僕達夫妻が支那見物をするべく秩父丸で神戸を出帆したのは四月の十九日の正午だった。一等船客を、秩父丸は一万七千
同勢は二十三人だった。
本来僕は、この船で上海などへ行くより先に、大連へ行かなければならなかったのだ。と云うのは大連の満洲日報社との取引関係があったから。
僕も
日本の多島海――日本の地中海とも云う
航海は無事だった。
さよう、航海は無事だったがお客さんは無事では無かった。
今度の洋行で(我等の同行者はこの上海旅行を洋行と称していた)初めて洋服を着たという紳士(その実相場師なんだがね)その相場師の紳士が、レデー・メードの洋服を着て、デッキを横行闊歩するのはいいが、バンドをいつも緩めているのでズボンがふんだんにズリ下り、臍の辺を常住に見せているのには降参した。
某綿糸屋の若旦那は、朝、食堂へ出るのに折目のついたモーニングを着、夜、食堂へ出るのに、よれよれの普段着の日本服に袴を穿かないのだから面白い。
正に儀礼顛倒という訳だ。
婦人用厠へ飛び込んでボーイから剣呑を食わされたり、風呂の湯を湯槽の外へドカドカ流すというようなことは一向不思議で無く行われたという次第さ。こういう洋行赤毛布事件は岩倉公一行欧洲旅行以来途絶えていたものと解していたが、案外そうでは無いのだね。
こういう人達と旅行をしたのだ、さぞ不愉快だったろうと君は思うかも知れないが、その実は正反対で、
米国人が沢山乗っていた。
何んと彼等がガツガツとオサケを飲んだことか!
そうだろう、
彼等が婦人を尊敬するということは世界の常識となっているがその常識を僕達は遺憾なく見せつけられたよ。たとえば彼等がスモーキングルームへ集まって話しをしているとして、
僕はタキシード、妻は純日本式夜会服を一着して押し出したものだ。そうして我等の同行者二十一人は、僕達二人を声援する可く部屋の一方の側に勢揃いをしたという訳だ。つまり頑張ったということになるのだね。ヤンキー達も反対の側に勢揃いをしたよ。さて、バンドが始まった。ジャズのホックストロットさ。誰も踊り出さないね。ああいう場合にトップを切るということは
ところが遂々踊り出した一組があったね。それも我等の側からだ。一人の若い美しい中華民国婦人とその
とうとうヤンキー達も出て踊るようになった。彼等は人数に於て多く技巧に於て勝れていたよ。
やがてワルツがかかった。
僕達夫妻は踊った。この僕達のワルツが大変なものなのだ。最も古風で正式で、欧米の杜交界に於てホックストロットが猛威を逞しゅうせずワルツが全盛を極めていた頃に、そのワルツ界の王座を占めていたボストンワルツというやつ、そのボストンワルツへタンゴのステップとマズルカのステップとを出鱈目に加味して作り上げた「国枝式ワルツ」なのだ。これを踊ったのだ。だから断然誰もが是に追従して踊ることは出来なかったのだ。このワルツが終わると、我等の一団二十一人は狂人のように拍手を送った。ところが
翌日の午前に揚子江口へ船が這入った。広大無辺の大河揚子江は僕等の船を呑んでもその両岸を我等に示さなかった。ただ水の色が世にも不気味な壁土色をなしているので
これらの風景は、しかし少くとも僕に執っては、決して珍しい風景でも又初めて見る風景でも無く既に以前に於て幾回となく見た風景だった。即ち、竹内栖鳳、橋本関雪等の日本第一流の画伯の、渡支帰朝土産の絵画に於てさ!
それらの画伯のそれらの絵画が何と僕達が今眼前に見つつあるこれらの風景にそっくりであることか!
友よ、僕は此処でオスカー・ワイルドがその初期に於て主張した「自然は芸術を模倣する」というあの途方も無く阿呆らしい唯美主義論を
が、こんなことは
我等の船の傍を普通の小舟がノタリノタリと通っていたと思ってくれたまえ。そこに一人の客があって、
支那の人間性の一断片がこの時僕の心をチクリと刺したと云っていいねえ。
上海に於ける僕達の宿は西華徳路の万歳館というのだった。所謂日本人町にある日本人ホテルで随分立派な建物でもありサービスもよかった。
此処の番頭さん野村徳太郎氏に案内され私達はその夜ざっと上海の繁華な方面を見た。大馬路、四馬路等を見たのさ。
それらの町々へ行く迄の通を黄浦灘と云うが、その通には随分沢山の日本の会社銀行その他がある。日本郵船、正金銀行、台湾、三菱、朝鮮、三井、住友等々の銀行や、日清、大阪、三菱等の汽船会社があるのさ。
が、こんな堅苦い資本王国の建築物の紹介をしたってつまらないと思うから止めよう。
東洋一の貿易港、世界稀有の魔都「道徳無し」と云われている享楽と罪悪と、政治犯人の絶好の隠れ場所たる上海の夜景! おお友よ! どんなに僕は永年この都会の夜景に面会することに憧憬したことか! そうしてこの日
「昼間の上海の大馬路や四馬路をご覧なさいまし、そりゃア
と野村氏は云った。
それは事実であった。杭州、蘇州、南京等を巡遊して再び上海へ帰り、昼の上海を比較的ゆっくり見物した時、その野村氏の言葉の偽りで無いことを知った。
一つは上海の町の道幅が、人口二百万と称されている大都会としては少し狭いことがそのように人出の猛烈さを誇張的に見せたのかもしれないが。これも昼間見た時の印象だが、何と上海という都会は、旗指物、看板とによって満艦飾されて居ることか!
などと概括的に「上海印象」を書いたところで面白くあるまい。
よろしい、僕が体験した上海での出来事を以下具体的に書くことにしよう。
あ、待ってくれたまえ、その前に女のことを書こう、上海の女のことをね! と、こう云うと君は「素敵だ!」と叫んで眼を据るだろうね。そうとも、男に執って女ほど魅力的なものはないのだからね。そうして旅行記なども、ほんとうのところ、旅行先の女の話ばかりを書いて、その他の建物だの食物だの風景だのというようなものの事は可い加減に端折って書いて了う方が賢明なのさ。
そこで上海の女のことを書こう。
上海の女は
どうしてああも揃いに揃って同型に断髪しているのかと不思議に思って訊いてみたら、男の断髪令(これは相当以前に出た筈だが)その男の断髪令が出た後に女の断髪令が出て、強制的に髪を切らせた結果だそうだ。髪の先が肩に触れることを許さずとか何んとか厳しい命令を下し、幾日迄に断髪せざる時は厳罰に処すとか何んとか云って否応なしに切らせたらしい。芸者などはその断髪へアイロンをかけてモシャモシャに縮らせているが普通の女はそんなことはせず
この断髪だが若い支那婦人などには
上海に婦人秘密倶楽部があると云ったら君はいよいよ眼を据え膝を進ませ「話せ話せ」と迫ることだろうね。
よろしい話そう。
そのレディース・ナイトクラブはブルジョア有閑婦人によって作られているものだそうだ。こういう婦人の唯一の望みとするところはミメヨキ男を享楽することにあるのは常識的に考えられるだろう。
そのレディース・ナイトクラブの貴婦人の希望も其処にあるのだそうだ。
で、彼女等は、これと目差したミメヨキ男の家の扉へ、厠で使用する紙へ、矢に突刺された心臓の絵を描いたものを貼りつけ、幾日幾時に某所へ来たれと記すのだそうだ。ところで
嘘のような話だが、支那の歴史上の英雄女性、則天武后だの呂后だののことを思えば、今日の支那婦人だったら――殊に上海の婦人だったらそれくらいのことはやりかねないと思ったよ。
この話を僕にしてくれたのは支那の青年で李さんという人だったが、その李さんは
一つの階段があると思ってくれたまえ。その階段を昇り切った所に一つの部屋があり、その部屋から十筋ほどの廊下で十方に分かれて通じていると思ってくれたまえ。その廊下の
そうだその
友よ、何と迚も可い話ではないか。
僕はどんなにかそのミメヨキ男の役廻りになり
と、此の辺で話題を変えよう。
さて僕達は野村氏に率いられて第七世路の角にある大世界という所へ這入った。此処は
その代り僕達は此処へ蝟集して来ている娼婦達には感激もし亢奮もし興味も感じ愛らしくも思い、不心得ながら食指を少しばかり動かしてもよいなと考えたことを告白しなければならない。
そこに集っている私娼達が、いずれも揃いも揃ってタオルを持っていることに留意していただこう。そうして彼女達が競争して、金切声を上げて叫んで愛嬌を云ったり呼びかけたりして、そのタオルを通行の僕達に渡そうとしたことに留意していただこう。僕はそれを客を遇する接待のタオルと紳士的に考え(その実は虫のいい利己的考えなのだが)受け取ろうとしたものだ。が、そうは問屋で卸してくれなかったよ。案内役の野村氏があわてて僕に云うではないか「それを取っては
この女達は私娼の中でも下等に属している女で拉的野鶏と称するものらしい。即ち、大馬路の同羽春茶楼だの、四馬路の青蓮閣だのその他、劇場だの遊び場だのへ現われて客を引く手合なのだ。この娼婦達が何んと子供っぽい迄に若く、子供さながらに元気でお
よろしい、愛す可き娼婦、野鶏諸嬢よ、何んとでも僕達極東の漫遊者を悪く云いたまえ、君達としては悪く云う理由は充分あるのだからね。何にしろ、そう迄熱心に君達は君達の可愛らしい肉体をお買いなさいよと推薦をしているのに、僕達が素っ気なく遠慮するのだからね。が、ピヨピヨの野鶏諸嬢よ、実は僕達は――少くも僕は君達の可愛らしい肉体を鑑賞することは大好きなんだが、その可愛らしい肉体の内部に物凄く潜んでいる病毒を頂戴することをこの上も無く怖がっている臆病者なのだよ。だからサヨウナラさ! で、僕は一散に彼女等の包囲を突破して前進して了った。
大世界の建物の頂上に立って上海の夜景全部を見下ろした時の美にして盛んなりし光景を描くには紙数を制限されているこの旅行記には書き切れそうもないから止めよう。
やがて僕等は大世界を立ちいでて南京路の「新々舞踏場」へ案内されて行った。ダンスホールなのだ。ダンサーは全部支那娘だった。
このダンスホールは会員組織の形式を備えていたがフリの客をも吸収して勿論踊らせるのさ。僕達の同行者はそこで又僕をコヅキ廻して、さあ踊れ、踊らないと国辱だぞと威嚇するのだ。踊るよ踊るよと僕は祭壇に供えられた小羊の心――犠牲的悲壮心を
彼女は実によく踊ったよ。
軽くてスマートだった。
最初に踊ったのはトロットで次にタンゴを踊った。
ところがこのタンゴで僕は俄然戦慄させられて了った。
友よ、それに就いて語ろう。
それ前に云って置き度いことは僕はこの「新々舞踏場」の他にもう一軒、日本人が経営していて、日本娘がダンサーをしている「清美」というダンスホールへも行ったが、その結果知ったことは、上海のダンス界は、そのバンドに於ても、そのダンス振に於ても、日本の東京や阪神沿線の夫と比較して進んでもいず劣ってもいず、似たようなものだということだ。但しダンサーそのもの達の性質や言語や動作が、日本内地のダンサーの夫らと比べて、自暴自棄的であり、荒んで居り、人も無げであることは争われなかった。ホールの容積も小さく設備も大して完備してはいず光線の使い方などにも是と云って特長は無かった。但上海には是以外に「ブリュー・バード」などというダンスホールがあり、雄大そのものと噂に高い「カルトン」ダンスホール、等々々、沢山あるので、そういうものを全部見なければ、上海のダンス界を論じることは不可能であるとは云えようがね。……
が、それは夫れとして「新々舞踏場」に於て支那ダンサーとタンゴを踊り戦慄したという事件の記述に入ることにしよう。
タンゴに、パートナーが抱えてロッキングをするフィギュアのあることは先刻御承知だと思う。そのロッキングをした時僕は戦慄して了ったのさ。
何故と云ってその瞬間に彼女――パートナーの上半身が胴から完全に彎曲して了い、後方へグンニャリと垂れ、断髪の彼女の髪の毛がホールの床の上へ着いて了ったからさ。
骨無しだ! 蒟蒻だ!
さよう、骨無しで無ければこんな芸当は出来ない。
勿論ステージ・ダンスなら、こんな滑稽など朝飯前ではあるけれど、少くもダンスホールのソシアル・ダンスに於てこんな飛び離れたフィギュアをするものがあろうか?
そこで僕は戦慄したのさ。
で僕は
友よ、この時は僕たるもの全く参って了ったよ。
上海のダンスホールでは勿論酒を呑ませる。
日本のそれのようにアルコール禁止などという野暮なことはしない。――と云うことを附記して置こう。
さて上海に於けるダンスホールの紹介はこんな程度にとどめて於いて他の方面の紹介に努めたいと思うが、書く可きことが余りに多いので何処から書いて行ってよいか
ざっと書いても是だけのことは紹介しなければならないのだからね。
僕達一行がこの都会へ着く少し前に、この都会の某という富豪がこの都会特産の悪漢団に白昼
そういう物騒な上海の夜の町を縫って各国のスツリート・ガールが客をあさって居り、僕達の一行の若き愛慾の騎士T君などは一夜それらのガールを平げ、翌日僕にニヤニヤ笑い乍ら「昨夜は最初にフランスを、次にロシアを、次に支那を」と話してくれて僕を

上海は物価が非常に安く、わけても煙草が安く、日本で七十五銭するウエストミンスターが上海では十七銭だということや、自動車のことを
が、とうていそんなことを細かく書いてはいられない。
そこで一切をはぶき順序を変え――と云うのは、僕達は上海から杭州、それから南京、それから蘇州と見て廻ったのだから、そういう順序に書かなければならないのだが、そんな順序も顛倒し、その後僕達夫妻だけが一行と別れて大連へ行ったので、その大連に就いての見聞を書くことにしよう。
× × ×
さて此処は大連である。
僕達夫妻はヤマトホテルに陣取っている。昨夜は僕の二十年来の親友であり、目下は満洲日報社主筆である竹内克己氏の私宅で、支那服のよく似合う同氏の奥さん富子夫人や、僕の叔父の今井行平などと共に晩餐をご馳走になった。
「
が、この間も僕は大連に対する観察を怠ろうとはしなかった。僕達の
友よ、大連は殆ど日本の内地と異わりが無い程内地化されていると思ってくれたまえ。
だから此処で異国情調を味わおうと心掛けたら
その代わり此処は上海などと異って生命、財産等に対する危惧不安は絶対にない。
そうして此処では日本人というものが如何にも威張れる! 欧米人に対しても中華民国人に対しても! で、迚も愉快だ。
人間の顔、起居動作、物云い、それらのものが何んとおおまかでおおらかで、悠々としていることか! 東京あたりの人間が、眼をパチクリさせ、足を肩まで刎上げ、セカセカキョロキョロして立ち働いているのと比較して見て、大連の人達は幸福だなあと思ったよ。
建物の構造が、ムダが有り過ぎはしないかと思われる程ノンビリしているのもよい意味の植民地風景だった。満鉄本社のノビノビとした廊下、ノビノビとした事務室。正にあの廊下は廊下であると共に散歩道であり、あの事務室は事務室であると共にスモーキング、ルームだね。勿論よき意味に於てさ。
新築の満洲日報社の編集室などと来た日には、記者の数、従って記者の使う机や椅子の数と比較してあまりに室が広いので、僕はマゴマゴッとしたくらいだった。
と、こんなことばかりを書いていたって面白くあるまい。そこでもっと面白い具体的のことを書くことにする。
この日一日静養出来るものと思っていたらアテが外れて了ったよ。今井叔父がやって来て「さあ史郎出動だ」と号令を下すのだ「一通り大連を見せてやろう」と云うのだ。そこで僕達夫妻はホテルを飛び出し自動車の客になった「大連を俯瞰しよう」というので遊覧道路を

僕は南支を巡遊した時に――そうだ僕はこの大連へ来る前に杭州蘇州、南京を見たのだよ――で、その時、わけても杭州の西湖に於て楊柳の花が、雪か綿か羽毛かの如くに白く飛んで散乱し、行人の衣にかかり、路傍に薄く積もり、菜館、飯店の卓に迄舞いかかる何んとも云われない詩的にして清麗の趣きを見て、涙さしぐむていの愛着と詩情とを得、唐代の諸詩人いやいや支那一切の諸詩人がその詩の中に、
僕達の自動車はやがて遊覧道路の終点に近い箇所まで来た。そこで僕達は自動車をすてて少し歩き大連市を俯瞰した。
翌日昼頃T主筆の訪問を受けた。「旨いグリルを食わせてやろうかな」と云うのだ。そうして僕達夫妻をホテルの地下のグリル・ルームへ引っ張って行って旨いグリルをご馳走してくれた。氏は僕より三歳年下だのに三歳年上のような所があるのだ。その心持に於て、物の見方に於て。そうして僕のマネージャーを以て任じているようなところもあるのだ。で、僕が酒に悪く酔いでもすると、首っ玉をつかまえて、猫の如くに酒席から抛り出すようなこともあるのだ。どういうものか僕はそれだのに、それに易々として順応しなければならないように習慣づけられているのだよ。僕を大連へおびき寄せた張本人も実は氏なのさ。
グリルは旨くグリル・ルームは素晴らしく立派で広く、おおまかに作られていた。
「今夜、社の若い記者をしてお前を面白い所へ案内させよう。……そうして明日また来て旨いグリルを食わせてやろう」こう云ってT氏は帰って行った。
晩餐を終った頃、満日紙の若き記者S氏と、満日紙に小説を連載しているO氏と、満日社の営業部に勤務しているという中華民国青年の張さんという人とが連立って来訪した。そこで僕は一緒に出た。「張さんの知り合いの
どんなに大衆作家としての僕の猟奇的精神がこの言葉を耳にした時フクレ上がったか、友よ、想像してくれたまえ。
僕達の行った阿片窟は奥町(ここは支那町なのだ)の、龕華楼という家で、官許の阿片窟なのだ。即ち、阿片を吸飲しないことには命があぶないという迄になっている中華民国人のために、その阿片常習者のために、日本政府が許可している阿片窟なのだ。但し、日本人は絶対に客にしないということだった。
僕達は門の扉を排して進んだ。と、狭い中庭に出た。その中庭は暗く、暗きが中に、石の階段が夜空に向って斜めに延びていた。
僕達はその石段を少し登った。
と、狭い廊下へ出、その廊下に添って幾個かの部屋があった。
その一つへ這入った時、張青年は僕達をこの家の主人らしい人に紹介した。
その人に案内されて僕達は次の部屋へ這入った。
友よ、その部屋がもう阿片を吸う部屋だったのだよ。
煙! 臭気! 幽暗なる灯火!
友よ、僕が空想を働かせて
友よ、で僕は自分の空想力に対してこの時感謝し、自分の空想力を信ずることが出来たよ。
煙! 臭気! 幽暗なる灯火!
これが先ず僕の感覚をそそったものだ。
そうしてこれらのものに包まれて其処に存在していたのは、前面に穢れた白布のカーテンを下げた小さな幾個かの部屋だったのだ。部屋は二列に相対して並んでいた。
その部屋の内部の構造は?
床から数尺高く造られてある寝台、その寝台には二枚のこれも穢れた毛布が敷いてあることに留意しなければならない。二人ずつ相対して阿片を吸飲するように出来ている証拠だ。中央に、一寸ほど低く窪んでいる長方形の箇所があり、そこには赤い布片などが敷いてあり、その上に陶器の長方形の盆が置いてあり、その上に、金属製の煙灯と、一回分の阿片液を入れた棗形の小壺が置いてあり、二本の煙斗(即ち阿片の
これだけなのだ。
十数個の部屋はその夜殆ど満員だった。若い男あり、中年の女あり、老人あり、娘あり、いずれもが二人ずつ相対して、毛布の上に寝そべって、煙斗をひっ抱えて阿片を喫しているではないか。
此処へ来る者は、多くは中流か中流以下の者達であると説明されていたが、僕の眼から見れば労働者に過ぎなかった。
眠っているもの、眠ろうとしかけているもの、眠りから今眼覚めつつあるもの、等々々によって各部屋は充たされていたよ。
何処からともなく胡弓の音が聞えて来たりしていた。
他の部屋に倶楽部があって、そこで引いている胡弓なのだそうだ。
友よ、阿片の喫し方を教えようか? 大変技巧的なのだ。先ず針のようなもので――と云うよりも、原稿などをとじる時に使用する千枚とじと称するものがあるが、あれに似たようなもの(煙千子と称するものだそうだが)その先へ小壺に這入っている阿片をつけて煙灯の火であぶり、又、小壺の中の阿片をつけて煙灯の火であぶる。こういうことを十数回やる中に、小壺の中の液体の阿片が煙千子の先で飴のように固まって了うのだ。併し、これには技巧を要するので僕も、この次に行った娼家で、阿片を喫しようと思って、そういうことをやって見たが見事に失敗し阿片液は飴のように固まらずにパサパサの苔のようなものとなって了った。
さて、飴のように固まった阿片を今度は煙斗(
阿片窟を退散した僕達は小崗子へ行き、夜の露天市場(泥棒市場と云った方が通りがよいそうだ)を見た。純然たる支那市場であって、昼は大道芸人などが出ていろいろの芸当をやり、むせ返る程に人出がし、雑沓するということであったが、夜の此処は、恰度東京に於ける玉ノ井のような最下等の支那娼婦の張店街を現出していた。
軒を連らねて並んでいる
此処にいる娼婦のことを人々は賤称して
この一画は右折し左折し、細い露路が幾筋かに織られていて、迂闊に一人で入り込んだら迷児になりそうだった。そういう露路に添ってそういう娼家が並んで居るのであり、そういう娼家の娼婦をひやかし乍ら、
それだのに
僕達はやがてその一画を出て、大連第一の花柳界の、その第一の娼家と云われる「第一号」と称する妓楼へ乗りつけた。
そうしてその家の美形蘭亭という遊女の部屋へ通った。
「この蘭亭さん、日本語が出来ますので、この人にすることにしました」
と中華民国青年、僕達の案内役の張さんが説明してくれた。
その張さんはこういう方面の通人らしく、美貌の青年であった。
部屋の広さは十畳敷くらいでもあったろうか、一所に寝台があった。それはホテルなどで見る寝台と大差無かったが、その寝台が即阿片喫煙台となっているのが珍しかった。即ち、龕華楼で見たあの阿片吸飲の設備がそこにそっくり出来ているのさ。その他の部屋の装飾といえば、数個の卓、それに準じた椅子、等々があり、壁や柱に、名文句を書いた長方形の色紙が貼附してあり、額に入れられた美人画や風景画が掛けてある。――と云うくらいのものだった。
慣例によってカボチャの実や、ハスの実を出され、習慣通り僕達がそいつを不器用に、その癖通人めかしく、前歯でパチンパチンと外皮を破って食べたことは云う迄もない。
蘭亭さんは皮肉なオイランさんであったよ。
彼女が日本語が解るというので僕が極めて簡単の日本語で、
「ランテイさん、アナタワ、ベッピンサンデスネ、ボクヲ、アイシテクレマスカ」
と話しかけると、彼女は日本語で返事をせずに、中華民国語で返事をするのさ。
「張さん、何て云ったんです?」
と、案内役の――だから通弁でもある張青年に質問すると、張青年は、中華民国流不得要領の笑い方をしながら
「コノ、ニッポンコクノ紳士ハ、アタクシ、アマリ好キデワアリマセン、ナゼトイウニ、眼ガスルドスギマスカラ――と、このように蘭亭さん申して居ります。……
という通訳なのさ。
僕たるもの、ダーとならざるを得ないね。
そこで僕はヤケになって、まるで電報用箋に書く文句のような、解りよい日本語で、
「ボクノ眼ノスルドイノハ、ボクノ責任デハナク、ボクヲ産ンダ、両親ノセキニンデスカラ、ボクヲ咎メナイデクダサイ、ボク、眼ハ鋭イケド、ココロハ、スルドクナク、沢山ノ女達ガ、コレマデ、ズイブン、ボクヲ愛シテクレマシタヨ」
と話しかけると蘭亭さんは、又中華民国語でそれに答えるのさ。
「張さん、何て云ったんだね?」
「はい」と張さんは困ったような顔をしながら「大変お気の毒ですけれど、蘭亭さんはこのように申して居ります。『コノ、ニッポンノ紳士ハ、スコシ、アタマガ変デワナイノデショウカ、変ナコトバカリ云イマス』と。このように申して居ります」
とこう云うのだ。
僕はたちどころに腐って了ったね。
もう帰ろうかと思ったくらいさ。
と、蘭亭さんが張さんに何か云うのだ。
それを張さんが僕に伝えてくれた。
「蘭亭さんが、ニッポンの紳士に阿片を喫わせてやりたいと申して居ります。」と
そこで僕は一も二も無く応じたものだ。
「喫みましょう」と。
蘭亭さんは夫から寝台へ寝て、僕をも寝台へ寝かせて、外見には羨ましいであろう程仲宜さそうに向い合い、さて、蘭亭さんは、大変技巧的に、上手に、阿片を調じて僕へ進め、はじめて日本語で、流暢に、
「お飲みなさいまし」と云った。
「ありがとうござんす」
と僕は云って煙斗を取ろうとした。
が、どうしたものか蘭亭さんは不意に、煙斗をカラリと盆の上へ置き、
「お止しなさい」と云った。
どうにも僕には彼女の心理が解らなかった。
でもそんなことをして二時間ほどこの部屋にいた。
その間に、男衆のような、若い男が幾度か
帰る時蘭亭さんは門口まで送ってくれ、僕の手を握り、
「またいらっしゃい、明日の晩いらっしゃい」と云った。
僕達は自動車でそれから山県通のボンベイ・ダンスホールへ進撃した。
ボンベイダンスホールで僕を喜ばせたのは一切の経営が白系ロシヤ人によって行われていることさ。バンドもダンサーも、マネージャーも、帽子やステッキを預ってくれる者もみんなロシヤ人なのだ。そのダンサー達だが比較的美しくて? 上品だった。バンドに近い椅子にいつも腰かけていたとても身長の高い
いやそのダンサーばかりで無くそこにいる程のすべてのダンサーが、各自傲語しているそうだ「
宛にはならないがね。
バンドの中にも品のいい男がいた。ピアノを奏していた男は、オスカーワイルドに似ているし、ドラムをひっぱたいていた男は中年のハープトマンに似ていた。
此処では余興としてステージ・ダンスのようなものをやるのだよ。
ステージが作ってあるのでは無い。
グロテスクな扮装とお化粧をした男や女が、ホールの真ん中でステージ・ダンスめいたものをやって見せるのだ。
お客はそういうものを見たり、ダンサー相手に踊ったり、連れて来たパートナーと踊ったりしながら、ホールの左右に並べてある卓でビールを飲んだりウイスキーを飲んだりすることが出来るのだ。
で、酔っ払って踊ることが出来るのさ。
日本のホールでは場内で酒を飲むことが出来ず、外で飲んで、酔って来て踊っても不可ないというほど厳重さで野暮なのだが、此処ではそんなことはないのだ。
これが僕には嬉しかったよ。
僕はメチャメチャに踊った。
だが彼女等のダンスは上手とは云えなかった。
重くて、不器用で、単調なのだ。
ソシアル・ダンスの天才は日本人だよ。
一人面白いダンサーがいた。
売れざるダンサーなのだ。
よく肥えた、ノッソリとした、大して美しくなく、
これが少しも売れないのだ。いや、殆ど絶対に売れないのだ。ところが、一向困ったような様子もせず、ノンビリと両腕を卓の上へ這わせて、場内を睥睨するのだ。その様子が迚も僕には面白かったのでその女と踊ることとし、踊った。
ところが売れない筈なのだ。まるで錨なのだ。千貫目もありそうな錨なのだ。重いったらない。重いばかりなら可いが沈むんだ。僕に食い付いて、縋って下へ沈むんだ。踊れたものじゃアなかった。
あやうく僕は引っ張り込まれて海の中へ、ナーニ、ホールの床下へ沈没しそうになったものさ。
ホールが閉じられる迄踊って僕達は引きあげた。
そうして大連名物の馬車に乗って帰路に就いたが、この馬車が面白かった。と云うよりもその馬車の馭者が面白かったのだ。
僕達を誘惑しようとしたんだからね。
友よ、馬車のことが出たから馬車に就いてちょっと書こう。
真っ先に云い度いことは、大連へ来たら自動車よりも馬車に乗りたまえということだ。
その馬車は、この大連をロシアが占領していた頃の名残では無いかと思われるような、あの古風な四人乗り一頭立ち――時々、二頭の馬に
カパ、カパ、カパ! 蹄の音だ!
ヒューッ、ヒューッ!
馭者の揮う鞭の音を!
実に威勢がいいのだ。
この馬車に乗っていると、何んだか自分が大公殿下にでもなったような気がするよ。
さて、その馬車にボンベイの帰りに乗ったと思いたまえ。
僕達をこの馬車へ乗せる可く、馭者は最初、
「自動車より速く駛って行く馬車! お乗りなさい」と宣言したものだ。
そこで僕達は乗ったんだが、乗って見ると
と、その馭者の云うことがいい。「まあさ日本のお若い紳士、そうガミガミ云うものではない。それよりホテルへ帰ったら、着物を着換え私と一緒に行こうではないか。別嬪がいて、夜っぴて踊れる好い処へ案内するから」と云うのだ。そうして鞭ばかりを頭上で勇ましく揮って馬をひっ叩いて吼えるのだ「自動車より速い! 自動車より速い!」と。
翌日は僕の中学時代の旧友で、同級生だった、そうして今は満鉄の嘱託をしている東京美術学校出身の日本画画家I氏の案内で僕達夫妻は旅順へ行き、東鶏冠山その他の日露戦争の戦跡を巡覧したり、満日旅順支社長の海旋風氏は探偵小説家として曾て有名な人であり将来一層有名になる人なのであるが――この人と会談したりした。東鶏冠山の永久砲塁、完備した設備を見た時、いかに日露戦争の際、我軍が苦戦したか想像することが出来たよ。まるで地下に堅牢無比のビルディングが出来ているようなものなのだ。そうして砲塁の中へ敵が這入ると、自分達は姿を隠したままで、機関銃で、三方から射つことが出来るようになっているのだ。
そんなこととは最初には知らなかった我忠勇なる将士が如何に沢山ここで戦死したか。
「万歳!」と叫んで突貫して来ては、我忠勇なる将士がこの砲塁の中へ飛び込む。すると三方からバラバラと機関銃の弾が注いで来てその将士達を一人残らずほんの一瞬間に殺して了ったんだねえ。そんなこととは知らない他の一組が、また「万歳」と叫んで砲塁へ飛び込む。バラバラと三方から機関銃の弾が注いで来てみんなを殺して了う。また一組が「万歳!」するとバラバラ! また一組が「万歳!」するとバラバラ!
バンザーイ! とバラバラとでどれほど沢山の人間が此処で命を失ったことか。
感慨に耽らざるを得なかったよ。
旅順では戦利品記念館をも見た。籠城していた露国の将卒が恐怖や不安の為めに発狂し、その狂人に着せたという狂病衣を見た時にはゾッとしたよ。彼等も
関東庁博物館をも見た。
日本内地の博物館ではとうてい見られないような珍奇貴重のいろいろのものを見たよ。
帰路、大連までドライブし、満洲の赤い土――赤い丘や耕地や平原や山に、夕陽が射して、日露戦争当時よく歌われた「赤い夕陽に照らされて」の趣きをつぶさに知ることが出来た。
友よ、大連へ帰って来た僕達夫妻は、それから更に詳細に大連市のさまざまの物を見たが、そんなことを一々通信したところで君は面白く思ってくれないだろうと思うから止める。
それにこの旅行記も少し長く書き過ぎた感があるからね。
ただ、星ヶ浦の絶景を見た時、とうてい鎌倉や逗子など及ぶものではないとつくづくその景の大きさと複雑さと設備のよさに感嘆し、又、
大連の電気遊園という美しい遊園地の
例の「第一号」楼で逢った蘭亭さんも来ていたよ。
胡弓を弾く男が、一向感興が無さそうに、ウソウソと外見をしながら高調子に胡弓を弾くと、美妓達が一人一人その前へ行って突立ち、これは迚も熱心に、力一杯、
その後僕達は奉天へも行った。湯崗子温泉で一泊もした。
満鉄本社の試写室で、満鉄写真班が撮影したという蒙古