったという事だの。死んだ者は仕方がない。怪我人だけは助けずばなるまい。膏薬膏薬、彦兵衛さんや、山窩さん達に膏薬をおやり。まだ何んだか喋舌りたいが、夜も深い、止めだ止めだ。そうして何んだ、実際のところ、喋舌る奴に限って実行しない。で、あんまり喋舌らぬがいい。……もうよかろう、さあさあ出発」
「お渡り!」
という童子の声! レキ、レキ、レキ、ロク、ロク、ロク! 薬剤車が軋り出し、人間鳥獣の一行列、粛々として動き出した。
「ハイハイ、おさらば、ハイおさらば」
道人気軽に歩を運ぶ。
次第に遠退く
レキ、レキ、レキ、ロク、ロク、ロク、轍の音は尚きこえる。
後を見送った浜路と山窩、眼に涙を宿している。丘を巡ったか松火が消えて轍の音も消えた時、はじめて山窩達は立ち上がった。
「さあさあ酒場の浜路さん、馬にお乗りなさいまし。萩原までお送りいたしましょう」山窩、
「はい有難う存じます。それでは送っていただきましょう」浜路も素直にこういうと、ユラリと馬に
今までの敵が味方となり、星空の下、雨に濡れた野を、萩原の方へ歩ませた。
と、行手から無数の提灯、大勢の者が走って来た。萩原部落の連中が、浜路を探しに来たらしい。もう送って貰う必要はない、そこで浜路は山窩達と別れ、馬をそっちへ走らせた。
後へ引っ返した山窩の群、にわかに相談をやり出した。
「この商売がイヤになった。
で山窩達は山を下った。薬草道人の感化である。偉人の片言というものは、くだらねえ奴らの百万言より、どんなに身に沁むか解らない。山を下った山窩達、いずれ人の世で善いことをして、立身出世をしただろう。
さてその時から五日経つ。ここは螢ヶ丘六文の
その床の上に寝ているのは、他ならぬ山影宗三郎である。蒼褪めてはいるが元気である。幾ヵ所か薄手は負っていたが、面倒な深手は一ヵ所もない。しかしまだまだ歩かれない。で、止むを得ず寝ているのである。
組紐のお仙が枕もとにいる。
「今日はいかが? ご気分は?」お仙、顔を覗き込んだ。
「有難う、大分いい。今度は厄介になったなあ」宗三郎、微笑した。
「少しは有難いとお思いになって?」お仙、ニヤニヤ笑いながら云う。
「有難いような有難くないような、何んだかちょっと変なものだよ」宗三郎冷淡である。
「驚いたわね、どうしてでしょう?」
「助けてくれたのがお前でなければ、俺はお礼を云うのだがな」
「変な云い廻しね、どういう意味でしょう?」
「うっかり俺が礼を云うと、そこへお前は付け込んで、
「お手の筋よ」と組紐のお仙、面白そうに笑ったが、「相変らずの宗さんね。そういうところが大好きさ。ズバズバ云うところが千両よ。……でもねえ」と、ちょっと感傷的になり、「妾泣いたのよ、あなたのために。そうして云ったわ、南無阿弥陀仏って、だって死んだと思ったんですもの。土を掘ってお葬式をして、妾も死のうと思ったのよ。……ね、妾のそういう心持ち、可哀そうだとは思わなくって?」
「どうもいけない、そんな事を云っても、お前にちっとも似合わないよ。それよりやっぱり蛇を使い、『蝮占い、今度こそ本芸』などと云った方がよく似合う。……そうさなア、俺にしても、どうやらお前に助けられるより、土をかけられた方がよかったようだ」一向コダワラずにズバズバ云う。
どんなにズバズバ云われても、それがお仙には嬉しいのである。宗三郎と一緒にいられる、それだけでお仙は満足なのである。
「それはそうとオイお仙、何んと思って江戸を立って、こんな山の中へ来たのだい?」すこし
「ええそれはね」と云ったものの、お仙ちょっとマゴツイた。「あるお方に聞きましたの。あなたが何かご用を持って、木曽へおでかけになったってね」
「いったい誰だ、話した奴は?」
「云ってしまおう、伊集院さんですよ」
「ああなるほど、あいつだったか。いかにもあいつなら知っている筈だ」こうは云ったが宗三郎、いささか不思議そうに眼をひそめた。「それにしてもおかしいなあ、
「主命を帯びて山影さん、木曽をさしておいでになる。いつ帰るとも解らない。旅費をやるから追っかけて行け。とっ掴まえたら放すなよ。江戸へ無理にも連れ戻せ。こうおっしゃって五十両、おくんなすったのでございますよ」
「ははあ」と山影宗三郎、それを聞くと
「旅用がなければ木曽へ行けず、木曽へ行けなければお逢い出来ず、あなたに済まないとは思いましたが……」お仙ここでオロオロする。
「では本当に取ったのか?」
「取りは取りましたが手は附けず……あなたが返せとおっしゃるなら、いつでも返してしまいます」
「馬鹿を云え、
「ええ」と云ったが組紐のお仙、ここでじっと考え込んだ。「浜路さんがいるからでございましょう」
「え?」とこれには宗三郎、度胆を抜かれた格好である。「どうして知ってる、そんな人を?」
「知っている訳がございます」
「驚いたなあ、これには驚いた」
「たんとお驚きなさいまし」
「ナニ、そんなにも驚かない。だがどうも驚いたなあ」
「お気の毒さまでございます」
「気の毒がられる覚えはない。だが……」と云うと眼を閉じた。
その顔を見詰めたお仙の眼に、ありありと嫉妬の浮かんだのは、大蛇使いという商売がら、物凄まじく思われた。
と、眼を開けた宗三郎、お仙の顔を眺めたが、「お仙、正直に云って置こう。浜路というのは水戸家の旧臣、今は萩原の名主役、仁右衛門という人の娘ごだ。たいへん活溌で別嬪だ。そうして俺に親切だ。俺の方でも好いている。しかし……」と云うと宗三郎、にわかに厳粛の顔をした。大事を明かそうとするらしい。
厳粛になった宗三郎、じっとお仙を見詰めるようにしたが、
「しかし、うむ、しかしだな、そのため俺は大事な主命を、おろそかにするようなことはしない。俺は恋を封じている。封ぜざるを得ないからだ。ところで主命とはどんなことかというに、一口に云えば簡単だ。この御岳の山中に、薬草道人と云われる方が、身を隠して住んでおられる。その方を江戸までお連れする。ただそれだけだ、他にはない。で真っ先に知りたいのは、道人様のお
真面目の調子がいつの間にか、不真面目の調子に変ったが、しかしそういう不真面目の中にも、一脈の真面目さがこもっていた。
熱心に聞いていた組紐のお仙、深く頷いたものである。「山影様よく解りました。そういう訳なら今日が日にも、御岳の山中を駈け巡り、ちょうど商売も蝮捕り、岩や大木にからみ付いても、道人様のお住居を、きっとさがしてお目にかけます。その時になって厭だなどと、よもやおっしゃりはしますまいね?」
「俺を信じろ、大丈夫だ」
「でもあなたと妾とでは、身分が異うではございませんか」
「そうさ、お前の方が身分がいい」
「まあ何をおっしゃるやら?」お仙キョトンと眼を丸くする。
「お前は芸で食っている、ところが俺というものは、先祖の武功というような、
お仙には理屈は解らなかったが、力強く思われた。「それでは妾、これからすぐ!」
蝮捕り姿で飛び出して行ったが、それと引き違いに襖があき、六文のお吉が現れた。
隣室から現れた六文のお吉、宗三郎の枕もとへ、ニッと笑うとベッタリと坐った。
「只今のお話隣り部屋で、面白くお聞きいたしました。ついてはいかがでございましょう、道人探しの競争の中へ、妾をお加えくださいますまいか」まず切り出したものである。
「これは」と云うと宗三郎、さっき浮かべたと同じような、苦笑を眼の中へ浮かべたが、「まことに結構でございますな。どうぞお探しくださいますよう」
「萩原部落の浜路様は、この地にお住まいなされても、上流のお方で事情にはうとく、お仙様の方は土地不案内、それに反してこの妾は、この地に永らく住んでいるばかりか、下等な下等な商売がら、どこへでも出向いて参りまして、知らない所とてはございません。おそらく妾が真っ先に、薬草道人様お
「いや」と宗三郎、
「承わればあなた様には、水戸様ご家臣と申しますこと、そういう立派なお武家様が……」
「さようさ、両刀たばさんで、武士として浮世で暮らそうとすれば、見得外聞も入りましょうな。が両刀を捨ててしまえば、そんなことは何んでもござらぬ」
「え、マア、それではあなた様は……」
「道人さがしに成功し、重任を果たしたその上は、両刀サラリと捨てる気でござった。でもし浜路殿と連れ添うようなら、萩原部落へ腰をおちつけ、酒場の繁昌を計りますな。もしまたお仙と連れ添うようなら、早速習って拍子木叩き、幕の引きっぷり口上の述べ方、首尾よく務めて幕内となり、それで食って行きますな」
「でもし妾と連れ添うようなら?」
「螢ヶ丘へ住居して、あなた方六文の親方となり……」
「繁昌させてくださいますか?」
「さようさよう繁昌させます」
「では、真実あなた様には、もしも妾が道人様の、おいでなさる所を突き止めたなら、夫婦になってくださいますのね」たしかめるように訊いたものである。
「ご念には及ばぬ、夫婦になりましょう」
「ではもうあなた様は妾の物、どこへもやることではございません」
こう云うとお吉ニジリ寄った。
「道人様のお住居を、存じているのでございますよ。お話ししましょう、お聞きくださいまし」
はたしてお吉知っているのであろうか?
道人の住居を知っている! こう云われて山影宗三郎、思わず床の上へ起き上がった。
「お吉殿本当かな?」飛びつくような声である。
「なんの嘘を申しましょう、こういう次第でございます」六文のお吉話し出した。「妾どもはこういう商売、病気勝ちでございます。しかし沢山お鳥目は取れず、ことには近くに医者もなく、病気になるとなったまま、うっちゃって置かなければなりません。それが大変可哀そうだと云って、道人様には一月ごとに、わざわざここまでおいでくだされ、色々お薬をくだされたり、療治をしてくださるのでございます。そうしてある時妾を呼ばれ、このようにおっしゃいましてございます、『お前達は本当に可哀そうなものだ、あらゆる女の苦しみを、一人で背負っているようなものだ。そこで俺はお前達のためなら、どんなにも力を尽くしてやる。しかし俺は忙しい、薬草を養ったり、薬を製したり、山中の患者を見舞わなければならない。でせいぜい螢ヶ丘へは、月に一度しか来られないだろう。気の毒だが仕方がない。ついては住居を教えて置く。急病人でも出来た際には、遠慮はいらない知らせて来い、すぐに出かけて診てやろう』――で、その時道人様は、住居を明かされたのでございます。もっともこのようにおっしゃいました『決して人に話すなよ、浮世の暇人というものは、弥次馬根性が盛んで困る。俺の住居を知ったが最後、続々詰めかけて来るだろう。つまり何んだ、見物にさ。そうして愚問をしかけては、大事の暇を潰すだろう。これほどうるさい事はない、で俺は面会謝絶だ。未知の人間には決して逢わない。逢って徳をしたタメシがない、で改めて云って置く、俺の住居を話すなよ』――でもあなたのおためなら、道人様のお言葉に
これを聞くや山影宗三郎、傷の痛みも打ち忘れ、スルスルと前へ膝を進めた。
「お教えくだされ、お吉殿! 是非に是非に、お願い致す。どこでござるな、お住居は?」
「七面岩の絶壁を上ると、大森林がございますそうで、森に取り巻かれて小さな湖水、
山影宗三郎突っ立った。と、痛みでヨロヨロとなる。刀を突くとよっかかった。
「すぐに参る! 山駕籠を! そうして駕籠舁き! お雇いくだされ!」
するとお吉、声をかけた。「さあみんな出ておいでよ!」――と、隣室からバタバタと、五六人の六文がはいって来た。
隣室からはいって来た五六人の六文、
「姐さん何かご用ですかね?」
「ああ」とお吉
名に負う束ねをするお吉の命令、
「さあさあお前達もお供をしな。妾も行くのだ、おいでおいで」
駕籠に乗った宗三郎、七面岩の方へ走らせた。お吉をはじめ十数人の六文、後を慕って追っかける。ちょっと変った光景である。
やがて木場の屯所まで来た。立ち並んでいる無数の長屋、材木に不自由をしないところから、木口だけは素晴らしい。しかし
そこを走って行く駕籠一丁、それを追っかけて行く私娼の群!
「ヨーッ」と杣夫達が嬉しがってしまった。
「見や見や、素的もねえ行列だ」
一人が叫べばもう一人、
「お吉が行くぜ! 大将のお吉が!」
「駕籠にいるのは誰だろう?」
一人の杣夫が不思議そうに云う。
「いったいどこへ行くのだろう?」
するとお吉が手で招いた。
「七面岩へ
「お吉が呼んでる、行こう行こう!」
で、杣夫が十二三人、駕籠の後を追っかけた。
「あっ痛い! 爪を剥がした!」
石につまずいたかお紺という六文、足の指を抑えて縮んでしまった。駕籠はドンドン走って行く。
「おお痛い! おお痛い!」
渋面を作っているところへ、ピョイと一つの人影が、灌木の蔭から飛び出した。アテなしに道人を探しに出た、蝮捕り姿の組紐のお仙、
「おや、お紺さんどうしました?」こういいながらも不思議そうに、行き過ぎた駕籠を見送った。
「ああお前さんはお仙さんだね、痛くて仕方がない、爪を剥がしてね。……これというのもお前さんのセイだよ」
「何を云うのさ、お紺さん。どうして妾のセイなんだろう?」
「そうともそうともお前さんのセイさ、宗さんなんていういい男を、妾達の所へ連れて来たので、お吉さんがすっかり岡惚れしてね、山駕籠に乗せてたった今、道人様のお住居の方へ、妾達まで供に連れ、案内して行ったというものさ。そこで石につまずいて、生爪を剥がしたというものさ。お前さんのセイだよ、お前さんのセイだよ」
仰天したのはお仙である。
「え! それじゃあお吉さんが……道人様のお住居へ……妾の大事な宗さんを! ……畜生! 畜生!」
と喚くと一緒に、お紺の腕を引っ掴んだ。
「ワーッ、痛え! 何をするんだヨーッ」
「知ってるだろうね? お前さんも! 道人様のお住居をさ! 話せ話せ! さあ話せ!」
道人様の住居を云え! こう高飛車にお仙に云われ、お紺という六文腹を立てた。
「何を云うんだい
こいつを聞くと組紐のお仙、やにわに
「ようしどうしても云わないね、さあさあ蝮だ、食い付かせるよ! 腕にしようか、首にしようか、それとも頬っぺたに食い付かせようか! ちょっと毒歯がさわったが最後、一日の中にお前の体、膨れ上ってくたばるよ。それが恐かったらお話しお話し!」
「ワッ」というと六文のお紺、顔色を変えて顫え出した。「云うよ云うよ、お仙さん。蝮ばかりは勘忍しておくれ! 見ただけでも総毛立つよ」
「ではお云い! さあさあお云い!」
「あのね、よくは知らないが、隣りの部屋で聞いていたら、七面岩の上へのぼると、森があって湖水があり、湖水の中に島があり、その島に奇妙な建物があり、そこが道人様のお住居だと、こうお吉さんが云っていたよ」
「ああそうかい、それは有難う」お仙しばらく考えたが、「これから後を追っかけても、もしかすると追っつかないかもしれない。ねえお紺さん、近道はないの?」
「近道はあるがとてもとても、そっちから廻っては行けないよ。と云うのは行く道に、ウジャウジャ長虫の住んでいる、盆の沢という所があるからさ」
「長虫?」というと面白そうに、組紐のお仙笑い出した。「妾の商売は大蛇使い、何んの長虫が恐いものか」
「ああなるほど、そうだったね。では近道を教えてあげよう、……ここから真っ直ぐに北へ行くと、千
「どうも有難う」と組紐のお仙、北へ向かって走り出した。
「お吉さんより先廻りをし、どうでも道人様のお住居を、突き止めなければ女が
ドンドンドンドン走って行く。はたして一筋の谷川があった。でそいつを
と、行手の坂道に、巨大な
坂をドンドン上って行く。次第に坂が嶮しくなる。しかしお仙休もうとさえしない。
上り切った所に大密林! と、林の遙か奥から、銀箔のようなものが光ってみえた。
「湖水に相違ない! 湖水に相違ない!」
行きついて見ればはたして湖水! 耳を澄ましたが人気がない。お吉よりも先に着いたのであった。
湖畔に立った組紐のお仙、ズッと湖水の様子を見た。周囲半里の湖水である。池と云ったほうがよいかもしれない。空の蒼さをそっくりそのまま、地上へ持って来たような水の色! まわりを森林がかこっている。
「どうぞしてあそこへ行ってみたいものだ」
あたりを見るとこれは幸い、乗りすてられた舟がある。それもきわめて古風な舟で、
喜んで飛び乗った組紐のお仙、
と、舟は島へ着いた。石の階段が出来ている。階段には蒼い苔。それを踏んで上へのぼった。間もなくお仙家の前へ立った。何んと美しい花園であろう! まるで虹でも敷いたように、家を輪取って群れ咲いている。見も知らない花である。日にむかって顔を上げている。その花の間に遊んでいるのは、七面鳥や孔雀である。子を引き連れた雷鳥や、純白の雉も遊んでいる。かつて危害を加えられなかったためか、お仙を見ても驚こうともせず、足もとへピョンピョン飛んで来た。
「可愛いことね、おお可愛い」
お仙思わず呟いたが、心がにわかに恍惚となり、一時に俗念が消えてしまった。見れば一条の小径がある。家の玄関に通っている。そこを
「ご免ください」と声をかけた。森閑として返事がない。戸を押すと自然に開き、一つの部屋が現われた。まことに風変りの部屋である。部屋の四方に窓があり、日光が酒のように流れ込んでいる。円卓が一つ、椅子が二つ、その他には何にもない。そうして一人も人がいない。と、正面に戸口があった。大変無作法とは思ったが、お仙は隣室へ行ってみた。そこはほとんど真っ暗であった。ただ正面の
と、廻廊の行手から、子供の歌声が聞こえて来た。
「松下童児ニ問ウ、云ウ師ハ薬ヲ採リ去ルト、
詩を吟じながら現れた童子、お仙を見ると眼を
「これはこれはお客様で、いつの間においででございましたな」ひどく
「はい」とお仙まごまごしたが、「たった今参りましてございます。あの、お言葉をかけましたけれど、ご返辞がないので上がって参りました」
「なるほど、それは早速でよろしい。で、何かご用でも?」
「はい、是非とも道人様に、お逢いしたいと存じまして」
「それは大変お気の毒で」いよいよ
「ああさようでございますか。どちらへ参られたのでございましょう?」
「雲深クシテ処ヲ知ラズ、とんとその辺わかりませんなあ」
「いつごろお帰りでございましょう?」
「山中暦日無シ、いつ帰られるか解りませんなあ」童子きわめてソッケない。
「おやおやさようでございますか」お仙いささか失望したが、しかし本来の目的が、薬草道人に逢うことではなく、住居を突き止めることだったので、失望の程度は少なかった。
「それではお暇いたします」お仙丁寧に辞儀をした。
「お帰りかな、お愛想のないことで。せっかくのおいで、ただも帰されぬ。薬でも少しお持ちなされ」
「はい有難う存じます」
「どんな薬がよろしいかな?」
「戴けますなら金創の薬を」
「よろしゅうござる、ちょっとお待ち」
製薬室へはいったかと思うと、すぐに童子引き返して来た。手に黄袋を持っている。
「さあさあ膏薬、お持ちなされ」
「有難う存じます、いただきます」
玄関を出ると薬草の庭、鳥どもが足もとへ集まって来た。
「いいわねえ」と組紐のお仙、しばらく庭をさまよった。「こんな所に住んでいたら、身も心もキレイになり、生きながら仙人になれるかもしれない」
廻廊の方から聞こえるのは、例の童子の歌声である。
「
リーンと響くいい声だ。
「
ケン、ケン、ケンと雉が啼き、ク、ク、クと七面鳥が啼く、仙はいまさねど仙いますが如く、頭の下がるような光景である。
また舟に乗った組紐のお仙、湖水を岸の方へ漕ぎ返した。
岸へ着いたおりからである、森林の奥から人声がし、山駕籠を取り巻いた一行が、やがて姿を現した。それと見て取るや組紐のお仙、清らかになった心持ちが、嫉妬と反感にひっくり返った。
舟から飛び上がると叫んだものである。
「お気の毒さま、お吉さん、妾の方が一足早く道人様のお住居を、突き止めることが出来ました。山影様、山影様、でも薬草道人様は、只今お留守でございます。そうしていつ頃帰られるやら、解らないそうでございます」
薬草道人の湖上の住居、そこへお仙が入り込んだ日の、ちょうど
やおら立ち上がるとお別れの言葉――
「さあさあいよいよお別れだ。鳥さんも獣さんもお帰りお帰り。それでも本当によく送ってくれた、だがもうこれからは人里だ。あぶないあぶない、お帰りお帰り。しかしだ、よいかな、お前達、わしがお山にいないといって、乱暴をしてはいけないよ。どこにいようとわしの眼には、お前達のやることがみんな解る。で、
すると送って来た鳥獣の群は、道人の言葉が解ったかのように、兎はピョンピョンと後足で刎ね、狼は尻尾を背に巻き上げ、鳥どもは空へ輪を描き、元気よく山の方へ引っ返した。後を見送った薬草道人、機嫌よくホクホク笑ったが、
「
「はい」というと彦兵衛老人、
「いよいよお前さんともお別れだよ。もっともそのうち帰っては来る。厭になったら三日で帰る。だが目下の考えでは、一年ぐらいは遊んで来る。今から思うと失敗だったよ。御岳山中に薬草あり万病に利くなんて云わなかったら、こうまでお山がガタピシと、物騒がしくならなかったんだろうに。少し宣伝が大袈裟だったよ。そこで俺は逃げ出すのさ。自分の叫び声に
「かしこまりましてございます。毎日参ることに致しましょう。ええと、ところで道人様には、どの方面へおでかけで?」彦兵衛
どの方面へ行くかと聞かれ、薬草道人気が附いた。「さようさ、どっちへ行こうかな?」それからちょっと考えたが、「つまり何んだ、どこへ行ってもいいのだ。寂しい山中にいたのだから、賑やかな町の方へ行こうと思う。そうして何んだ遊び方々、俺は手製の膏薬を、雨降らせてやろうと思うのだ。つまり日本の国中を、膏薬だらけにするんだなあ。……まず真っ先に福島へ行く。さてそれから中仙道を、名古屋の方へでも行くとしよう」
「お別れ惜しゅうございますな」彦兵衛老人寂しそうにした。「私もお供を致したいもので」
「
「へい、さようでございますな。ああいう係累のある以上、お供は出来そうもございませんな」
「
すると童子の紅丸が、「お渡り!」といさぎよい声を掛けた。
「これこれ紅さん、それはお止め! そういう物しい掛け声は、当分封ずることにしよう。平凡で行こう。下等で行こう。その方がいい。それに限る。高等がると下等に見え、下等で行くと高等に見える。下等下等これに限る。ただし高等に見られようとして、下等がってはいけないなあ。流れるままの下等で行こう。さあそれでは行こう行こう。はいオサラバ、彦兵衛さんや」
「ご機嫌ようおいでなさりませ」
「アイアイ有難う有難う」
レキレキレキ、ロクロクロク!
さてこの頃、恋人を取られた、酒場の浜路はどうしていたか?
つまらない真っ暗な顔をして、酒場の片隅に腰かけていた。
探しても探しても目付からない、恋人宗三郎の
あの夜以来今日まで、父仁右衛門と手分けをし、山中隈なく探したのであったが、宗三郎の姿は目付からなかった。よもや江戸からお仙という、恋の競争者が追っかけて来て、恋人を横取りして螢ヶ丘、六文の巣窟へ連れ込んだとは、想像することは出来なかった。切られて死んで谷へ落ち、川の底へ沈んだか、山窩の山塞へ連れて行かれたか、それとも
「どっちにしても妾は悲しい」
胸が痛くなり、眼が熱くなり、ボッと見るものが霞んで見えた。純な少女の初恋が、涙となって曇らせるのである。
ちょうどその日の午後のこと、珍らしい客がはいって来た。
「おや」と云って浜路立ち上がった。
「おや」と浜路が云ったのは、彦兵衛がはいって来たからであった。
「小父さん珍らしいじゃあありませんか」浜路立ち上がって側へ行った。
「さようさ、私は神様
「え?」と浜路びっくりした。「どちらへおいでになりましたので?」
「福島へ出て中仙道、名古屋の方へ行かれるそうで。
浜路驚いて胸を反らせた。
「山影様がおいでだったら、どんなに喜ばれることでしょう。こんな時においでにならないとは! 知らせてあげたい、知らせてあげたい!」
「ほほうそれでは山影さんは、どちらかへお出かけなされたので?」
「行衛が知れないのでございますの」浜路彦兵衛へ取り縋った。「あの晩以来、ええあの晩! 妾はじめて道人様へ、お目にかかったあの晩以来、お行衛が知れないのでございますの」
「ははあなるほど、それは残念、ではよくよく道人様とは、ご縁がないというわけですなあ」
彦兵衛いかにも気の毒そうに、浜路の顔を見たものである。「で、もちろんさがされたでしょうな?」
「ええええそれこそ御岳一円、手を尽くしてさがしましたが、おいでにならないのでございます」
「不吉不吉、ひょっとかすると、兇暴な山窩の奴ばらに……」
「小父さん!」と浜路手を合わせた。「どうぞ占なってくださいまし! ご神託を伺ってくださいまし」
「これはもっとも! 伺いましょう!」
床へ
「これはお嬢様、大丈夫で!」
「おおそれでは山影様は、ご無事でおいで遊ばすので?」
「無事も無事、すぐ逢えます」
「おお浜路さん、居場所が解った!」飛び込んで来たのは
「有難う!」というと飛び上がった。「
「神様をお信じなさりませ!」
が、浜路にはそれどころではない、
つと駈け寄った酒場の浜路、ヒラリと下りると、
「山影様!」
「や、これは浜路殿!」宗三郎眼を上げた。
「道人様には今日の朝、下山されたと申します! 福島から中仙道、名古屋へ参るそうでございます!」
駕籠を飛び出た宗三郎、浜路の馬に跨った。
「馬拝借! 福島まで!」傷の痛みなど問題でない。乗ったて乗ったて見えなくなった。
後に残った三人の女、浜路にお仙にそうしてお吉、茫然として見送ったが、これは一
走り去った宗三郎、後を見送った三人の女、しばらく茫然としていたが、気が付くと互いに眼を見合わせた。つと進み出たはお仙である。
「失礼ながらあなた様は萩原の浜路様でございますか?」
「はい」と云うと
「おそらくご存知ではございますまい、江戸は両国の女太夫、
「まあ」という酒場の浜路、眼を
「そうして」とお仙云いつづけた。「螢ヶ丘の戦いの時、ようやく宗三郎様を見付け出し、ここにおられるお吉様の、お住居へご案内申し上げ、今日までご介抱致しましたもの。その際あなた様のお噂を、承わりましてございます。こう申してはお気の毒、角が立つかもしれませんが、たしかあなた様におかれても、どうやら山影宗三郎様に、焦がれておいで遊ばすとのこと。がそれは駄目でございます。お手をお引きなさりませ。というのは宗三郎様と、お約束をしたからでございます。薬草道人様のお住居を、誰であろうと早く目付け、早くお知らせした方が、宗三郎様と一緒になる! はい、このようにお約束をね。そうして妾が真っ先に、お住居を見付けましてございます。で、自然宗三郎様は、妾のものでございます」
「いえいえそれは違いましょう」こう云ったのはお吉である。「なるほどあなたが真っ先に、お住居はお目付けなされたものの、最初に山影宗三郎様へ、正しい道順とあり場所とを、お知らせしたのはこのお吉、したがって山影宗三郎様は、妾のものでございます」
すると浜路が進み出た。
「いえいえ山影宗三郎様は、妾のものでございます。いかさまあなた方お二人の力で、道人様のお住居を、お突き止めなされはしましたでしょうが、その肝心の道人様は、旅へ出られたではございませんか。そうしてその事を真っ先に、山影様へ知らせたのは、この妾でございます。……山影様は妾のもの、他へやることではございません」
三人三様の意見がある。なかなか互いに引っ込もうとはしない。
と浜路が云い出した。
「しかし肝心の山影様が、道人様の後を追い、里へ下ってしまわれた今は、何を申しても仕方のない事、妾はひとまず家へ帰り、旅装を調え改めて、山影様の後を追い、福島から中仙道、名古屋であろうと江戸であろうと、山影様と逢うまでは、おさがしするつもりでございます」
「それでは妾も」とお仙が云った。「かけかまいのない蝮捕り、誰に別れの言葉もいらぬ、すぐに追っかけ参りましょう」
「妾も」云ったのはお吉である。「螢ヶ丘へまず立ち寄り、旅仕度をしてさてそれから。……」
一人は萩原、一人は螢ヶ丘、お仙ばかりはどこへも寄らず、チリヂリバラバラに別れたが、はたして誰が真っ先に、宗三郎を目付け出すことだろう?
それはとにかく、この日の夕方、彦兵衛老人の門口を、そっと覗いている男があった。
「お
他ならぬ伊集院五郎である。
と、
お榧と彦兵衛、恒例の喧嘩――
「四日も五日も家を開けて、いったいどこをウロツイていただあ! このロクでなしの爺さんはよ?」
お榧婆さんの声である。
「
これがお榧に解ったらしい。ゲラゲラ笑う声がした。「ふんとにそうだよ、彦兵衛さんや、妾アどうやら怒鳴りすぎるなあ。ゲラゲラ、ゲラゲラゲラ!」
「え! 本当に笑うつもりか! やり切れねえなあ、冗談も云えない。堪忍してくれ、怒鳴った方がいい」
「いいえさ、妾ア笑う気だよ。ゲラゲラゲラ、ゲラゲラゲラ、そこでな、一つ頼みがある」
「そう来るだろうと思っていた。只で笑うような玉ではない。云ってごらん、どんなことかな?」
「ナーニ、何んでもねえことさ。道人様のお住居をな、ちょっくら明かせて
「ははあそうか、そんなことか。なるほどこいつア何んでもないや。よしきた、一つ明かせてやろう」
「え、それじゃアお前さん、ふんとに明かせてくれるんだね」
「嘘は云わない、明かすともさ」
「あっ、有難え、五両になる」
「何んだ何んだ、五両とは?」怪訝そうな彦兵衛の声。
「なにさ、こっちの話だよ。……どこにいるね、道人様は?」
「まず上るんだ、七面岩を」
「ふうん、なるほど、七面岩をね」
「すると大きな森がある」
「ああそうかい、大きな森がね」
「森の中に湖水がある」
「ふうん、湖水が? 大きいかね?」
「とても大きい、十里以上だ」
「十里? ふうん、大きいだな」
「湖水の中に島がある」
「それも大きな島ずらね」
「
「それはそうとも、十五里はある」
「島の中に家がある。しかもたった一軒な」
「それも大きな家ずらな」
「そうだ、廻ると二十里はある」
「あるともあるとも、ある筈だ」
「そこにおられるのだ、道人様はな。……オイオイ待て待て、どうしたんだ。
「儲けに行くだよ、五両がとこ」
「ははあ、誰かに頼まれたな」
「伊集院さんていう人にね。道人様のお住居さえ、知らせてくれたら五両やると……」
「五日遅い、気の毒だなあ」哄然たる彦兵衛の笑い声!
哄然と彦兵衛に笑われたが、お
「何んのことだね、五日遅いとは?」こう
「湖水の中のお住居によ、道人様のおられたのは、今日から数えて五日前だってことさ」
笑いながら云うらしい彦兵衛の声。
「へ――」という声が聞こえて来た。びっくりしたお榧の声である。「それじゃア今はどこにいるだかね」
「今日の朝まだき下山されたよ」
「へ――、下山? どっちの方へ?」
「福島から中仙道、名古屋の方へ行かれた筈だ」
「へ――さようで、福島へね。……まあまあそれだけでも結構だ、伊集院さんへ知らせて上げよう」
立ち聞きをしていた伊集院、クルリ
「伊集院さまア」と呼ぶ声がする。振り返って見るとお榧婆さん、汗を拭き拭き走って来る。フフンと笑うと伊集院、からかい面をして足を止めた。
「これはご夫人、何かご用で?」
「解りましただア、おり場所がね」
「何んでござるな、おり場所とは?」
「へえ、五両のおり場所がね。アレサ、道人様のおり場所をね?」
「ははあなるほど、五日前までの」
「へ――」とお榧、胆を潰した。「それじゃアお前様ご存知で?」
「ご夫人、拙者は千里眼でござる。そうして拙者は千里耳でござる。一切聞き通し見通しでござる。立ち聞きなんかは致しませんて」
「じゃア駄目かね、後金五両?」
「さあて、どうしたものだろう?」
「二両でいいなア、二両くだせえ」
「それ」というと伊集院、懐中から小判を取り出した。
「福の神様ア!」とお頂戴をした。渡すかと思ったら伊集院、ヒョイと小判を
「おい婆さん」と憎々しく、「十里の湖水に十五里の島、十五里の島に二十里の建物。……などと亭主にからかわれ、やっと聞き出したは下山の道人。これじゃア二分もやれねえなあ」
「へ――、それじゃアお前様ア、やっぱり立ち聞きをしていただな」
「云ったじゃアねえか、千里耳だとな」
「一両でいい一両くだせえ」
追いすがるのをポンと蹴った。ひっくり返ったお榧さん、「痛えヨー」と云うやつを、肩で笑った伊集院、トットと麓へ下ったが、下りながらも考えた。
「諸方の噂を聞いたところでは、どうやら薬草道人は、名医甲斐の徳本らしい。甲斐の徳本とあるからは、どうでも討って取らなけりゃアならねえ。おそらく山影宗三郎も、道人を追って山下り、福島へ行くに違えねえ。いやもう既に行ったかもしれねえ。途中で逢って騙し討ち、二つの首を並べてやろう」
ところでこのころ薬草道人、どこを歩いていたかというに、福島から半里の山中、灌木の茂みにこっそりと、二人の家来と薬剤車、眼を病んでいる烏共、隠れながら話していたものである。
と一騎馬上の武士、サ――ッと峠道を下ろして来た。
山上から馳せ来た騎馬の武士、他ならぬ山影宗三郎、薬草道人がいるとも知らず、灌木の前を福島の方へ、砂煙りを上げて走り去った。
「ソーラね」とばかり薬草道人、紅丸へ囁いたものである。「大概こうだろうと思っていたよ。私の六感が感じたのさ。どうもこの頃この私を、捉えようとするものがあるらしい。何んだ、捉えて、利用しようとするのさ。今の大将もその口らしい。あぶないあぶない、隠れていよう。まだまだ来るよ、五六人はな」
しばらくの間は静かであった。と、山上から唄声がした。
「恋しいお方はおりませぬ」
現われたのは組紐のお仙、
「ソーラね、あれもあぶない口だ」
つづいて現われたのはお吉である。脚絆
「ソーラね、あれもあぶない口だ」
やや
「どうもね、あれらも怪しいよ」
薬草道人紅丸へ囁く。
もう日も暮れて夜が来た。と、山上からタッタッタッ、ひた走って来る音がした。月光を肩に現われたのは、旅商人風の伊集院、これまた道人がいるとも知らず、福島の方へ走り去った。
「あれなんかが一番あぶない。私には解る、殺伐な男だ。剣気がムラムラと取り巻いている。が、大概こんなものだろう。さてこれからどうしようかな?」
「福島へ参ろうではございませんか。まさか野宿も出来ますまい」童子紅丸の意見である。
「なんの野宿が出来ないものか。野宿野宿、今夜は野宿だ。うかうか福島へ行ってごらん、あの連中につかまってしまう。
そこで童子の紅丸も、醜い
夏の夜は明け易い。間もなく空が水色を産み、やがて朝陽が射して来た。
「さあさあ出立、寝坊はいけない」
で、三人は山を下った。こうして入り込んだは福島である。
「変な乞食が来やがった」
福島の連中驚いてしまった。
「年寄りの乞食に、チンバの車
薬草道人気にもかけない。早速効能を述べ出した。
「私の先生薬草道人、ご謹製なされた万病薬、
すると紅丸が後をつづける。
「安い安い万病薬、お買いなされお買いなされ」
するとまた道人口上を述べる。
またも道人口上を述べる。
「本来病気はよいもので、病人は大概善人で、ピンピンたっしゃな連中が、ロクでもない事を致します。とは云えそいつは体のことで、心の病気は困ります。心に病気のある奴ほど、体はたっしゃでございます。それに反して体が弱い、すると心が澄み返り、悪いことなんか致しません。つまり心に恥じるからで。そこでよろしく人間は、病気になるに限ります。さようさよう体のな。健全の肉体に健全の精神! この格言は無用でがす。病気の体に健全の精神! こういかなければいけません! 例を上げるといくらもある。とてもとても上げ切れない。
驚いたのは紅丸である。
「先生先生何を云われます。怒っているではございませんか。はい、お立ち合いの人達が。第一せっかくのお薬が、売れなくなってしまいます」
「あっ、そうか、ごもっとも! 取り消す取り消す、すぐ取り消す! ええと皆さん実のところ、体が病気で心がたっしゃ、こいつがよいとは申しましたが、いけないそうでございます。体が病気で心が病気! これが一番よいそうで」
「先生先生、尚いけません。体がたっしゃで心がたっしゃ、こう云わなければいけません」
「よろしいよろしい、そう云おう。体がたっしゃ、心がたっしゃ! これがよいそうではございますが、そんな人間は一人もねえ!」
「先生先生」とまた紅丸、「一層悪いじゃアございませんか。後の文句がいけません」
「よろしいよろしい、また取り消し、心がたっしゃで体がたっしゃ、こういう人間はウジャウジャいます、日本中の人間はみんなそうで。みんなそうだということは、みんなそうでないということで。比べる物がないのでな」
「あっ、いけません、石を投げます」
怒ったと見えて五六人、道人を目掛けて石を投げた。
「あぶないあぶない、逃げろ逃げろ!」
道人露路へ逃げ込んだ。「驚いたなあ、乱暴な奴らだ。二つばかり頭へ頂戴した」
「先生が悪いからでございますよ」
「本当のことを云ったんだが」
「嘘を云わなければいけません」
「お前の方が世渡りがうまい、口上はお前へ委せよう」
「それがよろしゅうございます」
「だがな紅丸、福島の人気、どうも昔より
薬草道人の恋物語――
薬草道人の恋物語り――
「昔々ある所に、一人の別嬪さんがおりました。あっ、待ってくれ、そうではない、昔々には相違ないが、所は木曽の福島だ。そこにいたのさ。別嬪さんがね。小料理屋の娘で可愛かった。互いに惚れ合ったというものさ。大変愉快ではあったけれど、どっちも恐がって手を出さない。で、いつまでも睨み合いさ。そうしてそのうちに別れっちゃった。別れぎわがよかったよ。二階へ上がる箱梯子、そこへ両袖を投げかけたのさ。可愛い可愛い娘さんがね。私の方へ背中を向け、泣きじゃくったというものさ。白い頸足、もつれた後れ毛、よかったなあ、眼に残っている。『お
表通りは危険である。そこで裏通りを行くことにした。膏薬なんか売れはしない。
「だがな、その頃の福島には、綺麗な娘さんが随分いた。下駄屋さんにも金物屋さんにも、歯医者さんにもいた筈だ」またも道人思い出話。
「私は実際惚れきれなかった。あっちこっち眼移りがしたからさ。愉快な人達も随分いたよ。杉山さんというお医者さん、
やがて
「命をからむ
中仙道を下って行く。平和な平和な旅であった。だが薬は売れなかった。
やがて名古屋の入口にあたる、
名古屋へ進んで行く十数人の人影、いずれも女で黒ずくめ、闇の申し
やがて一行名古屋へはいった。
「いよいよ目的地へはいりましたね」
「ちょっとの油断も出来ませんね」
「水戸の
ひそひそこんなことを囁き出した。
「ナーニ大丈夫だよ、鷺衆なんか」
「それはそうともお紋様」こう云ったのは左側の一人、「でも鷺衆のお絹という女は、手利きだということでございますね」
「そうさ、妾とはいい相手さ。妾の腕とお絹さんの腕、さあどっちが利くだろうかね」頭領お紋の言葉である。
「面白い勝負でございますね」こう云ったのは右側の一人、「でもお前様の勝ちでしょうよ」
「どんなことをしても勝たなければならない。せっかくの使命が果たされないからね」頭領お紋の言葉である。
この女達何者であろう? とまれ薩州島津家の、烏組という団体で、その頭領をお紋といい、何か重大な使命を帯びて、名古屋へ入り込んだということと、その名古屋には常州水戸の、鷺衆という団体が、お絹という女を頭領にして、入り込んでいるということだけは、彼女らの会話で知ることが出来る。
いったいどんな使命だろう?
「さよう」とお紋即座に云った。
「お迎えに参った、ご案内いたす」
「用意万端、よろしゅうござるかな?」
「整いおります。いざご案内」
一行森へはいったが、そのまま姿が見えなくなった。
その翌日の真昼である。名古屋城の天主閣、そこの窓から一人の武士、望遠鏡で市中を眺めていた。
「これは」と呟くと首を延ばし、じいいっと見入ったものである。
じいいっと
「ううむ」と宗春呻いてしまった。「ちょっと類のない変った美人、ここら辺りの者ではない。京かな、それとも大坂かな? ……三弥三弥、あれを見ろ! 素晴らしい美人が立っている」
「はっ」というとお気に入りの近習、山形三弥望遠鏡を戴き、つとそっちへ差し向けたが、「ううむ」とこれも呻いてしまった。「
「おお笑ったか、どれよこせ」宗春またも見入ったが、「やまたも笑いおる。……
近習の山路紋右衛門、そこで望遠鏡で覗いたが、「ううむ」とこれも呻いてしまった。「いかさま美人にございます。おっ、笑いましてございます」
「また笑ったか。どれよこせ」宗春またもじっと見た。「おおおお、またも笑いおる! あっ、いけない、行ってしまう。松へ隠れた。もう見えない」
名残りが惜しいというように、宗春呟いたものである。
その翌日の同じ時刻、宗春は天主へ
「三弥三弥、今日もいるぞ! おっ、笑った! 美しいものだ」
「殿、なにとぞ望遠鏡を」
「見るがいい」と手渡した。
「おりますおります、
「おお笑ったか、どれよこせ! ……これはいかにも、笑った笑った」
「殿」と紋右衛門声をはずませる。「是非拝借、望遠鏡を」
「さあ見るがいい」と手渡した。
「笑った笑った、笑いましてござる」
「また笑ったか、どれよこせ。……いかにも笑った、得も云われぬ。……立ち去る立ち去る。見えなくなった」
その翌日の同じ時刻に、あたかも物に
「不思議な女だ、何者だろう? ……これ三弥、紋右衛門、明日もおおかたあの女は、あそこへ来るに相違ない。そち達二人待ち伏せし、うむを云わせず引っとらえ、大奥へこっそり運ぶよう。がただし間違っても、手荒くあつかってはならないぞ」
「かしこまりましてございます」
さてその翌日尾張宗春、同じ時刻に天主へ
「不思議な女だ。心を引く。あんな女は見たことがない。何だか俺はあの女に、魅せられてでもいるようだ。どれ……」と云うと
じっと覗き込んだものである。
宗春望遠鏡で覗いたが、どうしたものか今日はいない。「さては時刻が早かったかな? それはそうと紋右衛門、三弥、待ち伏せをしているかしら?」
見廻すと濠端の松蔭に、かくれている二人の姿が見えた。
「アッハッハッハッ、隠れておるわい。及び腰をして肩肘張り、居合いでも抜きそうな格好だ。女を
待っても待っても出て来ない。やがて日が暮れて夜となった。その日はとうとう来なかったのである。そこで翌日を待つことにした。同じ時刻、天主へ上る。で望遠鏡で眺めたが、女の姿は見えなかった。日が落ちて夜となり、紋右衛門と三弥ぼんやりと、城内へ引き上げたものである。
「ははあこれはこうだろう、感付いたのだ、待ち伏せをな」
で、待ち伏せを止めることにした。
その翌日また宗春、天主へ上ると望遠鏡を覗いた。果然、女が濠端にいる。
「いるぞいるぞ! おっ、笑った。ううむ、どうも、
「殿、拝借、望遠鏡を」近習の三弥、声を
「いやいやいけない、俺が見る。見れば見るほど艶かなものだ!」
「拝借拝借、お願いでございます」今度は紋右衛門が手を差し出す。
「いやいけない、俺が見る。あっ、笑った! ううむ笑った! これ三弥、紋右衛門、早く参ってひっ捉えろ!」
「はっ」と云うと駈け下りた。
と、女は歩き出した。
「逃げる逃げる! これはいけない! 行ってしまった! 残念千万!」
捉えようとすれば現われず、現われても素早く逃げてしまう。ただ見ていれば現われて来る。そうして艶然と数笑する。十日というもの続いたのである。
宗春次第にイライラして来た。
「是非とらえろ! 是非とらえろ!」
だがどうにも捉えることが出来ない。だんだん心が狂気じみて来た。
心配し出したのは三弥と紋右衛門。
「狐狸ではないかな、あの女は?」
「まさか日中に化けもしまい」
「殿の様子が大分変った」
「困ったことだ、何か起こるぞ!」
はたしてある夜罪もないのに、愛妾の一人を手討ちにした。数日経つとまた一人!
それで毎日時刻が来ると、天主へ上って行くのである。
「うむ、見える! 美しいものだ!」
ホ――ッと溜息を吐くようになった。
「どうでも捉えろ! どうでも捉えろ!」
で、
それはある夜のことである。
「三弥、紋右衛門、
「殿、どちらへ参られまする?」
「参れと云うのだ! 従いて参れ!」
三人こっそりと裏門から出た。
高岳院前まで来た時である、向こうから一人の町人が来た。
「これ、町人!」と呼び止めた。
「へい」と云ったが
「そち、女を知らぬかな?」尾張宗春訊いたものである。
女を知らぬかと宗春に訊かれ、町人今度は笑い出してしまった。「女は沢山ございますが」
「お
「存じませんでございます」
「知っているであろう、教えてくれ」
「とんと私、存じません」
「知っている筈だ、教えてくれ」
「存じませんでございます」
「いよいよ教えてくれないな」
「わ、わ、私、存じません」
「そうか」と云うと尾張宗春、フラフラと先へ進んだが、振り返ると手が上がり、シュッと鞘走る音がした。キラリ光ったは剣光である。
「ワッ」という悲鳴、大袈裟に切られ、町人大地へ転がった。
「不親切な奴だ、教えてくれぬ。……これ三弥、拭いをかけろ!」
三弥顫えながら拭いをかける。パチッと納めるとフラフラフラ、宗春先へ進んで行く。
と、向こうから職人が来た。
「これ職人」と呼び止める。「そち、女を知らぬかな?」
「え? 女? 知っていますとも」
「うむそうか、どこにいるな?」
「日本国中、どこにだっていまさあ」
「お濠の端に立つ女、どこにいるか教えてくれ」
「お濠の端に立つ女? ははあそれじゃア
「
「さようでげすな、百物語の中に」
「うむさようか、連れて行ってくれ」
「無理だ、旦那、化け物の国で」
「どこへでも行く。連れて行ってくれ」
「こっちでご免だ、真っ平真っ平!」
「これそういわずと連れて行ってくれ」
「こまりましたなあ。手がつけられねえ」
「是非に頼む、連れて行ってくれ」
「知らねえ知らねえ、俺ア知らねえ」
「不親切な奴だ! 連れて行かぬか!」
「ワーッ、いけねえ、
逃げようとする
「これ紋右衛門、拭いをかけろ!」
パチンと納めるとフラフラフラ!
と行手から坊主が来る。
「これ女を知らぬかな?」
問答の末にサッと切る。そうしてフラフラと進むのである。
翌日になると天主へ上る。と、望遠鏡を覗くのである。
「今日もいる。また笑った!」
さてある夜のことである。三弥も連れず紋右衛門も連れず、一人で立ち
と、行手から一人の女、
「おっ、そなたは、濠端の女!」
「よいお月夜でございます」
女は艶然と一笑した。それはまさしくあの女であった。
袖を捉えた尾張宗春、
「念願叶った! とうとう目付けた!」
「殿様!」と云うとその女、柔かに宗春の手を取った。「おいでなさりませ、妾の住居……」
「行かないでどうする! 連れて行ってくれ!」
行きかかった時、影のようなもの、ボッと人家の軒へ立った。
軒に立った一個の人影! これがまた異様な風態である。女であることは疑いなく、しかも非常に美しい。年は若く小造りで、全身
「島津家で名高い女忍び衆、
人家の軒から軒を伝い、白無垢の女は歩き出した。「おや」と云うと立ち止まった。行手から一丁の駕籠が来て、トンと地上へ下ろされたからで。色が真っ黒に塗られてあるのが、ひどく気味悪く思われた。「あっ、いけない、宗春様が乗った! 駕籠が上がった! 動き出した! お紋さんが後から従いて行く。……黒塗りの駕籠! ははあそうか、烏組で使うトヤ駕籠だな。よしよし後を従けて行き、烏組の根城を見破ってやろう」
駕籠とお紋の一行は、右へ廻り左へ廻り、ズンズン先へ歩いて行く。と、
「オヤオヤオヤ、偉いところへ来たよ、御器所の森とは凄いねえ」白無垢の女呟いたが、ヒタヒタと後を追っかけた。
黒塗りの駕籠に黒振り袖のお紋、それが闇の森を行くのである。普通の人には見えない筈を、白無垢の女には見えるとみえ、数間を離れて追って行く。
と、にわかに白無垢の女、「しまった」と云って突っ立った。「どこへ行ったんだろう、消えてしまったよ」
なるほど、姿も見えなければ、また足音も聞こえない。
「驚いたねえ」と云いながら、白無垢の女は小走った。「たしかこの辺で消えたんだが」
見廻したがただ暗い。巨木が無数にすくすくと、夜空を摩しているばかりだ。
と、その時、どこからともなく、嘲笑う女の声がした。
「水戸で名高い女忍び衆、
「ふふん」と嘲笑う声がした。「それよりサッサと
忽ちガーッと烏の
懐中へ手を入れた鷺組のお絹、
「おい!」と改めて声を掛けた。「そっちがやかましい烏なら、こっちは
スイと懐中から手を抜いた。と、指先を口へやる。闇の空行く鷺の声、
と、忽ち森の四方、遙か離れた方角から、これに答えて鷺の声、コーッ、コーッと鳴り響いた。
しばらくの間は森の中、鳥笛の音で充たされた。
やがて一時に静かになり、森を出て行くお絹の足音、シタシタと町の方へ遠ざかり、全く物音消えた時、一本の立ち木の根もとから、囁く声が聞こえて来た。
「紅丸紅丸、面白かったなあ」薬草道人の声である。
「ガーガーガー、コーコーコー、烏と鷺の啼き合わせ、ほんとに面白うございました」童子紅丸の声である。
「
「ほんとに騒がしゅうございます」
「町には騒がしくていられまい、こう思って私は名古屋へ来ると、この森を住居にしたんだが、どうもここにもいられそうもない。……ボツボツどこかへ出かけようかな」
「それがよろしゅうございます」
「さあさあそれでは出かけよう、猪十郎さんや、車をお曳き」
相変らずの行列である。花咲いた十本の薬草を、頂きにのせた薬剤車、それを引いている
やがてやって来た堀川筋、日置辺には材木問屋が多く、堀の両側は隙間もなく、材木によって飾られている。流域ほとんど半里に渡って、材木の山があるのである。立てられたもの、積まれたもの、堀の水面へ浮かべられたもの。……
と、一つの人影が、材木の蔭から現れた。近寄って来る道人の一行、それをじっと
「薬草道人様ではございませぬか、
「ほほう」と道人立ち止まったが、「これはこれは珍らしい、意外の所で逢ったものだ。いつ名古屋へやって来たな? が、それはどうでもよい。私もこのちへやって来たよ。ひどく御岳が騒がしいのでな。だが来て見て後悔した。名古屋はもっとやかましい。当然といえば当然だが、安眠の場所さえないのでなあ。これにはすっかり参ってしまった。どうだね、お吉さん、私のために、静かな住居を見付けてくれないかね。ただし云って置く、高等では困る。成るたけ下等な所でな」
「お安いご用でございます。それではどうぞ妾の住居へ、しばらくお立ち寄りくださいますよう」
案内したのがどこかというに、材木と材木との積み重ね、その隙へ出来た空間である。
その翌日のしかも払暁、まだ町々の眠っている頃、どこから現われたか鷺組のお絹、フラリと市中へ現われた。
入り込んだのが
「突然駕籠が消えるなんて、どう考えたっておかしいよ。消えるだけの理由がなければならない。森の中に隠れ場所があるのだろう? それから探してかからなければならない。だがそれにしても烏組の奴らめ、市中へ入り込む早々にして、こんな放れ業をするなんて、随分腕がたっしゃじゃアないか! 驚いたねえ驚いた。油断もスキも出来やアしない。今のところこっちが負け口だ。うかうかしているととんだことになる。だがそれにしてもどういう手段で、宗春様をおびき出したのかしら? だがマアそんな事はどうでもよい。そんなことより宗春様を、一刻も早く助け出さなければならない。時が遅れると大事になる。連判状へでも名を書かれたら、千
お絹こんなことを呟きながら、森の中を歩き廻った。
「おやここに足跡があるよ。これは女の足跡だし、こいつは二人の男の足だ。規則正しく二つずつ、同じ間隔に
霧が森の中に拡がっている。日中さえあまり人通りのない、深い寂しい御器所の森! まして今は明け方である。人っ子一人通っていない。雀が八方で啼いている。声といえばそれだけである。
「おやおや足跡が消えてしまった」
立ち止まった眼の前に立っているのは、十抱えもあるらしい杉の大木、四方八方に枝葉が拡がり、空を笠のように蔽うている。
「随分大きな杉の木だねえ。神代杉とでも云うのだろう。この木を切って家を建てたら、十軒ぐらいは建つだろう。それはとにかくこの木の前で、足跡が消えたのはどうしたんだろう?
お絹、杉の木へさわって見た。
「まるで
トントントンと叩いてみた。
「おやおやこれは少し変だ」そこで、じっと考え込んだ。でまたトントンと叩いて見た。「どうも少し変だねえ」今度は耳をおっ付けて見た。
「何んにも物音は聞こえないけれど、でも何んだかおかしいねえ」グルグル木のまわりを廻り出した。「ははあそうか、ははあそうか」何を目付けたのか鷺組のお絹、感心したように呟いた。
「これで少しは見当が付いた。ううむ、それにしても烏組め、面白い細工をしたものだ。これなら人には解るまい。妾以外の人間だったら、誰にだって解る気遣いはない。お気の毒様、妾は鷺さ。水中の小虫さえ捕ろうってんだからね。こんな細工なんか朝飯前、見破ってしまうに手間暇はいらない。だが」と呟くと考え込んだ。「細工の小口は見破ったが、ちょっとこの後が困ったねえ」
しばらく佇んで考えたが、
「ああそうだいいことがある。大須へ行こう大須境内へ。そうしてあの人へ頼んでみよう」
町の方へ引っ返したが、ポツポツ出はじめた往来の人波、それへ紛れて見えなくなった。
その日の日中のことである、大須境内に十数人の者が、何かを取りまいて騒いでいた。
大須観音の境内である。参詣人で賑わっている。何かを取り巻いて十数人の男女、面白そうに眺めている。
大蛇使いの
「さあさあ皆さんご覧ください。青大将にやまかがし、ないしは黒蛇または
腰の
と、唄い出したお仙の声!
「日がな一日さがしても
それと似かよう笠もない
いつか逢おうといったのに
草が枯れても逢われない」
涙を含んだ声である。それと似かよう笠もない
いつか逢おうといったのに
草が枯れても逢われない」
「さあさあ今度はコマ結び、二匹しっかり結びましょう、それがズルズル解けるなら、お手拍子ご
「さあさあお歩き太夫さん、一人は右へ一人は左、恋しいお方を尋ねてね」
そこでまたもや唄い出す。
寂しい寂しい唄である。唄の文句や節に託し、感情を洩らしているのである。ズルズルと解けた二匹の蛇、左右へスルスルと動き出した。
その時見物を掻き分けて、つと前へ出た一人の女、他ならぬ鷺組のお絹であったが、山かがしへ眼をつけたものである。
やまかがしへ眼を付けた鷺組のお絹、心で呟いたものである。
「ほんとに上手に慣らされているよ。何んでも云うことを聞くらしい。お仙さんとかいう
いやなかなかお仙の芸当、終りを告げようとはしなかった。数匹の蛇を
しかしその日も暮れ逼まり、夕陽が天末を染める頃になると、お仙帰りの仕度をした。
「さあさあ、今日はこれでお終い。後は明日でございます。そのまた明日は珍らしいところを、二三加えてお眼にかけます。どうぞお立ち合いくださいまし。そうしてお願い致します、別れて逢えない宗さんを、どなたかお見掛けなさいましたら、さっきも申した七ツ寺、
以前変らぬ蝮捕り姿、腰には
と、
「もし太夫さん、お仙様!」
振り返ってみれば白裳束、雪女郎のような白い女が、軒に立って招いている。
「何かご用でございますか?」お仙立ち止まったものである。
「はい」と云うと近寄って来た。「妾はお絹と申しまして、江戸から来たものでございます。あなたが探しておいでになる、山影様とは同家中、よくお噂を聞きました。場合によってはお力になり、探してあげたいと存じますが、ついてはあなたの芸道具、慣らされ切ったその小蛇を、お貸しくださることなりますまいか」
「まあ」とお仙驚いたが、見れば
「お易いご用でございます。小蛇がご用に立ちますなら、さあさあお使いなさいまし。しかし慣らされた小蛇でも、妾が自分で使わない事には、決して云うことは聞きませぬ。どういうご用かは存じませぬが、妾の力で出来ますことなら、どうぞおっしゃってくださいまし。いくらでもご用に立ちましょう。山影様と同家中、水戸様ご家来と承わってみれば、他人のようには思われません。力になってくださいますとか、尚さら
「
杉の大木へ蛇を入れる! まことに平凡な依頼であった。早速引受けた組紐のお仙、お絹と連れ立って行くことにした。
御器所の森、大杉の木の前。――
宵の口ではあったけれど、
「ご覧なさいませお仙様、ここに小穴がございます」こう云ったのは鷺組のお絹。
「おやおや
「内は
「何かいるのでございましょうか?」
「ええ沢山の烏がね。そうして一丁の駕籠があります。そうして一人の高貴な方が!」お絹
腰を探ると一丁の矢立、それを取り出した鷺組のお絹、懐紙へサラサラ文字を書いた。引き裂くと細く
と立ち上がった組紐のお仙、小蛇を小穴へ入れたものである。
ヒューッと鳴らす口笛の音! 蛇に勇気を付けるためだ。お仙の鳴らす口笛である。
だがはたして杉の大木に、そんな
ここは杉の木の内側である。
文字通り真っ暗だ。お絹が想像した通り洞然たる
その階段を下り切った所に、一つの部屋が出来ている。もうこの辺は地下である、畳数にして十畳あまり、四方厳重な石畳である。天井は低くそれも石だ。これまた長い年月を、
部屋の一
宗春はじっと見詰めている。その視線の止まった辺に、すなわち部屋の一所に、一人の女が立っている。
「ご辛棒のよいことでございます。いつまでも我慢なさりませ。そのうちに精根
愛慾をそそる半裸体、お紋は尚も云うのであった。
「隣室には寝台もございます。笑い薬もございます。―(以下四十四字抹殺)―一粒一幸なさりませ! 妾の体はあなたの物、どうなさろうとご自由です。うんとおっしゃったその時から、あなたは幸福になられます。美くしい夢、虹の夢、それが見られるのでございます。
――この間二百九十八字抹殺――
その間も間断なく聞こえるのは、隣り部屋で奏している音楽である。その間も絶え間なく匂うのは、香炉から立ち上がる煙りである。一日と二夜ぶつづけに、掻き立てられた愛慾に、宗春の精気は
「おやおや詰まらない。気絶したよ」ヒョイと立ち上った烏組のお紋、宗春の顔を覗き込んだ。
と、その時隣室から「
他ならぬ伊集院五郎であった。
隣室から現われた伊集院五郎、まずヘラヘラと笑ったものである。
「おおおお、お紋さん努めたなあ、ご苦労ご苦労、汗になったろう。隣室で見ていた俺でさえ、変な気持ちになったんだからなあ。それにさ、随分詳しいじゃアないか、
「やれやれすっかり衰えていらあ。それはそうとお紋さん、これからどうするつもりだえ?」
「そうだねえ」と烏組のお紋、半裸体の体をあけっ放したまま、「ちょっと陥落しそうもないよ」
「それじゃア役目が立つまいぜ」
「そこで品物を変えようって訳さ」これは暗示的の言葉である。
だが伊集院には解らないらしい。
「何んだい品物を変えるとは?」
「妾の体は小作りだよ」
「うんそうだ、
「で、今度は大女さ」
「何んだか俺にゃア解らねえ」
「妾の体は痩せぎすだよ」
「それがまた途方もなく美しいんだが」
「肥えている女に変えなければならない」
「やっぱり俺に解らない」
「妾は
「ごもっともだね、
「清浄な女に変えるのさ」
「ふうん、少しずつ解って来た」
「妾は都会的の女だよ」
「俺もそう思う、都会的の婦人だ」
「山の乙女に変えるのさ」
「ははあなるほど! かなり解った」
「そういう女をかっぱらって来て、妾の変りに
「
「妾の体に余ったのだから、他の体で間に合わせようってのさ」
「なるほどなあ、いいかもしれねえ」
「一日二晩秘術を尽くし、妾も随分働いたが、それで陥落しないんだから、これから働いても無駄ってものさ。免疫になっているらしい。慣れっこになっているらしい。そこで今度は反対の女で、もう一度
「うん、こいつア署名するだろう!」
「ムラムラ、ヒョロヒョロ署名するよ」
「ところでそういうお誂え向きの女が、烏組の中にいるかしら?」
「さあそいつで困っているのさ」お紋ここで渋面を作った。「妾達はみんな忍び衆、肉附き豊かの大女は、何より禁物というところで、残念ながら見当らないねえ。……伊集院さんの方にはないかしら、そういう理想的の別嬪が」
すると伊集院考えたが、
「うん、あるある、一人ある!」
ポンと小膝を打ったものである。「酒場の
酒場の浜路を攫おうという、伊集院の言葉を耳にすると、お紋喜んだものである。
「だがねえ伊集院さん、浜路という娘は、妾の今云った条件に、あて
「大丈夫だよ」と胸を打った。「云ってみれば山の女神だ。肉附きがよくて
「何んのために名古屋へ来たんだろう?」
「俺のニラミに間違いがなければ、男を追っかけて来たらしい」
「それじゃア
「生娘生娘、俺が引き受ける」
「何んだか大変詳しそうだね。いったいどういう身分なんだい?」
「ひとつ詳しく話してやろう」それから伊集院話し出した。「お前さんが特別の任務を帯びて、この名古屋へ入り込んだように、俺も特別の任務を帯びて、
「でもよくうまく目付かったものだね」
「ナーニあの娘には用はねえが、薬草道人を目付けたいものと、昨日もブラブラ歩いているうちに、偶然目付かったというものさ」
「とにかくそういう娘があるなら、是非さらって来て玉に使おう。だがどうしてさらったものかね」
「こいつがちょっと厄介だなあ。何しろ宗春がいないというので、名古屋城中は大騒ぎ、そこへ美しい旅の娘が、またさらわれたと噂が立ったら、事少しく面倒になるなあ」
「そうさ」というと烏組のお紋、何かじっと考え込んだが、「いいよ、妾に考えがあるよ。喜び進んで先方から、さらわれて来るというようなね」
その時隣室から声がした。
「伊集院! お紋! ちょっと参れ!」
変に気味の悪い声である。
「おっ、太郎丸様だ、呼んでおいでになる」
二人揃って隣室へ行ったが、それと同時にムーという、さも苦しそうな声がした。
悶絶した尾張宗春が、
悶絶から覚めた尾張宗春、指先にさわった冷っこい物、見れば一匹の小蛇である。
心うっとりとまだ夢だ! 夢中で睨むと蛇の胴に、畳んだ紙片が巻き付けてある。長く真っ直ぐに延びたばかり、蛇は少しも動こうとはしない。
「はてな?」とさすがに不思議に思い、手を差し延ばすと紙片を取った。ほぐして見ると数行の文字。
「ご安心なさりませ、お助け致します。洞内へ入り込む道筋を、どうぞお教えくださいまし」
それは優しい女文字であった。
「ふうん」と宗春首を
「や?」
と宗春声を上げた。「ここは西丸から通じている『二方遁がれ』の地下の部屋だ!」
そこでじいいっと考えたが、
「とまれ何者かこの俺を、助け出そうとしているらしい。よし」と云うと膝の前の、硯箱から筆を取り、サラサラと紙の裏側へ、数行の文字を認めた。小蛇の胴へ巻き付ける。と、遠々にどこからともなく、あるかないかの口笛の音、ヒュ――ッ、ヒュ――ッと聞こえて来る。
連れて小蛇が動き出したが、どこへ行ったものか見えなくなった。
愛慾をそそる香の煙り! 愛慾をそそる
と、宗春は立ち上がった。精神衰えてヒョロヒョロだ。フラフラと歩くと戸口へ行った。だが隣室から
「こっちはどうだろう?」とまたフラフラ、もう一つの戸口へ行ってみたが、やっぱり駄目だ、動かない。
「駄目だ」と呻くと坐ってしまった。
誰もいないか音もない。
またも精根次第に
「どうしたんだろうね、お仙さん、小蛇が帰って来ないじゃアないか」
「そうだねえ」と云いながら、お仙ヒュ――ッと口笛を吹いた。「帰って来たらしいよ、お絹さん」
「おやそうかい、有難いねえ」忍び
ヒョイと取り上げた組紐お仙、
「胴に
ほぐして読むと鷺組のお絹、「おお有難い入口が解った」
その夜が明けて朝となった時、一人の武士が名古屋城の北手、上名古屋の林を歩いていた。
享保年間の上名古屋辺は、いわゆる郷で農家が飛び散り、田畑や林の区域であった。
さて早朝のことであるが、その上名古屋の密林を、歩き廻っている武士があった。
「
それは山影宗三郎であった。傷もすっかり癒ったと見え、
「いずれ薬草道人のことだ、町の旅籠へなどは泊まるまい。森か林か田圃などへ、野宿などをして住んでいるかもしれない。こう気がついてこの二三日、郊外あさりをやり出したんだが、やっぱりどうも目付からない。ひょっとかすると名古屋を見限り、他の土地へ行ったんじゃアあるまいかな?」
思案に余ったというように、つくねんと切り株に腰をかけた。
と、林の奥の方から、云い争う声が聞こえて来た。耳を澄ますと女の声!
「はてな?」と立ち上がると宗三郎、忍びやかにその方へ歩いて行った。
雪女郎のような一人の美女を、黒小袖を着た五六人の女が、グルリと取り巻いているのである。取り巻かれているのは鷺組のお絹、取り巻いているのは烏組の連中。
「おいお絹さん、そうはいかないよ! そんな手ぬかりをするような、ヤクザな烏組とは少し
すると続いて烏組の連中、勝ち誇ったように喚き出した。
「あたじけないね、鷺組はさ!
「『二方遁がれ』の城の間道、出口が二つある以上は、両方の出口へ人を配り、固めをするということぐらいは、誰にだって考えがつく筈だがね」
「それをウカウカやって来て、この出入り口から忍び込み、中納言様を奪い返そうなんて、あんまり智恵がなさ過ぎるよ」
「しかも大胆にも一人で来てさ」
「大胆なものか、
「お前さんさえ捕らえてしまえば、水戸の鷺組は全滅だ。そこで島津の烏組が、名古屋の町中あばれ廻り、翼を伸ばすということになる。お気の毒さま、競争は勝ちだ!」
「オイお絹さん」
と副将のお竹、憎々しい嘲笑を浮かべたが、
「何んとかお云いよ、え何んとか! それとも云うことがないのかい、気の毒だねえ、気の毒だよ」
何んと云われても鷺組のお絹、黙って地面を見詰めていた。お絹の視線の落ちた所に、巨大な鉄盤が置いてある。
黙ってはいるが鷺組のお絹、心の中ではいろいろと、考えに耽っているのであった。
「こいつは妾の失敗だった。さあどうしたら遁がれられるかしらん? ……小蛇を使って聞き出したは、『二方遁がれ』の間道口、西丸大奥の床下から始まり、一方の出口は
いかにも烏組の六人の女、ベタベタと地面へ坐ってしまった。
と、お竹が云い出した。
「まあお絹さんもお坐りなさいよ。天気だってこんなにいいんだからね。そんなにキョトキョト見るもんじゃアないよ。面白い話でもしようじゃアないか」それから
「昔々ある所に、烏と鷺とがいたんだとさ、烏は黒くて鷺は白く、そうして鷺は大莫迦で、烏は大変利口だったとさ。ええとそれから何んだっけ。……」
「ふざけていやがる」と思ったが、お絹にはどうにも出来なかった。
ノビノビと坐ってはいるものの、その坐り方が尋常でない。ちゃあアんと忍びの骨法に
と、お竹が飛び上がった。
「さあいよいよやって来たよ」林の一方を見たものである。
そっちへ眼をやった鷺組のお絹、「あっ!」と思わず声を上げた。黒く塗られた駕籠が一丁、
密林を分けて飛んで来た駕籠! すなわち烏組のトヤ駕籠である。
「南無三、こいつは偉いことになった!」
立ち
「島津家の女忍び衆、烏組発明の捕り物道具、さあトヤ駕籠だトヤ駕籠だ! 二間の
「オイ!」ともう一人の烏組が云う。「どだいお絹さんが間抜けだよ、さっきからお前さんをグルリと取り巻き、今まで悠々と話し込んでいたら、大概こんな結末になると、感付きそうなものではないか。早くトヤ駕籠の現われない前に、逃げてしまえばよかったんだよ」
するともう一人が憎々しく、「腕がないのさ、つまるところね。水戸の鷺組なんて威張ったところで、大将のお絹さんがこんな
するともう一人が得意そうに、「これで島津の烏組の、腕の凄さも知れただろうね。ホッ、ホッ、ホッ、ホッ、いい気味だよ」
その時お竹が声を掛けた。「さあお前さん達駕籠を下ろし、ポンと景気よく戸をあけておくれ。……」
「おい」と云うと二人の駕籠舁き――と云っても島津家の家臣なのであろう、トンと駕籠を舁きおろした。
と、見て取った烏組の連中、数間の
「シーッ、シーッ」と声をかけた。鷺組のお絹を
残念ではあるが鷺組のお絹、どうすることも出来なかった。実際烏組のトヤ駕籠の、不思議を極めたカラクリを、どうして破ってよいものか、見当が付いていないのであった。そのくせ、トヤ駕籠の恐ろしさは、充分知っているのであった。
「これはいけない、いよいよいけない。……あの駕籠の戸が開いたが最後、妾は捕えられる、捕えられる。……」
さりとて逃げることも出来なかった。烏組の連中が半円をつくり、手を
「勝手にしやがれ!」と諦めたお絹、トヤ駕籠の戸を睨み付けた。
と一人の駕籠舁きの手、グイとばかりに駕籠の戸へかかり、コトンと一方へ開けられようとした時、
「待て!」と云う声が響き渡り、木蔭から
山影宗三郎切り込んだものの、相手は女、大人気ない、こう思ったか太刀の峰で、バタバタと二人ほど叩き仆した。
「これ!」とそこで声をかけた。「島津家の女忍び衆、烏組とあるからは拙者にも敵!
ここで大勢ガラリと変り、烏組の連中逃げ出す事になった。不意の助太刀! 敵へ出た! もうこれだけでも仰天ものだ。その上随分の手利きらしい。例えトヤ駕籠の戸を開けても、二人を同時に捕えることは出来ない。一人を捕えているその間に、他の一人に切り立てられ、その上肝腎のトヤ駕籠でも、破壊されたら大変である。それに時刻は早朝である。烏組の忍びが優秀でも、不意に現われた強敵を、太陽の下に捕えることは到底出来るものではない。
「お逃げよお逃げよ、お前達!」副将お竹が声をかけた。
で、みんな逃げてしまった。
衣紋をつくろった鷺組のお絹、嬉しそうに一礼したものである。
「山影様でございましたか、同家中ながら妾は忍び、どなたにも顔を晒さないように、訓練されておりますので、これまでお目にはかかりませんでしたが、お噂は承わっておりました。また今日はあぶないところを、ようこそお助けくださいました。お礼は海山申されません。ついては……」と云うと意気込んだ。「ご迷惑かは存じませぬが、この際なにとぞもう一度、ご援助願いとう存じます。私のお願いというよりも、主家水戸家の願いであり、徳川譜代大名の、一統の願いでもございますので」
「ははあ」と云うと山影宗三郎、いささか不思議そうに首を
「一刻を争う火急の場合、詳しい事情は追ってとして『二方遁がれ』の間道に、幽囚されおる尾張様を、お助けくださることなりますまいか?」
「二方遁がれ? 尾張様? 意味深そうなそのお言葉、事情はゆるゆる承わるとし、主家に関係ある上に、譜代大名一統にも、関係あると承わって見れば、うっちゃって置くことは出来ますまい。よろしゅうござる、何事であれ、ご助力することに致しましょう」
「有難い仕合わせ! お礼申します」
ヒラリと飛ぶと鷺組のお絹、地面に草に蔽われながら、横仆わっている鉄盤へ、双の
「ナーニ、妾には解っているよ」お絹呟くと走り廻った。「うむ、これだよ!」と呟くと、数間離れた地面の一箇所、そこにニョッキリ
まず飛び込んだはお絹である。つづいて宗三郎が飛び込んだ。ズンズン進むと一つの部屋!
お絹と宗三郎間道を進んだ。と一つの部屋へ出た。ただしこの辺は真っ暗である。湿気がジメジメと肌へ透る。
「
龕燈を差し上げた鷺組のお絹、部屋の四方を照らして見た。四方の壁は岩である。天井もがんじょうの岩である。壁の三方に戸口がある。扉があって錠が下りている。錠を外して扉をあけなければ、どの方面へも進めない。どうしたら錠を外すことが出来るか? 合い鍵がなければ外れっこはない。
お絹ちっとも驚かなかった。グイと懐中へ手を入れると、一本の畳針を取り出した。と、そいつを錠穴へ入れた。すぐビーンと錠が外れた。
「妾達忍び衆の身にとっては、錠など何んでもございません。一本の針さえございましたら、城門でも破ってお目にかけます。そういう方面にかけましては、夜盗以上でございますよ。敵国の城の大奥へ忍び、城主の寝首を掻くことさえ、妾達には充分出来ますので」これがお絹の説明であった。
二人はズンズン進んで行く。と、丁字形の辻へ出た。
「お待ちくだされ」と鷺組のお絹、辻の真ん中に
「左手の地下道は相当広く、よく
さあ幾時間費したろう? 朝ではあるまい、日中だろう? 否あるいは夕方かもしれない。ただし地下道は闇である。ただ龕燈の光ばかりが、行く手を照らすばかりである。
「おや!」というと鷺組のお絹、にわかに立ち止まって聞き耳を立てた。「お聞きなさりませ、山影様、あれ水音が聞こえます」
云われて宗三郎耳を傾けた。いかさま大河の流れるような、大水の音が聞こえて来た。
「いかにも水音、これは不思議、どこを流れているのでござろう?」
「さあ」と云ったがお絹にも、河の
依然として道は歩きにくい。あえぐようにして進んで行く。
と道が行き詰まった。その正面に扉がある。鍵の穴から
「山影様」と鷺組のお絹、宗三郎の耳へ口をつけた。「いよいよ参ったようでございます。
そこで山影宗三郎、鍵の穴から覗き込んだ。まず最初に、「むう――」と唸り、それからよろめいたものである。
「浜路殿がおられる! 浜路殿が!」
そこで浜路の物語になる。
山影宗三郎と鷺組のお絹、二人が地下道へ入り込んだ日の、ちょうど夕方のことである、桑名町の
「どうも空耳ではなさそうだよ、たしかに昨夜聞き覚えのある、道人様のお車の、
「
純な乙女の恋心、宗三郎が道人の後を追い、名古屋へ行ったと知った時、浜路は
ひょっとかすると宗三郎は、もう名古屋にはいないかも知れない。あきらめて江戸へ帰ったかも知れない。――などとこの頃では浜路も仁右衛門も、危惧の
――薬草道人を探しあてようと、名古屋へやって来た宗三郎である、薬草道人がいるからは、宗三郎も名古屋にいなければならない! で今日は浜路も仁右衛門も、いくらか心が明るくなっていた。
「町の噂でも聞いて来よう」
こう云って仁右衛門が出かけて行った後、一人浜路は部屋に残り、物思いに沈んでいた。
「ごめんください」とはいって来たのは、お仲という三升屋の女中であった。「お客様ご書面でございます」差し出したのは一封の書面。
受け取って浜路仰天した。恋しい山影宗三郎から、彼女へあてた手紙なのである。
先日三升屋の門を通り、彼女を見かけたということと、目下自分は
もしも浜路が冷静に、前後の事情を考えたなら、
門へ出てみると駕籠がある。黒く塗られた気味の悪い駕籠だ。
「駕籠屋さん」と浜路声をかけた。
「へい」と立ち上った二人の駕籠舁き、カタンと戸をあけるとスルスル、浜路内へ吸い込まれた。と、駕籠が宙に浮き、走り出したのは
浜路を乗せたトヤ駕籠一丁、
そこに陰気な屋敷があった。
その屋敷の奥まった部屋で、さっきから話している三人の人物、一人は伊集院五郎であり、一人は烏組のお紋であり、一人は見知らない異様な人間、しかしお紋と伊集院とが、いかにも恭しい物云い方で「ご前、ご前」と云っているところを見ると、偉い人物に相違あるまい。熟柿のような
「由来尾張宗春はの、反骨稜々たる快男子なのだ。そうして将軍家に対しては、反感を抱いている筈なのだ。と云うのは他でもない、先将軍死去にあたり、紀州吉宗が将軍になるか、尾張宗春が将軍になるか、劇烈な競争をしたあげく、とうとう宗春が失脚し、吉宗が将軍になったんだからな。いってみれば当今の吉宗将軍は、宗春にとっては癇癪に
酒テン童子のような豪快な人物、こう云ってカラカラと笑ったが、これぞ島津太郎丸、歴史の表では有名ではないが、この時代の一梟雄、島津家七十七万石を、切って廻していた人物である。この頃年齢五十五歳、幕府の老中若年寄などさえ、彼の名を聞くと
「伊集院!」と太郎丸呼びかけた。「
すると伊集院膝を進めた。
「ご前、大丈夫にございます」
大丈夫と云った伊集院五郎、大丈夫の理由を説明した。
「
「うむ、その山影宗三郎だが、たしかその方と御岳山中で、甲斐の徳本と想像される、薬草道人とかいう不思議な隠者を、中心にして争った、その水戸家の侍だな?」こう訊いたのは太郎丸。
「はい、さようにございます」
「ところでその方は何んのために、甲斐の徳本を討ち果たすよう、大殿から
「は、詳しくは存じませぬが、どうやら柳営におかれまして、我が君様と水戸のお館とが、甲斐の徳本の
「そうだよ」と太郎丸
「よく解りましてございます」伊集院五郎
「ところで薬草道人とかいう、例の御岳の不思議な隠者、たしかに甲斐の徳本かな」
「どうやらそんなように思われます」
「で、名古屋へ入り込んだのだな」
「そんな塩梅にございます」
「至急目付けて討ち果たさずばなるまい」
「心得ましてございます」
その時
「トヤ駕籠帰りましてございます」
「おおそうか」と太郎丸、「で、獲物は? とり抑えたかな」
「はい、首尾よく参りましたそうで」
「そうか」と太郎丸立ち上がった。「すぐに廻せ! 中庭の方へ! 伊集院、お紋、さあ参れ!」三人揃って中庭へ出た。
太郎丸とお紋と伊集院、中庭に出るともう宵だ。庭の一所に
「喜三太、嘉市、ご苦労であった。すぐに娘を引き出すよう」島津太郎丸声をかけた。
「はっ」というと先棒の喜三太、ポンと駕籠の戸を引きあけた。
覗き込んだ太郎丸、「うむ、可哀そうに気絶をしている。が、結句幸いだ。気絶したまま地下道へ運べ」
築山の一所へ手を触れた。とそこへ口があいた。すなわち間道の入口である。真っ先に進んだは太郎丸、つづいて伊集院とお紋が行く。その後から喜三太と嘉市、気絶している浜路の体を、肩と両足とで支えながら、三人の後から
新しく作られた間道である。平坦で広くて歩き易い。間もなく行き着いたは一つの部屋、ぼんやりと
「喜三太、嘉市、そち達は帰れ」
「はっ」と云うと二人の者、浜路を床の上へ舁き下ろし、間道づたいに引っ返した。
気絶したまま可哀そうな浜路、三人の眼の前に
「ううむ」と太郎丸唸ってしまった。「なるほどなあ、よい体だ! 一糸も纒わず、
「はい」というと烏組のお紋、「このまま隣室へ押し入れて、餌食にすることに致しましょう。なまじ気絶から覚めましたら、ジタバタ騒いでかえって邪魔、それに死んだように動かない、気絶の女を見るということは、好色漢の、宗春卿の、情慾を一層そそり立てる、よい手段になろうも知れず、……」
「うん、よかろう、すぐに掛かれ!」
「伊集院さん、手をお貸しよ」
「よし来た」
とばかり伊集院、浜路の体を引っかかえた。お紋すかさず
さてここは隣り部屋、坐っているのは尾張宗春。その前には連判状、その前には硯箱、煙っているのは香炉の煙り、照っているのは
と宗春、顔を上げた。
「お紋かな? いや
宗春ブルブルと顫え出してしまった。ジリジリと
「お助けくださいまし! 薬草道人様!」
極度の恐怖に襲われた時は、超自然的威力に縋るものである。父仁右衛門の名も呼ばず、恋人宗三郎の名も呼ばず、薬草道人を呼んだのはまさに当然の事と云えよう。
その日薬草道人は、材木小屋に住んでいた。
可哀そうな浜路が姦策にかかり、恐ろしい地下道の一室へ、閉じ込められた同じ日の、夕暮れ方の事であった。堀川筋、
一つの空間には猪十郎と紅丸、薬剤車を守りながら、何かヒソヒソ話している。こっちの空間では薬草道人、お吉を相手に閑談である。
「
堀川の水が崖の中へ、ズンズン吸い込まれて行くのであった。
堀川の水が崖の中へ、もちろん徐々にではあるけれど、まさしくズンズン吸い込まれて行く。
無数に小船が
「思った通りだ。
小船、水路へ流れ込んだ。ズンズンズンズン流れて行く。水勢はゆるくはあったけれど、所々に瀬があって、ゴ――ッと高い水音がする。
「紅丸さんや、
「はい」と云うと童子の紅丸、野宿の場合の用心に、いつも
ズンズンズンズン流れて行く。水勢益ゆるやかだ。と、水路が小広くなった。水がよどんで動かない。と、道人声をかけた。
「船をお止め、船をお止め!」
「あっ、いかにも道人様、女の泣き声が聞こえます」
すると続いてお吉が云った。「そうして男の呻き声が!」
「さよう」と道人ひきしまった。「何か事件が起こっているな。よくない事件! 不吉な事件! これはうっちゃっては置かれない」
「でも天井が
「駄目だなあ」と薬草道人、「天井が
松火で天井を照らして見た。一個の
「そうれごらん、この通りだ。あの鉄環をグイと引く、すると天井が一方へ
耳傾けたものである。
ちょうどこの頃のことである、名古屋の城の西丸の床下、そこに出来ている間道
三弥、紋右衛門を先頭に、城中からの捜索隊
どうして彼らは尾張宗春の、居場所を発見したのだろう?
いやいや彼らは盲目滅法に、ただひた走って行くのであった。
宗春の姿の見えなくなって以来、いかに城中が沸騰したか? 言葉に尽くせないものがあった。城内隈なく探したが、宗春の姿は見付からない。城下はもちろん四方八方へ、人数を派して探したが、見付け出すことは出来なかった。
問題が問題、公には断じて発表をすることが出来ない。秘密を守って探さなければならない。この事世間に知れようものなら、人心を不安に導くだろう。この事幕府へ知れようものなら、罪を蒙らないものでもない。
秘密秘密、絶対に秘密! 秘密に捜索するために、自然に行動迅速を欠き、宗春はたしてどこにいるか、今に見当さえ付かないのであった。
こういう場合に咎められるのは、お側去らずの
ふとその時気が付いたのは「二方遁がれ」の間道のことで、もしもおったら儲け物、たとえいなくとも元々だ! で、同輩もろともに、間道さがしに取りかかったのであった。
この思い付きは非常によかった。間道を真っ直ぐに走りさえすれば、「二方遁がれ」の
「殿のお行方知れぬ以上、拙者はどうでも切腹致す」こう呻いたのは三弥である。
「同じでござる、拙者も切腹!」こう応じたのは山路紋右衛門。
走る走るひた走る! 間もなく行きつくに相違あるまい!
さてこの頃宗三郎とお絹は、宗春と浜路の籠っている、その岩部屋の左手の戸口、その外側に立ち
鍵穴から覗いた宗三郎が、
「浜路殿がおられる! 浜路殿が!」
こう叫んだのはこの時なのであった。
「おお、お絹殿、お願いでござる! すぐに錠前をお外しください! 助けなければならぬ、助けなければならぬ!
この時浜路、宗春のため、どうやらしっかり抱きすくめられたらしい。
ここは宗春と浜路の部屋。――
半裸体にされた可哀そうな浜路、しっかり宗春に抱きすくめられ、処女を
浜路にとっては何も彼もが、不思議でもあれば恐ろしくもあり、解釈しがたいものであった。
「助けてください! 助けてください!」遁がれようとしてもがき出した。「ああ妾には解らない! おおいったいどうしたんだろう! ……山影様からのお手紙! ……駕籠へ乗ると縄が出て、がんじ搦みにされてしまった! そうして自然とサルグツワが
浜路を抱きしめた宗春の手、容易なことでは放れようとはしない。
「
尾張宗春も気の毒であった。二日二夜の長きに渡って、目茶目茶に愛慾をそそられたのである。そのあげく無類に優秀な、娘の肉体を見せられたのである。どんな人間でも狂暴になろう。しかも室内には依然として、催情的の
浜路の力が弱って来た。抵抗力が衰えて来た体が弓なりに曲がって来た。今にも床上へ仆れるだろう。
宗春の力は加わった。歓楽はもうすぐだ! 彼のネバネバした唇が、浜路の唇へ落ちようとする。彼の巻き付いた両腕が、まさに獲物をたおそうとする。
ヒタと向かい合った四つの眼! 胸と胸とがセリ合おうとする。
「助けてください! 助けてください!」しかしその声も嗄れてしまった。左右に首は振るけれど、宗春の唇は落ちかかって来る。
二人ながら全身汗に濡れ、二人ながら吐く息まるで火だ!
その間も香炉からは煙りが立ち、微妙に部屋を
浜路グッタリと首を垂れた。そうしてヒョロヒョロとよろめいた。全く力が尽きたらしい。
しかしこの時左手の扉、そこの鍵穴がカチカチと音立てたことを聞き遁がしてはならない。お絹が扉を開けようと、畳針を鍵穴へ入れたのである。そうして岩床が次第次第に、一方へ
誰が宗春と浜路とを、地獄の責め苦から救い出すか?
その同じ日の夜であった、七ツ寺の蝮酒屋、そこの腰掛けに腰かけているのが、大蛇使いの組紐のお仙、今日の言葉でいう時は、女給に住み込んでいるのであった。
蝮酒屋と云ったところで、蝮酒ばかりを飲ませるのではなく、普通の居酒屋に過ぎないのであったが、所望によっては蝮酒も飲ませた。
この当時の七ツ寺、大須と同じ盛り場で善男、善女も参詣すれば、いなせな兄さん達も集まって来る。屋台店もあれば小料理屋もあり、大道芸人などもいたらしい。
お仙が美しいというところから、経師屋連や狼連が、近来とみに増加して、蝮酒屋は繁昌した。
その日も酒場は客で埋ずまり、元気のよい会話が交わされていた。
隠せば現われるという奴だ、宗春卿のお行方が、知れなくなったという噂、それが話の中心であった。
「けぶな話っていう奴さ、一国の殿様がなくなったんだからなあ」こう云ったのは地廻りらしい男。
「ナニサ、俺らの思うには、ああいう立派な殿様だ、時頼さんの心意気で、諸国漫遊に出られたんだろう」こう云ったのも地廻りらしい男。
「佐野の渡り辺で藪蚊に食われ、飛び込んだ百姓家に別嬪さんがいて、その名を常世さんと仰せられ両人ひどく話が合い、引っ張って来てお妾さん、そこで三人の腰元を付けたが、お梅さん桜さんお松さん、この地口はどんなもので」こいつは不忠者に相違ない。
「
「いらっしゃい」と云ったが組紐のお仙、まだ仁右衛門を知らなかった。御岳にはしばらくいたけれど、萩原へ行ったことがないからである。「お
「さようさな、お銚子を」「はいはい」と誂えを持って来た。
チビリチビリと嘗めながら、仁右衛門聞き耳を立てている。道人さがしに出かけたが、これぞと思われる噂も聞かず、通りかかったのが七ツ寺、評判の高い蝮酒屋、客の出入りも多かろう、噂を聞かないものでもないと、そこではいって来たのである。
と、はたして一人の若者、こんなことを云い出した。
「殿様の紛失も不思議だが、
「あああいつか」ともう一人の若者、すぐに応じたものである。「俺も
こいつを聞くと萩原仁右衛門、首を延ばしたものである。「失礼ながらそのお方は、どんなご様子でございましたかね?」
突然仁右衛門に声をかけられ、その若者は
「へい」と云って仁右衛門を見たが、なかなか立派な
こいつを聞いた萩原仁右衛門、有難いと呟いたものである。「道人様に相違ない。ヤレヤレやっとおり場所が知れた。急いで行ってお目にかかろう。なるほどなるほど道人様としては、賑やかな市中などに住まれるより、御器所の森というような、人気のないところへ住まれる方が、似つかわしいというものだ」
「ようこそお教えくださいました。有難いことで、お礼申します」礼を云うと勘定を払い、トツカワと
「おやおやそれでは道人様は、御器所の森にいるのかしら。有難いねえ、行ってみよう。山影さんの尋ね人、真っ先にその人を探しあて、山影さんへ知らせた者が、山影さんの奥様になれる。御岳で約束した筈だ。いやいやそれよりひょっとかすると、道人様とご一緒に、山影様がおられるかもしれない」
「暗い暗い夜の御器所、提灯がなければ見さかいが付くまい」
帳場へ飛び込むと提灯を借り、火を灯もすと駈けだしたが、奇怪な活劇を
闇にとざされた御器所の森! 一点の火光の浮かんだのは、お仙の持っている提灯である。
「御器所の森の大木といえば、
呟き呟きやって来た。やがて辿りついた大杉の木の前、お仙改めて提灯をかざし、グルグル根もとを廻ったが、道人様もいなければ、人っ子一人いなかった。
「いないじゃアないか詰まらない。さっきの話しは出鱈目だったかしら」
すこしガッカリして佇んだ時、「お女中」と呼ぶ声が
「おや先刻のお客様で」
「おおこれは蝮酒屋の……」
仁右衛門意外に感じたらしい。
「若いお女中が一人身で、こんな寂しい森の中へ、何と思って参られたな?」
「はい」と云ったが組紐のお仙、相手が真面目らしい人だったので、「尋ねる方がございまして、それで参ったのでございます」
「ああさようで、それはそれは、実は私も尋ね人があって、それで参ったのでございますがな、うかと提灯を持って来ず、閉口をしておるところ、ご迷惑でなくばその提灯、ちょっと貸してはくださるまいか」
「いと易い事でございます。さあさあお使いなさいまし。……あのそうしてお尋ねなさる方は?」
「薬草道人と申してな、御岳から参った医聖でござる」「まあ、そうでございましたか。それでは妾と同じこと、妾も薬草道人様を、さがしているのでございます」
蝮酒屋の給仕女が、薬草道人を探していると聞き、萩原仁右衛門案外に思った。
「それはそれは似たような話で。どういうご用でお探しかな?」
「はい」と云ったが組紐のお仙、まさか恋人を探すツテに、薬草道人を探すのだとは、心が咎めて云えなかった。「名薬お持ちと承わり、お尋ね致しておりますので。あのところであなた様は?」
「さよう私は」と云ったけれど、蝮酒屋の給仕女に、詳しい話をしたところで、仕方がないと思ったのだろう。「やはり名薬を戴きたいものと、それでお尋ねしておりますので。どれ、それでは提灯を」
「さあお使いなさりませ」
提灯を受け取った萩原仁右衛門、その辺をグルリと見廻ったが、道人どころか犬もいない。と、眼を付けたは大杉の木。
「はてな?」と呟くとトントンと打った。「うむ、これは空洞だ」耳を幹へ押さえ付けた。「おかしいなあ、物音がする。待てよ」と云うと提灯を上げ、仔細に杉の木を調べたが「ははあそうか、
昔は水戸家の名ある武士、間道を見破ったものである。
「杉の木、間道である限りは、観音開きがなければならない」ズーッと幹を撫で擦った。「こいつだ!」と云うと一所を、グイと仁右衛門力まかせに押した。と音もなく大木の幹、縦二間横一間、合わせた掌をひらくように、グーッと開いたものである。
「あっ、階段が!」とお仙が云った。
「さよう」と仁右衛門すぐ応じた。「奇嬌を愛する道人様、こういう所に住まわれるかも知れない。拙者ははいって探索致す。どうなされるな、そなたには?」
「はい、それでは妾も」
「参られるか、では一緒に」
中へ入り込んだ仁右衛門とお仙、階段は広く並んで歩ける。次第次第に下りて行く。と足もとから
「誰か確かに人がいる。それも男と女らしい。……事件が起こっているらしい」
「何んだか恐ろしくなりました。引っ返そうではございませんか」気丈でもお仙女である、小気味が悪くなったらしい。
「さようさ」
と、仁右衛門も躊躇した。
で二人佇んだ。
女の叫び声、男の呻き声、いよいよハッキリ聞こえて来る。つれて淫らな音楽の音色! と、ドンドンと戸でも蹴るような、烈しい音が聞こえて来た。カチカチカチカチと錠を開けるような音! それを通してギギーという、大盤石でも動かすような音!
何か恐ろしい罪悪が、地下室で行われているらしい。
「行こう!」と仁右衛門階段を下った。
「では妾も」と組紐のお仙。
さて充分用心をし、最後の段まで下りた時である。
「ヤッ、
「山影様が!」とつづけてお仙。
「やッ、薬草道人様!」またも仁右衛門叫び声を上げた。
「おッ、お吉様もおいでなさる! おおそうして伊集院めも!」組紐のお仙の叫び声!
萩原仁右衛門と組紐のお仙、最後の段に立った時、地下室に起こった光景はといえば、ザッと次のようなものであった。
一人の立派な侍が――すなわち尾張宗春であったが、両手で浜路を抱き縮め、まさに床上へ倒そうとしていた。と、その部屋の左手の扉が、ガチンとばかりに開けられた。その戸口から見えたのは、一人の女――鷺組のお絹、そうして山影宗三郎であった。
それと同時に右手の扉が、凄じい勢いで蹴放された。そうして顔を覗かせたのは、山形三弥と山路紋右衛門、他城中の捜索隊であった。
その一瞬間に酒場の浜路、最後の勇気を腕へこめ、尾張宗春を突き退けた。で浜路は反動的に、隣り部屋の方へよろめくし、宗春は床の上へ転がった。
とたんに床が一方へ傾き、そこへ隙間があらわれた。その隙間から見えたのは、薬草道人と六文のお吉、そうして紅丸と猪十郎!
で宗春はその隙間から、ゴロゴロと床下へ転がり落ちた。その床下は水路であって、薬草道人の一行が、小舟に乗って浮いている筈だ。そこで尾張宗春は、薬草道人の一行のために、助けられたということになる。
さて浜路はどうしたかというに、隣り部屋の方へよろめいた刹那、隣り部屋から一個の人物――黒の衣裳に小袴をつけた、短身肥満童顔の男が、すなわち島津太郎丸が、ツト両腕を差し出したかと思うと、浜路を隣り部屋へ引きずり込み、ビーン境いの戸を閉じた。もっともその時太郎丸の
それから起こった光景はと云えば、床が傾いたので
で、宗三郎とお絹とは、そのまま後へ引っ返し、城中から来た捜索隊も、同じく後へ引っ返し、そうして仁右衛門も組紐のお仙も、空洞の階段を伝わって、逃げ出さなければならなかった。
主要の人物地下において、偶然顔を合わせたのであったが、またもや四方へバラバラと散り、別れ別れになったのである。最も憐れなのは娘の浜路で、太郎丸の手に捕えられたからは、いずれ恐ろしい目に逢うことであろう。
さてその時から幾時間か経った。
上名古屋の大密林、そこに出来ている間道口、その口からヒョッコリ現われたのは、鷺組のお絹と宗三郎であった。
意外の出来事、意外の火事、そのため宗春を助けることも出来ず、同じ間道を伝わって、ここまで逃げて来たのである。
「ああ
もちろん宗三郎も
「いや拙者も、すっかり参った」
同じく草へ坐り込んだが、しばらく二人とも口を利かない。
今度の出来事、宗三郎にとっては、一切合切夢のようであった。……
「そうして舟にいた気高いような老人! 一見さながら仙人だったが、どういう身分のお方だろう?」考えているうちに眠くなった。あまりに
山影宗三郎眠くなった。でウトウトと眠り出した。眠くなったのは彼ばかりでなく、鷺組のお絹も眠くなったらしい。やはりウトウトと眠り出した。まことに無理もない話である。意外の事件から意外の事件、心も体も
だがはたしてこんな場合に、眠ったりしてよいものだろうか? どうも眠ったのは失敗らしい。
サラサラサラサラと草を分け、忍びやかに走って来る足音がした。二丁の駕籠を守りながら、数人の男女が現われた。
「おい」と一人が囁いた。「駕籠を下ろせ、そっと下ろせ」それは伊集院五郎であった。「しめたしめた、間に合った。山影宗三郎め
「それにさ、ご覧よ、お絹までが、いい気持ちそうに眠っているじゃアないか」こう云ったのはお紋である。
「さすがは島津太郎丸様、上名古屋に通っている間道は、道が険しくて歩きにくい、すぐに追っかけたら間に合うだろう、トヤ駕籠を持って行ってしょびいて来い、こうおっしゃったがお言葉通りだ」
「ではソロソロ取りかかろうか」
「よかろう」というと伊集院五郎、「オイ喜三太、オイ嘉市、駕籠の扉を引きあけねえ」
トヤ駕籠使いの喜三太と嘉市、「合点!」というと扉をあけた。同時にお紋と伊集院、大声で叫んだものである。
「山影氏! 山影氏!」
「お絹さん! お絹さん!」
眼を覚ました二人の者、ギョッと驚いて飛び上がったが、もう遅い、スルスルスル、トヤ駕籠の中へ引っ込まれた。
と、扉が閉じて錠が下りた。
「やれ!」という伊集院の声! つれてポンと駕籠が上がった。タッタッタッと遠慮は入らない、今度は高く足音を立て、密林をくぐって走り去ったが、この時二人の人物が、
「先生、何者でございましょう?」一人の人物が囁いた。三十格好の人物である。
「さあ、
「ご覧よ、松前」とその人物、空を仰いだが云ったものである。「
東北の空を眺めやった。
しかし門下の松前という武士には、まだ天文未熟のためか、五帝座を貫いている不吉の赤気も、五諸侯星座の動揺しているのも、観望することが出来なかった。
だがいったい儒者風の人物、どういう身分の者だろう。
儒者風をした高朗たる人物、その門下らしい松前という若武士、林を通して空を仰ぎ、しばらく天体星の
「ここは見にくい、外へ出よう」
儒者風の人物歩き出した。
林の外に丘がある。そこへ上った二人の者、今は
「ね、ご覧」と儒者風の人物、「五帝座の中心
さも意外というように、儒者風の人物声をはずませた。
「松前、松前、あれが見えるかな、幸臣星の傍らに、形は小さいが光の強い、気味の悪い
「は、そう云えば幽かながら……」
「あれは江戸では見えなかった星だ」
「
「幸臣星座の一つではない」
「新しく産まれた星のようで」
「幸臣星座の西手にあるのが、
「はいさようでございます」
「そこから迷い込んだ星とは見えない」
「
「幸臣星座の北手にあるのが、宿衛を
「はい、さようでございます」
「そこから迷い込んだ星とも見えない」
「御意の通りにございます」
「そこで勢い五諸侯星座から、遣わされた星と見てよろしい」
「これはごもっともに存じます」
「しかもその星がせせっている、幸臣星の光をな」
「ははあ、さようでございましょうか」松前にはそこまでは解らないらしい。
「ううむ」とにわかに儒者風の人物、一種不思議な呻き声を上げた。「術語で云えば
「いえ、私には見えませぬ」
「そうであろう、これは見えまい。がともかくも行ってみよう」
「先生、どちらへ参りますので?」
「黒気の立っている場所へだよ」
この頃例のトヤ駕籠は、島津太郎丸の大屋敷の、表の門へ横着けされた。
門をはいると建物を廻り、広い中庭へ舁ぎ込まれたが、そこに一宇の別棟があり、そこの雨戸があけられた。と、見えたは牢格子!
太郎丸の屋敷の中庭の建物、そこの戸が開くと牢格子、ははあさては秘密に作った、牢屋がそこにあると見える。
そこまで舁ぎ込んだ二丁のトヤ駕籠、
「おい、扉をあけろ」と伊集院が云った。
と牢格子がガラガラと開く。
「さあ今度はトヤ駕籠の戸だ」
声に応じて喜三太と嘉市、トヤ駕籠の戸をポンと開けた。すなわち仕掛け、そのとたんに、山影宗三郎と鷺組のお絹、ドンと牢内へ投げ出された。と牢格子がガラガラと閉じ、伊集院をはじめ烏組のお紋、喜三太、嘉市も立ち去ってしまった。
こうしてお絹と宗三郎とは、真っ暗の牢屋へ完全に、敵のために捕虜にされてしまった。
驚いたのは二人である。
「お絹殿ひどい目に逢いましたな」
「ちょっと油断をしたばかりに、とんだことになってしまいました」
溜息を吐くばかりである。
「ここはいったいどこでござろう?」
「さあ、トンと妾には」
お絹にも想像が付かないらしい。
「お絹殿」と改めて宗三郎が訊いた。「昨朝以来不思議なことばかり、どうにも拙者には見当が付かぬ。あの上名古屋の密林で、偶然そなたをお助け致し、爾来そなたの乞いにまかせ、地下の間道へも参りましたが、その根本の理由については、まだお話しを承わっていませぬ。この際お明しを願いたいもので」
「これはご
「さよう」と云ったが宗三郎、ちょっとくすぐったい思いがした。
「お絹殿にもご存知かな?」
「はい、その方の助けを借り、宗春様の居場所をたしかめ、また間道口の一方の口を、知ることが出来たのでございます」
「そのお仙だが、地下の部屋で、チラリと顔を見かけました」
「間道口のもう一方の口、
宗三郎とお絹との会話、闇の牢内で尚つづく。――
「その組紐のお仙と一緒に、顔を覗かせた五十格好の人物、お絹殿にも見られたであろうな?」こう云ったのは山影宗三郎。
「見かけましてございます」
「あれは萩原仁右衛門と申し、元は水戸家の立派な武士、拙者御岳におりました際、一
「その浜路様とおっしゃるのは、宗春様のために可哀そうに、乱暴な目に合わされようとした、あの娘さんでございますね」
「いかにもさよう、あの娘でござる。それはそうとその浜路殿を、隣室へ引き入れた気味の悪い武士、あれはいったい何者でござろう?」
「さあ妾も存じません」
「その人物の
「その人と並んで立っていた女あれが烏組のお紋と申して、妾の相手でございます」
「と云うことであってみれば、彼ら一団はグルと見てよろしく、島津の廻し者でございましょう」
「したがってここは彼らの本陣、
「どうかなしてここから出たいものだ」
「是非逃げなければなりません」
闇である。真っ暗である。牢の構造さえ見ることが出来ない。
「彼らにとらえられた浜路殿、我らと同じくこの屋敷内に、とじ込められているかもしれぬ。これも助けてやりたいものでござる」ややあって宗三郎こう云った。
「そうして妾はどんなことをしても、宗春様をお探しし、ご無事にご帰城致させねば、使命をとげることが出来ませぬ。それにいたしても床下の水路、小舟の中にいた乞食のような老人、どうやら尾張宗春様を、お救いしたようではありますが、善意か悪意かその辺のところ、心もとなく思われます」
「何んとなく人間放れのした、
「はいチラリとではありましたが、見かけましてございます」
「あれも拙者の懇意の女、御岳うまれのお吉と申して、私娼ではあるがしたたか者。それに致してもあの女まで、この名古屋に来ているとは? そうしてあんな老人と一緒に、あんな水路にいようとは? 何が何だか見当が付かぬ」
「山影様」とその時である、鷺組のお絹囁くように云った。「ここを運よく今夜にも、遁がれ出ることが出来ましたら、七ツ寺にある蝮酒屋、そこをお訪ねなさいまし、あなたを命かぎり焦がれているお仙様がおいででございます」
しかし宗三郎は答えなかった。不意に声に出して云ったものである。「水路の舟にいたあの老人、薬草道人に相違ない!」
だがいったいどういうところから、そういう断定が出来たのであろう?
「水路の舟にいたあの老人、薬草道人に相違ない!」
宗三郎のこう思ったには、大した理由はないのであった。衣裳がひどく穢いにも似合わず、容貌が非常に立派であったことと、あんな場合にあんなことをして、宗春を突然助けたことが、超自然的人物に思われたことと、薬草道人と懇意なお吉が、一緒に舟の中にいたことと、そんなようなことを取り合わせてみると、どうやらあの時の老人が、薬草道人に思われるのであった。
「何んのためにお吉が名古屋へ来たか、これは見当が付かないにしても、あの時の姿から推し計れば、やはり私娼をしているらしい。それも最下等の私娼らしい。首尾よくここを逃げることが出来たら、最下等の私娼の
こうは考えたが宗三郎、どうしてここを
「山影様」とお絹が云った。「薬草道人様とおっしゃるのは、どういうお方でございますか?」
「ああそうそう、あなたへは、道人様の身の上について、まだお話ししませんでしたな。拙者の想像に間違いなければ、あの
「そういう立派なお方なら、宗春様をお助けしたのも、悪意からではございますまい。では妾も道人様を目付け、宗春様を妾の手へ、お返ししていただくことに致しましょう」
道人探しの目的は、こうして期せずして一致したが、何をするにもこの
「お絹殿、思案はござらぬかな?」
「さあ」と云ったがお絹にも、よい考えがないらしい。「同じ忍び衆の烏組の連中、おそらく牢を取り巻いて、守っていることでございましょう。これが
「我々二人が捕らえられたことさえ、知っている者はない筈でござる。自然助け手はございますまい」
「困ったことでございます」
「いや全く困りました」
その時人の足音がした。
「誰か来たようでございますね」
「さよう」と云ったが耳を澄ました。
だが足音は牢前へは来ずに、少し手前で止まってしまった。と錠をあける音がした。つづいて戸の開く音がした。すると不思議にもどこからともなく、牢内へ光が射して来た。ほんのわずかな光である。オヤと二人は見廻してみた。厚い板戸の割れ目から、一筋射しているのであった。素早く宗三郎走り寄り、割れ目へ眼をあてて覗いて見た。隣りの部屋も牢造りであった。一人の女が仆れている。意外にもそれは浜路であった。浜路の側に
その側にいるのは伊集院とお紋、よくないことを巧らむらしい。
ここは浜路のいる牢獄である。浜路気絶をして仆れている。はだけた襟、みだれた裾、ほころびた袖から見えているのは、山の女神を想わせる、豊満した美しい肌である。
それを見下ろしている三人の男女、太郎丸とお紋と伊集院、その眼付きは嬉しそうである。わけても太郎丸の眼の中には、淫蕩の光が漲っている。
「いいな」と太郎丸は云い出した。「俺はな、一眼見た時から、悪くないなと思ったものさ。宗春へやるのが惜しくなったものさ。と云って宗春へやらなければ、俺達の目的はとげられない。そこでやることはやったものの、いい気持ちはしなかった。ところで宗春めはあんな事情で、水路の中へ落ち込んでしまった。この女をやる必要はない。そこで俺が宗春の代りに、この
ノッソリと太郎丸、近寄ろうとする。
隣室で見ている宗三郎にとっては、これ以上の苦痛があるだろうか! いま、恋人浜路は気絶していて、抵抗することが出来ないのである。そうして自分はどうかというに、牢の板壁に距てられ、助けに行くことが出来ないのである。
「浜路殿、浜路殿、おお浜路殿!」
と、宗三郎は叫びながら、烈しく板壁を拳で打った。
「お眼さましなされ、浜路殿! 危険が、危険が逼りおりまするぞ!」
すると引き添っていた鷺組のお絹も、同じく板壁を叩いて叫んだ。
「浜路様とやら、お眼さましなされ! 女の命、命より大事なものが悪党ばらに!」
すると伊集院五郎の眼が、板壁の方へ注がれた。
「叫んでおるのは山影氏と、鷺組のお絹、ご両所そうな。板の割れ目から見えるらしい。よろしいよろしい、よろしくご覧、山影氏の恋女、酒場の浜路がどんな運命になるか! しかし、これほどの美しい娘、決して決して殺しはしない。その点だけはご安心、懸念はいらぬ懸念はいらぬ。が、貴殿としては心外でござろう。ただし拙者にはよい復讐、御岳では随分苦しめられたからの。ゆるゆるご覚悟、窒息的見物!」
この間も襦袢は脱がされて行った。
その時隣りからお絹の声! 「浜路様、浜路様、浜路様! 眼をお覚ましなさりませ!」
するとお紋がそっちを見た。
「オイお絹さん、気の毒だねえ、お前さんにしても口惜しいだろう。うまうま
と云った時太郎丸、フッと
闇黒の中で罪悪が、今やとげられようとするのであろう。
と、廊下から声がした。
「太郎丸様へ申し上げます」
「何んだ!」
と太郎丸の不平声。
「あの、ご来客にございます」
「誰だ?」とまたも太郎丸。
「西川
「ナニ」と太郎丸驚いたらしい。「ほほう珍らしい客人だの。これは是非とも逢わずばなるまい……いずれ珍味はゆるゆるとな」
牢格子の開く音がした。太郎丸はじめお紋、伊集院、揃って外へ出て行ったらしい。後は闇! 物音もしない。その闇の中で裸体の浜路、尚気絶しているらしい。
「浜路殿、浜路殿!」と宗三郎。
「お目覚めなさりませ!」と鷺組のお絹。
それが通じたかホーッという、正気づいた浜路の声がした。
「おお寒い!」とまた浜路、「あッ、妾は
その時忍びやかに庭を歩く、人の足音が聞こえて来た。だんだん牢屋の方へ近寄って来る。
忍びやかに庭を歩く人の足音、普通の人には聞こえないが、そこはお
「
「さようかな」と云ったものの、山影宗三郎には聞こえない。「警護の者どもでございましょう」
「いえ」とお絹、やはり小声で、「そんな者ではございません。もし警護の連中なら、忍び歩く必要はございません。太郎丸の館の者ではなく他の方面から忍び込んだ、それも武芸者でございます」
「もしやそれでは救いの手でも?」宗三郎真剣になり、じっと耳を澄ました時、庭にあたって
「誰だ!」という声! と同時に、「アッ」という悲鳴がした。ドッタリ人が仆れたらしい。ほんの瞬間のことであった。広い館、広い庭、まさしく
「ね」とお絹囁いた。「誰だと咎めたのが警護の者で、アッと叫んだのも警護の者、忍び込んで来た足音の主に、切り殺されたのでございますよ」
「これはいかにも」と宗三郎、「ではいよいよ忍び込んだものは、我々を助けの手でござろう」
「そうありたいものでございます。……おッ、山影様、おききなされ、雨戸をコジ開けていますよ」
「ああいかにも、コジあけております」今度は宗三郎にも解ったのである。
コトンコトンとコジ開ける音! しばらく続くと急に止んだ。と、スーと戸の開く音! 廊下を
不意に忍び
「
「や」と驚いたのは宗三郎、その
「萩原殿か? 仁右衛門殿か?」
今度は先方が驚いたらしい。「そういうあなたは山影様? あなたまでが捕らわれて?」
「さよう」と云ったが宗三郎、「が、それにしても仁右衛門殿、どうしてここへは忍び込まれたな?」
「例の地下室でのあの出来事、浜路、隣室へ引き込まれ、
「おおさようか、よく解りました。……浜路殿には隣りの牢に」
「それは何より、では両方! しかし
その時進んだのがお絹である。
「仁右衛門様とやら
「そういうあなたは?」と驚いたらしい。
「大事ござらぬ」と山影宗三郎、「我々の味方、水戸の忍び衆、
「して小柄は?」と萩原仁右衛門。
「折悪しく失った畳針……」
「拙者も大小をもぎ取られ」宗三郎
「で、小柄さえございましたら、こんな牢など手間暇いらぬ、すぐに破ってお目にかけます」
「さあ小柄! それから大小」仁右衛門牢格子から差し出した。「庭で叩き切った警護の武士から、浜路へ渡そうと存じましてな、奪い取ったところの大小でござる」
「千万お礼!」と宗三郎。
その時シトシトと廊下づたい、近寄って来る人の足音!
まさに脱牢しようとした時、近寄って来る足音がした。
「見廻りと見える、機を失したかな」仁右衛門そっちをうかがった。
「牢さえ出ればこっちの者、手向かい致さば死人の山」宗三郎意気込んだ。「お絹殿、お絹殿、早く錠を!」
「はい」というとガチンと音! 同時に牢屋口がグーッと開いた。
「隣りの牢を!」
と三人ながら、ヒラリと牢前へ飛んで行った。
ガチンとふたたび錠の音! 苦もなくお絹あけたのである。
「あッ、どなたか! お助けくだされ!」
脅えて叫ぶ浜路を制し、
「父だ!」と仁右衛門声をかけた。
「拙者、山影宗三郎! お助けに参った、早々これへ!」
飛び出して来た娘の浜路、「お父様!」と縋りついた。既に衣裳はまとっていた。つづいて、「山影様!」と呼んだものである。
「さあ、雨戸を!」
と鷺組のお絹、スッと雨戸をあけたとたん、
「脱牢でござるぞ! 方々出合え!」
足音の主廊下へ現われ、大音声に呼ばわったは、見廻りに来た伊集院であった。
ここで物語後へ帰り、館の奥の一室となる。
向かい合っている二人の武士、一人は島津太郎丸、一人は上名古屋の密林で、天文を見ていた高雅の老人、これぞその時代
「これは求林斎、よく参られた。いつも変らずたっしゃだの」
「殿にも益ご健勝、大慶至極に存じます」
西川正休月並みの挨拶。
「これこれ何んだ、求林斎、他人行儀はやめてくれ、お互い林家の門に学び、いわば同門の仲というもの、いけないいけない
「
「面白くないな、求林斎、今さらお大名を奉つるような、卑屈のそちではない筈だが。それはそうと求林斎、その後続々良書を
と、求林斎西川正休、一膝膝を進めたが、
「殿、私にとりましても、殿が名古屋などにおわそうとは、夢にも想像しませんでした」
「なるほど」と云ったが太郎丸、ヒヤリとしたような表情をした。「うむ、ナニ、ちょっと用事があってな」
「殿!」と正休また進んだ。「悪あがきはお止めなさりませ」鋭い調子で云ったものである。
悪あがきをするなと正休に云われ、太郎丸はドキリとしたらしい。
「何んのことだな、悪あがきとは?」
すると正休睨むようにしたが、「殿には虞書暦象俗解を、ご愛読くだされたと申すこと、ではご存知と存じますが、国に
「さあ」と云ったが太郎丸、いよいよもって気味悪そうに、「盗み星めが現われるとあったが」
「はい、さようでございます。殿、しかるに盗み星めが現われまして、ございますぞ」
「ほほうさようか、困ったものだな」太郎丸わざと空トボケ、「では
「たしかに
「こんな結構な太平な世に、謀反人が出たとは呆れ返ったものだ。で、どの辺へ出たものかな?」太郎丸いよいよ空トボケる。
「お屋敷の真上の空にあたり!」
「何!」と太郎丸吠えるように云った。
「実は」と正休冷静に、「先ほどのことでございました、上名古屋の丘の上で、それを見たのでございます。見れば盗み星から一道の
「うむ」と云ったものの太郎丸、後の言葉が続かなかった。しかし心では思ったものである。
「恐ろしいものだな、天文というものは。いやそれより恐ろしいは、この西川正休だ! 俺の本心を見破ったらしい。
そこで何気なく云ったものである。
「俺はな、これまでただの一度も、盗み星というものを見たことがない。求林斎俺に教えてくれ」
ズイと立って縁へ出た。
「よろしゅうござる」
と西川正休、つづいて縁へ立ち出たが、蒼々と晴れた夜の空を、グッと見上げたものである。
「殿、あの星でございます」
「どうも
庭下駄を穿くとスタスタと出た。
つづいて立ち
「殿、あの星にございます。気味悪い
「どれどれどれだ、ううむ、あれか」
云いながら正休の背後へ進み、小刀の柄を握りしめた。
「殿、お見えでございましょうな」
「…………」
太郎丸のジッと見ているのは、星ではなくて正休の首!
首を狙われているとも知らず、一世の
「殿、人間は欺けても、自然律だけは欺けません。天地人の三才は、不可抗力の自然律に支配されているのでございます。で人界に異変があれば、すぐ天体に影響します。おッ!」
と正体どうしたものか、にわかに驚嘆の声を上げた。
「これは不思議だ! これは
「ならぬ」
と太郎丸一喝した。抜いた刀を持っている。
「これ」と太郎丸刀を上げた。「帰すことはならぬ! どこへもやらぬ!」
その様子を見た西川正休、驚いたかというに驚かなかった。
「ははあ拙者をお手討ちかな」
「まずそうだ、学問の祟り!」
「ほほう、それはどういうわけで?」
「拙者の本心を見抜いたからよ」
「よろしい、お手討ちなさるがよい」
「うむ」と云ったがジリジリと進んだ。とにわかに声を落とし、「これ求林斎、ちょっと聞きたい、その天禀星の主の
「盗み星の主の正体を、見現わしたところの拙者でござる。もちろん、天禀星の主といえども」
「そうか、解るというのだな」
「目付けないでは置きませぬ」
「よし」と云うと刀を納めた。
「目付けて俺に教えてくれ」
「え?」と正休訊き返したが、
「ははあ、それではご前には……」
「大望の邪魔する天禀星の主、目付かり次第叩っ切るのさ、求林斎それまではそちの体、屋敷内から
その時であった、中庭の方から、「脱牢でござる! 方々出合え!」と、伊集院の声が聞こえて来た。
バタバタ駈けて来たのは
「馬鹿め!」と一喝した太郎丸、「とらえろ! とらえろ! どんなことをしても捕らえろ! 陰謀を知っているあいつら三人、取り逃がしては露見の基! 兵を繰り出せ! 烏組を繰り出せ! 手にあまったら切ってすてろ!」
この頃宗三郎と萩原仁右衛門、鷺組のお絹と娘の浜路、一団にかたまって中庭を、裏門の方へ走っていた。
戸をあける音! 馳せ出る音! 屋敷に詰めている数十人の武士、
鷺組のお絹ガッチリと、閂へ両手をかけた時、敵ムラムラと追い
「それ捕まえろ捕まえろ!」
「何を!」と振り返った宗三郎、逆に敵中へ飛び込んだが、既に刀は抜き持っていた。選んで討ち取る暇はない、真っ先に進んだ二人を、
二人討たれて、バラバラと逃げる敵に眼もくれず宗三郎、「浜路殿! 浜路殿! 敵の得物を!」
「はい」と云うと娘の浜路、斃れた敵に飛びかかり、握っていた刀をもぎ取った。浜路得物を得たのである。
ガラガラドーンと閂の音! グーッと門がひらかれた。
「さあさあ皆さん、揃って外へ!」鷺組のお絹の叫び声!
外へ飛び出した男女四人!
「山影氏!」と萩原仁右衛門、「一まず
「引き上げましょう、それから手段!」
「娘よ娘よ!」とまた仁右衛門、「はぐれるなよ! しっかり続け!」
「はい、お父様、大丈夫!」
「方角はこっち! おいでなさりませ!」お絹真っ先にトッ走る。つづいて三人、ひた走る!
「逃がすな! 逃がすな!」と門内より、忽ち現われた無数の敵! 一団となって追って来た。
こっちの四人、女連れだ、
「山影氏!」と萩原仁右衛門、「ご苦労ながら一人二人!」
「心得てござる! 貴殿にも!」
「もちろんのこと! では一緒に!」
グルリ振り返った宗三郎と仁右衛門、返しはしまいとタカをくくり、不用意に逼まって来た敵中へ、一踴黒々と飛び込んだ。キラリと刀身二本上がる! 斜めに落ちたとき二声悲鳴! 仆れる音に退く音!
「娘よ!」と仁右衛門引っ返した。
遙かに逃げのびた浜路の声、「お父様お父様! ここにいます! 山影様山影様!」
「浜路殿!」と宗三郎、仁右衛門と揃って引き上げる。「お絹殿お絹殿!」
「こっちへこっちへ!」とお絹の返事!
一緒になった四人の男女、ひた走るひた走る
だがいつまでも追い逼まる敵! しかし御器所の森林は、四人の前へ近づいて来た。森へはいったら大丈夫! 木蔭に隠れ、藪に隠れ、暁を待つことが出来るだろう!
もう一息だ! 走れ走れ!
森の口まで行きついた時、ムラムラと現われた多勢の人影!
「それ引っ包め! 討って取れ!」
敵の伏勢いたのである。
「山影氏!」と萩原仁右衛門、「いかが致そう! ご思案は!」
「さよう」と云ったが宗三郎、ふと思い付いたことがある。「市街へ出て行き、七ツ寺、蝮酒屋で、落ち合いましょう! 知人がおります、拙者の知人! しかし成るたけ、離れぬように!」
森を廻って町の方へ、四人懸命にひた走る! だが前後より
「方々!」と山影宗三郎、「背中を合わせて、
四人背中をもたせ合わせ、四方に向かうを
浜路にお絹に仁右衛門に宗三郎、ピッタリ四巴に背中を合わせ、さあ来やがれとヒッ構えた。そこを目掛けて一人の敵、
二人討たれひるんだらしい。バタバタと後へ退いた。
「蝮酒屋へ! 七ツ寺!」宗三郎声をかけた。
サ――ッと四人走り出した。
出た所が上前津通り、それを西へひた走る。もうすぐだ、七ツ寺! と、左右の横丁から、敵ムラムラと走り出た。グルグルグルグルと引っ包む。二三十人の人数である。先廻りをしていたらしい。
「拙者、血路を! ……それに続いて!」
声を残して宗三郎、前面の敵へ切り込んだ。するとパッと左右に分かれ、それが合すると宗三郎の躯、白刃の下に埋ずもれたが、数合の太刀音! 数回の悲鳴! バタバタバタバタと仆れる音! 敵勢左右にまた開く! 真ん中に立った宗三郎、月光に照らされ
一息吐いた宗三郎、振り返ってみて驚いた。誰も後から続いて来ない。ギョッとして呼んだは、「浜路殿!」
すると遙かから、「宗三郎様!」
引っ返した宗三郎、ふたたび声を響かせた、「浜路殿! 浜路殿!」
「宗三郎様!」と右手の小路!
飛び込んで見ると娘の浜路、三人の敵に囲まれている。
「
左右に
「お怪我は?」「いいえ」「まずよかった」気が付いた浜路、「お父様!」
声に応じて、「ここだ、浜路!」
左手の小路から聞こえて来る。
飛び込んで見れば萩原仁右衛門、五六人の敵に囲まれている。
「助勢致す!」と宗三郎、太刀を上げると二人を切った。
そこへ飛び込んだ娘の浜路、一人の敵を
そこで三人顔を合わせた。
気が付いて宗三郎、「お絹殿!」
だがどこからも返事がない。やられたかな? 大丈夫! 何んの鷺組の頭領が、
大通りへ出た三人の男女、「さあ揃って七ツ寺へ!」
サ――ッと走るその行手へ、また現われた敵の勢!
「山影氏、今度こそ遁がさぬ!」先頭の一人が呼ばわったが、これ他ならぬ伊集院五郎。
衆を率いて御岳以来の
「うむ、貴様、伊集院か!」山影宗三郎呻いたが、グルリと
伊集院を目掛けて弘法の太刀、すなわち右肩から左胴まで、大袈裟掛けに切り込んだ。
「何を!」とジャリーン伊集院、捨て身に流して払ったが、
「小癪な!」とかわした宗三郎、左手を放すと右の手で、大きく廻して横なぐり、きまれば円明の
が、伊集院、ツツ――と退いた。それを追い込んだ宗三郎、上げた一刀、月光を吸って、青大将のように光るのを、笠に落として脳天を! 受けは受けたが伊集院、
「やられる、やられる!」と
「
ひるんで一人、逃げるのを、太刀を返して宙に
危地を脱した伊集院、崩れた宗三郎の構えを狙い、得意の一手、双手突き! 「どうだア!」とばかり突っ込んだが、三寸を払われて狙いが外れ、のめるところを正面から、「どうだア!」と
太刀を取り直す
ホッと一息宗三郎、「仁右衛門殿!」と呼ばわった。
と遙かの東方から、「山影氏! 山影氏!」
「うむ、ご無事か!」と一散走り、追っかけながら前を見た。浜路とピッタリ背中を合わせ、萩原仁右衛門構えている。それを包んだ敵の数、十人近く思われたが、生け擒りする気か切って行かぬ。
そこへ馳せつけた宗三郎、
「
既に手練は知れている、山影宗三郎と見て取るや、気遅れしたか敵の勢、バラバラと露路へ逃げ込んだ。
「お怪我は?」
「幸い!」
「浜路殿は?」
「
「もう七ツ寺、眼の前でござる! もう一息! いざご一緒に!」
三人声を掛け合わせ、走り出した時耳を貫きガ――ッと鳴り渡った
ヌッと進み出た一つの人影、
「オイ」と嘲笑を響かせた、「もういけないよ、お三人さん! 烏組のお紋だ! 捕った捕った!」
次第に円陣を縮めて来た。
烏組のお紋部下を引き連れ、宗三郎、仁右衛門、浜路を包み、その円陣を縮めて来た。
「しまった」と思ったが宗三郎、ナニ大丈夫だ、トヤ駕籠が来ない、たかが女だ、蹴破ってやれ! しかし用心が肝要である、そこで呼ばわったものである。「あいや仁右衛門殿、浜路殿、
嘲笑ったのは烏組のお紋、「せっかく捕らえた鳥三羽、料ってやろうと思ったら、鳥小屋を壊して逃げおったね。そこでもう一度捕らえる気さ。おやおや鷺組のお絹がいないね。その代り
ピョイと飛び返って手を上げた。それが合図かグルグルグルと、数十人の黒小袖の女忍び衆、渦巻のように廻り出した。
「ふふん妙なことをしやあがる」
こう思いながら宗三郎、切り込んで行こうとするのであるが、眼移りがして切り込めない。気が付いて仁右衛門と浜路を見た。これもやっぱり逃げられないと見え、太刀をピッタリ構えたまま、同じ渦中に
「残念」とばかり宗三郎、
またまた合図、その一刹那、数十人の女忍び衆、グルグルグルグル渦巻きながら、一斉に右手を宙へ上げた。風を切ったと思った時、
「何んだこいつは!」と仰天し、思わず手を上げて顔を押えた。鳥モチではないがそんなような物だ。捕り物道具の一種だろう、ベタベタ全身にくっ付いた。引き放そうとしても放れない。
グルグルグルと渦が巻く、ヒラヒラヒラと手が上がる、そのつどそいつが飛んで来る。口を
思いも設けない戦術である。さすがの山影宗三郎も、ハッ、ハッハッと息を切らし、顔を地へ垂れ太刀を捧げ、キリキリと
これほどの騒ぎだ、両側の家では、戸を開け窓を開け窺っている。来かかった旅人が引っ返す。逃げ出す者、見に来る者、人を呼ぶ声、騒がしい。
と、七ツ寺の蝮酒屋、そこの表て戸がコトリと開き、
「何んだろう往来がやかましいが」こう呟いた女がある、お仙である、組紐のお仙!
と、二三人の地廻りらしい男、声高に
「山影とかいうお侍さんが、可哀そうに殺されそうだ」
「山影さんというお侍さん、可哀そうに殺されそうだ」
こいつを耳にした
「もし山影というお侍さん、どこでどいつに何んのために、殺されかかっておりますので?」
こう叫ぶと組紐のお仙、一人の地廻りへ武者振りついた。
仰天したのは地廻りで、ヒャッと喚くと飛び
お仙突然叫んだものである。「妾の大切な宗さんだヨーッ」それから地廻りをコヅキ廻した。
「行っておくれよ、さあ一緒に! 助太刀助太刀! さあ一緒に!」それからまたも叫び出した。「山影さんなら宗さんだヨッ、宗さんなら尋ね人だヨ――ッ」
「あッ、なるほど」と地廻りだけに、お仙が誰を探しているかは、とうに聞いて知っていたらしい。
「おお宗さんなら山影さんだ、山影さんなら宗さんだ! お仙ちゃんの尋ね人! それ行けそれ行け、助太刀助太刀!」
「ちょっとお待ちよ」と組紐のお仙、蝮酒屋へ飛び込んだが、すぐにヒラリと飛び出して来た。小脇に抱えたは例の
「さあさあ一緒に!」「おお合点!」駈け出す行手から五六人の地廻り、またこっちへ走って来る。
「おおご常連、いいところへ来た、さあさあ一緒に行ってくれ!」こっちの地廻り声をかける。
「何んだ何んだどうしたんだ?」向こうの地廻り訊き返す。
「山影さんだから宗さんだ! 宗さんだから山影さん、真っ黒の女がグルグルグル、手が上がってヒラヒラヒラ、そこでお仙ちゃんの尋ね人が、キリキリキリとブン廻る、な、解ったか、助太刀助太刀!」
「どうもハッキリ解らないが、お仙ちゃんのためなら力を貸そう! それ行けそれ行け!」
と走り出す。と向こうからまた地廻り!
「おおおお常連いいところへ来た。山影さんだから宗さんだ、宗さんだから山影さん、山影さんなら尋ね人、お仙ちゃんのためだ。助太刀助太刀!」「合点!」と云うので走り出す。と向こうからまた地廻り!
「おおおおご常連いいところへ来た、山影さんだから宗さんだ、宗さんだから山影さん!」
「俺がその後を云ってやろう、山影さんなら尋ね人、うんそうだよお仙ちゃんの! 一緒に行こう、助太刀助太刀!」
「おや感心知っているのかい!」
見る見る地廻りが集まって、三十人ほどの数になった。先頭に立ったは組紐のお仙! ドッと三丁目へ押し出した。
三丁目へ出たお仙の一隊、見ればなるほど前方にあたって、月光の下に無数の人影、黒々と渦を巻いている。
「あそこに宗さんがいるんだね、さあさあ皆さん来てください!」お仙先に立ってひた走る。つづいて大勢の地廻りども、棍棒やまきざっぽや
既に行き着こうとした時である、一方の小路から十数人の武士、バラバラと出て
「これ
早くも目付けた組紐のお仙、
「おおお前は伊集院さん!」
「や、貴様、お仙ではないか?」伊集院かなり驚いたらしい。
「ああお仙だよ、組紐のお仙! あの両国の
「いや
「そうさ
「おい」と伊集院声を怒らせ、「約束はどうした。茜茶屋での約束!」
「木曽の御岳へ出て行って、宗三郎様をとっ捉まえ、色仕掛けでグニャグニャにし、江戸へ帰そうという約束かえ?」
「うんそうだ、その約束よ」
「御岳で宗さんはつかまえたよ。そうしてお前の悪巧みを、みんな話してしまったよ」
「悪い女だ、約束にもとる! 金を返せ! 五十両!」
「手つかずに持ってはいるけれど、そっちへもどすのはマア止めよう。ケチなお前から五十両、ふんだくってやったと話したらね、宗さん大変喜んでいたよ。機会があったらもっともっと、引っ剥いでやれとこう云ったよ。オイ伊集院さん、もう五十両お出しよ」
「呆れたなア、この女は! でこの名古屋へはいつ来たのだ?」
「宗さんの後を追っかけて、少し前から来ているのさ」
「ははあそれでは宗三郎を捉え、今度こそ色仕掛けでタラシ込み、俺との約束を果たす気か」
「大違いの真ん中だよ、山影宗さんと一緒になり、宗さんに仇するお前さんを、とっちめてやろうとこう思っているのさ。……お
「馬鹿だなあこの女は! 誰が虐めているか知っているか?」
「真っ黒の女だと云うことだよ」
「俺の一味だ、島津の烏組だ! 何んで貴様などやられるものか。ここで逢ったはちょうど幸い、生け擒りにして連れ戻り、江戸以来の思いをとげる。……あいや方々!」と一味を見返り、
「山影、浜路、仁右衛門は、烏組の衆に任せて置き、まず大丈夫と見てよかろう。ご苦労ながらこの女を、ひっ捕えて屋敷へお運びくだされ。直接ではないが間接には、この組紐のお仙という女、敵方の一人と申してよろしい」
「かしこまる!」と二三人、お仙へ向かって飛びかかった。
「馬鹿な
「ワッ」と叫ぶ武士の声!
「首へ巻き付き食い付いたからは、気の毒気の毒命はない! 蝮だ蝮だ蝮!」またも一匹投げつけた。
蝮をピューッと投げ付ける! こんな途方もない兵法が、浮世にあろうとは思わなかった。そこで伊集院もその一味も、ギョッとして一時退いたが、蝮の数にだってキリがある。投げ尽くしたなと思った頃、サーッと一斉に襲って来た。
「さあさあ皆さん助けてくださいよ!」金切り声でお仙が云う。
「よし来た!」とばかり地廻りども、
「この三ピンめ!」「この素町人!」「お仙ちゃんを助けろ!」「お仙めを生け擒れ!」
ここに市街戦がはじまった。
敵の人数を掻いくぐり、お仙、宗三郎へ近寄ろうとするが、駈けへだてられて近寄れない!
伊集院、お仙を捕らえようとするが、これまた地廻りに駈けへだてられ、どうにも近寄って行くことが出来ない。
打ち物の音、喚き声、悲鳴、怒声、仆れる音! 入り乱れる武士と町人の姿!
一方では地廻りが武士を追っかける。一方では武士が地廻りを追う。
人数は多かったがタカが地廻り、薩摩武士には敵うべくもない、だんだん追い立てられぶっ払われ、次第次第に崩れ立った。
「おお、お仙ちゃんもういけねえ、逃げなよ逃げなよ、
二三人が叫び出した。
最後に残った一匹の蝮、そいつを掴んだ組紐のお仙、伊集院と向かい合って突っ立っていたが、
「いけないいけない逃げちゃアいけない! 逃げようものなら承知しないよ! 蝮酒屋へやって来たって、妾お酌をしてやらないよ!」
「え、何んだって、酌をしてくれねえ! ワーッ、そいつア大変だ! 命なんかはどうでもいい、酌をして貰う方が大切だ! ソーレ命なんか捨てっちめえ!」
そこでドッと盛り返した。
今度は武士の方が足が浮いた。
「伊集院殿、やり切れません、相手が武士なら型もつくが、ならず者だけに手に余ります。足をぶっ払ったり腰を叩いたり、変なところで気合いを掛けたり、とんと見当が付きません! 一応引くことに致しましょう」
驚いたのは伊集院、「何を云われる、不届き千万! ここら辺りの地廻りに、負けたとあっては面目が立たぬ、引いたが最後、太郎丸殿に申し、貴殿方の
顫え上がったのは武士どもだ。「禄を剥がれてたまるものか! 命より禄の方が大切だ! それ命をすててしまえ!」そこでドッと盛り返す。すると地廻りが浮き足立つ。お仙が怒って呶鳴りまくる。
「酌をしてやらないよ! 酌をしてやらないよ」地廻りどもが盛り返す。と、武士どもが崩れ立つ。怒った伊集院呶鳴りまくる。「禄を剥ぐぞ、禄を剥ぐぞ!」
そこで武士どもが盛り返す。
ところで一方山影宗三郎、仁右衛門、浜路はどうなったか?
三人息も絶え絶えに、キリキリ廻っているのであった。とバッタリ娘の浜路、精根つからせ仆れてしまった。猛然と飛びかかった一人の烏組、「
精根尽きて仆れた浜路、それを抑えた烏組の一人、「
仰天したのは萩原仁右衛門、「南無三、娘が」と寄ろうとしたが、神気
翻然飛びかかった烏組の数人、「捕ったあ!」とばかり抑えつけた。
最後に残ったは山影宗三郎、仁右衛門と浜路の抑えられたことを、目前に見ながらどうすることも出来ない。グルグル廻る烏組、ヒラヒラ上がる彼らの手、手につれて飛んで来るモチのようなもの、それに呼吸を封ぜられ、進みもならず、引きもならない。頭上に真っ直ぐに太刀を捧げ、キリキリ廻るばかりである。
それも次第に緩慢となり、まず左、それから右、左右へヨロヨロとよろめいたが、「無念!」ととうとう膝をついてしまった。
「捕ったあ!」と叫んだ烏組、数人
最後の勇を振るい起こし、刎ね返そうと宗三郎、背を
ヒューッと一筋捕り縄が出た。それをさばいたは烏組のお紋、宗三郎の首を巻き、キューッと絞めようとした時である、清涼たる鷺笛の音、コーッとばかり鳴り渡った。
それを合図に辻々から、団々として白い物、数を尽くして現われたが、一旦逃げた鷺組のお絹が、屯所へ帰って部下を率い、取って返して来たのである。
「やあ鷺組だ! 用心しろ!」
騒ぎ立った烏組、そいつをグルグルとおっ取り巻き、切り込んで来た鷺組の群、白柄藤巻の
鷺組は文字通り白装束、龍骨灰に眩まされ、敵に所在を見せることはないが、烏組は黒装束、白濛々たるその中でも、黒々と姿が窺われる。そこが鷺組の狙いどころ、追い廻しては叩っ切る。飛び込んで行っては組み伏せる。
大勢俄然一変し、総崩れ立った烏組、右往左往に逃げ廻る。
「オイお紋さん、もう駄目だよ!」お絹の声だ! 響き渡った。「これまでは随分
じっと立ち
今度は右手へ走ってみた。とまたポカリ、
「どんなものだいお紋さん!」お絹の声が愉快そうに響く。
「どんなものだいお紋さん!」濛々たる白気に包まれて、お絹の姿は見えなかったが、声ばかりは愉快そうに響き渡った。「逃げられまいね、逃げられるものか! 右へ行ってもポッカリさ、左へ行ってもポッカリさ、妾の部下だよ、取り巻いているのさ! もう駄目々々、翼を縮め、穏しく降参するがいい。妾は殺生は大嫌い、命まで取ろうとは云やアしない。ふん縛って屯所へ連れて行き、そうさねえ少しは
さすがのお紋も身動きさえ出来ず、怒りに顫えて立っていた。
とまたお絹の声がした。
「さあさあお霜さんお葉さん、そこに仆れている山影さんを、連れて行って介抱しておくれ、くっ付いているモチのようなもの、逆に撫でればすぐに取れる。ナーニ妾にゃア解っている。『
間もなく宗三郎の声がした、「
つづいて仁右衛門の声がした。
「いや有難い、息が出来る」
つづいて聞こえる浜路の声、「有難うございました。正気づきました」
鷺組の連中に介抱され、三人ながら立ち上がったらしい。
依然濛気は立ちこめている。その中で打ち合う音がする。少し離れた方角では、伊集院の一隊とお仙の一隊、いまだに揉み合っているらしい。
見物に来る者、逃げて行く者、雨戸を開ける音、閉じる音、七ツ寺界隈騒然と、戦場のようなありさまである。
一方こんなに騒がしいのに、堀川に添った日置あたり、材木置き場に自然と出来た例の木小屋の静かさと来たら、むしろ
月が斜めに射し込んでいる。で小屋の中がポッと明るい。坐っているのは薬草道人、月光が半面を照らしている。その横にいるのが尾張宗春、端然としてかしこまっている。背後にいるのは猪十郎と紅丸、傍らにあるのは薬剤車、すこし離れてお吉がいる。みんな平和で仲がよい。その一団を取り巻くように、材木の上や船の中に、うごめいているのは何者であろう? それも十人や二十人ではない。百人近くの人影だ。他でもない、モカ達である。
大勢のモカ達を相手にし、薬草道人の人情哲学! さっきから始まっているのである。
「あれはな、この
薬草道人の人情哲学。――
「江戸の大半を潰した地震、あれは随分恐ろしかった。上流の方々も死なれたし、下流の人達も沢山死んだ。そうして吉原の
こう云いながら薬草道人、ヒョイと片足を突き出したが、月光に照らされてその片足、充分美的でないということが、鮮かに証明されたものである。
「ね」と道人云い出した。「どうも浮世の往来というもの、石ッころがあったり茶碗のカケがあったり、凸凹していて歩きにくいなあ。だから行き来の人達は、下駄や草履を穿くらしいが、こりゃア飛んでもない不所存だよ。そんなにも道が悪いのだから、是非とも
「ね」と道人云い出した。「薄くしなければならないもの、それは人間の
ここでしばらく考えたが、一人のモカへ話しかけた。「お粂さんお粂さん、訊きたいことがある。人間は幾通りに分けられるな?」
「はい」というとモカのお粂、即座に答えたものである。「男と、女に分けられます」
「さようさようその通り、簡単でいいな、間違いはない。だが浮世の物知り達は、そんなようなハッキリした分け方を、薄っペラだというらしいなあ。……お杉さんお杉さん、お前の分け方は?」
人間をお前はどう分ける? 薬草道人にこう訊かれ、モカのお杉答えたものである。
「年を取った人と若い人、こんなように分けられます」
「さようさよう」と薬草道人、すぐ愉快そうに
「はい、妾には解りません」お山というモカの返辞である。
これも道人の気に入ったらしい。
「正直でいい、ほんとに正直だ。知らないものは知らないと、ハッキリ云った方がいいからなあ、だが浮世の物知りは、ハッキリ云うのを厭がるようだよ。知らないことでも知っているように見せる。死んだ人の言葉の切り抜きや、毛唐の言葉の切り抜きや、切り抜きばかりを集めて来て、いろいろ沢山例を上げて『知ってるゾーッ』と怒鳴っているよ。いっくら『ゾーッ』と云ったところで、俺はちっとも
いよいよ
「厚手の茶碗というやつは、ひどく脆くてこわれ易いじゃアないか!」
道人またも舌なめずりをした。
「厚手の茶碗はこわれ易い」薬草道人は云いつづけた。「と云うのは質が粗悪だからさ。いろいろ
その時バタバタと足音がした。口々に喚いて走って行く。
「戦争だ! 戦争だ!」「切り合いだ! 切り合いだ!」「島津と水戸とが戦っている!」
「七ツ寺辺は死人の山だ!」
「なに切り合い!」と薬草道人、素早く立ち上がったものである。
「さあさあみんな行くがいい! 膏薬を振り
忽ち引き出された薬剤車! 薬草道人を真っ先に、一百余人の男女の群、七ツ寺を指して走り出したが、依然この頃七ツ寺辺では、乱闘がいよいよ乱闘になり、しかも形勢一変し、島津方が次第に優勢になり、水戸方がだんだん圧迫されて来た。と云うのは鷺組の捕り物道具、刀に仕込んだ白粉が、いつの間にかすっかり出切ってしまい、
と、西南の方角から、無数の
近づいて来たのは道人の一行、真っ先に立ったは美童の紅丸、続いて猪十郎と薬剤車、それに引き添ったは薬草道人、その後から行くのが尾張宗春、そうしてその後から続いたのが、
まさしく異風行列である。
さすがの水戸方も島津方も、この行列には驚いたらしい。期せずして双方左右へ開いた。
「ほほう、みんな威張っているなあ、肩肘張って眼を怒らせ、抜き身を持って大威張りだ。俺は決して笑わないよ、と云ったような顔付きだなあ……だがいったい何んのために、そうそうお前さん達は威張るんだろう。
抜き身を持った島津方の武士、抜き身を持った水戸方の男女! いわば
「他人に真っ向から叱られたら、妾も叱って返します」お霜というモカの返辞である。
「ああそうだろうね。それが本当だ。……お米さんお米さん、お前さんはどうだね?」
お米というモカが返辞をした。
「はい妾は泣き出します」
「ああそうだろうね。それが本当だ。――誰だって真っ向から叱られたひには、腹を立てるか泣き出すかするよ。ところがなア」と薬草道人、またもや左右を眺めだした。「清盛という豪傑さん、頼朝という豪傑さん、義時という英雄さん、尊氏という英雄さん、ろくろく人にお
リーンと響いていい声だ!
しばらく止まっていた異風行列、そこで
「ハイハイみなさん、おさらばおさらば! みなさん
「お渡り!」と紅丸また
レキレキレキ、ロクロクロク! 家々に響き渡る
行列大手近く来た時である。御用提燈を振り照らし、騎馬と
「怪しい行列、引っ包め!」
グルグルグルグルと取り巻いてしまった。
つと進み出たは尾張宗春、
「迎いに来たか、ご苦労であるぞ!」
「あ!」
と云ったが役人の連中、見ればお館、中納言様だ! 驚くまいことか、ベタベタと坐り、大地へ頭をすりつけてしまった。
「俺には構うなこのお方だ!」宗春、道人を指さした。「謹んで城内へお迎え致せ!」それから道人へ
見せたいものがあるによって、是非城中へ立ち寄れという、尾張宗春の言葉を聞くと、薬草道人
「それはそれは結構でござる。骨董品か舶来物かいずれお大名の自慢物、高価な
そこで行列
大手の門まで来た時である。既に城中へは知らせがあった。グーッと城門が一杯に開いた。タラタラと居並んだは無数の家臣、喜色が
二の丸を過ぎると本丸である。東拍子木門から、南二ツ門、南一ツ門を過ぎると大玄関。
と、夜が明けて朝日が出た。ふと振り返った薬草道人、
「地球の夜は明けたってものさ。……だが人間の夜は明けまい」ここで機嫌よく笑い出してしまった。「何んだつまらない、平凡な言葉だ! それにさ、昔から云いふらしている言葉だ! そうは云っても本当だなあ」
中玄関からいよいよ御殿! 無事到着したものである。
ここは城中本丸の御殿、広々と開らけた大広間、その同じ日の正午頃!
正面にいるのは薬草道人、その左右には猪十郎と紅丸、その背後にはモカの群! それと向かい合って坐っているのは、成瀬、竹ノ越、渡辺、石河、志水甲斐の重臣をはじめ、お目見得以上の家臣である。
シーンと静か! 声もない。
だがいったいどうしたのだろう? 宗春卿の姿が見えぬ。
と、襖がサラサラと開き、つと現われたはその宗春! 両手に箱を捧げている。
ピタリと坐ったは道人の前、無言でひらいたは箱のふただ。取り出したは一葉の紙、
「お約束の一品、ごらんくださいますよう」
「ほほう」と云ったが薬草道人、首を延ばすと紙面を見た。「偉い!」と突然云ったものである。
「いやさすがは源敬公、お考えに間違いはない! ……ここに書かれた源敬公のご文章、これさえ心に取り入れて、
「はっ」というと尾張宗春、奉書をささげて読み上げた。
「一朝有事、錦旗
こういう、意味の文章であった。すなわち日本の国が乱れ、京都と江戸と戦う場合には、徳川宗家に背いても、必ず尾張家は京都へ味方し、王事に仕えよというのである。
「さようさようこれでよろしい。昨夜木小屋で俺の云った、一
「しばらく」というと尾張宗春、道人の袖を引き止めた。
「しばらく」と止めた尾張宗春、さも
「さようさな」と薬草道人、ちょっと小首をかしげたが、「没義道に振り切って帰るのも、せっかくのご親切を無にするというもの。ではご厄介になりましょうかな。しかしもちろんわしばかりでなく、ここにいる大勢のモカさん達も、一緒にお世話くださいましょうな」
「いずれなりともお言葉通りに」
「みんな私のお友達でな、一緒にいないと寂しくていけない。……ええとところで夜具布団だが、立派な絹布でございましょうな?」
「は、さようにございます」
「私は絹物が嫌いでな。あいつを見ると詩を思い出す。唐の無名氏の
「それでは新しく木綿をもって、仕立てさせることに致しましょう」
「なにさなにさそれには及ばぬ。新しく仕立てればそれだけ
「かしこまりましてございます」
「これで決まった、逗留逗留! さてモカさんよ、はしゃぐがよろしい。庭も広ければ屋敷も広い、どっちを見ても結構ずくめ、ピカピカピカ光っている。人間一度はこういう所で、思い切ってノンキに遊ぶがいい。だが私はお前さん達に保証しよう。すぐ飽きが来るに相違ないとな。とても窮屈でやりきれまい。窮屈の味を知るためにも、こういう所で遊んでみるがいい。それにさ」と云うと薬草道人、居並んでいる尾張家の家臣たちを、ジロジロ皮肉に見廻したが、「あなた方にもミセシメになります。威儀と虚飾とでくらしている、お侍さんというものより、モカさん達の方により一層、人間らしい自然さが、通っているということのな。さようさようモカさん達と、しばらく一緒にくらしてみたらな。……それはそうと宗春さんや、いずれご馳走してくださるでしょうな。是非ともそいつを願いたいもので。……モカさんモカさん、保証してもいい、こういう人達の食べ物が、どんな
モカ達みんな笑い出してしまった。明るい愉快な笑い声である。釣られて武士達も笑い出してしまった。
笑いが一同を親しくした。
これから変った無礼講が、名古屋城内ではじまることになったが、ちょうどこの頃蝮酒屋でも、変った
ここは蝮酒屋の奥座敷、集まっているのは仁右衛門、宗三郎、浜路にお仙にお絹である。一人新規の人物がいる。弥五郎という蝮酒屋の
宗三郎は宗三郎の身の上を話し仁右衛門は仁右衛門の身の上を話し、お仙はお仙の身の上を話し、浜路は浜路の身の上を話し、お絹はお絹の身の上を話した。誰も彼も苦しんだことになった。わけても浜路の気の毒な受難は、みんなの同情を引いたものである。
「そんな
誰も彼もみんな
誰も彼もいくらかずつ傷を負っていた。しかし楽々と足を延ばし、休むことなどは出来なかった。と云うのは島津太郎丸の勢が、いつ寄せてくるか知れないからである。しかしそうやって気を張り詰め、起きていたところで仕方がなかった。で弥五郎が云ったものである。
「ナーニ大丈夫でございますよ、
云われてみればその通りである。そこで一同休むことになった。
やがて日が暮れ夜になった。
島津方からは攻めて来ない。しかし弥五郎油断しなかった。店へ出て乾児どもの指揮をした。昼間から店は閉じられていた。
ここは店先、
「野郎ども、みんなで幾人ばかりいる?」
「へい三百はおりましょう」一の
「固めの方は大丈夫だろうな」
「へい大丈夫でございますよ。――ここを中心に東西南北、野郎どもを配って置きました。大須の方へは喜市を頭に、五十人ばかりの同勢を配り、門前町の方へは馬十を大将に、八十人ばかりの同勢を配り、ええとそれから岩井町の方へは、三次を頭に五十人だけ。ええとそれから
「うむそうか、そいつはよかった。どうだこの辺は騒がしいだろうな?」
「今にも戦いがはじまるというので、バタバタ店を閉じてしまう、女子供は外へ出ない、火が消えたように静かでございます」
「気の毒なものだな、困ったものだ。……お城からは人数を出さないのかしら? 町役人どもはどうしているんだろう?」
その時一つの人影が、辷るように走って来た。
「オイ誰だ!」と乾児の隼太。
「へい、わっちで、松吉で、ちょっとご注進に参りやした」
ご注進に来た松吉という
「お城から人数が出ましたんで。大変な人数でございますよ。五百以上も出ましたかしら。太郎丸の屋敷をグルグルと、オッ取り囲んでしまいました。蟻の這い出る隙もない! と云ったようなありさまでね。いや素晴らしい勢いです。弓鉄砲まで担ぎ出し、二段三段に備えを立て、揉みに揉んで揉み潰す、ワッワッという鬨の声! と云いたいんでございますがね、何んと不思議じゃアございませんか、ただ遠巻きに取り囲み、静まり返っているばかりで。云ってみれば張り番だ! 番をしているのでございますよ。いったいそれでよいものでしょうか?
「なるほど」と云ったまま弥五郎親分、渋い顔をして頷ずいた。「ご三家の威光をもってしても、こいつアいかさま太郎丸を、討ち取ることは出来まいよ。表向きになると大変だからなあ。砲火を開いて大市街戦にでもなれば、早速江戸からケンノミを喰う。尾張と島津とが明らさまに、敵同志になろうもしれぬ。それより何より市街戦にでもなれば、城下の人達が困るからなア、お政治というものはむずかしい。と云って太郎丸をそんな具合に、いつまでも見張ってもいられないだろう。ほんとにほんとに太郎丸という奴、まるで命取りの
その時またも一人の
「誰だ?」と訊いたは乾児の隼太。
「へい、熊三で、注進に来やした」
膝を折り敷くと熊三という乾児、セカセカとして云い出した。
「そろそろ面白くなりそうです。太郎丸めの屋敷中が、ザワザワ騒がしくなり出したんで。戦闘準備をしているようで。カチカチ刃物の音がしたり、ザクザク甲冑の音がしたり、プーンと焔硝の匂いがしたり、怒鳴り廻る声が聞こえたり、にわかに物騒になりましたんで。……いつ攻めて来るか解りません。親分充分ご用意をなすって!」
その時またもや一個の人影、一散ばしりに走って来た。
「誰だ?」と例によって乾児の隼太。
「へい、丑五郎で、ご注進に来やした。……どうも変なことになりました!」膝折り敷いたが何を云うか?
乾児の丑五郎、第三の注進、膝折り敷くと云い出した。
「大門が開いたんでございますよ、太郎丸の屋敷の大門がね! それいよいよ打って出るぞ! お役人達が
聞いてしまうと弥五郎親分「ふうむ」と云って腕を組んだ。「孔明弾琴というやつだな。日本にだって例はある。東照神君信玄に破られ、浜松の城へ逃げ帰った時、城門を開いて酒宴をし、おりから節分というところから、鬼は外福は内、景気よく豆を蒔いたため、信玄方では見当つかず、引き上げてしまったということだが、そいつの
「どう考えてもこの騒動、チョロッカにかたが付きそうもねえ。名古屋市中を真っ赤に色どり、何んだか血の雨が降りそうだなア。……が、それにしても太郎丸という人物、大変な野郎に相違ねえ。困った野郎が入り込んだものさ」
さてその島津太郎丸だが、この頃伊集院とお紋を連れ、屋敷の屋根棟に建てられた、物見の台に突っ立ち上がり、市中の様子を眺めていた。
「いや大変な人数が出た。だがいかにも
脱出出来るかと太郎丸に訊かれ、烏組のお紋頷いた。
「いと易いことでございます。いつでも烏組の忍びをもって、脱出いたしてお目にかけます」
「そうか」と太郎丸満足そうに、「ではすぐにも取りかかってくれ」
「しかし脱出いたしまして、どこへ参るのでございます?」
「うむ、それはな橘町だ」
「あの遊女町の橘町で?」
「そうしてそこには芝居小屋がある」
「男女
「うむ、その中での女太夫、
「では、ご前にはご存知で?」
「久しい
「まあまあさようでございましたか」
「伊集院にしてもお紋にしても、今度はひどく失敗したなあ、宗春をはじめ薬草道人、宗三郎浜路と一人残らず、取り逃がしたとはよくよくの手抜かり、と云って今さら小言を云っても、十日の菊で仕方がない。そいつは仕方がないにしても、島津を盟主に外様大名、
物見台から三人の者、スルスルと下へ下りて行った。
ちょうど同じ夜のことである。
橘町は賑わっていた。扇屋、辰巳屋、大和屋、若松屋、二階づくりの遊女屋が、軒を並べて立っている。翻える
今にも市街戦がはじまろうというのに、ここばかりは華やかで陽気である。
裏手へ廻ると芝居小屋、
その前に
「いや、八重梅のお三輪ときては、八重桐以上だということだの、芸も芸だが
「さてその八重梅だが
するともう一人が口を出した。
するともう一人が口を出した。
「こいつア正にお説通りで、女芸人ともあるものが、
どうしたものか四十
真っ黒仕立ての一人の女が、人ごみを分けて影のように、スーッと走って行ったからである。
影法師のような黒装束の女、他ならぬ烏組のお紋であったが、屋敷を囲んでいる城方の人数をうまく
それでも、とうとう芝居小屋の裏手、裏木戸の前まで
あたりを見廻すと人通りがない。「まずよかった」と呟くと、切り戸口をトンと押した。スルリと入り込むと小広い裏庭、すぐ正面に建物があって、舞台裏へ通う口がある。番人の若い衆が立っている。
「八重梅太夫はおいでかね?」ツカツカ進むと烏組のお紋、気安そうに声をかけた。
驚いたのは若い衆だ。ジロジロお紋を見上げ見下ろしたが、
「いったい何んだい? お前さんは?」
「八重梅さんはおいでかねえ?」
「銭貰いだな、お前さんは。……銭貰いなら往来でやりねえ。小屋の裏口へ乗り込むなんて、小屋者の作法に外れていらあ。出ねえ、出ねえ、うしゃッがれ!」
「ああお宝かえ、お宝のことかえ?」こう云うとヒョイと烏組のお紋、袖から小粒を取り出した。「妾もうっかりしていたよ、早く上げりゃアよかったにねえ。……さあさあお取り、遠慮はいらない。……ところで太夫はおいでかね」
「へいへいおいででございます」
「それじゃアこいつを渡しておくれな」
ここは八重梅の部屋である。
女役者の部屋だけに、万事万端
その真ん中に片膝を立て、話しをしている八重梅の手には、
大目蝋燭が四本がところ、部屋の中を明るく照らしている。その
その
その前に坐っている女弟子の小仙、十八九でお
「お師匠さん、お師匠さん、お師匠さん!」とのべつにさっきからお師匠さんばかり云い、何かをねだっているらしい。
「ねえ、お師匠さん、お
「うるさいねえ」と荻野八重梅、
またも煙りを輪に吹いた。
「沢山
「ありゃアしませんよ、お師匠さん、そんなにありゃアしませんよ、
とうとう自分で底を割ってしまった。プッと吹き出した師匠の八重梅、
「嘘をお云いよ、十人はあろう。一割主義っていう奴でね、取っ代え引っ代え十人から、お小遣いをねだろうッていうんだろう。
「
女弟子の小仙ベソを掻き、弁解しようとした時である、若い衆がヒョイと顔を出した。
「へい、太夫さん、お使いで」書面を差し出したものである。
「おや、どこから来たんだろう?」受け取りながら考えた[#「考えた」はママ]
「烏のお
「なるほど」と云うと封を解いた。とたんに膝の上へ落ちたのは、黄紙に包んだ薬ようの物!
「おや」と云ったが懐中した。それからサラサラと文を見た。
と、「ううむ」という呻き声が、八重梅の
「おい」と若い衆へ声をかけた。「そのお使いはまだおいでかえ?」
「へい、おいででございます」
「たしかに承知いたしました。――こうそのお使いに云っておくれ。……あの、それからね、駕籠一丁、すぐに裏木戸へ廻すように」
「へい、よろしゅうございます」
立ち去って行く若い衆、後を見送った荻野八重梅、スッと立ち上がるとしごきを解いた。「さあ小仙、着換えだよ」声の調子がピンとしている。
「はい」というと弟子の小仙、ムダも云わずに飛び上がった。
衣裳を肩から辷らかす。痩せては見えるが肉附きがよい。子を産んだことなどないと見え、ムックリ乳房が張り切っている。小仙の着せかける
「へい、お駕籠が参りやした」若い衆が知らせて来た。
「あいよ」と云うと荻野八重梅、鏡台の前へスルスルと行き、覗き込んだがニッと笑った。「綺麗だねえ、自分ながら」
「ほんとにお師匠さんはお綺麗で」うしろから小仙が声をかけた。
「どうだろう、人一人殺せるかしら?」
「え?」と眼を円くする女弟子の小仙。
「トロトロトロトロと妾の眼が、その男の顔へ笑いかけたら、どうだろうねえと云うことさ。……でもねえ」と妙にしんみりとなった。「不思議なものさ、
「おノロケね、ご馳走様」
「ふん」と八重梅鼻で
楽屋を出ると廊下になる。梯子を下りると舞台裏、そこを通って裏庭へ出た。切り戸口を出ると一丁の駕籠。
「ご苦労だねえ、駕籠屋さん。急いで武蔵野までやっておくれよ」
駕籠が上がって駆け出したが、その武蔵野という茶屋の奥に、さっきから待っている若侍があった。
ここも盛り場、富士見原、遊女屋、
少し奥まって一軒の茶屋、武蔵野と云って一流だ、前庭が広く木立が茂り、石燈籠などが置いてある。その前庭を前に控え、
荻野八重梅の人気を聞き、二三人の同僚と見に行ったあげく、茶屋へ呼んだのが恋のはじめ、熱情的で正直なだけに、カッと火のように燃えてしまい、
いつも遭う場所はきまっている。この武蔵野のこの部屋である。
で、今夜も待っている。
石燈籠へ灯がはいり、その裾の
手持ち無沙汰に坐っていた
「おっつけおいででございましょう、このお多福がそれまではお相手、さあさあおすごしなさいまし」
盃をさしたので幹之介、受け取ってグッと飲んだものの、たしかにお多福の酌よりも、八重梅の酌の方がよいと見え、飲みっぷりが
「お城下に切り合いがありましたそうで」仲居が話を向けようとする。
「うん」と云ったままロクな返辞もしない。
「謀反人があるとか申しますことで」
「うん」と幹之介同じ返辞。
「
「うん」といよいよブッキラ棒だ。
「そこでお城からお役人様方が、捕り方にお出張りなさいましたそうで」
「そんなようだの」と冷淡である。
「旦那様にはその方面には、何んのお係りもございませんので」
「遅いな、今夜は、どうしたんだろう」
「いえもうおっつけいらっしゃいましょう。……騒動は厭でございますねえ」
「うん」とまたもや同じ返辞。
「謀反など厭でございますねえ」
「うるさい!」ととうとう怒鳴ってしまった。
「ごめん遊ばせ」と苦笑したが、「さすがは人気の八重梅様、いつお見えになりましても、お美しいことでございます」
「うむ、うむ、八重梅は美しいなあ」幹之介今度は笑い出した。
「それに大変お気前がよく……」
「おおそうそう忘れていた」
いくらか紙へ包んだが、「取ってお置き、ほんのわずかだ」
「いつもいつも相済みません」チョロリと帯へんだが、「毎々ここのお母さんとも、お噂をするのでございますよ、どうしてああも八重梅さんは、万事にお気が付かれるのだろうと。……そうそういつぞやこんなお多福に、結構な髪飾りを一揃い……」
「ああそうそう忘れていた」いくらか紙へ包んだが、「これで前垂れでももとめるがいい」
「相済みませんでございます」チョロリと帯へんだが、「どうぞごゆっくり」と行ってしまった。一人になった幹之介の顔に、憂色のあるのは何故だろう?
恋人八重梅はまだ来ない。幹之介の顔に憂色がある。単に待つ身の辛さだけで、そうまで心配しているのだろうか? いやいやそうではなさそうである。
金に詰まっているのであった。
「
志水幹之介近習役、禄高と云っても知れている。引っかかったのが荻野八重梅、年が上のその上に、いうところのバンパイア、古風に云うと
馴染を重ねる六ヵ月、その間可哀そうに志水幹之介、絞られるだけ絞られた。ふだん信用のあるところから、多くの人に同情され、最近まで金の融通も出来、首尾を重ねてはいたけれど、今やいよいよ詰まったのである。
「このまま行けば閉門だ。……俺の信用は落ちてしまった。……たとえ閉門にならなくとも、どこからも金の融通がつかぬ。……金の融通つかぬ以上、八重梅に逢うことは出来ないだろう。八重梅に逢えないくらいなら、死んだ方がいい死んだ方がいい! ……欲しいなあ金が欲しい! ……いっそ辻斬り! いっそ押し借り! ……いけないいけない、そんなことは出来ない! ……打ち明けてみよう八重梅へ! ……一緒に死んでくれるかしら? いや死ぬまい、では駆け落ち? ……死んでくれれば死んでみせる! 逃げてくれるなら逃げてみせる! ……枯野を分けて
ジリジリしながら待っている。
しきりにすだく庭の虫、石燈籠の灯がまばたき、客のない家内静かである。
と、トントンと足音がした。
「来たな!」と幹之介顫え出したが、足音は行き過ぎた。幹之介ホーッと溜息をした。「遅いなあ、どうしたんだろう?」
トントントンとまた足音。
「今度こそ八重梅、間違いはない!」
ギューッと拳を握りしめた。
はたして襖がスーッと開き、あらわれたのは荻野八重梅。「幹様!」というとスルスルと進み、膝すれすれにピタリと坐った。
幹之介とスレスレに坐ったが、八重梅ニッコリ笑いかけた。
それから交わされた二人の会話。――
「お待ちになって、え、幹様?」
「ああ待ったよ、メチャメチャにな」
「可哀そうな坊やでございます」
「ああそうとも、可哀そうな俺だ」
「お泣きなさりませ、膝を枕」
「泣きたいなア、思い切って」
「涙は妾が拭きましょうよ」
「そうしてお前は泣かないのか?」
「今まで泣いて参りました。あの、杉酒屋のお三輪でね」
「うむなるほど、舞台でか」
「縫之助様を追っかけて! 意地悪い官女に
「舞台で泣いた涙なら、空涙という奴さ」
「でも悲しゅうございました」
「俺の知ったことではない」
「あんなにつまされて泣いたのに」
「ああ泣きたいのは今の俺だ!」
「泣くのはよいものでございます。胸がスッと開きます」
「開くかなア、この胸が!」
「おや、お客が上がったらしい。河東節の水調子、二階から聞こえて来るじゃアないか」
なるほど、三味線の音色がする。錆びた男の唄声がする。
じっと二人聞きすました。
なくより外の琴の音も
二十五絃の暁に
「いいわねえ、玉菊だよ」二十五絃の暁に
くだけて消ゆる玉菊の
光は仮りのものながら
「死にたくなるねえ、あれを聞くと」光は仮りのものながら
「俺もそうだよ、死にたくなるなあ」
本来空の明りには
「俺には明りなんかありゃアしない」
「お聞きなさりませ、黙ってね」
「消えっちまえよ! そんな提灯!」
「黙ってお聞きなさりませ」
燈籠もいらず掻き立てず
「燈籠も消えろ! 面白くない」幹之介ゴロリと寝たものである。彼の心は苦しいのである。逢えて嬉しい! それはよい、だが云わなければならないだろう、――行き詰まっている境遇を! 云ったら何んというだろう? 相手は芸人、女役者、金の切れ目が縁の切れ目、さようならと云うかもしれぬ。そうなったら逢い終い! 今夜が最後の別れである! ……もうこの嬌態も見ることは出来ない! 他人とならなければならないだろう! だがそれにしても美しいなあ!」[#「美しいなあ!」」はママ]
逢って見て一層幹之介、恋煩悩に捉われたのである。
荻野八重梅敏感である。早くも様子を見てとった。「ひどく悩んでいるらしいよ。ここどうやら二月ほど、苦しい様子を見せていたが、金に詰まっているらしい。そこが付け目さ、けっく幸い! そろそろ仕事にかかろうかね。さあてどのへんから切り込んで行こう」
またも聞こえる水調子。――
翼やすめよ
「おや、おかしいねえ、あの唄声、妾にゃア何んだか聞き覚えがあるよ」
八重梅耳を澄ましたが、ブッと吹き出したものである。
二階から聞こえる河東節、耳を澄ました荻野八重梅、ブッと吹き出したものである。
「燈籠もいらず掻き立てず、それからズッと後へかえり、翼やすめよ禿松、オヤオヤそうするとあのお客さん、ひどく玉菊が得意だと見える、随分ああいうお客さんがあるよ、小唄一つだけ知っていて、それだけ唄うお客さんがね。……玉菊だけが大得意! 聞き覚えのあるあの唄声! これなら妾にだってすぐ解る、一座の阪東薪十郎だあね。……だがそれにしてもあの薪公、妾がここにいることを、知っているんじゃアないかしら? ……ちょっとこいつはあぶないぞ! ……いやらしく妾に付きまとうあいつ!
ちょっと考えたものである。
「まあいいや」と気を変えてしまった。
寝ている幹之介を見下ろしたが、
「幹様お起きなさいまし」
「うん」と云ったが起き上がらない。
「幹様お起きなさいまし」
「うん」と云ったがまだ寝ている。
「憂えがあるというように、坊やはねんねでございます。そのうち自然と泣き寝入り、そこで寂しいというところで、妾アそろそろ帰ろうかしら」片膝を立てたものである。
「帰る?」と
「そうさ!」と笑ったが荻野八重梅、そろそろ奥の手を出すらしい、「そっちが薄情に出なさるから、ああさこっちだって薄情で行くよ。……ねえ幹様」と膝を突き、スルスルと寄ると手を延ばし、幹之介の肩を抱くようにした。「それとも打ち明けてくださいますか?」
情を持たせて覗き込む。「行き詰まったというお身の上を」
「八重梅!」といった幹之介の声、剣気があって物凄い。「一緒に死んではくれまいなあ」
「そうですねえ」とニコニコした。「真っ平ご免と申しましょう」
「そうか」
と云ってまた寝かかる。
それを引き止めると云ったものである。「大小お捨てなさいまし! 野山を越えて行きましょう!
「うむ」と云ったがシャンとなった。「それじゃア一緒に逃げてくれるか!」
「お苦しそうなご様子は、ここしばらく見えていました。
ホーッと溜息、尾を引くように、幹之介の口から洩れたものだ。
「そうであったか! 手を合わせる!」じっと見た眼は真剣である。「それじゃア本当にこの俺と他国してくれるというのだな?」
「たかが妾は河原者、お侍さんとおっこちたら、体に
「そうでもあるまい……お前ほどの人気! ……そいつを捨ててこの俺と、……
「江戸へ!」と云って背をもたせた。「妾がしますよ、立て養い」
「ああ江戸へか! ……江戸もいいなあ。……そうしていつ?」と
「あなたさえよければ、サアこれから!」
「行こう!」と立ち上がった幹之介。
「だって旅用の金がなけりゃア」荻野八重梅ズッシリと云った。「まとまって二三百両欲しいねえ」
幹之介ベッタリ坐ったものである。
旅用の金を二三百両、まとまって欲しいと切り出され、志水幹之介ベッタリと坐った。
「八重梅!」と云ったが息を呑む。「百両は愚か十両の金、今の俺にはままにならぬ!」
怖そうに見上げたものである。
「いいえ」と云ったが水のような声だ。微動さえしない荻野八重梅、「ある所にはございます。ご無心をしていらっしゃい」
ジ――ッと眼を据えた幹之介、「辻斬りしろと教えるのか!」
「何んの幹様、この不景気に、百両二百両袖に入れ、人間夜道を通りましょうか」
「うむ、それでは押し借りか!」
「忍び込むには手間がいる、つかまったら縛り首、妾と逢うことも出来ますまい」
「頼む、八重梅、教えてくれ!」
「ねえ」と云うと手を上げた。グッとし込んだは帯の中、取り出したは薬包み、島津太郎丸の書面から、さっきこぼれたそれである。そっと畳へ押しやったが、「眠剤でござんす、これを使って!」
「眠剤? そうか! どうするのだ?」不安におびえた声である。
「拝借なさりませ、お手もと金!」
「何を!」と云うとフラフラと立った。「お館様のか! ……
「大小捨てるあなたがえ?」セセラ笑った八重梅の眼チラチラチラと猫のようだ。「それなら恋は
襖にピッタリ
「この恋それでは切れましょうよ。スッパリとねえ、今夜かぎり! ……そうなったら妾も
どうだこれでもかというように、グーッと首を突き出した。真っ白の頸足へもつれる髪! 美しいなアこれだけで、大概の
はたして幹之介ブルブルと顫え、またベッタリとくぐ折れた。「八重梅!」と云ったが、呻き
「絞め木に掛けるか! 恋の絞め木へ!」
「苦しくばお遁がれなさりませ」
「恋か! 武道か! ……クラクラする!」
「二つを取ろうとなされても、それは
「なるほどなあ、それもそうだ! ……まさしくそいつ、眠剤だな?」
じっと据えつけた眼の前に、封じ薬が置いてある。
「何の
「そうか」と幹之介考えた。「俺は幸い近習役、手文庫のありかも知っている。……薬草道人やモカの類、城へ入り込んで無礼講、表も奥も乱痴気騒ぎ、ドサクサ紛れに大奥へ入り、ご常用の湯釜へ投げ込んだら……中納言様にはご熟睡、そこを忍んでお手もと金! 盗もうと思えば盗めるなあ。……やろう!」
とばかり度胸を決めた。つと手を延ばすと封じ薬、グッとひっ掴んだものである。
「それでこそ男! お侍さん! ああさ妾の可愛い人さ!」
「八重梅!」と呻くと飛びかかった。
そいつを八重梅抱きしめた時、縁にあたって人の
縁にあたって人の気勢!「おや!」と思った荻野八重梅、スラリとばかり立ち上がり、障子をあけて覗いて見た。縁が鉤手に曲がっているその曲がり角を男の姿、急いで行くのが見て取れたが、
「それじゃア首尾よくなさりませ」
「一生懸命!」と志水幹之介、釣られたように立ち上がった。
連れて立ち上がった荻野八重梅、つと寄り添うと腕をのばし、幹之介の肩へ打ちかけたが、
「これが今生の一締めさ!」心で云ってグーッと締め、頬ヘピッタリ頬をあてた。
「八重梅!」と締め返して幹之介、「暁の鐘の鳴る頃には……」
「待っております。おいでなさりませ」
「うむ、そうしてどこで待つ?」
「ここは人目にかかります、そうですねえ、
「そこから一緒に他国だな」
「通し駕籠で東海道、江戸をさして行きましょう」
「よし」
と云うと幹之介、障子を開けて縁へ出た。フラツク足を踏みしめ踏みしめ、行ってしまったその後は八重梅一人になったのである。
ジーッとすだく虫の声、萩の
「では妾も
「あの、お供を呼びましょう」
「いいえ歩って帰ります」
「表は物騒でございますよ」
「ナーニね」と云うと荻野八重梅、微妙に笑ったものである。「そのうちもっと物騒なことが。……大きにお世話になりました」
「では太夫さんお気をつけて」
「はい」
というと門を出た。露路の細道駒下駄を鳴らし、外へ出たが真っ暗だ、暁の鐘など鳴りそうもない。
「寂しいねえ」と呟いたが、心の中も寂しかった。「憎い人じゃアなかったんだが」幹之介のことを考えている。「何んのあいつが眠剤なものか! 毒も大毒
「太夫、おッそろしく神妙だねえ!」
「太夫、おッそろしく神妙だねえ」
声をかけられて荻野八重梅、さすがにギョッとして振り返った。常夜燈の光に照らされて、ボッと立っている一人の男。
「おや、お前は薪十郎さん」
「さようで」と薪十郎近寄って来た。「神信心でござんすかえ」
「そういうお前こそ何んのために、こんな所へ来たんだい?」八重梅油断をしなかった。
「へい、散歩というやつで」ニヤニヤ笑っているらしい。
「嘘をお云いな!」と突っ
「ウッフ、さてはご存知か」
「玉菊ばかりは上手だよ」
「お耳に止まって有難え」
「寄るじゃアないよ、
「そう
「そうさ、おんなじ座にいるよ。だから珍らしかアない筈だ。つけて来るにも及ぶまい」
「それがさ」と云い云い薪十郎、八重梅を見上げ見下したが、「今夜ばかりはつけてよかった」
「何故だい?」と八重梅キッとなった。
「
次第に
「ふふん、どの辺で拾ったか」嘲笑ったが荻野八重梅、傷持つ脛というやつだ、語音が弱くなって来た。
早くも察した阪東薪十郎、「オイ八重梅!」と
「何をさ!」と八重梅一歩退く。
「立ち聞きしたんだ、武蔵野でな……お手もと金と眠剤と、ズラかろうという魂胆! ……」
「なるほど」といったが弱ったのである。
「オイ八重梅!」とズカズカ進み、グッと片袖を掴まえた。「ズラかる話はまだいいや、若侍をけしかけて、中納言様のお手もと金、盗ませようとは泥棒だぞ! おおそれながらと俺が出たら手前の首に縄がかかる。獄門どころかはっつけだ! 綺麗なお前の脇の下へ、ブツブツ槍が突き差さらあ。……痛えぞ痛えぞ、とても痛え! ……そうしたあげくにくたばるのだ! ……一座はバラバラ所払い、笠屋仙之も牢屋入り! ……手前ばかりの厄じゃアねえ、みんな路頭に迷ウんだ! 途方もねえ事をしでかしたなあ」息を入れたが声の調子、ここで砕いたものである。「それもさ、俺がまかり出て、おおそれながらと訴えなければ、そんな騒動も起こらねえ。……だからよ一番思案するんだなあ」顔を覗かせたものである。それからいよいよ猫撫で声、「知ってる筈だよ、俺の心! 首ったけという奴だ! そこで物はご相談、どうだろうねえ、オイ八重ちゃん、リャンコの代りにこの俺と、江戸へ逃げちゃアくれまいかね?」またもや顔を覗かせた。
荻野八重梅、絶体絶命、「なるほどなア」と考えた。「今夜のうちにこの野郎に、訴え出られたら
一緒に行こうと承知され、腕を掻い込まれた阪東薪十郎、あべこべに
「え、本当か、
「お前も役者、わしも役者、旅へ行って稼ごうよ」尚も腕を引き寄せる。
「
「そうさねえ、どこへ行こう?」ソロソロと片手を上へ上げる。
「そうだこれから夜をかけて、中仙道を行くとしよう」
「中仙道かえ、ああいいとも」右手が髪まで延ばされた。
「初の泊まりは太田かな」
「ああいいねえ、太田にしよう」ス――と
「それにしても痛え痛え、そうマア腕を引っ張るなよ」
「痛いかえ、オイ薪さん。……もっと痛めてやろうかねえ」
「ワクワクするなあ、肌のぬくみ」
「ねえ薪さん」と含んで笑い、「中仙道は止めようよ」
「そうか、それじゃア東海道?」
「いいえさ、冥土の道がいいよ!」
「ワッ」という悲鳴、顔を
「眼を突いたがどうしたえ」後へ退って及び腰、
「左だったか右だったか、妾ア右を狙った筈だよ」
「人殺シーッ」と
荻野八重梅驚かない。「吠えろ吠えろ、
振り上げた
「人殺シーッ」と逃げる奴、追い廻して行く手へ立つ。「人殺シーッ」と後へ逃げる。追い廻して行く手へ立つ。
追い詰められた薪十郎、今は
軽く
「ワッ」という悲鳴、また
「往生おしよ! めでたくねえ!」
グルグルと解いたは紫の
「邪魔がはいった、残念だねえ」呟いた時には荻野八重梅、身をひるがえして社殿の裏へ、早くも姿を隠したが、ちょうどこの頃名古屋城内でも一つの事件が起こっていた。
名古屋城内の奥御殿、
「是非ともお供を致したいもので……」こう云ったのは尾張宗春、話のつづきに相違ない。
「よくござらぬよ、そのお考え」こう云ったのは薬草道人、
「さよう」と云ったが尾張宗春、しばらくの間、黙っていた。
一夜ゆくりなく木小屋へ泊まり、薬草道人に感化されて以来、にわかに彼の心の中へ、漂泊の念が
「何も考えるには
「しかし」と宗春物憂そうに、「過去の穢れを洗い落とす! そういう心の湧きました際には、それにふさわしい行動を、とるべきものではございますまいか」
「急いでとってはいけませんな!」
「は?」と宗春訊き返した。
「物には順序がありますので」
「とは云え順序を追って行くほど、心にゆとりのない際には?」
「なんのなんのどんな心にだって、ゆとりをつけることは出来ますよ。それが出来ないと思うのは、我がまま者の坊ちゃんだけで」
「ははあそうするとこの私は、我がまま者の坊ちゃんで?」いやアな顔をしたものである。
「我がままも我がまま、大我がまま者で、話しにも何んにもなりゃアしません」
「ふふむ」と云ったが考え込んでしまった。
「まず
「なるほど」と少し解ったらしい。
「それにさ」と道人愛嬌よく、「
「さあ、私には、ちとそれが……」
「え?」と道人
「さようでござる、ハッキリとは」
「馬鹿な話しで」と薬草道人、いよいよ驚いたというように、「国を治めて、民を休める、こいつが任じゃアございません」
「あッ、いかにも、そうでございました」
「そこで私は申しましょう、任によって心を
一膝のり出した薬草道人、
訊かれて宗春
「沢山あるようでございます。解放主義をとりました。その結果放漫になりました。拡張政策をとりました。その結果シメククリがなくなりました。江戸や大坂や京都などの、文物を移植いたしました。その結果
「ではそれらの欠点を、だんだんに改良なさるがよろしい」
「しかし余りに今日では、それが手広くなりましたため、到底一朝一夕には、直し切れまいと存ぜられます」
「ははあそこで逃げようというので?」
「は? 逃げるとおっしゃいますと?」
「私と一緒に
「うむ」宗春詰まってしまった。
「いけませんなあ」と薬草道人、今度はちょっと叱るように云った。「それではまるで隠遁だ! 甚だしいかな無責任! 任を尽くさざるも沙汰の限りでござる」
「はい」と云うと
部屋内シ――ンと静かである。無礼講の歓語が遠聞こえする。とまた道人機嫌よく、「そうは云ってもごもっともでござるな。これまでにとられたご方針容易なことでは変えられますまい。ましてお一人の力ではな。重役衆の思惑もござろう。ついては」というと薬草道人、何んでもないように云い出した。「あなたがそれを望まれるなら、私がお力添え致しましょう」
「是非に!」というと宗春の顔、にわかに活気を呈して来た。「お願い致しとう存じます」
「よろしゅうござる」と引き受けた。「当分城内へとどまって、ご相談相手になりましょう。……さあさあこれで話は決まった。どれそれでは大広間へ参り、振る舞い酒でもいただきましょうかな」
ヒョイと立ち上がると部屋を出た。あたりをジロジロ見廻したが、「どうも立派な御殿だわい。ひとつ拝見と出かけるかな」薬草道人遠慮しない、間ごと間ごとを打ち通り、奥の方へズンズン歩いて行ったが、これから事件が起こったのである。
一つの奥部屋、そこまで来た。とにわかに薬草道人、「これはおかしい」と呟きながら、ピタリ
奥部屋の襖へ体をつけ、様子を窺った薬草道人、「おかしいなあ」とまたも云った。「嗅覚に毒気が感じられる。誰か毒石を
そろそろと細目に襖をあけ、その際間から覗いてみた。部屋の調度から推察すると、どうやら城主の寝部屋らしい。
「お侍さん、ちょっとお待ち!」忍び音で声はやさしいが、眼は鷲のように光っている。部屋へはいると手を廻し、
「やっぱりそうか、思った通りだ」蓋をするとグイと向き直った。「お侍さん、お坐りなされ!」まさに威厳のある声である。
「はっ」というと若侍、ベタベタと坐ったが両手を突き、額を畳へ摺りつけてしまった。肩が細かく
「顔をお上げ!」と薬草道人、「で、お名前は、何んと云われる?」
顔を上げた若侍、「近習役で志水幹之介!」
「うむ」というと覗くように見た。「これは不思議」と心で云った。「大逆人の相ではない。むしろ
「は?」と云ったが幹之介には、何んのことだか解らないらしい、
「は、
「大毒薬の砒石でござる」
「存じませんでございます」
「そなた只今釜へ入れられた薬、あれが砒石じゃ、どうして得られた?」
「めっそうもない! 眠剤で!」
「ナニ眠剤? ふうむそうか! いや恐らくそうであろう。少くもそなたにおかれては、そう思っていたに相違ない。が、ハッキリと云って上げる、あれこそ砒石、大毒薬、人の命なら十人は取れる!」
小刀へ手をかけた幹之介、抜こうとした時薬草道人、グイとその手を抑えつけた。
「これ、どうなさる、何をされるお気か! 主殺しの大逆目付けられ、血迷ってわしを切るつもりか! そんな筋目がござるかな、そんな度胸がござるか? ……それとも」というと眼を据えた。「顔をお上げ! 見て進ぜる」
上げた幹之介の顔を見たが、「うむ、さようか、自分自身、割腹なさるお
後へ退った薬草道人、しばらくじっと打ち案じたが、「眠剤をお館にお飲ませ申し、どうなさるお
「はい」と云うと幹之介、畳へ両手をまた突いたが、「勿体ないことではございますが、お手もと金を頂戴し……」
「なるほど」と道人
幹之介無言、返辞をしない。
「いやよろしい」と薬草道人、押して訊こうともしなかったが、卒然として口を切った。「恋でござろう、幹之介殿! この見当決して
「はい」と観念した幹之介、「女太夫にございます」
「女太夫? ああさようか。……で年は? あなたよりも?」
「いささか上にございます」
「さてはそそのかしに逢われたな」肺腑を突いた言葉である。「他国しようというような、相談をされたのではござらぬかな? そのため大金必要となり……」
「はい」といよいよ観念し、「それに相違はござりませぬが、むしろ他国は私より、持ちかけましたものにございます」
「眠剤と
「それとて女としましては、砒石などとは夢さら知らず、やはり眠剤と心得て、手渡しくれたものと存ぜられます」
「たしかにさよう思われるか?」
「はい
「そやつ毒婦! こうは思われぬか?」
「なかなかもちまして、さような事……」
「スッパリお別れなさるがよい! こうこの私が勧めても、別れられまいな、そなたには?」
ブルッと顫えた幹之介、返辞をせずに顔を下げた。畳へ落ちたは涙である。
それを見やった薬草道人、
「釈尊三不能を説かれたが、まことにまことにいわれがある。誠忠、真面目、一本気、清らかな心の持ち主が、年長の市井の毒婦などに、魅入られた以上もはや駄目だ!
「一応は申そう、思うところをな、聞くも聞かぬもそなたまかせ」こう云って膝を進めたが、薬草道人不意に立った。「ついておいで、裏庭へな、ここは部屋内、人目立つ。……それから茶釜、持っておいでなされ」
部屋を出ると廻廊づたい、裏庭の方へ歩き出した。後につづいた志水幹之介、両手に茶釜を捧げている。
「ここでよろしい」と薬草道人、立ち止まった所は
云われるままにぶちまけると、ポーッと立った白い湯気、プーンと芳香が
「さて」と云うと話し出した。「くどくは云わぬほんの一言……そなた執着をおとげなされ!」何んという不思議な言葉だろう! だが道人云いつづけた。「私は
裏門を指さしたものである。物云わず立っていた幹之介、すすり泣きの声を洩らしたが、
「道人様!」と
「私ではあるまい、縋るものは!」
「はい」と云うと手を放した。
「おいでおいで、迷妄の旅へ!」
フラフラと歩いて行く幹之介、姿が見えなくなった時、笑い声遠々しく聞こえて来た。
「向こうには明るい広間がある。だがこっちには暗い露路! 人生の表裏、光明と暗黒! 合一する期は、あるやらないやら! だがあるように努めたいなあ」薬草道人空を仰いだ。「いつも
島津太郎丸の
「異象はないかな、求林斎?」
だが正休黙っている。
「どうだどうだ幸臣星は? 光を弱めては来ないかな? たしかに光を弱めて来た筈だ」
だが正休物を云わない。
「どうだどうだ盗み星は? 光を強めて来たろうがな? たしかに光を強めて来た筈だ」
依然正休黙っている。
「無言の行か」と憎々しく、「アハッッッお気の毒! さすがの求林斎お前にも、今夜の天文は解らないと見える。……どうだどうだ聖者星は? 影をかくしてしまったろうがな?」
やっぱり正休黙っている。
そこで太郎丸
まだ求林斎物を云わない。
「どうやら
やっぱり駄目だ、西川正休。無言で空を眺めている。
「よろしいよろしい、黙っているがいい。今夜一晩中無言の行、星と睨めっこをしているがいい。夜が明けたら大騒ぎ、名古屋城内蜂の巣だ! 何んの天文がアテになるものか! アテになるのは人間の意志さ! 太郎丸の意志大いに輝き求林斎の叡智忽ち真っ暗! と云うことになりそうだなあ」
どうしたものか西川正休、まだ一言も発しない。
「これは驚いた! 忍耐強い! 平気で
見下ろしながら島津太郎丸、愉快そうに毒舌を揮っている。
しかし毒舌を揮われても、まさに一言もないのであった。高張り提灯を振り照らし、弓鉄砲をひっさげながら、無数の城方の捕り方達、さも恐ろしいというように、屋敷の四方からズッと離れ、ただ遠巻きに取り巻いている。怒鳴り声、罵しり声、喚き声、一つにかたまってやかましく、
「これ求林斎、求林斎」また太郎丸やり出した。「まだ
と云った時、西川正休、
「殿!」と始めて声を出した。
「何んだ?」と訊き返した太郎丸。
「殿の
「何を!」と云うのを押っかぶせ、「聖者星の光芒、
「聖者星の光芒燦然たりじゃ!」
正休に云われて太郎丸、「それがどうした!」と眼を怒らせた。
「殿の計画、すなわち画餅!」
「馬鹿な!」と太郎丸セセラ笑った。「今回の企て聖者星に、何んの関係あるものか!」
「聖者星の
「それは誠か?」と太郎丸、いささかギョッとしたらしい。「云え! 何者? 星の主?」
「いまだその儀は……拙者にもな」
「とまれそいつが邪魔したのか?」
「さよう」というと西川正休、自信をもって悠然といった。「いかにも一時は幸臣星。危く光を失いかけてござる」
「そうであろうそうであろう!」
「四方
「そうであろうそうであろう!」
「危いかな間一髪! そこまでセリ詰めて参ってござる」
「そうであろうそうであろう!」
「と、にわかにその嵬気、グーッと開いて幸臣星、元の光に立ち帰ってござる!」
「嘘だ!」と太郎丸威猛高!
しかし正休悠然とつづけた。
「見れば聖者星光芒熾烈、幸臣星に働きかけ、
太郎丸しばらく黙っていたが、突然吠えるように云ったものである。
「幸臣星すなわち宗春だな?」
「天界は宏大意味深長、人事百般にあて
「その宗春の毒殺が、失敗したというのだな」
「ははあさてはご前! そういう計画をなされましたので」
「そうさ!」と云うとカラカラと笑った。「荻野八重梅、女歌舞伎、手なづけて間者と致したがそいつの情夫、志水幹之介、尾張宗春の近習役、そやつを利用し企てたのさ! 尾張宗春の毒殺をな! お紋の手を借り書面と
「薬草道人?」と西川正休、そう不思議そうに訊き返した。「殿、殿、何者でござるかな?」
「
「おお御岳より? ……ほほう隠者?」
「甲斐の徳本と解せられる奴!」
「や! 徳本? あの名医の?」
「我々の手から宗春を、奪い取って城中へ連れ帰った奴だ! きゃつなら城中にいる筈だ! 解った解った、聖者星の
一本の円筒筒口を、ポンとばかりに天へ上げた。大砲かな? そうらしい。と太郎丸また腹這い、屋根棟の一所を押したと見るや、何んの壮観、筒口から、音なく立ち上った一条の火龍!
と、パッと消えてしまった。
「どうだ?」と呻くと太郎丸、夜で必要はなかったが、一種の気勢、眼に手を翳し、西南の方角をグッと睨んだ。と、まさしく名古屋港、それも遙かの沖合いにあたって、同じく一本の狼煙が火柱のように舞い上がった。
「よし」と云うと太郎丸、また屋根棟をスルスルと這い、物見の台まで帰って来た。
「何んと求林斎、あれを見たか!」
「は、まさしく合図の
「海上よりだ、何んと思う?」
「船舶浮かんでおろうかと」
「すなわち島津の水軍だ!」
「ははあ」と云ったが西川正休、いささか度胆を抜かれたらしい。「しからば殿にはそれほどまでに?」
「用心堅固、水も洩らさず固めを付けて置いたのさ」
「恐ろしいお方にございます」
「これが普通だ! 事をあげるにはな! 隅から隅まで備うべきだ!」
「恐ろしいお方! しかし立派!」
「こういうこともあろうかと、俺がこの地へ入り込むと同時に、常に島津の水軍をして、秘かに秘かに海上を、游泳させておったのだ」
「で、殿にはその水軍を?」
「うむ、活用はするけれど、まず差しあたり引き移る」
「ははあ、当屋敷を引き払い?」
「そうさ」と云ったが太郎丸、グッと地上を見下ろした。「いかに太郎丸
二人揃って物見台から、屋敷の方へ下りて行ったが、間もなく行われた出来事は、傍若無人なものであった。
グーッと一杯に開けられたのは、島津太郎丸の屋敷の門!
と、行列が現われた!
太郎丸の屋敷の大門から、
城方の人数、これを見ると、ワーッとばかり
と、太郎丸の大音声、駕籠の中から鳴り渡った。
「今ぞ島津太郎丸、名古屋城下を引き払い申す! 打ち取る覚し召し候わば、ご遠慮はいらぬ、おいでなされ! 微力ながらもお相手致す! 不精巧なれども大砲二門、弾ごめ致してここにある! ひそかに手に入れたホトガル砲じゃ、ここでぶっ放せばお城まで届く、ご自慢の金の
声に応じて太郎丸の全軍、
エイ、エイ、オー
エイ、エイ、オー
「いかがでござるな、城の方々!」また太郎丸怒号した。「人数はわずか四百人、しかし士気は
エイ、エイ、オー
エイ、エイ、オー
「いかがでござるな、城の方々!」
太郎丸尚も云いつづける。
尚太郎丸云いつづける。
「いかがでござるな、城の方々! かかって来る気はござらぬかな! 遠慮はご無用、おかかりなされ。ただし、関ヶ原の合戦以来、島津の
エイ、エイ、オ――
エイ、エイ、オ――
太郎丸の軍勢異口同音、武者押しの声を響かせた。
城方の武士にも勇士はある。食い止め突き崩すに訳はない。しかし城下の騒動を、おもんぱかればそれもならぬ。心に無念を貯えながら、ただ遠巻きに送って行く。
「駕籠の戸締めい!」と太郎丸! 声に応じて戸が締まった。「急げ者ども、早駈けに行け!」
エイ、エイ、オ――
エイ、エイ、オ――
トットットッと駈け出した。鳴るは甲冑、足並みの音、燃えるは松火、輝くは武器、太郎丸の全軍四百人、海を目掛けて押して行く。
敵ながら
松火の火も遠ざかり、物音さえも静まって、名古屋の城下ひっそりとなった。と、今日の熱田辺で、ド、ド、ド、ド、ド、ド、という鉄砲の音! すなわち砲払いをしたらしい。
こうして島津太郎丸、同勢をまとめて城下を去り、海へ浮かんでしまったのである。しかし不安は依然として、残っているものと見なければならない。
それはともかくここに至って、この物語の主要人物、四方八方へ分かれてしまった。薬草道人とその
月日が経って初冬となった。
名古屋へ初冬が訪れて来た。
利休の歯音がカラカラと響く、渡り鳥が空を行く、柳の葉がハラハラと散る。
「花ちゃんどちらへ?」「糸屋さんへ」「喜イちゃんどちらへ?」「糸屋さんへ」――糸屋さんの繁昌する季節でもある。云いかえれば裁縫月! さてその季節のある朝の事、富士見原の往来で、チーンと三味線の音がした。門附けが一人通って行く。だがいったいどうしたんだ! こんな早朝に門附けとは?
ガラリと一軒の戸が開いた。
「へい」というとその門附け、三味線を抱えて弾き出した。
翼休めよ
これで解った、この門附け、阪東薪十郎の成れの果てだ。だが河東節の門附けとは? かなり面妖なものである。
「ふざけるねえ、朝っぱらから?」すぐにポンと
「へい」というと薪十郎、門を離れて歩き出した。と、もう一軒の門へ立った。
翼休めよ禿松
「うるさい!」「へい」と歩き出した。とたんに誰かにぶつかった。
「気を付けやがれ!」「これは
「
「はてな聞き覚えのある河東節」
こう呟やいた者がある。編笠を冠った浪人姿往来に立ち止まって耳を澄ました。尾羽打ち枯らしてはいるけれど、まさしく志水幹之介。
このへんから新規の事件が起こる。
朝まだきの富士見原、往来に立った阪東薪十郎、
「秋の一夜だ、武蔵野の茶屋で、最後に八重梅と逢った時、二階から聞こえて来た河東節、あああいつに似ているなあ」いつまでも佇んで動かない。
と、薪十郎歩き出した。「
「盲人盲人、どうしたな」こういう声が聞こえて来た。他ならぬ志水幹之介である。聞き覚えのある河東節、懐かしんでつけて来たのである。薪十郎と並んで腰かけた。
それから交わされた二人の会話――
「へえ、どなた様でございますな」
「ああわしか、通りかかりの者だ」
「へえへえさようでございましたか」
「尾羽打ち枯らした浪人だよ」
「ああお侍様でございましたか」
「富士見原からつけて来たものだ」
「ヒッ」と云うと飛び上がった。「ク、首ですね! 首のご用!」
「ハッハハ」と幹之介、さびしく笑ったものである。「朝っぱらから切り取りをする! 今の俺にはそんな度胸はないよ」
「へえ、有難う存じます」ふたたび縁へ腰かけたが、「お侍様へ、お聞きいたします、あの只今は朝っぱらなので?」
「ああそうだよ」初冬の朝だ。
「ふうむ」と薪十郎考え込んだ。「いよいよ世間は冷めてえなあ。
「盲人盲人」と志水幹之介、優しい声で呼びかけた。「わずかではあるが鳥目を進ぜる。ひとつ玉菊を唄ってくれ」
「へえ」というと鎌首を上げた。「玉菊がご所望でござんすかえ?」
「俺にとっては思い出の唄だ。聞いて涙を流したい」
「へえ」と云ったが眼をむいた。「私にとっても思い出の唄で。骨髄に透った怨みのね!」
「ああそうか、わしは違う。恋しい思い出の唄なのさ」二人しばらく黙っていた。と幹之介不意に云った。「ああここは浅間の社地! いよいよ昔を思い出すなあ」
「何!」と突っ立ったのは薪十郎である。
「何!」と突っ立った阪東薪十郎。「ダ、旦那ア!」と声をしぼった。「何んとか云ったね? 浅間の社地?」
「どうした?」と驚いた志水幹之介。「いかにも社地だ! 浅間のな!」
「たしかだね!」とダメを押した。狂気じみた声である。
「そうだよ」と云った幹之介の声、寂しくて
「怨みの場所だ!」と薪十郎、ヌーッと首を突き出した。見えぬ両眼をカッとむき、前方を睨んだものである。「ワ、わっしゃア、やられたんだ! ここで、この眼を、あの女に!」グタグタと縁へ崩折れたが、「ここまで女を追って来てねえ」
「俺もそうだよ」と幹之介、
「わっしア怨みを晴らしたいんで!」
「俺は思いをとげたいのだ!」
「逢ったが最後、わっしア殺す!」
「俺はな」と幹之介うっとりと、「逢ったが最後二人で活きる」
「眼は真っ暗だが心は明るい! 怨みの青火が燃えているんだ」
「俺とはまるで反対だなあ。俺の両眼は明るいが心は迷妄で真っ暗だよ」
「旦那ア」と薪十郎呻くように、「女ア総体に悪党ですなあ」
「うむ」と云ったが瞑目した。「強い力を持っているよ」
「魔物だ魔物だ! 女ア魔物だ!」
「人の心を
「旦那ア」と薪十郎また呻いた。「わっしア棒に振ったんで! 役者をね! 女のため!」
「俺は侍を棒に振ったよ」
ホーッと薪十郎溜息をしたが、「わっしア探す! 世界の
「俺もどこまでも探す気だよ」
「旦那ア」と薪十郎顫える手で、潰された両眼を指さしたが、「ブッツリ、こいつを、
「心の傷はもっと痛い!」
「聞いてくだせえ!」と薪十郎、グイと三味線をかい込んだ。「怨みの音色だ! 響かせやしょう! 河東節の水調子、この玉菊を弾くごとに、思いを強めるんでございますよ! 復讐のね! 復讐のね!」
「俺とは何も彼も反対だなア、俺はそいつを耳にすると、恋の心が燃え立って来るよ」
やがて弾き出された河東節、こればかりは上手だ、玉菊一曲! 阪東薪十郎唄い出した。あざれた社頭、季節は冬、
弾き終えると薪十郎立ち上がった。「旦那様へご縁があったら……」「ああまた逢おう。……よく聞かせてくれた」
町の方へ別れて立ち去ったが、
と、ヒョイと常夜燈の蔭から、立ち現われた女がある。「ヤレヤレ厭なものを見てしまったよ」呟いたのは荻野八重梅。
常夜燈の蔭から現われた、女役者の荻野八重梅、町家の女房という
「茶屋の武蔵野では薪十郎のために、立ち聞きをされて
ションボリとして佇んだ。
だがいったい荻野八重梅、こんな早朝にこんな所へ、何んの用があって来たのだろう? そうしていったい荻野八重梅、どこに
八重梅は町方に住んでいた。本来なればあの夜すぐに太郎丸の屋敷へ逃げ込んで、かくまって貰うことも出来たのであったが、城方の役人が取り巻いていて、潜って入ることが出来なかった。そのうちとうとう太郎丸、衆と海上へ引き上げてしまった。どうすることも出来なくなった。そこで止むを得ず桑名町の
そこへ突然
――「明早朝浅間の社地で、こっそり逢いたい」という伝言であった。
「まだお紋さんには逢ったことがないが、いったいどんなお方だろう? ……太郎丸様の
思案に耽けって立っている。
と、一人の町方風、若い娘が小走って来た。つと擦れ違うと社前へ行き、
驚いて八重梅近寄ったのを迎え、
「八重梅さんでございましょうね」娘がそっと声をかけた。
「はい、そうしてあなた様は?」
「妾、お紋でございます」
「おやマアさようでございましたか」
「お住居へお訪ねいたすより、こういう寂しい朝のお宮で朝詣りにかこつけて、お逢いした方が、人目立つまいと存じましてね、使いを上げたのでございますよ」
「まあさようでございましたか。それにしてもどうして妾の住居をお突き止めなすったのでございましょう?」
「妾は烏組の忍び衆、どこへお隠れなされようとすぐに探してしまいますよ。それはとにかく、八重梅さん」
層一層声をひそめ、烏組のお紋話し出した。
「太郎丸のご前の申し付け、どうぞよくお聞きくださいまし。ご前はご立腹でございますよ」
「ご前はご立腹でございますよ」嚇すように云ったが烏組のお紋、顔は愛想よく笑っている。
「と云うのはあなたがやりそこない、中納言様の
「ああさようでございますか」八重梅ちょっと考えたが、「一度失敗したこの妾、何かで取り返しをしなかったら、どうにも太郎丸のご前様へ、会わせる顔がございません。そうは云ってもこの妾も土地で相当人気を取り、顔をしられていた女役者、蝮酒屋へ入り込むにしても、何か趣向をしなければ……ああそうだいいことがある。薪十郎の門附けにならい……ではお紋さん」と元気よく云った。「腕を揮わせていただきましょう」
「ではどうぞね、今度こそうまく」
「まず大丈夫でございましょう」
「浅間の社地の附近には、妾達烏組の連中が腕によりをかけて待っております」
「では」
と二人別れたが、この日も午後に近い頃、七ツ寺の蝮酒屋は、例によって客で一杯であった。
昼飯を食べに沢山の客が、賑やかに入り込んでいるのである。
と、そこへ女門附け、編笠で顔を隠したのが、フラリとばかりはいって来たが、云うまでもなく八重梅。「一膳ご飯をいただきましょう」
腰をかけると云ったものである。
蝮酒屋に入り込んで来た、門附け姿の荻野八重梅、「何をするにもまず最初に、敵の様子を探らなければならない」持って来た昼飯をしたためながら、
「お城下の様子が変りましたね、大分真面目になったようで、お侍さん方は威張って歩かず、女子衆達は派手を止め、商人衆は家業熱心、お職人衆は仕事に精出し、ピンと引きしまったじゃアありませんか」
「それというのも薬草道人様がいまだに、お城においでになり、お館様にお力添えして、お政治向きの改良とやらを、なされているからだと云うことで」
などと、一方の食卓では、真面目な話が交わされている。そうかと思うと一方では、
「面白くないね、この頃の浮世、緊縮緊縮、質素質素、そんなことばかりを云っているので、金の融通が止まってしまった。花柳界なんかア火が消えたようだ。やっぱり何んだな、太鼓でも入れて、あっちでもこっちでもガチャガチャ騒ぎと云ったような景気でないと、儲かるものも儲からねえなあ」悪いことを云っている連中もある。
「聞けば島津太郎丸、いまだに大船を二隻も率い、海にいるっていうことだな。海賊同様な真似をして、沿岸を荒らしているそうだ。暴風でも起こって沈むといい」
などと云っている連中もある。
そうかと思うと一方の隅では、遊び人らしい威勢のいいのが、こんな話を取り交わせている。
「半だアと俺ら張ったのさ、ガラガラポーンと上がったのを見ると、どうだい綺麗に丁じゃアねえか。ヤケだからもう一度半だアとやった! 出たところを見るとやっぱり丁! ヤケだからもう一度半だアとやった! 出たところを見るとやっぱり丁! ヤケだからもう一度半だアとやった! 出たところを見るとやっぱり丁! 長目の丁に引っかかり、ソックリ取られたというものさ」
「そこであばれたというんだな?」「
「どっちみち今日は
「まあさそうそう塩鰯を、軽蔑しちゃアいけねえよ。塩が辛くて
客の間を飛び廻り、例によって愛嬌を売っているのは、他ならぬ組紐のお仙であった。
「おおお仙ちゃん、お銚子を一本!」「おおお仙ちゃん、ここへお
横腹を抑えて荻野八重梅、ムーッと呻いて仆れたので、蝮酒屋のお客さん達、一度にそっちを振り向いた。飛んで来たのは組紐のお仙、
「どうなされました」と親切心からだ、あわてて抱き起こしたものである。
「はい、差し込みが参りまして、にわかにキューッとこの辺が……痛んで参りましてございます」
女役者だけに云うことが、ピタリとイタについて本当に聞こえる。
「それはお困りでございますね。お見受けすれば門附け衆、なるほどこんな寒空に、
「ハイハイそんなようでございます。……痛! 痛! 痛! これはたまらぬ! また差し込んで参りました」身もだえをしてのけ
それを支えた組紐のお仙、
「ではマアちょっと
しめたと思ったが気にも出さず、
「門附け風情がどう致しまして、それでは勿体のうございます。いえいえここでほんの少し、休ませていただいておりましたら、おちつく事でございましょう。……あッ、痛々! また差し込み! キューッとこの辺が刳られるようで。ムーッ」とまたもそり反ろうとする。
「何んの遠慮などいりますものか、門附け衆であろうとも、店へ来られたからはお客様! さあさあおはいりなされませ!」
お仙、本来が女芸人、そこで同情も一倍深い、つい真剣に進めてしまった。
「はい、有難う存じます、それではお言葉に甘えまして、お座敷の端でほんのしばらく、横にならせていただきます」さも弱々しく起ち上がったが、心の中はそれと反対、太いことを考えていた。「ひっ
だがやっぱり弱々しく、さも苦しそうに呻くのであった。
「痛、痛、痛! ……痛、痛、痛!」
お仙の肩によっかかりながら、ヒョロヒョロヒョロヒョロ歩いて行く。
だが心ではおかしくてならない。「店には随分妾の芸を、観に来た奴らもいたようだが、誰一人妾を八重梅だと、感付く奴はいないじゃアないか! それにさ、聞けばこのお仙、江戸の芸人だということだが、眼は鈍いねえ、思ったより! これじゃアどうやら
そこでやっぱり云うのであった。
「痛、痛、痛! ……痛、痛、痛!」
そうして店から消えてしまったが、蝮酒屋に集まっている、宗三郎一統の連中にとっては、危険至極の破裂玉を、背負い込んだことになったのである。
その日の夕方奥の部屋で、浜路と八重梅とが話していた。
蝮酒屋の奥座敷、弥五郎親分の住居だけに、どうして立派なものである。磨き立った器具、時代の付いた調度、畳なども青々と真新しい。
冷えるというので襖を立てきり、どこからも風も洩れないようにしてある。結構な夜具にくるまって、ヌクヌク寝ているのは荻野八重梅、顔がすっかり変っている。左の頬だけへウンと沢山、含み綿をしているためだろう。顔の形がいびつに見える。
その横に浜路が坐っている。何んの変ったところもない。昔通りのよい浜路だ。しばらく静養したためか、血色もよければ肉も附き、それに都にいたためか、
「いくらかよろしゅうございますか?」こう訊いたのはその浜路。
「はい有難う存じます。いくらかよいようではございますが、でもやっぱり横腹の辺が」
八重梅嘘を云っている。横っ腹など痛む筈がない。はなから病気ではないのだから。……しかし病気と云っているので、浜路にはどうやら心配らしい。
「困ったことでございますね。でもご心配なさいますな。間もなく癒るでございましょう。すっかりよろしくなるまでは、ここにおいでなさいませ、ちっとも遠慮はいりません。ここのご主人はご親切、難儀な人だと見て取ると、いくらでもお助けくださいます」
「はいはい有難うございますが、いえそうしてもおられません、そろそろお
厭な女だ、芝居者だけに、どうにもシグサが本物に見える!
「妾すこし
「とんでもないことで、勿体ない。決して決してそんなこと、それに穢のうございます、性の悪い病気がございますので」
辞退したのは当然である。痛くもない所を擦すられたら、くすぐったくてやりきれまい。性悪の病気なんかある筈がない。
だがもちろん浜路には、そんな姦策は見破られない、可哀そうな不幸な女だと、心から同情しているらしい。
ここでしばらく、二人沈黙。店の方から景気のよい酔客の声が聞こえて来る。
と、八重梅探り出した。
「失礼ながらあなた様は、ここのお店のご親戚の方で?」
「いいえ」と浜路打ち消した。「御岳生まれの浜路と申して、ここのご主人とは縁のないもの、いろいろの事情がありまして、ずっと永らく二、三人で、ここのお家に
「まあまあさようでございましたか。それにしても本当によいご
この言葉だけは嘘ではなかった。心でもそう思っているのであった。「そうだろうと眼星は付けていたが、やっぱりこの娘が浜路だったのか、何んて素晴らしい娘だろう。顔も美しいが体がいい。この女にミッシリ芸を仕込み、舞台で踊らせたらどうだろう? それこそ妾の人気なんか、蹴落とされてしまうに相違ない」
で、またさぐりを入れ出した。
バンパイヤ八重梅、さり気ない調子で、またも探りを入れ出した。
「こちらのご主人弥五郎様、顔役衆だと承わりましたが、
正直な無邪気な浜路である、こだわらずに何も彼も話してしまう。
「すぐに集まる乾児衆が、三、四百人はございますそうで」
「豪勢なものでございますねえ」八重梅ちょっと気味悪くなった。「お礼を申したいと存じますが、親分さんはお留守なので?」
「はい昼間から大須の方へ、碁打ちにお出かけなさいましたそうで」
「それは残念でございますこと」だが心では思ったものである。「こいつはちょうど幸いだ」それからまたも訊き出した。「妾も実はこれまでに、二、三度お店へ参りまして、ご飯をいただいたことがございますが、いつもそのつど二十四、五の、立派なお綺麗なお武家様と、
山影という侍と、仁右衛門という浜路の父、二人のことを訊こうとして、出鱈目にこんなことを云ったのであったが、はたして浜路ひっかかってしまった。
「はいその立派なお侍様は、あの妾どもの懇意な方で、山影宗三郎様と申します。もう一人の方は妾の父で……やはり二人ながら妾と同じに、
「おやマアさようでございましたか。ほんとにほんとに山影様という方、お立派なお侍様でございますねえ」
「ハイハイお立派でございますとも。はいアノ大変お立派な方で、はいアノそうしてご親切で、ホ、ホ、ホ、お立派なお方……」
浜路カ――ッと上気したらしい。無理ではなかった、恋人のことを、お立派であると褒められたのだから。
「今日はお見掛け致しませんが?」
「はいこの頃は毎日毎晩、お城の方へお出かけになり、見張っているのでございます」
「え、見張り?」と、荻野八重梅、ちょっと意外な顔をした。
「薬草道人様のお出ましをね、見張っているのでございますの」
「ああ評判の薬草道人様で。……でもどうして見張ってなど?」
「近々にお城をお出ましになると、もっぱら評判でございますので」
「アノそれでは道人様に、何かご用でもおありなさるので?」
「はいさようでございますとも、道人様にお縋りし、江戸表までお供する、これが妾達の願いなので、それで今日までもこのお家に」
「それに致しても見張らずとも……」
「
よいことを聞いたと思ったが、八重梅顔へは現わさなかった。「そう致しますと今夜なども、遅くお帰りでございましょうねえ」
「遅くお帰りでございましょう。だから寂しゅうございます」
日がだんだん暮れて来た。夜になるのも間があるまい。「痛、痛、痛!」と荻野八重梅、またも横っ腹を抑え出した。
「痛、痛、痛!」と八重梅め、またも横ッ腹を抑え出したが、「いえもう癒ってしまいました」ケロリとしたような顔をした。だが心では考えている。「さてこれから何を訊こう? うん、まだまだ二つばかりある」そこで探りを入れ出した。「妾をご介抱くださいました、お仙様とかいうお店にいるお方、ほんとによい方でございますねえ」
「はい」と浜路嬉しそうに、「ほんとにほんとによい方で、芸人さんではございますが、いやらしいところなどは微塵もなく、
「はいはい有難う存じます。大分納まって参りました。……それはそうと浜路様、今年の秋口でございましたが、太郎丸とかいう悪人が、お城下にいたことがございましたねえ」
浜路はブルッと身顫いをした。恐ろしかったあの時のことを、にわかに思い出したがためである。
八重梅それには無関心に、
「その太郎丸とかいう悪人が、使っていたとかいう女忍び衆、
と、浜路、うっかりと乗り、
「いえもうおいでではございません。お役目が済んだとか申しまして、そのお頭のお絹様はじめ、ほんの最近に皆々様、江戸へお立ち帰りでございますの。……よい方達でございましてね、妾達とも大変仲よく、お
不意に浜路口を閉じた。
「
「ではご案内いたしましょう」
「何んの何んのあなた様、とんでもないことでございますよ。いえいえ結構でございます。こんな穢ない
部屋を通って奥へ行った。縁があって裏庭がある。「庭の様子を見てやろう」下駄を突っかけた荻野八重梅、音を立てずに歩き出した時、
「八重梅さん、八重梅さん」
板塀の向こうから声がした。聞き覚えのあるお紋の声!
塀へ身を寄せると荻野八重梅、
「ああお紋さんでございますか?」
「ちょっと様子を見に来ました」
「首尾は上々、お話しましょう」
「簡単にね、急いでね」
塀の内外でお紋と八重梅、こんな調子に語り合った。
「浜路はいるでございましょうね?」こう訊いたのは烏組のお紋。
「はい」と云ったのは八重梅である。
「水戸の鷺組の連中は?」
「最近江戸へ引き上げましたそうで」
「この家の主人弥五郎は?」
「大須へ行って今は留守」
「宗三郎と仁右衛門は?」
「城の表門と裏門へ」
「何んのために?」と烏組のお紋。
「薬草道人こっそりと、出立するという事でしてね」
「いい事を聞いた、大成功! で、お仙は? 大蛇使いの」
「店でチョコマカ働いています」
「で、どうだろう、八重梅さん、浜路を外へ連れ出せまいか?」
「さあそいつだが、むずかしそうで。あのいい
「ああなるほど、そうでしょうね」ここでお紋の声が切れた。「それじゃいっそこうしよう、蝮酒屋を焼き討ちにかけよう。部下を率いて伊集院さん、妾を助けに来てくれたからね、思い切った荒療治をやらかそう。妾にも伊集院さんにも怨みがある、浜路といわず一切合切、仁右衛門、宗三郎、お仙まで、ひっ攫うことに決めてしまおう。……縦横に飛ばせましょうトヤ駕籠をね。ナーニ鷺組さえいなかったら、今度こそ負けっこはありゃアしない。……そうは云っても
「そこで妾があの娘を連れて、浅間の社地へ駈けつける」
「これなら出来ましょうね、八重梅さん」
「いと易いこと、大丈夫でござんす」
「それじゃアその気で」
「待っていましょう」
そのまま二人は別れたが、痛、痛、痛と云いながら、荻野八重梅部屋へ返った。
こうして夜になった時、蝮酒屋の裏手にあたり、カ――ッと焔が燃え上がった。
火事だアーッと喚く人の声!
と同じ家の左手にあたり、またもや火の手、カ――ッと上がった。
火事だアーッと叫ぶ人々の声!
とまた同じ家の右手にあたり、炎々たる焔が燃え上がった。
三方から火の手が上がったのである。
お紋の部下ども三方に分れ、すなわち放火したのである。
名に負う盛り場の七ツ寺、見る見る修羅の巷となった。走って来る者、逃げる者、避難する者、荷出しする者、それを見物する弥次馬連! スリ
「浅間の社地で宗三郎さん、太郎丸の一味に囲まれている! あぶないあぶない! あぶないあぶない!」
だが本物の宗三郎は、この頃城の大手の前を、静かに一人で
「はてな?」と云って空を見たのは、にわかに七ツ寺の方角が、桃色に明るくなったからである。
「火事かな?」と云って佇んだとたん、木立の蔭から
七ツ寺方面火事である。ここは大手、夜の闇が濃い。そいつを
驚いたのは宗三郎、柄へ手をかけると横へ飛んだ。
「これ、何者、人違いをするな! 拙者山影宗三郎、水戸家の藩士、当地では旅人、怨みを受ける覚えはない!」闇を通して窺った。
敵は正しく武士姿、無言でジリジリと付け廻して来る。大した手利きでもなさそうだ。
「おかしいなあ」宗三郎、刀も抜かずに思案した。「ははあさては物取りかな? それとも尾張家の悪侍の、酔狂の果ての辻斬りかな? どっちにしても物騒な奴だ」もう一度声をかけて見た。
「これこれお武家、理由を云わっしゃい! 辻斬りならば
やっぱり無言、ただジリジリと、敵の侍付け廻して来る。
「うるさい奴だな、嚇してやろう。肩のあたりを、峰打ちに一つ!」
で、宗三郎スッと抜いた。ヒョイと柄を一捻り、峰を上に片手上段、例によって左手をブラブラ遊ばせ、しばらく様子をうかがった。
「行くぞよ」と云うと宗三郎、一歩どころか一息に、スルスルと五、六歩進み出た。
ギョッとしたらしい敵の侍、なだれるように退ったが、掛け声もなく飛び込んで来た。そこを目掛けて斜めに落とした、宗三郎の太刀につれ「ウン」という呻きが聞こえたが、俄然体が縮こまってしまった。つまり尻餅をついたのである。
「大変弱いの、もう帰れ! 右の肩が膨れ上がるかもしれない、家へ帰って膏薬でも張れ。俺を怨むなよ、責任はない」
どうやら胸に落ちたらしい、ヒョロヒョロ立ち上がると敵の武士、バタバタと木蔭へかくれてしまった。が、どうだろう、それと引き違いに、二人の人影が現われた。やっぱり武士だ、構えを付け、左右に分かれて
「うむ、また出たな、これは不思議、物取りや辻斬りではなさそうだ」ピカリと心を掠めたのは、太郎丸一味のことであった。きゃつら海上に船を浮かべ、いまだにいるということだが、さてはいつの間にか上陸し、襲って来たのではあるまいかな? もしそうなら油断はならぬ、確かめてみよう、もう一声!」[#「もう一声!」」はママ]そこで宗三郎声をかけた。「
だがやっぱり返辞がない。ジリジリと逼って来るばかりだ。
「いよいよそうだな」と宗三郎、ここに初めて斬る気になった。柄を廻すとソリを返し、真の真剣少しく低め、呼吸を調え
とたんに一人、左手から、命の欲しくない道化た冒険児、黒々と刎ねて切り込んで来た。
「可哀そうだが!」と宗三郎、足踏みちがえると、ダーッと一刀! 冴えた腕だ、
一人の敵を袈裟掛けに、切って落とした宗三郎、そこを目掛けてもう一人の敵、突いて来たやつを太刀を廻し、ジャリーンとばかり横へ払った。しまった! と敵の叫んだのは、得物を落とされたからであろう。
つづいてガッという悲鳴がした。
広光鍛えの
二人を
と、はたして木蔭から、十数人の人影が、一団に
「山影氏、ご無事かな」声で解る、伊集院五郎、「うむ、貴様か! また来たか!」一足宗三郎前へ出た。
「さようで」と伊集院おちついている。「福島で一度、
「そうさ」と宗三郎また一歩。「片をつけてもいいころだ」「さようで」とやはりおちついている。「片をつけてもよい頃で。で、片つけにめえりやした」
「そうか、よかろう、武士らしくやれ! 以前のように逃げるなよ」
「場合によっては逃げもするさ」伊集院いよいよおちつき払い、「が、それ前に山影氏、云ってお聞かせすることがある。何んと思われるな、あの火事を!」
云われて宗三郎空を見た。どうやら大火となったらしい。南の方角真紅を呈し、この辺までも明るんで見える。
「蝮酒屋が燃えてるのさ」愉快そうに伊集院まくし立てた。「焼き討ちしたのだ、我々がな! 海から上がった我々がな! 浜絡もお仙も今頃は、火中でコンガリ焼かれていよう! うんにゃ、少し違う、そっちへ向かった我々の手で、捕虜、捕虜、捕虜! 捕虜にされていよう! さてもう一つ、胆の潰れる話! この裏門にいるという、浜路の父の萩原仁右衛門、こいつも恐らく今頃は。そっちへ向かった我々の手で、捕虜、捕虜、捕虜! 捕虜にされていよう! ……これ、これ、これ!」と伊集院、今度は味方へ云い含めた。「な、随分山影氏は、円明流では腕利きだ、三丁目の戦いでも解っているはず。それを何んぞやオッチョコチョイめが、討ち取ろうなどと
声に応じて宗三郎の
こうして完全に宗三郎、伊集院の姦計に引っかかり、グルリ包囲されてしまったのである。
「いかがでござんす山影氏、これでは手も足も出ますまいがな」
伊集院の姦計に引っかけられ、包囲を受けた山影宗三郎、いわゆる
死に身の勇気、男らしく、
驚いたのは伊集院だ。「ほほうなるほど考えたな、円明流の兵法には、ああいう歩き方もあるものと見える。うっかりすると逃げられるぞ」そこで下知したものである。「あいや方々おかかりなされ! 一騎駈け、二騎駈け、結構でござる! 何んでもよろしい、討って取りなされ! 取り逃がしては一大事、乱刃に取り込め、仕止めろ! 仕止めろ!」
声に応じて左右から、ムラムラと数人寄せて来た。が、背後へ廻られぬ以上、左右と前方、この三通り、三方から斬り入るより仕方がない。互いの打ち物が邪魔になり、しかもめったに同時にはかかれぬ。寄せては見たが数人の武士、声を掛け合うばかりである。いわんや宗三郎今は必死、
自信家と見える、敵の一人、その時前から斬り込んで来た。
ピューッと右剣! 斬ったのではない、ぶん撲ったというやつだ、山影宗三郎太刀を飛ばせた。勝負は簡単、まず悲鳴、グルリと体を反らせると、自信家め左へぶっ仆れた。見やりもせずに宗三郎、心眼で解る、身を捻るや、小刀を引いてグット大刀、左へ向かって突き出した。果然悲鳴の起こったのは、宗三郎が一人を切り、体の構えの変ったところを、早くも狙って敵の一人、拝み討ちに討とうと飛び込んで来て、自分勝手に自分の力で、自分の胸を突かせたのである。
仆れる奴をそのままに、こいつも感覚、宗三郎、身を
が、しまった、木立が切れた! 石垣もない、行く手は空地! 一旦そこへ出たが最後、敵に背後へ廻られるだろう! 「どうしたものか!」と足を止めた時、伊集院五郎進み出た。
前へ進み出た伊集院五郎、さも憎さげに嘲けり出した。
「働きましたな、山影氏、見事なもので、しめて五人、さも華やかに退治ましたな。が、いよいよ土壇場へ来た。行手は空地、出たが最後、今度こそ引っ包んで討って取る。前後左右から
云われて太郎丸の部下の者、少しく後へ退いた。
「が、それにしても遅いなあ」呟きながら伊集院、南の方角へ眼をやった。何かを待っているらしい。その南の空は赤く、いよいよその色を加えて来た。蝮酒屋から飛び火して、七ツ寺界隈一円に、どうやら火事が拡がったらしい。
山影宗三郎構えたまま、グルグル胸の中で思案した。「後へは帰れぬ、同じことになる! 先へも行けぬ、取り込められる! と云ってここで
サーッと山影宗三郎、空地の方へ走り出した。
「それ方々!」と伊集院、「引っ包んで討て! 取り込めろ!」
グルグルグルと引っ包んだ。
「待て待て!」とにわかに伊集院、後へ引きながら声をかけた。「もう大丈夫! すててお置きなされ!」
その時火光を背景にして、一団の人数が丸く
「伊集院さん、遅くなったよ!」
そこから女の声がした。烏組の副将お竹である。
山影宗三郎の前二間、その辺まで来るとその一団、不意に止まって左右へ開いた。真ん中に置かれたはトヤ駕籠である。
「宗三郎さん、さあおはいり!」
お竹の声が響き渡った。つづいて駕籠の戸の開く音がした。
(これで勝負は片付いた)宗三郎の体
駕籠の戸が閉ざされ駕籠が上がり、舁ぎ出されようとしたそのおりから、もう一挺のトヤ駕籠が、大勢の者に守られて、城を巡って現われた。
「うまく行ったか?」と伊集院。
「萩原仁右衛門、取って押さえました」その一団から声がした。
「さあそれでは急いで海へ!」
二挺のトヤ駕籠を真ん丸に包み、伊集院の一団走り出したが、この頃七ツ寺の火事場を遁がれ、浅間の社地の方角へ、走って行く三人の女があった。八重梅と浜路とお仙である。
七ツ寺の火事を後にして、八重梅、浜路、お仙の三人、浅間の社地の方へ走って行く。
どうして走って行くのだろう?
突然の火事、それに続いて、「山影宗三郎様、浅間の社地で、太郎丸の手の者に取り巻かれている! あぶないあぶない!」という声がした。
それを耳にして浜路とお仙、火事も心配ではあったけれど、それより一層宗三郎の、身の上の方が案じられた。「どうしよう!」と
「ご案内しましょう、浅間の社地へ! こっちでございます、こっちでございます!」
そこで浜路も組紐のお仙も、夢中で駈け出して来たのであった。
蝮酒屋の突然の火事も、宗三郎あぶないという声も、島津太郎丸の手の者の、みんな姦策だということや、病気で転げ込んだ
まして浅間のその社地に、烏組の連中がトヤ駕籠を備え、待ち受けていようというようなことは、想像することさえ出来なかった。
「早く早く浅間の社地へ! どうぞ山影宗三郎様、ご無事でおいでくださるよう!」こう念じながら走るのであった。
火事場へ行く者、火事場から逃げる者、往来は人間で埋ずまっている。罵る声、叫ぶ声、叱する声、悲鳴泣き声! 往来は声で埋ずまっている。掻き分け掻き分けひた走った。今日の地理で云うときは、別院の東側を南へ向け、七丁目から八丁目を過ぎ、橘町から東へ曲がり、真っ直ぐに行けば梅川町! さすがにこの辺まで来た時は、天こそカ――ッと赤かったが、人影はまばら、灯影もまばら、これまでが恐ろしい
と、黒々と木立が見えた。
「あれあそこが浅間様! もう一息でございます! さあさあおいでなさいませ!」
八重梅先に立って急がせた。
「急ぎましょう、お仙様!」
「急ぎましょう、浜路様!」
声を掛け合ってひた走る。
いよいよ行きついた浅間の社地! 見廻したが何んの人気もない。木立がすくすくと立っている。常夜燈の灯がまたたいている。奥に古びた社殿がある。ただそれだけだ、森閑としている。
ぼんやり突っ立った浜路とお仙、顔を見合わせたものである。
「誰もいない! 人ッ子一人も! いったいどうしたのでございましょう」こう云ったのは浜路である。不安で声が顫えている。
「それではもしや山影様は、島津太郎丸一味の者に、連れて行かれたのではございますまいか?」こう云ったのは組紐のお仙、恐怖で声が顫えている。
浜路フッと気が付いた。「姿が見えない、門附け衆の?」
「おや」とお仙も気が付いた。
「どこへ行ったのでございましょう?」
いかさまこの時、八重梅の姿、どこへ行ったものか見えなかった。変だな! と二人思った時、木蔭から人影が現われた。黒装束で十二、三人!
木蔭から現われた十二、三人の人影、タラタラと並んだものである。
ヒョイと一人が前へ出た。
「これは浜路さんにお仙さん、随分久しく逢いませんでしたねえ」
常夜燈の光に照らされて、烏組のお紋だとすぐ解った。
「あい妾さ、烏組のお紋さ」お紋愉快そうに喋舌り出した。「でもご縁があったと見え、お目にかかることが出来ましたねえ。と云うよりもこう云った方がいい。島津のご前太郎丸様、別嬪の浜路様にご用があり、妾達が迎いに参ったとね? もう駄目だよ、往生おしよ。ジタバタしたって
こいつを聞いた浜路とお仙、仰天したが追っ付かなかった。しかし二人ながら気丈者だ、取り乱そうとはしなかった。
ピカリ気付いたことがある。
「それじゃア何んだね……」組紐のお仙、怒りの声を筒抜かせた。「にわかに差し込み痛い痛い……などと、憐れっぽく持ちかけて、蝮酒屋へ転がり込んだ、あの女の門附けも、やっぱりお前達の仲間だったんだね?」
「そうさ」とお紋面白そうに、「仲間も仲間、立派な仲間さ」
「そうだねえ」と云いながら、木蔭から出たのは荻野八重梅、含み綿を取り
「浜路さんにお仙さん、何んとも申し訳ございませんねえ」
まずこう云ったものである。決して揶揄的の調子ではなく、心から恥じたような調子であった。
心から恥じたような口調をもって、荻野八重梅云い出した。
「ええ浜路さんにお仙さん、ほんとに申し訳ありませんねえ」もう一度繰り返したものである。
「さっきはご親切にあずかりました。心からお礼を申しますよ。妾の身分は女役者、笠屋一座の荻野八重梅、だがもう一枚ひっ剥げば、太郎丸のご前の女間者、そこでお二人を連れ出すため贋病気の差し込みで、お察しの通り蝮酒屋へ、転げ込みましてございますよ。そうしてその上、浜路さんの、
烏組のお紋笑い出してしまった。
「おやおや、おやおや、偉いことになった! ひどく菩提心を起こしたものねえ。ヤキが廻ったと申そうか、
声に応じて現われたのは、真っ黒に塗られた二挺のトヤ駕籠、ドンと地上へ置かれると、ガラッと扉がひらかれた。争う暇も何んにもない。スーッとばかりに浜路とお仙、トヤ駕籠の中へ吸い込まれた。「さあおやりよ、急いで海へ!」叫んだは烏組のお紋である。ポンと上がった駕籠二挺、そいつを真ん丸に引っ包み、烏組の連中走って行く。空は真っ赤だ、火事は盛ん! それの
「おや」と八重梅驚いたらしい、常夜燈の蔭へ身を隠したが、現われたのは阪東薪十郎。
フラフラとやって来た阪東薪十郎、杖を突っ張ると佇んだ。
「火事だというが俺にゃア見えねえ」
それでも空を振り仰いだ。
「七ツ寺だということだが、昔の俺なら大好きな火事、何を措いても飛んで行き、弥次馬根性をさらけ出すんだがなあ。眼が見えなくちゃア仕方がねえ」ここでグッタリ、
またションボリと首を垂れた。
上からは火事の
「ナーニ」というと意気込んだ。「肉眼はなくとも心眼がある! 怨みの青火だって燃えている、探さないで置くか! こいつで照らし!」
そこでコツコツと歩き出した。社殿の方へ歩いて行く。
と、この時町の方から、またも一つの人影が、フラフラと社地へはいって来た。何んと志水幹之介ではないか!
社殿の前まで行った時である、幹之介無心に顔を上げた。縁に何者かうずくまっている。
「そち、今朝方の盲人ではないか?」
首を突き出したが薪十郎、「お声でわかる、あなた様は、今朝方のお侍様でございますね」
「そうだよ」と云うと幹之介、並んで縁へ腰かけたが、そうやって二人の並んだ様子、今朝方とそっくり同じである。
「盲人、盲人、何んと思って、また浅間の社地へ来たな?」
「はい」と云ったが薪十郎、クックックッと笑い出した。「何んと思ってお侍様には、浅間の社地へ参りましたかな?」
「ああそれか、何んでもないよ、俺にとっては思い出の社地、それであくがれてやって来たのさ」
「私もおんなじでございますよ、怨みの土地の浅間で。それで迷ってやって来ました」
「それに俺には」と幹之介、さも寂しそうに云い出した。「他に行き場所がないからなあ。これから毎日来るつもりだ」
「私にも行き場所はございません。毎日来るつもりでございます」
「人間いったん落ち目になると、扱かわれるなあ、冷っこく」
「ヘーイ、それじャ、旦那様も」薪十郎幾度か頷いたが、「冷とうござんす、浮世はねえ。……昔の
「一層悪いよ、俺の方は」幹之介胸へ腕を組んだ。「実家はもちろん同僚の家の、門さえ跨ぐことが出来ないのだ。お城下にいるということさえ、知らせてはならない身の上なのだ」
「そいつもみんな女のためで?」
「うん」と幹之介
「それに致しても、その女、どんな身分でございましたかな?」阪東薪十郎訊いたものである。
「それに致しても、その女、どんな身分でございましたかな?」こう薪十郎にたずねられ、志水幹之介黙ってしまった。云おうかそれとも云うまいか? ちょっと思案に暮れたのである。
「市井の女だよ、身分といえばな」幹之介簡単にこう云ったが、「お前の女は何者かな?」
「へい」と薪十郎口惜しそうに「同商売の女でございましたよ」
「ああそうか、同商売。……とするとやっぱり門附けかな?」
「なんの旦那様、門附けは、近頃の商売でございますよ」
「ああそうか、それはそれは。で、昔の商売は?」
「これでも役者でございました」
「役者?」と訊き返したが幹之介、にわかに注意を
「へい、さようでございます。人気さえあればいい商売、そうしてあっしにもいささかながら、人気もあったものでございますよ」
「で、この土地の役者かな?」
「橘町の小屋にいました」
「何、橘町? ふうむ、そうか。……俺の女も橘町にいたよ」
「
「いいや」と云ったが暗然とした。「お前と同じような役者だった」
「へーい、それじゃア女役者で?」薪十郎ヌッと首を抜いた。
「ああそうだよ」と幹之介、「芸も達者、美人でもあった」
「橘町の女役者?」延ばした首を引っ込めたが、阪東薪十郎考え込んだ。「玉川千玉、
「俺にはそうは思われないよ。その女は大変親切だった」
「へーい、親切? これはこれは、親切のあげくに手を切られたんで?」嘲笑うような調子である。
「それがな」と幹之介
「それは結構でございます」薪十郎いよいよ歯を見せたが、「万事万端物事は、なるだけよい方へよい方へと、お考えなさる方がよいようで。が、それにしても旦那様へ、どうしてお別れなすったので」
「云ったではないか、行き違いだとな」
「いろいろございますよ、行き違いにもな。わっしがこの眼を潰されたのも、行き違いと云えば云えますので。ナーニこいつは思い違いだ。大丈夫だな! 手にはいる! そこで
「ううむ」と云った幹之介、一層注意を傾けた。「似ているなあ、そっくりだ。俺もその女と名古屋を売り、江戸へ行こうとしたものさ」
「へーい、さようで、こいつア面妖だ! で、お前さんの女の名は?」阪東薪十郎探り出した。
「笠屋一座の荻野八重梅!」
「おお!」と喚くと薪十郎、杖を
「それじゃア手前は幹之介だな?」喚いて突っ立った阪東薪十郎、
と
仰天したのは幹之介、飛び上がると横へ引っかわした。
「ははあそうか」と云ったものである。「それでは貴様が怨みをこめ、さがしていたのは八重梅か! そう聞いては捨て置かれぬ。逢ったが最後殺すとあっては、八重梅にとっては物騒な奴、俺にとっても邪魔な
引き足をして窺った。それからさらに云い継いだ。
「立ち去れ立ち去れ、許してやろう。思い切るがいい、八重梅をな! そうして安穏に世を渡れ、後生を願って、真面目にな。……それに」と云うと寂しそうに、「考えて見れば不思議な縁だ。一人の女に恋い焦がれ、二人ながら女をなくしたのだ。それとも知らず今朝方から、仲よく二人で話したではないか。親しみをさえ感じたものだ。どうも俺にはお前が切れない。俺も立ち去る、お前も行け! そうして」と云うと、暗然とした。「お前も探せよ、止むを得ない。俺も探すよ、八重梅をな。どっちが早く目付けるか、自然の成り行きに任せよう。これ以外には道はない。何んと思うな、阪東薪十郎?」
「駄目の皮だア」と罵った。「これ
またもや杖を振り込んだ、ヒョロヒョロ、ヒョロヒョロと寄って来る。
「これは駄目だ」と幹之介、決心して刀を引き抜いた。「ああこの執念、醒める期はあるまい。いっそ
でスルスルと寄って行った。
いっそ後腹の病めぬよう、叩っ切ろうと幹之介、薪十郎の側へ寄って行った。
「抜いたな抜いたな、よく抜いた。……解る解る。
武道は知らない、しかしながら、舞台では無数に人を切った。歌舞伎の
ギョッとした志水幹之介、撲たれようとして飛び退いた。
と、何んと薪十郎、あたかも眼のある人間のように、飛び退いた幹之介を杖の面前へ、シタシタシタシタと詰めて行く。
「驚いたなあ」と幹之介、今はすっかり懸命となり、敵を討とうより身の護りに、ピッタリ太刀を中段に付け、息を殺して睨み付けた。
と、薪十郎喚き出した。
「解る解る、どこにいるか解る! 逃がすものか! 逃がすものか! ……黙っていようと
と云うとのしかかる
辛くもひっ外した幹之介、今は怒りに
と飛びかかった。目差したは左肩、ザングリ一刀、切り付けたとばかり思ったところ、どうして
「駄目だア」とばかりピョイと反せ、幹之介のよろめく足の辺り、これも感覚、両手の
「アッ」と声を上げたのは、高股を打たれた幹之介で、グタグタと地上へへたばった。
「ク、くたばれーッ」と薪十郎、気勢に乗って拝み打ち、シ――ンと真っ向から打ち下ろした。
が、そうそうは狙いが取れない、打ち外した杖で大地を叩き、
「いけねえ」
と
「キ、切ったなアーッ」と悲鳴したが、傷口を抑えて薪十郎、ヌ――ッと横仆しに転がった。「キ切ったなアーッ、切ったなアーッ」
血が流れ出る流れ出る!
「キ、切ったなアーッ」と呻き声。次第次第に細って行く。顫える全身、致死期の痙攣、「キ、切ったなアーッ」とまた喚く。
ヒョロヒョロと立ち上がった幹之介、片手で痛み所を抑えたが、片手でダラリと太刀を下げ、放心したような据えた眼で、
空は
逢った二人、八重梅と幹之介、顔を見合わせたものである。
キュ――ッと八重梅刀をしごいた、懐紙が真っ赤だ。血糊である。ポンと捨てると
「きゃつを殺した! 薪十郎を!」
「常夜燈の蔭で見ていました」
「お前を殺そうとした奴だ」
「立ち聞きいたしましてございます」
「俺はな、俺はな、人を殺したのだ!」
「あなたは
と、幹之介歩き出した。とりとまりのない歩き方である。
「どこへ?」というと荻野八重梅、袖を捉えたものである。
「うむ」と云ったが幹之介、しばらくじっと考え込んだ。「どこへ行こう? ……ああどこへ? ……自首だ!」と喚くとまたフラフラ、町の方へ向かってよろめき出した。とまた不意に立ち止まった。「俺はいったい誰なんだ? ……俺はいったいどうしたんだ? ああそうしてここはどこだ?」眼を垂れて、
「幹様!」というと荻野八重梅、両手を延ばすと
「ああやっぱり八重梅か」
「憎い女でございます。どうぞお憎みくださいまし」
「何んのお前が悪人なものか! 私は信じる! 信じているよ。だが」というと首を捻って、
「どうしてあの晩来なかったのだ? え、この社地へ、浅間の社地へ?」
「来られなかったのでございます。いえいえ正直に申します。来る気がなかったのでございます。
「
「可哀そうな幹様! 可哀そうな」
「八重梅!」とまたも放心的に、「お前はとんでもない間違いをしたよ。あれは眠剤ではなかったそうだ。恐ろしい毒薬、
「はい」と云うと凄く笑った。「
「とうとう私はやりそこなったよ。薬草道人に見現わされてな。……そうして私は浪人したよ」
「妾の罪でございます。一切合切、何も彼も……」
幹之介うっとりと前方を見た。「どんなにお前を探したことか! お前もやっぱり探したろうなあ」
八重梅返辞をしなかった。
「笠屋仙之の小屋へも行った。だがお前はいなかった。一軒一軒覗いて見た、このお城下を
その時八重梅力をこめ、幹之介の両足を抱き締めた。ヨロヨロとなった幹之介、刀を落とすとくず折れたが、それを抱えた八重梅の眼から涙が流れたものである。
「何んの幹様、この妾が、あなたをお探し致しましょう。逃げ隠れしておりましたよ」八重梅の口から叫ばれたのは、まずこういう声であった。
「今こそ懺悔、何も彼も、お話しすることに致します」抱きしめた手を一層締め、幹之介の躯を揺すぶったのは、よく聞けというためなのであろう。「何より先に申し上げたいのは、妾の身分でございます。女役者ではありますが、その実名古屋の殿様には、
と、ヌッと突っ立った。拾って握った血だらけの刀、ダラリと下げると睨み下ろした。
「八重梅!」と呻いた声の凄さ。「巧らみもいい! 身分もいい! 許されないのは、最後の言葉、愛相が尽きたら一切夢、見限って綺麗に別れよう! ……うむ、八重梅、こう云ったな?」
血刀をピリピリと動かした。
「俺のこの恋、そう見えるか!」
血刀をピリピリ動かした。
「見えるか! 見えるか! そう見えるか!」
そろそろと血刀を上へ上げた。火事の光と常夜燈の光、ぶっつかってギラギラ反射する。
「この
次第に刀を上へあげる。
「裏切る心が、……
「裏切る心が隙いて見えるわ」
もう一度云うと幹之介、いよいよ血刀を振り上げたが、
「これ!」と云うとヌッと進んだ。「俺はな、以前は疑がった! うむ、お前の心持ちを! ……が、浪人をしてからは、一度も疑がったことはない! 疑がいの心の起こるような、隙のある恋をしなかったからだ! どうでもお前を目付けよう、目付け出したら一緒に住む。一心同体二人で活きる。お前も俺を目付けていよう、もうもうこれには間違いはない。眠剤が砒石の大毒とは、お前も知らなかったに相違ない。俺と一緒に手を取って、他国をしよう一心から、勿体ないがお手もと金、奪わせようとしたのだろう。もうもうこれには間違いはない。さて俺だが浪人をして、お前の
「あなたはお偉うございました!
ピリピリと血刀を波うたせた。常夜燈が光をぶっかけた。
「死を選びますでございます」
肩を切られた荻野八重梅、悲鳴も上げずに歯を食いしばり、左へドッタリ仆れたが、這い寄ると幹之介へ縋り付いた。
「これこそ……幹様……妾の本望!」
腹を切った志水幹之介、グ――ッと体をのめらせた。それへ取り縋った荻野八重梅自然と体がもつれ合い、
「あなたに……切られて……死ぬこそ本望……」八重梅だんだん落ち入りながら、途切れ途切れに云うのであった。「……生きて、一緒に、佗び住まいをしたら、持った性根、お言葉通り、やっぱり、そのうち、あなた様を、裏切ることでございましょう。……誰が、どうして、自分の心を、シ、知ることが出来ましょう。……死んでしまえば何も彼も……みんなおさらばでございます。……」
首が下へと
「幹様!」ともう一度首を上げた。「何んとかおっしゃってくださいまし」
地へのめろうとする首を上げ、「八重梅!」と幹之介洞然と云った。「明るくなった、俺の心は!」
「妾も!」と八重梅、やっと答えた。「ああその上に喜びが……」
「
「苦しゅうございます! それも一刻……すぐもう
「何んの
「そこで二人で……」
「何んの住もうぞ!
「それでは幹様! ……この世だけの縁?」
「うむ」と云ったが次第にのめる。「くりかえすものか、同じ苦痛を! ない方がいい、ない方がいい。今ばっかりだ! 死の
「あんまり寂しい!」と荻野八重梅、驚くばかりにハッキリと、断末魔の勇気で云ったものである。「幹様! ……それでは……あんまり寂しい! ……あんまり! 幹様! 幹様! 幹様!」
「ああ縋るのだ! 今ばっかりへ! ……何んにも見えない! 音が聞こえる! 誰かが遠くで……唄っているようだ!」
「幹様!」
無言。
「幹様!」
無言。
「もう死なれたか! ……それでは妾も……」
グ――ッと八重梅地へ仆れた。
「八重梅!」
無言。
「私の八重梅!」グ――ッと幹之介も仆れかかった。折り重なった。八重梅の上へ!
ボ――ッと常夜燈が照らしている。火事の光が照らしている。
三つの死骸! 幹之介と八重梅、そうして阪東薪十郎!
愛も憎みも、死ばかりが
薬草道人の出発したのは、同じその夜のことであった。
城の玄関昼のように明るい。
正面に立ったは尾張宗春、風采容貌打ち上がり、高朗としてまさしく貴人、威厳と柔和兼ね備わり、
背後に居並んだは一藩の重臣、ご加判衆をはじめとし、城代、側用人、各奉行、用人、大目附け、大番頭、小納戸頭、小姓頭、奥医師同朋さえ居並んでいる。
庭に下り立ち、宗春と向かい、佇ずんでいるのは薬草道人、何んの変ったところもない。依然として
側にあるのは薬剤車、これにも何んの変化はない。いやいや一つだけ変化がある。十本の薬草が花の代りに、果実を結んでいるのであった。
今や別離の挨拶が、取り交されようとしているのであった。
「道人無事で参るよう」
こう云ったのは宗春である。
「いよいよお別れでございます」
こう云ったのは薬草道人。
「いろいろ道人には厄介になった」
「何んの何んの私こそ」
ここでしばらく沈黙した。
「何んとなく名残りが惜しまれるな」尾張宗春また云った。
「お名残り惜しゅうございます」道人もさすがに寂しそうである。
「気候は冬だ、寒気も強い、旅中注意をするがよい」
「殿におかれてもご加養専一」
ここでまたもや沈黙した。
一同寂然と声もない。
と、宗春また云った。
「お蔭で新施政の方針もついた」
「ほんのお口添えをしたばかりで」道人の調子は
「さてこれからは質実で行く」
「それがよろしゅうございます」
「
「無用なものでございますから」道人しずかに
「従来あったものはそのままとし、新しく許した芝居興行、徐々に禁止をしようと思う」
「結構のことに存じます」
「養おうと思うぞ、尚武の気をな」
「それこそ願わしゅう存じます」
「二万有余の大部隊を率い、春日井水野山で鹿狩りをやる!」
「豪快!」と道人一礼した。「士気揚がるでございましょう。……士気大いに揚がることによって、かえって平和は保たれます」
突然宗春手を上げると、空へ指先で字を書いた。
「慈忍! これだ! 余の標語!」それからまたも図を描いた。「慈の上へは太陽を置く! 忍の上へは月を置く! 何んと思うな?」
と微笑した。
何んと思うなと問いかけられ、薬草道人すぐ答えた。
「慈忍を日月の明徳に型取り、天地を照らして諸臣を
「それが政治の要諦と思う」
「決して間違いはござりませぬ」
ここでまたもや沈黙した。
諸臣依然として静かである。
と、道人威厳をもって、尾張宗春へ問いかけた。
「政治の要諦定まった上の、ご領地に対する具体的施政、承わりたいものにございます」
「うむ」と云うと尾張宗春、「名古屋をもって中心とし、大きく海を取り入れる」
「太平洋! 異国へまでもつづく! 貿易交通をなされると見える」
「市中に縦横に掘割をつくる」
「四通八達に便あるよう」
「規模を大きく、四方へ延ばす」
「大名古屋市! ご建設とみえる」
「しかも中身は堅実にな」
「せっかく従来取り入れられました、関東と関西の文物は?」
「
「二大都の美点をお取りになると見える」
「そうして打して一丸とし……」
「第三の都市をおつくりになるか」
「この儀はどうだ!」
「素晴らしい!」
道人の声には感激があった。
その感激で云いつづけた。
「第三こそは進歩でござる。遺伝、第一、境遇、第二、合して出来た第三のもの、すなわち人間にございます……東西渾融、この境地が第三。霊肉一致、この境地が第三。分配公平、この境地が第三。色心不二、この境地が第三。教観具足、この境地が第三。開権顕実、この境地が第三。境智冥合、この境地が第三。階級打破、この境地が第三。美醜妙識、この境地が第三。因果不二、この境地が第三。能所一体、この境地が第三。自由平等、この境地が第三。……そうして第三のものこそは、第一のものにございます。第三、第三と進むところに、生きる道がございます。……第三の都市! 大名古屋市! 第一の都市にございます! それをお作り遊ばすよう! そうしてそれへ宗春卿、堂々とご君臨遊ばすよう。……由来!」というと薬草道人、拝ぎ見るような格好をした。「陽春三月、煙花の候、白馬に跨がり、
「それというのも薬草道人、そちが鍛練をしてくれたからだ」
すると道人微笑したが、
「私はワキ役でございました。そうして殿にはいつもシテ役。……殿! 本心を仰せられますよう」
「うむ」というと尾張宗春、胸を
「どうぞ」というと眼を垂れた。
「余こそお前を活用したものだ」
「さよう!」と道人手を拍った。
「単に私は
「だが道人、お前は仙だ」
「では」と道人微妙に笑った。
微妙に笑った薬草道人、
「私が仙でございましたら、では再び山へ隠れ、鳥や獣を相手とし、くらしをしなければなりますまい。事実私は人界を去り、山へ入るつもりでございます」ここでじっと宗春を見た。「それに反して殿は英雄!」
「ではいつまでも人界に住み、人間のために尽くさなければなるまい」
「さようでございます。事業をなされて」
「破壊ではなくて、建設的事業!」
「それが大事でございます」
「艱難はむしろ余の方に多い」
「人間を相手でございますからな。……殿は艱難に堪えられましょう。また堪えなければなりません」
「道人」というと尾張宗春、なつかしそうにしんみりと続けた。「お前と別れたら寂しくなろうよ」
「殿!」と道人は慰めるように、「そうでなくとも
「高い所にいるからであろう」
「彼
「では仙人の境遇は?」
「あぶなっけのない遠い所から、ただ俗流を罵るだけのもので、いい
「そうでもあるまい」と宗春は云った。「露ニ泣ク千般ノ草、風ニ吟ズ一様ノ松――やはり寂しい境遇ではないか」
「
「なるほどな、そうかもしれない、物慾を一切去ってしまえば、かえって心は賑やかかもしれない」
「徹底した利己主義者! これが仙でございます。思うがままに振る舞いますので」
「艱難相継いで来るごとに、私はお前を思い出すだろう」
「山からすぐに呼びかけましょう、お働きなさりませ、お働きなさりませと」
「うむ、頼む、呼びかけてくれ」
「いえそうではございません」薬草道人暗示的に云った。「いつもいつも殿のお心の中には、私が住んでおります筈で」
「ああそうだ!」と宗春は云った。「俺はお前をさえ抱いている」
「多角的で綜合的! それが殿でございます」
「ではお前よりも私の方が偉い!」
「まさしく!」と道人腰をかがめた。「それを形に現わされた場合、二倍の偉さとなりましょう。さて」
と云うと薬草道人、グルリとモカの方へ振り返った。
「お前達」と呼びかけた。威厳と慈悲との声である。「殿中生活知ったであろうな。上流の暮らし方、味わったであろうな。楽しかったか窮屈だったか、それをこの私は聞こうとはしない。
覗くようにした薬草道人、含めるように云い出した。
「だがモカという商売だけは、この際スッパリ止めなければならない。何故? とまさかにお前達は、私に反問はしないだろうな。と云うのは私よりお前達の方が、その商売のよくないことを、よく知っていると思うからさ」ここで一層
「はい」というと私娼のお吉、モカ達の先頭に坐っていたが、一膝膝を前へ進めた。
「お前さんはどうするね?」
「はい」と云ったが手をつかえた。「やはりこの地に止どまりまして……」
「真面目に稼業をする気かな」
「そう致しとう存じます」
「山影さんとか云うお侍さんのこと、それではスッパリ諦めたかな?」
「恋よりもっと大事なことが、思い付きましてございますので」こう云った時お吉の顔、
恋よりもっと大事なことが、思い付いたとお吉が云う、いったいどんなことだろう?
「ほほうそうか」と薬草道人、やや意外らしい顔をした。「で、それはどんなことかな?」
「妾は誰よりも道人様を、お知りしておるつもりでございます」お吉こんなことを云い出した。
「そうともそうとも
「で妾は名古屋に止どまり、道人様のお心持ちを、伝道致したいのでございます」
「ははあなるほど、どういう方面へ?」
「ここにおられる女の方々へ……」
「うむ、これらのモカ達へか」
「それからもしも出来ましたなら、他の一般の人達へも……」
「結構……」と道人嬉しそうに云った。「私という人間は余りに平凡、私の思想などもきわめて常識、ただわずかに
道人膝まで手を下げたが、
「これで万事は片付いた。さあ出立! また旅だ!」
宗春卿へ一礼した。
「殿、お
「うむ、それではいよいよ別れか。……道人、門までは送らぬぞ」
「殿は人主、大領の君、軽々しく振る舞われてはなりません。……さて猪十郎、車を曳け」
さらに宗春を見上げたが、「モカをご殿へ入れましたため、ご殿の尊厳を一抹といえども、穢しませぬ
「大海は細流を
「すなわち清濁合わせ呑むもの」
「濁った水をも清めてみせる」
「安心致しましてございます」
薬剤車が引き出された。レキレキロクロクと
「道人!」と宗春呼び止めた。
「名古屋を去ってどこへ行くな?」
「はい」と云うと振り返った。「城中蛾眉ノ女、
「山果、
二人同時に大笑した。
「ごめんくだされ」
「たっしゃで行け」
飄々と立ち去る薬草道人、轍の音も遠ざかり、やがて全く聞こえなくなった。
立ちつくしていた尾張宗春、
「最後まで俺を案じてくれたわい」
スタスタと奥へ引っ返してしまった。
ちょうどその夜も明け近い頃、海に添った道を南の方へ、道人の一行辿っていた。
「紅丸紅丸、大風が吹くぞよ」
不安そうに道人云ったものである。
大風が吹くぞと道人に云われ、紅丸不思議そうに空を見た。風の吹きそうな空ではない。穏かに
「何んの道人様、こんなよい朝に、大風なんか吹くものですか」紅丸どうにも信じられないらしい。
「ナーニ吹くよ、大風がな」道人自説を守るのである。
「なんのなんの吹くものですか」紅丸も頑として自説を曲げない。
「よしよしそれでは賭けをしよう」道人こんな事を云い出した。
「ようございます道人様、それでは賭けを致しましょう」紅丸大きに乗り気になった。「負けたら何をくだされます」
「それはこっちから云うことだよ。お前負けたら何をくれるな」
「お好きなものを差し上げます」
「お前には何んにもないじゃアないか。この貧乏な紅丸小僧め」
「あッ、そういう道人様だって、何んにもお持ちでもないくせに、この貧乏な……」
と云いかけたが、「道人め!」とは続けなかった。「道人様めーッ」と云ったのである。
愉快な笑いが爆発した。
猪十郎だけは何んにも云わない。黙々と車を曳いて行く。
奉仕は人をして無言にする! 彼はその種の人間らしい。
海岸の道は歩きにくい。岩、貝殻、石ッコロ、
「道人様、道人様」紅丸やがて呼びかけた。「どこへおいでになるお
「さあてね、どこへ行こう」
「それでは
「
「宛てとは宛てのことでございますよ」紅丸喧嘩でも吹っかけそうだ。
「ナニサ俺だって知っているよ、その宛てという変なものをな。だが宛てという変なもの、きっと裏切られるという約束の下に、ヒョロヒョロ突っ立っているのでな、昔から俺は好まなかったよ。それだのに世間の人達は、むやみと宛てにばかり取り縋っているなあ。そうしてはいつも裏切られてばかりいるよ。宛てにする! 裏切られる! 宛てにする! 裏切られる! 墓場へ行くまで宛てにして、墓場へ行くまで裏切られる」
次第に朝の色が濃くなって来た、海が白々と白んで来た。
「さあ紅丸偉いことになった、お前が負けだ、何かよこせ! ソーラ大風が吹き出した」
はたして道人の言葉の通り、
「颶風が起こりますぞ! ご用心! 帆を下ろしなされ!
並んでいるのは太郎丸。
「何を馬鹿な」と笑い出してしまった。「この穏かな暁に、颶風など起こってたまるものか。空が
ひどく太郎丸はしゃいでいる。
それにはそれだけの理由があった。
想いを懸けた浜路をはじめ、仁右衛門、宗三郎、お仙などという、自分に刃向かった者どもを、一人残らず引っ捕え、胴の間の奥に一つにして、監禁をしてあるからであった。所は船中、周囲は海、あたりにいるのは味方ばかり、少しも邪魔される心配はない。
もっとも心外な点もある。いや大いに心外なのである。宗春を一味に加えそこなったこと! 何と云っても心外である。しかしその代り名古屋を去る際、思うまま武威を示したことが、多少心を慰めてはいる。
「一切は薩摩へ帰ってからだ! 新たに計画することにしよう」
そこで今は何を置いても、早く薩摩へ帰りたいものと、それを願っているのであった。
太郎丸
二
だが西川正休は、その叫び声を止めようとはしない。
「拙者の観察間違いはござらぬ! 颶風が起こる! 颶風が起こる! 海が湧き立つ、大波が起こる! 危険でござる、危険でござる! 早く港へおはいりなされ! そうでなければさらに一層、沖へ向かって突進なされ!」
「何を
「颶風が起こります颶風が起こります!」西川正休主張を曲げない。「拙者天文では専門家でござる。経験と学術とで申すのでござる。必ず起こる、素晴らしい颶風が! ああそれももうすぐだ。間に合うまい、間に合うまい!」だが太郎丸は信じなかった。
「何を馬鹿な! 何を馬鹿な!」
しかしその言葉をハッキリと裏切り、季節違いの
ゴ――ッと烈しい音である。そいつが止むと絶対の無風! 帆がグンニャリと垂れてしまった。つづいておこったのが颶風であった。
山が、海上へ、今浮かんだ! その山が船の方へ延びて来る! 巨大な波の山である。
颶風が起こって山のような波が、船を目掛けて寄せて来た。
「いかがでござるな!」と西川正休、
さすがの島津太郎丸も、どうすることも出来なかった。同じく
「帆を下ろせ! 帆柱を仆せ!
ゴーッと颶風吹き渡る! ドドーン! ドドーンと波が打つ! グルグルグルと船が廻る。後へ後へ後へ! 後へ! 次第に後へ流される。
「ヨイショヨイショ、……ヨイショヨイショ……」
水夫の掛け声は勇ましいが、それさえだんだん弱って来た。
「駄目だ駄目だ! もういけねえ!」
こんな悲鳴さえ聞こえるようになった。
と、暴雨が降って来た。降るのではない、落ち下るのだ! 落ち下るのではない、ひっ叩くのだ! 天! まさしく明けたらしい! しかし何んと空も海も、泥のように濁って暗いことか! しかし一筋黒雲を破り、日光だな、
だがいったいどうしたんだ、この時轟然たる大音響、海の一所から湧き起こった。つづいて「ワーッ」という人間の悲鳴! 「助けてくれエーッ」という救助の声!
僚船二隻ぶつかったのである。
ああ見るがいい、悲しむべき美観!
一隻の船が
もう一隻はどうしたろう? 八分通り左へ傾いたまま、グルグルグルグル、グルグルグルグル死の舞踏を踊っている。
と、忽然と見えなくなった。そうしてその後へ出来たものは、黒曜石の山であった! 山も崩れた! 平らになった! だが数町の
後へ後へ後へ後へ! 太郎丸の船は流される!
待っているのは破壊である! 沈没! 死! 一切空!
後へ後へと流される! 後へ後へと流される! 止まない暴風! 止まない暴雨!
その同じ日の真昼頃、海岸を歩いている一行があった。薬草道人の一行である。
「おやおや本当に馬鹿にしているね。ご覧よ、紅丸、こんなに、天気だ。嵐なんか吹きゃアしませんよ、雨なんか降りゃアしませんよ。……と云ったようにケロケロしている。まるで小人の心のようだ。怒ったかと思うと笑い出す」
こんなことを云いながら歩いて行く。
空も海も
道人と並んで紅丸が行く、その後から薬剤車、曳いているのは猪十郎。
「おや」と云うと薬草道人、ヒョイとばかりに足を止めた。「
いかさま男女とりまぜて、八人の溺死人が海岸の砂に、その
「難船して死んだ人達だな。そう云えば沢山船の破片が、あっちにもこっちにも散らかっているよ。……やッ大変、知っている人達だ!」
道人驚いて覗き込んだ。
「これは萩原の仁右衛門さんだ。ここにいるのは浜路さんだ。……これはうっちゃって、置かれない。どれ」
と云うと腰をかがめ、仁右衛門をはじめ八人の者の、胸を開いて脈搏を見た。
「しめた! 紅丸、活き返るぜ!」
「さあさあそれでは
「馬鹿をお云いよ、紅丸め、溺死人が膏薬で活き返るものか。……まず逆さにして水を吐かせる。……撫ぜろ撫ぜろ腹を撫ぜろ! ええとそれから暖めなければならない。
というと薬草道人、浜路を最初に抱き上げた。道人の診察狂いはない、浜路間もなく
「それ紅丸、介抱だ!」
「はいはい」と紅丸火で暖める。
「さて次にはこのご婦人」こう云って道人抱き上げたのは、他ならぬ組紐のお仙であった。
これも間もなく正気づいた。
「それ紅丸、介抱だ」
「はいはい」と云って火で暖める。
次々に道人蘇生させた。
萩原仁右衛門、山影宗三郎、島津太郎丸、西川正休、伊集院五郎、烏組のお紋。――
物の云えるようになったのは、それから数時間の後であった。
「あなたは薬草道人様!」真っ先に云ったのは萩原仁右衛門。「まことに再生のご恩人! 何んと申してよろしいやら、お礼の言葉とてございません」
「ひどい目に逢われたな、萩原仁右衛門殿」
こいつを聞くと島津太郎丸、ムズと膝を進ませたが、
「そなた薬草道人か! 恩は恩! 怨みは怨み! 拙者は島津太郎丸! よくも我々の計画を、妨害なされたな、名古屋城内で!」
「あいや殿!」
と止めたのは、求林斎西川正休であった。
「私
太郎丸を一
「まだ
「おおさようか、求林斎殿で、お名前とくより存じております」道人の挨拶も慇懃であった。
「それにしても大難に遭われましたな」
「恐ろしい颶風、船は転覆、幸い海岸へ打ち上げられ、ご介抱によって命拾い、有難い儀に存じます」
「何んの何んの」と薬草道人、恩にも着せず手を振ったが、「寿命があったからでございますよ」
「しかし道人のご介抱がなければ、活き返ること覚束なく、命の恩人にございます」
「さようさ」と道人頷いた。「介抱の手が遅れたら、ちと面倒でございましたよ」ここでグルリと薬草道人、太郎丸の方へ膝を向けた。「そこに
太郎丸無言で頷いた。
「名古屋においては太郎丸殿、
しかし太郎丸返辞をしない。
道人かまわず云いつづける。
「それに対してとやかくと、申し上げようとは致しませぬ。と云うのは過ぎ去ったことだからで。ついては」と云うと
「さようさ」と云ったが太郎丸、いくばくか
「だが」と道人すぐ抑えた。「その男子は死んだ筈でござる!」
「え?」
と云うやつを押っ冠せ、薬草道人云い続けた。
「死なれた筈でござる! 死なれた筈でござる! 海に溺れて、すなわち今朝! そこで
「うむ」と云うと一礼した。
「まことに甦生したものは、甦生の道を辿るが至当! 道人!」と云うと頷いた。「お言葉に従うでございましょう」
すると道人立ち上がったが、両手をヌッと差し出した。
両手を差し出した薬草道人、
「方々!」と云うと一同を見た。それから元気よく云い継いだ。「紅丸も来い、猪十郎も来い、方々みんなお立ちなされ、善悪不二、恩讐無差別、この甦生の
声に応じて一同の者、一斉にスクスクと立ち上がり、両手を差し出すと手を繋いだ。
「さて」というと薬草道人、改めて一同を見廻したが、「容貌風采の
ここで道人手を放した。と、そのとたん、白烏、
頭上に大円を描きながら、尚白烏は舞っている。
「さて出立!」と薬草道人「猪十郎さんや、車をお曳き」
その時であった、山影宗三郎、
すると道人頷いたが、「さようでござる、愚老が徳本!」
「おおやっぱり徳本様で! それではなにとぞ江戸表、水府館までご来駕のほど……」
「何かご用でもござるかな?」
すると島津太郎丸、身をぬきんでて云ったものである。「只今将軍家吉宗公、ご大病の身にございますれば、お
「さようでござるか、よろしゅうござる」道人あっさり引き受けてしまった。「どなたであろうと病人なら
「一同お供仕ります」こう云ったのも太郎丸。
レキレキロクロクと
シーッと掛かった
永らく書いた、物語も、この回をもって大団円とする。
薬草道人はどうしたか? 将軍吉宗の大患を癒し、薬剤車を猪十郎に曳かせ、美童の紅丸を供に連れ、眼の明いた白烏を前駆にし、
山影宗三郎はどうしたか? 武士を捨てようと志したが、水府のお館が許さなかった。無双の功臣というところから、加増を受けて大身となり、浜路を迎えて妻とした。一方萩原仁右衛門も、水府館に仕えるよう、切に
組紐のお仙はどうしたか? 「浜路様に恋を譲りました。妾は芸人でくらします」
これが彼女の心意気であった。
宗春卿に至っては、一世の名君として令名高く、任にあること十年ではあったが、その間偉大な事業をとげ、今日のいわゆる大名古屋市の、一大基礎を確立した。
しかし作者は最後に云う、作中に現われた人物のうち、薬草道人甲斐の徳本こそ、強き長き生命を、大衆の間に保つだろうと!
彼、高貴の精神を下等に即して